8歳。聖女になる。
邸に戻ると、疲れていた私は自室のソファでウトウトとしていた。
マーシャの「行儀が悪いですよ」と叱責する声を遠くで聞きながら、私は眠りに落ちた。
「今年は飢饉で麦も稲もいつもの半分以下しか取れなかった。稗だってあとわずか。」
「領主様に年貢を納めたら、私たちの食べる分はありませんね…」
「うちだけじゃない、どこの家も生きるのがやっとの生活だ…ヤッサン所は10歳になる息子を領主様の所に下人として出すと言っていた。」
「うちの子供たちはまだ、3歳と5歳だものね…下人としては無理かね…」
「このままじゃ、俺たちの命の方が先に朽ちちまう。5歳のアヤは多少仕事が出来る、3歳のノリを生まれて来なかったことにしようと思う。」
「あんた!ノリはまだ言葉を覚えたばかりだよ?」
「だからだよ。言葉が喋れない、動物のようなもんだと考えよう。俺だってやりたくないが、このままじゃ死んじまう。」
薄暗い、隙間風というには大きすぎる穴が沢山空いた掘っ立て小屋と言えるここが我が家。
藁を敷き詰めた床で、汗と埃まみれの身体を横たえて、私は3歳の弟が泣き出さないように寝かしつけていた。
とっとも、かっかも…そんな話を子供が寝ている近くでするなんて。
確かに、この家は日に日に食べ物もなくなっているし、今日も私が口にしたのは森に生えていたキノコ一個だ。
畑仕事や家事を手伝う私用に用意された小さな食事は、まだ幼い弟に食べさせた。
だって、お腹がすくとこの子大声で泣くんだもん。
すっと、とっとが怒って暴れ出す。
八つ当たりだ。
みんな腹減ってイライラしてんだ。
私だって、折角かっかが嫁入りの時に着てきた小袖を受け渡してもらったっていうのに、胸も尻もガリガリで紐で縛ってもぶかぶかだ。
私か弟が死ぬのか。
最近見ない近所の子供らの顔を思い出す。
きっと彼らも、もうこの世にはいないのだろう。
天の神さんの意地悪で農作物が出来ねえっていうのに、領主は一向に年貢を減らそうとはしない。
最近ふらっとやってきた武士殿の方が、よっぽど私らに優しくしてくれた。
怒鳴ったり殴ったりしない大人を、初めて見たんだ。
このまま生きていても、きっと私も弟も死ぬ。
腹減って死ぬのと、首を撥ねられて死ぬのとでは、どっちがいいだろうか。
「ねーね」
胸元で寝言を呟く弟を見る。
まだこの子は自分の言葉を話せていない。
せめて、言いたいことを言わせてあげるくらいは、許されないのだろうか。
動物じゃなくて、人間に生まれたんだって。
そのくらいの優しさは、甘いのだろうか。
もしかしたら、次の年は豊穣になるかもしれない。
もう少しだけ、この子を生かしてやりたい。
私はそっと寝床から抜け出すと、寝息を立てる弟が少しでも温かいように、私の着ていた着物を掛けてやる。
寒い。
ぶるっと震える身体をこすりながら、深刻な顔をしている両親に声を掛けた。
「私が口減らしになる。」
「…様!」
「お嬢様!」
「おーじょーおーさーまー!!!!」
突然の大音量に驚き飛び起きる。
目の前でマーシャがほっとしたように、でも心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「マーシャ?」
「もう!だから、こんな所で寝ないでくださいって言ったじゃないですか?」
マーシャの手が布巾でゴシゴシと私の目元を拭った。
私は泣いていたのか…。
「こんな所で寝るから、怖い夢でも見たんでしょう?」
溜息交じりのマーシャの言葉に頷く。
「そうかも…しれないわね。」
思い出さないようにしていた私の記憶だった。
始まりの記憶。
私の魂は生まれて、5年で父親の手によって消された。
私が死ぬことを名乗り出た時、父親はほっとした表情を見せた。
父親の安堵は、無理やり殺すわけじゃないという、自分への申し開きが出来たことだろう。
母親は少しだけ笑った。
母親にとって、弟は可愛い存在だったから。
言葉を理解し話せる私は、口ごたえもするし、反発もしたから。
すぐサボろうとする癖のあった母親には邪魔だったのだと思う。
あの二人に愛されていたという記憶はない。
気付けば「なんで女なんだ」「女なんだから少しは役に立て」など子供には無茶な言葉を、毎日浴びせられていた。
分かっている。
愛したくても、余裕がなかったんだってことくらい。
それでも、私は弟を精一杯可愛がった自負はある。
だから後悔はしていない。
願わくば、あの後、弟はちゃんと大人になって、自分の手で幸せを手に入れてくれたと思いたい。
色々学んだ今なら分る。
領主が奨める二毛作のほかに、稗の側辺りに芋でも作っていたら…
みんな死なずに済んだはずだ。
あの時代に芋があったのかは、もう分からないのだけれど。
「お嬢様、ハーブティーです。」
「ありがとう。」
香りの良いハーブティーが身体の中から温めるのを感じつつ、マーシャに一つ尋ねた。
「マーシャは兄妹が可愛い?」
私の突然の質問に、目を丸くしたマーシャは、少し考えて、大きく頷いた。
「可愛いです。悪戯とかするから、ちょっとムカつくこともあるんですけど…最近は、私の帰りを待っていてくれているのが、可愛いんです。」
その光景が目に浮かぶようで、私は少し笑った。
「マーシャも、マーシャの兄妹たちも…元気に幸せにいられたら、私も嬉しいわ。」
「なんですか?突然!私はお嬢様が側にいてくれて、いつも楽しくて幸せですよ!」
「ふふ。マーシャ…それじゃあ、主従が逆になってるわ。」
「あ!」
私もマーシャがいつも側にいてくれて、嬉しい。
ハーブティーのお陰で身体がポカポカしてきた頃、自室の扉をノックする音がした。
夕食にはまだ早い時間だ。
マーシャが扉を開けると、父親の執事が息を切らして私を呼んだ。
「お嬢様、至急、領主執務室へお越しください。神殿からの早馬が来ました。」
「文で伝えるとは言っていたけれど、まさか今日中だったとはね。」
私は神殿からのという時点で、今日の祈りの儀式の結果だろうと検討をつけると、執事に「すぐ行く」と伝えた。
執務室には父親の他に、母親と執事とメイド長リーンがいた。
私とマーシャは少し気後れしそうな雰囲気が漂う空間に、気合いで乗り込むことにした。
「アテーナ。結果が来た。魔力量は、上級貴族の中では多い方だった。」
両親が座るソファの前の席に着席した私に、父親が口を開く。
魔力量から伝えたことで、種類の方に何かトラブルがあったのかと察する。
「そうですか。頑張ってきて結果が出せたなら本望です。…で、お父様?」
私が先を促すように言うと、父親はテーブルに広げた手紙をこちらに向けて差し出してきた。
『祈りの儀にて判定された色は、赤・黄・青・緑・白・紫・黒』
まさかの全種類コンプリート!!
これ、なにか賞品とか貰えるパターン?
ちょっとだけ期待を胸に先を読み進める。
『アテーナイエー・クランべナーを聖女と認め、月に2度、神殿での公務を行うことを、ここに記す。』
賞品はまさかのお仕事だった?
「お父様…私、聖女なんですか?」
「全種類の魔法を持つ者を、この国では聖女と呼ぶからな。」
「なんてこった…」
「本当だよ。神殿の仕事より私の仕事を手伝って欲しいっていうのに。」
父親から漏れた本音を母親が咳払いで諫めた。
「いや、仕事って言っても難しいことはさせないよ?」
「難しいことどころか、ただ側で笑ってろって言うんでしょう?もう、ゼイウス様がアテーナに甘いのは国民の常識です。」
母親が呆れたように発した言葉に私が驚く。
「常識なの?!」
あ、やばい。
思わず令嬢らしさを失ったわ。
姿勢を正して一つ咳ばらいをすると、私は気を取り直して一つ提案をする。
「神殿業務が月に2度とはいえ増えますと、私の時間が削られてしまいますね。お父様、お母様。これは私の小さなお願いではあるのですが…マナーの家庭教師を週3日から週2日に減らしては頂けないでしょうか?」
父親がとっさに「良いんじゃないか?」と答えようとするのを、母親が肘で父親の脇腹を殴り、差し止める。
「うっっ・・・」
「アテーナ。マナーは大事ですよ。貴方はとても活気のある子供ですから、ちょっとした油断で先ほどのような失言をし兼ねない危うさがあります。」
小さく呻く父親を無視し、母親が笑顔で言う。
その目は笑っていない。
それが、怖い。
「…はい。確かに、私はまだまだ未熟です。しかし、週2日に減ったからって気持ちを入れないわけではありません。減った分しっかり集中することで、補えるのではないかと思うのですが。」
「…」
母親が考え込むのが分った。
何も家庭教師をやめようってわけではなく、週1日だけ減らそうという提案なのだから、そう悪い話でもないと思う。週数時間減るだけなのだから。
「でもねえ。アテーナは時間が出来るとすぐにどこかへ飛んで行ってしまうでしょう?ただ、気晴らしに出かけて帰ってくるだけなら良いのです。貴方の場合は何かしらやらかして帰ってくることが、心配なのです。」
「メーティス、違うぞ。アテーナは『やらかしている』のではない。『やってくれている』だぞ。」
父親の指摘を「どちらも同じでしょう?」と溜息をついて呟く母親に、私は疑問を持った。
「私が色々と動くと良くないのでしょうか?」
その言葉に、母親は黙り込む。
代わりに父親が説明をしてくれた。
「メーティスが言っているのは、お前の身の安全を案じてのことなんだよ。」
「身の安全ですか?」
どうやら、私が今までやらかしてきた実績(功績)は、今や王国中に知れ渡っているという。
そんな中、私に良い感情を抱かない者も現れているというのだ。
「どうせ父親の功績を娘にやったのだろう」とか「母親がどこかからお金を払って買ってきた功績だろう」とか、心無い言葉もあるのだと。
また、王子たちの立ち位置も危うくなってしまっていて、王族の子供より領主の子供の方が優秀だと言う人たちもいるので、城の一部の貴族たちからは風当りが強いのだとか。
言われてみれば、そういうこともあるよね。
私は「なるほど」と答え、少し考えを巡らせることにする。
第二王子のトマトの品種改良の件も、それが原因だったのかもしれない。
普通は、王子自ら指揮を取るなんてあり得ない話なのだ。『品種改良の研究』とはいえ『農業』だ。
彼自身楽しみにしているようなので、それは気にしなくて良いだろうけれど。
じゃあ、第一王子はどうだろうか。
彼は活発で負けず嫌いな性格だと聞いている。
多分、武力は私には及びもしない実力があると思われるのだが、知識の分野において年下の私なんかに負けていると言われるのは、面白くないに違いない。
父親の功績を譲ったとか、母親が買ってきたとかの意見をまるっと貰い信じようにも、領民たちが私の仕出かした瞬間を目の当たりにしている以上、騙し続けることは困難だ。
なら、どうする?
「邸から出ないなら、良いですか?」
「え?」
その場にいた全員の視線が私に向いた。
「外に出てしまえば、私は無意識に色々考えてしまいます。ですから、邸にいれば良いのではないでしょうか?そうすれば、私がやらかしてしまった所で、邸内の出来事として口止めもできますでしょう?」
「アテーナ。お前はそれで良いのか?」
父親が悔しそうに尋ねる。
「ええ、私はまだまだ読みたい本もありますし。邸の中にいても、やりたいことは山ほどあります。それに、邸の中にいても、お父様のお仕事のお手伝いはできるでしょう?」
「確かに、そうだが…」
父親が、母親の様子を伺うように視線を移す。
母親は何かを考えて、一つ息を吐くと
「分かりました。邸から出ないということでしたら、許可しましょう。」
母親の言葉で私だけではなく、その場にいた全員が安堵の息を吐いたのが分って驚いた。
「実は、お嬢様の命を狙うという趣旨の噂話もあったのです。奥様はそれを心配なさって…」
「リーン、それは良いから。」
「良くはないだろう?!誰だ?私のアテーナを狙う不届者は?」
父親が一人興奮し始めたのを見て、母親が溜息を吐く後ろで、リーンが小さく謝っていた。
ま、これで私の自由時間を確保できたことは上出来である。
正直、どうしてこんなに勉強漬けにされているのか不思議だったのだが、理解すれば納得もできた。
「お父様、お母様。私を守ってくださって、ありがとうございます。これからも、よろしくお願いしますね。」
そう伝えると、「当たり前だろう」と父親が照れ臭そうに笑ってくれたのだった。