039 最低最悪の可能性
ルーシーは特に邪魔することもなく、勇者バーバルがダークエルフの双子ことドゥの後を追いかけるようにして走っていったのを見届けた。
聖女クリーンもその後姿にちらりと視線をやってから声を張り上げた。
「魔王ルーシーよ! 貴女にはしばらくここでじっとしていてもらいます」
「ふむ。理解出来ん。なぜ妾をじっとさせたいのだ?」
「もちろん、バーバル様がセロ様と会うのを邪魔させない為です」
「そうか。ならば、これはいらないな」
ルーシーはそれだけ告げて、《聖防御陣》にそっと触れた。
次の瞬間、パリン、と――薄い氷でも割るかのようにして、《聖防御陣》は指先一つだけであっけなく砕かれてしまった。
「そんな馬鹿な!」
聖女クリーンは愕然とした……
この《聖防御陣》は本来、モンスターを押し返すだけでなく、魔王を押しとどめる為に歴代の聖女が長い年月をかけて改良してきたものだ。それがこんなにも簡単に破られるとは……
「そもそも妾は二人の邪魔をするつもりなど全くないぞ」
ルーシーはそう言って、聖女クリーンにゆっくりと近づいた。
「邪魔をしないとは……いったい、どういうことですか?」
「勇者バーバルは同郷で幼馴染だったとセロから聞いている。二人にしか分からない話も沢山あるだろう。好きに語り合えばいいのだ」
「何を悠長なことを言っているのです! 先ほど、バーバル様はセロ様を討つとまで言ったのですよ!」
聖女クリーンはほとばしるように叫んだ。
何度も念を押したからセロを殺すことはないと信じたいが、少なくとも無力化する為に多少の危害は加えるはずだ。そのことをルーシーは本当に理解しているのだろうか?
クリーンはそこで頭を横に振った。いや、所詮は魔族か。仲間意識など欠片もないに違いない。
だが、ルーシーは「ふん」と鼻で笑ってみせた。
「あの程度の小物では、セロに傷一つも付けられるわけなかろう」
聖女クリーンは耳を疑った。何かの戯言かと思いたかった。
たしかに魔王ルーシーから見れば今の勇者バーバルはいかにも小物に見えただろう。
だが、勇者パーティー時代のバーバルとセロとの力量差はほとんどなかったはずだ。よしんば魔族に転じて暗黒司祭になっていたとしても、人族の至宝である聖剣で傷が付かないなどとは到底考えられない……
「…………」
聖女クリーンはしばらく無言になった。
どこか嫌な予感がしたのだ。ルーシーはいかにも余裕綽々だ。
ということは、セロは実際に強くなったと考えるべきだろう。暗黒司祭からさらに進化して、もし《愚者》の称号を得てしまったのだとしたなら、たしかにバーバルでは手に負えないかもしれない……
ただ、それはいかにもおかしい。セロが《愚者》になったなら、それは古の魔王の力を継いだことになる。そんな実力者を魔王ルーシーが見逃すはずがない。魔族は戦いに明け暮れる種族だ。両雄が並び立つことは決してない。
あるいは逆に考えると、セロが魔王ルーシーに屈している可能性もあるわけか……
何にしても、クリーンが幾ら考えを巡らせても答えは全く出てこなかった。しかも、そんなふうに考え詰めていたせいか――
クリーンの眼前にはデコピンがあった。
「え?」
それが放たれると、聖女クリーンは「ギャアアア!」と百メートルほど吹っ飛ばされていた。
数瞬ほど意識を失いかけたが、何とか自身に法術で《完全回復》を掛けて、またもや聖杖で体を支えるようにしてよろよろと立ち上がる。
すると、ルーシーが悠然と近づいて来た。
「忘れていたのか? 今は戯れの最中だぞ」
冗談じゃないと、聖女クリーンは怯んだ。
足止め程度ならまだしも、こんな化け物相手にたった一人で戦えるはずがない。
「お待ちください! 魔王ルーシー様!」
聖女クリーンはそう声を張り上げて、どうやって時間を稼ごうかと考え始めた。
ただ、先ほどのデコピンで脳震盪でも起こしたのか、意識がしだいに朦朧としてきた。法術による完全回復とはいっても、体内に蓄積されたダメージはどうしても残ってしまう。
一方で、ルーシーは何だか釈然としない顔つきをしていた。
「ところで、先ほどから貴方たちはどうにも勘違いしているようだから一応言っておくが、妾は魔王ではないぞ」
それを聞いて、聖女クリーンは引きつった笑みを浮かべた。
意識がぼんやりとし過ぎて、どうやら可笑しな言葉が耳に届いてしまったようだ。そもそも、これほどの力を持ったルーシーが魔王でなくて、いったい誰が王を名乗るというのか……
「この北の大地を治める魔王はセロだ。先日、新しい第六魔王として立った。哀しいかな、妾の実力など、その足もとにも及ばない。まあ、同伴者として認めてもらってはいるがな」
聖女クリーンは額に片手を当てた。
ズキズキと頭痛までしてくる。本当に戯れが過ぎる。戯言にしても、もう少しマシな嘘をついて欲しいものだ……
が。
そのとき、宙から妙な者が下りてきた。
背中に鉄製のリュックを背負って、そこから火が噴出している。
その瞬間、クリーンは体から魂が抜けていくように感じた。この者もまたとんでもない化け物だったせいだ。ルーシーと比肩出来る存在と言っていい。
「おや? いったい何をしにやって来たのだ、エメスよ」
そんなルーシーの問いかけを聞いて、聖女クリーンはギョっとした。
大神殿で埃を被っていた古文書で見掛けたことがあったからだ――かつて人族の領土のほとんどを滅ぼした古の魔王こそ、人造人間のエメスだった、と。
そのエメスはというと、クリーンには目もくれずにルーシーに答えた。
「二つあります」
「ほう?」
「一つはこのロケットの実験です」
「ふむ。何やら面白そうだな。後で妾も使いたいぞ」
「構いません。それともう一つは、先ほどイモリたちから苦情を受けました」
「苦情? いったい何を仕出かしたのだ?」
「自動撃退装置の威力が強すぎて、畑に被害が出る可能性があるそうです。セロ様にこってりと怒られたので、早速その調整に来ました。終了」
聖女クリーンはそろそろ考えることを止めた。
もしかしたら、質の悪い夢でも見ているのかもしれない……
というか、人族大虐殺を果たした古の魔王と同じ名前の者が今たしかにセロのことを様付けした。そういえば、ルーシーだってセロの方が強いと言っていた。ここにきてやっと、頭のとても固いクリーンにも、最低最悪の可能性が見えてきた――
もしかしたら、セロはこの地でとっくに魔王になっていて、さらに魔王級のルーシーとエメスを従えているのかもしれない。もっと言うならば、ダークエルフも? そして人狼も? 何より、この畑にいる凶悪な魔物たちまでも?
クリーンはひどい頭痛で目が回ってきた。
とんでもない化け物の国家が、いつの間にか、王国の北に生まれつつあった。
結局のところ、クリーンは初めから選択を誤っていたわけだ。現時点ではセロを討つことは不可能だ。もちろん、連れて帰るなど論外だ。本来は毛布にでもくるまって、がくがくと震えながら、魔王の気紛れという名の災厄が過ぎていくのを待つしかなかったのだ……
「セロ様とバーバル様を会わせてはいけない」
直後、聖女クリーンはそう呟いて一目散に駆け出した。
逃げたわけではない。勇者バーバルを止めなくてはいけないと思った。というか、セロに少しでも無礼を働いたら、それこそ人族が全滅する。
「お願いだから、余計なことだけはしないで……」
こうしてルーシーとエメスが他愛のない会話をしている最中に、聖女クリーンはひどい頭痛と、急にちりちりと痛みだした胃も押さえながら、セロとバーバルのもとに一目散に走っていったのだった。