037 暗殺者の影
エルフの狙撃手トゥレスは《迷いの森》に逃げ込んだ。
普通ならドルイドによって掛けられた封印の力ですぐに迷わされるところだが、一切の惑いもなく進んでいく。まるで何度も来たことがあるかのようだ。
そんなトゥレスが木々の枝上を伝って跳んでいると、風を切る音がして、足もとの枝に矢が刺さった。同時に、トゥレスが上体を反らすと木の幹にも数本当たった。トゥレスはいったんそこで足を止めて渋々と地に下りた。
「良い腕だな」
「魔王城から離れすぎだ。いい加減、もうここらへんでいいだろう?」
ダークエルフのリーダーことエークが木陰から姿を現した。
「トゥレスよ。貴様に一つ聞きたい」
「何だ?」
「トゥレスとは、エルフ、ダークエルフの世界では犯罪者の名前だと認識されている。遥か昔にエルフの王族を闇討ちし、さらに私たちダークエルフの秘宝も奪った。そんな大悪党の名前がトゥレスだ。相違ないか?」
エークが真剣な表情でそう問うと、トゥレスは小さく笑った。
「相違ない」
単に名前が一緒というわけではない。
まさに大悪党本人だといったふうにトゥレスは余裕を見せつけた。
「ならば、なぜ人族、それも勇者パーティーなどに与している?」
「理由は単純だ。古の盟約のせいだよ」
「詳しく説明しろ。そうすれば、捕縛の上で独房に入れて、命だけは助けてやる」
それだけ言って、エークは右手を弓の弦にかけた。
一方で、トゥレスはいまだ余裕綽々といったふうで、やれやれと肩をすくめてみせる。
「ふふ。エークよ。まるですでに勝ったみたいな言い方だな?」
「当然だ。貴様も馬鹿ではあるまい」
たしかにエークの言う通りだった。
エークはダークエルフのリーダーになるほどの実力者だ。トゥレスが幾ら大悪党と言われるほどの猛者だとしても、二人の実力はせいぜい伯仲――だとしたら、セロの自動スキルの効果によってエークの方が上回る。勇者パーティーにいたトゥレスならば嫌でも気づくことだ。
「何にしても、トゥレスよ。エルフが許可もなくダークエルフの森に侵入したのだ。その罪は贖ってもらうぞ」
エークは弓を引く為の動作に入ろうとした。
直後だ。エークに向けて投刃があった。しかも、トゥレスではない。別の場所からだ。
仲間がいたのかと、エークは一瞬だけ戸惑ったが、この迷いの森で連携など不可能なはずだと考え直して、むしろ別の可能性を検討した。
だが、トゥレスの動きは想像以上に素早かった。
エークが幾つか投刃をかわした隙をついて、トゥレスはすぐそばまでやって来ていたのだ。
エークはトゥレスの手にしていたナイフをギリギリで避けた。それから弓と矢を左手で持って、射手が接敵されたときに緊急回避する為の砂を右手で撒いた――目潰しだ。
もっとも、トゥレスもさすがにそれはよく分かっていたようで、わずかに距離を取ったエークの背後にすぐ回って、その首を掻き切ろうとした。それに対して、エークは左手で持っていた矢の先を後ろに立ったトゥレスに向ける。
「ちい」
トゥレスが呻って、バックステップした隙に、エークは弓を左肩にかけると、即座にナイフを取り出した。そして、この時点で確信した。
トゥレスは狙撃手ではない。
その下級職である《狩人》までのスキルは習熟しているようだが、遠距離攻撃の専門職である《狙撃手》にはならずに、スニーキングと闇討ちを得意とする《暗殺者》になったに違いない。
そもそも、今のトゥレスの動きは明らかに隠密そのものだ。
すると、狙撃手もとい暗殺者トゥレスはエークに感づかれたことに気づいたのか、静かな態度を崩さずに言ってきた。
「さすがは迷いの森の管轄長だな」
「今では元だけどな。現在はセロ様の近衛長だ」
「ほう。まあ、何にせよ、この距離でナイフ勝負となった以上、君に勝ち目はない。諦めることだ、エークよ」
そう言って、暗殺者トゥレスは乾いた下唇を舐めてからさらに話を続けた。
「そもそも、君はどうやら勘違いしている」
「勘違いだと?」
「そうだ。セロと共にいた時間は私の方が長い。彼の《導き手》という自動スキルは非常に強力なものだが、一つだけ欠点がある」
「どういうことだ?」
「彼から離れすぎると、その恩恵が薄れていくのだよ」
刹那。暗殺者トゥレスの姿が消えた。
さらに背後から投刃があった。エークはそれをナイフでは受けずにバク転でかわした。
そして、近づいてくるトゥレスに対して、地に手を付けたままで回し蹴りを当てた。すぐに姿勢を戻して、よろけたトゥレスに足払いも加えると、エークはナイフを逆手に持って、まずトゥレスの胸を狙い、それが阻まれると次に利き手を狙い、トゥレスが回避の為に後退った頃合いを見計らって、最後に真っ直ぐにその首へとナイフを突き出した。
「くそがっ!」
トゥレスはその一突きを何とかいなして、短く悪態をついた。
「ちい! おかしい。どういうことだ? なぜそれだけ動ける? まさか君も暗殺者だとでもいうのか?」
暗殺者トゥレスの問いかけに対して、エークは「ふう」と大きく息を吐いた。そして、トゥレスをじっと睨みつけてから刺々しい口調で言った。
「貴様と一緒にするな」
もちろん、トゥレスは納得いかないようだ。
だから、今度はエークがやれやれと肩をすくめてみせる番だった。
「それこそ、貴様も勘違いしているのだ」
「勘違いだと?」
トゥレスがそう返すと、エークはいかにも先ほどの意趣返しといったふうに答えた。
「ああ。そもそも、魔族となったセロ様と共に過ごした時間は私の方が長い。逆に言えば、貴様は人族のときのセロ様しか知らない」
「魔族になったセロを知らないだと……ま、まさか!」
「そういうことだ。セロ様は魔王になられた。それも土竜ゴライアス様の加護まで得ていらっしゃる。そうして進化した自動スキルは、これだけ距離が離れていてもいまだに力強く発揮されている」
「ここまで届くだと? 馬鹿な! いったい、セロはどれほど強くなったというのだ?」
トゥレスは驚きのあまりに数歩だけ後退した。
「土竜の加護とはいえ、そんなことが出来るのは、最早ただの魔王ではない。古の魔王。あるいは地下世界の魔王級だぞ。そんなものが地上の魔族領にいてたまるか!」
トゥレスはそう叫ぶと、隠すこともなく幾重にも分身した。
先ほどから別方向からナイフが飛んでくるのはこのスキルによるものだった。
何にせよ、エークは幾体ものトゥレスに囲まれた。セロの《救い手》が届いている以上、エークは疲れ知らずに動くことが出来る。トゥレスとしては全力をもってして短期決戦で決着をつけるしかなかった。
おかげでエークはまさに絶体絶命の危機にいた。
それなのに、まるで森林浴でも楽しんでいるかのようにその場にじっと佇んでいる。
「エークよ。気でも狂ったか?」
「いや、ちょうど良いタイミングだっただけだ」
「何だと?」
直後。トゥレスの分身体は全て霧散した。
本体はどこからか伸びてきた蔦に絡まれて、宙で捕まってしまった。
「くっ!」
すると、木陰からダークエルフの双子のディンが出てきた。
その隣にはドルイドらしきダークエルフの少女もいた。どうやらその少女がトゥレスの動きを封じたようだ。
「さて、トゥレスよ。先ほども言った通り、洗いざらい話してもらうぞ。貴様の過去の悪行全てと、勇者パーティーで企てていたものも含めてだ」
エークがそう言うと、トゥレスはわざとらしくにやりと笑った。
そして、片手だけ動かして、服の袖にしまっていた聖鶏の翼を取り出すと、トゥレスは器用に鏃で指に傷を付けて、その血を羽に滴らせてから宙に放った。
その瞬間、トゥレスの姿は掻き消えた。
エーク、ディンやドルイドの少女も声を上げて驚いたが、ディンが博識を披露して聖遺物の説明をすると他の二人も納得した。
「くそ。逃げられたか……」
エークは悔しそうに悪態をついたが、何にしてもディンは連れてきたドルイドの少女をエークに説明することにした。
「エーク様。ドルイドの最長老がセロ様に協力してくださるそうです」
「分かった。それでは、私がセロ様のもとに案内しよう」
こうして迷いの森での戦いも幕を閉じたのだった。