197 蠅王ベルゼブブと地獄長サタン(中盤)
「ううー。もう、この分からずや!」
第二魔王こと蠅王ベルゼブブが滞空しながら器用に地団太を踏むと、さすがに何か奇妙だと気づいたのか、第一魔王こと地獄長サタンは「ふむん」と地獄にある官舎の玄関ポーチで蠅騎士団の大群をじっくりと観察した。
さすがに個としては最強と謳われるベルゼブブに従うだけあって、名の知られた魔族ばかりだ。もっとも、朱に交われば赤くなるというが、かつては強さも気品も兼ね備えていたはずの悪魔たちがなぜか全員、
「ヒャッハー」
「汚物は消毒だあああ!」
「ぶひひ、いたぶりながら殺してやるぜええ!」
「貴様に生き死にの理由はいらん。全てはオレらの気分次第よ!」
などと言いながら、全員がどこぞのハードゲイみたいな黒革ベストにホットパンツを履いて、頭部もモヒカンにしている。
一応は蠅騎士団なのだから、多少は騎士らしい格好をすればよいとサタンも思うのだが、なぜだろうか――ベルゼブブと一緒にいると、あんなふうにならず者になってしまうらしい。唯一の例外はそれを率いるアスタロトぐらいか。
「やれやれ。これではアスタロトの気苦労も絶えないわけだな」
サタンはそんなふうに呟いた。
そして、なるほど、と。気性の荒いベルゼブブがなぜいまだに攻撃を仕掛けてこないのか合点がいった。というのも、サタンはこれまでにも散々、次のような光景を見てきたからだ――
「それでは本年度の『万魔節』を開催する。議長を務める地獄長サタンだ。よろしくお願いしたい。と、その前に……第二魔王国の蠅騎士団の輩が先日、第四魔王国こと霊界に侵略して、建造していた墓を荒らしたことについて謝罪と賠償を請求したい」
「お待ちください。サタン殿。見解の相違です。私の部下は墓を暴こうとしたわけではありません」
「ほう。では、アスタロトよ。彼らはいったい何をしたかったのだね?」
「ええと……田畑を耕そうとしたのです。本当です」
「…………」
「実際に、彼らの手にはどこから奪ってきたのか……ではなかった、調達したのか、チキンとポップコーンがありました」
「それがどうしたのだね? チキンとポップコーンは田畑で生えてこないと思うのだが?」
「残念ながら、それはサタン殿の見解です。少なくとも、私の配下たちはそれが田畑で出来るものだと思い込んでいました。たしかに教育が足りなかったことについては謝罪しましょう。ただ、今回の行動は彼らの親切心から出てきたものなのです」
「本気でそう思っているのかね?」
「もちろんです。私は蠅騎士団を信じています」
もっとも、そう言い切ったアスタロトは軋むお腹を押さえこんでいた。シュペル・ヴァンディス侯爵がこの場にいたなら、同情を禁じえなかったことだろう。それはともかく――
「では、もう一つの懸念事項を早々に『万魔節』の前に解決したい。先日、第二魔王国から放たれた強力なエネルギー波が地獄付近の海域に落下した。さて、蠅王ベルゼブブよ。これは地獄に対する先制攻撃とみなしていいのかね?」
「お? やる気か、サタン! いいぞ、我はいつだって――」
「ちょーーーっと待ってください。ベルゼブブ様。それにサタン殿も。あ、あれは……実は、ベルゼブブ様の放屁なのです!」
「…………」
「…………」
「ベルゼブブ様は冥界で最も魔力をその体内に溜め込んでいるおられる方です。たまにそれを発散しないと、かえって危険がその身に及ぶのです」
「しかしながら、毎回、どこぞの無法国家みたいに近海に発射されても困るのだが?」
「あん? 困るも何もだな。我はハデスにでも当たらないかなー、と思いながら適当に放ってみた――」
「だーーーから、何も言わないでください、ベルゼブブ様! 貴女はこういう交渉事は苦手でしょう? 全て、お前に任せるのだー、と万魔節の前にも仰ってくれていたではないですか」
「う、うむ……」
「とりあえず、アスタロトよ」
「はい。何でしょうか、サタン殿?」
「二度とこうした荒事が起きないように、きちんと文面を交わしたい。私たちは冥王ハデス様のもとについた同盟国なのだ。いつまでも魔族の習性のまま、暴れ回っていてはいけない」
「仰る通りです。当然、善処いたします。ところで……その紙の束は?」
「今、申し渡した件以外にも、本年度だけで千五百件の苦情がきている。それも全て貴国にて優先的に処理してほしい」
「…………」
サタンは瞑っていた目を開いた。
さぞかし第二魔王国には書類の山々が蓄積されていることだろう。アスタロトは第二魔王国には似つかわしくないほどに優秀な悪魔だが、それでも一人きりでは何も出来まい。
となると、今回、冥王の府でもなく、霊界でもなく、真っ先に地獄に攻め込んできたのは、この冥界を司る地獄の優れた官吏たちを引き入れて事務仕事をさせる為か――と、サタンはあっけなく看破した。つまるところ、サタンを無傷で手に入れたいのだろうとも。
もっとも、ベルゼブブはそんな思惑など当初はさっぱり持っておらず、ハデスも、レトゥスも不在だから、仕方なく地獄にいるサタンを「ヒャッハー」と攻めただけなのだが……
何はともあれ、これにてサタンの方針は決まった。
相手に攻撃の意思がないのなら、こちら側から崩すだけだ。しかも、こちらの隠していた戦力は一切使わずに――
「ところで、ベルゼブブよ」
「何だ、サタン。降伏するつもりになったのか?」
「その気は毛頭ない」
「むー。今なら第六魔王国にツアーして接待してやってもいいんだぞ。あそこの赤湯は凄いぞ。四竜の血で出来ているんだからな」
「……それは多少は興味が湧いたが、何にしてもベルゼブブよ。貴様は長く生きている大悪魔だから、なぜ奈落が『地獄の門』と言われているか知っていることだろう?」
「知らん」
「…………」
「興味もない」
「ベルゼブブ様。一応説明させていただくと、人工知能『深淵』が建造した軌道エレベーターを模倣して造られたのが奈落こと『地獄の門』です。地獄というだけあって、作成者はそこにいる――」
「おお。なるほど、サタンが造っていたのか。さすがは人造人間。器用なものだな」
「ふむん。だから、当然――こういうことも出来るわけだ」
すると、サタンは玄関ポーチのすぐ先に二つの門を顕在化させた。
王国の地下と、旧第三魔王国の神殿郡跡以外に通じる奈落があったのかと、ベルゼブブも、アスタロトも目を見張っていると、その門からは二人の悪魔が出てきた。
「うわー。危ねえ。雑魚だと思って油断していたぜ。結構やるじゃねえか、あいつら」
「死ね。死ね。死ね。本当に死ねばいいのです。今度会ったら許しません」
現れたのは――悪魔ベリアルと傀儡士ネビロスだった。
もちろん、二人程度が加わったところで宙を埋め尽くす蠅騎士団の前には多勢に無勢という状況は変わらず、ベルゼブブは「ん?」と首を傾げるしかなかったわけだが……
一方で、アスタロトはというと、珍しく声を荒げた。
「蠅騎士団、総員、精神攻撃に対する防御を固めよ! 後方部隊は撤退! 精鋭はベルゼブブ様をすぐに警護せよ! 急げ! 時間がないぞ!」
次の瞬間、蠅騎士団の魔族たちにどこからともなく糸が下りてきた。
「本当に……死ねばいいのです」
それはかつて古の大戦時に人族と天族の大軍を同士討ちという形で苦しめて、地上世界にも伝承としていまだに語り継がれている凶悪な傀儡の術だった。ネビロスは本来、こうした総力戦でこそ真価発揮するのだ。
「よろしい。ネビロスよ。敵を操って、ベルゼブブとアスタロトを討ち取りなさい。ベリアルはネビロスを死守することです」
「畏まりました、サタン様」
ベリアルは立礼だけすると、双鎌を取り出した。
好戦的な性格ではあるが、本来、ベリアルはネビロスを守護する盾役として優秀で、双鎌にて守りに徹するならば、ベルゼブブとて容易には突破出来ない――そんな二人が蠅騎士団に牙を剥いた。
「それでは私は執務室に戻って史書の編纂でもいたしましょう。この日、このときをもって、第二魔王国の蠅騎士団は全滅した、と。その経緯も含めて記して、後世に遺して差し上げるのがせめてもの手向けといったところでしょうかね」