196 蠅王ベルゼブブと地獄長サタン(序盤)
ここは地下世界こと冥界――
かつてあった緑に溢れた大地はとうにひび割れ、ぺんぺん草すら生えないほどに荒廃している。
また、度重なる戦禍によって山々も削り取られて、そこから流れる川も干からび、海は血や毒などに汚染されてしまっている。
よくもまあここまでひどくなったものだと逆に感心したくもなるが……そもそも食事をろくに取らなくても、大気中に含まれる魔力で魔核にチャージ可能な魔族にとって、こうした痩せ衰えた世界はさして問題にはならなかったようだ。
むしろ、人族から魔族に進化したのは、不老不死という永年の宿願以前に、こうした環境破壊後の影響を受けつけない肉体を得ることを目的としていたのではないかと勘繰りたくもなる……
要は、古の大戦が起きて人族がずいぶんと減ったことで、かえって地上世界こと大陸は持続可能な発展を維持出来たのではないかと考えられるわけだ。
まあ、何にしても結果論でしかないのだが、もし古の技術を持ったまま、人族が減少せずにいたら、今頃どうなっていたのかは興味のあるところだ。
さて、視点を地下世界に定めたい――
現在、この廃れきった冥界に、肝心の主は存在しない。冥王ハデスはすでに天界に赴き、自らが支配していた全域を地獄の長に任せている。
第一魔王こと地獄長サタン――ハデスがエメスと同様に人造人間だと暴露した、冥界のナンバーツーでハデスの右腕に当たる人物だ。
その外見は、冥王に長らく仕えてきた壮年の執事といったふうだ。
トラッドなグレーのスーツに、フレームレスの眼鏡をかけて、そこにグラスコードを付けている。マロン色のレザーの靴はよく手入れされていて、片手には木製の杖をついている。
顔つきはいかにも神経質そうで、エメスのようにどこか淡々とした冷たさを纏っているのはやはり人造人間だからだろうか……
もっとも、エメスは人族の守護者たれとその父が娘を依り代にして造ったわけだが、こちらのサタンはハデスの言を借りるなら、偽神こと人工知能『深淵』のプロトタイプとして製造されたモノらしい。
そんなサタンはというと、地獄の官舎の玄関ポーチに突っ立っていた。
「まあ、壮大な光景よな」
眼前に広がるのは、空を埋め尽くすほどの蠅騎士団――
第二魔王こと蠅王ベルゼブブの配下たちで、個として最強と謳われる魔王のもとについた者たちだけあって、いずれも一騎当千の強者ばかりだ。
しかも、そんな彼らを率いる悪魔アスタロトもかつてはサタン、ベルゼブブや死神レトゥスなどと並び称えられた魔族だけあって、どちらかと言えばハデスの配下では文官にほど近い立場のサタンでは到底勝ち目のない相手だといえた。
それでも意外なことに、サタンはいまだに無表情を貫いている。
「あーはっははは! これで冥界は我のものだ! さあ、サタンよ。選ぶがいい。降伏か、あるいは死か。今なら我が直々に貴様の魔核を砕いてやろうぞ!」
「ふむ。何やら粗暴な者たちが訪れてきたと思ったら、貴方がたでしたか。仕方ありません。個で最強と謳われる貴方がなぜ冥王になれないのか。今こそ、はっきりと分からせて差し上げましょう」
「ほざけ、サタンよ。貴様程度に我の相手が務まるはずがなかろう?」
「ならば、なぜ、これほどの大軍を率いて攻めてきたのです? それほどに私が怖かったのですか?」
「笑止! 魔王討伐は一種の祭りだからな。せいぜい盛大に葬ってやろうと思っただけだ」
とはいえ、蠅王ベルゼブブはなぜかその場で滞空したまま微動だにしなかった。
というのも、とっくに勝負がついていたからだ――多勢に無勢。しかも、サタンがいみじくも言った通り、この世界でベルゼブブに個で勝てるとしたら、せいぜい四竜か、あとは急成長中でまだ底の見えない愚者セロぐらいのものだろうか。
サタンの上司であるハデスですら、かつては戦術や戦略を駆使してベルゼブブを何とか敗北に追いたてた。当然、ハデスに劣るサタンだけでは勝ち目など万に一つもない。
だから、逆にベルゼブブはというと――実のところ、サタンの扱いについて、心中ではほとほと困っていた。
というのも、地獄の官舎にやって来る前に腹心のアスタロトから、
「ベルゼブブ様。お願いがございます」
「何だ?」
「サタンを捕らえたく存じます」
「はあ? 捕えるだと? もしや拷問でもするつもりか? お前も第六魔王国のエメスに感化でもされたのか?」
「とんでもありません。サタンは有能な男です」
「そのぐらい知っているぞ。古の時代以前の情報を全て忘れずに頭の中に溜め込んでいるはずだしな。人造人間ってのは伊達じゃないのだ」
「それもありますが、事務処理の面などでも役に立ちます」
「事務処理だあ?」
ベルゼブブは顔をしかめた。
この最強を誇る少女にとって、魔王として執務室の椅子に縛り付けられて書類仕事をさせられることほど、苦手なものはない。
当然、これまで奔放なベルゼブブはというと、そんなものは全て放って、好き勝手に生きてきた。
となると、果たして誰が地味な仕事を身代わりになって処理してきたか――言うまでもないだろう。配下のアスタロトである。
だからこそ、アスタロトはベルゼブブ以上に悲痛な表情で訴えたわけだ。
「サタンを虜囚にすれば、第二魔王国は救われます」
「…………」
「ベルゼブブ様! ご覧ください。この空一面を覆うほどの我らが軍勢を!」
「うむ。壮大だな」
「そこではありません。配下の面々をよく、それこそ穴の空くほどよーく見るのです」
「……う、うむ。何だか……ヒャッハーって叫んでいるモヒカンの考えなし野郎ばかりだな」
「その通りなのです。馬鹿野郎ばっかりです! 数字を見ただけで精神汚染に襲われる低能しかいないのです! これではいつまで経っても、第二魔王国に溜まりにたまっている書類が一向に減っていきません! 私はもう限界です!」
「…………」
ベルゼブブはまた無言になると、両者ともさすがに沈痛な面持ちになった。
「アスタロトよ。つまり……何が言いたい?」
「今回ばかりはいつものように、貴様は死ぬのだー、とか言いながら、ばーんと向かって、ごーんと殴って、いえーいとガッツポーズを作ってはいけません」
「ふむう」
「サタンに、まいった、と言わせるのです」
「それだけでいいのか?」
「もちろん、説明する必要もないかと存じますが――五体満足で降参させるのですよ。いいですね、ベルゼブブ様」
そんなふうに念を押された上で、ベルゼブブはヒャッハーな蠅騎士団を総動員して、地獄に攻め込み、こうしてサタン一人を取り囲んでいるわけだが……
「さあ、サタンよ。言え、まいったと」
「これでも冥王ハデス様の第一の配下。敗北を口にするぐらいならば、それこそ自害してやりますよ」
「や、や、やめるのだ。自害など絶対に許さないぞ!」
「蝿王ともあろうものが甘いことを言うものです。それならば、さっさと私の魔核を破壊すればいい。先ほども貴方は私を葬ってやると言ったばかりではないですか」
「ううー。もう、この分からずや!」
こうして冥界にある地獄では、何とも締まりのない戦いが始まろうとしていたのだった。
何だかハデスとセロだけ真面目な顔してやり取りしているのに、その周囲は馬鹿騒ぎしているようになっているのは気のせいでしょうか……




