&89 外伝 港区女子(中盤)
最初に明らかな異変に気付いたのは人狼の執事アジーンだった。
ここらへんはさすがに人狼と言うべきだろうか。何者かが幾ら巧妙に認識阻害を駆使していようと、獣の鼻はそう簡単にはごまかせなかった。
「やれやれ、真祖カミラ様が戯れているのか……はたまたドルイドのヌフあたりがまたこっそりと何かし始めたのか……」
とはいっても、アジーンに危機感などこれっぽっちもなかった。
そもそも、大陸に覇を唱えたばかりの第六魔王国を相手に――いや、その本拠地にこっそりと忍び込む馬鹿などもういない。
しかも、ここには封印や認識阻害の第一人者と謳われるヌフが幹部としているだけでなく、そんな闇魔術を得意とする吸血鬼たちが治めてきた土地なのだ。
「何にせよ、かかわらないでおくのが一番だな。余計な仕事を増やしたくはない」
アジーンはそう結論付けて、魔王城二階に上がって左手にある調理場に入った。
「あら、おはようございます。元気そうで何よりですね」
すると、そこにはなぜかにっこにこの人狼のメイド長チェトリエがいた。
アジーンにとって魔王城に勤めている人狼たちは兄妹みたいなもので、人狼――というかその前身たる犬人自体が絶滅しかけて以降、かれこれ幾百年ほど……最早、二人は老夫婦のような関係であって、阿吽の呼吸で意思疎通が出来る。
それにもかかわらず、今朝のチェトリエの笑みがアジーンには容易に汲み取れなかった。
「何かあったのかね?」
「私には……何もありませんよ」
「…………」
これまでツーカーの仲でやってきたので、今さら深く尋ねることがアジーンには出来なかった。
何にせよ、問題がないならいいかとアジーンは頭を切り替えて、朝食の支度が十全であることを確認してから、いつものようにチェトリエたち人狼メイドに首肯してみせた。
ところが、ここでもアジーンは「ん?」と訝しんだ。
というのも、他の人狼メイドたちもどういう訳か、何か期待したかのような眼差しをアジーンに向けてきたのだ。幾人かは「がんばって」と囁いて、応援しだす始末だ。
「こ、これはいったい……何事かね?」
と、アジーンが呟くも、誰一人として答えることはなかった。
仕方なく、アジーンは調理場から出て、いつものルーティンでセロを起こす為に一階の東棟に向かった。もっとも、大階段にちょうど差し掛かったところだ――
「あーっ!」
という絶叫と共に、アジーンは背後から襲われて意識を失ってしまったのだった。
どこからもともなく聞こえてきた絶叫に対して、ダークエルフの近衛長エークは「ん?」と、眉をひそめた。
このとき、エークはちょうど魔王城二階の北棟にあるセロの執務室にいて、今日サインしてもらうべき書類を整理しつつ、くんかくんかと、主の座る椅子の匂いを嗅ぎながら、気分よく口笛を吹いていた。
だから、突然の絶叫にすぐさま廊下に出ると、
「いったい、何事だ?」
セロの執務室前で立哨していた近衛たちに尋ねた。
「申し訳ありません。まだ分かりかねます」
「そう遠くない場所から聞こえてきたようだったが?」
「はい。おそらく同じ二階と思われます」
「それに……さっきのはアジーンの声ではなかったか?」
悲鳴混じりの声音だったので、近衛たちにはよく分からなかったものの……
拷問、もとい地下の娯楽室で散々よく聞かされているとあって、エークには馴染みの声だった。だから、これはもしや早朝から大事かもしれないと、エークは襟を正して現場に向かうことにした。
すると、そんなタイミングでエークは廊下でとある人物たちと出くわした――
よりにもよって真祖カミラとダークエルフの付き人ディンである。この組み合わせにはエークも「おや?」と眉尻をわずかに上げた。
そもそも、ディンはルーシーの付き人であって、これまで一度たりともカミラに付き添ったことがないはずだ。それなのに今の不可解な絶叫と、この不思議な組み合わせとあって、さすがにエークも「何か変だな」と、首を傾げたかったわけだが……
何にせよ、カミラは元第六魔王で、ルーシー同様に目上の立場に当たるので、エークは立礼してみせた。
「ふむん。貴方がエークよね?」
「はい」
「貴方とはこれまであまりお話をしたことがなかったけど――」
真祖カミラはそう言って、じろじろとエークの全身を舐め回すように見つめた。
そして、すぐ隣にちょこんと付き添っているディンに視線を落とすと、「まあ、いいんじゃないかしら?」とこぼしたとたん、ディンは「よし!」とガッツポーズを決めた。
「それでは、早速、わたしの魔術で意識を根こそぎ奪ってしまいましょうか?」
さらにディンがそんなことを言い出したので、エークは顔をしかめた。
もっとも、真祖カミラは「いえ、その必要はないわ」と呟いて、「だって、ほら――」と、ちらりとエークの背後に視線を向けたところで、
「あーっ!」
という悲鳴と共に、エークもまた襲われて意識を失ってしまったのだった。
「筋肉は――」
「全ての根源である!」
「胸筋こそ至上! 背筋こそ最上! いいよ、いいよ、ノリノリだよ!」
そんなふうに魔王城前の溶岩坂下でランニングを終えると、高潔の元勇者ノーブル、ドワーフの族長オッタに、モンクのパーンチはそれぞれ向き合った。
「では、私はそろそろ近衛たちや人狼メイドたちとの軍事訓練に赴こう」
「拙者は温泉宿でひとっ風呂入ってから、飯でも食ってくるわい」
「オレは仕事だ。温水プールの掃除をしなくちゃな」
三人はそう言って、いったん別れた。次に筋肉を鍛えるのは昼過ぎになる。
それまでに銘々《めいめい》の仕事を終わらせようと、これまたいつものルーティンに入ったわけだが、地下通路から魔王城に入っていったのはノーブルだけで、オッタとパーンチは方角が同じだったので途中までは一緒だ。
実際に、トマト畑を過ぎて、温泉宿が見えてくる城下町付近までやって来たところで、パーンチは「じゃあ、オレはこっちだな」と言った。
「そうだ。パーンチよ」
「おう、急に改まってどうした?」
「今日はやけに怖気がするのだ。くれぐれも注意することだ」
オッタはそう言って、長い髭に片手をやった。
「どうにも髭がピリピリと逆立っておる。こういうときには警戒を怠らない方がいい」
「分かったぜ。オレの筋肉もさっきから……不思議と震えている。テメエらが悪寒を感じたってのも、今ならよく理解出来る」
「ふむ。達者でな。筋肉最高!」
「ああ、そっちもな。筋肉最強!」
そんなふうに別れた瞬間だった。
パーンチが白目を剥いて、その場に崩れたのだ。屈強な戦闘種族のオッタですら何が起こったのか、全く理解が出来なかった。
もっとも、さすがに長く生きているだけあって、パーンチが認識阻害で背後から直接攻撃を受けたのだと感づいた。咄嗟に距離を取って、周囲にいる者に助けを求めようかと、ちらりと周囲を見回したときだった。
股間を鷲掴みにされた感覚があって、ひゅんと体が硬直した――
「あーっ!」
こうしてオッタも、アジーンやエークと同様に襲われて、意識朦朧となっていったのだった。ちなみに、パーンチだけは無用と足蹴にされて、そこらへんに転がされたらしい……
何だか最近、パーンチの扱いが雑になってきた気が……