&81 外伝 第六魔王の母(終盤)
「まさか……リザ様?」
泥竜ピュトンが呟くと、それなりに距離があっても蜥蜴人のリザは気づいたらしく、
「おや? これはこれは……」
いかにも恭しくといったふうにゆっくりと近づいてきた。
第三魔王国の貴賓がこちらに迷い込んだとでも勘違いしたのだろう。二人のそばまでやって来ても礼儀正しい態度を崩さない。
一方でピュトンの心臓は爆発寸前だった。
まるで異性とろくに話したことのない少女のように両頬を紅らめて、その視線はしだいにリザの足もとに落ちていった。全く直視出来ないのだ。
もっとも、これには第六魔王国で唯一と言っていい、まともな人物――意外にも気配り上手なモンクのパーンチが「ん?」と、やや眉をひそめた。
眼前の女性が何者かは知らないが、どうやらリザのことを好いているのではないかと感づいたのだ。
「なあ、わんこ……オレたちはちょいとあっちで遊んでくるか」
パーンチはそう言って、子犬のみけたまを一時的に預かってあげた。
同時に、みけたまのリードを片手に持ちつつ、パーンチは蜥蜴人リザの肩をぽんぽんと叩いてから、
「このご婦人のことはリザに任せたぜ……いや、お前さんにしか任せられないってやつだよな。頼んだぜ」
と、お膳立てまでしてあげた。
本当に気配りの塊のような男である。孤児院で子供たちの相手ばかりしてきたから目端が利くようになったのだ。
ただ、そんな意味ありげなパーンチの言葉のせいで、かえって蜥蜴人リザは――もしやこの竜人の女性は第三魔王国でも相当に位の高い者なのではないかと、勘違いしてしまった。
そして、それならば逆に話が早いと、胸を張って相対した。
「はじめまして。ようこそ第六魔王国にお越しくださいました。この温水プールの監視長を務めているリザと申します」
「…………」
ピュトンは相変わらず真っ赤で俯いたまま、一言も発せずにいた。
ここで多少なりとも自己紹介が出来たなら、余計な勘違いも解けたはずなのだが……本当に間が悪いとはこのことである。
それはさておき、蜥蜴人リザは早速、無神経な言葉を放った――
「ご足労いただいて何ですが……残念ながら我らが敬愛する海竜ラハブ様はこちらにはお越しではありません。おそらくまだ魔王城内にて愚者セロ様と歓談なさっているのではないかと」
ここでピュトンは初めて顔を上げてわずかに首を傾げてみせた。
我らが敬愛する――の意味が分からなかったせいだ。そもそも、ピュトンは海竜ラハブとは接点がない。ずっと地下牢獄にいたので、同じ竜種とはいえろくに会話したことだってない。
だが、蜥蜴人リザからすれば、第三魔王国で女性の竜人ならばラハブ付きの侍女か何かに決まっているとみなした。つまり、自分の同類だと考えたわけだ。
というのも、亜人族の蜥蜴人は遥か昔から水竜レビヤタンの加護を受けてきた。そのレビヤタンが古の大戦時に邪竜ファフニールによって討たれてからは、娘のラハブを信奉した。
普通ならば、そんなラハブの奪還を目論んで第三魔王国とは敵対するはずだったが……
ラハブが意外に健やかに育って、巨大蛸クラーケンをからかいに『最果ての海域』に赴く姿をよく目の当たりにして、クラーケンこそ仇敵なのだとみなしたことで、島嶼国での余計な敵対関係が成立した。
最終的には誤解も解けて、こうして蜥蜴人たちはクラーケンと共に温水プールで働くことになったのだが……何にせよ蜥蜴人リザはというと、ピュトンは侍女なのだからラハブの信奉者に違いないと見立てた。
「ええと……敬愛するラハブ様……とは?」
だが、ピュトンはついに言葉を発した。
当然の疑問だ。これっぽっちも海竜ラハブのことなど敬愛していないのだ。むしろ、なぜここでラハブの名前が出てくるのか不思議なくらいだ。
そして、恋愛下手なピュトンは無駄に一つの結論に達した――
もしかしたら、蜥蜴人リザの想い人は海竜ラハブなのではないか? と。
もちろん、これはあながち間違っていない。蜥蜴人の族長であるリザは他の誰よりもラハブのことを強く想っている。それこそ絶対的な信仰の対象として崇めているほどに。
おかげでリザはいかにも鴨が葱を背負ってきたとばかりに、その敬愛具合を饒舌に語ってみせた。
「本日のラハブ様のいかにも愛らしかったこと!」
「……は、はあ」
「いつもは王国東方の独特な民族衣装やハーレムパンツを纏っておられるのですが、今日は邪竜ファフニール様がご訪問なさっているからか、いかにも姫君らしく、純白のドレスを身に着けておられましたね」
「……へ、へえ」
「聞けば、第三魔王国にはラハブ様のお世話をする人族がいるというではないですか。我々は島嶼国時代、人族を歯牙にもかけない脆弱な種族とみなしておりましたが……いやはや、衣服や宝飾品といった文化については我々も専門外故に、まさに人族グッジョブですな!」
「……ほ、ほう」
「何にしましても、ただでさえお美しいラハブ様がさらに綺麗になられたわけですから、これぞまさに美の権化――私は初めて世界の真理を見出した思いですよ!」
「…………」
ピュトンは再度、無言のまま項垂れた。
これは脈なしだなと瞬時に悟った。実のところ、これだけ無駄に慕われていることもあって、かえって海竜ラハブは蜥蜴人たちを煙たがっているほどなのだが……
そんなことなど露知らないピュトンはというと、まさに失意のどん底にいた。
これまた仕方のないことだろう。今もまだ眼前の蜥蜴人リザは滔々とラハブの美しさを称えているのだ。
かつて巴術士ジージの棒術によって幾度も突かれた傷みよりも――今のリザの言葉の方がよほどピュトンを痛めつけていた。
「ああ……もうダメ……」
直後、ピュトンはぶらりと倒れた。
もちろん、リザはすぐさまピュトンを抱きかかえてあげたわけだが……
そんなお姫様だっこに近いシチュエーションだったのに、ピュトンはちっともうれしくなかった。いっそ百年の恋も冷めたようなもので、ピュトンはそのまま卒倒してしまったのだった。