&66 外伝 第一回渓流杯(終盤)
妖精ラナンシーからすると、海竜ラハブはこれまでずっと目の上のたんこぶだった。
とはいえ、もともとラハブは長女ルーシーの好敵手だ――どちらも魔王の邪竜ファフニールに、真祖カミラの後継者ということで、出会った直後から競い合うことを決定づけられた。
そうはいっても、ラハブは古の時代から生きていることに加えて、超越種たる四竜の遺伝子を継いでいるとあって、幾ら天才の名をほしいままにしてきたルーシーをもってしても、早々には敵わなかった。
そんなルーシーに得意の武術で完敗した格好で島嶼国へと流れてきて、自由気ままな女海賊となったラナンシーだったわけだが……
まさかラハブが『最果ての海域』にちょくちょく遊びに来て、その都度、気紛れに巨大蛸クラーケンにちょっかいをかけているとは露ほども知らなかったらしく、
「ぐぬぬ……姉上様から逃れたと思ったら、まさかこんなところにラハブがやって来るとは……」
と、妖精ラナンシーは飛来する海竜ラハブの影を見るたびに忸怩たる思いに駆られたものだ。
いわば、ラナンシーからすれば、長女ルーシーに対する劣等感を思い起こさせる存在こそがラハブであって、いつかはルーシー同様に超えなければならない存在だと認識していた。
だが、そんな海賊時代は唐突に終わって……第六魔王国に新設された渓流露天風呂にてばちばちに戦い合っていたラナンシーとラハブはというと、
「あたしはもう逃げるのは止めたんだ。今こそ、あんたを倒して、吸血鬼としての誇りを取り戻す!」
「へえ。言うじゃないか。だが、所詮はルーシーの舎妹――余の敵じゃないさ!」
渓流に流されつつも、手を出して、足も出して、さらには水魔術で攻撃まで仕掛けて、ついに二人は最終コーナー手前のジャンプ台までやって来た。
ここは渓流露天風呂最大の難所で、ちょうど途中でコースが切れている。
もっとも、温水の流れに身を任せていればその先にきちんと着水出来る仕様なので、ここはじたばたとせず、怖がらずに流れていけばいいだけなのだが……
「ここであんたを叩き落す! 喰らえ、ラハブ!」
「それはこっちの台詞さ! さあ、全力でぶつかってきな、ラナンシー!」
そんな挑発に乗って、妖精ラナンシーはジャンプ台で宙に飛んだタイミングで自らの手首を切りつけると、『血の多形術』によって出来た櫂に似た武器でもってラハブを叩こうとした。
逆に、ラハブは余裕を見せつけたいのか、それを真剣白刃取りしてみせる。
とはいえ、そんなバトルを宙でごちゃごちゃとやっていたせいか、当然のことながら二人は途中で失速して、着水点に到着するにはいかにも勢いが足りなくなった。
「しまった! このままでは落ちる!」
「ははん。ラナンシーよ。詰めが甘いな。まさかと思うが……余が竜だということを忘れていたのか?」
すると、海竜ラハブは宙の一点でぴたりと止まって、ついには妖精ラナンシーを足蹴にして落とした。
竜族の種族特性の『飛行』だ。ラナンシーも即座に風魔術で『浮遊』を使おうとするも、ばちゃ、と。途切れたコースの下に敷設されていた別のコースに着水してしまっていた。
これではダークエルフの双子のドゥやディンと同様に、もうリタイアするしかない……
「ふはは。出直してきな、ラナンシー。まだまだ余の相手をするには早かったね」
海竜ラハブはそう豪語して、飛行によって着水予定地点に戻ろうとした。
「さあ、あとは前にいた人族を抜くだけだ。朝飯前だな……うぎゃ!」
そのとき、空からラハブを攻撃する者がいた――人造人間エメスだ。
どうやら審判を務めていたようで、ロケットパックを背負って空からカメラ撮影しながら、ミサイルと『電撃』の多重攻撃をラハブに仕掛けていく。
「今回の渓流杯は泳ぎのレースなので飛行はルール違反です、終了」
ルールなんてあったのかと、海竜ラハブもまた下のコースに叩き落されたわけだが……
何にしても、こうして先頭のシュペル・ヴァンディス侯爵を追っていた第二集団は勝手に壊滅してしまったのだった。
「解説のモタさん……いやあ、とんでもない展開になりましたね」
「ほいな。ここにきて第二集団が全滅とは……まあ、やっぱりこのままシュペルさんが優勝でいいんじゃないですかねえ」
「ええ、そうですね。そのシュペル卿も背後にちらりと視線をやって、最終コーナーで入口付近の観衆に手を振ってみせる余裕まであるようです」
「色々と苦労していたみたいですからねー。やっと報われたってとこじゃないですかー」
「おや?」
「むーむむ?」
「あれはいったい……」
「ほいほい。水中に小さな影がありますね……」
「まさかまさかまさか! ここにきてダークホースか!」
「第二集団が派手だったので気づきませんでしたが、エルフやダークエルフの第三集団から抜け出てきた子がいましたよー!」
「このレース――まだまだ分かりませんね、モタさん!」
「あれれ? あの子は……ええと、とにもかくにも、シュペルさん! 大ピンチなのでーす!」
シュペル・ヴァンディス侯爵は悠々と流れに身を任せていた。
最早、優勝はもらったのも同然だ。恐れていた妖精ラナンシーも、海竜ラハブもいない。
後方にちらりと視線をやるも、第三集団のエルフやダークエルフたちはやっとジャンプ台を上がったところで、先頭のシュペル卿には到底追いつけそうにない。
「さあ、王国の未来、いや千年王国の栄光を、いざ、この手で掴みにいこうではないか!」
シュペル卿はそう宣言して、改めて流れに身を任せた。
そのときだった――
「ぷはあ。いくよー! きいいいーん!」
と、そばで子供の声が上がったのだ。
当然、シュペル卿はギョッとした。ちらりと視線をやると、すぐ背後にいたのはダークエルフの子供だった。
双子のドゥやディンではない。名も知らぬ子供だ。それがどうやら水中に身を潜めて第二集団の戦闘をやり過ごし、こうしてシュペル卿に迫ってきたらしい……
「馬鹿な……どんな芸当だ?」
これにはシュペル卿も困惑するしかなかった。
第二集団の妖精ラナンシーと海竜ラハブがばちばちにやり合っていたとはいえ、その二人に気づかれなかったということは闇魔術の認識阻害を自身にかけていたに違いない……
さらには水中に身を潜めていたということは、水魔術によって水泡でも頭に被せて呼吸をしていたのだろう。
エルフ種は見目では年齢が判断つかないとはいうが、少なくともこの子供は双子のドゥやディンよりも幼いはずだ。それがここまで見事に複合的な魔術を扱えるものなのか……
「だが! ここまできて、抜かれてたまるか! 貴様に足りないもの、それは……愛国、哲学、理想、知性、気品、高貴さ、生真面目さ! そして何よりも――経験が足りない!!」
「きいいいいいん!」
このとき、勝負は明らかにシュペル卿に有利だった。
幾ら不意を突いてシュペル卿に迫ったとはいえ、その子供は海賊をやっていたラナンシーのようには泳ぎが得意でもなければ、海竜ラハブのように水魔術に長けているわけでもない。
そもそも、ゴールはもうシュペル卿の目と鼻の先だ。
「勝った!」
が。
直後、その子供は呪詞を謡った――
「いくよおおおおお! 特性闇魔術、『放屁』!」
はてさて、いったい誰に習ったのか……
ぷうっ、と。あまりにも大きな屁が放たれると、その子供は一気に水上を加速した。
「な、な、何だとおおおおお!」
「きいいいいいいいいん!」
ゴールは――ほぼ二人同時となった。
結果、その判定は宙にいた人造人間エメスのカメラに委ねられた。
すぐには判別がつかずに、エメスも正確なカメラ判定をする為にいったん魔王城の司令室に戻ったが為に……
勝ち負けが分からぬままに呆然と十二周目に突入したシュペル卿と、さすがに一周で疲れ切ってしまったのか、「また世界をちぢめてしまった」と達観して渓流露天風呂の入口に下りた子供といったふうに、両者はいかにも対照的ではあったが――
何はともあれ、エメスによるカメラ判定の詳細はまず実況解説席にもたらされたのだった。
「モタさん?」
「ほいな?」
「先ほど、あのダークエルフの子供を知っているような口ぶりでしたが? しかも、よりによってモタさんの十八番、『放屁』を使用していましたよね?」
「ほいほい。当然、知っていますよー。あの子の名前はチャルなのです。何と! わたしが魔術を教えてあげたのです」
「え? モタさんに弟子がいたんですか?」
「失敬なー。これでもわたしってば、王国にその名を残す天才魔術師なんですよ。夢魔のリリンだってわたしの弟子なのです」
「はいはい。それは魔術ではなく、料理の弟子でしょう? しかも、モタさんがろくに教えてくれないと拗ねて、今では屍喰鬼の料理長フィーア様に改めて弟子入りしたと聞きましたよ」
「えへへ。バレちった」
「それはそうとして……おや? どうやらエメス様による判定結果が出たようですね。それでは勝者を読み上げますね」
「ほーい。泣いても、笑っても、ついに最後の第一回渓流杯――はてさて、その勝者はいったい?」
「ふむ。これは……さあ、解説のモタさん、どうぞ」
そう言って、アジーンがモタに譲ると、モタは満面の笑みを浮かべて絶叫したのだった。
「勝者は――チャルうううううううう!」
ちょいとばかし長くなりすぎたので、次話で表彰式をやります。ちなみに、モタとチャルの出会いは「064 迷わずの森」にあります。また、8月30日発売予定の『トマト畑 第二巻』でも、明確に名前が出てきて、もうちみっと詳しくエピソードが追記されています。どうかよろしくお願いいたします(宣伝)。
ちなみにこのエピソードには『スクライド』のクーガー兄貴の名言が幾つかあります。やっぱり夏といったら兄貴ですよね。