&16 外伝 ルーシーは恋をする(終盤)
ルーシーは「はあ」とため息をつくしかなかった。
恋愛の場数はすぐには踏めず、プレゼントも簡単には思い浮かばず――となると、あとはヒトウスキーが最後に言っていた、「普段と違うこと」ぐらいしか残っていない。
「いつもはやらないことか……」
ルーシーはそう呟きつつも、悶々と眠れない夜を過ごした。
あまりに寝返りばかり打ってどうしようもないので、途中で棺の蓋を開けて身を起こすと、ナイトガウンを着たままで供回りもつけずに再度、魔王城の地下階層に向かった。
人造人間エメスとドルイドのヌフは媚薬事件の隠蔽を見事に終えたのか、かなりぐったりした様子ではあったが、今度はセロの映像をまとめる仕事に集中していて、やはりルーシーが来ていることに気づいていない。
もしやこの魔王城は意外と侵入者にとって笊なのでは……と、ルーシーも少し心配したくなってきたが、それはルーシーの認識阻害の技術が高度だからであって、この二人が全く仕事をしていないわけではない――
「どうせ当方の封印で侵入者なんて来ないので、もっとセロ様専用の読取装置を増やしませんか?」
「良いですね。予算はエークあたりを調教して脅し取りましょう、終了」
仕事していないわけじゃないと思いたい……
そんなふうにルーシーは自らを納得しながらまた拷問室に入っていった。
そこにはX字型に磔にされながら器用にすやすやと舟を漕いで、さらには「男二人の呻り声ごちそうさまでしたー」などと寝言をいっている泥竜ピュトンがいたが、さすが気配に敏感になっているのか、ルーシーが来たことにはすぐに気づいたようだ。
「な、何よ? 今度は……眠らせない拷問でもするつもりなの?」
「妾にそんな趣味はない」
「じゃあ、いったい何なのよ?」
「うむ。実は先程の続きなのだが……」
ルーシーがそう言い淀むと、ピュトンはあんぐりと口を開けた。
「呆れた。昨日の今日よ。あんた、どんだけ恋愛に飢えているっていうのよ?」
「仕方あるまい。寝付けないのだ。そもそも、ヒトウスキー殿に相談しろと言ったのは貴女だろう?」
「じゃあ、一応相談はしてきたのね。あの放蕩貴族は何て言っていた?」
「場数、プレゼントと、普段と違うことをしてみろとアドバイスされたぞ」
「ふうん。ずいぶんと無難じゃない? まあ、ヒトウスキーからしてみても、人族と魔族との価値観の違いを考慮したら、あまり踏み込んだところまでは話せないか」
そういうものなのかとルーシーは「ふむん」と息をついた。もちろん、鯉の養殖についてアドバイスをもらったことについては全く気づいていない……
「今のあんたからすれば場数は無理だし、プレゼントは早々に思いつかないし……というわけで普段とは違うことって何をすればいいのか、どうせずっと考え込んで眠れないってわけでしょ?」
「よく分かったな」
「分かるわよ。そのぐらい。まあ、いいわ。人族がそういうときに何をしているのか話してあげる」
「助かる」
ルーシーが頭を下げると、ピュトンは少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「まずは裸エプロンよ」
「な、何だ……そのいきなり意味の分からない言葉は?」
「そのままの意味よ。人族の女性は慣習上、台所に立つことが多いんだけど、そのときに裸にエプロンだけを纏って男性を誘惑するの」
「ただの変態ではないか!」
「あんたねえ。いつまでもお子ちゃまじゃないんだから。恋愛ってのは激しい想いのぶつかり合いなの。自分の堅苦しい価値観をいっそ壊すぐらいじゃないと、結局何も楽しめないわよ」
「う……うむう」
「それから、夜伽のときに衣服を変えてみるってのもいいわね」
「よ、夜伽! まだセロとは結ばれてもいないのだぞ」
「じゃあ、夜伽のときじゃなくてもいいわ。普段のときでも、別の衣装を着てみればいいんじゃない? たとえば、魔王セロはいまだに王国の神官服を着ているでしょう? だったら、あんたも聖女服でも着てみたらどうかしら?」
ルーシーは「ほう、なるほど」と納得した。
ちなみに、普段ルーシーはノースリーブの白いワンピースを纏っている。細身が強調されるようなぴったりとしたものだが、その襟もとや胸もとには血のような赤いシルエットが入っている。
動きやすさを重視しているのもあるし、そもそも吸血鬼は血を物質変換して戦うスキルを有しているので一般的に軽装備を好む傾向がある。魔性の酒場に男性陣が大挙してやって来るのも、美しい夢魔たちがルーシー以上に肌面積の少ない恰好をしているせいでもある。
それはともかく、ルーシーは自身のワードローブを思い浮かべてみた。
実のところ、ルーシーはファンシーなものが大好きだ。だから、ゴシックロリータ調の衣服で淡いパステルカラーの少女趣味なものが多い。
真祖カミラと一緒に過ごしていたときは城内でも好んでよく着ていたのだが、母が亡くなって吸血鬼の頂点に立つようになってからは、侮られないようにとそういった衣服は着なくなってしまった。特にセロが魔王城にやって来てからは他の空室に封じている。
だから、久しぶりに着てみるのもいいかもしれないなとルーシーは考え直した。はたしてセロは何と言ってくれるだろうか。ルーシーはついわずかに口もとを緩めた。
「ふむ。こんな夜分遅くにすまなかったな。とても参考になった」
「本当にそう思っているなら、今度は起こさないでよね」
「分かった。今度は明るいうちに来るよ」
そう言ってルーシーが出て行こうとすると、ピュトンは「ねえ」と声を掛けた。
「あんたにもう一つだけアドバイスがあるんだけど……いつもと違うことと言ったらさ――」
そんなアドバイスを受けつつも、自室に戻って、ルーシーは悶々としながら一睡も出来ずに、それでもいつも通りに早起きした。
ダークエルフの付き人ことディンが棺をノックせずとも、ルーシーは定刻に必ず目を覚ます。それを知っているからディン、人狼メイドやダークエルフの精鋭たちは棺の蓋がルーシーの手によって開かれるのを待ってから、皆で声を揃えて、
「おはようございます、ルーシー様」
「うむ」
ルーシーがそう短く応じた瞬間に、使用人たちは一斉に近づくと、ナイトガウンを脱がして、生活魔術で全身をきれいにして、下着を着せ、髪をとかし、肌に水魔術で潤いを与えてから全身を細やかに一つずつチェックして、そうやってルーシーが部屋を出る頃には容姿や衣服は全て整えられている。まさにプロフェッショナルな仕事である。
そんなルーシーはというと、魔王城二階の食堂こと広間に行って自分の席に座った。バルコニー側の左奥だ。これは真祖カミラの頃から変わらない。すると、人狼メイド長のチェトリエが真祖トマトとトマトジュースを差し出してくる。
肝心のセロはというと、まだ城の見回りをしているのでやって来ていない。
以前、セロが来るまで朝食を待っていたら、「見回りが遅くなるかもしれないから気にしなくていいよ」と言われたので、今はルーティン通りにこなしている。
そんなふうにルーシーがトマトに牙を立てて、ちゅうちゅうと中身を吸っていると、昨日色々とやらかした妹のリリンが肩を落としつつも食堂に入って来て、それから高潔の元勇者ノーブルも続いた。
妹のリリンもルーシー同様に、母たる真祖カミラから厳しく躾けられたから、家出をして帰って来ても、早寝早起きの習慣は変わっていない。ノーブルも砦のリーダーを長らく務めていただけあって、セロと同じく早朝に起きて見回りをするのが日課だったらしい。
そんな二人が席についたタイミングで、ディンもルーシーから許しをもらって席に着く。そんな様子を眺めながらルーシーは「ふう」と一つだけ小さく息をついた。努めていつも通りの平静に振舞ってはいるが、さっきから心音が、ドクン、ドクンと怒号のように高鳴っている。
ディン、リリンやノーブルに気づかれていないか。ルーシーもどこか気が気でない。まさか普段と違うことをするだけなのに、これほどに覚悟がいるものとは……
だが、当然、時間は待ってくれない――
セロがドゥを伴って食堂に入って来ると、すぐに眩い笑みをルーシーに向けてくれた。
「おはよう、ルーシー」
まるで日のような明るい笑顔だった。
いやはや、吸血鬼が太陽に例えるのもどうかとはルーシーも思うのだが――この胸の内の熱さはまるで日にじりじりと焦がされていくかのようで、どこか苦しく、とても辛く、それでいてルーシーの背中をぽんと押すほどに強いものだった。
だから、ルーシーはそんな火照った焦りを払うかのように応えてみせた。
「うむ。セロも早いにゃ」
ルーシーはついに一晩中練習した、普段と違うことを実践した。
ピュトンから人族は『猫語』に弱いと聞いたからだ。だが、朝食に同席していた妹のリリンはというと、
「お姉さま……熱でもあるのですか?」
そんなふうに心配してくるし、同じく高潔の元勇者ノーブルもいかにも複雑な表情を浮かべているし、ディンはスプーンとナイフを両手から落として顔を真っ赤にしてしまった。普段通りなのはドゥぐらいだったが……先ほど「ぷっ」と吹き出したように見えたのは気のせいだろう。今は「おいちい、おいちい」と、わざとらしく呟いてもぐもぐしている。
肝心のセロはというと、一瞬だけ固まったようだが、ルーシーの変化に気づいたのか、気づかなかったのか、それこそ普段通りに冷静に努めて振舞おうとしている。ここらへんはさすがに他の者たちよりも精神耐性が高いだけある……
もっとも、ルーシーは泣きたくなった。
セロに想いを気づいてほしくて試してみたが、セロは一言も声をかけてくれない。
もしかしてセロはルーシーが想うほど、ルーシーのことを想ってくれていないのだろうか。ルーシーは出口の見えない片想いでもしているのだろうか……
すると、セロがどういう訳か末妹こと三女の話題を出してきた。ルーシーからすると、不肖の身内のことだからこれまではあまり答えてこなかった話だったのだが、場の雰囲気を変える為にもリリンに振ってみた。
そうこうするうちに三女の話題に終始して朝食の時間は過ぎて、思い悩んだルーシーはこっそりとドゥに声をかけた。
「最近、セロに変な虫がついていないか?」
そんな問答をしていると、ドゥから意外な人物の話が出た。何とあれだけ恋の相談をしたピュトンがセロに迫っている上に、さらに同性のアジーンとエークまでもが恋敵だというのだ……
「まさかセロが男漁りまで……あわわ」
ルーシーはその場で虚脱して、ディンに引きずられるようにして自室に戻った。
そして、棺の淵に体を預けて泣き出した。猫語が恥ずかしかったからではない。セロに変な虫がたくさん付いていたせいでもない――
結局のところ、セロに何も言ってもらえなかったからだ。ルーシーの変化にセロは応えてくれなかった。これではいつまで経っても平行線だ。なぜ想いというものは簡単に交わってくれないのだろうか。言葉にしないと伝わらないのだろうか。いや、言葉にしたとしても正確には届かないのだろうか。
寝室で人払いをしたが、それでもディンだけは心配してそばに付いていてくれた。
「さっきの、可愛かったですよ」
「…………」
「普段のルーシー様と違って、わたしはとても好きです」
「…………」
「ルーシー様って意外にファンシーなものが好きですよね。そういうところはセロ様にもっと伝えてもいいと思いますよ」
「…………」
ディンがフォローしてくれるのだが、まだ小さい付き人に気を遣わせてしまっていることに、かえってルーシーの心は痛む……
「すまんな。ディンよ。今日はしばし自室で休む。セロにはそう伝えておいてくれ」
「はい、畏まりました」
「それとディンよ。ありがとう。今日は一日、好きに過ごすがよい」
そう伝えたものの、ディンはやはりルーシーのもとに戻って来た。
そして、ドゥの言葉足らずなところを訂正してくれたので、ルーシーの気分もやっと少し落ち着いたわけだが、その日はどこか気落ちしたままだった。
あっという間に時間は過ぎて、夕食を皆で取ったが、話題らしいものは珍しく何も出てこなかった。どこか全体的にルーシーのどんよりとした雰囲気に飲まれているといった感じだろうか。あるいはルーシーだけがそんなふうに思い込んでいるのか……
いずれにせよ、ルーシーはディンを帰して、寝室にまた戻ってから、何の実りもない一日だったなと後悔した。さすがにろくに眠っておらず、ひどく心が疲れていたせいもあって、棺に入って泥のように眠ってしまおうと思った――
そんな矢先だ。
「モタ――っ!」
セロの声が響いた。
何事かとルーシーが廊下に出ると、セロが珍しく肩を怒らせて部屋から出てきた。
「いったいどうしたのだ、セロよ?」
「いや、まあ……またモタだよ」
「何か悪戯でもされたのか?」
「本人は悪戯のつもりがないから困ったものなんだよね」
「ふふ。何だか少しだけ憧れるな。モタのそういった素直に行動出来る部分は――」
ルーシーはつい本音を漏らしてしまった。
だから慌てて、「ん、んん」と咳払いしてから、「では、セロよ。お休みなさい」と告げた。
だが、セロは「ちょっと待って」と言ってきた。それからいったん自室に入って、すぐにまた廊下に出てくると、
「ルーシー、ちょっとだけ目をつぶっていてもらっていい?」
「う、うむ」
次の瞬間、ルーシーの首に何かが冷たい物がかけられた。
「もういいよ」
ルーシーが目を開けると、胸もとにはセロとお揃いのペンダントがあった。土竜ゴライアス様の加護だ。
セロの物よりは小さいが、土竜の牙がトップにあって、さらにチェーンには細かい細工が施してある。魔族領ではこのような工芸品は手に入らないから、王国で作ってもらった物に違いない。
「シュペル卿に頼んで、作ってもらっておいたんだ」
「な、何と……」
「以前、僕がヤモリたちと親し気に話しているのを羨ましそうに見ていたから、そのペンダントがあればルーシーも彼らの言葉がきちんと分かるかなと思ってさ」
「セロよ……」
ルーシーは胸もとに手を当てた。
最初は金属の冷たさがあったが、今では不思議と日のような温かさに変じていた。
「ありがとう。最高の贈り物だ」
「そこまで言われると照れるなあ。ルーシーにはいっぱい貰っていたからね。何を返そうかとずっと考えていたんだ」
次の瞬間、ルーシーは「ふ、ふふ」と微笑してしまった。
結局のところ、似た者同士なのだ。このとき、ルーシーはやっと気づいた。たとえ平行線でもいい。いつか少しでも傾けば、それはどこかで必ず交わる。
たとえ長い時間がかかっても、そんな交点をじっと待つような恋愛でもいいのではないか。急いで恋の角度を曲げる必要などないのではないか――
「そうだな。今度は妾が返そう。セロはいったい何が欲しいのだ?」
「うーん。やっぱり服が欲しいかな。人狼メイドのトリーが作ってくれるのはどうも大袈裟でさ」
「分かった。妾に任せろ」
ルーシーはそう言って、今度はシュペル・ヴァンディス侯爵に相談しようと考えた。五、六人も女を買っていたような不埒な人族だと思っていたが、ペンダントの件で株が急上昇した格好だ。
何にしても、二人は確かな想いも、情熱的な言葉も、交えることはまだ出来なかったかもしれないが、少なくともプレゼントによって何かしらを伝えることは出来た。こうして二人は二人なりの歩幅で、いつかたしかに交わるときを目指して、ゆっくりと進み出したのだった。