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短編集

続・影武者と坊ちゃまの偏愛

作者:

名前の通り、短編「影武者と坊ちゃまの偏愛」の続編です。

(参考  https://ncode.syosetu.com/n8958ha/)

「追手がかかりました」


 前置きもなく告げられたリオの言葉に、ハナはぎくりと身を強張らせた。爪弾かれていたユティウスの琴の音も止まる。


「……そう。早いね」

 再び琴の音が響き出し、いつもの穏やかな声であるじは言う。


「……ユティウス様。私は、ここで、おいとまします」

 意を決して放ったハナの言葉に、もう一度、琴の音が止まった。


「困ったな。君は、15年探して手に入れた、僕の創造の女神(ミューズ)なのに」

 ユティウスの声はいつも柔らかく優しい。ふいに涙がこぼれそうになり、ハナは口を引き結ぶ。


「偽装が見破られたのは、私のせいです。『影の一族』の生き死には、おさに管理されている。追手がかかったということは、私が死んでいないことを、多分彼らは知っています。このままお供すれば、私の一族の細く強靭な糸が、いつまでもお二人について回るでしょう。……ここは、女性が顔を隠すことが求められる地。私が生きていくには、最適な場所です。舞妓か、側女か、奉公口を探して、ここで、生きていきます。お二人は、どうか、新しい場所に向かってください」


 リオは無言だったが、その無表情の裏に微かに透けて見える安堵の色が、自分にはうれしいのか悲しいのか、ハナは判じきれないでいた。




 砂漠の夜空というのは、どうしてこんなにも美しいのだろう。

 ハナが思わずそう口にしたとき、湿度が低いからだ、と、リオは笑いもせずに教えてくれた。

 見上げた視界いっぱいに光の粒が爛爛と輝き、恐ろしいほどだ。上下左右の感覚もなくなり、どこまでも深い虚空に落ちてゆくような錯覚に襲われ、ハナは軽く身震いする。


「夜の砂漠を歩くときは、星は大きな、助けになる」


 寄りかかっていたリオの胸から、背中を通して声が響く。とたんにハナは安心する。

 明日から、このぬくもりも、穏やかな声も、過去のものになる。キリキリと胸の奥がきしむ音がする。


「あれが、北極星だ。いつでも北を示す、道しるべの星」


 背後から、リオの右手が夜空を指した。でも、あまりの数の星の輝きに、ハナにはその星が見分けられない。

 このまま、このひとと一緒に居られればいいのに。そうすれば、私は北極星を知らなくても、迷わずにいられる。叶うはずもないことを、思わず胸の内でつぶやく。

 リオの目には、今この星空がどんな風に映っているのか、のぞいてみたいとハナは思う。




 アイシャ姐さんの指先はいつも繊細に整っている。決して伸ばされたりすることのない爪は桜色で、ライラの髪を優しく梳いては結い上げる。その手は器用に琵琶を操り、墨だけで美しい風景を描く。

 でもライラの一番好きな指先は、やっぱり姐さんが舞を舞っているときの、別の生き物のような美しさだ。遠い東の国から来たものだという柔らかな動きと、楼閣随一と言われるつるぎさばきが相まった舞を初めて見た時、ライラは息もつけなかった。

 ライラが買われてきた楼閣、「砂月楼」は、砂漠を行きかう行商人たちの宿場町にある。東と西の世界の間にある広大な砂漠を細く横切る道を、点々とつないでいるオアシスの町の一つだ。砂月楼はこの町随一の楼閣で、遊興、食事、宿泊の需要を満たす役割を一手に担っている。

 砂漠の森でも最奥に近いこの地には、東からも西からも、様々な人間が集まって来る。ライラは、西の国の貧しい辺境の遊牧の民だった。アイシャ姐さんは、誰にも目元と手元しか見せることはないのだけれど、その切れ長の美しい黒い瞳は、東の果ての国のものであるらしい。

 とはいえ、アイシャ姐さんの生来の目を見たことがある人間は、そう多くはない。その目は、客の好みによって変幻自在に変わる。ぱっちりとした大きな目から、吊り上がった鋭い目まで。瞳の色も様々だ。口の堅いおかみさんは何も言いはしないけれど、その技が簡単に身につくものでないことは、ライラにも分かる。そして、閨の相手までが生業となるこの楼閣の踊り子で、アイシャ姐さんは、客に一切触れさせず遊興の相手だけをすることが許されている、希少な存在だった。

 ――あの妓には、恐ろしい客がついているらしいよ。何でも、東の金鉱王だとか。不気味なことに、あたしらは一度も、その客の姿を見たことがないんだけどね。この楼に支払われているお手当からは、本当は人前に出ずに寝転がっていてもいい身分らしいけれど、本人がしたいと言ってお座敷をつとめているという話だよ。

 飯炊き婆から得々と聞かされた噂話は、そう的外れでもなさそうだとライラは思う。舞の稽古と断って閉め切った部屋で、日がな一日鍛錬をしているのも、毎晩、お座敷の終わった後、自分の部屋から必ず夜空を見上げているのも、ライラだけが知っている姐さんの姿だ。

 ――もう二度と、使わないものだと分かっていても、錆びさせることができないのよ。

 懐剣を研ぎながら、独り言のようにつぶやく姐さんの無心の横顔は、何よりもきれいだとライラは思う。




 相手が絶命したのを確認し、岩陰に足を投げ出して座り込み、彼は息を吐いた。

 刃には、自分の知らない種の毒が仕込まれていたらしい。一息ごとに、自分の命がこぼれだしていくのが分かる。手足の先は、すでに感覚を失っている。

 これが死か。

 幾度となく彼の前を通り過ぎて行った死と、それは同じであるはずだった。予期せぬ異様なほどの胸の内の静けさに、彼の唇には苦い笑みが浮かぶ。

 自分に、これほど穏やかな死が訪れようとは。

 空を振り仰ぐ。視界はすでに狭まり、煌々と輝いているはずの満月の光すら見えない。

 彼の記憶の中には、いくつかの鮮烈に美しい夜空がある。初めて人を殺めた夜、凍てつく枯野で見上げた星空。北の国で、異国の船の上から眺めた、光の屏風がたなびく空。転がった裏路地で、あるじとなるひとの頭上で輝いていた三日月。しかし、今それらのすべての夜空を圧倒する美しさで彼の脳裏を支配しているのは、あの屋敷の縁側で少女と二人で見上げた、おぼろ月だった。

 死ぬ前に見るべき美しいものを見られた。まあ、自分にしては上出来だな。

 彼の唇の笑みが甘いものに変わる。


「リオ。まだ、あちらに行くには少し早いよ」


 残されていた聴覚に、ふいに滑り込んできた聞きなじんだ声に、リオの唇が微かに開いた。

 無数の手が彼の身体のあちこちに触れはじめるのを感じる。そのまま、彼の意識は暗転した。



 再び目を開いたとき、のぞき込む覚えのある瞳にリオは眉をしかめた。


「土蜘蛛の……」

「私が呼んで、来てもらった」

 ユティウスの声が足元から響く。柔らかな琴の音が続いている。


「リオ。僕たちは今ふたりきりなのに、隠し事は、無しだろう」

 主の声には、寂しそうな、それでいて背筋に寒気が走るような響きがあった。


「君は隅っこの方でひっそりと死んで行きたいみたいだけど、そんなことはもう、許されないよ。私たちは、君を黙って見送ったりはしない」

「……それはもう、この顔を見た時に、分かりましたよ」


 リオはため息をつく。

 のぞき込んでいた『土蜘蛛』――西の国の隠密集団の首領が目を細めてにたりと笑う。


「旦那からのご用命、しかと承った。リオ、あんたも、腹をくくりな」

「……リオ。ほんの少し前まで、私は自由に琴が弾ければ、それで良かった。醜いものを見聞きするくらいなら、一生座敷牢に閉じ込められようと、首を落とされようと構わないと思っていた。でも、気が変わったよ」


 琴の音がやんだ。


「私も、君も、ハナの手も、もうどうしようもないくらい汚れている。でも、もし君やハナに子供が生まれるとしたら、その子には、明るい道を歩かせてやりたい」


 唐突に、何を言い出すのか、この人は。リオの眉が寄る。


「リオ。オステオを、もう守ってやらなくて良い。殺して構わないよ。あの国は乱れるだろう。私は祟り神と呼ばれるだろうね」

 ユティウスの口から出る、聞いたこともない愉快そうな、それでいて酷薄な声を、信じられない思いでリオは聞いていた。


「あの国を、盗ってやることにするよ。そして、君とハナを、お日様の下に引き出してあげる」


 じゃらん。かき鳴らされた琴の音の力強さに、知らずリオの肩が震える。





 かしゃり。

 その音が、アイシャ姐さんの手元から出たものであることに気づくまで数瞬かかった。姐さんが、つるぎを取り落とした。3年間で、初めてだ。あり得ない事態にライラは思わず固まる。

「……」

 そのまま優雅に立ち上がり、足の指につるぎを挟み込み持ち上げる。まるで初めから予定した振り付けであるかのように乱れなく舞い続ける姿にほっとする。

 姐さんの前には、今日の客が座っている。3人でひと晩、ひと座敷借り切るという豪胆な客だ。ずんぐりとした左の男は、料理には手を付けず、手酌でがばりがばりと酒を飲み続けている。真ん中に座ったやせぎすの男は、対照的に酒は飲まず、ちまりちまりと料理に手を付ける。そして、途中で座敷に入って来た、右に座ったすらりとした男は、まだ水以外には手を付けず舞を眺めている。

 端的に言って、変わった人たち。座敷を盛り上げる役割のうたいの婆たちも、給仕と艶っぽい接待を担当する妓たちも、やりにくそうに3人の様子を見守っている。

 剣の舞が終わったところで、左の男から、遊芸を終える指示が出た。舞妓や謡の婆は座敷を辞し、部屋には給仕の芸妓のみが残される。


「……ライラ。部屋を用意しておいて」


 自室に戻ったアイシャ姐さんの言葉にライラは目を見張る。今夜は本当に、驚くことばかりだ。あのお客の誰かを、姐さんがお相手するのだろうか。

 姐さんは、そのまま無造作にベールをはずすと髪を解き、どんどん化粧を落としていく。背後にライラがいることに、まるで意識が及んでいない様子だ。初めて見る姐さんの美しい髪や、鏡越しの美しい素顔にライラは見とれる。

 ふと姐さんが振り返り、思わずというそぶりで苦笑する。


「いやだ、私ったら。ライラ、おかしなものを見せてごめんなさいね」


 すぐに絹のベールをまとい、そして姐さんは、両手で顔を覆った。


「ライラ、少し、一人にして」


 いったい何が起こっているのだろう。うつむいて顔を覆ったまま、はっきり涙声の姐さんの姿に、ライラは呆然とする。




 アイシャ姐さんの部屋に案内を頼まれたのは、右に座ったすらりとした男だった。なんだかぼんやりして、気味が悪い人。先に立って歩きながら、ライラは胸に独り言ちる。背後からは、全く、足音がしない。


「ご案内しました」


 すらりと扉を開ける。中に座っているアイシャ姐さんからは、殺気と見まがう緊張した気配が立ち昇っている。


「ライラ、ありがとう、下がってくれる」


 なんだかわからないが、とても恐ろしい。姐さんの目を見ることができず、ライラは目を伏せ急いで部屋を出る。入れ違いに部屋に入る男をちらりと見上げると、双眸に凄みをたたえた美丈夫がそこにいる。先ほどまでとはえらい違いだ。すれ違いざまに微笑まれ、ライラの胸はどきりとする。



「あなたの要件は、分かっているわ」


 砂月楼の舞妓アイシャとなっているハナは、部屋に入って来たかつての盟友に低い声で語りかけた。

 もう二度と、会うことはないだろう。3年前の別れの時、ハナにははっきりとそう分かった。次に会うことがあるとすれば、それは。

 まっすぐハナに歩み寄りかけたリオの足が止まり、二人は対峙する。


「私とあなたとでは、勝負にならないのも分かっているわ。……あなたにいただいた命だから、お返しします。抵抗はしないわ」

「……」


 リオの灰色の瞳にかすかに浮かぶ色が読み切れず、ハナは目を細める。


「君は私を、何だと思っているのかな……」


 はっきりと困惑した声色は、ハナの混乱を誘った。

 ふう、と灰色の美丈夫からため息が漏れる。


「……お迎えに上がりました、ハナ・ハントさん」


 懐かしい、柔らかい声。彼の唇に微笑がのぼるのを、驚きをもってハナは眺める。


「どうして。もう私は、あなたの邪魔になっても役に立ちはしないのに」

「……それはどうかな」


 リオの口調ははっきりと苦い。


「もしかして、俺の独り相撲なのか。3年間、ここに来ることだけを目標に、あの人の無茶振りに耐え続けてきたのに……」


 灰色の瞳の奥に、強い光が瞬いた。

 いきなり手首をつかまれ、ハナは息を飲み肩をすくめる。


「ハナ。俺はあの日から、毎晩あの星を見上げてきた。今いる場所は違っても、同じ星を見ている、それが俺の救いだった」


 何も言えず、ハナは灰色の瞳の奥の宇宙を見つめる。


「君は、違うのか。北極星は、君の道しるべにはならなかったのか」


 灰色の瞳に瞬く光。アナは震える唇でつぶやく。


「でも、あなたは、あの方のものでしょう……?」


 灰色の瞳にいらだちが浮かぶ。


「確かに、俺の忠誠は、あの人のものだ。あの時君を手放したのも、俺には一人で二人を守る技量がなかったからだ。だが、俺の心は、君のものだ。そんなこと、分かっていただろう……?」


 いえ、全く。

 ほとんど恐慌状態に陥りながら、ハナは事態を理解しようと努める。徐々に、胸を甘い痺れが満たしていく。

 何てことだ。リオのつぶやき。確かに、あの時は、二度と会えないだろうと思ってはいたが。


「……あの人は、この3年で自分の国を、取り戻したよ」


 リオの胸に抱きこまれ、直接響く懐かしい声に陶然としながら、ハナはかすかに頷く。それから、言葉の意味を反芻し、驚いて男を見上げた。


「半月後に、戴冠式だ。俺たちは王宮に住まうことになる。何もいらないから、このまま一緒に帰ってくれ」


 この3年で、30年分ぐらいの仕事をした。戴冠式が終わったら、俺はとにかく休暇をもらう。恨みがましい声で言い切ると、リオは腕の中のハナを見つめる。


「一緒に、世界を回ろう。……仕事以外で。君とみる世界は、きっと、美しい……」


 優しく口づけられ、ハナはゆっくりと目を閉じる。



 砂漠の夜空には、今日も沈まない星、北極星が瞬いている。


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