第一章 partー4
その夜。
部屋から一歩も出ることもなく、自分の心境を嘆いて悶々と過ごしていた。
「弘美ちゃん、ご飯ですよ」
そう言えば朝も昼も食べていなかったよ。
家族は買い物ついでに食べてきたようだけど……。
おいおい、母さん。一人のけものはないよー。
とは言ってもこの姿になってしまって、家族と一緒というのも……。
うーん……、困ったなあ。
家族に顔を合わせる勇気がないよお。
「弘美ちゃん、どうしたの? 入るわよ」
いつまでも降りてこないので、母が心配して見にきたようだ。
「朝も昼も食べてないでしょ。それとも身体の具合でも悪いの?」
あのなあ……。食べてないのを知っていながら、そのまま放っておくなよ。
それでも母親か?
「で、でも。みんなに恥ずかしいから……」
「そんなこと気にしてたの? 大丈夫よ、みんなにはそのところはちゃんと言い含めてあるから」
「でも……」
「いつまでも、そんな事言ってられないでしょ。同じ屋根の下に暮らしているんだもの。一度顔合わせしてしまえば気にしなくなるわよ。何事もね。でしょ?」
「う、うん」
確かにそうなんだけどさあ……。
でも、その最初のふんぎりってものが、なかなか踏み出せないものだよね。
「じゃあ、下へ行きましょうね」
抱かれるように誘われて、下へ降りていく弘美。
母に付き添われて食堂に降りてくる弘美。
家族一同の視線が集中する。
その中に父さんの顔があった。
「おお! 弘美か、待っていたぞ」
って、何で父さんがいるんだよ。
会社が忙しくて、いつもなら十時以降でないと帰ってこない。当然夕食を家族と一緒に囲むことなんてなかったのに……。
なんで今日に限っているんだよ。
さては母さんが連絡して、早く帰ってくるように仕向けた?
「うーん。こうして見ると若い頃の母さんそっくりだな」
「でしょ? でなきゃ、この娘が弘美ちゃんだなんて信じられなかったですよ」
「弘美、お父さんはこれから早く帰るからな。今夜からは毎晩楽しい夕食になりそうだ」
どうしてそうなるんだよ。
そりゃあ、母さんと同じで娘が欲しかったらしいが、会社を早引けして大丈夫なのか?
「俺達も同感だ。はじめて見たけど、ほんとうに可愛いよ。友人達に鼻が高いよ」
「うんうん。めっちゃかあいいよ。その衣装とっても似合っているよ」
衣装って……母さんのもろ好みって感じの、着せ替え人形風のことか?
「ああ、ほんとだ。妹じゃなかったら、恋人にしたいよ」
上の三人の兄さん達は、もうべた可愛がりという口調と表情だった。
しかし武司兄さんだけは、なぜかぶすっとしている。
住み慣れた部屋を追い出されたから当然だろうね。
「弘美ちゃん、何か一言」
「そうそう、可愛い声で何か喋ってよ」
あ、あのなあ……。
じっと弘美を見つめている家族達。
うーん……、どうしようかな。って困るほどのこともないか。
「ひ、弘美です。女の子になっちゃったけど……今後ともよろしく」
とぺこりとお辞儀をする。
他にどうせいっちゅうんじゃ。
「おうおう。こちらこそね。弘美ちゃん」
「うん。弘美ちゃんは、今日から可愛い妹だよ」
「仲良くしようね、弘美ちゃん」
ちょっと、妹に対して言っている言葉じゃないよ。
それにちゃんつけだし……。
相変わらず武司兄さんは押し黙っている。
「はい、弘美ちゃん。座って、座って」
わざわざ椅子を引いて、着席を促す母。
もうどうにでも思ってくれよ。
それより何より、お腹が空いてぺこぺこなんだ。
んでもって、目の前の料理はというと。
お赤飯に、鯛のお頭つき。そして寿司の盛り合わせだよ。
なあ……勘違いしていないかい?
「女の子として生まれ変わった弘美の誕生日を祝って乾杯しましょう」
「今日は無礼講だぞ。未成年なんか関係ない」
ちょ、ちょっと。
「おう!」
「乾杯!」
あ、あのなあ……。
「いいぞお。乾杯だあー! うぃっ……」
あれ……。
今の……聞いたことのない声?
「おい。今の声、誰だ?」
「女の声だったな。母さんでも弘美ちゃんの声でもない」
家族も気づいたようだ。
と、今まで気づかなかったが、母さんの後ろの酒瓶を積んだワゴンにかぶり付きで酒を飲んでいる人がいる。
それも飛び切りの絶世の美女だ。
どっかで見たような……美女?
美女だと!?
「あああああああー! お、おまえは!」
何もかも思い出した!
「ヴィーナス!」
そうだ、そうだよ。
女の子にした張本人だ!
どうしてくれるんだよ。元の身体を返してくれ。
と言おうとする前に、
「それは無理ですよ。元の身体とはいうけど、あなたは女の子として生まれるはずだったのだから。つまり今の身体が本来の形なんだから」
先に答えられてしまった。
え? まだ言ってないのに……。
「あなたの心の中はすべてお見通しです」
言いながら酒を飲む。おいしそうに。
「ねえ、この方どなた? 弘美ちゃんのお知り合い?」
母さんがそっと耳打ちするように尋ねる。
「知り合いも何も、俺……(と言ったら母の目が怒っている)……。あ、あたしをこんな身体にした張本人だよ。愛と美の女神ヴィーナスとか言ってやがった」
「まあ! それは素敵!」
瞳を爛々と輝かせてヴィーナスを見つめなおしている。
あのなあ……。
「これはこれは、女神様。よくぞ弘美を女の子にしてくださいました。どうぞどうぞ、まあ一献どうぞ」
席を譲りながら酒を薦める父。
「うむ」
威厳をもってその席に座りながら酌を受けるヴィーナス。
「当然の事をしたまでです。手違いで生まれてしまった者を元の姿に戻すのは女神の責任なのです」
「それはそれは、さぞやご苦労なさったのでしょう。ささ、どうぞどうぞ」
母までが女神を祭り上げている。
「今の今まで、やり残したことを手掛けていたので遅くなりました」
「やり残したこと?」
「その前にもう一杯」
「あ、すみません。どうぞ」
「突然に女の子の姿になってしまっては、ご近所付き合いや学校生活に支障が出ますよね?」
「はい、確かにそうです。実はどうしようかと悩んでいたんです。この娘が女の子になったのはいいんですが、男の子として暮らしていましたから……」
「そう。女神としては、ただ元の姿に戻すだけでなく、女の子として正しく生活できるようにまで面倒みなくては手落ちというものでしょう」
「そうでしょ、そうでしょう。ささ、どうぞ」
今度は信一郎兄さんが酌をしている。
「それで具体的に何をなさっておられたのですか?」
「彼女に関わるすべての人間の記憶を、彼女が女の子というものにすり替えたのです」
「ということはつまり……。何の支障もなく、この娘が女の子として、ご近所付き合いや学校生活できるということですね?」
「その通りです」
「まあ、それはそれは、どうもお疲れさまです。どうぞ、どんどんお飲みください」