婚約破棄されましたら
婚約破棄ものの王道が大好きで、書いてみました。悪役令嬢を、と思った筈が悪役令嬢要素ほぼゼロになりました。
ふわっふわな設定です。
「オティリエ・ヴェロニカ・タルレガ。貴女と婚約破棄させてもらう」
突然の事にわたくしは呆然とした。
今宵はわたくしのデビュタントとなる夜会で、かつ正式な婚約発表をする場になる筈であった。
婚約者である王太子殿下にエスコートされ大広間に入場した──と思ったらいきなり腕を掴まれて広間中央に乱暴に連れて行かれた。そして、これまた乱暴に腕を振り払われた。
そして、今声高らかに婚約破棄をサプライズされたところだ。
何が何だか分からないが、これ以上呆然としているのは由緒正しいタルレガ侯爵家令嬢として許されないと、わたくしはふわりと微笑んだ。
「畏まりました、殿下」
凛とした声でそれだけを言うと、わたくしは淑女の礼をした。
「……本当に美しい」
「黙って、アントワネット」
少し離れた所でほぅと感嘆する友をわたくしは小さな声で諌めた。
わたくしが信頼している友─アントワネット・ザンベッリは、わたくしの婚約者であるこの国の王太子に会う度にこうやって感嘆する。まさかわたくしが婚約破棄を言い渡されているこの時すら殿下にうつつを抜かすとは思わなかったけれど。
「それでは、わたくしは失礼致します」
そう微笑み、わたくしは踵を返し、先ほど来たばかりの大広間を後にした。
「あいつに理由を問わなくて良いの?」
「一応彼は王子なのよ。誰かに聞かれたら不敬罪よ」
何故か一緒に夜会会場を出て来てしまったアントワネットを見遣ると、彼女はひどく嬉しそうに笑っていた。
彼女─アントワネットは煌めく豊かな金髪、長い睫毛に縁取られる深い青色の瞳のアーモンド型の双眸を持つ、一言で言えば美人。女性としては長身で骨格もしっかりしていて、細身だが引き締まった体躯は青年のように見えなくもない。因みに胸は控えめで、唯一わたくしが勝てるところだ。中性的でどこか不思議な色気がある。それが美少女アントワネットだ。
「平気。私は絶対に不敬罪に問われないから」
「その自信はどこから来るのかしら。分けてもらいたいわ」
「それで。いいの?」
「………」
わたくしはアントワネットから目を逸らして、馬車の外を眺めた。街灯がどんどん流れていく様が綺麗だ。
「殿下はとある令嬢に恋をして──不貞を。きっとその方と生きるのだわ」
「……そう、」
思いの外、友の反応は素っ気なかった。
わたくしが思わずアントワネットを振り返ると、彼女は悲しそうな、それでいて不愉快そうな表情をしていた。──何故、貴女がそんな顔をするの。
「ところで、」
重たい空気から逃れたくて、わたくしは話題をすり替える事にした。
「何故貴女の馬車に乗せられたのかしら?」
そして、これは本当に不思議だった事でもある。
わたくしはタルレガ家の馬車で帰ろうと思っていたのだが、何故か迎えはなく。代わりにアントワネットの馬車が待っていて、アントワネットにぎゅうぎゅうとその馬車に押し込まれたのだ。
「私の邸に行くからね」
「それは困るわ。わたくしはお父様とこの出来事を報告して今後について相談しなければならないのだから」
「それは大丈夫」
「…え?」
アントワネットはにこりと瞳を細めて笑った。優美な笑みの筈なのに、何故か凄みがあってわたくしは早々に反抗を諦めた。
それを察してか、アントワネットはわたくしの隣りに移動してきた。そして、わたくしの手をきゅっと握った。
「随分と冷たい」
アントワネットのわたくしより大きくて骨張った手は温かかった。
気付いた時には、わたくしは寝心地の良さげな寝台に横たわっていた──いえ、押し倒されていた。
「アントワネット。これは何の冗談なの?」
困惑しながらも、わたくしを見下ろす友に訊ねる。わたくしの身体をその長い手脚で閉じ込めて、彼女は口角をきゅっと持ち上げて嗤った。
「冗談ではないよ、可愛いオティリエ」
うっとりとそう言うアントワネットはわたくしの銀髪を一房掬うと口付けた。何故だかものすごい色気を放っているのだけれど、残念ながらわたくしは彼女と同じく女だ。彼女の趣味にとやかく言うつもりはないけれど、性別だけは主張させて頂きたい。だって、アントワネットはいつも殿下にうっとりしていたのに。
「アントワネット。わたくしは貴女と同じ女よ。貴女が攻めるのが好きだとか、そういう趣味にとやかく言うつもりはないの。でも、貴女の好みは殿下のような美青年でしょう?」
そう言って、わたくしはアントワネットを睨みつけた。しかし、そんなわたくしを見て彼女は益々笑みを深めるばかりだ。
「ふぅん。私の性癖に何も言わないの?それ、最高」
アントワネットはアーモンド型の目を細めて艷やかに笑った。そして「でもね、」と続ける。
「私は殿下なんて全く趣味じゃないよ?」
「だって、いつも殿下を見れば美しいって称賛していたじゃない」
「あぁ、オティリエはずっと勘違いしていたよね。私が称賛していたのは、オティリエだよ」
アントワネットはそう言ってぺろりと舌なめずりをした。
もはや令嬢の作法すら消えて、夜の獣になりかけている。
わたくしは流石に身の危険を感じ始めた。兎に角、いったん寝台から逃げ出さなきゃ──
「何処にも行かせない」
ひゃ、と何とも情けない声が出てしまって、わたくしは両手で口許を押さえた。
突然アントワネットが艶のある低音で耳元で囁くものだから、驚いてしまった。女性でもこんな低い声が出るなんて知らなかった。
「ヤーヴィスがオティリエを手放したんだから。私が今度こそ手に入れる」
「な、何の話…?」
「知ってる?ヤーヴィス殿下の弟のことを」
アントワネットは突然何を言い出すのか。わたくしの疑問に気付いた彼女はくすりと笑った。
「アントン殿下のこと…?遊学中としか存じ上げないわ」
「そうらしいね……でも違うとしたら?」
「…え?」
アントワネットに押し倒されているこの状況と、アントン殿下の遊学の話がどう結び付くのか分からない。分からない筈なのに、嫌な落ち着きの無さが全身に広がっていく。
「彼はこの国に居るんだよ」
アントワネットは柔らかい声でそう言い、愛おしそうにわたくしの銀髪を撫でた。わたくしは彼女の色気だだ漏れの仕草と見えない話の意図に、心臓が早鐘を打ち過ぎて痛くなっていた。
「そ、そう。それが…?」
「彼はね。確かに一度は遊学に出た。でもどうしても諦めきれなくて、帰国した」
「諦め…?」
アントワネットの話には肝心な言葉が悉く抜けていて、いまいち要領を得ない。わたくしが訝しむと、彼女はくすりと笑う。
「彼はずっと傍で見守っていたんだよ」
「何を見守っていたの?」
「でも、ある時裏切りに気付いた」
「………」
「だから、見守るのはやめる事にした」
「だから、何を…?」
アントワネットは突然笑みを引っ込めて、真剣な眼差しを私に向けた。
「オティリエ、貴女を見守るのはやめる」
何かを言う事を憚れるような空気に飲み込まれそうになるのにどうにか抗う。
「それは──」
しかし、「どういう意味なの?」と最後まで言う事は出来なかった。言葉が喉の奥に引っ込んでしまったのだ。何故って──
アントワネットは艷やかに笑うと金髪に手を伸ばして、そしてその豊かな金髪を剥ぎ取ったからだ。
黄金色の長髪を剥ぎ取ると、漆黒の髪がさらりと現れた。それは、王家を示す色の髪。王族の血筋だと示す漆黒。
「アナタは………誰なの?」
そう囁いたわたくしの声は震えていた。
アントワネットだと信じて今夜接していた人が、そうではなかった。
では、この人は誰なの?
「今宵アントワネットを騙っていたアナタは誰なの?」
弱々しいだろうけど、キッと元アントワネットを睨みつけた。すると彼女はきょとんとした後に、「だから君は可愛いんだよね」と蕩ける笑みを見せた。
「今夜だけじゃないよ」
ぽいっと鬘を投げ捨てた彼女はこともなげに言う。
「オティリエ、君の前に初めて現れた時からずっと私はアントワネットであって、アントワネットではなかった」
「つまり、ずっと素性を偽っていたと…」
「そう」
元アントワネットは慈しむようにそっとわたくしの頬を撫でる。ぞわっと鳥肌が立ったけれど、不快ではない。
「それで、アナタは誰なの?」
答えは分かりきっている筈なのに、わたくしは訊ねた。
「私は、アントン・ディーデリック・べリザム。この国の第2王子だ」
わたくしは瞬きも忘れて、元アントワネットもとい第2王子アントン殿下を見つめた。
そうか、アントワネットとはアントンの女性名ではないか。
それにしても。
「殿下がドレスを身に纏う姿はなかなか拝見出来ませんわね」
不敬だとは思うけれど、これまで築いてきた関係からそう笑ってしまった。殿下は私の発言に一瞬きょとんとしたけれど、困ったように眉根を下げた。
「だから、貴女は可愛いんだ」
「え?」
殿下はわたくしの両頬に手を添えた。
わたくしを見つめるその瞳は真剣な、でも熱を孕んでいる。その瞳に囚われては動けなかった。わたくしは瞬きもせず、琥珀色の瞳で殿下を見つめた。そうすれば、殿下とわたくしの視線が絡み合う。
殿下はそのまま優しい、触れるだけのキスをした。
「ずっとこの時を待っていた。もう止められる自信が無い」
「………」
互いの吐息がかかるほどの距離で、殿下は囁いた。ずっと気付かなかったくせに、この人が男性なのだと実感する。
と、そこではたと気付き、わたくしは慌てる。
「で、殿下。婚前であるのにこれ以上は…!」
「既成事実を作ってしまえば結婚一択になる」
「そ、それは…如何なものかと」
「私は王子だ。誰にも文句は言わせない」
そうにっこりと笑う殿下を見て黒い笑みとはこういうものだろうか、と他人事のように思った。
「オティリエ。ずっと貴女を好きだった」
慈しむような表情をして優しい声音でそう言う殿下に、わたくしはこくんと頷く。それを見て、殿下は蕩ける笑みを見せた。
「愛しいオティリエ。どうか私の妻になってくれ」
その後、わたくしは正式に王太子殿下との婚約を解消して、改めてアントン殿下と婚約をした。
王太子殿下は男爵令嬢との不貞が明るみになるとそれが陛下の逆鱗に触れたらしく、王位継承権は剥奪され臣籍降下となった。男爵令嬢は厳格な修道院に送られたらしい。
第1王子が臣籍降下したので、アントン殿下が立太子した。元々アントンの方が聡明で臣下には好かれていたようで、誰も否を唱える者は無かった。
「殿下、」
「愛しいオティリエ」
わたくし達は今日盛大に挙式を上げ、民にも祝福を受けた。
「今宵から貴女をめちゃくちゃ愛し倒すから、覚悟していてね」
アントン殿下は柔和に笑って穏やかでない事を言う。
「……覚悟しております」
「………っ!」
わたくしが上目遣いでそう答えると、アントン殿下は瞠目した後にぎゅうっと抱き締めてきた。あの、まだ民衆の前です。臣下の前です。
「だから貴女は可愛いんだ」
そう言って、アントンは破顔したのだった。
ドレスを纏ったイケメンに迫られるってどんな気持ちになるんでしょう。少なくともオティリエはドン引きしなかったようです。