自己知覚と克己心と破局する恋愛
堅田信明は、しばし逡巡すると、いくぶん緊張した面持ちでその人気のない専攻室のドアを開け、開けるなり「たのもー!」と声を上げた。
「あんたは、道場破りかなんかか!?」
と、その専攻室の中にいた人物は、それにツッコミを入れる。
堅田はがたいのいい大男で、大学の4年生。後少しで卒業を控えていた。専攻室の中にいた人物は黒宮咲という名の女生徒で、やはり大学の4年だった。
黒宮は専攻室でノートパソコンに向っていた。レポートか何かを書いているのかもしれない。
堅田は専攻室に一歩足を踏み入れるなり固まった。黒宮はそんな彼を軽く観察すると、可笑しそうにくすりと笑う。
「それで、何の用?」
黒宮がそう言うと、堅田は言い難そうにしながら口を開く。
「……いや、実は、お前に言っておかなくちゃならない事があってな」
がたいのいい肉体でモジモジしているものだから、なんだか気持ち悪い。
「ふーん」と、それを横目に見ながら黒宮咲は言う。
「大宮とうまくいったんだ」
それを聞くと、堅田は大きな声を上げる。
「なんで知っているんだ!?」
それに黒宮は「知らないわよ。あんたの顔に書いたあっただけ」と淡々と返す。彼女はとても察しが良いのだ。
「その通りだ。決死の覚悟で告白したら、オーケーを出してくれた」
実は黒宮咲は、堅田信明に鈍い彼でも分かるくらいはっきりと恋愛対象としてアプローチをしていた。
だから彼は大宮という女生徒と付き合い始めることを彼女に報告に来ていたのだった。この手のことに慣れていない彼は、それで緊張をしていたのである。
彼が告白した大宮まどかは大らかな母性的なタイプで、生活態度がだらしない堅田のことを、在学中に何かと世話を焼いていた。一方、黒宮も美人で接し易くはあったが、そのようなタイプではなく、どれだけ彼がだらしない生活をしていようが放っておく。
その点が、彼の選択を分けたのかもしれない。
「わざわざ報告に来るなんて、あんたも律儀ねぇ」
と、その堅田の言葉を聞いて黒宮は返す。少しもショックを受けているように見えない。むしろ余裕に見えた。
“まさか、今までの態度は単にからかわれていただけだったのか?”
それを見て堅田はそう思ったのだが、その直後に彼女はこんな事を言うのだった。
「まぁ、別に良いわ。一年くらいなら、私は余裕で待つから。もっとも、半年…… いえ、下手すれば三ヵ月くらいで終わるかもしれないけれど」
「何の話だ?」と、それに堅田。
「だって、フラれるでしょう? あなた」
「本当に、何の話だぁ!」
随分と不吉な予言をしてくれる。
それに、にまにまとした少し悪戯っぽい顔で黒宮は返す。
「ほら、あんたは女を見る目がないからさ」
やや、ムッとした表情で堅田は返す。
「大宮が悪い女だってのか?」
「違うわ。あの子はいい子。とってもね。いい子過ぎるくらい。
でも、あっちにも問題はあるな。あっちは見る目がないのじゃなくて、自己知覚能力が鈍いのだと思うけど」
「自己知覚能力? なんだそりゃ?」
それを聞いて「ふむ」と黒宮は言う。
「人間の脳って痛覚がないって知ってた? だから、もし針で刺されたりしても痛くないんだって」
「それがどうした?」
「これは一例に過ぎないけど、つまりね、脳には自分の状態を直接把握する能力がないのよ。
だから、自分の状態を知る為に、他者を観察するのと似たような方法を使う。頭の中で自分を想像して、疑似的に客観視するようなもんだと思ってくれていいわ。そして、その一つが自己知覚能力。
ところが、この自己知覚能力は完ぺきじゃないのよね。その所為で、“吊り橋効果”みたいな現象も起きちゃうの」
「吊り橋効果……って、ああ、あれか。あの吊り橋の上の恐怖のドキドキと恋愛感情のドキドキを勘違いして、男女の仲が進むとかっていうやつだよな」
「そ。その有名なやつ」
それから堅田は少し考えるとこう言った。
「つまり、なんだ。お前は、大宮は勘違いで俺と付き合い始める事にしたって言いたいのか?」
「ちょっと違うわねぇ」
そうふざけた感じで答えた黒宮は、堅田の反応を面白そうに眺めていた。そんな黒宮に堅田は必死に訴える。
「断っておくけどな! 大宮と付き合えるようになったからには、いつ結婚しても良いように、心を入れ替えて、俺は今までのだらしない生活を改めるぞ!
そして、バリバリ働いて、あいつを絶対に仕合せにしてやるんだ!」
「うわー あんた、よくそんな恥ずかしい台詞を口にできるわね。昔のドラマかなんかにありそうよ」
「真面目に答えろ!」
黒宮は肩を竦めると言った。
「分かってるわよ。あんたがそういう奴だって事はね。
でも、だからこそ、あんたはフラれるって私は言っているの」
「なんでだ?! あ、お前、俺の事を信用していないな! 俺は、絶対に、これからはちゃんとやるぞ!」
「うん。だから、分かっているってば。がんばりなさいな。そして、人間として一回りくらいぱっぱと成長しちゃいなさいな」
その黒宮の態度を堅田は不思議に思っていた。どうも嘘は言っていないようだが、それでもなんだか、からかわれているような気がしてならない。
「俺は本当にちゃんとやるんだからな!」
ただ、その正体が彼には分からなかったものだから、結局はそう似たような言葉を繰り返すことしかできなかったのだけど。
……そして、それから三ヵ月とちょっとが過ぎた。
「フラれたぁぁ!」
黒宮咲の予言は的中し、見事に堅田はフラれてしまったのだった。
「どうして、こうなるって分かったんだ?」
黒宮の目の前にいる彼は、目に薄っすらと涙を浮かべていた。軽く食事の取れるレストラン。パーティションが深めで二人きりで話せる。
足を組みながら、そんな彼に向って彼女は言う。
「その前に。フラれた理由は?」
「他に好きな奴ができたらしい」
「どんな相手?」
「年下の、いかにも情けない感じの。なんで、あんな奴に…… 俺の方がよっぽど確りしているのに!」
それを聞くと黒宮は数度頷いた。
「やっぱり。予想通りねー」
「何が予想通りなんだ?」
「あんたは確りしちゃったから、フラれたのよ」
それを聞いて「は?」という疑問符を顔全体で表現しているかのような表情を堅田は浮かべた。
「なんで、確りしたらフラれるんだよ!?」
それに黒宮は「ふふん」と少し笑うとこう言った。
「大宮まどかは、母性的なタイプでしょう? 誰かの世話をするのが好きな。そして、多少なりとも共依存の傾向があった。
共依存っていうのは、誰かに依存されることに自分の存在意義を見出すような状態を言うわ。
そしてだから、彼女はあなたに惹かれていたのよ。だらしなくて、生活の面倒を見てあげなくちゃいけなったあなたに。ま、彼女自身は、それを自覚していなかったみたいだけどね」
それを聞いて堅田は目を丸くした。
「要するに、俺は確りすればするほど、あいつのタイプじゃなくなっていっていたって話か?」
「その通り」と、それに可笑しそうに黒宮は返す。
「何で教えてくれなかったんだ!」
そう訴える堅田に黒宮は冷淡に返した。
「あら? それを教えたら、あなたは情けないままの自分でいられた? あなたの性格じゃそれは無理でしょう? それでもやっぱり彼女を仕合せにする為に、確りしようって思うのじゃないの?」
「グッ……」と、堅田はそれに言葉を詰まらせる。
「大宮さんは情けないあなたを支えたい。あなたはそんな彼女に為に確りしたい。お互いを想えば想うほど、破局に向って進んでしまう……
あなた達は、そんな一昔前のロックンロールみたいなカップルだったのよ!」
そんな彼に向って、彼女はポーズをキメ、ビシッと指をさしてそう言い放つ。
「いずれ破局するのなら、敢えて教えないでさっさと終わらせちゃった方が良いでしょう? あなた達の人生の為にも……」
「お前の人生の為だろうが!」
「私の人生の為で“も”よ。本当にあなた達の為だとも思っていたわ」
その一呼吸の後に、いつもとは違うやや切なげな表情を見せると彼女はこう続けた。
「私はね、あなたが他の女と付き合っていても、それでもあなたを一途に想って待ち続けたのよ?
少しくらいは、健気だって思ってくれても良いのじゃない?」
その不意打ちに、堅田は少しドキリとする。が、直ぐにそれを振り払うとこう返した。
「待っているだけで勝手に男が成長してくれて、ラッキー!
くらいにしか思ってないだろ、お前は!」
「あ~ら、バレちゃた?」と、それにおどけた感じで黒宮。堅田はやや呆れてしまう。
「……でも、私くらい気楽に話せる女の方が、きっと付き合い易いと思うわよ」
ただ、その後でそう言った彼女の言葉に、彼はちょっと“その通りかもしれない”と、そう思ってしまったのだった。