橙黒のエビルガールズ(4)
正統派の激しい攻防。静かな一瞬の刺し合い。不可思議な組み合わせ。
前例のないバラエティ豊かなステージは、観客の耳目を楽しませた。
なかでも、会場中でもっとも注目を集めているのは。
ズガンッッッッッッッッッ!!!!!!
JDSではまずお目にかかることのない、二振りの大怪獣ソードの激突。うら若き乙女が鳴らしていいとは思えない、瀬里奈のクレイモアと恋子の偃月刀がぶつかる暴力的な衝突音。体育館が震えているような錯覚に、まんまと陥る。
まるでライブ会場のような振動を生み出すステージ右端。クイーン対決。
そこには前情報いらずの刺激的なエンターテインメントが展開していた。
「ぐっ……恋子、私が言うのもなんだが」
「フー、なにぃ?」
「さすがに女の子らしくなさすぎる」
「そっちだって!」
殺す気はないけど死んだらごめんね! そう言わんばかりの幅広の光刃が頭上から降ってくる。正面から受けるのはまずいと、大剣の刀身を斜め向きにして構え、斬撃のインパクトをそらそうとするも――体の危険を感じて一歩引く。
ドガンッッッッッッッッッ!!!!!!
怪獣激突の衝撃で、瀬里奈の長髪が宙に浮く。
対して、恋子のアシンメトリーな前髪は整髪料なのかガチっと動かず。後ろ髪をほどよくまとめているハーフアップも、乱れて暴れることを許さない。
頭上からの真っ二つを狙った偃月刀は、クレイモアの剣先に向けて滑り落ちて、勢いのままに地面を叩いた。ともすれば反撃したいが、瀬里奈もギリギリだ。
反らしたはずの衝撃が、上半身から両足の爪先まで駆けめぐる。受け流すだけでは押し切られると、体ごと避けたおかげで負担は減ったが、大剣を振りかぶれるような反撃姿勢は維持できていない。まずは姿勢の回復が先だった。
瀬里奈のスタイルはクレイモアのリーチを生かし、大型ソードの暴力で中距離戦を制すること。流星館女学院の新星、大太刀使いの成瀬葉月にも似ているが、系統はさらにパワーに寄っている。たとえ手数の多い乱打戦になろうと、ソードの重量が足を引っ張れども、得意の鍔迫り合いでしのぐ自信もある。
泣きどころの軽量型ソード相手だって、クレイモアを前方で横薙ぎしていれば、そうそう近づける選手などいない。肉弾戦をさせなければいいだけなのだ。それをかいくぐってくる丘町ゆゆのような者は例外として、今から対策すればいい。
その反面――こうなる予想もしていたが、想像力はあまりに甘かった。
霞瀬里奈は強い。それこそ全国クラスの選手だ。ただし相性が悪すぎた。
猪戸恋子は丘町ゆゆに言わせれば、きっと正真正銘のハイパーゴリラ女。
「っつ……恋子」
「フー、フー、なにぃ?」
「ドレスソードと出会って、その剣をショウブさんに選んでもらってよかったな」
「そーお?」
「恋子にはソードよりぬいぐるみと思っていたが、その偃月刀はお似合いすぎる」
「うん、ありがとー」
「当面、彼氏はできそうにないがな」
「なっ! もーっ!!!」
会話の切れ目、ステージに深緑の銀銭花が舞った。
瀬里奈の仕掛ける、力と速度がこれでもかと乗ったクレイモアの痛打には、大多数の女子高生を正面からへし折れるような勢いがあった。さすがの恋子も軽々とは受け止められず、「ふぬぅ!」と不細工なうめきを漏らす。
けれども、偃月刀の光刃は引くことなく、攻撃を押しとどめていた。
荒々しくも鮮烈な瀬里奈の斬撃は、全体的に力みすぎな恋子のそれと比べても、技の完成度は段違い。クレイモアが三発打って、偃月刀が精々一発を返す。手数の面でも大きく上回っている。満場一致で「霞瀬里奈の勝ち」に見える。
しかし、当人の所感は異なる。恋子のたった一発が返ってくるたび――。
ガッッッギンッッッッッッ!!!!!!
(痛いっ! 手が痛いっ! こんなにも痛いっ!)
胸元の黒リボンも、深緑の外套も、耳元のハートも怯えるように揺れる。
彼女の手前、もうすこしカッコいい姿を見せつけようと思っていたが。
恋子のやつめ……さすがに馬鹿力にもほどがあるだろっ!
恋子は、軽口を叩いてくる私の姿から余裕さを感じ取っているのだろうが、正直なところ……恥ずべきほどに小賢しい小細工。
これは痛恨の逃げだ。メグよりも卑怯な時間稼ぎ。剣士の風上にも置けない。
二人でJDSで戦う。試合前はここ数年で一番ワクワクしていたものだが、今では楽しそうな恋子を騙しつつ、体の痛みが引く時間を稼いでいる。
優しい彼女は、この場にはしゃいでいるかのように普段よりも口数の多い私が、まさかこんな命乞いめいた意図を隠し持っているとは思いもよらないだろう。自分だって、こんなにも無様な自分がいたことを知らない。
絶望を味わったのは、ラウンド1の挨拶。これまでのお礼だとばかりにスカして、大上段から自信満々に繰り出したクレイモアに、息をあわせてくれた恋子の偃月刀が打ちつけられたとき――ミシッと。体のいろんな部位が悲鳴をあげた。
気絶するかと思った。痛みが全身を駆けめぐった。恋子の剛腕さに引いた。剣龍の代名詞でもある大上段が、初手でバキンと心折られた。私の胸中に住む剣士の矜持ちゃんは泣きながら心の岩戸に引きこもった。今すぐ引っ張り出しても、たぶん両腕で痛々しく松葉杖でもついていそうだ。それほどの衝撃だった。
ラウンド1。「大撃ぃ!」と恥ずかしそうに口にした、必殺技であろう全力片手振りはクレイモアの防御を押しきり、私の頭からお腹まで斬り裂いた。
ラウンド2。剣道の技を生かし、まずは胴を斬り、防がれたら小手を打ち、それも止められたところで面を決めるというコンビネーションで一本を取り返した。
けれど、私が試合前に想像していたようなアドバンテージはもはやない。
恋子の実力、彼女の偃月刀が磨かれているのも要因のひとつと言えるが。
単純に「クレイモアの霞瀬里奈」は、恋子の土俵に踏み入りすぎていた。
おそらく、ソードの重量はどちらも限界値。戦い方も広義で言えば同じ。
だからと、持ち前の技巧で差をつけようにも。
グワッッッキンッッッッッッ!!!!!!
痛い! 痛い! 痛い! なんだこれは! 想像以上の恋子のパワーが私の体に痛みを与え、余裕を崩し、正統な技も、不本意な小細工すらも打ち壊す。
対面の楽しくて仕方なさそうな笑顔が、「ここが瀬里奈のステージだよぉ!」とまったくの予想外だった力勝負に引きずり込んでくる。
相手が相手なら骨をも砕く自信があったクレイモアは、恋子には軽々しくではないにせよ、普通に受け止められた。こちらが三回、四回と大剣を振り回して息を整えたくなるタイミングで、処刑の一打も必ず返ってくる。よく鍛えている。
恋子のドレスソードでのステージは、何度も見返した。今年だけの話ではない。あの偃月刀の斬撃は何千回と想像してきたし、ときどき恋子が可愛らしく愚痴る「リッコちゃんったらひどいんだよぉ! 処刑人とか大撃腕とかー!」も踏まえて“こんなものだろう”と当たりをつけていた。それが甘かった。甘々すぎた。
この子は間違いなく、処刑人の大撃腕部長だ。
間近で見ると恐怖する。実際に受けると痛感する。
あの偃月刀をのさばらせていたら、そのうち心の弱い選手が殺されかねない。
力任せになりすぎだと説教でもしてやろうと思っていた恋子のスタイルは、今は私を殺す猛毒になっていた。フィジカルの出来は同世代の女子、ないし剣道やドレスソードの選手たちと比べても優位性を感じていたが、恋子の前では貧弱も貧弱。彼女と同じ土俵に踏み入ってしまったから分かる。もはや絶望的な筋力差。
この大剣が竹刀ばりに小さければ、もっと簡単に攻略できた。
恋子の前では、剣道が強い、強い剣士の霞瀬里奈でいたかった……が。
「……人生はじめてだ」
「んー?」
「緑銀のクレイモアは、私にとって、ドレスソードの憧れの象徴だった」
「中学生のころから言ってるよねぇ」
「だが、君のせいではじめて後悔している」
「えっ、なんでぇ!?」
「もっと小さくしておけば、とな」
かくなるうえは。ソードを握る両手に、今一度の勇気を宿す。
「よくも憧れをぶち壊してくれたな、恋子。その力づくに敬意を示そう」
「むー、全然うれしくないんだけどぉ!」
「私からもお返しだ――この腕、千切れるまで持っていけっ!!!」
「どーんとこいっ!!!」
やると決めたら大上段。怯えたままの剣士の矜持ちゃんも、気勢で心の岩戸から無理やり引っ張り出す。恋子は気づいていないだろうが、真正面勝負はとっくに負かされている。だからもう守るな。守りの剣は、無名・霞瀬里奈には不要。
荒ぶる剣こそ我が道。ここまで連れてきてくれた彼女に、ここまでたどり着いた自力に、そしてともに戦う最愛なる仲間のために、敬意の剣を示す!
大上段から半円を描き、クレイモアを叩きつける。それは偃月刀の長大な光刃の腹に受け止められた。ソードが軋むような音。恋子のほうではない。私のほうだ。厳しさよりも笑顔が濃い、恋子の快活な表情が忌々しい。
彼女には高度な防御術はないが、大打撃を受け止めても難なく押し返す膂力がある。クレイモアの攻撃にも体を逃がさず、真正面から光刃で受けている。そのくせ余裕そうなのだ。なんて腹立たしい。だけど今は攻め込む。攻め込め、私!
続けて二撃、三撃。肩口を目がけて角度を変える。対角線攻撃にはできず、軌道も読まれた。家の庭で三年。己の剣の不格好さが嫌というほど分かる。
数回斬撃するたびにできる隙に、恋子からの大砲が飛んでくる。受ける。痛い。信じられないくらい痛い。リッコちゃんはよくこれ相手に毎日練習しているものだ。この場に彼女がいなければ、恋子の私刑を疑いかねない残虐さだ。
「いい加減……押し潰れろっ!!! 恋子っ!!!」
「やなこったぁ!!!」
逆袈裟に殴りつけたクレイモア。相手を叩き潰すつもりの一打でも、恋子は崩れない。返ってくる光刃。彼女の偃月刀が、私の体に遅れてついてきた深緑のマントの一部を薙ぐ。斬られた部分の表面に、焦げついたような線が残る。
不格好な傷跡。恋子たちの橙色の学校指定ジャージとは違い、ドレスを形作る人体表面外皮の光学被膜との関わりが薄い部位は、こうして破損する。マントを傷つけられたライムライトは苦戦の証。そういう試合は、大体負けている。
いっそ、壊れて消えてくれるほうがよかった。そうすれば私は、こんなにも、親友に力負けしています。そう全身で言い訳しながら、彼女を称えられたのに。
それでも――乱打。猛打。激打。技もなくして激しく打ちつける。
両腕の感覚は、もはや痺れているのか、いないのかも分からない。
だが攻勢の手は緩めない。気持ちはまだ、いつだって大上段。
緑銀を宿すクレイモアの光刃と、ほのかに白く輝く偃月刀の光刃とが、怪獣同士の一大決戦のようにぶつかり合う。ここだけ切り取れば、メリーの母に共感してしかるべきだろう。なんて野蛮な競技なのだ。暴力沙汰も甚だしい。
けれど……この舞台で賭けているのは生命でも身体でもない。
乙女の矜持だ。勝ちたいと、てっぺんを目指す、淑女の矜持だけだ!
【ピロッ――Damage Fatal.】
【ピロッ――Damage Slash.】
隣にいる翼がスラッシュと引き換えに、ソラちゃんを斬った。
【ピロッ――Damage Fatal.】
その先にいるメリーが、ハナちゃんの守りを突き砕いた。
戦況が一変する気配。翼が恋子に、メリーがリッコちゃんに向かおうとする。
それと同時に、処刑人から葬送の一撃が繰り出される。
「超撃ぃぃぃ!!!」
打ったあとを顧みない、トンカチで岩を砕くような、恋子の両手全力振り。
「――ッッッ!!!」
私はそれを受けることを恐れ、怯え、心の底で恋子に敗北し、頭を垂れた。
バキンッッッッッッッッッ!!!!!!
――――そして逃げた。
恋子の勇敢な必殺は、私に当たることなく地面だけを叩いた。
彼女の全力を、正面で受け止めることから逃げて、かわした。
返す刀は、大切な友情すらも受け止めなかった卑怯者の一閃。
クレイモアの光刃は偃月刀に遮られることなく、体に届いた。
時代が時代なら、私は女子道不覚悟で打ち首に処されるだろう。
【ピロッ――Damage Fatal.】
【Queen Defeat……Winner「ライムライト」End of Stage.】
黒い空間が晴れ、万雷の拍手が轟く。
けれども私の耳には、愛しき友の呼吸音しか届かない。
「ぜぇはぁ、ぜぇはぁ」
「はーはー……すまない」
「ぜぇぜぇ、んー、どーして」
「君の全力を受け止めずに、逃げた」
「んーん、やっぱ瀬里奈は強いねぇ」
「君の前ではもう……ただの卑怯者だ」
「んーん。強いよ。私がずっと隣に立ってみたかった、剣士の瀬里奈だったよ」
最後の回避と攻撃は、すべてとっさに出てしまった。思考の介在しない、人としての根源的な恐怖からの逃げと、私の血肉を作っている勝つための大上段。
彼女にとってはどうであれ、私が思う、この場に立っている霞瀬里奈なるふざけた女は、親友をコケにし、足蹴にした卑怯者でしかない。
「そのイヤリング。懐かしい」
「昔の私がな。君をまねたんだ」
「へー、そうなんだぁ」
「恥ずかしいんだ。ニヤニヤしないでくれ」
まったく。こういうところは苦手だ。
「私もさー。みんなに頼んで、この試合だけクイーンにしてもらったんだぁ」
「ああ」
「自分の気持ち優先のダメダメ部長だったけど、瀬里奈や翼と戦ってみたくて」
「君は強かった。私よりもずっと」
「えへへー。みんなには……リッコちゃんには、ちょっと申し訳ないかもだけど」
彼女の視線につられ、ステージを見回した。
挟撃に向かってきた翼が、近くに立っている。
「翼ぁ! すごかったよー! やっぱ氷空ちゃんも倒しちゃうんだねぇ」
「まあね、って言いたいけどギリギリもギリギリよ。あの子すごく強いね」
「でしょー」
「恋子も。ボケ女が興醒めな勝ちを拾ったけどさ。本当にがんばったんだね」
「うん」
「ほんと、がんばり続けてくれてありがと。私にまた、ドレソやらせてくれた」
「それ、瀬里奈に言ったらぁ?」
「冗談でしょ。絶対イヤ」
そう言うと翼は、トコトコとひとりでメイクオーバーエリアに帰っていきそうな天河のもとに駆け寄り、相手の肩を叩いて振り向かせた。
「あなたも、天河氷空さん。楽しかった。ありがとね」
「はぁ」
「あなたたちが強くいてくれたから、恋子もここまで来れました」
「はい」
「私が言うことじゃないんだけどね。本当に、友人として感謝しています」
「……はい、負けさせちゃいましたが」
「剣は時の運よ。縁もできたし、また会いましょう。次は剣道でもいいけど?」
「それはご勘弁を」
少女たちの触れ合いに触発されて……というわけでもなく、さらにステージ奥ではメリーシャが日影相手に、一方的に見える感じではしゃいでいる。
「ハナちゃんさん! お相手ありがとうございました!」
「は、はい。こちらこそ……」
「フェンシング以外にも、ハナちゃんさんのようなすごい刺突があるんですね!」
「は、はあ」
「私ぜひぜひぜひ! また一緒に戦ったりしてみたりしたいです!」
「え、ええ」
「あっ、じゃあ連絡先を猪戸さん経由で送りますね! 絶対お返事くださいね!」
「はい……えええ?」
さらにステージの最奥では、なんとも言えない巡流が。
「なにこの空気。私も小枝ちゃんになんか言ったほうがいい?」
「まあ、流れ的には?」
「……わたし、できれば当面は小枝ちゃんとやりたくないっす」
「……もうちょっと感激的な一言なかったんですか」
「あっ、朝女さんのドレスさー。さすがにジャージってのは」
「それは言われなくても分かってますから!」
そうこうしていると、ステージ退場のアナウンスが流れてきた。
通常は流れてこないこれは「おまえら早く出ろ」の催促である。
「あちゃ。みんなー、いこっかー」
「恋子」
「んー、なに」
「ありがとう。それと、すまない」
「謝っちゃダメ。瀬里奈は正々堂々と勝ったんだ」
「私のせいで、君の、君たちの未来を、踏みにじった」
静かに流れた、勝者がこぼす涙を、敗者が優しく拭う。
「いいよ。私だけは許す。瀬里奈は勝って。これまでのぶんも先に進んで」
「……厳しいな。それでは負けられない」
「うん、負けちゃうかもだけど、負けないでほしい」
「……私は君に、返せるものがなにもない」
「べつにいいよ、そんなの。瀬里奈の願いが通じただけだよ」
「それでも君に、恩を返したい」
「んー、じゃあ、ずっと友だちでいなくちゃだ」
「なに?」
「これからも近くにいれば、そのうち思いつくよ」
濡れた指先をドレスで拭うことなく、彼女は背中を見せた。
ひとつの試合とともにひとつの青春が終わったところで、JDSは止まらない。
「カスミーン。次の相手決まったっぽいー」
「黒須か?」
「そ。残念無念」
「そうか」
地方大会の第二試合。JDSの運命の女神さまの悪戯、もしくは構造的欠陥と呼ばれることの多い、地区大会で激突済みのチームの再激突が決まったらしい。
とくにライムライトと黒須第一は過去、地区でぶつかり、地方でぶつかり、さらに全国でもぶつかりと、常勝校同士ゆえの再戦が続く年もあった。二年前まではそうなることすら期待されていた東京A代表の風物詩でもある。
そして今年の悪戯は、ここで負けたほうが全国に行けないという土壇場だ。
「すこし出てくる」
「ん、猪戸さんのとこー?」
「お手洗いだ」
次の試合がはじまるのは、約一時間後。控え室を出る前にあたりを見回す。まだ会場にいるかは分からないが、できれば今日はもう恋子と会うべきではない。
とはいえ、人という生物はいくつかのどうしようもない生理現象に見舞われると、社会的動物として適切にお手を洗わなければならないわけで。
室内用の中履きが、廊下をキュッキュッと噛む音。嫌いじゃない感覚。私は大きな共同通路の端側をとおるようにして、会場二階のお手洗いに向かった。
ここの設備は剣道場などとは違い、広くて清潔で、とても好ましいのだ。
「げっ」
お手洗いのあとのこと。きれいなパウダールームに汚い一声が響いた。
「セリナちゃんさあ、今度からあっちのトイレ使ってくんない?」
「丘町さんがライムライトの顧問であるのなら、一考しよう」
「うざいんだけど、そーゆーの。ザコのクセして」
「反論のしようもないな」
わざとらしく肩をすくめる。
先の地区大会で敗北を喫した、黒須第一のクイーン。丘町ゆゆ。
JDSは伝統的に控え室の配慮がなされていないので、こういうことも稀にある。
「でもやったー。先月ので一対一、今日で勝ち越せるなんて。ゆゆちゃん超お得」
「私も願ったり叶ったりだ」
「は? あんた、ゆゆちゃんのこと舐めてんの?」
可愛らしい小悪魔の顔に、可愛くない青筋が走る。
「あんたたちってさ、練習すらしてないだってね? 舐めてる舐めてる思ってたけど、そこまで舐め腐ってるとは思わなかったわ。朝女なんか邪悪女もいないし、今年もクソザコだったんだろうけどさ、センスだけじゃそれが限界でしょ。練習でやってないことが実戦でできるわけないじゃん。ほんとぶち殺したーい」
地区大会の準決勝。ライムライトと黒須第一の対面は、巡流が大幅不利、メリーシャが互角、翼が有利寄りの互角、私は不利という相性が見て取れた。
実際、私は丘町さんに二本ストレートでクイーン撃破されてしまっている。
「勝つさ」
「あん?」
だが、次はどうかな。
「丘町さんが嫌う理由はよく分かる。私だって、剣道を努力のない才能だけで駆け上がる者を見れば、嫌悪しないでいられるかは分からない。けれど、努力はしてきた。舞台が違えど、毎日毎日、君にだって負けない努力を積み重ねてきた」
「練習自慢? うざいっての。行き先が間違ってるって話なんだよ」
「そうかもしれない。けれど小事だ。次は押しとおる」
「あん???」
「練習など、所詮は人生のただ一部。ならば、人生そのものでぶつかれば、すなわち練習など些細な一部。努力と行き先で人を測るなど、些事に等しい」
「うーんと、ゆゆちゃん、きれそー。セリナちゃん、おまえマジでふざけんな? 片手間でドレソやってる、ドレソが好きでもないあんたたちなんかに――」
「好きさ。君にも、恋子にも、仲間にも。ほかの誰にも理解できないほどにな」
戦ったところで敗色濃厚? それがどうした。勝つと決めたら大上段。
負ける寸前まで大上段。負けたあとでも大上段。次に勝つまで大上段。
私の心の芯をぽっきり折った者など、今までひとりくらいしかいない。
「ゆゆ」
「なによ……っていきなりなによ!」
すまないが、君の可愛らしい細腕では、私は折れてはやらない。
「ゆゆ、君は強い。確かに強い」
「おまえよりも強いんですけど?」
「そうだとしよう。けれど次は私が勝つ」
「ザコのくせにイキがんな!」
「この世界で私ほど、ゆゆのドレスソードを愛している人間はいない」
「あん?……あ―――ん!?!?!?」
「一年生のあの日から私にとってのドレスソードは……ゆゆ。君ひとりだ。これまでずっと君ひとり、君だけしかいなかった。ゆゆはこれまで、いろんな人と戦い、培い、成長してきたのだろう。しかし私はゆゆだけを思い浮かべ、ゆゆだけを倒し、ゆゆだけに倒され、二年もの間をあの日の君との記憶とすごしてきた。私ほどゆゆのドレスソードと真剣に対峙し、ゆゆと歩んできた選手はまずいない」
「ゆゆゆゆゆゆゆゆうっせえんだよ! 呼び捨てやめろ! キメエんだよ!」
「そしてゆゆがどれだけ成長しようと、あの日から根っこは変わっていなかった」
「話聞けよボケ女!」
「次は勝つ。すまないが、また私を追いかけにこい」
「あー、あー、殺す。もういい殺す。セリナおまえ、ぜぇったいころーーーす!」
霞瀬里奈は存外、負けず嫌い。
【Dress Sword Start-up……「ライムライト」vs「黒須第一」……First Look.】
【Lady to Ready……Round 1…………On Stage.】
――私はこの先、恋子には一生、頭が上がらないのだろう。
この煌びやかなステージに引き上げてくれた彼女の手を、私は残酷な形で突き放した。恋子の高校生活の三年間の集大成を、私の手で打ち破った。
それなのに彼女は、まだ私を応援してくれて、勝ってほしいと言ってくれる。
なにか返せるものがあるのだろうか? 女子高生の青春時代を奪った代償など、一体どれほどの価値であれば見合うのか。私には想像もつかない。
かといって、会っているときに私が申し訳なさそうな顔を見せると、恋子はぷくーっと膨れて「そんなこといいからぁ!」と情けない私をたしなめるのだ。
彼女とは離れられない。離れたくもない。私の数少ない、大切な親友だ。
だから私は一生のうちに、あの子に大きな恩返しをしたいと思う。
それがなんなのかは、生まれたばかりの気持ちにはまだ見つけられないが。
私がドレスソードとともに歩む限り、この気持ちは消えることはない。
もしもの将来。私が在りし日のドレスソードにかける情熱なんてものも忘れて、違う道を歩き、長い時間が経ち、いろいろな経験をし、恋人や家庭ができ、青春すぎて朱夏となり、私が素知らぬ大人の顔で「思えば、そんなこともあったな」と、大人になった恋子に向かって言えるような者になっていれば、今のこの気持ちはとっくに薄れていて、霞瀬里奈は猪戸恋子と対等な友人に戻れていて、私も彼女もなんら負い目なく、恩返しもしないまま笑い話にできるのかもしれない。
そうなっていれば、今日のことは青春の宝箱にしまっている思い出話にできる。ドレスソードさえ捨てて、過去の思い出にすれば、私は彼女から解放される。
ゆえに私は、恋子には一生、頭を上げてやらないのだ。
次回「夏の終わりの挑戦剣【エピローグ】」。




