狂い咲きのマリア
「こんばんは」
少女の声と共に、季節外れの桜の花びらが零れ落ちた。視界に入った桜の花びらに、瑞貴は声が“降って来た”方向へ視線を向けた。
「狂い咲く花びらが舞う。踊る……愛しい“あの人”に気がついてもらえるように、他の木よりも一足早く」
ふわり、と。
浮かぶ満月を背にして、少女は桜の木の枝に腰掛けていた。
風に遊ばれて揺れている長い髪も、普段着にしては違和感のあるワンピースも闇に溶け込みそうな漆黒だった。
漆黒の髪とは対照的に、肌だけがある種病的なほどに白かった。同じ漆黒のはずの瞳は、けれどなぜか深紅のイメージを瑞貴に与えていた。
「それなのに、どうして難しそうな表情で歩いているの? それとも、寂しいの?」
「え……」
都会の雑音である周囲の喧騒も、光の洪水もいつの間にか消えていた。
その幻想的な雰囲気に、けれど瑞貴は違和感を覚えることもなく少女を見つめていた。
体重を感じさせないようにふわりと瑞貴の前に舞い降りてきた少女は、中学でも塾でも小柄な方の瑞貴よりも小柄で、そして華奢だった。
「好きな子に振られちゃった? それとも打ち明けられない? ……大丈夫よ、自身を持って。あなた、とてもステキよ」
花の香り―桜の葉の香りと共に瑞貴に近づいた少女は、瑞貴に微笑むと優しく頭を撫でた。
「え……あの……」
「ん?」
戸惑う瑞貴に対して、少女はあくまで穏やかだった。外見は瑞貴と同じくらいにしか見えないのにその表情は姉のような、母のような雰囲気をまとっていた。
「もしかして妹の知り合い、ですか?」
少女のまとうその不思議な雰囲気から、瑞貴はやはりどこか似たような―もっといえば得体の知れない―空気を持つ“妹”の関係者かと問いかけた。
「……妹さん?」
「茅菜……堀越茅菜、です」
瑞貴の言葉に首を傾げていた少女は“茅菜”という名前に驚いたのか、目を丸くして瑞貴を見つめた。
「……そう」
沈黙の後に零された言葉は静かだったが、その表情は今にも泣き出しそうな悲しげな表情だった。
「あの……」
「マリア、よ。私は……あなたは、知らないと思うけれど」
悲しげな、物言いたげな少女にかけようとした声を遮るかのように、少女は自らの名前を告げると同時に、言葉を零した。
本人が意図しないうちに零していたのか、首を傾げた瑞貴に慌てて手で口を覆ったマリアは、何かに気づいたかのように振り返ると、再び瑞貴に視線を向けて微笑んだ。
「呼ばれた……行かなくちゃ……また、ね?」
「瑞貴だから」
再会を約束する言葉を遠慮気味に付け足して背中を向けたマリアに、瑞貴は慌てて名乗った。
驚いたのか軽く振り返ったマリアに、今度は瑞貴が微笑んだ。
「瑞貴。堀越瑞貴」
「うん……またね、瑞貴」
ふわり、と微笑んだマリアは、そのまま幻のように掻き消えた。
瞬間、喧騒と光の洪水が戻ってきた瑞貴は、周りを見回してから桜の木を見上げた。
「今のは……ゆ、め……?」
目を瞬かせた瑞貴は、手の中に吸い込まれるように落ちてきた桜の花びらを見つめて、微かに口元に笑みを浮かべていた。