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今はまだ名前さえ

 不意に、意識が浮上することを感じた鞠或マリアは視界に入った、見慣れない天井に軽く眉根を寄せた。

 緩慢にも似た動作で首だけを軽く動かし、視線を彷徨わせて見えた風景は、シンプルを通り越して殺風景にも見えるクローゼットとベッドだけの部屋。

 カーテンの隙間から入ってくる陽の光に、起き上がろうとした鞠或は瞬間、体に走った鈍痛にきつく眉を寄せることで耐えた。

 緩やかに上半身だけを起こした鞠或は、ベッドと周辺に散らばった自身の制服を見つけてようやく何があったのかを思い出した。

「はぁ」

「おはようございます……鞠或」

 かけられていたシーツを胸元で握り締めた鞠或は、溜息に被せられながら掛けられた声に、気だるげに視線を声の方向へ向けた。

「……」

「ご機嫌伺いに来たのですが……あまりよくはなさそうですね。体調のほうはいかがですか?」

 無言で睨み付けた鞠或の視線にまるで気付かなかったように、青年はただにこやかに鞠或に微笑みかけた。

「鞠」

「あなたが、私に執着する理由がわからない」

 青年の声を遮るように呟いた鞠或は、青年の表情を見たくもないと言わんばかりに視線を逸らした。

 そんな鞠或の様子に一瞬、哀しげな表情を浮かべた青年は、鞠或に気付かれないように息を吐き出すと意識を切り替えて微笑みを浮かべた。

「あなたなんていわずに、限時キリトでも時耶トキヤでも構いませんので、名前で呼んでください」

 鞠或の疑問に対する返答とは思えないその答えに、鞠或は伏せていた視線を上げ、限時―自らを時耶と名乗った青年を睨み付けた。



 時耶が知る血赤にも似た緋色だった瞳は深紅を幾重も重ねた、黒の中に一滴、紅を落としたような色に変わっていた。その瞳が、意思の光を宿して時耶をただ睨み付けていた。

 屈服しない、征服されることを是としない、体は蹂躙されても心までは蹂躙されることはない意思を宿したその瞳に、時耶は安堵にも似た幸福感を抱いていた。





 睨み付けていた視線を無造作に外した鞠或は、時耶の存在そのものを無視して着替えるために散らばった制服に手を伸ばした。ところで、その手を時耶に掴まれた。

「何?」

 不機嫌に問いかけた鞠或の声もまるで聞こえていないかのように、時耶は至極にこやかに鞠或に微笑みかけた。

「つれない方ですね」

「?」

 どこか影を落としながら囁かれた言葉に、鞠或はその言葉が発せられた意味を掴みかねていた。

 影を落としながらなお、それでも鞠或に微笑みかける時耶を見つめた鞠或は、ただ訝しげに眉を寄せることしかできなかった。

「どれほど言葉を尽くせば、私が心からあなたを恋い慕っていると言うことを本心ととっていただけるのでしょうか」

 鞠或のことを思っているのか、力任せではない。けれど決して解けない、時耶に掴まれた手に、その言葉に、鞠或はただ硬直した。

 硬直している鞠或に気付かないはずは無いのに、時耶はそれに気付かないふりをして鞠或の耳に唇を近づけた。

「……愛しています……心の底から」

「っ」

 時耶から囁かれた言葉に、鞠或は反射的に手を振り払うと、体にシーツを巻きつけたまま時耶から距離をとった。

「あなたが愛しているのは私じゃないでしょう!?」

「……危ないっ!」

 訝しげに、そして哀しげに近付こうとする時耶から逃げるように後ずさった鞠或は、ベッドの上から落ちた。

「ひゃっ」

「お怪我はありませんか」

 ベッドを廻り、差し出された時耶の手のひらを視界に入れた鞠或は、その手を見つめた後、一瞬、泣きそうな表情を浮かべると顔を伏せた。

「……」

「どこか、怪我をしましたか?」

 心配そうな表情と見つめてくる時耶の視線を感じながら、その声をきっかけにして鞠或は差し出された手を払うとそのままの勢いで立ち上がった。

「あなたが執着しているのは鞠或わたしじゃないでしょう?」

 目じりに僅かに涙を溜めながら、鞠或は胸元のシーツを握り締めながら時耶をただ睨みつけて続けた。

「あなたが盲目的に愛しているのは、慕っているのは、王国に生きた獅子導シシドウ家の妖水アヤメであって、地球で生きる安倍アベ鞠或ではないでしょう」

 淡々と言葉を突きつけながら、誤魔化すことを一切許そうとはしない、鋭い鞠或のその視線に、時耶は目を瞠らせた。

「何故……」

「あなたの瞳は、私を通して別の“誰か”を見ている」

 悲しげに呟かれた時耶の言葉に、鞠或は冷静を通り越して冷淡にも思える声音で淡々と言葉を紡いだ。

「そんな事は――」

「あなたにとって」

 鞠或の言葉を否定しようとする時耶の声を、まるで他人のことを話しているかのような、あくまで淡々とした口調で鞠或は遮った。

「あなたにとって重要なのは、妖水の転生した魂を持つ存在であって、安部鞠或という私個人ではないでしょう?」

「……」

 疑問の形を取ってはいながら、あくまでそれを断定している鞠或の言葉。そしてその視線。なにより鞠或自身が、それ以外の言葉を受け入れようとはしていなかった。

「鞠」

「呼ばないで!」

 哀しげに口にした時耶の声が全てを紡ぐ前に、鞠或は拒絶を返した。

「あなたに……妖水の魂を求めているだけの、今のあなたに、私の名前を読んで欲しくは無いの」

 鞠或は、王国で生きていた“宝瓶遠ホウベイオン限時”ではなく、地球で生まれた“限守サキモリ時耶”をただ見据えた。

「私を帰して。今すぐに――これ以上私が……あなたの愛した“妖水”という女性の魂の欠片が、あなたを嫌う、その前に」

 どこか哀しそうに告げた鞠或は、それだけを言い放つと視線を逸らすかのように顔を伏せた。

 鞠或の言葉に、時耶は何かを告げようとして口を開きかけた。けれどそれを言葉にする前に、時耶は言葉を飲み込み、落ちていたシャツを鞠或の肩にかけた。

「地図を用意しますから、着替えたら出てきてください……私と一緒に行動するのは、あなたが嫌でしょうから」

「――」

 驚いたのか、喜んだのか、時耶の言葉に鞠或は顔を上げたが、鞠或の肩にシャツを掛けた時耶の視線は、鞠或からは外されていた。

「けれど覚えていてください。私は本当に、鞠或……あなたを愛しているのですよ」




パタン




 時耶は告げた直後に、告げられた直後に、全てを拒絶するかのように鞠或に背を向けて部屋を後にした。

「ってるよ……そんな、こと」

 一人きり、部屋に残された鞠或は掻き消えそうな声で呟いた。時耶も鞠或も気付かなかったけれど、鞠或の頬からは一筋、涙が零れ落ちた。

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