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後編

         4


 ヴィーナスは、恋をするのか?


        * * *


 その夜からというもの、家でも会社でも、ネット検索に明け暮れた。

 御子柴麗子、モデル。

 その二つのワードでは、まったくヒットしない。無関係なブログやサイトのみ。アダルトコンテンツに行き着いたこともあった。

 念のため、それらを片っ端から読んでいるが、あの御子柴さんのことは、どこにも書かれていない。小野一樹が心酔するほどの女性なのだから、モデル時代の痕跡が電脳世界のどこかに落ちていてもいいようなものだが……。

 だがしかし、次の予約を入れてある日の前夜、ついにみつけた。『御子柴れいこ』という名前で活動していたようだ。

 そのサイトは、ファッション誌のカメラマンが管理しているもののようで、自らが撮影した女性モデルの写真をアップして、その時々の思い出を書きつづっている。

 御子柴れいこの記事は、そのサイトのなかでは、だいぶ古いものだった。日付を確認すると、十年近く前になる。

 御子柴さんの現在の年齢はわからないが、見た目から判断すると、三十代半ばぐらいだろうか。しかし過去、あれだけの美人だったのだから、もっと歳をとっているかもしれない。四十を過ぎていることも考えられる。いや、その逆で、もっと若いのかも……。

 年齢一つとってみても、謎めいている。

 なによりも、彼女の存在自体がミステリアスなのだ。

 仮に、現在の年齢を三五歳としよう。

 すると、記事は二五歳前後の話ということになる。

 写真のなかの御子柴さんは、とても輝いていた。小野一樹から見せてもらった写真の彼女は、どちらかといえば清廉な静けさがあったが、このサイトの写真の彼女は笑顔がまぶしく、とても活動的だ。

 心が、どんどんと奪われていく。

『ポピー』という二十代前半をターゲットにしたファッション誌の撮影をしたときのものらしい。いまでは見かけない雑誌だから、すでに廃刊となっているのかもしれない。

 とても快活で、頭の良い女の子だと絶賛されていた。

 また仕事をしたい、と。

 だがそれはかなわず、このカメラマンと御子柴さんとの関わりは、それっきりになってしまったようだ。

 雑誌の出版された年と月号をメモった。

 すでに、いてもたってもいられなくなっていた。



 翌日、残業を断って会社を定時で終えると、むかしの雑誌を販売している古本屋に立ち寄った。昨夜のうちに、その店のことも調べてあった。

 品揃えはアイドル誌が中心のようだが、はたしてファッション誌もあるのだろうか……。

「あった!」

 思わず声に出してしまった。

 迷わずに、レジへ向かった。

 価格は、二四八〇円だった。五七〇円というもとの定価を考えると、高いのか、安いのか……。

 ほかの雑誌には、万を超えているものもあるようなので、プレミアはそれほどついていない。

 近くの喫茶店に入り、さっそく雑誌を開いた。

 御子柴れいこをさがす。

 あった。

 六ページに渡って、彼女の特集がされていた。

 当時のことを知らないから、十年前のものとは思えないほど普通に見ていられた。

 いまこのモデルが世に出ていたら、まちがいなく虜になっていただろう。

 どうして、やめてしまったのだ。

 小野一樹の話だと、ある日突然、モデルをやめたと……。

 もったいない。現在の御子柴さんの年齢だと、どちらにしろ引退しているのかもしれない。が、素直に惜しいと思えた。

 それに……あの御子柴さんの変わりようは、とても不自然だ。年をとって衰えたのでも、食べすぎで太ったのともちがう。

 まるで、わざと化粧っけを無くし、わざと太り、わざと女性としての魅力を消してしまったような……。

 考えすぎだろうか?

 いけない。これから彼女に会わなくてはならないのだ。

 このままでは、この胸のモヤモヤをぶつけてしまうだろう。

 彼女は、正直に教えてくれるだろうか?

 なぜ、いまのように変わってしまったのか──を。


        * * *


 美しいことは、罪なのか……。

 美しさを捨てたら、罪を免れるのか……。

 ヴィーナスは、罪なのか?




         5


 ヴィーナスは、よみがえらない。


        * * *


 緊張する。

 眼の前には、御子柴さん。

 いまでは幻のモデルと化した絶世の美女だった人……。

 なぜ、変わった?

 変わってしまったのだ。

「どうしました?」

「い、いえ……」

 御子柴さんの声は、冷めていた。

 ジロジロと顔を見ていたから気分を害してしまったのだろうか。

「せ、先週は、どうもすみませんでした」

「べつに気にしていませんので」

 やはり、感情が乾いてる。

 あなたとは所詮、仕事上での関係だけであり、わかりあうつもりなど到底ない、とでも言いたげだ。

「どうです? 考えてくれましたか? 二階堂さんとのこと」

 二階堂さん……二階堂弥生さん。

 こういっては非常に失礼だが、ここのところ、彼女のことなどすっかり忘れていた。

 頭のなかは、御子柴さんのことでいっぱいだった。

 あの日本を代表する二枚目俳優、小野一樹を夢中にする女。

 この人のことをもっと知りたい……。

「あ、あの……」

「はい?」

「むかし、モデルだったんですよね?」

 決意を固めて、そう切り出した。

「……それが?」

 ますます、御子柴さんの瞳が冷たくなったような。

「い、いえ……べ、べつに……」

 みっともなく、しどろもどろになってしまった。

「彼に聞いたの?」

「は、はい」

「むかしのわたしを見た?」

「はい、写真を」

「そう」

 どこか残念そうになったのは、気のせいだろうか?

「あ、あの……どうして、変わって──」

 そのさきが、そうしても続かなかった。

 ──どうして変わってしまったんですか?

 御子柴さんが、自発的に外見を変化させたと決めつけている。本当に、そうだろうか? 歳をとれば、どんな美人でも老化する。太りもするだろう。自然に、醜く(たいへん失礼だが)なったのかもしれない。

 いや、やはり……。

 御子柴さんの現在の容姿をまのあたりにしてしまうと、わざとそうなったとしか……。

「どうして、こうなったか?」

 御子柴さんのほうから言ってくれた。

「……そうです」

「その答えを聞いたところで、あなたには理解できないと思いますよ」

「どうしてですか?」

 しかし御子柴さんはそれ以上、このことについては口を開いてくれなかった。

 唇から出るのは、二階堂さんのことだけ。

 あたりまえか。それが仕事なのだから。

「もう一回、会ってみませんか? あちらは、このご縁には、かなり乗り気なんです」

「は、はあ……」

「何度も言うようですけど、あれほどの美人と結婚できるかもしれないチャンスなんですよ」

 それが、チャンスと表現できるものならば……。

 あっちの批判をできないほど自分の戦績も散々なものだが、それでも結婚を四回も失敗しているよりは、いくぶんマシなはずだ。

「美しく生まれた人間の苦悩もわかってください」

 御子柴さんは、前回と同じセリフを口にした。

 このあいだは、これで喧嘩になったのだ。

 だが、いまは……御子柴さんの過去を知ったいまでは、言い争いになることはない。

 きっと、美しく生まれた苦悩を御子柴さんもよく知っているはずだ。

「完璧を求められる。下品なこともできないし、つねに上品でいなくてはならない。庶民的なものが好きでも驚かれる」

 肩の凝る生き方だな……そう感じた。

 御子柴さんも、それがイヤになったのだろうか?

「わたしはべつに、厄介者同士をくっつけようと考えているわけではありません。あなたたちが、お似合いのカップルになれると信じているからです」

 その自信は、どこからくるのだろう……。

 その思いが伝わったのか、御子柴さんは続けて言った。

「わたし、優秀な結婚相談員ですから」



 次の日曜日に、同じレストランでセッティングされた。

 二階堂さんの離婚歴には問題がある。しかし、それを抜きにすれば、とても良い縁談であるのかもしれない。

 容姿を重視すれば、このうえないほど好条件だ。

 本音を言えば、外見も大事だと思う。

 中身と外見を天秤にかけた場合、自分はどちらに比重をおくだろう?

 中身が7で、容姿が3、だろうか。

 ちがうな……。

 五分五分。

 それもちがう。

 4、6。

 いや……。

 3、7かもしれない。

 そう考えが行き着いたとき、なんて自分は軽い……底の浅い人間なのだろう、そう思った。

 結局は、見た目か。

 逆の立場だったら、外見ではなく、内面を評価してほしい。そういうものだ。なんて自分勝手で、女性をバカにしている考えなのだろう。

 二階堂さんに会うことが、ためらわれた。

 木曜、金曜。

 そして、土曜日。

 その日が近づくにつれ、登校拒否児のように憂鬱になっていく。

 そんなとき、ある人物から連絡があった。

 小野一樹だ。

 超有名人から、まるで親友であるかのように電話がくる。なんだか、現実味を欠いていた。

『如月さん? 協力してほしいんだ』

 小野一樹は開口一番、そう言った。

「協力?」

『おれ、彼女にプロポーズする』

 なんと返していいのか、わからなかった。

『いつも、はぐらかされてるけど……今回は勝負をかける!』

「ど、どういう……?」

『テレビカメラを入れる!』

「え!?」

『なあ、彼女をそういう場所におびき出せないか?』

「おびき出すって……」

 そんな、罠をかけるみたいなこと……。

『頼むよ! 如月さんだって、結婚を考えてるんだろ? だから相談所に通ってるんだろ!?』

「そ、そうですけど……」

『だったら、おれの気持ち、わかってくれるだろ!?』

 真剣なのだ。

 彼は、真剣に御子柴さんと結ばれたいと願っているのだ。

 ……断ることはできなかった。

「ど、どう協力すればいいんですか?」

『おれが誘っても彼女はのってこない。彼女が必ずやってくる……そうだな、レストランとか、そういうところはないかな?』

「レストランなら明日、御子柴さんはやって来ます」

『そうなのか!?』

「……女性と会うことになってまして」

『そうか、彼女の仕切りなんだね? 担当の彼女も、やって来る』

 しかし、さすがに時間がないだろう。テレビカメラを入れるということは、なにかの番組でやるつもりなのだろうから。

『場所を教えてくれ』

「え? でも……大丈夫なんですか?」

『レストランには、すぐに許可をとる。局のほうも、どうにかできる』

 おれは小野一樹なんだぜ──彼は、そうつけたした。

 電話を切ったあと、大変なことをしてしまったのではないか……そんな後悔の念に襲われた。

 明日、どういうことになるのだろうか?

 まったく想像すらできなかった。


        * * *


 ヴィーナスは、だれかと結ばれるのか?

 いや、神はだれにもなびかない。

 ヴィーナスは、人ではないのだから。




         6


 ヴィーナスは、幸せなのか?


        * * *


 生きた心地がしなかった。

 このまえと同じレストラン、同じ席に座っている。向かい合うように、二階堂さん。左手に御子柴さん。

 二階堂さんのことは頭になく、脳裏を支配しているのは、御子柴さんのことだけだった。正確に言えば、これから御子柴さんにプロポーズするという小野一樹のこと。

 レストランの外で、彼とは打ち合わせをすませてある。とにかく御子柴さんと小野一樹を会わせなければならない。

 このあと御子柴さんは、前回と同じように席をはずすはずである。それをなんとか、くい止めなければならない。

「どうですか、二階堂さん? あらためて、如月さんの印象は」

「は、はい……とても素敵な方だと思います……」

 二階堂さんは、照れたように言った。

 それは本心なのだろうか? 彼女の離婚歴を知ったいまとなっては、素直に信じるわけにはいかないような……。

「如月さんは、どうですか?」

「ぼくには、勿体ないぐらいの女性だと思います……」

 それは、本心だった。

 離婚歴がなければ……だが。

「では、わたしは席をはずしますので──」

「あ、ちょっと待ってください!」

「どうしました?」

「ちょっと、トイレに」

「そうですか……では、それまで待ちます」

 そそくさと席を立った。

 通路の角を曲がると、御子柴さんたちからは、こちらが見えなくなる。

「いまです」

 すでにスタンバイしていた小野一樹に、そう伝えた。

 テレビカメラやレフ版、照明を持った人だかりがひしめくように通路に固まっていた。

「ありがとう!」

 小野一樹は感謝の言葉を残すと、御子柴さんと二階堂さんの座る席へ向かっていった。

 知らず、瞼を閉じてしまった。

 大変なことをしでかしてしまったのだ。正視できなかった。

 いや、それではダメだ。乗りかかった船。

 ちゃんと瞳を凝らして見なければ。

「麗子!」

 突然現れた撮影クルーに、二階堂さんが眼を丸くしていた。

 当の御子柴さんに、驚いた様子はない。

 ただ、不機嫌そうに彼のことを見返していた。

「なんなの、これ?」

 周囲のテーブルには当然のことながら、なんの関係もない一般のお客さんも大勢いる。

 突如としてやって来た小野一樹とテレビカメラに、驚嘆と歓声のざわつきがまきおこっていた。

「おれは正式に、麗子に結婚を申し込む!」

 小野一樹の全身に、無駄な力がみなぎっていることがわかった。動作もぎこちなく、声もうわずっている。力の入りすぎだ。

「あなたねぇ」

「おれは、真剣だ! きみも真剣に考えてくれ!」

 二人の一挙手一投足がカメラにおさめられている。

 まさかあの小野一樹が、プロポーズの瞬間を撮影させるなんて。この場に居合わせた全員の想像を絶しているはずだ。

 しかも、その相手が……。

 もしかしたら、二階堂さんが相手だと勘違いしている人もいるだろう。

「どうなんだ、答えを聞かせてくれ」

「答え?」

「そうだ。今日はカメラの前なんだ。いつものように逃げられないぞ!」

「いつも逃げてるつもりないけど」

「いや、逃げてる! いつも返事をはぐらかされてる」

 御子柴さんが、深いため息をついた。

「あのねぇ、いつもちゃんと答えてるでしょう?」

「嘘だ! おれは返事を聞いたことがない」

 この会話のやりとりで、なんだか結末が見えてしまったような……。

 自分だけでなく、見物人と化してしまったまわりのお客さんたちにも。従業員にも。

「返事は、NO! 何度も何度も何度も何度も、そう言いつづけてるでしょ」

「それが、はぐらかしてるんじゃないか! 本当は、YESのはずだ!」

 御子柴さんは、再びため息。

「カメラの前なら素直になれるだろう!? さあ、本心を伝え──」

「NO!」

 くいぎみに、御子柴さんは断言した。

「嘘だ!」

「NO!!」

 しかし、どんなにどんなに拒絶されても、小野一樹には伝わらないようだった。

 撮影スタッフが苦笑いしていた。

 これでは、埒が明かない。

「どうしてだ!? おれは、小野一樹なんだぞ!?」

「バッカじゃないの?」

 御子柴さんの瞳は、とても冷めていた。

 どう解釈しても、小野一樹がフラれている。

 それをカメラに撮られている。

 ふと、考えてしまった。

 小野一樹で不服なのなら、御子柴さんは、どんな男が好みなのだろう?

 かつては、あれほど美しかった人だ。小野一樹よりも、もっと上……ハリウッドのトップスター? それとも、とんでもない財力だろうか。

 わからない。

 きっと、どんなに考えても。

 本人に確かめなければ……。

「じゃあ、そういうことだから!」

 どんなに『NO』をつきつけても理解してくれない彼に憤慨した御子柴さんが、席をはずした。こちらへやって来る。

 真正面で鉢合わせしてしまった。

「あの……」

 勇気をもって語りかけた。

「なに?」

 いまの騒動のこともあって、御子柴さんは、ひどく気が立っている。

「だれか、好きな人はいるんですか?」

「は?」

「御子柴さんが納得できる男は、どういう男なんですか!?」

 この会話は、小野一樹や二階堂さんには聞こえていない。小野一樹はフラれたショックに耐えているかのように、あの場を離れられないでいる。二階堂さんも、席に座ったままだ。カメラやその他のスタッフも、小野一樹が動かない以上、どうすることもできないようだ。

「答えてください!」

「どうして?」

「御子柴さんが愛する男性は、どういう男なんですか!?」

 ダメだ。もう止められない。

「ぼくでは、ムリですか!?」

「……」

「ぼくのような男では、あなたには釣り合いませんか!?」

 言ってしまった……。

「プロポーズする相手が、ちがうでしょう?」

「でも──」

 続けようとした言葉は、御子柴さんの人差し指によってさえぎられた。

 御子柴さんは、後ろを振り返った。

 その視線の先には、二階堂さんがいた。

「あなたがこれから愛していく女性は、彼女です」

 それで、いいのだろうか!?

 もう御子柴さんへの感情に気づいてしまったのに。

「あなたは、女性を見た目で判断しない」

「いえ……むかしの御子柴さんを知ってしまったから……」

「だけど、いまのわたしは、このとおりよ」

 かつての美しかったころの御子柴さんと、現在の御子柴さんが重なって見えた。

「彼女のことを見てあげて」

 視界に、二階堂さんの姿が映る。

 モデル時代の御子柴さんには劣るものの、一般女性としては十二分に端麗だ。

 彼女の背後に、もう一人の二階堂さんがいる。

 泣いている。

 だれにも理解されず、ただ泣いている。

 彼女を抱きしめることが許されるのか?

 知らずに、歩き出していた。

 二階堂さんに近づいていく。

 四回の離婚歴。

 家事は一切できない。

 わかっている。そんなものは、人の本質ではない。

 内面は、もっと深くにある。

 沈んでいる彼女の心を掘り起こそう。

 どこか落ち着かない視線は、不安のあらわれ。さびしがりや。メイクは薄くナチュラルだが、リップやアイシャドウの色だけが若干、派手になっている。きっと、コンプレックスがある。外見の美しさと、中身の器用さが釣り合わないと思っているのだ。男は、見た目で寄ってくる。しかし、それで結婚した相手とはうまくいかない。本当は、普通の女性たちのようにメイクをしたい。だが、どうしても地味にしてしまう。

 彼女自身、わからなくなっている。

 わたしに合う男性はいるのだろうか!?

 一生、このままさびしく生きていくのだろうか!?

 何人もの女性に断られつづけてきた自分といっしょだ。

 自分自身、わからなくなっている。

 ぼくに合う女性はいるのだろうか!?

 このままさびしく、一人で生きていくのだろうか!?

 いとおしくなっていた。

 いとおしくて、いとおしくて。

 彼女の手を取った。

「ぼくと、結婚してください!」

 彼女は真っ直ぐに、こちらをみつめていた。

「……はい」

 頬を赤らめた彼女の返事が聞こえた。

 言ってしまった。

 言うことができた。

 つきあうのを通り越して、結婚を……。

 そのときになって気づいた。

 いまの模様を、カメラに撮られていた。

 拍手が聞こえた。

 客のだれかが放ったものだった。

 従業員、撮影スタッフにそれは伝染し、それまで茫然自失だった小野一樹も手を叩いている。

「おめでとう」

 静かな御子柴さんの声が、耳に届いた。


        * * *


 理由を聞いていない。

 まだ……。

 ヴィーナスをやめた理由──。




         7


 ヴィーナスは、死なず。


        * * *


 あのプロポーズの模様が全国放送された。

 小野一樹の失恋シーンは見事にカットされ、企画自体が新しくつくりなおされたのだった。

 ズバリ、『小野一樹の恋愛キューピット』。

 バラエティ番組のいちコーナーとしてスタートすることになったようだ。記念すべき第一回が、あれになったというわけだ。

 放送されるや、結婚話はとんとん拍子に進み、両家への挨拶、結納、指輪の購入、式場の予約……。

 めまぐるしく時が過ぎ去り、結婚式まではあっというまだった。

 新婚旅行、憧れの新婚生活……。

 しかし心のなかには、わだかまりがあった。

 勢いで結婚までいってしまったが、はたしてよかったのだろか?

 いや、それは考えまい。

 いまは幸せだ。

 彼女に……弥生さんに出会えてよかった。

 プロポーズを受けてくれたことに感謝している。

 ……御子柴さんには、あのプロポーズの日以来、会っていない。手紙で結婚報告はしたものの、直接顔を合わせる勇気はなかった。

 だが、どうしても、御子柴さんに聞いておきたいことがある。

 日に日にその思いは募り、半年以上ぶりに結婚相談所へ足を運んだ。

 御子柴さんを求めて所内をさまよっていたら、パンフレットが廊下に落ちていた。

 何気なくそれを拾った。

 以前とは少し変わったようだが、自分もこのパンフレットを見て、ここへ登録した。

 なつかしかった。

 ふと、裏面を見た。

「ん?」

「あら」

 と、そこで声をかけられた。

「お久しぶり」

 御子柴さんだった。

 あいかわらず化粧っけはなく、髪形も無音着だ。

「お、お久しぶりです……」

 正直、気まずかった。

 あの日、愛の告白を二回している。その一回目は、この御子柴さんなのだ。

「まさか、またここへ入ったんじゃないでしょうね?」

「ちがいますよ……彼女とは、妻とはうまくいってます」

 そういうセリフは、まだ言い慣れていないから、恥ずかしさがこみあげてくる。

「では、どういう用件で?」

 とても、よそよそしい訊き方だと残念に思ったが、所詮、客と従業員という関係にすぎないのだ。

「あ、あの……どうしても、知りたいことがあります」

「?」

「どうして、美しくなることを放棄したんですか!?」

「べつに、なりたくてなったわけじゃないけど」

 御子柴さんは、不服そうに答えた。

「嘘です。あなたは、わざとそうなっている……自分から美しさを捨てたんです!」

 確信をもって、そうぶつけた。

「どうしてなんですか!?」

「……」

「お願いします、教えてください!」

 どうしてだろう。それを知らないと、本当に結婚したことにはならないと考えている自分がいる。

 熱心さが伝わったのか……御子柴さんの、それまでどちらかといえば硬かった表情が、わずかゆるんだ。

「どうしてかしらね?」

 そこで、いたずらっぽく御子柴さんは笑った。

「たぶん、こうなってみて、はじめて見えることがあったからじゃない」

「もう、もどらないんですか?」

「疲れるのは、いや」

 美しくあるとは、疲れる──かつての彼女の姿を知っているからこそ、重く響いてくる言葉だった。

 ヴィーナスは、よみがえらない。

 いや、いまの彼女もまた、ヴィーナスなのだ。

「それじゃ」

 御子柴さんは、急いでいるから、と行ってしまった。

 パンフレットの裏面を、もう一度読み込んだ。

 決意した。

 ヴィーナスが人を幸せにするところを……ヴィーナス自身が幸せになるところを追いかけてみたくなったのだ。


        * * *


 グッバイ、ヴィーナス。

 ひとときの別れ。




        後日譚


 三ヶ月後──。

 ようやく、新しい出発ができるようになった。

 すぐにも、ここへ転職したかったのだが、仕事を辞めるにしても急にというわけにはいかない。引き継ぎもあるし、なによりもそのとき制作していたゲームを完成させなければ、辞めようにも辞められない。

 あのとき拾ったパンフレットの裏面──。

 そこには小さくだが、こう書かれていた。

『男性スタッフ募集』

 あとになって知ったことだが、ここの相談所は女性のみの職場ではないという。男性職員を見かけたことがなかったから、てっきり女性スタッフしかいないのかと思っていたが、そうではなかったらしい。

 むしろ男性職員を増やそうとしているという。

 だから、転職を希望した。

 ゲーム会社に退職願を出すと、すぐにここへ面接に来た。

 妻にも相談したが、こころよく応援してくれた。

「ええー、今日から来てくれることになった如月さんです」

 いま、ここの所長さんに紹介されたところだ。室内には、職員が集合している。所長をふくめ、ほんどが女性だった。

 そのなかの一人と眼が合った。

「如月さんは、もとはうちのお客さまだったんです。そして見事、結婚なさいました」

 所長の言葉を聞くと、スタッフたちがいっせいに、おー、と歓声のような唸り声のようなものを放った。

「まだわからないことだらけでしょうから、だれか如月さんの教育係になってあげてください」

 眼が合っていた女性の瞳が、急に逸れた。

「そうねぇ……そうだわ。もともと御子柴さんが担当していたのよねぇ。御子柴さん、お願いできるかしら?」

 その女性──御子柴さんは、不本意な表情になっていたが、所長さんは気になっていないらしい。

「よろしくお願いします!」

 御子柴さんの前に出て、頭をさげた。

「しょうがないわねえ……」

 ため息まじりに、御子柴さんはつぶやいた。

「わたし、厳しいわよ」

「はい、わかってます!」

「じゃあ、ついてきなさい」


        * * *


 ヴィーナスが、笑った。


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