青い薔薇
今日も乾いた鐘の音が聞こえる。
教会に程近いアパートに住んでいるユタカにとって、それは日常であり、非日常であった。キリスト教徒でも、妻帯者でもないユタカにとっては、聞き慣れた音であっても、全く関係のないものだったのである。しかし、今日は違った。
届いた荷物に、丁寧にカッターナイフを入れる。少々値が張るだけあって、しっかり梱包されている。中の荷物を傷つけないように、ゆっくりと段ボールを閉じるガムテープに切れ込みを入れていった。ちらりと腕時計を見ながら、ユタカは鼻歌を歌った。50年代のジャズの名曲は、耳と頭に染み渡っていたようだ。
注文した品は更に黒い箱に包まれている。さて、どうしたものか。ユタカはここにきて、少しの動揺を見せた。会場へ着ていくチャコールグレーのスーツも、光沢のあるシルバーのネクタイも、ネクタイピンやカフスボタンに至るまで、ユタカは迷いなく決めていた。しかし、この品だけはどうすればいいのか、考えあぐねていた。
―――行ってから考えよう。
ユタカの悪い癖だった。最も重要なことを後回しにしてしまう。ユタカはそれが良くないということを知りながら、直すことも、改めることもしなかった。黒い箱を取り出し、机に置くと、ユタカは箱を入れるためのトートバッグを探しに、隣の部屋へと向かった。
***
教会に続く道は、芝が青々と茂り、建物は降り注ぐ光を反射し、白く輝いていた。黒やグレーに身を包んだ人々は互いに挨拶を交わしながら、ひとつの場所へと向かっていく。どうやらその先に受付があるようだ。
「本日はおめでとうございます」
「ユタカさん……、来て、くださったんですね」
受付に立つ、華やかなクランベリーピンクのドレスを身にまとった女性に声を掛けた。女性は白く華奢な手をこちらへ差し出す。もう声も出ないらしい。ユタカは、さっと自分の名を書くと、袋を差し出し、控え室の方へと歩みを進めた。
「あの小さな子がもう結婚だなんて」
「相手は同級生らしい。実に誠実そうな人だった」
さざめきが今日のこの良き日の祝いに満ちている。小難しそうにウェルカムドリンクをすする女性でさえも、招待客が頭を下げると小さく笑みを浮かべた。控え室に入ると、少なからず視線を集めることになると確信していたユタカは、そこへは入らず、親族用の控え室の方へ向かった。記憶によると、確か控え室を過ぎて右手にあったはずだ。
数メートル進むと、目的の部屋と思われる場所が見えた。他の部屋同様、新郎新婦両家の名が書いてあり、ブライズルームのみ白いカサブランカのリースが飾られている。ユタカは大きく息を吸うと、右手で数回ドアをノックした。
***
「はい、どうぞ」
よく通るソプラノが部屋の中から聞こえた。ユタカは迷いなくドアを開き、中へと入る。そこには予想通りの反応と、予想以上の美しさがあった。
「ユカリ……」
鏡台から目を離す花嫁。勢いよく、こちらに振り向く。パールのネックレスが、ハートカットされた胸元に輝いた。オーガンジーのスカートには繊細なレースの刺繍があしらわれ、鏡にはバックリボンが豊かにひらめいている様子が映っている。
「ユタカ、どうして」
ユカリはそう言うと、さっと顔を曇らせた。
いつもより濃いファンデーション。それでもその感情を隠すことはできなかった。
「招待も、歓迎もされないことくらい、分かってる」
ユタカは無垢な花嫁に近づき、右手でベールにそっと触れる。華やかなアクセサリーより、豪奢なドレスよりも、その瞳が一番煌めいていた。
「それでも直接言いたかった」
左手に持っていたバックから例の箱を取り出す。中央に張られたフィルムから中身が透けて見える。ちらりと覗いたユカリは、はっと息を呑んだ。
頭の中で、またあのメロディーが流れ出す。
彼女と一緒に選んだ、古いジャズアルバム。楽団の独特のサウンドと伸びやかな女性の歌声。ユカリはそのリズムに身体を揺らしながら、洗濯物をハンガーに通していた。
「ブルーローズ……」
ユカリは瞳に涙を溜めると、両手を箱へと伸ばした。肘まであるレースの手袋から、彼女の白く柔らかな肌が見える。その手はか細く震えていた。ユカリは忘れていなかったのだ。
「ユカリ……」
決して幸せになれとは言わない。そんな言葉を送る資格もない。
だが、一つだけ言いたいことがあったのだ。
***
軽くなったトートバッグ。ユタカはまた鼻歌を歌いながら、自宅のドアを開けた。招待客は式を見もせず帰るユタカを訝しげに見ていたが、それすらも気にならなかった。もう今日の仕事は終えたのだ。
ユカリ、おめでとう。
この一言に全てを捧げた12分だった。