【兄弟の会話】
万葉視点。
※この話だけ少し異質かもしれません。あと、もうお気づきかもしれませんが、葉市は優しいだけの男じゃありません。
夏だった。
葉市が鈴森の実家で過ごす、最後の夏になった。
葉市が高三、僕が中三の夏、一時帰宅が認められて、本当に珍しく、家族が一つ屋根の下にそろった。
ちょうどお盆にさしかかり、村は帰省した人でいつになくにぎやかにざわめく。
二泊三日。葉市に許されたその時間に、たくさんの人間が訪ねて来た。
村唯一の小学校で、葉市の学年は、過疎化で学年併合クラスだった他の学年と違い、一クラスに届く人数がいて、とてもよくまとまっていた。
途中からあまり通えなくなった葉市を、ハブることも無視することもなく、輪に引き入れる。癖は強いけれど仲間意識の強い十人足らずの幼なじみたちは、久方ぶりに帰郷した葉市をかわるがわる訪ねる。
元は農家の、古い日本家屋の鈴森の家は、村の南東の森付近にぽつんとあって、普段なら木のざわめきと蝉の声しか聞こえない。
住むのは父方の祖母と僕、ほとんど家にいない両親。だから人の行き来も少ない。
常なら静まり返った家に、若い声があふれる。僕は自分の部屋で遠くにそれを聞いた。おちつかない。
僕は村に同学年がいなかった。
一つ上に三人、一つ下に二人、それで一クラス。小さいころはそれでもよかった。
でもどうしたって長じるにつれて学年差というものは大きくなり、大概ひとくくりにされる同学年同士の彼らの中に入り込めなくなっていく。
全校生徒が五十人に満たない過疎の小学校で、僕は仲のいい友人が一人もできなかった。
他学年の彼らの中にいて、たまにたまらなくさびしく感じる。
別に、無視されていたとか、そういうんじゃない。年の近い彼らは、誰に相対するときも屈託なく、それぞれが自由だった。
だから、僕に友達ができないのは、僕自身の問題で、そこに葉市の存在が介入する余地など微塵もない。
でも、葉市のもつ、密な付き合いの同年の幼なじみというものが激しくうらやましく。
葉市はここにいないのに、居場所が与えられていて。
僕はここにいるのに、いつもどこか居場所がない。
狭い小学校と村というくくりの中で、僕はひどく疲れてしまって、ますます独りになった。
そんな僕は、中学で水泳部に入る。
水の中なら、自由になれた。
夢中になって泳げば、深く眠れた。
向いていたのだろう、そこそこの成績を残すことができた。
一つ自信がつくと、寂しさは薄らいだような気がした。
できることを一つ一つ増やしていく。
ぐちゃぐちゃにこんがらがった感情に落ちどころを与えていけば、随分整頓されて、成長期も合わさって心身ともにたくましくなったと実感する。
そうして僕の中学生活の二年間は終わり、最後の大会で自己ベストを出して部活も引退となった。
このころには、居場所がないというのもどうでもよくなった。
欲しいと手を伸ばす感情にフタさえできれば、世の中は随分生きやすかった。
手の中に残ったものさえ大事にできればいいと諦めれば、どこか後ろめたく感じはしても、不必要に傷つかない。
そうやって、十五歳の僕は生きていた。
葉市の帰省二日目の夜。やっと静かになった家。
勉強に一区切りつけて、部屋から出る。薄暗い板間の廊下をぺたぺた歩く。
りんりん鈴を転がす虫の声と、森を走る小川のせせらぎが夜の静寂を彩った。
このあたりはまだ防犯意識は薄くて、どこの家も夜中だって窓という窓は全開で風を通す。
夏山の夜は風さえ渡ればそれなりに過ごしやすい。
この家だって例にもれず、晴れさえすれば縁側の雨戸は戸袋に収納されている。
外の音はよく聞こえた。
水がいいのか、まだまだ蛍も多くて、一匹二匹開いた窓からふんわり入ってくる。
踏みつぶさないよう、乏しい明りの中で足元に集中する。
明滅する蛍光の灯はそのまま命の光だ。
「――万葉」
開けっ放しのふすまの中から呼びかけられて、ぎくりと立ち止まる。
しまった、と思っても、もう遅い。
普段いないから忘れていたけど、そこは、葉市の部屋だった。
灯りを落とした室内から、窓枠に腰掛けて葉市はこちらを手招きする。
無視できなくて、一歩部屋に入った。
月明かりが影を作る、何もない殺風景な部屋の端と端で、兄弟が対峙する。
中学に入って、本当に必要な時以外、葉市には会わなかった。
苦手だった。僕が欲しかったものすべてをもつ葉市が嫌いだった。
昔は、それでも、普通の兄弟だったかもしれない。
でも今は、互いへのコンプレックスでがんじがらめに身動きが取れない。
薄い、貧弱な体。
それでも感じる重いプレッシャー。
ゆかたからのぞく日に焼けてない白い肌。
華奢な体を支える僕より細い腕。
痩せた顔。いつのまにか下になった視線。
どこにも威圧感なんてないのに。
葉市は唇の端を持ち上げて口を開く。
「残念だったね、満潮が来なくて」
とっさに右腕を抑え込んだ。殴りかからないよう堪えるのに歯を食いしばる。
剣呑な僕の空気など意に介さず、葉市はいっそ穏やかに言葉を続ける。
「ほんとはね、彼女も来たがっていたよ。久しぶりにお前にも会いたいって。でも、僕が一時退院てことは、永村先生も休暇ってことだから。彼女には悪いけど、来ないでいいよって言ったんだ。ごめんね?」
「――なんで、それを、僕に言う」
こくりと首をかしげ、いっそ慈愛深く微笑むその顔に、ぞっと総毛だった。
「だって、万葉は、満潮が好きでしょう」
こうして簡単に、地雷を踏み抜く。
満潮さんは。
きっと、はじめ、僕のために引き合わされた、満潮さんは。
あっという間に葉市に夢中になった。
距離や、会える頻度や、話の合う合わないの性格の問題じゃない。
明確な選択がなされた。
同じような寂しさを抱えた僕じゃなく、葉市を。
子供だったからなおさら、好意と興味は残酷に差がつけられた。
僕は満潮さんに、惹かれたというのに。
「なんで」
「わかり易いよ、お前。でも、満潮は僕から離れられないから。そうなるようにしたから。万葉の入る隙はないよ。残念だったね」
微笑み穏やかな声音の中で、言葉だけがあざける本心を載せる。
明らかな挑発とわかっていながら湧く感情に、抑え込んだ右腕が小さく震えた。
「彼女を巻き込むのはやめろ」
吐き捨てた言葉はうなるように低い。葉市は淡々とささやく。
「飛び込んできたのは、満潮だよ。猶予はあげた。満潮にも、万葉にも。その間、お前は何をしてた? 後ろ向きに腐って、足踏みし続けて、僕らに近づこうとすらしないで」
僕が手のひらの中で、あたためつづけた大事な。
「僕が欲しいものは、全部、万葉のものになる。だったら、一番大切なものくらい、僕にくれたっていいでしょう?」
「満潮さんはモノじゃないっ!!」
一瞬の激昂。睨みつける。見据えられる。
ゆかたからのぞく日に焼けてない白い肌。
華奢な体を支える僕より細い腕。
痩せた顔。いつのまにか下になった視線。
水泳で日に焼けた肌。全身にほどよくついた筋肉。
走っても息の切れることのない体。
葉市より高くなった身長。
まるで対極。正反対。
視線が凍り付くように熱くなっていく。
「――でも、お前は、手を伸ばさなかった。自分を守るために満潮を見捨てた。そのくせいつまでも未練たらしく視線だけは追いかける。鬱陶しいね」
息をのむ。猛烈な反発が一瞬で沸騰するのは、それが図星だからだ。
容赦なく切りかかる言葉の毒に身が浸される。同時に恐ろしくなった。
この男は誰だ。
いつだって穏やかだった。辛抱強く闘病していた。
滅多に声を荒げることはなく、両親に申し訳なさそうに詫び、努めて病に侵された姿を無様に曝そうとしなかった、あの、兄は。
「お前がいらないようだったから、遠慮なくもらったよ。ありがとう」
「違う!!」
「……認めたな」
「―――っ!」
にたり。悪辣に微笑う。
血のつながった弟を見るそれでなく。獲物を追い詰める猛獣の目で。
「彼女が、欲しかったんだろ?」
ひたり。裸の足が畳を踏む。
開け放した窓から夜風が渡る。湿気た空気が肌をなめる。
「いつも、モノ欲しげな眼で、僕らを見てたよね」
ぎらり。月明かりの下で、凶悪な笑みを浮かべたまま、葉市は万葉を見据えて。
「あげない」
ぐしゃり。真っ白い花を握り潰すように、笑った。
万葉は息をのむ。
圧し潰すような圧力は霧散して、それを放っていた葉市は、今にも泣きそうな顔を片手で覆いうつむいた。
「どうせ、すべてが、万葉のものになる。今も、未来も。だったら」
喘ぐように小さな、だけど強い言葉が、未来を決定づけた。
「満潮の過去も、絶望も、僕がもらう」
瀕死の獣が牙を剥く。泣きそうな顔で威嚇する。
なんという卑怯。なんというずる賢さ。
こんなにも意地汚く、独善的で、陰険な。
彼岸のほうが身近なくせに、こんなにも、生きてる、男が。
僕の、兄。
葉市の背後の窓枠の外で、蛍が一斉に舞いあがる。
たった二週間の命さえ、葉市の味方をするように。
――いつも、いつでも。
葉市は、ほんの少し前で、僕を見てる。
僕の欲しいもの、すべてを手にしながら、貪欲な目で僕を観察する。
父も、母も、居場所も、満潮さんすら奪っておいて。
僕がもつ『健康』と『未来』を渇望して。
憎しみと紙一重の感情を皮膚の一枚下にかくしながら、僕らは互いを牽制し、僕が望んだものすべてを握りしめて、葉市は一歩先をふり切る。
殺せるものなら、僕が奴を殺してやりたかった。