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【潮騒】

 満潮の回想その②。


 今回、鈴森呉葉シーズの「~弟と同志の話。」の内容に少し触れます。

 読まなくても特に支障なく書いたつもりですが、併せてお読みいただければ少し通じるかもしれません。

 以上、宣伝でした。





 あの夜から距離は近くなったけど、葉市さんがあたしを本当に受けいれたのは、実はもっとずっと、後になってだった。





 ・ ・ ・ ・ ・ ・




 葉市さんは、海が好きだった。


 海洋生物学を学びたくて、でもそれが学べる大学は近場になくて、病院から通える範囲の大学で、環境生物学を志していた。

 そんな彼が中学一年生で、あたしが小学六年生の時の話。


「深海の生物を見てみたい」


 語りかけているようで、その実会話じゃない。

 相手を必要としない言葉を、このころの葉市さんはぽろぽろこぼして、あたしはそれらを拾い集める。会話としてつなげる。

 このころはまだ、葉市さんの世界には、葉市さんしかいなくて。

 警戒と憎しみをないまぜにした苛立ちでもって、あたしは葉市さんのそばにいた。


「真っ暗な、光さえ届かない水底にも、生き物がいる。そこにいる生き物は、どういう風に生きて、死んでいくのか。ナリにかまわず、生きることに従順な生き物は、どんな気持ちで、水底に沈んでいくんだろう」


 葉市さんのことが知りたかった。


「スキューバ、やってみたい。肉眼で見る海の中は、水上から見るのとは、全然違うんだろうね」

「葉市さん、かなづちなのに?」

「プール授業は全部見学だったからねぇ。やっぱり、無理か」


 遠い遠い目で、病床の窓から水平線の彼方を見つめる彼がときおりこぼれ落とす願望を、ひとつひとつ、聞いていた。

 彼は痛々しい治療痕の残る体を人目にさらさない。他人が目にして気を使わないように、不用意に人前で肌をさらさない。それは建前で、本当は、心の奥底では、同情などまっぴらだという意地があったのを、あたしは敏感に察していた。

 激しい運動はもってのほかで、ずいぶん前から体育の授業も走ることも制限されてる。

 この会話はそこで終わった。あきらめきった笑顔をのこして。


 でも、あきらめさせたくなかった。

 あきらめる前に、手を伸ばしてほしかった。

 考える前に、口にする前に、あきらめてしまう葉市さんをこれ以上見たくなくて、あたしは勉強よりも必死に頭を使った。


 あらゆる手を打って、彼の望みをかなえる。

 それは、嫌がらせにも似た感情。とにかく、葉市さんの内側にさざ波を立たせる何かを、突き立ててやりたかった。


 常に凪。

 穏やかで、賢く、優しく、辛抱強い。表面的な葉市さんの評価。でも、あたしは知っている。


 凪いだ海面の下で、荒ぶる潮流が、真っ黒な海底にすべてを呑みこむように、うねっていることを。



 後日、葉市さんが身を起こすベットのかたわらで、あたしは切り出した。


「スキューバ、できるって」

「え?」

「お父さんが、してもいいって。いろいろ条件はあるけど、体力作りの面でも、水泳はいいみたい」


 にやりと笑いながら、ぽかんとする葉市さんの顔を見上げた。


「スキューバダイビングは、沈むんだもの。かなづちにはもってこいのスポーツだよね」


 数秒の間、噛み含むように言葉を咀嚼した葉市さんは、泣き笑いのような顔で、あたしの手をにぎった。

 生温かくて乾いた手のひらが、嫌いじゃなかった。


「満潮ちゃんもやろう? 一緒に海に潜ろうよ」

「あたしは葉市さんをまってる。葉市さんの潜った海の絵でも描こうかな。思い出にものこるし」

「絵、なの? 思い出にのこすなら写真とかじゃない?」


「だって、写真じゃ一瞬で終わっちゃう。絵なら、描きあがるまでずっと、一緒にいられるでしょ?」


 言えば、葉市さんは一瞬きょとんとして、すぐにはにかんで笑ってくれた。その笑顔は、好きだった。

 そして、葉市さんは、潜った青の海をあたしが描きあげるまでずっと、そばで見ていた。

 葉市さんはときどき口を出してきて、ああだったこうだったと言いあいながら、ふたりで絵を完成させた。

 絵は、少しずつ増えていく。



 そうやって、ひとつひとつ、彼があきらめた願望を拾いあげて、かなえていった。

 彼があきらめた願望を拾いあげるたび増える絵が、そのままあたしたちの記録だった。



 それはやがて、あたしにとっての当然で、生きる意味で、喜びになった。






 ・ ・ ・暗転 ・ ・ ・





 遠出のままならないあたしたちの身近なデートコースは、病院の中庭か、すぐ近い浜辺だった。

 葉市さんの調子のいい時は、少しでもいいから歩くようにしていた。そうしないと、彼の体力は落ちる一方だったから。

 浜辺をゆっくりさくさく踏みしめる華奢な背中を見ていた。

 線の細い背中をみながら歩くのが、いつのまにか好きになっていた。

 水平線を見つめる遠い目も、あたしの手を引く細く骨ばった手も、ふちなしメガネのレンズ越しの色の薄い瞳も。


 散歩の時、あたしたちはあまり話さなかった。

 ぶつ切りの会話。二本の足で歩き、髪を風に遊ばせ、五感で感じるすべてをただ受け入れる。そんな時間。

 つないだ手と手だけがお互いをつなぐ唯一で、温もりで、今思えばあたしに与えられた葉市さんのすべてだった。


 そんないつかの散歩の時間。


「『海の果て』には『希望』があると、言った人がいたんだ」


 潮風に短い髪をなびかせて、葉市さんは言う。まっすぐ海を見ながら。

 太陽を反射してきらきらきらめく水面に目を細める彼を見つめる。

 今ここにいない人の話をする彼は珍しい。内容も気になったけど、あたしと会話をしようとする葉市さんに驚いた。


「希望?」

「満潮ちゃんは、希望はどこからやってくると思う?」


 言われて、考えた。

 ぱっと思いついたのは、あたしのはじめての希望が、失われた瞬間。

 空っぽの家。枯れた庭。冷たい風。頬をぬぐった手のひらの低い体温。透明な眼差し。


 あのころあたしを満たしていたさびしい希望は、そういえば、どこからきてたんだろう。


「……わからない。あたしの希望は、お母さんが棄てていったから」


 お母さんが、あの広い家にあたしを置いて、出て行ってしまったとき。

 二度と顔をあわせることなく、迎えに来てくれないと、お父さんに告げられたとき。

 あたしは、お母さんに、捨てられたのだと、はっきり自覚したとき。


 あの広い家で、独りきりになって。

 あたしの希望は反転し、絶望になって。

 全部ぜんぶ、お母さんによって、もたらされた。


「だからきっと、人が置いてったりするんじゃないかな。希望も、絶望も」

「――絶望とセットで返されるとは思わなかったけど」

「だって、おんなじだよ、希望も絶望も。どっちも、期待した分だけ、つらい。でも、とめられない。

 人が、人を好きになることに、よく似ているね」


 あたしの返答を受けてぼんやりと見返してきた葉市さんに、この時何を考えてたのか、聞けばよかった。


「葉市さんと一緒にいたいって思うのは、あたしの『希望』だよ」


 吐き出した言葉は反射だった。本能だった。これが決定づけたのだと、何もかも終わってから気がついた。


満潮(・・)


 そのとき、はじめて。

 聞こえた声。

 呼び捨てられた名前。

 この葉市さんの顔を、あたしは一生忘れない。


 葉市さんが、あたしという存在を、やっと丸ごと受け入れた、その瞬間を。


 生々しい潮の香りも消毒くさい病院臭に紛れた葉市さんのにおいも。

 肌をなめた風のあたたかさも触れ合った部分から伝わる葉市さんの低い体温も、全部、ぜんぶ。



 内側の感情、全部こもった葉市さんの顔を見て、言葉もなく抱き寄せられた腕の震えを感じて、あたしは。




 あの時、あなたが、あたしの『希望』で『絶望』になった。






 ・ ・ ・暗転 ・ ・ ・





 ぱしり。腕をつかまれた。浮き上がった足が元の位置まで戻る。

 波が押し寄せて、サンダルの素足を濡らして去った。


 振り返り、腕をつかむその人を見上げた。華奢な手のひらは、それでもあたしよりずっと大きい。


「葉市さん?」


 首をかしげる。真顔の彼は、ふるりとかぶりを振った。


「だめ」


 いつもの散歩中だった。いつもより遅い時間だったけど。

 初夏だったと思う。水遊びにはまだ早いから、人気もない。そんな季節。


 夕暮れを見ていたのだ。

 涙が出るほど美しい、自然のクライマックス。

 空が青から薄朱く、紅く、薄紫にかわり、群青にかわり、濃い青となって、帳が落ちる。映画のエンドロールのように。

 太陽が黄色からとろりとした橙色にかわり、ゆるゆる沈んでいく様を、砂浜に並んで座りながら見ていた。



 葉市さんが海にのめり込むのと一緒に、あたしは絵の世界にのめり込んでいった。

 調和。色の奔流。自然の中にある美しさを、葉市さんと一緒に見、ひとつひとつ確かめていく作業を、日がな繰り返す。

 お互いの中にある世界は、まったく違う世界だった。ただ、発起点が一緒だった。

 それは同じものを見て得る差異を埋める作業だった。まったく違う世界を近づけ擦り合わせる作業だった。


 そういう毎日を積み重ねて、あたしたちは静かに寄り添っていた。



 ちょっとした好奇心。ふらりと立ち上がり波打ち際に向かう。

 目の前には、日が沈んだばかりの暗い海。

 薄暮の空はグラデーションに染まり、たなびく雲も見惚れるほどに美しい。

 砂をかく波の音に吸い込まれるように、足を踏み出す。水を含んだ砂の柔らかい感触が靴越しに足裏に伝わる。

 一歩一歩、海に近づいて、この美しい情景を目に焼き付けたかった。

 夢中になりかけたところで、腕をひかれたのだ。


「だめだよ満潮。これ以上は」

「なんで?」


 足元を波がさらう。葉市さんの寝巻まで濡れてしまった。これはいけない。


「戻って」

「だめ。満潮も」

「あたしはいいから。濡れてるよ」

「だめだよ。満潮は……まだ」


 葉市さんはふ、と口元をほころばせて、あたしはぐいと腕をひかれてたたらをふんだ。

 二人して足元を濡らしたまま、両手を握り向かいあう。


「夜の海にはいったら、つかまってしまうよ」


 平坦な声で、葉市さんが言う。

 どぷり。波が、足の下の砂をさらう。その飲み込むような動きに、ぎくりと身がこわばった。


「何に?」


 あたしがいくら聞いても、あなたはほほえむばかりで答えてはくれなかった。

 ただ、握った手を強く握り返してくれた。


 クライマックスは終わった。夜が来る。

 現れたのは、水底も見えない真黒な海。



 あたしは今でもわからない。







 あなたは夜の海にとらわれたまま、帰ってこない。







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