【満潮の回想】
満潮視点。
しばらく回想回が続きます。
あたしの話をしようと思う。
ヒステリックな声で母が叫ぶ。「あの人をつれてきて!」。あたしは家を叩きだされる。
父の病院まで行く。当然、父が仕事の途中で帰るなんてありえない。母は父をつれてないあたしを家に入れない。
あたしは家に入れないまま、庭の植木の影でほとぼりがさめるのを待つ。
うんざりするほど繰り返されたルーチン。
そんな幼少期を、あたしはすごした。
今だから言えることだが、母は弱い人だった。
短大卒業後、見合いで父と結婚した。父だけを支えに生きてるような、そんな人だった。
新婚のうちはよかったらしい。
庭付きの、白い壁と緑の切妻屋根の新築の家と、優しい医者の夫。
しばらくは二人でいいね、なんて言って、新婚時代を楽しんでいた。らしい。
崩れたのはいつからか。
医師の勤務体制は、不規則だ。
まして、ホスピスの患者は、いつ容態が急変してもおかしくなく。
父は、優しい人だった。
受けもった死にゆく子どもたちに、情が湧いた。
次第に病院にいる時間が長くなり、母は、ちりちりと不満を積もらせていった。
母は、子どものような人だった。
お嬢さん育ちで、社会人経験もなく、両親や兄弟から愛され甘やかされて育った。
常に誰かに甘え、関心を集めていないと不安がるような、そういう人だった。
だから、耐えられなかったのだろう。
激務の内に家を空ける夫に。実家からも遠く離れた親しい者もいない地で、一人、家で父を待つ。そんな毎日に。
淋しさを分け合えるはずの夫との擦れ違い生活を、孤独を、認められなくて、少しずつ、少しずつ。
子どもがいれば。
夫も家に居つくかもしれない。妻も落ち着くかもしれない。
そんな思惑で生まれたのがあたし、永村満潮らしい。
両親の思惑は、期待通りにはいかなかった。
父は、あたしがいるから大丈夫だろうと、ますます職務に励み。
母は、頼れるものも身近におらず、慣れない育児にノイローゼになり、ますます不安定になった。
物心ついたあたしの原初の記憶。
神経質な母の声。モノの割れる音。母の買い漁ったブランド品であふれたクローゼットの中から見た狂態。泣き崩れる姿。
それでも、最初は、がんばっていたのだ。母なりに。
良き妻、善き母、そういうものになろうと……母なりに。
でも、段々段々脆くなっていった母は、ついに、言ってはいけない言葉を吐いた。
『死ぬばかりの他人の子じゃなくて、私を見てよ!』
職務に忠実で、熱意ある医師だった父。
許せる言葉じゃなかった。
あたしの神様は、母だった。
頭をなでてくれた。
頬を張られた。
手をつないだ。
クローゼットに閉じ込められた。
看病をしてくれた。
悪い子と言われ続けた。
誕生日に好物を作ってくれた。
夕食を忘れられた。
きれいな洋服を買ってくれた。
いないように扱われた。
抱きしめてくれた。
雪の日に家から叩き出された。
母と家に二人きりという環境で、何が正常で、何が間違ってるのかなんて、わからなくて。
母は気まぐれで、優しくて、絶対で、逆らったら恐ろしいことになって、彼女が言うことはすべて正しくて。
おかあさんのいうとおりにできないあたしが、悪い子で、だから。
お母さんは、あたしを置いて、いなくなった。
普通の日だった。
いつも通りの一日のはじまりだった。
学校から帰ったら、母は、もう、家からいなくなっていた。
久しぶりに顔を見た父が言う。
「もう、お母さんは戻らない」
白い壁と、緑の切妻屋根の、空っぽの家。はがれた芝生。荒れ果てた庭。
神様のいなくなった家。
・ ・ ・ ・ ・ ・
初めて顔をあわせたのは、あたしが八つで、葉市さんが九つの時。
父や万葉は、引きあわせた瞬間がそれだと信じていただろう。本当は違った。
それよりも少し前に、あたしたちは、お互いを認識していた。
冬だった。
母の叫び声に、あたしは家を飛び出す。「あの人をつれてきて!」。父の病院に、一目散に。
病院はあわただしかった。難しい顔で、厳しい声の父。飛び交う専門用語。一つのベッドを取り囲んで、早足に駆け回るスタッフ。廊下の隅で立ち尽くすあたし。
とても話しかけられる雰囲気じゃない。
病室のベッドの上に、細い姿。呼吸器をつけられた、薄い体。
目があった。
一瞬でわかった。忙しなく開閉される病室のドアが一往復するまでの時間。
コレが、あたしの神様を泣かせる、原因。
目が、あったのだ。
葉市さんは、うっすらとしか開けてられなかっただろうけど、確かにあたしを見た。
あたしを見て、笑ったのだ。
憎悪という感情を、初めて意識した。
そんな、あたし達の始まり。
再会は夏。
あたしが九歳、葉市さんが十歳の、夏。
前の冬、母はいなくなって、父はあたしをもてあました。
どうしたって、距離があった。あたしと父は、親子の時間なんて、過ごしたことなどなかったのだから。
一つの季節が過ぎ去っても、父は距離感をつかめなくて、あたしは歩み寄ることもできないままだった。
そんな状態の時に、鈴森一家に引き合わされた。
珍しく病院に呼ばれ、勢ぞろいしている中に連れて行かれ、全員を紹介される。
優しそうな両親。面白くなさそうな顔を隠しもしなかった万葉。ベッドに腰掛け薄く微笑んでいた葉市さん。
「万葉と遊んでいてくれないか?」
父が遠慮がちに頼む。しょうがなく、あたしは万葉の手をひいて、病室の外へ連れ出した。
ちらっと見た一瞬、目が合った葉市さんは、笑ってない顔で笑っていた。
万葉の両親が迎えが来るまで、あたし達は海岸にいた。
一人遊びする万葉、ぼうっとそれを見ているあたし。変な子どもだったと思う。
夏だったので海岸には人手が多く、人目はあった。だから子ども二人で放り出せたんだろう。
あたし達は馴れ合わなかった。
大人の思惑通り、仲良くなんかなれなかった。
ふてくされて、つまらなそうに上手に一人遊びをしながら、さいごは両親に手をひかれて帰る万葉。
三人分の影。その背中をみつめながら。
どうして仲良くなれると思ったのか。
そのまま季節はひとつ越えて、秋。
夕方だった。
陽が落ち切って、あたりは薄暗く。でも高い空には橙の光が残り、藍色から紫のグラデーションの空には星が瞬く。そんな夕まどき。
あたしは病院にいた。
何の用事があったんだったか。
覚えていないんだから、きっと大した用事でもなかった。
今思えば、その扉がわずかに開いていたのは、偶然だったのだろうか。
でも、誘い込まれるように真っ暗な扉の内側にすべりこんだのは、あれはあたしの意思だった。
締め切った室内は、カーテンも引かれていない窓からさす黄昏のおかげで、ぼんやりと薄暗かった。
機械につながれて、目をつむり、やせた少年の体が、ベッドの上に横たわっている。
ベッドの傍まできて、寝顔を見た。薄い肉。骨が筋張った首筋。くっきり浮き出た鎖骨。
一目見ただけでわかる。彼は、どうしようもなく病人だ。
何も考えずに、あたしの腕は動いた。
あたしの両手でもまわる華奢な首に、両手を添える。
触れるギリギリまで近づいて、動かなかったのは、ほんのわずか働いた理性だと、頭の冷静な部分でわかっていた。
一瞬にも何分にも感じた。その時、凝視していた顔の閉じてた目が、パチリと開いた。
「やあ」
その時は自然に感じたけど、後から思い返せば、いっそ異様なほどのんきな声で、開口一番そう言った。
「永村……満潮ちゃん?」
静かに言い当てられて、心臓がはねた。
不自然にあてがわれたあたしの手を、気にもとめず、葉市さんはあたしの顔を見た。
「おぼえてたんだ」
「記憶力は、いい方なんだ」
この時の葉市さんは、ちゃんと、笑っていた。
家族がそばにいるときに見た、笑ってない笑顔じゃなく。
いつか見た、あの、奥で何を考えているのかまるで分らない死にかけの笑顔で。
何故だか、そっちの方がずっと彼らしいと思ってしまって、その直感は正解だった。
「帰らなくていい?」
「ああ……うん……」
「まあ、帰っても、誰もいないんだから、どっちでもいいか」
なんとも説明しづらくて口ごもったあたしなんて意に介さず、場をつなぐ適当な話題のようにつらっと、葉市さんは言った。
さもどうでもいいような、あんまりな言いように、あたしはぽかんと口を開ける。思考が回復するのに、少し時間がいった。
「どうして」
「うわさ好きだよ、看護士さん達」
あたりまえのように暴露する。少年のささやかな声。
「『分別と自制心の利かない妻』『妻を放置する夫』『間に挟まれてかわいそうな子ども』。ね、意外と、世間は、君の家族を見てる」
薄い笑顔は正直にあざけりを伝えた。あたしは手のひらをぐっと握りこむ。
「君を放置して、遊びほうけてたんだって? すごいね、自分に素直って」
「だまって」
「『死んでいく患者じゃなくて、自分を見て』。一理あるよね。ただ、それを、病院で言っちゃう神経は疑うよ。おかげで、僕だけじゃない、たくさんの患者さんや、その家族が聞いてしまった」
「……」
「先生も困ったろうね。あのあと、しばらくやりづらそうだった。だいいち、信用にもかかわるだろう? 周囲の反応は割れたよ。『あんな奥さんがいて大変』、『身内の管理がずさん』。ああ、あと『本当は先生もそう思ってるんじゃないか』」
葉市さんは、長いセリフに息が切れたのか、そこで大きく息を吐いた。
あたしは小さく反論する。柔らかい手のひらに爪が食いこんで、痛い。
「……お父さんは、しごと、一生懸命してる……」
「うん。僕も、それは、疑ってない。じゃなきゃ、うちの父や母や……兄さんが、信用するはずない。親としては、どうかと思うけど」
今度は、何とも言い返しようもなかった。
首を回して、あたしを仰ぎみる葉市さんは、言葉のとげとげしさとは裏腹に、ひどくおだやかな顔で。
「君のこと、知ってたよ」
「夏に、会ったから……・」
「ちがう。その、もっと、ずっと、前から。君、よく病院に来てたでしょう? いつもくたびれた服を着て、暗い顔で永村先生を呼び出してた」
ひゅう、と聞こえた風の音が、自分が息を呑んだ音だと気がついたのは、その日の夜中だった。同時に、血の気が下がるときに本当にざあ、と耳の奥で音がすることも。
見られてた。
知られてた。
知ってて、わらっていたのか。
「あのセリフで、君のお母さん、病院に出入り禁止になったんだもんね。それで、子どもを使い立てるってさ。全然反省してないよね。悪いとも思ってないのか。どうだったの? お母さんは、君に、優しかった? ありがとうくらい、言ってくれた?」
「あ……」
あたしの神様が。
「何時間も、病院で待ってた日もあったよね。お母さん、迎えに来てくれたこと、あった? 先生も、待合室じゃなくて奥で待たせてあげればよかったのに。あんな人目に触れる場所なんて、何考えてたのかな? 何も考えてなかったのかな? 君は、平気だった?」
こわされていく。
「僕から見た君は、かわいそうだ。母親に利用されて、邪険にされて、父親からは放置。いつも暗い顔で、俯いてる。ねえ、君、あの日々は、しあわせだった?」
ただの人に、親に、女に、されていく。
「先生も、君のお母さんも、親になるべきじゃなかったね」
「――あんたがっ」
下がった血の気が、一瞬で沸騰した。
ベッドに乗り上げて、首に手をかける。低い体温。薄い皮膚越しにじかに伝わる、骨の感触。
「あんたがそれを言うの!?」
「そうだね」
いま、まさに首を絞められようとしている葉市さんは、とても冷静に、そう返した。
「永村先生が病院に詰めきりなのは、僕の……僕らの病気のせいだ。僕らがいなければ、もう少しまともな勤務形態になっただろう。永村先生が人並み以上に働いているのも、患者に尽くしているのも、元をたどれば、僕らのせいだ」
君には僕を恨む理由がある。
淡々と、その激情を肯定されて、あたしはとまどった。
とまどいながら、それでも、首にかけた手は離せなかった。
「でも、その生き方を選んだのは、永村先生だ。そんな永村先生を知りながら結婚したのは、君のお母さんだ。夫婦の間であったことは、夫婦の間で問題にするべきだ。僕らも、君も、関係なく。違う?」
違わない。ほんとうなら、そうあるべきだった。
『夫婦』という関係に、『親子』を無理矢理混ぜ込まれたから、あたしはこんなに、こんなに、くるしかった。
役立たずとののしられるたび、かなしかった。父に『また今度』と言われるたび待ちうける母の狂態が、おそろしかった。
彼らに、少なくとも母にとっての家族は、父だけだった。
あたしは、あたしは彼らにとって、母にとって、なんだったのだ。何者だったというのか。
ただひたすら我慢して、我慢して、我慢して、我慢して、我慢して、我慢して、がまんした、あの日々が。
しあわせだったとでも、おもうのか。
「君は、彼らを、誰を恨んでも、憎んでも、いいんだ」
目と目が合う。透明な眼差し。混乱する頭の片隅で、きれいだと思った。
「だから」
そっと、葉市さんの手のひらが、あたしの頬をぬぐう。
その、手つきのやさしさに。
「もう、泣いてもいいよ」
殺してやると思った。
あたしの神様、は。
弱い人だった。
支えがないと生きていけないような、脆い人だった。
親としてよりも、女としてしか、生きていけない人だった。
あたしの神様は。
神様じゃなかった。
神様じゃ、なくなった。
葉市さんがつきつける一つ一つが、メッキをはがすように、皮膚を剥くように、ハリボテの神様の下に生々しい血肉をもたせて、『母親』という存在をあらわにする。
あたしの神様は。
ただの女、で。
母親のなりそこね、だった。
知りたくなかった。
うそ、本当は知っていた。
見ないふりしていた。
自分を誤魔化していた。
あの環境が異常なのだと理解したら、自分の親が異常なのだと理解したら、あたしはきっと、この年まで、耐えられなかった。
親は無条件に子どもを愛する、なんていう神話を、あたしはまだ、信じていた。信じていたかった。
ヒビだらけの壊れかけだろうと、ハリボテだろうと。しあわせな日々じゃなくてもいい。
あたしはあの家族の一員で、いたかった。
馬乗りになったまま薄っぺらな胸に額をおしつけた。感情が、嵐のようにかき乱されて、言葉がまとまらなくて。
動物のようなうなり声をあげながら、あふれ出る涙を見せたくなくて、それは屈辱だと、本能が理解して、目の前の病衣を引き千切れんばかりににぎりしめた。
そうしてぼろぼろ泣くあたしを、たくさんの管がついた細い腕が、ふんわりだきしめた。
驚きに顔をあげれば、葉市さんは。
「僕を殺していいよ」
笑ったのだ。
いっそ安らかに。慈愛に満ちたように。
葉市さんは笑って、背に回した腕をぐっとひき、冷たい鼻先が触れ、くちびる同士がくっつきそうな距離で、あたしの目を見た。かすかな明かりに炯炯とかがやく葉市さんの瞳。
「君には、その権利が、あると思う。誰に恨まれたって、殺されてやるつもりもなかったけど。君なら、いいよ」
ぼくをころして。
ささやく声が、甘い毒のように耳に垂れ流される。
「なんで……」
「なんで? ……そうだね、なんで、かな」
茫然としたあたしの、顔の横からこぼれた髪を梳くように耳にかけ、そのままひんやりした手のひらで、涙で汚れた頬をなでた。
たったそれだけの間の潜考。えいえんにも感じた数拍。透明な葉市さんの目。
「たぶん、君が、僕と同じ、独りぼっちだからだ」
世界が壊された瞬間。
あらたなカミサマが生まれた瞬間。
あたしの世界が、生まれかわった、瞬間。