【残滓】
きずあと。傷み。彼女の傷を思い知る。
一周忌からしばらく、平坦な毎日が過ぎた。
学校に行き、受験勉強の傍ら期末テストに取り組み、それらが返ってきて、駅前の予備校に通う。その合間に満潮さんの見舞いへ行き、居留守を食らい、帰宅して勉強。その繰り返し。
着々と、高校生活にピリオドが打たれようとしている。
少しの焦燥。大きな流れに身を任せているような、一日ごとに分厚い服を重ね着してるような、あらがい難い身苦しさ。
そんな普通の受験生。
満潮さんも同じだったのだろうかと、ふとした瞬間に考える。
二年前、彼女は同じ受験生で、上京して美大を受けると決めていた。
葉市が勧めたのだと、言っていた。はにかんだ彼女の顔を忘れていない。
普通の受験勉強に加え、ひたすらデッサンやクロッキーをしていた記憶。
そのころの彼女の指は鉛筆や木炭で真っ黒だった。
汚れた彼女の指をぬぐう葉市を見たことがある。
病室のベッドにつっぷしてうたた寝る満潮さんの指をそっともちあげて、ウェットティッシュで一本一本、丁寧にゆっくりと清拭していた。
綺麗になった指に口づけを落とし、柔らかな髪をすく葉市を、見ていられなくて。
扉の外で、僕は、入れなかった。
その距離感に、空気に、僕という存在が入る隙は一ミリたりともなかった。
満潮さんは、あの年、受験ができる状態じゃなくなった。
去年も無理だった。今年はどうなのだろう。まだ聞けていない。
永村先生が言うに、単調な毎日を送っているらしい。具体的なことはわからない。わからないことだらけで。
夜は眠れているのか。
起きれているのか。
泣いてはいないか。
勉強を続けているのか。
進学は考えているのか。
絵はまだ描いているのか。
ここから、離れる気はあるのか。
僕の声が、満潮さんにとって葉市の声に近しいというのなら、どうかと願う。
彼女は、ここにいない方がいい。これは永村先生も言っている。
でも、彼女はかたくなにあの家から離れようとはしない。彼女の家は、思い出が多すぎる。
はっきりしているのは、満潮さんはまだ、葉市に囚われていることだけ。
それでも。
会いに行く。言葉をかける。
拒否される。言葉は素通り。
繰り返し、繰り返し。
『僕』の声だけ、届かない。
降り積もった時間が虚しさを助長する。
満潮さんに関しては、理解も納得もきかない。
何度挑戦しても解けない難問のように、いつまでも、胸の隅でくすぶり、もやもやとした納得しがたい感情を発して、忘れることを許さない。
それが罰だとでもいうように。
・ ・ ・ ・ ・ ・
その日は朝から胸騒ぎがした。
永村先生から、満潮さんの様子を見に行って欲しいと指定がきたのは、冬休みの一週間前。
葉市の命日とされた事故があった、その日だった。
夜勤で家に帰れない永村先生は、家にこもりがちになった娘が、今日という日に何かやらかすのではと危惧していた。当然だろう。
一周忌の際には軟禁に近い入院先から抜け出し、回復したように見えて不安定な様子の娘が、そんな日にじっとしているわけがない。言われなくても僕は、どんなに遅くなろうと見舞いにいく予定でいた。
重たい鈍色の空は今にも泣きだしそうで、気分がそうさせるのだろう、駅からの道も、どこかモノクロ写真のように煤けていた。
気の早いクラスメイトはすでに真冬の防寒体制で、もこもこに着ぶくれていたけれど、どうにも動きづらいのは嫌いだ。
それでも受験生である今年は用心をして、三年着倒したピーコートにマフラーをぐるぐる巻いている。息を吐くたび水滴が凝って不快だった。
冬の入日は早くて、もうすっかり暗い。
コートもマフラーも制服も黒だから、よけい風景に溶け込んでみえるだろう。皮肉だ。こんな日になんてふさわしい。
緑の屋根の永村先生の家は、病院のある高台のさらに上、山肌にへばりつくようにして建ち並ぶ住宅地のなかにある。
アメリカンカントリー調とでもいうのだろうか。こういう家を、絵本だったか児童文学だったかの挿絵で見たような気がする。
緑の切妻屋根の、大きな家。
街灯に浮かび上がるその家がどこかすさんだ印象を覚えるのは、大きさに比べて人気がなさすぎるからだ。
いまだ入退院を繰り返す満潮さんは、以前にくらべて家事もままならなくなったし、永村先生はもとよりこの家にはあまり寄りつかず、病院になかば住んでいるようなものだった。
芝生の枯れた庭。伸び放題の庭木。柵は白いペンキがはげちょろげで、中から灰色の木肌が見えている。
正面から見た永村家は、しんと静まり返っていた。
玄関の明かりがついていないのは、まぁわかる。
腕時計で確認すると、二十時五十分を過ぎていた。永村先生が帰らない今夜、早々に灯りを落としていても不思議はない。
呼び鈴を鳴らす。しばらく待つ。返事がない。もう一度鳴らす。三回繰り返して、腹にぞっと冷たいものが落ちた。
「満潮さん?」
ガンガン玄関のドアを叩いてみる。名前を呼ぶ。返事はない。
嫌な予感がした。
これで満潮さんが家から出てくれば、ただの杞憂になる、かすかな予感。
五分ほど叩いても、中から応えはなかった。
焦りを覚えながら、参考書のつまったショルダーバッグの奥底から、細いキーケースを取り出す。
一本しかついていないそれは、永村先生からもしもの時のためにと託された、この家の鍵だった。
「必要なければそれが最善」と渡されたこれを使えなくて、使いたくなくて、いつもカバンの奥底に眠らせていた。
苦い気持ちでシリンダーを回せば、コチンと軽々しく鍵は開く。
ためらいながら開いた玄関から見た家の中は、想像以上に寒々しかった。
例えるなら、空っぽの箱。
中身のないプレゼントボックスのような。あるいはガラクタを詰め込んだオモチャ箱。
生気がないのだ。人の気配がない。
暮らすことで家が生きるというのなら、この家は死んでいる。
それは多分、住人に、生きてる気配がないから。
そんな印象を受ける家に、なってしまった。
真っ暗で、ほこりっぽい。玄関には靴も何も置いていない。
中に向かって声をかける。返事はやっぱりなく。
もしかして倒れているのでは。
そんな一縷の望みで上がりこむ。
大きめの声で「おじゃまします」と声をかけたけれど、静かなままだった。
聞いた記憶を頼りに、彼女の部屋に向かう。たしか一階の奥、庭に面した、続き部屋の洋間。
彼女は絵を描いたから、作業の部屋と寝室を使い分けていた。
起きている最中手を休めることなく何かを描いていたもので、だから彼女の部屋は作業部屋の隣にベッドを置くことになった。そう聞いている。
僕がこの家の、彼女の部屋に遊びに来られたのは小学生までで、そのころは、二階の眺めのいい一部屋が満潮さんの部屋だった。
「満潮さん。いるのなら、返事して。具合が悪いなら、どこでもいいから叩いて」
声を出しながら、幼いころ数度か訪ねた記憶とおおよそ重ならない室内に、時の流れを感じてしまう。
葉市が死ぬまで、僕は新しい満潮さんの部屋に入れなかった。
絵を描くのは、満潮さんにとって、葉市とつながるための儀式のようなものだったのだろう。
絵を描く最中そばにいられるのは、葉市の特権で、満潮さんがそばにいていいと許したのは、葉市だけだった。
この父子が住むには広すぎるほど広い家には、葉市の部屋もある。
その昔、治療費を稼ぐために飛び回るように働く両親が病院のそばに借りた家で、一時退院中の葉市は死にかけた。
その時になって両親は、発作を起こした時に対処できる人間がそばにいない危険性に到ったらしい。
協議の結果、永村先生が家を提供してくれた。
なにしろ葉市の生活はほとんど病院が中心で、永村先生は広い家をもち、家族も同居し、在宅してれば担当患者の急変に目を配ることができる。
問題もあった。
葉市の一つ年下の満潮さん。
でも、基本的に病人の葉市はとにかく大人の信用が高かったし、二人は衆目の前では理想的な幼なじみカップルの姿を見せていたから、問題視なんてすぐになくなった。
そうして二人は、より身近になり。
多忙な医師である永村先生は、あまり家に帰ってこなかったらしい。
奥さんが家を出、離婚して、広い家には満潮さんだけが残された。
娘に対して負い目があるのか、親子の距離は大きかった。
葉市を挟んで向かい合う。
そういう意味で、永村先生にとってもこの同居モドキは、都合がよかったんだろう。
徐々に葉市にしか目をむけなくなっていく娘を、どんな思いで見ていたのか。それとも目をそむけていたのか。わからない。
わかっているのは、満潮さんもまた、さびしい子どもだったことだけだ。
さくさく部屋を確認しながら行き着いたその部屋は、家の随分奥まった場所にあった。
ノックをしても返事がないので、勝手に開けさせてもらう。
それまで確認してきた数部屋と違い、この部屋は若干広かった。南西向きの部屋は、庭に面していて窓が多い。
部屋の奥に、もう一つ扉。そこが寝室なのだろう。
ざっと見回し、満潮さんの姿がないことを確認する。
倒れた姿がないことにほっとして、最近使用された形跡のない室内に、彼女は今筆をとっていないのだとわかる。何枚も、何枚ものキャンバスが、ほこりをかぶってさらされていた。
無残な印象を受けるのは、こもった古い油のにおいと、カーテンから透ける薄ぼんやりとした街灯に浮かぶ、放置された画材のあいまいな輪郭がそうさせるのか。
絵の具で汚れた飴色のイーゼルの前に、木製の丸椅子。
そのすぐそばに、ゆったりとした木製のチェア。
チェアの上の重ねられたクッションと、厚手のブランケットに、そこが誰の場所かわかる。
ここで、あいつは、満潮さんを見てた。
彼女が描いた、海の絵を。
ただ寝ているだけならいい。寝室の扉をノックしても、反応はなかった。
女性の寝室に入るというのは、男子高校生にはハードルが高い。
気合を入れて、ノブを回す。鍵はかかっていない。
ぱっと見通せた寝室は、隣の作業部屋に比べて狭い。ここにも彼女はいない。
使用した形跡のあるベッドと、放置された大小さまざまなキャンバス。それだけで一杯の小部屋。
雑多に積み重ねられたキャンバスの量が、まるで倉庫のようだった。
開いたドアからは、寝室に似合わない異臭がした。ツンと鼻を刺す刺激。
床に転がる刷毛や筆やいくつものペンキの缶。ぶちまけられた中身。
ふ、と入ってすぐ、左の壁を向いて、肩がはねる。
黒。
黒。
黒。
黒。
寝室の窓から入るささやかな灯りをたよりに、壁の異様な状態を把握して、愕然。
ペンキが放つ、鼻に刺さる刺激臭に酔いながら、壁一面と言わず、部屋一面にぶちまけられたおびただしい黒に、圧倒される。
眩暈をおこしながら、窓の方へふらふら後じさり、壁画の全体が目に入った瞬間、背筋を走る電流のような衝撃。怖気立つ。
(うみだ)
ただ、闇雲にぶちまけられただけじゃない。そこは、たしかに海の中。
真っ暗に飲み込む、夜の、深遠の、海溝の、冬の、水底につながる、海の中。
葉市が沈んだ、おそらく、さいごの。
地の壁紙のなごりなどない。塗りつぶされた黒の異様さに、彼女の深層を見た気がして、僕は。
満潮さんの内側が、まだずたずたに傷ついているのだと、はっきり理解した。
ふ、とストックを読み返したら一話できてたので投下。