【彼女のこと】
法事の翌日は、朝からぱらぱらと小雨が降っていた。
駅のホームに降り立つと、湿気た冷たい風に乗って、潮のかおりがした。
葉市と呉葉が長く世話になった病院は、海にほど近い場所にあった。
山間の村から街まで徒歩とバスで三十分、そこから電車で約一時間。具体的に言えば、村から一番近い街の、隣市のはずれに位置する。
その最寄駅の、隣の駅近郊に葉市の進学した高校があり、病院から一番近い公立高校でもあった。呉葉が通ったのもそこだと聞く。
駅から病院までの道を歩く。そんなに長い道じゃない。
この道を通って兄たちは学校に通った。
僕は村から近い私立に進んだ。
あの青いブレザーを着たくなかった。白いラインの入った黒い学ランは、僕のかたくなさの象徴のような気がする。
実家の山の方は雨だったけれど、こちらはやんでいて、濡れた古いアスファルトが湿ったにおいを放つ。
強風にマフラーだけの軽装備を少し後悔した。
その病院が、そして兄たちがいた病棟が、いわゆるホスピス――末期患者のための緩和ケア病棟だというのは、長じるにつれて自然と知れた。
小高い場所に建つ病院は大きな設備ではない。でも樹木や草花にあふれた癒しの空間を演出している。
地元に密着した形で、一応総合病院の体だけど、一番力を入れているのは葉市たちのいた場所だというのがわかる。
一棟まるごと使った緩和ケア病棟は緩やかに人が入れ替わり、他科より多い病床はいつでもほぼ埋まっていのだから。
その中で、超長期滞在に等しい葉市の定宿は、離れ病棟の一階の、奥まった場所にあった。
葉市と同じ病でこの病院を利用していた人たちは、大体その付近に配置される決まりらしい。
葉市が入退院を繰り返すころには、あいつ一人きりだった。
今ではもうすっかり無人で、そのあたりは人が住まなくなった場所特有の閑散さを発している。
無人であるはずのそこに、彼女はいるはずだった。
本来、検査入院という名目では、この離れの病棟は利用されない。でも、彼女に限っていえば別だった。特別措置と言っていい。
それが正解なのか、僕にはわからない。
ここは思い出は濃すぎて、息苦しい。僕でさえそうなのだから、彼女にとってこの場所は猛毒になるんじゃないだろうか。
医師である人がそう決めて、この病棟に入れたのだから何かしら意味があるのだろうけど、彼女にとって酷なことには変わらない。
目的の部屋の前に着き、閉まった扉を三回ノックする。返事はない。
引き戸の取っ手を握り、軽く引いてみる。鍵はかかっていない。思い切って開ける。
足を踏み入れ部屋の中を確認すると、無人だった。
少しだけ乱れたベッドと、小さなボストンバッグが、ここに人がいた気配をのこしている。
部屋の外に出て、ちょうど通りかかった看護師にたずねた。
「すみません。昨日、永村満潮さんに外出許可は出ていましたか?」
「ああ、永村先生の娘さん?いいや、出てないよ」
顔見知りの男性看護師は、事情に通じているのか僕の顔を見てすぐに答えてくれた。
その答えに、やはり、と内心つぶやく。
「昨日は絶対病院から出さないよう、通達が出てたよ」
「そう、ですか……。あの、今日はどこにいるか」
「部屋にいなければ、中庭か、図書室かな。手伝う?」
親切な申し出を振り、図書室からまわることにして、歩き出す。病院の構造は頭に入っていて、最短距離をはじき出すのなんて造作もない。どれだけ、親に連れられて、この病院に足を運んだことか。
図書室にも中庭にも、彼女はいなかった。他に思い当たる場所を見て回っても、彼女は見当たらない。
ひょっとして、と、病院の外に出る。
浜に向かう道をたどりながら、自然と足は速くなった。
凍った風の塊を顔面に投げつけられているような、海に出るとそんな風が吹いていた。
夏には海水浴客でにぎわう浜も、冬は人気がまるでない。
荒くなった息が白く凝る。浜に降りる階段状になった防砂提の上に出て、ぐるりと見渡す。
沖に小さく一人二人のサーファー。
遠く離れた場所に犬の散歩をする人。
道なりに点在するベンチと街灯。
屋根のついたあずまやに、人影。
あずまやに向かって小走りに近づく。視認して、ようやく歩調を緩めた。聞こえるかどうかという距離から声をかける。
「抜け出したね」
反応はない。そのままゆっくり近づいていく。
「今日だけじゃない、昨日も。わかってるんだ。返事をしてよ」
まだ無反応。もう聞こえているはずなのに。
「満潮さん」
「こないで」
鋭い声に、ぴたりと足を止める。あずまやまで、あと五歩。
中のベンチに座る彼女は、裸足にぺたんこの靴をつっかけ、クリーム色のペラペラなワンピースにアイスブルーの薄手のダウン。温かそうでひどく寒そうなちぐはぐな格好だった。
「満潮さん」
振り向きもしない。目は海に向けたまま。
「勝手に抜け出したりしちゃ、ダメだろ」
「……だったら、なに?」
ダウンの上の背中で、結っていない長い髪が踊っている。
いつからここにいたのか。あずまやの柱にもたれる体はきっと凍えている。指先に色がない。
「風、冷たいよ。病院に戻ろう?」
「……」
「いつまでそうしてるつもりなの」
「関係ない。万葉には」
突き放す尖った声。この人は、こんな声を出す人じゃなかった。
たった二年で、彼女はこんなにも、変わってしまった。
「満潮さん」
「やめて。そのこえで、あたしを呼ばないで」
満潮さんは。
永村満潮さんは。
兄たちの担当医だった永村先生の、娘で。
僕と葉市は、永村先生にひきあわされて、彼女と出会った。
永村先生にしてみれば、両親が葉市を見舞う間、居心地の悪い健康な僕の遊び相手として、彼女を連れてきたのだと思う。
彼は長男を診たこともあり、両親の信頼篤い医師であり、母の遠縁でもあり、どこか債権を背負うような人の好い部分があった。
その上の、ささいな好意だったはず。
でも、満潮さんが興味をもったのは、葉市の方で。
出会って瞬時に、葉市と満潮さんの世界は構築された。
僕をとり残して。
兄弟なんて、ろくなものじゃない。
「満潮さん……ねぇ、」
途方に暮れて、名前を呼ぶ。耳をふさがれる。
あの事故の後、満潮さんは僕の声を聴かなくなった。
助手席にいた彼女は。
最期まで、葉市の隣にいた彼女は。
恋人の最期をみおくってしまった彼女は。
生き残ってしまった、彼女は。
時間が傷をいやすなんて、嘘だ。
だって。
満潮さんは、まだ、こんなに。
こんなにも、膿んでいるというのに。