第七章 明日に走る者 未来を創る者
巨大な壁がなくなり、光が錬太郎の視界を奪った。数秒ほどして光になれ、錬太郎はようやく目を開けられた。
目を開けた錬太郎は非常に驚いていた。目の前の光景のすさまじさに声が出なくなっていた。まったく今まで見た者たちもかなりおかしなものであったが、白百合の寝床というのはいろいろなものを見てきた錬太郎にとってもかなり不思議な場所だった。
白百合の寝床というのは恐ろしく広い空間だ。縦の高さも、横の長さも奥行きもさっぱりわからないほど広い空間が広がっていた。錬太郎が目を凝らしても空間の終わりは把握できないほどだった。
空間の広さも驚くべきところではあった。しかし問題は寝床に置かれているものが非常に大きく意味不明なものばかりだった。
特に目を引くのは空間にそびえる巨大な銀色の球体である。この銀色の球体は錬太郎が見上げてみても終わりが見えず、首を横に振らなければ横幅を確認できないほどの大きさだった。また、この銀色の球体だけでもかなりおかしな気分にさせられるが、この球体を守るようにたくさんの光の輪が高速で回転しているのが不思議である。
この光の輪は朝焼けのような色をしていて、非常に美しかった。怪物に成り果てた人間だとか、天を衝くほど高いビルの群れを見たことがある錬太郎だったが、この光景はなかなか驚かされる。
とんでもない技術を持って作られている建物を見た時に感じる驚きではなく、今までにない美術品の前に立った時の気持ちとよく似ていた。
錬太郎が立ち尽くしている間に、白百合が動き出した。今までずいぶん苦しそうにしていたのだが、銀色の巨大な球体が鎮座している空間に入ってからはいつもと変わらない足取りに戻っていた。
鬼島笹百合のところへ錬太郎を連れて行こうとしているのだ。白百合は錬太郎との約束を果たそうとしていた。このご神体と呼ばれている巨大な銀色の球体に錬太郎が自力でたどり着いた以上鬼島笹百合を取り戻しに来た錬太郎との約束を果たさなくてはならない。
口約束であるから、全く守る必要はない。また白百合の上司である睡蓮が錬太郎を拘束しておけという命令を出しているのだから、錬太郎を閉じ込める必要があるのだけれども、それよりも錬太郎との約束を優先しようとしていた。
巨大な銀色の球体ご神体に向かって白百合が歩き出すと、錬太郎も歩き始めた。白百合から少し遅れて歩き始めていた。
不思議なことでご神体が鎮座している空間に足を踏み入れた瞬間から、錬太郎の体の痛みは徐々に引いて行った。そして数歩歩く間に錬太郎の体の調子は完全に整い、全く問題なく歩き始められた。白百合の背中を追いかける錬太郎は何とも言えない表情を浮かべている。
驚いているような納得しているような不思議な表情だ。錬太郎の頭の中には鬼島笹百合の事がしっかりと残っている。鬼島笹百合が連れ去られ、取り戻したいのならばご神体めぐりを完了させろと白百合にそそのかされたのをしっかりと覚えている。
いろいろと面倒くさい思惑があったけれども、しっかりと動き始めた理由は覚えていた。歩いているのは取り戻しに行くためだ。
何とも言えない表情を浮かべていたのは、なんとなく銀色の球体に親近感を覚えていたためである。大きな銀色の球体を見て親近感を抱くというと錬太郎が球体なのかという話になるが、まったくそんなことではない。
しかしなぜだか不思議と自分と近いような気がしていた。ただ、どう見てもおかしいのは目で見ればわかるので、それが錬太郎にはなかなか納得できないことだった。感覚と知性がかみ合っていなかった。
錬太郎が白百合の背中を追いかけ始めると、白百合が錬太郎に話しかけてきた。
「これがご神体。ここまで来れるのは子供たちの中でも試練を乗り越えられた子だけなのよ。
島の外から来た子でここに入ってこれたのは錬太郎ちゃんが初めてね。大体の子は波根の道の熱気で動けなくなるの。
島の外から来た子でジャズのところまで来れたのは千年近く前だったかな。その子もジャズを越えられなくてリタイアしたけど。
錬太郎ちゃん、あなたは海波根島の御子の条件をクリアーしたわ。だからあなたは山百合ちゃんの次の御子として私と接触できるようになる。いつでもここにきていいし、いつでも技術を使っていい。
睡蓮はあなたを捕まえておくようにといったけど、あなたは私に勝利したわ。つまり、私は任務失敗で、あなたはこの島から出ていける。
でもね、覚えておいてほしいわ。私は別に急いでいるわけではないの。十年でも二十年でも待っているから気が向いたらでいいわ、その時にはこの島で暮らしてね」
約束を優先した白百合に錬太郎は答えた。
「正直、はっきりとは答えられるような気はしませんけど……いろいろとやってみて何というか、何も見つけられなかったその時には頼らせてもらいます。
すみません、何というかはっきりしなくて」
白百合の背中に自分なりの答えを伝えた錬太郎は恥ずかしそうに頭をかいていた。防具一式が体を包み込んでいるので頭をかこうとするとカチカチと音がして面白かった。
錬太郎は自分自身の至らなさが恥ずかしかった。錬太郎は自分の中にあるぼんやりとしたものが見えている。
ぼんやりとしたものとは、情熱しかもっていない自分自身のことである。どこかへ向かいたいという情熱だけがあり、どこへ向かうべきなのかという具体的な目的地がない。
鬼島笹百合や鬼島山百合、今まで出会った人たちはどこへ向かうべきなのか、どうするべきなのかという具体的な目的があった。それは白百合にもあるように錬太郎には思われた。
ただその目的は錬太郎を縛り上げて、拘束するという目的であったけれども、しっかりとした何かがあったのだ。しかし錬太郎にはそれがない。
ただどこかへ向かいたいという情熱だけで、自分を鍛え上げ、磨き上げようとしている。錬太郎はそれが無鉄砲で何も生み出せないものではないかと思えてしょうがないのだ。
そして今、白百合に誘われてみても、ばかばかしい情熱が納得できる目的を探さねばならないと安易にうなずかせない。
優しさで誘われて、おそらく善意でもって行われているだろう行動に対してあいまいな自分自身で返すのだ。それが錬太郎には恥ずかしかった。善意で行われたのならば、思いやられたのならば、自分もふさわしい自分でありたかった。
ただ、島に来る前とは違っていて、情熱だけしかない自分を受け入れていた。あとは足りないものを見つけるだけだった。少しは前に進んでいた。
錬太郎のあいまいな答えを聞いた白百合は振り返ることもなくこう言った。
「困った子……睡蓮にものすごく怒られちゃうわね、私。
でもいいわ、気長に待つから。
あぁ、そうだわ。ねぇ錬太郎ちゃん、あなた彼女いないでしょ? 多分そうよね、彼氏のふりを笹百合ちゃんがさせていたけど、あの子横から持っていくようなことはしない子だから。
もしも彼女がいるようなら、一緒に連れてきてくれないかしら。最近少子高齢化が進んで大変なのよ。
インターネットで神社の宣伝もしているんだけど、なかなか効果がなくてね。困ったものだわ」
白百合の話を聞いた錬太郎は少し間を開けてからあいまいに濁して答えた。本当にどうやって答えたらいいのかわからないような、はいともいいえとも言えない返事だった。
白百合の話をしている内容が理解できないということでもなければ、絶対に海波根島に定住しないなどと心を決めているわけではない。
そういうことではなく錬太郎は異性関係について、思い当るところが全くないのでうまく答えられなかった。
白百合の言うところからすると、海波根島は少子高齢化のあおりを受けているのだから、定住するのならばできれば結婚相手もつれてきてほしいというだけのことである。
別にこれは海波根島に限った話ではなく、若い人間がいなくなってしまった田舎ならば嫌でも考える問題だ。特殊な問題であるかといえばそうでもない。
真剣になって考えているから答えられないのかというとそれでもない。錬太郎一人でどうにかできる問題でないから答えかねたなどということではないのだ。
単純に恋人なんていないのでうまい返答ができなかったのだ。ただ、恋人がいるとかいないとかいう話で濁るというのもおかしなことである。なぜなら返答に影響がある要素ではないからだ。冗談の一つでも交えながら、機会があれば等といって終わらせればよかった。
錬太郎が完全にもたついたのは、恋人がいないということ自体が妙に恥ずかしかった。年頃の少年であるから恋人がいたほうが良いだろうという感覚なのだ。そういう感覚であるから、どうでもいいところに意識が引っかかりうまく答えられずにごってしまった。
そうして濁った返事とも取れないような声を錬太郎が出すと、白百合は錬太郎のほうをちらりと振りかえってみていた。本当にちらりと見ていたので、錬太郎は気づいていなかった。錬太郎の注意力が散漫だったからではない。錬太郎はしっかり周りを見ながら歩いていた。
しかしそれをはるかに上回るチラ見だった。長年の研鑽で身に着けた武術の動作を最大限に発揮していた。白百合は錬太郎がもたついた理由に思い当たってしまったのだ。
さすがに数えきれないほどの子供たちを見送ってきた白百合である。錬太郎のようなよくわからない応え方をする子供というのもたくさんいた。
そして白百合はすぐにどのあたりが錬太郎に答えにくい質問だったのか思い当たった。特に、錬太郎が恋人のふりをして鬼島笹百合と一緒に海波根島に来たという話を知っていたので、すぐに思い当たった。
そういう前例を山ほど見ている白百合であるから、錬太郎がそうではないかと考えたのだ。そしてそうだろうなと思いながら、錬太郎のプライドを傷つけないように、素早く確認して、先に進んでいった。
先に進む白百合は、この話題をあえて振るのはやめておこうと心に誓っていた。
五分ほど歩いたところでようやく巨大な銀色の球体の足元に錬太郎たちは到着した。やっとのことでご神体までたどり着いた錬太郎は、きょろきょろとあたりを見渡していた。錬太郎は鬼島笹百合を探しているのだ。
鬼島笹百合をさらった白百合の話が本当ならば、鬼島笹百合はこの巨大な空間のどこかにいるはずである。しかし錬太郎の視界に鬼島笹百合の姿はまったくとらえられなかった。今の錬太郎が見つけられるのは見飽きが巨大な銀色の球体と場違いな家具だけである。
絨毯が引かれていて、絨毯の上にちゃぶ台と少し離れたところに布団がひかれていた。雑誌だとかが無造作に積み上げられていて、山脈が出来上がっている。
何かの作業に使うのだろう工具の類、また彫刻をしているらしく作りかけの石像や、木彫りの人形がビニールシートの上に放置されていた。恐ろしく広い空間であるからいろいろなものを置けるのだろうが、銀色の球体の足元は散らかっていた。
どこかに鬼島笹百合がいるのだろう。しかしどこに隠れているのか、どこにいるのかはさっぱりわからなかった。そうして心配になった錬太郎は必死になって鬼島笹百合を探した。
錬太郎が心配していると、防具一式を外しながら白百合が大きな声を出した。
「笹百合ちゃん! 錬太郎ちゃんが来てくれたわよ! どこー!?」
防具を手早く体から引きはがす白百合であるが、取り外した防具は当たり前のように床に放り出していた。防具を外すたびに床に放り出して、放り出したら次の防具を外すという具合だった。そして白百合が外した防具は、放り出されて床に着地を決めると地面に水滴が吸い込まれるようにあっという間に姿を消していった。
白百合が大きな声で鬼島笹百合を呼ぶと、鬼島笹百合が答えた。
「はーい! 今行きます!」
白百合に呼ばれた鬼島笹百合は、銀色の球体の影から飛び出してきた。正面から銀色の巨大な球体に迫っていた錬太郎からは、角度の問題で見えないところにいたらしかった。
鬼島笹百合は連れ去られた時と服装が変わっていた。ジャンパーのようなものを着ていて、口から吐き出される息は真っ白だった。
また、右手と左手で一つずつ大きく膨らんだゴミ袋を引きずっていた。白百合にさらわれて一足先にこの場所に連れてこられた鬼島笹百合なのだが、全くやることがなかったのでゴミ拾いをしていたのだ。
鬼島笹百合が連れてこられた時、白百合は鬼島笹百合にゆっくりしていてくれたらいいといった。実際ゆっくりすることはできるのだ。
周りにはいつの時代のものかもわからない雑誌が山ほど積まれているし、白百合の使っている蒲団も、ソファーも転がっている。休もうと思えば休めた。
しかし、初めはよかったがあまり長い間動かないでいると非常に退屈であったし、そもそもご神体があるこの場所は非常に寒いので、何かやっていないと凍えてしまいそうだった。
そうして何か暇つぶしでもないだろうかと考えた時に、できることというのはゴミ掃除くらいのものだった。間違いなく白百合が片付けなかったゴミがごろごろ転がっていたので、それを拾い集めてまとめていた。
新品のごみ袋が山積みになっているところからして、ゴミ掃除という概念があるらしいのは間違いないのだが、ほとんど手を付けていなかったのにはさすがの鬼島笹百合もあきれた。
そしてゴミ掃除を始めた鬼島笹百合は錬太郎が迎えに来る今の今まで、一人でゴミ掃除にいそしんでいた。
鬼島笹百合の姿を見ると、錬太郎はほっとしていた。今まで体からみなぎっていたピリピリした空気がなくなっていた。錬太郎は鬼島笹百合の姿を見たことで安心したのだ。
白百合の性格を何となく把握できている錬太郎であっても鬼島笹百合が無事であること約束が本当であることが確信できるまでは安心できなかったのだ。
しかしそれも、今やっと鬼島山笹百合の姿を確認できたことで、やっと安心できた。安心できたから、錬太郎は心の緊張を解いた。今までみなぎっていた怒りが急速にしぼんでいき、いつもと変わらない錬太郎の心が帰ってきていた。
錬太郎の姿を見つけた鬼島笹百合はこんなことを言った。
「錬太郎君、でいいだよね? 何その恰好……ものすごいわね、今すぐにでも映画に出れそう。
あぁ、でも、きっと悪役ね。カラーリングが禍々しすぎるかも」
全身をフクロウの防具一式で固めている錬太郎を評価しながら、鬼島笹百合は駆けよってきていた。
両手のごみ袋を、手放してほほえみを浮かべて駆け寄ってきた。吐く息が真っ白で、駆け寄ってきた軌跡が白い残像になって残っていた。錬太郎に駆け寄る鬼島笹百合であるが、非常に喜んでいた。
いろいろな感情はあるのだ。どうしてそんな格好をしているのかだとか、どうしてこういう面倒くさいことを白百合はするのだろうかだとか。また、錬太郎を誘い出したとして本当にここまで来てくれるのだろうかという疑いの気持ちと、きっと来てくれるわけがないというあきらめの感情。
どれも当たり前の考えと感情だった。特に錬太郎が自分を助けるためにここまで来てくれるなどというのはほとんど期待していなかった。
なぜなら鬼島笹百合と錬太郎はそれほど親しい関係ではない。錬太郎の姉の晶子と仲がいいだけで、錬太郎とは親しいわけでもなんでもない。
確かに会話をしたことはある。姉の晶子と遊ぶついでに一緒に遊ぶこともあった。しかしそれだけなのだ。親しい友人を思い出す時に錬太郎を思い出すことなどありえなかった。
当然だが錬太郎もそうだろうという感覚がある。少なくとも自分はそうだと思っているという鬼島笹百合である。仮に錬太郎がさらわれた時、自分は翼の生えた怪物の後を追うのか。また厳しい試練を乗り越えるような気持ちになれるのか。
鬼島笹百合は自信を持って答えられる。絶対に追いかけないし戦いに向かうこともないと。だから錬太郎がここに迎えに来てくれるなどと期待していなかった。
しかし、錬太郎を責める気持ちはなかった。なぜなら錬太郎よりもはるかに親しい友人たちの中で、間違いなく助けに来てくれる存在というのを考えていった時に思い当たるのが錬太郎の姉晶子と、葉波根みなとくらいのものだった。
残念ながら二人ともここにはいなかったけれども、そんな考えがあった。だから鬼島笹百合は錬太郎が来てくれたことだけで十分うれしくなって、柄にもなく異性に駆け寄るような真似をしたのだった。
鬼島笹百合と錬太郎が再開するのを見守っていた白百合はこんなことを言った。
「これでご神体めぐりも終わり。錬太郎ちゃんは正式に海波根島の御子になった。六十年ぶりの御子の誕生を喜ぶべきなんだけど、素直に喜べないのは少し悲しいわ。
錬太郎ちゃんはこの島から出て行ってしまうんだもの。
でも仕方がないわよね。あれだけやって駄目だったんだから、送り出してあげないと」
すでに錬太郎を追いかけるつもりが全くない白百合は、高価なソファーに飛び乗って休み始めた。全身をソファーにうずめて、体の力を抜いていた。
できることなら錬太郎を島に縛り付けておきたいというのは白百合の本当の気持ちである。それは間違いない気持ちだった。なぜなら、さみしい思いをしなくて済む。六十年間一緒にいてくれた鬼島山百合も若くはない。
いつまでも一緒にいてくれるわけではないことは白百合も承知しているし、どうしようもないと受け入れている。
しかし鬼島山百合がいなくなって、自分のことを知っている者たちがどんどんいなくなってひとり気にりなってしまうというのは恐ろしいばかりである。さみしいのは恐ろしい。
たとえ自分の仲間たちと会話ができるとしてもさみしいものはさみしい。
そんな感情がある白百合であるから、錬太郎のような若い適性を持った人間がそばにいてくれるというのなら、とてもうれしいことである。しかもこれからの可能性がある人間なのだから、余計にそばにいてほしいと思う。
しかし、自分のさみしさで錬太郎を縛れないということも白百合はわかっているのだ。錬太郎はまだ子供である。まだどこかへと進もうとしている子供なのだ。自分のさみしいという気持ちだけで、未来をつぶすようなことをしてはならない。
そんなことをしては何のために人類を再び始めたのかもわからなくなる。また、錬太郎は自分たちの試練を超えてきているのだから、ここから不意打ちをつくようなまねは絶対に行いたくなった。これはつまり正々堂々と試練を乗り越えて見せた子供たちへ見せる大人の意地なのだ。
だから絶対に縛るようなことはしたくなかった。そしてその強い気持ちがあるため、自分の上司が錬太郎を拘束しておけといったのも無視しようとしていた。この自分の判断を優先する白百合である。もう戦うことはないとソファーに沈み込んで、休み始めた。
そうして白百合が休み始めると、錬太郎はこういった。
「ゆっくりしているところ申し訳ないんですが、出口はどこで?」
錬太郎に話しかけられた白百合は、指で道を示した。白百合が指で道を示すのと同時に、床に光のラインが走った。この光のラインを追いかけて行けということらしかった。すでに白百合にやるきはない。
だらりとしていて、今までかろうじて感じられた威厳は失われていた。白百合はすでにやることはすべて終わっていると思っているのだ。少なくとも錬太郎をしばりつけられないとわかっている。そうなってくると、やれることはまったくないわけで、あとは鬼島笹百合を連れた錬太郎が、地上に戻るための道順を教えるくらいしかなかったのだ。
そしてその道順も御子たちがこの場所に来やすいように作った道を教えればいいだけのことなのだから、まったく大したことはなかった。そんなやることはやり終わり、残っている用事も大したむずかしさではないということで、だらけきった白百合が出来上がったのだ。
白百合が光で道順を教えた時だった。どこからともなく睡蓮の声が聞こえてきた。
「ねぇ白百合、あなた何をしているの? 私はあなたに錬太郎を捕まえておくようにと命令したのよ、なのにどうして帰り道を教えたりしているの?」
どこからともなく聞こえてきた声に白百合が答えた。
「私も頑張ったんだけどね、抑え込めなかったのよ、ごめんなさいね睡蓮。
あと勝手に私の部屋にアクセスしてくるのやめてもらえる? 形式上は上司だけど、ここまでの権限はあなたにはないはずよ」
白百合の返答を聞いた睡蓮はこういった。
「あなた何を言っているの? 地上には戦いの火種が渦巻いているのに、錬太郎をそんなところに放り出すつもり? そんなの許せないわ」
睡蓮にはっきりと白百合は答えた。
「あまり子ども扱いしないほうがいいわよ。錬太郎ちゃんは赤ん坊じゃないの」
白百合の答えに睡蓮が叩き割った。
「うるさい……何も知らないくせに……そんなの知ったことじゃないわ。
錬太郎はそこから逃がさない、絶対に!」
睡蓮の激しい感情が載せられた声が響くのと同時に、ソファーに沈み込んでいた白百合が飛び起きた。今までのようなリラックスしきった表情はもうなかった。真剣そのものである。
白百合は睡蓮が何をしようとしているのかを察したのである。そして睡蓮が何をしようとしているのか察したうえで、睡蓮の邪魔をしようと動いていた。
睡蓮の目的とは、錬太郎を完全に閉じ込めることである。睡蓮はどうしても錬太郎を拘束したいらしいというのは白百合の察するところであったし、実際命令を飛ばしてきていたところからもわかっていた。
しかしそれでも白百合は錬太郎を島の外に送り出せると思っていた。というのはこの島全体が白百合の支配下にあるからである。これは島の地下にある未来都市の機能すべてを白百合が支配しているということである。
そうなってくると、当然だけれども白百合が錬太郎を送り出すと決めた時点で、錬太郎の障害物というのはなくなるはずである。障害物になりえるのは白百合の未来都市を作っている技術くらいのもので、物理的な拘束力を持っている者など、特に単純な拘束力などというのは、例えば手錠をかけるとか、縄で押さえつけるというのは錬太郎には通用しない。
そのいろいろがあったために白百合は楽勝で錬太郎を外に出せると思っていた。しかし今睡蓮が行動を起こした。睡蓮は白百合の支配下にある海波根島にアクセスを仕掛けて、錬太郎を出さないように仕掛けを作動させ始めている。
睡蓮が本気になって島のコントロールを奪うようなことになれば、白百合でも解除に年単位の時間がかかるだろう。それは間違いなく錬太郎との約束を破る状況に違いなかった。それらが把握できた白百合であったから、すぐさま飛び起きて錬太郎を逃がすことに力を注ぎ始めたのだ。
飛び起きた白百合は錬太郎にこう言った。
「急ぎなさい錬太郎! 閉じ込められる前に行きなさい!」
尋常ならざる様子の白百合の叫びを聞いた錬太郎は、一も二もなく動き出していた。すぐそばにいた鬼島笹百合を担ぎ上げると、風のように駆け抜けていった。まったく道を知らない錬太郎だったが、白百合の作り出してくれている光の道が錬太郎の往くべきところを教えてくれていた。
いろいろな疑問はもちろんある。問いたい気持ちもある。しかし錬太郎はその時ではないと思い、聞かなかった。それよりも素早く地上に戻ることが何より大切なことだと信じた。錬太郎の目的は鬼島笹百合を連れて戻ることである。尋常ならざる様子から察した錬太郎は、一気に駆け抜けることを心に決めた。
錬太郎の肩に担がれた鬼島笹百合は目を白黒させているばかりだった。すでに錬太郎が駆けだして十秒ほどたっている。すでに銀色の巨大な球体から何百メートルも離れて、白百合の姿形は確認できなくなっていた。
錬太郎の肩に担がれている鬼島笹百合は、錬太郎が走るたびに感じる衝撃を腹部に受けていた。とんでもない気負いで駆け抜ける振動は耐えられないものであるはずだが、ほとんど我慢できる衝撃しか鬼島笹百合には届いていなかった。
それは錬太郎のみに着けている防具一式が、鬼島笹百合を守るように赤黒い翼を錬太郎と鬼島笹百合の間にクッションのように差し込んでいるのだ。
鬼島笹百合であるが、全く頭が処理しきれなくなっていた。そもそも問題が多すぎるのだ。海波根島で進行されている神様、白百合がいきなり警戒心をあらわにしたのも、睡蓮という人物がだれなのかも、錬太郎が白百合と阿吽の呼吸で行動を起こしていたというのも、目で見て確認してみてもさっぱり納得いかなかった。
鬼島笹百合からしてみれば、錬太郎が白百合のことを嫌っていたり、また不思議な格好をしているというのは大体理由がわかるからいい。
錬太郎の銀色のフクロウのお面が不思議な変化を見せていたのは見ているし、白百合から自分を取り戻す時に錬太郎が見せた自分の身を省みない行動などが、予想を立てさせてくれる。
しかし、ほんの十秒前に起きたいろいろは難しかった。どうにも答えが簡単に出ないもので、納得するのに時間がかかるものばかりだ。難しい試験にぶつかった時に、頭がパンクしてしまうような気持ちだった。
何もなかったことにしてもいいのだけれども、目に入った以上どうにか消化しなければ落ち着かず、消化しようと思ってみてもするのが難しいものだから十秒間まったく声も出さず、肩に担がれて運ばれるばかりになる。
しかしこれは結果的に見てよかったことだともいえる。なぜなら下手に口を開いていたら、舌をかんでいた可能性が高い。錬太郎の防具一式が気を使ってくれているので、それほど衝撃は伝わっていないが、それでもかなり不安定な姿勢で移動しているのは間違いなかった。
白百合が用意してくれた光のラインを錬太郎は必死で追いかけていた。初めは床を這うようにして光のラインが走っていたが、三十秒ほど走ったところで重力を無視するような軌道を描いた。どうやら階段状のものがあるらしく、縦にまっすぐ伸びて、ヘビがうねるような動きを見せた。単純に蛇のようにうねるのならば問題ないのだが、かなり高く飛び、また跳ねるように移動しなければならない軌道だった。
錬太郎の目測では最大縦に二メートル、最大横に五メートルの距離を自在に駆け上がらなければならなかった。明らかに不可能な道だった。
しかし錬太郎はあきらめずにかけぬけようとした。ここであきらめたら本当に何もかもが終わるからだ。白百合の話ぶりを錬太郎はしっかりと耳に入れているのだ。白百合の上司睡蓮は錬太郎を何としてもここに閉じ込めようと動いている。話の内容から察するに本来なら勝手に白百合の寝床にアクセスる権利もないのに閉じ込めるためだけに無理やり入り込んできたという話である。
若しもほんの少しだけそれこそ口を出すだけで何もしないというのならば、錬太郎もおとなしくしていたかもしれない。錬太郎も口では嫌だというし、態度にも嫌だという気持ちを出すだろうが、問答無用で駆け抜けるようなまねはしなかった。
そしておそらく全身全霊をかけて逃げ出すようなこともなかっただろう。しかし、相手が本気なのはまずかった。自分の情熱を満足させられる道を見つけたいとはっきり心に抱いている人間にとって、完全に抜け出せない牢獄に放り込まれるのは恐怖でしかない。
錬太郎の全力疾走は恐怖からの疾走なのだ。しかし後ろから追いかけてくるのはお化けだとか殺人でではない。超能力を使いこなし、高度な技術を操る存在のさらに上の存在。対抗手段はまったくないと思っていいだろう。
逃げないわけにはいかない。ここでちょっとした障害物を前にしてビビって足を止めてはいられないのだ。そんなものは牢獄の恐怖と比べれば大したことはない。
しかし間違いなく障害物たちは錬太郎の足を止めさせる難しさがあった。普通に考えて何の足場もなく二メートルの高さを上るのは無理である。また、鬼島笹百合を連れて逃げようとしているのだから、余計に難しくなる。あきらめたくはないけれども間違いなく錬太郎には限界があった。今のままの錬太郎ではどうしても無理だった。
ではどうするのか。それは錬太郎と戦ってくれた銀色のフクロウが教えてくれた。錬太郎の体を包み込む防具となっていた銀色のフクロウが、マントをひるがえしたのである。翻ったマントは風を捕まえていた。このマントに捕まえられた風たちは、いともたやすく錬太郎の重さを消してくれた。錬太郎は一瞬バランスを崩したが、すぐに立て直した。鬼島山百合が教えてくれたように腕を使ってバランスを取ったのだ。しかし片腕だけだ。もう片方の腕は鬼島笹百合を捕まえているので使えなかった。
しかし問題はない。風の力で錬太郎は高く飛んだ。縦に飛び、壁を乗り越え、光のラインを追いかけて、横に大きく飛翔した。
光のラインはさらに複雑な軌道を描いて上に上に登っていく。しかしそれでもなお錬太郎は問題なしと駆け上がっていった。
錬太郎が無茶苦茶な軌道で駆け上っていく間、鬼島笹百合が悲鳴を上げた。しかし小さな悲鳴で、呻いているような悲鳴だった。目を大きく見開いて、口は半開きになっていた。また自由にぶらつかせていた両腕は、錬太郎の体をしっかりと捕まえていた。
鬼島笹百合は完全に恐れおののいていた。鬼島笹百合は上下左右する景色を目の当たりにしているのだ。錬太郎はまったく気にせずに駆け上っているが、肩に担がれている鬼島笹百合からしてみると非常に危なっかし光景に違いない。
錬太郎はいいのだ。自分が体を動かして、次にどういう行動をとるのかがわかる。心の準備もできるだろう。しかし鬼島笹百合にはそんなことはできない。ただ身をまかせるだけだ。鬼島笹百合は白百合に連れ去られていた時よりもずっと怖れを感じていた。
というのが、錬太郎が跳ねまわる緩急自在の運動は、あまりにも現実味がありすぎた。つまり中途半端な高さで行動しているので、恐怖が余計に増大していた。白百合の飛行というのは何となく現実味がない飛行だった。
夢の中にいるようなそれこそ天使と一緒に空を飛ぶようなそんな飛行なのだ。しかし錬太郎の行動は現実に即した運動で、落ちたらどうなるのかとか、ぶつかったらどうなるのかという当たり前の考えがあまたの中によぎりやすい。
どちらがより危険なのかではなく想像しやすいかどうかなのだ。この一点で間違いなく錬太郎の行動はリスクを想像しやすかった。落ちたら間違いなく死ぬだろうというという考えを呼び起こして、悲惨としか言いようのない悲鳴を連続してあげる結果になっていた。
しかし悲鳴が聞こえても錬太郎は止まらなかった。縦に大きく飛び、横に素早く移動して白百合の作ってくれた光のラインを追いかけた。息は切れていない。風が錬太郎の背中を押してくれていた。
また、不安の色もなくなっている。風を捕まえて動くことを思い出し、実際に行動して磨いて結果を出したことで心の迷いがなくなっている。
つまり絶対につかまってやるものかという意志を手に入れて、より勢いを増したのだった。今の今までは錬太郎には不安があった。
かけぬけられるのかわからないという不安である。確かにものすごく速く走れているし、かなりスタミナも持つようになっているけれどもまだまだ、できるのかできないのかわからないことが多すぎる。
鬼島山百合が見せたような天狗のような動きもできないし、白百合のように空を飛びまわる天使のような動きはどうやってもできない。
錬太郎は超能力初心者なのだ。そんな錬太郎であるから、心の中にはやはりできるだろうかという気持ちがある。
その気持ちは先ほどの上下左右に飛び回る階段、今も登っている階段と出会った時に抱えていたものである。しかし今はない。自分にもできることがあるとわかって自信がついていた。本当に初心者でしかなくまだまだ神通力を使いこなせているわけでもなんでもないが、それでも小さ自信は困難に打ち勝つ勇気をくれる。
この勇気が錬太郎を励まし、絶対に逃げ切ってやるという気持ちを強めるのだ。錬太郎につかまってしまうだろうかとか、階段から落ちて死んでしまうのではないかという不安はない。ただかけぬけてやるという気持ちで心は統一されていた。
鬼島笹百合を錬太郎が担いで姿を消したあとのこと、白百合は錬太郎の背中を見送っていた。錬太郎に向ける視線は優しかったけれども、両手の指は忙しく動いていた。白百合は睡蓮の邪魔をしているのだ。
睡蓮が白百合の本拠地である海波根島にちょっかいをかけてきているのは疑う余地のない事実である。正式な許可もないのに勝手に装置を動かして錬太郎を閉じ込めようとして白百合のコントロールをほんの少しだけ奪っていた。
睡蓮が上から命令してくるだけならば思い切り反抗するようなことはなかっただろう。錬太郎を拘束してくれと命令をされたのならば、立場上は一応命令を聞かなければならないので、その通りに動くのが白百合である。
実際錬太郎を捕まえておけと命令されていやいやながら錬太郎を力で押さえつけようとしたのだから嘘ではない。
しかし、錬太郎は白百合を一度退けて、約束を果たしている。睡蓮から与えられた錬太郎の拘束という仕事は失敗で、錬太郎は無事に外に出て行かなければならないというのが白百合の落としどころである。少なくともそのように行動するのは白百合にとっては、まったくおかしなことではなかった。
白百合が全力で錬太郎を逃がすために行動を起こしていると、どこからともなく睡蓮の声が聞こえてきた。今までとは違って、かなり焦っていた。
「白百合、あんた本当に何を考えているの?
錬太郎を外の世界に出せば、あの時みたいにあっさりと死んでしまうかもしれないのよ?
あなたたちに伝えたわよね、人の子たちがおかしなことを考えているって。
きな臭くなっているところに錬太郎を放り出せるわけがないでしょ? ねぇ、あなたならわかるはずよ、そうでしょ?」
睡蓮の話を聞き終わった白百合はこういった。
「錬太郎ちゃんは自分で歩いていきたいといっているの。私たちは邪魔をしたらダメよ。私たちは私たちの役割を全うするだけでいいの。
たとえイオニス・タイム博士の恩人だからといって過保護に扱って成長の芽を摘んではいけないわ」
白百合の答えを聞いた睡蓮はこういった。
「何をバカなことを……錬太郎は特別。そうでしょ?
それにいつまでも私に抵抗できるわけでもないこともわかっているはずよ。私はあなたたちとは違って母親にはなれないけれど、誰よりも特別なんだから!」
猛る睡蓮に白百合はこういった。
「お互い譲る気はないのよね、わかっていたけど。
でもね、そのくらいのことは予想できちゃうのよね。
睡蓮、あなた少し冷静になりなさい。私たちは強く干渉してはならない。人の時代は人が行く末を決めていけばいい。それだけなんだから」
白百合が両手の動きをやめた。どこからか睡蓮の笑い声が聞こえてきた。睡蓮はこういった。
「はぁ? さみしがり屋の癖に何を強がって……何よこれ。
ほかの船から警告? 私の権限を一時制限? どうして? 外部へのリンクはしっかりと断ち切ったはずなのに」
困り果てている睡蓮に白百合が答えた。
「睡蓮、あなた頭に血が上りすぎなのよ。子供たちを侮り過ぎね。あなたが私に干渉してきたとき、私のかわいい御子がいたでしょ? その子が動いてくれたのよ。丁度虎の子供たちもいてくれたから、あっという間でしょうね。
残念だわ睡蓮。あなたとおしゃべりができなくなるのはさみしいわ。一年間おとなしくしていてね」
白百合が正解を教えると睡蓮はうなった。そしてこういった。
「いいわ、今回は私の負けよ。でもね、錬太郎を外に出したらどうなるか私のほうが絶対よく理解できているわ。私だからこそ、わかるのよ。
予言しておいてあげるわ白百合。錬太郎を閉じ込めておいたほうがよかったとあんたは後悔するわ。
あの子はそういう子なの……それじゃあね、白百合。一年後に会いましょう」
睡蓮の声が聞こえなくなると、白百合はほっと一息ついた。しかし一息ついたのもつかの間、白百合は目を見開いた。白百合はとても驚いていた。睡蓮が最後の最後にきつい一撃を見舞ってきたからである。
これは白百合のコントロールを奪っていたのを利用して、錬太郎の妨害を行ったのであった。白百合からしてみれば、睡蓮というのはここまで執念深い存在ではないというのが頭の中にあった。
長年の付き合いからして睡蓮というのはどちらかというと冷淡なタイプであって、生命の生き死にに対してもあまり感情を震わせない存在だった。
当然だけれども錬太郎にこだわっているといっても少し興味があるくらいの気持ちだと思っていた。しかし最後の最後まで錬太郎に執着して、そして最後の最後まであきらめずに妨害してきたのだ。
あまりにも熱い執念に白百合は驚かされた。もちろん錬太郎の妨害工作を短い隙間に打ち込んできたというのも驚くべきことだったが、それよりは初めて見る一面に驚かされていた。
しかしコントロールを取り戻した白百合にとっては大した問題ではない。丁寧に取り除けばいいだけ。白百合はそのように考えて錬太郎に仕掛けられた妨害工作を取り除いていった。白百合が障害物を取り除いているときだった。
白百合の体が跳ねた。稲妻に打たれたような調子で体を震わせた。そして白百合は音を立てて床に倒れこんだ。白百合の体は言うことを聞かなくなっていた。
このようになったのは睡蓮のせいである。睡蓮は白百合がどういう行動を起こすのか予想していた。これはつまり、白百合が睡蓮に反抗するというのならば当然だが、錬太郎に味方するだろうという予想である。
睡蓮は自分の権限が制限されるというのがはっきりした時に、最後の悪あがきをおこなった。それは錬太郎の妨害ではなく、確かにそれも一つだが、白百合に対して攻撃を仕掛けたのだった。
攻撃とは錬太郎に最後に仕掛けた妨害を白百合が余裕ぶって解消しようとした時に行われるいわゆるウイルスのような仕掛けであった。
白百合を完全に倒しきれる攻撃ではなく、ほんの数分間白百合を拘束するだけの仕掛けでしかないけれども、最後の妨害を止められないというのならばまったく問題なかった。
なぜなら睡蓮が最後に仕掛けた妨害は、数分の間に完了し、完了した暁には錬太郎は丁寧に保護されることになるからである。何にしても睡蓮の仕掛けによって、白百合は一時行動不能に陥った。
白百合は意識を失う前に錬太郎の無事を祈った。
白百合が行動不能になった後、錬太郎はまだ上に上にと駆け上っていた。初めこそ恐ろしく高く飛んだり跳ねたりしなければならなかった道だったが、今は単純な坂道になっていた。しかしこの道というのはなかなか曲者で、いつになっても終わりが見えなかった。
おそらく地上に続いているのだろう縦穴に螺旋階段のように坂道がスロープのようにくっついているのだ。
風を捕まえて超能力による補助を行った錬太郎が全力で駆け抜けているというのにいつになっても終わりが見えないのはなかなかのものだった。駆けのぼっていく錬太郎であるが、かなり消耗している。
今までは息も切らさずに走っていたのだけれども、いよいよ息が上がり始めていた。全力疾走を数分間行えるというだけで十分な体力があるといっていいし、そもそも真剣勝負を連続して行っているのだから、怪物のようなスタミナがあるといったほうがいいが、さすがに連戦の疲れと精神的な疲れが合わさって、体力の限界を迎えようとしていた。
しかしそれでも錬太郎は上に螺旋を描く上り坂を駆け上がっていくのだった。
確かに苦しくてしょうがない道である。あきらめてしまいたいという気持ちはもちろんある。しかしここであきらめると二度と外に出られなくなる可能性が非常に高いのだ。息切れしている今の苦しみは一瞬であるけれども、外に出られない苦しみは永遠である。それならば、たとえ苦しくとも、先が見えなくともあきらめるわけにはいかなかった。
錬太郎が上り坂を駆け上がり始めて数分後のことである。鬼島笹百合が大きな声を出した。彼女はこういった。
「錬太郎君、なにかが下から追いかけてきている! なんなのあれは、銀色の水? どこからこんなものが」
鬼島笹百合が異変を察して叫ぶが、錬太郎は振り返らなかった。今まで以上に全身の力を振り絞り、上を目指して駆け上がり始めた。マントにとらえていた風は勢いを増して、錬太郎の体を上に上に押し上げ続けている。
今の錬太郎は空を飛ぶ鳥と変わらず、錬太郎の心境とは反対に駆ける姿は優雅ですらあった。鬼島笹百合の叫びがいったい何者から引き起こされたのかという疑問は錬太郎にももちろんある。
白百合が睡蓮を止めようとしているけれども、うまくいかない可能性も十分考えられたので、その類だろうかと推測するのは難しくはなかった。
目で確認しなかった理由は簡単で、なんとなくだが察しがついているからである。これは超能力を使ったからわかるのではないのだ。大きな縦穴の一番下、錬太郎が駆け昇り始めたところから、水の流れる音が響いてきているのに気付いているのだ。
走っているときには走りに集中していたので聞き逃していたけれども、鬼島笹百合が大きな声で警告を出したことで、聴覚が異変を察して錬太郎に何が追いかけてきているのかを予想させたのだ。そして予想ができた錬太郎であるから、まったく勢いを弱めず、それどころか勢いを増して駆け抜けてやろうと心を固くするのだった。
絶対につかまってやるものかと錬太郎が勢いを強めていくと、肩に担がれている鬼島笹百合は、うめき声をあげた。カエルがつぶれるような声だった。うめき声をあげる鬼島笹百合にかわいらしさというのはなくなっていて、何ともつらそうな顔をしていた。錬太郎が恐ろしい加速を始めたから体に力がかかっているというのもまず一つの理由である。
しかしこれはそれほど大して醜態をさらすことになっている原因ではないのだ。というのが錬太郎の防具一式が鬼島笹百合に対してかなり気を使ってくれているので、衝撃自体はジェットコースターに乗っているときとそれほど変わらない。むしろ快適な状態だった、かつがれているという点に目をつぶればであるけれども。
うめき声をあげて、つらそうな顔をしている一番の理由は、背後から、地下深くから押し寄せてきている銀色の水があまりにも大量で、恐ろしい勢いで増えてきているからであった。そして銀色の水がどう見てもただの水ではなく、下手に触れるようなことをすればおかしなことになると察せられた。
銀色の水は水のようにふるまっているのだけれども、波打つときに人間の手のようなものだとか、口のようなもの、また、獣たちの牙のようなものが水のふりをやめて獲物を捕らえようともがくのだ。どう見てもまともな代物ではなくつかまった時にどうなってしまうのかを想像すると嫌な気分にしかならなかった。
大量の銀色の水が背後から錬太郎たちを追いかけ始めて三十秒後。鬼島笹百合と錬太郎の頭上に淡い光が降り注ぎ始めた。
鬼島笹百合が自然光の存在に気付く、それと同時に錬太郎も同じように地上が近いことを確信した。しかし錬太郎は駆けあがる勢いを全く弱めなかった。なぜなら錬太郎が足を止めれば、あっという間に銀色の水に追いつかれてしまうからである。
錬太郎がものすごい勢いで駆け上がってきていたが、大質量の銀色の水たちもあっという間に縦穴を埋め尽くし鬼島笹百合と錬太郎まであと少しというところまで追い上げていた。
淡い自然光を目印にしてさらに錬太郎は螺旋階段の上り坂を駆け上がった。かなり息が切れて、走り始めた時の勢いはなくなっていた。しかしそれでも全身の筋肉を脈動させて、かけぬけようとしていた。
そして錬太郎はようやく縦穴の螺旋階段を上り切った。しかしまだ、出口ではなかった。登り切ったところに出口に通じているのだろう横穴が伸びていた。耳を澄ませば、横穴の終わりから、波の音が聞こえてくるのがわかる。
しかし今の錬太郎には波の音を楽しむ余裕はなかい。自分の呼吸の音と、血管が血液を激しく送る爆音で小さな波音など聞き分けられるわけもない。
しかし錬太郎の肩に担がれている鬼島笹百合は出口がどこにつながっているのかをすぐに察した。海の匂いが横に伸びている洞窟の出口から届いているのに気付いていた。
しかしやはり安心できる状況ではないのだ。銀色の水もまた錬太郎まであと少しというところまで迫っている。
すでに縦穴を上り切り、錬太郎のくるぶしへ飛びかかろうとしていた。錬太郎が目の前にいるとわかった銀色の水は、水のふりをやめて大量の手になり、大量の牙になり、錬太郎を捕まえにかかっていた。
出口を確信した時、錬太郎は駆けだした。今までにないほど心臓が高鳴り、全身の筋肉は一瞬だけ疲れを忘れた。あきらめる気持ちはなくなり、ただかけぬけるのだという情熱だけが残っていた。ただ出口へ向かう。ただ自由でありたい。
その気持ちが最後の力を振り絞らせた。最後の力を振り絞った錬太郎であるけれど、やはり初めのころよりもずっと遅かった。頑張ってはいるけれどもずいぶん遅くなっていた。縦穴を駆け抜けた疲労、連戦の疲労は錬太郎の体力を完全に奪い去っていた。
出口まであと半分、距離にして五十メートルほどのところで鬼島笹百合がこう言った。
「一人で行って、錬太郎君だけなら!」
鬼島笹百合は覚悟を決めているようだった。鬼島笹百合には確信があるのだ。確信とは、錬太郎一人だけならば間違いなく逃げ切れるだろうという確信である。鬼島笹百合は大人の女性にしては華奢である。しかしそれでも数十キロの重さがあるのだ。錬太郎は軽々と持ち上げて、当たり前のように全力疾走をして、鳥のように空中を跳ね回ったがそれでも体力がなくなってくれば、重たく感じるようになり、邪魔になるだろう。
鬼島笹百合は錬太郎が助かるのならば、自分が犠牲になってもいいと思うようになっていた。確かに銀色の水は恐ろしい。凶暴な意思を感じられる。しかし錬太郎をとらえることが一番だと謎の声、睡蓮が話していたのは聞いていた。
ならば、殺されることはないだろうし、ひどい扱いを受けることもないと考えていた。そのためここで錬太郎が捕まるよりも自分が代わりにつかまって、あとから白百合にでも掛け合ってもらえばいいだろうと考えた。しかしそれでもやはり恐ろしかった。助けてもらえる確証は全くないのだから。
鬼島笹百合が自分を捨てて行けと言い終わるのと同時に、鬼島笹百合は空中に放り出された。錬太郎の肩に担がれていたのだが、それがふわりと飛び上がり、錬太郎の数メートル前に放り出されたのであった。つまり出口に向かって放り出されたのだ。
鬼島笹百合は何が起きたのかすぐに理解した。そしてどうしてそんなことをしているのかというのを投げ出された空中で理解した。鬼島笹百合は自分を投げはなった錬太郎の左の足首に銀色の人間の手がつかみかかっているのを見たのである。そして、その背後から大量の手が錬太郎を引きずり込んでやろうとしているのも見た。
鬼島笹百合が空中にいる間に、左の足首を握った銀色の手が錬太郎の足を引っ張った。錬太郎の左足と右足が、空中に投げ出された。短い時間の中で起きた出来事を鬼島笹百合は涙を浮かべながら見つめていた。錬太郎がこれからどうなるのか、簡単に想像できたのだ。そして自分もまた、錬太郎と同じ運命をたどるとも。
あと少しで銀色の手の波が錬太郎をからめ捕るという時だった。銀色のフクロウ、今は赤黒くなった銀色のフクロウの防具一式が、鳴いた。
同時に、何もない空中を錬太郎の両手がつかんだ。錬太郎の左足首を握っていた銀色の手が、本体から切り離されて悲鳴を上げ始めた。
銀色の手の拘束から逃れた錬太郎の両足が、空気をけった。
鬼島笹百合は空気を足場にして飛ぶ、錬太郎の姿を見た。空気を足場にして、錬太郎は両手両足の力を全力に使い、まっすぐに鬼島笹百合を目指して飛んできた。燕が獲物を狙うように低く飛び、右手で鬼島笹百合を抱きしめると、あっという間に残りの五十メートルを駆け抜けた。
左の足首にあきらめずに錬太郎の足首を握りしめているのも気にせずに一気に駆けていた。
一気に飛び出した鬼島笹百合と錬太郎だが、着地はうまくできなかった。後ろから追いかけてくる銀色の水たちは振り切っていたけれど、勢い良く駆け抜けることだけを考えていたので着地について全く計画がなかったのである。
ただ、少しだけ幸運だった。洞窟の出入り口には錬太郎の勢いを殺す大きな縄のようなものがゴールテープのように張られていて、それに思い切り突っ込むことで勢いがかなり軽減された。そしてその先にあったのが海岸と、海だったので鬼島笹百合と錬太郎は、砂浜に転がり落ちて、波打ち際でようやく止まることができていた。
残念なのは波打ち際まで勢いを持って吹っ飛んだので、鬼島笹百合は水浸しになっていた。これは錬太郎も同じだった。
二人が地上へ戻ってきたときだった。錬太郎たちの後を追いかけて、銀色の水たちも外へ出ようとしていた。錬太郎と距離を開けられた現色の水たちであるが、やはり素早かった。数秒もしないうちに外へと出てこようとしている。
しかし銀色の水たちは外へ出てこれなかった。銀色のスズメのお面をかぶり紺色のロングコートを着た鬼島山百合が風を操って洞窟の奥へと押し戻してしまったのである。
そして鬼島山百合がどこかに連絡を取るような動作をするや否や、洞窟の出入り口に壁が現れて、初めからそうだったかのように銀色の水を閉じ込めた。
脱出を果たした鬼島笹百合と錬太郎だが、波打ち際にいた錬太郎が、苦しみ始めた。激しい痛みに悶えていた。錬太郎が抑えていたのは左の足首である。鬼島笹百合が見るとそこには銀色の手があり、銀色の手は錬太郎の防具を通り抜けて、下に下に沈み込んでいっていた。
鬼島笹百合はこれを見て、すぐに鬼島山百合を呼んだ。
鬼島笹百合は孫の尋常ではない様子に飛びあがり、一気に錬太郎のもとへと移動した。突風が鬼島山百合の体を運び、百メートルの距離を飛び越えさせた。錬太郎の不格好なものではなく、手慣れた実に美しい移動術だった。
そして錬太郎が銀色の手に足首を握られ苦しんでいるのを見て、念力を持って引きはがした。念力で引きはがされたそして銀色の手は風にあおられて、竜巻の中でもがくごみのように回転して、雲散霧消し、波の間に消えていった。
鬼島笹百合が錬太郎に声をかけた。
「大丈夫? もう銀色の手はとれたよ痛いところはない?」
鬼島笹百合の質問に、錬太郎は答えた。
「まだ、痛いです。やけどをしているような」
錬太郎が痛みに耐えていると、錬太郎が身にまとっている防具一式があっという間に小さなフクロウに変化した。今まであった杖の部分はなくなりいよいよ小さなフクロウとして動き出していた。様子が違っているのは生き物のように動き回っているということ以外にもある。
というのは、今まではきれいな銀色の体毛であったのだが、いまは体毛の奥の部分肌にあたるところ、そして羽の根元から羽の先に伸びている芯の部分が赤黒く染まっている。また二つの銀色の目だったものが赤黒く染まり禍々しく輝いていた。
フクロウの防具がなくなり素肌がさらされた錬太郎の左足首を見た鬼島笹百合は口元を抑えた。二つの目に涙がにじんでいた。錬太郎の左足首にひどいやけどのような模様が浮かんでいた。銀色の手に掴まれたせいだろう、足枷のように見えた。
そしてあまりにも痛々しい感じられて、どうすることもない悲しみを感じてしまったのだった。
錬太郎の左の足首の異変を察した鬼島山百合がどこかに連絡を取った。鬼島山百合の口調はかなり厳しかった。そして数十秒ほど話をしてようやく錬太郎にこう言った。
「どうやら、さっきのが最後の悪あがきみたいね。睡蓮とのリンクは完全に切れたらしいから、もう安心していいわ」
鬼島山百合の話を聞いた鬼島笹百合は黙っていた。黙って錬太郎の傷ついた体を見つめていた。フクロウの防具がなくなった錬太郎の肉体はあまりにもひどい状態だった。身に着けていた衣服もボロボロになり、血まみれになっている。
血が流れ出して固まったのだとすぐにわかるほど汚れてしまっている。服に一日の付いた裂け目の数があまりにも多く、痛みを想像するだけで鬼島笹百合は悲しい気持ちと後悔の気持ちに襲われた。鬼島笹百合は後悔していた。
後悔の気持ちが錬太郎の体から目を離せなくさせているのだ。罪悪感といってもいいだろう。自分がこの島に錬太郎を連れてこなければ、こんなひどい目に合うことはなかった。おそらく錬太郎の秘密も漏れることはなかっただろうし、怪我をするようなこともなかったはずだ。そう思うと鬼島笹百合の目は罪悪感で動かなくなり、ただ自分の罪の象徴である錬太郎の肉体から目を離せなくなってしまうのであった。
鬼島山百合と鬼島笹百合の何とも言えない顔をしている中で、錬太郎はこういった。
「すみません、もう無理っす」
波打ち際で錬太郎は倒れこんだ。寄せては返す波が体にかかるのも気にせずに錬太郎は砂浜に倒れこんだのだ。錬太郎が倒れこんだところに波が何度も打ち寄せてきたが、全く錬太郎は目を覚まさないどころか、むしろ安心したような顔をして寝息を立て始めた。
眠っている錬太郎の背中に赤黒い禍々しい体毛の小さなフクロウが止まった。そして錬太郎を捕まえたまま翼をはばたかせた。錬太郎を持ち上げようとしているらしかったが、力が足りていないらしく錬太郎は少しも浮かび上がらなかった。
波打ち際で倒れこんだ錬太郎であるが、すっかり力をなくしてしまっていた。少なくとも、立ち上がる力は残っていないし、戦う力など全く残っていなかった。また、心の力も少しもない。意地を張るようなこともできないだろう。だから全く動けない。
それはそうで、錬太郎は非常に疲れていた。錬太郎はたくさんの戦いを潜り抜けてきた。白百合が仕掛けてきた戦いも、白百合が放ってきた刺客たちとの戦いも、そして最後の銀色の水たちの追跡も錬太郎は潜り抜けてきた。乗り越えてきた。それは素晴らしいことである。
しかしその戦いにはたくさんの体力を使うことになった。どの戦いも真剣に取り組んで、力を出し惜しみすることはなかった。そして、心の力も残されていない。心の力とはやる気のようなもの。自分の支えになる目的が錬太郎にはなくなっているのだ。
今までは鬼島笹百合を取り戻すのだという強い気持ちがあった。その強い気持ちが錬太郎を頑張らせた。やる気をみなぎらせて何が来ようと必ず乗り越えてやると思うことができた。しかし今はない。
なぜなら錬太郎はやり遂げて、鬼島笹百合を地上まで連れて帰ってきた。頑張る理由はなくなったのだ。肉体的な力も精神的な力も完全に使い果たして、あとは何が残るのか。消耗した錬太郎だけである。
そして消耗しているというのなら休まなければならない。一応ここまで頑張ってきたものの、これ以上は錬太郎にも無理というところまで来て、そして錬太郎はやり遂げたという気持ちになって、緊張を解いた。
そして波打ち際という眠りにつくには危ない場所で眠るようなことをやってしまったのだった。赤黒い禍々しいフクロウが錬太郎を捕まえて運ぼうとしていたのは、錬太郎を助けようとしているからである。
こんなところで眠ってしまえば、間違いなく呼吸ができなくなりひどいことになる。また夏の暑い時期であるからといってやはり長い時間水の中にいれば、体温が奪われるだろうからこれも危ない。フクロウは錬太郎のために動いていた。
錬太郎がバタンと音を立てて波打ち際に倒れるのを見て、鬼島笹百合は青ざめた。真っ青になり、息をのんだ。きっかけは倒れた錬太郎を見たことだ。倒れた錬太郎を見て彼女は錬太郎が死んだと思った。
何せ錬太郎はあり得ないほどの勢いで戦いを繰り広げていた。神通力というよくわからない力を使っているのも見ていたし、恐ろしい攻撃を受けて戦うところも見ている。
そして最後の最後で息を切らせながら鬼島笹百合を運んで地上に駆け上がったのも知っているのだ。どう考えても人間の肉体が耐えられるような運動量ではなかった。
だから錬太郎が音を立てて倒れた時、死を覚悟した。そして錬太郎の死を感じた時、非常に恐怖を覚えたのだ。
この恐怖とは錬太郎を失うことでもって大量のいろいろなものを失うという恐怖である。例えば、錬太郎が海波根島で死ぬようなことになれば、間違いなく花飾晶子は、鬼島笹百合から離れていくだろう。死の真相に行きつくようなことがあれば、花飾晶子は弟の仇を取るために動き出す可能性さえある。
そして鬼島笹百合の妹、鬼島姫百合も笹百合を責めることだろう。何せ鬼島姫百合にとって錬太郎は目をかけている後輩である。意味の分からない理由で命を狙われて、襲われて、その末に死なせたなどとなれば、怒り狂うにちがいない。
おそらくほかのいろいろな関係も破綻するだろう。ただ、その他大勢の関係が破たんするのはそれほど問題ないのだ。たいして価値はないと思っているところがある。
しかし花飾晶子との関係、友情が完全に破たんするのは間違いなくそれは何よりも鬼島笹百合にとっては恐ろしかった。おそらくこれからの人生を通じて花飾晶子との友情以上に得難いものはないと彼女は考えているところがある。
しかし、この恐怖が鬼島笹百合を青ざめさせたのではないのだ。この恐怖を感じた自分自身が何よりも恐ろしかったのである。錬太郎の心配ではなく自分の心配をするような自分自身が恐ろしかった。あまりにも不誠実で、いやしい自分の顔が見えたのだ。そしてすぐに自分を責めて正さなくてはならないという考えが浮かんできた。ただ、それさえも計算高く思えて、彼女の顔は直ちに青ざめるのだ。
青ざめている鬼島笹百合を横目に見て、鬼島山百合が動き出した。錬太郎の体を風で浮かび上がらせて、波打ち際から移動させた。そして太陽が見えるように仰向けに寝かせた。風に運ばれた錬太郎は寝息を立てて眠り始めた。
どこからどう見ても気持ちがよさそうに眠っているだけに見えた。激戦を繰り広げたうえ、奇妙な銀色の水に追い掛け回された人間には全く見えなかった。
鬼島山百合であるけれども、少し困っていた。どうしたらいいだろうかと鳥のお面の下で考えている。悩んでいる理由というのは、錬太郎の体にある。
錬太郎の体というのは非常に大きい。身長が百九十センチ、体重が百キロを超える。がっしりとした肉体の持ち主で、どう見てもひとりで運べるような体ではない。
風を使って運ぶことも当然できる。鬼島山百合ならばたやすいはずである。ほんの数秒までに錬太郎を浮かび上がらせて移動させたのだから全くできないなどということ自体がおかしい。しかし、それは人の目がないからできたことなのだ。
というのがこれから鬼島の家に錬太郎を連れて行こうとするとどうしても人の目があるところを移動することになる。その時に人が空中に浮いているというのはどう考えてもおかしいし、そもそも鬼島山百合や鬼島笹百合がどう見ても巨漢としか言いようのない錬太郎を運んでいるという光景自体がおかしな印象を与えることになる。
神通力というのははっきり言って人の目をはばかるものである。いちいち道行く島人たちにこれは神通力で行っているのだなどといえば、それこそまた面倒事が起きる。
そうなると錬太郎をさっさと運ぶというのが難しくなって、どうしたものかと鬼島山百合は考えるのだ。
携帯電話で鬼島兵辰たちを呼べばいいのだけれども、携帯電話を鬼島兵辰たちが持ち歩いていない可能性が非常に高い。錬太郎を放り出して呼びに行くというのもアリだが、それはそれで物騒で、さてどうしたものかと鬼島山百合は考えるのだった。
そうして少し悩んだ結果、結論を出した。携帯電話を取り出して葉波根みなとに鬼島山百合は連絡を取った。鬼島山百合はこういっていた。
「みなとちゃん? ちょっと海岸まで来てくれるかしら、錬太郎ちゃんが動けないのよ。
怪我? いいえ、怪我は、ほとんどないわよ。
頑張りすぎて疲れちゃったみたいなの。私が風を使って運んでもいいけど人に見られると面倒でしょ? そこに兵ちゃんたちがいるのなら連れてきてもらえる? 兵ちゃんたちなら運んでいてもおかしくないでしょうから……あら、切られちゃった」
鬼島山百合が葉波根みなとに連絡を取っている間、赤黒い禍々しい小さなフクロウが錬太郎の胸に止まって、周囲を確認していた。ぐりぐりと首を回し、ぱちぱちと瞬きを繰り返していた。どうやら錬太郎を守っているらしかった。小さいながらもなかなか様になっていた。
葉波根みなとが砂浜に姿を現したのは連絡から三分後のことだった。随分急いできたらしく汗だくになり、息を切らしていた。砂浜に到着するや否や、眠っている錬太郎に駆け寄ってきて呼吸をしているかの確認をしていた。
右手を錬太郎の口元にやって、左手を心臓に当てていた。この時に赤黒い禍々しい小さなフクロウが、気をきかせて邪魔にならない下半身のほうへと、ぴょこぴょことはねながら移動していた。葉波根みなとであるけれども彼女はやはり白百合のことを少しも信用していなかった。
確かに鬼島山百合が白百合と親しげにしているので、もしかしたら悪い存在ではないのかもしれないという気持ちにはなっていたけれどもそれでもやはりやり方が葉波根みなとからしてみるとまったく気に入らなかった。
刺客を放ってくるというのもそうだが、精神的に未熟な錬太郎をここぞとばかりに囲い込もうとしているのを見て、いよいよ不信感が膨らんでいた。
そんな葉波根みなとであるから、錬太郎が白百合の本拠地にまんまと入り込んだときに何かしかけてくるだろうと考えていた。そしてその結果錬太郎がこの島から出られなくなるのではないかなどと想像して、いやな結末を思い浮かべて不安になっていたのだ。
それこそ肉体的にぼろぼろにされて、奴隷のような扱いを受ける可能性だってあるではないかと葉波根みなとはそこまで白百合のことを信用していなかった。
そんな彼女である。錬太郎が倒れたと聞いた瞬間には動き出し、頑張りすぎたと聞いた時には泣き出していた。悪い予感が的中してしまったと、そう思った。そして錬太郎が命がけで何かを成し遂げようとしたのだと思い、眠っている錬太郎を見て急激に不安になったのだ。錬太郎は死んでしまったのではないかと。
そう思ったら確認しなくてはならない気持ちになった。彼女は思うのだ。錬太郎はまだ先に進もうとしていた。自分と同じようにどこかへ向かいたいと願っていた。そんな錬太郎を祝福しようと思う葉波根みなとは、こんなところで錬太郎が終わるのは悲しすぎると考えていた。
だから錬太郎の命の確認をしている葉波根みなとに、
「大丈夫よ」
という鬼島山百合もまったく意に介さず、やり遂げた錬太郎を彼女は祝福するのだった。
「おかえり錬太郎」
そして無事を祝った葉波根みなとは錬太郎の体をひょいと持ち上げてみせた。錬太郎の巨体を軽々と持ち上げて、肩に担いだ。それこそ錬太郎が鬼島笹百合を肩に担いでいたように、錬太郎を担いで見せた。
だが波根みなとの身長がそれほど高くないので、錬太郎の足と手が砂浜についてしまっていた。葉波根みなとは錬太郎が体を休めるのに適した場所へ向かうつもりなのだ。錬太郎が疲れ果てている理由など葉波根みなとはすぐに察せる。激戦に次ぐ激戦、見たこともない風景をかけぬけて、不条理な戦いを潜り抜けてきた。
心も体もボロボロに違いない。足を引きずって歩く錬太郎をそばで見てきたのだから、わからないわけがなかった。そうなれば、砂浜で眠らせるなどというのはどう考えてもおかしかった。休むのなら砂浜などではなく家の中がいい。畳の上、布団の中、涼しい空気の中で休むべきだろう。夏の暑い日差しの下、潮のにおいに包まれて眠ったところでどれだけ回復するかもわからない。
当然休める場所へ行くべきだった。鬼島山百合と鬼島笹百合にとって錬太郎の巨体を運ぶというのは難しい問題であったのだが、葉波根みなとには、全く問題なかった。なぜなら葉波根みなとには生まれ持った強力な肉体があるからだ。小さな見た目からは想像もつかない筋力が彼女にはある。
戦いを行えるような魂を持って生まれてこなかったけれど、救助活動になら十分すぎるほどの効果をあげられるのだ。だから彼女はまったくためらわず、ぼろぼろになった錬太郎を担ぎ上げて、休める場所へと移動しようとした。
そうして錬太郎を担ぎ上げた時、葉波根みなとは顔色の悪い鬼島笹百合にこう言った。
「おかえり、笹百合。どうしたの、顔色悪いけど? 鳥女になにかされた?」
鬼島笹百合に軽く声をかけながら葉波根みなとは動き始めていた。錬太郎の手足が砂浜について不思議な跡を作っていたけれども全く気にしていなかった。また、鬼島笹百合に声をかけてはいたけれども特に気にしているようなそぶりは見せなかった。
葉波根みなとは鬼島笹百合が狙いではないと白百合が話をしていたのをよく覚えているのだ。そのため錬太郎の心配はしていても鬼島笹百合に何か危害が加えられたとは考えていなかった。特に鬼島山百合の孫娘である鬼島笹百合だから、余計に丁寧に扱われただろうとすら思っていた。だから錬太郎よりも雑な扱いであった。
葉波根港に声をかけられてようやく鬼島笹百合は動き出した。鬼島笹百合よりも早く鬼島山百合が動き出していたのだけれども、その鬼島山百合の背中をやっと追いかけているという状態だった。
顔色はずいぶんよくなっていたが、伏し目がちになっていた。
太陽がまぶしいからでも照り返しがきついからでもない。頭の中に生まれた罪悪感と戦っていた。
葉波根みなとが砂浜に到着して五分後、葉波根みなとは鬼島の家に到着していた。葉波根みなとの頭には赤黒い禍々しいフクロウが止まっていたが、葉波根みなとは気にしていなかった。また、錬太郎の体についていた血の汚れだとかが体についてしまっていたけれども、気にしていなかった。目に力を込めて、歯を食いしばって頑張っていた。
鬼島の家に到着して錬太郎が使っている客室に葉波根みなとは錬太郎を担いで移動した。きれいにそろえるはずの靴は雑に脱ぎ捨てて、廊下が汚れるのも気にせずにかけぬけた。錬太郎の部屋に入って、錬太郎をいったん畳に下した。
そしてしまわれていた布団を引っ張り出して広げて、やっと錬太郎を布団に寝かした。そしてクーラーのスイッチを入れて、はきっぱなしになっている錬太郎の靴を脱がして玄関まで持っていく。
鬼島の玄関をくぐってから玄関に戻るまで五分と掛かっていない。かなり手際が良かった。それというのも葉波根みなとは鬼島の家に到着してからどうするべきかというのを頭の中でずっと考えていたのだ。
錬太郎は疲労困憊になっていて、一刻も早くいい状況を作り出して休ませるべきだというのが葉波根みなとの考えだった。そのため、錬太郎を運んでいる間は無駄のない行動を考え続けていたのだ。頭の中で組み立てた手順通りに彼女は動いて、実に素早くやり遂げたのだった。
しかし思いもよらないことも起きていた。葉波根みなとが錬太郎と自分の靴をきれいにそろえて、錬太郎が眠っている部屋に戻ってきたときのことである。
錬太郎が眠っている部屋の中に、翼の生えた女性。白百合が待ち構えていたのだった。錬太郎の眠っている横に白百合は正座していて、葉波根みなとが姿を現したのを見ても少しも驚きもせず、微笑みを浮かべるだけだった。
白百合がいるということがわかると、葉波根みなとは警戒心をあらわにした。明らかに不審者を見る目で白百合を見つめ、両手両足に力を籠め始めた。いつでも飛びかかれるような格好を作っていたが、どう見ても戦いを経験したことがない人間の構えだった。
そして葉波根みなとはこういった。
「あら、白百合様。どうしてここに? ここは錬太郎の部屋ですよ?」
葉波根港が白百合に話しかけると、白百合はこう答えた。楽しそうに笑っていた。
「そんなに嫌われると私悲しいわ。でも、そういう自立心の強い子は大好きよ私。残念だったわね、私に好かれちゃって。
神社に運ばなかったのはやっぱり私を警戒してのことよね? まぁ、ここもはっきり言って危ないと思っていたんでしょうけど、自分が見張りに立てば大丈夫みたいな? 錬太郎ちゃんが起きるまで見ているつもりなんでしょ?」
葉波根みなとの考えを分析して話しかけながら、白百合はここに座れと自分の隣の畳をたたいていた。
そうすると葉波根みなとはかなりいぶかしみながら、白百合の隣に座った。きちんと正座をしていた。そしてこういった。
「錬太郎なら、放っておいてあげてください。疲れて眠っているんです」
葉波根みなとが白百合の出鼻をくじこうとしたが、全く見当違いであった。白百合は少し間を開けてからこう言った。
「錬太郎ちゃんではなくて、みなとちゃんに用事があるの。 大事な話だからよく聞きなさい。人払いはできているから、よく考えて答えてね」
それから二人は話し合った。話し合いは数十分に及んだ。しかし葉波根みなとは最後には納得した。
白百合の提案は葉波根みなとにとってさっぱり理解できないものだった。詳しい説明を聞いてもまったく理屈が通っていなかった。
しかし白百合の提案は仕方がないものにも思えた。白百合のさみしさを少しだけ葉波根みなとは理解できていた。
葉波根みなとは少しだけ考えてから、これからのことを決定した。それが錬太郎にとっても自分の未来にとってもいい結果を残せると考えた。きっといい未来が生まれると信じたのだ。
二人が何を話したのかは誰も知らない。白百合の人払いは完璧であったし、白百合の命令を鬼島山百合はしっかりと守っていた。
ただ、一つだけ忘れている存在がいた。錬太郎を守っている赤黒い禍々しいフクロウ。彼だけはすべての話を聞き取り、すべてを覚えていた。ただ、彼もまた悲しさを理解できるらしく目をつぶっていた。




