第六章 記憶
鬼島山百合と兵辰の道案内で錬太郎は山道を上に上に登っていった。鬼島山百合と兵辰は、錬太郎に気を使ってくれているらしく普段よりもずっとゆっくり歩いてくれていた。
そして二人の後を追いかける錬太郎は左足を引きずりながら、ジャズからもらった銀色の杖を使い何とかついてあるいていった。
山道を歩く錬太郎は非常に汗をかいていた。汗がほほを伝い地面に落ちていくほどである。照りつける太陽は問題ないのだ。問題なのは左足だ。錬太郎が歩いている山道はそれほど険しい道ではない。少し角度が付いた登り道だ。
しかし杖を突きながら、痛む左足をかばいあるくのは非常に苦しかった。普通の状態ならば何のことはない。汗をかくこともなく平然と先に進めるだろう。
しかしこれまでの無茶がいよいよ左足の痛みを悪化させている。無茶をしているときは痛みを忘れることができるのだが、落ち着いてくると今までのつけが一気に押し寄せてくる。そんな状態で山道を歩こうとするのだ。
全身の筋肉をこれ以上ないほど使い、足をかばいながら動かなくてはならなくなる。そうして全身の筋肉を稼働させるものだから、激しい熱が生まれ汗がしたたり落ちるようになる。
しかしそれでもあきらめてはいなかった。目にしっかりと力がこもっていた。鬼島笹百合を連れ戻す。このたった一つの目的が錬太郎の心を支えていた。
錬太郎が山道に苦戦していると、鬼島山百合がこんなことを言った。
「花飾くん、神通力が使えるのなら鳥頭から受け取ったコートに力を通してみるといいわ。風があなたの味方になってくれる」
錬太郎にアドバイスを送る鬼島山百合は跳ねるように山道をかけて見せた。今までも非常に身軽な足取りであったが、これは本当に伝説に聞く天狗のような身のこなしであった。
足場の悪い山道を自在にふわりふわりと飛び回るのである。この時身に着けている紺色のコートが風を捕まえて大きく膨らんでいた。
鬼島山百合は錬太郎を不憫に思ったのである。鬼島山百合は錬太郎の左足首の負傷をしっかりととらえている。錬太郎は平気そうにしているけれども、まともな状態ではないだろう。何せ肌が割けるほどの衝撃を足首に受けているのだから。
葉波根みなとの応急処置のために巻きつけた布も、血がにじんで真っ赤に染まっている。錬太郎の靴も同じで、左足だけ真っ赤である。こんな状態で山道を歩くなどというのは苦行としか言いようがない。
そして、問答無用で巻き込まれた錬太郎の心理的な状況を推し量れば、ただただ、不憫でしかなかった。
そうして、何かいい手段はないだろうかと考えた時、すぐに思いつくものといえば鬼島山百合の着ている紺色のコートの力を錬太郎に教えることくらいだった。この紺色のコートは錬太郎が今まで身に着けていたぼろぼろの法被と同じで、風を操る力がある。それも法被よりもはるかに強い能力である。
鬼島山百合と鬼島兵辰が不審者にふんして自在に動き回るサポートをするくらいには強力な力がある。これを錬太郎に教えて、錬太郎の助けにしようとした。錬太郎が使いこなせるのかはわからないが、試す価値はあった。
鬼島山百合のアドバイスを受けた錬太郎は紺色のコートに力を込めてみた。そうすると風もないのに紺色のコートが内側に風を捕まえ始めた。
錬太郎の体をぴったりとつつみこんでいた紺色のコートはあっという間に膨らんで、錬太郎の体をほんの少しだけ浮かせた。紺色のコートが捕まえた風の力で体が浮かび上がった錬太郎は、非常にあわてていた。
冷や汗が額に浮かび上がり、目を大きく見開いていた。そして両手をバタバタとさせてた。
まさか体が浮かび上がるなんて思いもしなかった。確かに鬼島山百合は紺色のコートの力をうまく使い天狗のように自在に山道を移動している。それはわかっているのだ。しっかりとみているし不審者のふりをして襲い掛かられた時もその身のこなしに驚いた。
確かにそのとおりである。しかし、しっかりと地に足がついていたように思うし、何より実際に使ってみて体が浮き上がるようなことになると思ったよりも恐ろしい。
特に、少し体の動きをサポートするつもりで錬太郎は力を込めている。そういうものだと鬼島山百合の見本を見ていて、思い込んでいた。しかし実際にやってみると体が浮くほどの風が体にまとわりついてくる。こうなってしまうと全く心の準備がないところで、ふわっとやられてしまい、心臓が跳ね。
そうして錬太郎はあわてて、手をばたつかせるようなことをしたのである。
そうしてあわてた錬太郎だが、力を切って地面に着地した。あわてていたせいでおかしなタイミングで地面に着地していた。そうして着地した時に思ったよりも衝撃があったらしく、錬太郎は膝をついてしまった。
驚いたのと痛みとで膝をついたのだ。足の痛みは依然変わりなく、衝撃も膝をついて動けなくなるようなものではない。まったく問題はないのだ。特に悪化したということもない。
しかし、心臓が跳ねるような経験の後、地面に着地というのはとんでもなく胸に来る。驚いているところに、もう一発驚きが来るのだ。泣きっ面に蜂、鳴いてはいないけれどそれに近い状況だった。
錬太郎が膝をつくのを見て、鬼島兵辰が駆け寄ってきた。鬼島兵辰は非常に心配していた。それはそうで、錬太郎の着地は結構な迫力があったのだ。
錬太郎は体が大きい。そして、体重もそれなりにある。百九十センチの筋肉人間であるから、ちょっとした動きでも結構な音が出るのだ。
これが鬼島山百合ならば強く足踏みするくらいの音しか出ないだろう。そのくらいのものである。実際山道を駆け回るところはほとんど音がない。これは足運びがうまいというのもあるが体重の軽さが一番影響している。
だが錬太郎は体も大きく重い。ほんの少し体のバランスを崩して、着地するだけでも騒がしくなる。ピンポン球を床にはねさせるのとバスケットボールをはねさせるのとでは聞こえてくる音が違うと思うが、それと同じことである。
鬼島兵辰は錬太郎の着地音があまりにも大きく響くものだったので、何か事故でも起きたのではないかという勢いで近寄ることになった。
鬼島兵辰が錬太郎に手を差し伸べると錬太郎はその手を取った。そして少し震えながら、立ち上がった。足の痛みをこらえているのとは違う震えである。また、苦笑いが浮かんであった。
何とも言えない感情が錬太郎の胸の奥から湧きあがっている。これは、どちらかというと恥ずかしいという気持ちに非常に近かった。
それはそうで、何もないところで思い切りこけるようなことをやったのだ。錬太郎としてみると、少し力を試してみようかなというくらいの気持ちでやっていた。
もちろんだが、空を飛ぼうとしたわけでもなければ、天狗のように動く鬼島山百合のまねをしようとしたわけではない。初めて触る道具を少し触ってみてどんな具合なのか試してみようとしただけなのだ。
新しい携帯電話を手に入れた時にどんなものかを試すような気持ちだった。それが、やってみればとんでもない失態である。まさか思い切りこけるようなことになるなんて思いもしなかった。
しかもあまりに大げさに落ちるものだから、鬼島兵辰にものすごく心配されるようなことになった。これはもうとんでもない心境だった。
そうして鬼島兵辰に手を引かれて立ち上がった錬太郎を少し離れたところから見ていた、鬼島山百合がこんなことを言った。
「いい感じに風を捕まえているわ。多分、捕まえる風が多すぎるのね。
花飾くん、私のほうを少し見てもらえる? コートの全体で風を捕まえると力が強くなりすぎるのならば、こうすればいいのよ。
こうやって、両手をつかって風を調整するの。慣れてくると直感で調整できるようになると思うけど、初めはこうやったほうがいいわ」
錬太郎にアドバイスをする鬼島山百合は両腕を肩の高さまで上げていた。遠くから見ると、「大」の形をとっているように見える。この形をとって、鬼島山百合は両腕を曲げて見せたり伸ばして見せたり、下げて見せたりした。オーケストラの指揮者のようだった。
そうすると紺色のコートにまとわりついている風が少なくなったり多くなったり、強くなったり弱くなったりした。どうやら、両手の動きに合わせて力を制御しているのだ。
鬼島山百合は実に平然とこの動作をやって見せていた。まったく地面から足が離れるようなことはなかった。
鬼島山百合はベテランの中のベテランである。六十年前に白百合と出会い、それから今までずっと付き合ってきた人間である。
当然だが、白百合からいろいろな訓練を受けてきている。神通力をどういう手順で使えば、効率的なのかとか、杖をどういう風に使えばうまく外敵を退けることができるかとかである。
そういういろいろなことを見たり聞いたり、試してきている鬼島山百合であるから、錬太郎のように力ばかりが強いだけの小僧にはない、見事な技を身に着けているのだ。
力自体はおそらく錬太郎のほうが上だ。しかし、技術が芸術的だと思えるほどの高さまで磨かれた風のコントロールは力の大きさなど全くものともしない素晴らしさがあった。
目の前で風を操って見せる鬼島山百合を見て、錬太郎は目を丸くした。そして全く鬼島山百合から目を離せなくなっていた。じっと見つめて、しっかりと一挙一動作を目に焼き付けていた。錬太郎は目の前の技術が美しく見えていた。
今まで錬太郎はこのような技術を見たことがなかった。超能力というとんでもない技術が、すさまじい威力を持った兵器であるという認識はある。
しかしそれは、今まで見てきた者たちというのを見てきた錬太郎からすると、たった一言で表現できる。超能力とは、粗暴であると。
つまり、強ければよしの思想で誰もが超能力を操っていた。実際錬太郎が見てきた超能力を使える存在たちは、みな力押しで戦っていた。
奇天烈な技を使うものもいるにはいたが、それでさえ美しさはなかった。力で押しつぶして、無理やりに事をなしているものばかりである。
しかし、鬼島山百合の技術は違う。力で押しつぶすのではなく超能力を操る技術を磨くことで、高みを目指そうとした結果があった。それがあまりにも美しく見えた。今まで見てきたものが、粗野で、粗暴であったからこそ、美しく見えて、目を離してはならないと思わせるほどの感動を引き起こしていた。
ただ、錬太郎のように感動できるものばかりであるなどとは決して言えない。というのが、かなり地味な光景だったからである。実際鬼島兵辰は特に感動する様子はなかった。自分の愛する妻が、面白いジェスチャーをしながら紺色のコートをはためかせているだけにしか見えていない。
それだけだったし、おそらくほかの人たちが見ても同じような印象しか得られないに違いないのだ。
そうして鬼島山百合の実演が終わった時、錬太郎は一呼吸おいて、風を捕まえた。
しかしやはり力任せなところがあった。鬼島山百合の実演をまねて、錬太郎は両腕を使って自分の捕まえる風の強さと量を決めていた。確かに学んではいた。
しかしいきなりうまくなることはない。それはしょうがないことだ。まだまだ錬太郎は初心者だ。ほんの少し前に超能力と出会い、身に着けたばかりの初心者である。錬太郎の目の前にいるのは熟練した職人である。
初心者が職人の技術を目の前で見たとしてもそっくりそのまままねできるなどということはないのだ。簡単そうに見える技術であっても当然同じである。
たとえばサッカーでリフティングというのがある。サッカーボールを地面に落とすことなく延々と空に向かって蹴り続ける行為であるのは、おそらくほとんどの人が知っているしすぐにイメージできる。
しかしそれは、実際にやってみるとなると非常に難しい。簡単そうに確かに見える。しかしやってみるとボールを浮かせるのも、ボールを同じように空に蹴り上げ続けるのもなかなかできることではない。
もちろん練習をすればできるようになるだろうが、そういうものだ。
超能力の扱いもできそうな気がするけれども案外難しい。そして熟練した職人が見せるような技術など見ただけで真似するのは到底不可能なことだった。しかしそれでもほんの少しだけ錬太郎は進歩していた。何とか風を捕まえて、かろうじて体が浮かび上がらない程度に風を捕まえることができていた。
紺色のコートの中に緩やかな風が吹き込んで、錬太郎の体を支えてくれていた。ただ、緩やかな風だけれども、コントロールがへたくそなせいで、コートの裾がバサバサと揺れていた。
錬太郎が何とか風を捕まえると、鬼島兵辰が錬太郎にこう言った。
「おっ? なんだかこっちまで風が来ているみたいだね。団扇であおがれているみたいだ」
錬太郎の捕まえている風について話をする鬼島兵辰は笑っていた。楽しそうに笑っていた。鬼島兵辰は少しほっとしたのだ。
今までの錬太郎というのを見ている鬼島兵辰である。足をけがして引きずって歩いている錬太郎を見ている鬼島兵辰はやはりいい気分はしていない。
もともと錬太郎に対してこう言うけがを負わせるつもりなど全くなかった鬼島兵辰である。そもそも試練にかけるといってもせいぜい少し驚かせるくらいのもので、血を見るようなことにはならないと思い込んでいた。
実際六十年前の試験でも全く血は流れなかったのだから、そうだろうと思っていた。しかし今回はまったく違っている。
とんでもない勢いで戦いが繰り広げられて、血が流れている。悲しいことだ。特に錬太郎は非常にわかりやすい外傷を追っている。しかも山田と田中のようにすぐに未来都市の技術で回復してやればいいのに試験中だからといって頑として白百合はうなずかない。
これも鬼島兵辰の心を暗くさせていた。そんな状況である。少しでも錬太郎の負担が減り、楽に移動できるようになるというのならとても喜ぶべきことだった。
錬太郎が風を捕まえられるようになると、三人はあっという間に山道を進んでいった。今までのゆっくりとした歩みが嘘のように先へ先へと進むのだ。山道は徐々に険しくなり、角度も急になっていく。足元の状況は悪い。普通に歩いているだけでも息がきれそうな嫌な道だった。
空から降る太陽光線も地面に反射する光も不愉快な気持ちにさせるほど熱かった。熱せられた空気が粘ついて絡み付いている。
しかし三人は特に何の問題もないとばかりに先へ先へ、上に上にと進むのだった。錬太郎の足を気にして調子を落としていただけだ。問題はもうない。錬太郎は今や、風を捕まえている。紺色のコートの中に風が渦巻いて、錬太郎の重たい体を支えてくれている。
左の足首が使えなくとも、全く問題ないほどのサポートが風の力で得られるのだ。鬼島山百合と鬼島兵辰がゆっくりと歩いていたのは、結局錬太郎に気を使ってくれていたからなのだ。それがなければ二人は簡単に先に進むことができる。
どう見ても老人としか言いようがない二人であるけれどもそれができる体力と筋力がある。そして鬼島山百合には体力と筋力に加えて神通力まで備わっている。まったく、ただの山道など恐れるものではなくただの散歩道とわからないのであった。
そんな三人である。ゆっくりといかねばならなかった問題もなくなれば、あっという間に目的地まで進めるのだ。
そうして五分ほど険しい山道を駆け上がり、古い神社に到着した。三人とも結構な勢いで山道をかけぬけたというのに全く息が切れていなかった。
汗をかいている者もいたが、特に問題がありそうなものはいない。三人が到着した神社は、錬太郎がかつて鬼島兵辰と一緒に荷物を取りに来た神社である。今回は前回来た時とは違った道を通っている。
前回通った道は錬太郎たちが昇ってきた道とはちょうど反対側にあり、錬太郎たちが通ってきた道よりもずっと整備されている。どこからどう見ても錬太郎たちが昇ってきた道は普段はだれも使わない、行ってみれば獣道であった。
錬太郎たちがほとんど快適な状態でここまで来れたのはこれでもかというくらいに風が吹いていたからなのだ。
もともと鬼島山百合と鬼島兵辰は体が非常に頑丈にできているということももちろんある。しかしそれだけだと暑さから逃れるという話にはならない。
ではいったいなぜ、非常に快適に道を上がってこれたのかというと、それは錬太郎が風を操り切れずに、常にそよ風を周囲全体に発生させていたからなのだ。
力のコントロールが未熟な結果なのだけれども、この風というのが結構な気持ち良さがあった。それこそ扇風機から風が届いているような気持ちである。
まったく風がよそに逃げずに自分たちの体にあたるので、非常に快適だった。そんな状態であったため、錬太郎以外の二人も非常に快適に山道を歩ききることができた。
古い神社に到着するとすぐに、鬼島山百合が動き出した。どこへ行けばいいのか了解しているらしいのが自信に満ちた足取りからうかがわれた。
そして鬼島山百合に合わせて鬼島兵辰が動き出した。鬼島兵辰もまたどこへ向かえばいいのかわかっているらしく、何の不安もなさそうな顔で歩いていた。ただ、錬太郎は少し違っていた。不安げな顔をして、少し歩くのが遅かった。
やはり、わからないところへ飛び込むのは怖い。何せ錬太郎はこの島のことを知らない。そしてこの島にいる人たちの考え方も、どういう性格なのかもいまいちわかっていない。
そうなってくると、これから向かうところというのは錬太郎がいまいち好きではない白百合のテリトリーであるから、余計に不安になる。
錬太郎はしょうがないという気持ちで体を動かしているが、普通に考えるとまともな行動ではないのもわかっている。というのは、白百合は錬太郎を試すという名目でとんでもない行動に出ていた。
錬太郎が全く問題なしに対応してきたからいいものの、普通なら大けがを負って動けなくなっている可能性も非常に高い。そもそも力試しだといって刺客を放つというのはまったくまともな発想ではない。
一応の理屈を聞いて錬太郎は怒りを鎮めているけれども、それでも疑わしいのは間違いないのだ。そしてもう少しうがった見方をすれば、鬼島山百合も鬼島兵辰もあまり信頼していい相手ではないだろう。
そんな錬太郎であるから、どうしても不安になる。周りに信頼できる人間が一切おらず、敵の懐の中に飛び込むのだ。こんなに怖いことはそうない。
その不安な気持ちが、錬太郎の足を遅くする。ここまで来るといっそのこと怒りにまみれていた時のほうがずっと楽だったに違いない。
何もかも無視して、怒りに身をまかせて動けばきっと楽だっただろう。考えることができるというのもいいことばかりではない。
鬼島山百合と鬼島兵辰の後を追いかけた錬太郎だが、数分後ぼろぼろの神社の中に立っていた。その表情というのは何とも言えないもので、明らかに自分をここまで連れてきた二人を疑っていた。
疑っているというのは罠にかけたということではない。そういう敵対しているのだなということではなく、この古臭い神社の中でどうやって人間が生活するのかという疑いの目である。
錬太郎は白百合の話を一応は覚えている。白百合の話とはつまり、白百合の寝床で鬼島笹百合が休んでいるという話である。白百合の話からすると寝床、生活している場所らしいので生活ができる状況でなければダメなはずだ。
しかし錬太郎の目の前に広がっているのはどう見ても廃墟同然の神社である。しかもそれほど広いわけでもなく、物置くらいの広さしかない。
一応見た目が神社らしいのでそれらしい感じがあるけれども、それだけだ。
床はぼろぼろであるし、壁もガタガタだ。屋根はどう見てもところどころ穴が開いていて、空が見える。夜になれば天体観測ができるに違いない。
こんなところで、白百合が生活できるかという話になれば間違いなくないだろう。見た目通りの年齢ではないのは話を聞いていてわかっている錬太郎だが、さすがにこんなところに女性が住むのは、無理だ。
白百合の見た目からして、清潔なところで暮らしているのは間違いないのだ。こんなところでは暮らしていないのは明らかだった。そんな風に見立てる錬太郎であるから、鬼島白百合たちを、だましたなというような眼で見つめるのだった。
錬太郎のだましたなという目を受けて、鬼島山百合がこんなことを言った。
「ちょっと待ちなさいな。ここからが大事なんだ。ちょっと二人とも下がってなさい、開けるから」
どう見ても人が住めるような場所ではないという錬太郎の無言の圧力の中で、鬼島山百合は銀色の鳥のお面を身に着けた。
そうすると、鬼島山百合は八角柱の杖で軽く床をたたいた。そうするとぼろぼろの床が水面のように波打った。ぼろぼろの床が水面のように波打ち始めると鬼島山百合の足が徐々に床に沈み込んでいった。
しかしまったく鬼島山百合は動じなかった。ぴたりとまっすぐに立って、変化が終わるのを待っていた。鬼島山百合はこれこそが正しい形であるとわかっているのだ。
鬼島山百合は白百合がどうやって寝床へ移動するのかを見ている。そして、どうやって移動すればいいのかを実際に何度も試して理解していた。
方法とはつまり銀色のお面を身に着けて、八角柱の杖を使ってぼろぼろの社の床を響かせるというやり方である。明らかにおかしな行動で、どう考えても理解不能な現象である。普通ならあわてるところだろうが、何度も繰り返して体験した現象だったので、全くおびえもせずにただ成り行きを見守れたのだ。
鬼島山百合が変化を呼び起こして数秒後、錬太郎は足首まで沈みこんでいった。この時錬太郎は非常にあせっていた。
きょろきょろとあたりを見渡して、何が起きているのかを確かめようともがいていた。恐れおののいているのではないのだ。わからないことがあったのだ。
自分のすぐそばにいる鬼島兵辰の様子がおかしいことに錬太郎は気付いていた。というのが、鬼島山百合と錬太郎は同じように徐々に床に吸い込まれているというのに、鬼島兵辰には変化がない。まったく何もないのだ。
足元が沈み込むようなことはもちろんなく、ただ暑そうに額の汗をぬぐっているだけである。そして徐々に床に沈み込む鬼島山百合と錬太郎を見ているだけなのだ。
これがさっぱり錬太郎にはわからなかった。いったい何が違っているのか錬太郎はさっぱり思い当たらなかった。そして、何か間違いが起きているのではないかと思い、必死になって問題を探していた。
しかし錬太郎が答えを出すことはできなかった。錬太郎が答えを見つけ出す前に、錬太郎の体が完全に沈み込んでしまった。
しかしこれはしょうがないことであった。なぜなら足首あたりまで沈み込んだら、あとはあっという間だったのだ。
初めこそゆっくりと水がしみ込んでくるような調子で沈んでいたのが、足首まで沈み込むとあとはあっという間だった。水面に立とうとすると重力に惹かれてストンと落ちるように一気に沈んだ。考える時間はせいぜい十秒ほど。焦っていた錬太郎が、鬼島兵辰には神通力がないという答えをはじき出すには時間が足りなかった。錬太郎が答えを出せたのは完全に沈み込んで、白百合の巣の中へ突入した時だった。
奇妙な仕掛けを通過した錬太郎は、きれいな廊下に立っていた。これは病院のような廊下だった。研究所のようなといったほうがいいかもしれない。天井も左右の壁も床も、ピカピカに磨き上げられていた。
きれいなのは間違いないのだけれども、やや病的だった。というのは、あまりにも汚いものを嫌う、あまりに念には念を入れて穢れを払おうとしているようなところがある。
事実、錬太郎が着地した瞬間から、床の仕掛けが作動している。錬太郎が着地したところがわずかに光を放っているのだ。このわずかな光はこの建物の中に入れたくないものを排除するための光。
いわゆる消毒液の効果を果たす光だった。この光に関しては錬太郎は一発でそういうものであると理解できた。なぜなら、この光が発生し始めてから妙に空気が澄んでいくのだ。そういうものだと五感で理解できた。
このきれい過ぎる廊下に着地して数十秒後、状況を確認した鬼島山百合がこう言った。
「問題ないみたいね。それじゃあ、行きましょうか。ここからは一本道だから、特に気張る必要はないわ。
なんとなくわかると思うけど、左の足首の調子がよくなっているんじゃない?
不思議なところでしょ、ここでは簡単に怪我が治ってしまうのよ。さすが神様のねぐらって感じよね」
錬太郎に話しかけながら鬼島山百合はさっさと先に進み始めた。鬼島山百合が歩いた後、足跡に合わせて廊下が発光していた。
鬼島山百合が歩いたところがほのかに明るくなり、一秒ほどで何もなかったかのように普通の廊下に戻るのだ。錬太郎とは違い、少しも驚いていなかった。やはり慣れているものであるからしょうがない。
普通に暮らしていると全く理解不能で、未知のものであるけれど何度も触れているといよいよ驚かなくなる。
鬼島山百合は六十年前にここに来てから、何度もここに通っている。それこそ飽きるほど見てきているのだ。初めは非常に驚いたけれどもそれだけだ。
いくら衝撃的な芸術品でも、事件でも何度も繰り返して見ていると驚きはなくなる。びっくり箱を何度も楽しめないのと同じ理屈である。慣れるのだ。
そのため鬼島山百合は特に何のこともないと、摩訶不思議な廊下をさっさと歩いていくのであった。そして勝手に体調をよくしてしまう仕掛けを享受していた。
鬼島山百合が歩き出しても錬太郎は立ち止ったままだった。錬太郎は左の足首の調子を確かめていた。身をかがめて応急手当の下の左足首の患部を触ってみたりもしていた。この時錬太郎は非常に困っていた。
なぜならば今までじくじくと痛んでいたはずの痛みがなくなりつつあった。痛みがなくなるのならば結構なことだろう。喜ぶべきことである。
しかし錬太郎は自分の足首の負傷の具合というのをよく見ていた。どう考えても痛みが引くような状態ではなかった。鉄の棒で思い切り突かれたのだ。肌の奥深くの部分間違いなく骨に衝撃が届いていた。実際肌が切れた痛みよりも、神経だとか骨に異常が起きているような痛みかただった。普通なら一か月近く様子を見るべき状態だった。
それがたった数十秒で痛みが失われていく。これはおかしなことである。この恐るべき技術で作られた廊下が痛みをとり怪我を治してくれていると考えることはもちろんできる。
しかし本当にそうなのかといわれた時やはり不安になってしまう。なぜならこの廊下は汚れているものを非常に嫌っている。ということになると単純に殺菌の作用がたまたま痛みを消すような作用をしているだけということもあるだろう。
どういう技術がどういう効果を発揮しているのかわからない以上、体の痛みが消えるというのは喜ぶべきことではない。
少なくとも調子がよくなって問題がなくなったのだなどと楽観的にとらえるのは無理だった。だから錬太郎は怪我が治されて痛みが消えているのか、それとも単なる錯覚なのかと戸惑ったのだ。
十秒ほど立ち止まっていた錬太郎だったが、いよいよ歩き始めた。錬太郎から十メートルほど離れたところで、鬼島山百合が錬太郎を待ってくれていた。歩き始めた錬太郎だが、何とも言えない顔をしている。
やはり、いまいちわからないのだ。わからないというのは、怪我が治っているのかどうかというところである。一応錬太郎は怪我がほどんときれいに治っているのを確認している。葉波根みなとの応急手当の下の患部に手を触れてみて、また、何度か足の調子を確かめてみて間違いないと結論を出した。
しかし、そうなってみてもやはり不安なのだ。特に肉体の問題である。いまさら言ってもしょうがないことだが、神通力だとか翼の生えた女性だとか、ありえないほどの巨体を誇る鳥だとかが存在しているのだから、この程度のことはあっても不思議ではない。
しかし、それはそれなのだ。自分に肉体に直接作用するものがよくわからないものであるというのはただ不安である。
治ったのならよしと素直に言えるのならいいが、よくわからない技術で、よくわからないまま勝手に治っているというのは怖い。
道具を使うのならば別にそれほど怖くはない。治る理由がわかるだけに心配にはならない。しかし、自分の命に直接かかわるようなことがよくわからないというのは怖い。
間違いなく海波根島の地下都市の技術だろうと予想はつくが、それでも不安だった。そんな錬太郎だったが、鬼島山百合を待たせてしまっているので、不安を拭い去って歩き出した。
古い社から侵入した鬼島山百合と錬太郎は、きれいな廊下を道なりに歩いていた。廊下を歩き始めて、十分ほどたっていた。初めこそきょろきょろとあたりを見ながら歩いていた錬太郎も、今は特に問題なく前を見て歩いている。
この場所に来るまで引きずっていた左の足首も今では全く問題なく動かせていた。そしてひどいけがをしていた右の拳も全く問題ない状態に戻っていた。錬太郎の少し前を歩く鬼島山百合は、散歩でもするような無防備な様子できれいな廊下を歩いて行った。
いろいろと悩んでいた錬太郎だったが、今考えてもしょうがないと割り切った。廊下に使われている技術はどう見ても一目でわかるものではない。少なくとも今の技術でどうなっているのかなどと一一分析するのは難しい。
何より錬太郎は専門家でもなんでもないただの学生である。深い見識はない。そのため、いくら悩んでみても答えが出せないと早々に気が付いた。そして答えが出ないのならばということで、後回しにしてしまうことにした。
自分の体が変化しているのだから、よほど恐れてもしょうがないことである。しかし、考えてもしょうがないことは間違いなかったので、考えないことにした。
それこそ後で白百合と顔を合わせるようなことがあれば、その時にでも聞いてみようと考えていた。とりあえず何の解決にもなっていないけれども一人で納得して、錬太郎は不安げに歩くのをやめた。
鬼島山百合は特に問題はない。何度も通った道で、何度も恩恵をあずかった道である。錬太郎のように不思議だと思い戸惑ったのは、はじめだけだった。今、鬼島山百合の胸の中にあるのは、自分も六十年前はあんな感じだったなという懐かしさだけだ。
廊下は思ったよりも長かった。いくら歩いてみても終わりが見えなかった。あまりにも暇だったので錬太郎などは、手で廊下の壁に手を触れて、光のラインを引きながら歩いていた。そんな時だった。鬼島山百合が錬太郎に話しかけてきた。鬼島山百合はこういった。
「花飾くん、鳥頭はあなたをこの島の御子にしたいらしいけれど、いやなら断ればいいのよ。
御子というのは別に、常にいなければならないものではないの。あの鳥頭はさみしがり屋だから遊び相手がほしいだけなのよ。
いるでしょ一人で行動したくない女の子って、女の子って年じゃないけどね、あの鳥頭も同じなの。
少しの間なら我慢できるみたいだけど、あまり一人でいるとさみしくて……なんというか、死にたくなるとかバカなことを言い出すから」
翼の生えた女性白百合の話をしながら歩く鬼島山百合は少し困った顔をしていた。首に下げている銀色の鳥のお面を指ではじいてみたり、なでてみたりしていた。
鬼島山百合は錬太郎に無理をしてほしくない。無理というのは御子になってこの島に縛られるということである。鬼島山百合は錬太郎が普通に暮らしている学生だとわかっている。
普通に学校に通い、普通に生活している学生で、今回たまたま海波根島に来て白百合に気に入られてしまった。それだけなのだと知っている。
鬼島笹百合が連れてこなければ間違いなく錬太郎の正体がばれるようなこともなかっただろう。だから鬼島山百合は思うのだ。
自分たちは海波根島で生まれて育ってきた。そしてたまたま神通力の素養を強く持って生まれて、その中でもさらに強い自分は白百合の御子に選ばれた。
御子になることで不利益をこうむることはない。やることといえば白百合の相手をしなくてはならないくらいのものである。錬太郎が選ばれたところで大した問題はない。だから御子になってもらっても全く構わないと思う。
しかしすべての生活を犠牲にして御子になってもらわなければ困るなどとも思わない。御子が選ばれずに鬼島山百合がなくなるようなことになったところで、それこそ人に紛れるくらいのこと白百合にはできる。
ただ、気軽に外に出ていくのが現代という状況ゆえ難しいだけである。状況がわかっているからこそ、あえて錬太郎に海波根島にいてくれと願うのはまったくおかしなことであるとさえ思う。
むしろ普通の生活を普通に送ってもらえることこそ、孫を持つ鬼島山百合の本当の願いなのだ。しかし白百合の性格もよくわかっているので、どうにも難しくなってしまう。ただ間違いなく鬼島山百合は錬太郎のことを心配していた。
鬼島山百合の話を聞いた錬太郎は、軽くうなずいた。錬太郎がうなずくのを見て、鬼島山百合もうなずいた。そしてこういった。
「そろそろだと思うわ。ここからはちょっと面倒くさいから、気を付けてね」
鬼島山百合が気を付けたと話しかけたところだった。廊下の終わりが見え始めた。完全な行き止まりだった。しかし特に問題はないらしかった。鬼島山百合は行き止まりになっているところで、銀色の鳥のお面をかぶった。
そうすると廊下の行き止まりだったはずの壁が、左右に開いた。どうやらエレベーターらしかった。
エレベーターに乗った鬼島山百合と錬太郎は下に下に降りて行った。エレベーターはかなり深いところに移動しているらしくなかなか目的地に到着しなかった。それを知っていたらしく、移動中に鬼島山百合がこんなことを言った。
「これから鳥頭の巣のど真ん中に入っていくことになるんだけど、神様だけあってかなり厳重に守られているの。
私は何度もここにきているから素通りできると思うけど、花飾くんは初めてここに来るはずだから、多分試練を受けないとだめだと思う。
それでその試練なんだけど、ちょっと意地悪な試練でね。精神的にクルのよ。
何というか圧力がすごいっていうか、物理的に追い込んでくる波根の道とは違っていて、心をつぶしに来るの。
だから、まずいと思ったら、すぐに引いてね。いざとなれば私が連れて帰ればいいだけだから」
錬太郎に試練について助言する鬼島山百合は非常に嫌な顔をしていた。声もできるなら話したくないといった調子である。
鬼島山百合にはこの白百合の寝床へたどり着くための試練というのが最高に大嫌いなのだ。
六十年前にここに一人できた鬼島山百合は、白百合の手ほどきを受けて最後の試練を試した。先ほど鬼島山百合が錬太郎に助言をしたような内容を白百合から聞かされた上で、挑戦したのだ。
そうしてやってみると、非常に性格の悪い試練で、二度と試したいと思わないタイプのものだった。
何というか製作者が随分性格が悪かったに違いないと確信できるようなものだったのだ。そのため、六十年たった今も非常に嫌な顔をして、できるなら口に出したくもなかったという程度には嫌うのである。
鬼島山百合の助言を受けた錬太郎は、少し間を開けて、小さくこう言った。
「頑張ります」
鬼島山百合に答える錬太郎は何とも言えない難しい顔をしていた。苦笑いを浮かべながら、首をひねってみたり、体の調子を確かめてみたりしていた。
正直に言えば、錬太郎には自信がない。錬太郎は見た目が明らかに強そうである。実際戦ってみれば強いことがわかる。身長は百九十センチ。体重は百キロ近くある。
筋骨隆々で、運動神経もかなり良い。これまでの白百合からのちょっかいもほとんどは肉体的なものであったため、ほとんど何の問題もなく乗り越えてこれた。素晴らしいことだ。
しかし、精神的に強いのかというとそうではない。見た目は確かに屈強である錬太郎だが、その中身となると錬太郎自身疑わしいと思ってしまう。
確かに恐怖に打ち勝つ強い心も、冷静な判断力もある。しかし、本当に心が強いのかなどといわれてうなずけるほどの確証は錬太郎にない。少なくとも錬太郎自身にはないのだ。
ほかの人がどう判断するかということではなく自分がどう思うのかというところになるとやはりだめなのではないかと思ってしまう。
肉体なら鏡で移せば大体の強さがわかる。自分でも判断が付く。しかし心はどうにもならない。鏡に映らず目でとらえられない。これを試すとなればやはり不安になる。
そうして鬼島山百合の助言から十秒後、目的地に到着した。エレベーターの上下左右の壁がすべて闇に溶けて行った。障子紙が水に溶けるような調子で、あっという間に消えていった。周囲に光はなかった。ただ真っ暗闇で、それだけだった。戻る道もなさそうだった。
真っ暗闇に放り出されたところで、鬼島山百合がこう言った。
「ここが鳥頭の巣へ通じる最後の道。
さぁ、花飾くん進みなさい。まっすぐに進むの。あなたは心を強く持って、歩いていけばいい……そうだわ。
心が折れそうになったら、みなとちゃんの助言を思い出してあげて。あの子の助言を思い出せるのならば、きっと大丈夫だと思うわ」
最後の助言を与えると鬼島山百合は錬太郎の背中に手を触れて押し出した。優しい手だった。伝わらないはずの掌の体温が錬太郎の体に届くような気さえした。
鬼島山百合はただ心配だった。なぜなら錬太郎は迷っている。錬太郎がこの島に来てから錬太郎の言動を鬼島山百合はしっかりと把握している。
そして、当然だが錬太郎の心の弱さも見抜いている。弱さとは具体的な目的を持っていないという弱さである。もちろん普段通りに生活を送るのならば、何の問題もない。あいまいなままでもじっくりと考え込めばいつかは答えを出せるだろう。
答えを出せなくとも先に進んだ先で目的を見つけることもできるだろう。しかしそれは錬太郎の場合には通用しない。錬太郎には時間がない。なぜならこれから錬太郎は心の強さを試される。このあいまいな状態で目的を持たない心をつつかれると非常に厄介なことになる。
実際、葉波根みなと、丙花白、車川貞幸たちと別れるとき、錬太郎は白百合に誘われた。そしてその時錬太郎はうまく白百合をかわせなかった。
押しに弱いというよりも、目的がないため、どこへ行ったとしても変わらないという意識を持っていると明らかにしてしまった。
鬼島山百合はそれが怖くてしょうがないのだ。錬太郎がもしもこの意識の弱さを突かれて、崩されてしまえばそれで終わりになるはず。
そうしてつつかれて崩されるだけならばいいが、鳥頭と呼びバカにしている白百合が崩したところを取りに来る可能性もある。さみしがり屋の性格を考えると可能性は非常に高い。
それを考えると孫の世代である錬太郎が捕まってしまうのが見えて、どうにも悲しくなる。だから鬼島山百合は錬太郎を励ますのだ。これくらいのことしかできないけれども、きっと大丈夫だと。
鬼島山百合に背中を押された錬太郎は真っ暗闇の中へ足を踏み出した。不安は間違いなく錬太郎の心にある。一人で真っ暗闇を行くのは恐ろしい。しかし、その足取りはしっかりとしている。しっかりと両足を使い前に前に進んでいた。
また、胸を張って呼吸を深くやっている。不思議なことで、不安と同じくらいに勇気が湧いているのだ。
鬼島山百合の励ましは、間違いなく錬太郎の力になっていた。本当に大したことではないのだ。ほんの少しの思いやりである。
ただ背中を押して、温かい言葉をかけただけだ。しかしそれだけで十分だった。それだけで鬼島笹百合を取り戻して、すべてきれいさっぱりにしてやろうという気になれた。
錬太郎が三歩闇の中へ踏み入れた時、鬼島山百合の視界から錬太郎の姿が掻き消えた。闇の中へ吸い込まれていった。闇を透かして見る力がある鬼島山百合でさえとらえることはできなくなった。
鬼島山百合は心配そうに闇の中を見ていた。これが試練の始まりであると知っていた。
闇の中へ入り込んだ錬太郎は、きょろきょろとあたりを見回していた。錬太郎は非常にあせっていた。まったく理解できないことが起きていたのである。
それは錬太郎の目の前に広がっている光景を見ればすぐに了解できるのだ。錬太郎は今まで真っ暗闇の中にいたはずである。それも海波根島の深いところにある、白百合の寝床へと続く道でのことだった。
しかし今、錬太郎が立っているのはどう見ても錬太郎の生まれ育った町だった。それも町を見下ろせる展望台に錬太郎は立っていた。
何かの勘違いならよかったのだが、錬太郎はこの光景を見間違えるわけがなかった。少なくとも錬太郎は間違えるわけがないと強い自信を持っていた。
それほど強く心に刻まれた光景だった。しかもこの夕焼け前の光景は。
まったくおかしなことだった。こんなことはあるはずがなかった。だから錬太郎は困ってしまった。何が起きたのかわからず、きょろきょろと状況を確認していた。
錬太郎が状況を確認して整理し始めていると、展望台に男子学生と女子学生が現れた。男子学生は非常に背が高く、女子生徒は何か思いつめていた。
二人は展望台に現れると奇妙な格好をした錬太郎を全く見もせずに、ベンチに座り、話し始めた。錬太郎がすぐそばにいるというのにもかかわらず、特に何の問題もないとばかりに話をするのである。
二人は大体こんな話をした。女子生徒は自分は悪魔に取り付かれてしまったのだという。男子生徒はそれが冗談だと思いまともに取り合わなかった。
錬太郎は青い顔をして二人のやり取りを見ていた。しっかりと地面を捕まえているはずの両足から力が抜けているのがよくわかる。錬太郎の体はややふらついていた。
そうしていると男子生徒の携帯電話が鳴り、男子生徒は電話に出た。女子生徒は男子生徒が電話で話をしている間に苦しみ始めた。
太陽が完全に沈みきったところで、不思議なことが起きた。空に輝く月から恐ろしい光が放たれたのだ。
この光はただの光ではなかった。光にあたったものをすべて奪ってしまう光だった。
錬太郎の生まれ育った町をなめるように照らした月の光は、あっという間に街を更地に変えてしまった。
そうしていると女子生徒が自分のせいでこうなったのだと泣き始めた。男子生徒はそんなわけがないと女子生徒をしっかりと抱きしめた。
そうして男子生徒は元凶である月を見上げて、大きな声で吠えた。同時にはるかかなたの月から光が放たれて、何もかもが真っ白に染まった。
視界が真っ白になったところで、錬太郎は目を閉じていた。そして両手をしっかりと握りこんだ。世界を飲み込んだ月の光を受けたから目を閉じたわけではないのだ。錬太郎は目を開けられないほど気分を悪くしたのだ。
しかしこれは憎しみや怒りの感情ではない。不安だ。今の光景を見て男子高校生が抱いたような激しい復讐の念ではなく、失ってしまうかもしれないという強い不安を覚えたのだ。
そしてあまりに強い感情であったため、錬太郎は目も開けられないほど調子を悪くした。強すぎる感情が肉体に作用したのだ。
強い怒りなら、強い憎しみなら肉体は活性化する。しかし不安の感情はそうさせない。憎しみと怒りが火をつけるのならば、不安は氷だ。体を震え上がらせて、いよいよ動けなくさせる。不安の冷たさは錬太郎を包み込み凍えさせた。
数秒後錬太郎が目を開けると男子高校生と二足歩行するライオンと、少年の姿があった。男子高校生はサイズの合っていない服を着ていて、二足歩行するライオンは人間の胴体とライオンの頭をくっつけたような不思議な姿をしていた。
この二人についてくる少年はとても小さかった。しかし両目の輝きに知性が見えた。この三人はどこか大きな建物のフロントで話をしていた。この建物のフロントはビルの受付のような配置になっているのだけれども、非常にぼろぼろだった。
ソファーがぼろぼろになって転がっていたり、床に深い傷がついていたり、血の跡があちらこちらに見えた。
また、明らかに人間ではない怪物の死体が転がっていた。この明らかにおかしな場所で、二足歩行するライオンが、男子高校生に銀色の銃を渡していた。たてがみから器用に銀色の大きな拳銃をライオンが引っ張り出すのはなかなか面白い。
男子高校生はその銀色の拳銃を使って、建物に横穴を作った。銀色の拳銃のトリガーを引くと、恐ろしいエネルギーが発射され、建物の壁を三メートルほどくりぬいたのだった。
奇妙な三人組が建物の外へと歩いていくのを錬太郎は見送った。今まで不安で震えていた錬太郎だが、本当に小さく微笑んでいた。
両目にはうっすらと涙が浮かんでいた。何とも言えない気持ちが、心を満たしていた。
錬太郎が妙な気持ちで男子高校生たちを見送ると、景色が早回しに動き出した。今までゆっくりと動いていた時間が徐々に勢いを増していった。
この間に、数えきれない怪物の群れの中を男子高校生が女性を肩に担いで駆け抜けていく姿が映った。
男子高校生が女性を肩に担いで車の屋根を踏み台にして駆け抜けていくのはなかなか見ごたえがあった。
この時にわずかにだが、今まで急に動いていた時間が緩やかになった。ただ、かなり強引だった。それというのが、今までは自然に勢いが早くなっていたのが、力づくで勢いを弱めたような調子に変わった。
それこそテレビの前でリモコンを握っていた人間を突き飛ばして、別の誰かがリモコンを握って好き勝手にするような、そんな不調子だった。
この奇妙な変化をうけて錬太郎は少し冷静になった。
そして不思議な映像の中に放り出されて、見ているだけしかいられないという状況の中で、考え始めた。
錬太郎は考え始めたのだ。どうしてこういう状況になっているのか。どういう理屈でこう言う状況を作り出しているのか。そして意味の分からない状況になる前まで自分がどこにいたのかということを。
錬太郎が
「これが最後の試練か」
と答えを出す前に、一気に景色が加速していった。今までゆっくりだったのが嘘のように早回しになり、あっという間に太陽が沈み、夜が来た。そしてそのまま朝が来た。
映像の中に放り出されたままの錬太郎は、ただ映像を見ているだけた。
すでに錬太郎の表情に不安の色はない。また、特にもがくようなこともない。ただ両足でしっかりと立って何が起きようとも驚かないという強い意思を二つの目に宿していた。
錬太郎は、この映像が最後の試練であると気付いた。そして、この試練の内容が自分の胸の奥底にある記憶を掘り起こしているものであるとも気づいたのである。
気づけたのは誰かが無理矢理に映像を操作した感じがあったこと。つまり先ほどの男子高校生が女性を肩に担いで車の屋根を足場にしながらどんどん移動していく映像を、ゆっくりと見せられたこと。
この明らかに誰かが捜査しているような印象がある変化が、錬太郎に白百合の存在を思い出させた。
きっとこの変化がなければ、錬太郎は嫌な夢を見続けているのだとそんな風に思い続けたかもしれない。
それはそうで、錬太郎が見ている光景はあまりにも錬太郎の心を不安にさせる恐怖をあおる記憶だった。
こんな映像を体験させられれば、頭はまともに働かなくなる。それこそよくできた映画のようなものだったのだ。
よくできた映画であり過ぎて、観客たちは映画が目の前で起きた現実化のような錯覚を起こす。まるでそれが本当のことで疑う余地のないことであると思わせる傑作。しかしこの傑作もわずかなほころびで台無しになる。
今まで完璧だった作品がたった一つの邪魔で、例えば隣の観客がポップコーンを大きな音で食べるとかして、邪魔をするのだ。
そうすれば、いやでも現実に引き戻される。錬太郎にとって先ほどの妙な操作は頭を冷やすのに十分な刺激だった。そして冷静を取り戻せた錬太郎であるから、心をしっかりと保ち、何が起きても立ち向かえるように構えられた。
錬太郎が心を強く持ち試練に臨み始めたところから、数秒後のことだった。恐ろしいまでの臨場感を与える映像が新たな場面へ突入し始めた。
随分緊迫した場面だった。男子高校生と女子高校生がにらみ合っていた。その周りを武装した兵隊たちが取り囲んでいる。女子高校生の隣にはいかにも紳士的な老人が立っていた。老人の右目は義眼である。その義眼は銀色の球体だった。女子高校生は男子高校生に銀色の拳銃を向けていた。
男子高校生が女子高校生を突き放すような言葉を吐くと、紳士的な老人が女子高校生に命令をした。男子高校生を打てという命令である。そうすると女子高校生は反射的に銀色の拳銃の引き金を引いた。
引き金が引かれると同時に巨大なエネルギーが発射されて、男子高校生の上半身が消え失せた。
この光景を錬太郎は冷えた目で見ていた。特に何の感情もわいていないらしかった。淡々と、事実だけを受け入れていた。
錬太郎が冷えた目で映像を見ていると変化が起きた。上半身を吹っ飛ばされた男子高校生の体が、光に包まれたのだ。夕焼けのような光である。
そしてその光はあっという間に男子高校生の肉体そのままの形を作った。しかし肉体があるわけではなかった。光が肉体の形をとっているだけの幽霊のような状態だった。この上半身が幽霊のような状態になった男子高校生は、自分の周りにいた兵隊たちに攻撃を仕掛けた。
攻撃といっても右手首を軽く振るだけだった。しかしそれだけで、周りにいた兵隊たちは分解され、銀色の砂の山に変わってしまった。
ここからは激烈に映像が早回しになった。あっという間にいろいろな場面が過ぎて行った。奇妙な光をまとう存在たちとの戦い、空に上るまでの道のり、そして地球と月の間で戦った光景も。何もかもが早回しになり、そして最後に錬太郎が見た光景が始まった。
それは現在よりもはるかに月が地球と近かった時の話、地球の引力にも月の引力にも吸い寄せられずに消えていく運命となった錬太郎が最後に願った記憶である。
この記憶が始まった時、錬太郎は目を閉じた。口元がゆがんでいた。何かに耐えているようだった。錬太郎は悲しみに耐えているのだ。
錬太郎は魂の奥底に刻まれている記憶を見せられて、思い出してしまったのだ。あの時感じた強い思い。何もかもが奪われて、生きる目的を何もかも失った瞬間の絶望を。
そして、少年の願いにすがらなければ生きられないほど情けなかった自分自身の弱さを。何もかもが崩壊してしまった世界でそれでもまだ奪おうとする者たちに対する激しい怒り。
そしてそんな世界にもまだ生きている人たちがいて、その人たちを助けることで自分のどうすることもできない後悔を慰めようとしたこと。
そして、何もかもを使い果たして最後に願ったことを。
それらすべてがあっという間に頭の中を駆け巡った。あまりにも耐えがたい記憶だった。できるなら忘れておきたいことだった。思い出すと胸が張り裂けそうで、息苦しくて再び失ってしまうのではないかと恐怖に駆られて叫びそうになる。
だから錬太郎は耐えるのだ。喜びではなく胸に刻まれているのは喪失の恐れ。そして再び失われてしまうのではないかという強い恐怖。はるかかなたの土地で手に入れたのは超能力だけではない。強烈な殺意を呼び起こす強い恐怖も一緒に連れてきた。
錬太郎が恐怖に耐えていると、誰かが話しかけてきた。話しかけてきたのは白百合だった。白百合はこんなことを言った。
「そういうこと……これが第一世代が滅亡することになった理由。そして完全に失われなかった理由。
ねぇ錬太郎ちゃん。あなたやっぱり、この島にいたほうがいいと思うわ。あなたが望むものはこの島でならすべて手に入る。
第一世代の技術もある。ここは特に防衛技術も高い。あなたの大切な人たちをここに囲い込んでしまえば、きっと何も奪われることはないわ。
錬太郎ちゃんがどうして笹百合ちゃんに執着するのか、よくわかったわ。
恋愛感情じゃないのね。あなたはそんな気持ちで動いていない。
あなたは奪われるのが怖いのね。一度何もかも奪われて、奇跡的にすべてを取り戻せたから余計に怖い。
失われた時の痛みも、取り戻せない虚無感も、取り戻せた奇跡の価値もわかるから、余計に怖くて、怖いからこそ激怒する。
たとえ何ものであっても命がけで挑めるほどに。
そんなに大切なら、鳥かごの中にすべて仕舞い込めばいい。私みたいに」
白百合は錬太郎に話しかけながら、どんどん近づいてきていた。初めは遠くから聞こえていた声も、今はすぐそばで聞こえていた。
それはそのはずである。翼の生えた女性白百合は、錬太郎のすぐ目の前に立っていた。しかし錬太郎にその姿は見えていない。錬太郎が目を閉じて、恐怖に耐えていたからだ。忘れがたい体験と体験から得たものたちが、錬太郎の心を不安でいっぱいにさせていた。
頭の中は悪い考えばかり浮かんでくる。もしも、もしも恐ろしいことが起きたとして、また大切な人たちが、自分の故郷が奪われるようなことが起きたらどうすればいいのか。
何度も奇跡が起きるわけがないという気持ちがあるからこそ、そんな若しもを考えると呼吸ができないほど恐ろしくなる。ありえない体験をしてきたからこそ、この若しもを真剣に考えてしまう。いっそのこと何も知らず、何もわからないまま消えていたら、こんなにも苦しむことはなかった。
超能力を身に着けるきっかけになった旅は錬太郎に日常を取り戻させたが、代わりに恐ろしい傷跡も錬太郎に刻んだ。
目の前に近付いてきている白百合を前に目も開けられないほどの恐怖である。
恐怖に耐えている錬太郎をそっと白百合が抱きしめた。両手をしっかりと背中まで回して、優しく抱きしめていた。背中の大きな翼が広がって、錬太郎を包み隠してしまった。しかしよこしまな気持ちは一切ない。優しい笑顔で錬太郎を包み込んでいた。
錬太郎を抱きしめた白百合はこういった。
「いいの。しょうがないことだわ。これだけの体験をしたのなら、心に傷を負ってもしょうがない。
本当に悪いことをしてしまったみたいね。錬太郎ちゃんには私のしたことは許せないことだったでしょう?
本当にごめんなさい。もう二度とこんなことはしないわ。
罪滅ぼしじゃないけど、私たちの力を使ってあなたの心を少しでも軽くしてあげる。
第一世代の技術を使えばいいのよ。これを使えば奪われるなんてことはおきないわ。みんな守れる。もう絶対に悲しい思いなんてしなくてよくなるの」
錬太郎に語りかけながら、白百合は錬太郎の背中をさすっていた。優しい手つきだった。小さな子供をあやす母親のように慈愛に満ちていた。
そして白百合はこういった。
「だから、ね? この島で暮らしましょう?」
白百合の誘いに、錬太郎が目を開いた。真っ暗闇の中で両目をしっかりと見開いていた。両目からは涙流れ落ちていた。口元はしっかりと結ばれている。しかし情けない顔ではない。決意を固めた男の顔をしていた。
そしてその心意気に答えるように、錬太郎の右目の奥で夕焼けのような光が生まれていた。錬太郎はついに意を決したのだ。
錬太郎は白百合の話をしっかりと聞いていた。白百合が自分の心を分析するのをしっかりと聞いていた。錬太郎はその分析に異を唱えるつもりは一切ない。
その通りだと心の底からうなずける。ただただその通りであった。奪われるのが恐ろしい。失うのが恐ろしい。奪われそうになるだけで激しい殺意を覚えるほど、取り戻せないとわかった時の虚無感におびえている。
白百合の誘いは気持ちのいいものだ。錬太郎の不安を一切なくしてくれるものだ。家族と友人を大切な人たちをこの島の地下都市に放り込んで隠してしまえば失うことはないだろう。それだけの技術力を感じさせてくれた。
しかし、ダメなのだ。錬太郎はうなずけない。なぜならば、錬太郎は錬太郎であって、家族ではない。友人ではない。大切な人たち自身ではない。
錬太郎はこう答えた。
「だめだ。俺が自由でありたいと願うように、父さんも母さんも、姉ちゃんも。みなとさんも、先輩も。鬼島のおじいさんとおばあさんも誰もかれも自由でありたいんだ。
みんなどこかへ向かおうとしている。俺と同じように。みなとさんが教えてくれた。みんなそうだといってくれた。
だから、ダメだ。俺のせいで、縛っちゃだめだ」
錬太郎の答えに白百合がこう返した。
「何を言っているの?
あなたにはその資格があるじゃない、あなたは御子で、大昔に世界を救う大手柄を立てた。いいじゃないそのくらいのわがまま」
錬太郎に抱きついている白百合は、心底わからないと首をかしげていた。
錬太郎はこういった。
「ダメだ、ダメなんだ。俺は裏切れない。俺はそんなことを望んではいない!
ただ取り戻したかっただけだ! それだけだ! こんな鳥かごに囲う趣味なんてない! 俺の弱さに、みんなを巻き込むわけにはいかない!」
非常にあいまいな答えを叫びながら、錬太郎はしがみついている白百合を突き飛ばした。右目は決意の光で燃えていた。
まったく自分の選択を後悔していない。不安はまだ胸でくすぶっているというのに、足は恐怖ですくんでいるというのにそれでも白百合の誘いを強く断った。
錬太郎の胸にあるのは葉波根みなとの助言だ。彼女の助言が、錬太郎に力を与えてくれていた。頼りない後輩を先輩が押してやったというだけのことだが、それだけだけれども錬太郎の力になっていた。
錬太郎を思いやっての助言は、錬太郎にここにはいない誰かのことを思いやることを思い出させた。
そして、それがわかったからこそ、怖くとも先に進む決意を呼び込めた。たとえ、どこへ向かうともしれぬ鳥でも、飛ぶことはできる。飛ばなければどこへも行けない。錬太郎はかごの鳥で終わるつもりはない。
癒えることのない傷が心をむしばんでいるとしても飛ぶと決めた。そう決めた。飛ぶだけの力も熱意もある。ならば往かなければ。こんな暗闇が終わりであっていいわけがなかった。
錬太郎に拒絶された白百合はよろよろと立ち上がった。同時に、錬太郎たちを包み込んでいた闇が晴れた。
錬太郎と白百合は少し大きめの部屋の中にいた。一辺が十メートルほどの正方形の部屋だった。壁も天井も全く飾り気がない。不思議なのは上下左右の壁に光のラインが走っていることである。壁を走る光のラインは自由だった。
規則正しく走っていない。碁盤の目のように光が走っているわけではないのだ。好き勝手に曲線を描いてみたり、点滅してみたりしていた。それも一本や二本でもなく、好き勝手に表れて数十本がいきなり彗星のように駆け巡ってみたり、全くなくなったりする。
規則的な動きというのはまったくなかった。
錬太郎に拒絶された白百合は話しかけてきた。随分ショックを受けているらしく、目がうつろになっていた。また口元が震えている。
そんな状態で白百合はこういうのだ。
「少し見くびっていたかもしれないわね。錬太郎ちゃんの心の弱さを思い切り突いたはずだったのに……山百合ちゃんとみなとちゃんがいなければこうはならなかった。
本当に残念だわ、ここで心折れる子も多いのに」
錬太郎が黙って聞いていると、白百合は錬太郎に何か投げ渡してきた。ふわりと軽い放物線を描いて飛んできたのは、錬太郎の銀色のフクロウのお面だった。銀色のフクロウのお面は錬太郎の手に納まると、瞬きをして、くちばしをカチカチと打ち合わせていた。
白百合が錬太郎にお面を返したのは、フクロウのお面の理屈が理解できたからである。これは、葉波根みなと達を人のいるところへ案内する前に調べているときにわかったことではない。錬太郎の魂の底に刻まれた記憶を見て、ついにフクロウのお面のなぞを解き明かしたのだった。
白百合にとってフクロウのお面自体に価値があるとは思っていない。珍しい現象を起こしているという気はしているけれどもそれだけだと思っている。そのため手元において返したくないなどとはいわない。謎が解けてしまえば、あとは持ち主に返すのが当然である。そのため白百合は錬太郎に銀色のフクロウのお面を返した。
銀色のフクロウのお面は錬太郎の手に納まった瞬間から変化を始めていた。錬太郎が握りしめていたジャズが作ってくれた杖に翼を伸ばして行く。錬太郎が何事が起きたのかと不思議に思っていると、あっという間に銀色のフクロウの翼がジャズの杖を飲み込んでしまった。
錬太郎はあわてて杖からフクロウの翼を取り除こうとしたのだが、遅かった。ジャズの杖は錬太郎のフクロウのお面が呑み込んでしまった。ジャズの杖を飲み込んだフクロウのお面は今まで以上に元気になっていた。
今までもかなりおかしなお面だったが、いよいよお面をやめていた。銀色のフクロウのお面は、少し小さなフクロウの姿を取っていた。お面ではなくどう見てもフクロウだった。そして、自分が止まるための止まり木も用意していた。これはジャズが作ってくれた杖をそのまま短くした止まり木だった。今までがかなり長いつえだったのだが、今は錬太郎の腰あたりまでの長さに縮んでいた。その杖の先に銀色の小さなフクロウが乗っている。
どうやら生きているらしくきょろきょろと首を動かしてあたりを見渡していた。
急に変化した銀色のフクロウのお面あらため銀色のフクロウを錬太郎はじっと見つめていた。両手でしっかりとつかんで、いろいろな方向から観察して忙しかった。目の前で起きた現象があまりにも不思議すぎたのだ。確かに今までも生きているかのような動きはしていた。どう考えてもおかしなことが起きていたのは間違いない。
無機物の翼が伸びたり縮むというのはおかしなことであるし、ただのお面のはずなのに、声を発生させるというのは明らかにおかしかった。しかし今目の前で起きたことはそれよりももっとおかしかった。杖を食べてしまったではないか。
ジャズが錬太郎のために作ってくれた杖をあっという間に取り込んで、自分の力にしてしまっている。これはさっぱり意味が分からない。
ここまで来ると完全に生き物である。
それに生き物のように動いて見せている。小さいながらもどう見てもフクロウになっているのだから、疑いようはない。しかしどう見てもフクロウは金属なのだから、これはわからないことである。何が起きたのか錬太郎は調べようとしたのだ。調べたところで何がわかるわけでもないけれども、それでも調べずにはいられなかった。
錬太郎が銀色のフクロウを調べていると、白百合が話しかけてきた。
「錬太郎ちゃん、あなたはこれで私の寝床へ入る許可が下りたわ。
さぁ、行きましょう山百合ちゃんと笹百合ちゃんが待っているわ」
白百合が先に進もうと誘うと、出入り口が開いた。出入り口では心配そうな顔で鬼島山百合が待っていた。
心配そうにしている鬼島山百合を見つけた白百合はこんなことを言った。
「錬太郎ちゃんは合格よ。もうちょっとで……落とせそうだったんだけど」
鬼島山百合に話しかける白百合は笑顔だった。優しい笑顔だった。白百合は鬼島山百合の気持ちを汲んでいた。
鬼島山百合が錬太郎をこの島に縛り付けたくないと思っているのを白百合は知っている。錬太郎の話をしてくれた時に、白百合が興味を持ったのを見て非常に嫌がったのを覚えているし、錬太郎に神通力がありかなり強力であることが分かった時の悲しそうな顔を覚えている。
そして今に至るまでの気乗りしない様子もよく覚えている。当然だが、今回の精神的に問題があるかどうかを調べる試験を乗り越えられるかどうかで随分結末が変わるだろうということも鬼島山百合はわかっているのだから、それは当然不安だろう。
心が弱ければ白百合がそそのかしてそれで終わりなのだ。白百合自身かなり問題行動を起こしている自覚があるので、自分のかわいい御子を不安をぬぐうように行動をとっているのだ。こんな気遣いをするくらいなら初めからしなければいいのだけれども、それでもおさまらないのが人の性だった。
錬太郎を合格だと白百合が言うと、鬼島山百合はほっと一息ついてこういった。
「そうですか、ならこれで終わりですね。早く笹百合ちゃんのところへ行きましょう。
まったく今回の祭りは本当に気苦労の多い祭りでしたよ。あまり無茶をしないでくださいね、私ももう、若くないんですから」
白百合に話しかけながら、鬼島山百合は錬太郎を手招きしていた。ちょっとこっちにおいでといった風で、孫を呼ぶような優しい手つきだった。
鬼島山百合はこれでようやく錬太郎の苦しい道のりが終わったと思っている。六十年前の鬼島山百合は実際これで終りであった。
心の奥底にある恐ろしいもの、恐ろしい風景が目の前に現れて、それをどうさばくのかという試練だった。
あの時は非常に苦しくてしょうがなかった、二度と同じ試練を受けたいとは思わないと、鬼島山百合は心の底から思うような嫌な思い出である。
しかしそれから後のことは大した面倒はおきなかった。今思い出してもいまいち理解できないような話を聞かされて、白百合の正体を知らされ、そして御子としてこの島のトップに立つことになったのだが、そのくらいのものだった。
そういうこれからのことを知っている鬼島山百合であったから、これ以上の面倒が錬太郎に降り注ぐことなくようやく錬太郎の心配もなくなるのだと思い、錬太郎を呼び寄せてさっさと先に行こうと誘うのであった。
何せこれから先につらいものは待ち構えていないのだ。話を少し聞いて、それで終わりである。精々違うところがあったとしてもそれこそ鬼島笹百合を連れて戻るというだけのことである。大したことはないだろう。
ただ、錬太郎が鬼島山百合に微笑みながら近づいてきているときに、一人だけ暗い顔をしている者がいた。
白百合だ。白百合は何か思いつめた顔をして、虚空をにらみ、下唇を軽く噛んでいた。白百合は錬太郎を返したくない。
確かに錬太郎は試練を突破した。それは間違いない。
そして、白百合の誘いもきれいさっぱり断った。これも間違いない。
錬太郎は白百合の誘いに乗らずに、日常生活を生まれ育った街で過ごすと答えている。どう考えても白百合の狙いからは離れた選択肢だ。
それはしょうがないことではないかといえば、確かにそうだ。そのとおりである。かといって、白百合が納得するかといえば、全く違う。白百合は錬太郎の力を見ている。そして錬太郎がどんな旅を繰り広げてきたのかも知っている。
普通の人間にならば、これほど執着することはない。しかし錬太郎だから返すわけにはいかない。自分たちが生まれるきっかけになった事件に関係していて、そして今も関係を深めている存在なのだから。はっきり言ってしまえば、非常に身内に近い感覚で錬太郎に接している。
そしてその気持ちが錬太郎を返したくないという気持ちにかわっていた。さみしがり屋の根性が、ちらついているのだ。
しかし白百合はそんな考えを全く表に出さずに先に進み始めた。優しげな笑顔を浮かべて、背中の翼を軽く動かして遊ばせていた。足取りは軽く、全く重苦しい考えを持っていないように見えた。
いい考えを思いついたのだ。錬太郎たちがいる場所は海波根島の最深部である。未来都市の技術をすべて注ぎ込んで、地殻変動が起きようと小惑星の衝突が起ころうとも全く問題なく生きていけるように作り上げた完全なシェルターである。
外側からの攻撃を完全に防ぐのはもちろんのこと内側からの攻撃も完全に封じ込めるようになっている。
たとえ白百合がやけを起こしたとしても機能は一つも損なわれないだろう。そういうつくりになっている鉄壁の檻である。当然だが、ここから逃げ出そうと思ってもなかなかできることではない。白百合は構造を知り尽くしているために問題なく行動できているけれど、六十年近くここに通い詰めている鬼島山百合でさえ一パーセントほどの構造しか理解できていない。
それほど広く深く理解のできない技術の集合体が、この場所なのだ。もしもこの場所が単なる刑務所であれば、もしくはただの要塞であれば、きっとこんな考えは思いつかなかっただろう。
錬太郎のトラウマを利用して縛り付けるなどという考えは。
この考えが思いついたことで、白百合の頭の中にあった不安はほとんどなくなっていた。そしてこの考えを何としても成功させるために必死で演技を始めていた。
白百合が先に進み始めるのに合わせて、錬太郎たちも歩き始めた。鬼島山百合も錬太郎も特に何の不安もなかった。
二人とも少しも疑わずに鬼島笹百合が待っているはずの最深部への道を進んでいった。疑う理由など一つもないのだ。鬼島山百合はこれで試練は終わりだと思っている。昔はそうだったからだ。そしてやはり六十年の付き合いがある鬼島山百合は白百合のことを信じている。
確かにおかしな真似をしたけれどもそれでも信用できる存在で、信頼していい友人だと思っている。だから全く疑わない。
そして錬太郎は鬼島山百合を信用していた。おそらく間違いないだろうと思い、全く疑っていない。実際記憶を呼んで心の弱いところをつくという試練では、助言をもらっていなければ危なかったのだから間違いないと思うだろう。
そんな二人である。白百合の演技も全く気付かずに、海波根島の一番深くて一番固い場所へと自分たちから入り込んでしまうのだ。しかし白百合の考えを知っていたとしても錬太郎はきっと先に進んだろう。
鬼島笹百合を取り戻すのだという意志は全く消えていないのだ。
白百合の案内で錬太郎たちはどんどん先に進んでいった。白百合の寝床に続く道は特に何の障害物もなかった。
きれいな廊下がずっと続いているだけだった。また、かなり長い距離を歩く必要があるらしく、暇だったので鬼島山百合や、白百合と錬太郎は会話をしていた。特に重要な話はしていなかった。好きな食べ物は何かとか、鬼島笹百合の話をしてみたり、葉波根みなとの話をしてみたり、鬼島山百合は自分の孫娘の話を聞きたいらしく、鬼島笹百合の妹である鬼島姫百合の話を錬太郎に聞かせてくれと頼んだりしていた。
これはつまり普段の生活が真面目かどうかという話である。昨今の若者というのをテレビだとかのニュースで見ているとどうにも不安になってしょうがない鬼島山百合だったのである。錬太郎はそれに答えて鬼島姫百合は実に真面目に生活しているように見えると正直に答えた。そうすると鬼島山百合はほっとしていた。
そんな時に、白百合が錬太郎に聞いた。
「ねぇ錬太郎ちゃん。錬太郎ちゃんは結局どうするかさっぱりなの?
別にすぐとは言わないから、この島で暮らしてみればいいのに……別にすぐじゃなくてもいいから、選択肢の一つくらいにはしておいてほしいわ」
白百合は少しさみしげに聞いていた。錬太郎のほうをちらりと見て、鬼島山百合のほうをちらりと見た。本当にさみしそうな顔で、錬太郎は怒りもわかなかった。
白百合の質問に錬太郎は少し間を開けてから答えた。
「この島に来るまでは、何もなかったし、答ええられなかったと思う、でも今は少しだけ違うんです。何というか、そう知りたいことがある」
白百合に答える錬太郎だが、かなり答えに困っていた。いっていいのか悪いのか、いまいちはっきりとしていない。というのが、錬太郎本人も、このような目的を立てたところで達成できるわけがないという気持ちがしているのだ。
というのが錬太郎はこの海波根島に来て未来都市としか言いようのない技術の数々を目の当たりにした。
そして、神通力と呼ばれている技術も発見することができた。
もっと言えば、錬太郎が夢の話だと思っていた旅が本当だとはっきりしたのが大きかった。錬太郎は自分の体験したすべてが本当だとわかったことで、知りたいことが生まれたのだ。
知りたいこととは自分が出会った人たちがどうなったのかということである。出会った人たちというのは月が大きな顔をしている世界で出会った人たち、特に錬太郎と一緒に旅をしていた人たちのそのあとのことを知りたかった。
十分立派な目的であると一瞬は思えるところである。しかし錬太郎はそうは思えないのだ。なぜならどうやってもそれは難しいだろうとしか言いようのない、時の隔たりを感じている。
それも化石すら残らない時の流れがあるのだとわかっているのだ、きっとどれだけ探してもどれだけ知りたいと願っても無理だろう。
だからはっきりと答えられなかった。きっと無駄だから、やっても意味がないから答えても笑われるだけだと思って答えられなかった。
錬太郎が答えに困っていると、白百合がこう言った。
「きかせて? 笑ったりしないから、ね?」
錬太郎に答えを促す白百合は優しく微笑んでいた。錬太郎の母が見せるようなほほえみとよく似ていた。白百合はよくわかっているのだ。
よくわかっているというのはこの年頃の少年の心の動きと、このような話方をするときにどういう考えを持っているのかという謎について答えをよくわかっている。
さすがにこれは年の功である。鬼島山百合が生まれてくる前よりずっと昔からずっと人間たちを見守ってきている白百合である。悩み苦しんだ子供たちの姿は嫌でも覚えている。
本気になって悩みを解決するために手助けをしたことも数えきれないほどあるのだ。鬼島山百合が自分の孫娘たちの悩んでいる姿を見て、錬太郎の悩みを一目で見抜いたのと同じように白百合はほんの少しの変化を見抜いて、錬太郎に答えを促したのだ。
白百合に促されて錬太郎は答えた。少しためらうところがあったが、自分よりもはるか年上の鬼島山百合と白百合の前では心は簡単に恥ずかしさを捨てた。意地を張るのも無理そうだった。錬太郎はこういった。
「俺と一緒に旅をした人たちが結局どうなったのか、知りたいなって……シージオさん、あの旅で俺がお世話になった人なんですけど、あの人と一緒に最後の戦いに出て行った時に分かれたっきりなんで、どうなったのかなって」
錬太郎が自分の知りたいことについて話をすると、白百合がこう言った。
「ダナム博士を討伐した後のこと? 気になるのはあの小さな博士のこと? 随分気にかけていたわね」
錬太郎の話を聞きながら白百合は先に進んでいった。まったく表情は変わっていなかった。優しげに微笑んで、錬太郎の心を和ませていた。しかし演技は続いていた。
一番前を歩いている白百合、そのあとについていく鬼島山百合、そのあとをさらに追う錬太郎がこんなことを言った。
「そう、ですね。戦いに出ていく前におもちゃのベルトを貸してもらったんですけど、それを壊しちゃって。
一応代わりのベルトを作って渡してもらえるように頼んだんですけど、怒ったかな……それと、ルアウダさんも。
たぶん無事だと思うんですけどね、夢だと思っていたら本当で、今になって気になってきて。
もう少しあわてたほうがいいんでしょうけど、もう会えないのはわかってますから」
錬太郎が話をしていると、鬼島山百合がこう言った。
「いいと思うわよ。それにやってみないとわからないこともあると思うわ。調べてみたらまたそこから何か見つかるかもしれないし。
私には見当もつかないけどね」
錬太郎のしたいことを聞いた鬼島山百合は楽しそうに笑っていた。足取りは軽い。鬼島山百合は錬太郎がおおよその目的を見つけられたのがうれしいのだ。
錬太郎が何か悩んでいたのは島に来た時から分かっていた。実際に話してみれば錬太郎が将来に対してあいまいな状態であるとすぐに察しがついた。
これは孫娘たちのこと、子供たちのことを見てきたからよくわかった。鬼島山百合は錬太郎の血縁ではないけれどそれでも本気で悩んでいる人間を見てしまうと頑張ってほしいという気持ちになる。
それは、できればいい方向へと進んでほしいという願いであり、苦しんで努力をしているのならば報われてほしいという祈りだ。
そんな感情が心にあった鬼島山百合だから、錬太郎が何となくでも、ぼんやりとしていても社会の役に立ちそうにない目的でもとりあえず行くところを見つけられたというのなら、それはとてもうれしいことだった。
自分のことではないし、家族のことでもないけれども、報われてよかったなという気持ちになったのだった。
鬼島山百合が錬太郎に祝福を与えているときに、白百合がこんなことをつぶやいた。
「おもちゃのベルト? もしかしてそれって銀色の?」
白百合の目が泳いでいた。明らかにあらぬ方向を見ていた。右を見ていたり左を見ていたりと落ち着かない。
足はしっかりと前に進んでいるのだけれども演技が崩れるほど混乱していた。白百合は錬太郎の話を聞いていて、引っかかったところがある。
それは錬太郎の話であった、銀色のベルトの話である。錬太郎は特に力を込めることもなく話をしていたが、白百合はそれがとても大切な話であると思ったのだ。
人によって情報の重要度というのはまったく違ってくるものである。料理が好きな人は料理の情報が価値あるものになるだろうし、勉強に興味がある人は勉強の情報に価値を重くする。
逆も当然ある。まったく料理に興味がなければ料理の情報の価値は低く、勉強に興味がなければ勉強についての情報はさっぱり意味がないものになるだろう。具体的に言えば、野球の勝ち負けに一喜一憂する人がいれば、まったくどうでもいいと捨てておく人がいるようなものである。
錬太郎はどうでもいいと力まずに話をしたが、白百合にとってはとても大切な情報だったのだ。そして白百合は錬太郎の話を聞いて、いよいよ自分がとんでもない見落としをしているのに気付き今頃あわてだしたのだ。
このあわて方は仕事を失敗した時に上司にどうやって言い訳をしようかという部下の心の様子そのものであった。
白百合が失敗を起こしたことで混乱しているのに全く気付いていない錬太郎はこういった。
「そうです、銀色のベルトです。
本物はカラフルだったんですけど壊しちゃったんで、ネフィリムの力で作ったんです。ジャズが羽を使って杖を作ってくれたみたいに、作ったんですよ。
あまりうまく似せられなかったんでダサいと思うんですけど、許してくれてたらいいなって」
銀色のベルトをお詫びの気持ちを込めて作ったのだと錬太郎が話をして、それに鬼島山百合が入ってきた。鬼島山百合は錬太郎にお詫びの気持ちを込めれば、きっと相手はわかってくれると優しげにうなずいていた。
そんな二人とは反対に白百合は黙り込んで下唇をかみしめていた。足は動いているけれども、錬太郎たちのことはまったく見ていなかった。どう見ても顔色が悪い。青ざめている。
白百合は自分の失敗を確信して、そして自分の上司に叱られるのを恐れた。錬太郎がネフィリムだったという事実に行き当たった時白百合は自分の上司から錬太郎の情報を正確に伝えるように命令を受けている。
それはいいのだ。白百合はしっかりと錬太郎の情報を伝えていた。自分が見てきた者、考えたことをしっかりと伝えている。
これで十分だろうというところまできっちりとやっているので、今までの失敗に気付いていない白百合ならば、特に問題ないと思ってそのまま過ごしたに違いない。
しかし錬太郎が銀色のベルトを作ったというのなら、これは問題なのだ。これを漏らして報告していたのはまずかった。
そもそも人格を診断するために魂に刻まれた記憶を読んでいるのだから、この時点で銀色のベルトを作ったのが錬太郎だとしっかり報告しておかなければならなかった。見逃した理由は簡単で、錬太郎の心を折るために弱いところを探し続けたのがまずかったのだ。
そのためほかの部分はどうでもいいと流して飛ばしていた。丁度、映画のいいところだけを見ようとしてほかのどうでもよさそうな部分を飛ばしてみるようなものである。
錬太郎をこの島にとどめてやるという気持ちが強すぎて、白百合はトラウマを与えられた場面しか見ず、細かく記憶を調べられていなかったのだ。
これも間違いなく叱責されるポイントだ。しかし黙っていればばれそうにないところでもある。しかし白百合の上司は間違いなくこのあたりをついてくる。付き合いが長いのもそうだが、頭が回るので間違いなく見抜かれる。
となればかなり長い間延々と説教を食らわされるか、それに近い扱いを受けるに違いない。恐ろしく長い付き合いがある上司である。手加減もない。となるとただ青い顔をして黙ってしまうのだった。
いっそのこと何も知らなかったことにしようかとも思うほどだったが、ネフィリムだった錬太郎という情報と錬太郎と一緒に旅をしたイオニス・タイムという人物の名前を上司に報告している以上、嘘をつくのも無理だろうなという気でやけになっていた。
しかし白百合の気分が落ち込むのも気にせずにどんどん錬太郎たちは先に進んでいった。白百合の気分がいくら落ち込んでいったとしても大した問題ではないのだ。鬼島笹百合を取り戻して、それで終わりにしたい。それが錬太郎の願いなのだ。白百合が何を考えているのかなどというのは知ったことではない。
そうしてさらに十分ほど黙って白百合の後を錬太郎たちはついて歩いた。この間、錬太郎は特に何も行動を起こさなかった。口もあまり開かなったし、歩く以外の行動は呼吸していたくらいのものである。完全に安心しきっていた。全く警戒の様子はない。錬太郎の杖に止まっている小さな銀色のフクロウが奇妙な動きをするだけであった。
それから五分ほど歩いたところであった。錬太郎たちの前に分厚い扉が立ちふさがった。この扉はいかにもな厳重な仕掛けが施されていて、簡単に中に入れないようになっていた。
単純に扉が分厚いというのもあるが、しっかりと鍵がかかっているのだ。金属のパイプががっちりとスクラムを組んで絶対にはなれてやるものかと絡み合っていた。
しかし銀色の輝きがわずかにあるため、どことなく芸術品のような風格があった。また、なかなかしっかりとした仕掛けであるらしい。
今まで見てきた扉と同じように超能力を使えなければ通れないのはもちろん、物理的なカギも必要だった。しかるべき鍵を手に入れた認められた存在が超能力を使うことでやっと開く扉である。
実際にどうすればいいのかは白百合が解いてみせてくれた。分厚い扉の鍵を取り出して、仕掛けを解除したのだ。隠されている鍵穴を見透かして、神通力を込めて鍵を差し込んでカギをまわすだけだ。
それだけで簡単に扉の仕掛けはほどかれていった。大したことのない仕掛けであったが、これがなければどうしても解除できない仕掛けだった。
分厚扉の鍵を開ける白百合であるが、非常に顔色が悪くなっていた。伏し目がちになり、下唇をかんでいる。白百合はこれから起きることを考えて、気分が悪くなっているのである。
この分厚い扉の向こうには白百合の上司と連絡を取るための装置がある。その装置は白百合を見つけた瞬間から、情報の共有を始めるだろう。これは非常に便利な仕掛けなのだけれども、そうすると間違いなく失敗がばれてしまう。
失敗とは錬太郎をこの海波根島に縛り付けるために心を折ろうとして、情報をしっかりと整理整頓しなかったことである。
取り返せる失敗であるからあまり考えすぎるのはよくないのだが、自分たちの立場を忘れて好き勝手に動いたことを責められるのは間違いない。
誰も上司に叱られたいとは思わないだろう。特にそれなりに恐ろしい存在から叱られるというのは嫌な気分がするだけだ。
かといって逃げるわけにもいかない白百合である。そんな白百合である。覚悟を決めて扉を開いて先に進もうとするのだった。
分厚い扉の向こうにあったのはかなり大きめの空間である。学校の体育館と同じくらいの広さで、空間の中心部分には大きな銀色の柱があった。銀色の柱は天井まで伸びていて、人間が五人で手をつなげば囲める太さである。この銀色の柱は細かい模様が彫られていた。銀色の柱の表面にきれいな仕事で掘り込まれていた。この細かい模様は文字のようで、銀色の柱をびっちりと埋め尽くしていた。また銀色の柱からは光のラインが部屋の四方八方に伸びていた。錬太郎の体を癒してくれた光と同じ光だった。
この不思議な空間に入り込んだところで、白百合が目をつむって頭を押さえた。非常に苦しそうで、そばにいた鬼島山百合と錬太郎が心配して駆け寄ってくるほどである。
しかし白百合は体の調子を悪くしたのではない。白百合は自分の手に入れた情報を上司に渡しているのだ。パッと見たところでは、頭を押さえて目をつむっているだけなので気分が悪くなっているようにしか見えない。また、顔色もどことなく悪いので余計にそんな風に見えるのだが、全く体の調子は悪くない。
ただ、顔色が悪くなっているのは、上司からの反応が返ってきているためである。
情報を渡すだけなら、顔色が悪くなることはない。あまりやることがない日には暇つぶしに上司と情報のやり取りをすることもあるくらいである。調子が悪くなるようなことはない。
しかし、今回は違うのだ。今回は情報の質が違う。錬太郎が作ったという銀色のベルトの情報を上司に伝えている。そうして伝えてみると、いつもは穏やかな上司がかなりきつめの口調で何をしていたのかという反応を伝えてきたので、白百合はうまい具合にその対応をしようとして頭を痛めていたのである。
失敗をごまかしたいという気持ちはだれにでもあるが、白百合は今まさにごまかしている最中だった。特に、錬太郎を島に縛り付けようとして、ミスをしましたとは言えなかったので、そのあたりは何とかうまい具合にごまかそうと試みていた。
白百合が何とかごまかそうとしている間に、銀色の柱が震え始めた。この銀色の柱ははじめは小さく震えていたのだが、ついに無視できない揺れを生み出していた。何事かと錬太郎たちが身構えていると、女性の声が聞こえてきた。
かなり若い女性の声で、白百合の声とは違うものだった。またとらわれている鬼島笹百合の声でもなかった。この声がきこえはじめると白百合は青ざめた。どこからともなく聞こえてくる女性の声はこんなことを言った。
「白百合? そこに錬太郎がいるのでしょう? 少し私と話をさせてくださいな」
女性の声が聞こえてくると、白百合はこういった。
「ちょっとまって、ここは私の管轄でしょ? 勝手なことはしないで」
自分の上司に抗議する白百合である。声を届けているらしい銀色の柱に立ち向かい、鬼島山百合と錬太郎を背中に隠すようにしていた。しかし、いまいち迫力はなかった。少しおびえているように見えた。
伏し目がちになり、まっすぐ前を見ていない。これは見たままだ。白百合は非常におびえていた。白百合は自分の上司が怖くて仕方がない。気軽に話をしているところはあるけれども、上下関係は全くぶれていないのだ。
白百合が抗議をするとあっという間に白百合の上司がこう言った。
「話をするだけよ、それだけですわ。
初めまして錬太郎。私は第二世代をまとめている睡蓮です。
今すぐにでも直接あなたにお礼を言いたいところですが、申し訳ないです。どうしても仕事場から離れられませんの。
ですからこうして、せめて声だけでもと思い失礼させてもらいます。
私の創造主に変わり、あなたにお礼を。ありがとうございます錬太郎」
白百合の上司睡蓮が錬太郎にお礼を伝えた。
そうすると錬太郎は非常に困った顔をして、立ち尽くしていた。完全に錬太郎は困り果てている。いきなり初対面の人間から、おそらく人間だろうと錬太郎は思っているのだが、お礼を言われたのだ。
しかも睡蓮と名乗った何ものかは創造主の代わりにお礼を言いたいというのだからこれはさっぱり錬太郎には理解できない。
錬太郎の知り合いに創造主と呼ばれるような人間というのは一人もいなかった。錬太郎の記憶ではそういうたいそうな技術を持っている人間というのは思い出してみてもダナム博士くらいのものだ。
ならばダナム博士の関係者であるかというとそうでもないだろう。どちらかといえば錬太郎は恨まれることしかしていないのだ。ありがとうとは言われない。
さてそうなるとわからないので錬太郎は考え込んで、立ち止まってしまう。黙ってお礼を受け取ればいいのだが、これが人違いであるということも考えられるので、錬太郎は考え込んでしまうのだ。
錬太郎が黙り込んで考えていると、白百合の上司睡蓮はこういった。
「私の創造主の名前はイオニス・タイム。
錬太郎、あなたはよく知っているでしょう?ネフィリムたちが乱舞した第一世代の滅亡期にあなたにすくわれた少年の名前ですよ。
地球の残存戦力が月にいたダナム博士を討伐した後、少年は成長して私を作ったのです。
私の創造主イオニス・タイムはあなたたちと一緒にかけぬけた冒険をずっと覚えていたのです。あなたたちの生き様が生きる気力を与え、強さの源になったと楽しそうに話してくれたのを覚えています。
そしてあなたたちの話をする時にはいつも、お礼を言いたかったとしめくくるのも覚えています」
睡蓮の話を聞いた錬太郎は目を見開いていた。完全に驚いていた。睡蓮の話はまったく考えもしていないものだった。
それはそのはずで、錬太郎にとってイオニス・タイムという人物は少年だった。自分よりもはるかに年下の少年で、その印象が頭の中にずっと残っていた。そのため、その少年が生き残った後にまさか睡蓮を作り出すことになったなどとは、思いもしなかった。
錬太郎が驚いている間に、白百合がこう言った。
「お礼を言ったのなら、もういいでしょ? さっさと通信を切って。錬太郎ちゃんはまだ用事があるの」
やや強めの口調だった。いつの間にか背中の翼を広げて鬼島山百合と錬太郎の姿を隠すような行動を白百合はとっていた。
この時も白百合はややおびえた表情をしていた。白百合は非常に嫌な予感を感じていた。このいやな予感というのは白百合の上司睡蓮が、錬太郎に会いたいと言い始めたところから感じていた。
もともと白百合の上司睡蓮は人に会いたいとは言わない存在である。人間が嫌いなのかというとそうではない。一人で過ごすのが好きなタイプなのだ。
白百合は一人でいるとさみしくてしょうがなくなるタイプなので、正反対といってもいい。このタイプが違っているというのは人によっていろいろであろうが、
これが急に変わるようなことをするのはおかしなことである。つまり一人になるとさみしくてしょうがない白百合が、突然一人でいいなどといい始めれば、白百合を知る者たちは心配するだろう。
何せそれはいつもの白百合のパターンとは違っている。いつもならばこうするだろうという当たり前から離れている。
何かあったのではないかと心配になる。白百合にとって睡蓮の人に会いたいという発言は間違いなくいつもとは違った反応だった。
それが白百合には嫌な予感にしか感じられなかった。その嫌な感じが、声しか届けられない相手への明らかな敵意へと変わり、見えないはずの相手から子供たちを隠すような行動につながった。
白百合が睡蓮を強めに拒絶すると、すぐに睡蓮はこんなことを言った。
「よくわからないけど、白百合はご機嫌斜めなのね。後でまたかけなおすことにするわ。
あとそうだわ……白百合、錬太郎を捕まえておいて。
本当に、ごめんなさいね錬太郎。私あなたのことを考えているの。あなたの将来のことよ。あなたはきっとわからないと思うけど、本当に困ったことになっているの。
それで、あなたを外に出さないほうがきっとあなたのためになると結論を出したの。だからあなたも納得してほしいわ。
何もかも終わったらあなたを外に出してあげるから、我慢して……お願い、ね?
それじゃあ、頑張ってね白百合。またあとでね」
睡蓮の通信はこうして終わった。特に何の悪意もなく錬太郎を捕まえろと白百合に命じていた。
睡蓮が通信を切った後、錬太郎たちを守っていた白百合は暗い顔で振り返った。まったくこの世の終わりが来たような絶望しきった顔だった。両手の力が入らないのか、両手を握ってみたり開いてみたりと繰り返していた。
白百合は命令をやり遂げるつもりなのだ。しかしおかしなところももちろんある。というのは、睡蓮の命令と白百合の願いというのはほとんど同じものであるから、少なくとも嫌がる理由はないはずである。
つまり白百合は錬太郎を御子として海波根島に住まわせたいと思っているのだから、睡蓮の命令は喜んで受けるべきだろう。少なくともそういう考えがあったのだから、嫌がる理由はない。
それこそ上司の命令だからいやいや錬太郎を島に縛り付けるくらいの芝居をしてもいいくらいの状況である。
ただ、白百合は約束を破っていいとは思っていない。確かに錬太郎を島に縛り付けてさみしい思いをしたくないという気持ちにはなっている。自分と非常に近い存在なのだから、一緒にいてくれればさみしさはまぎれる。
しかし錬太郎は白百合の仕掛けてきた試練をことごとく乗り越えていった。ということはつまり約束は守らなければならないということである。
口約束であるから知ったことではないといえばそれまでだが、それができないのが白百合の根性なのだ。
早い話が錬太郎の個人情報は既に手に入れていたので、長い年月をかけて錬太郎を島に取り込んでいけばいいと考えていた。
具体的に言えば葉波根みなとあたりに錬太郎の恋人になってもらって、子供を作って島に戻ってきてもらえればいいなどと考えていたところがある。
長い年月を生きている白百合であるから、十年くらいなら簡単に待てるのだ。そんな白百合であるから、上司である睡蓮の命令を守るのが嫌でしょうがなかった。
睡蓮の命令は今この瞬間に、錬太郎を監禁しろという命令である。当然だが、明日も明後日も海波根島にいてもらわなくてはならないという話になる。
となれば、白百合の約束は破られることになり、錬太郎に対して不義理を行ったという感覚が白百合を襲う。ただ、上司の命令は白百合にとっては絶対である。どうしても睡蓮には逆らえない。そのため約束を破り錬太郎に不義理を行うとわかっていても命令を成し遂げようとするのだ。
ただ、あまりにも信条に反した行為であったので、吐き気がしていた。
この世の終わりのような顔をしている白百合を見て、鬼島山百合が頭を抱えた。鬼島山百合は白百合が何をしようとしているのかを察した。
だてに六十年も一緒にいたわけではないのだ。怒った白百合も悲しんでいる白百合も、すべて鬼島山百合は見てきている。それこそ自分の母親だとか、祖母を見ているような気持ちで白百合に接している。
その鬼島山百合が、白百合の顔色が激変した理由に思い当たらないわけがなかった。嫌でも何をしようとしているのか察しがつき、白百合の悲しみと、絶望に行き当たった。
そして白百合が本気を出して錬太郎を拘束しにかかる結果を思い、錬太郎の未来が真っ暗闇に落ちたことを悟り悲しんだのだ。
ただ、止めるだけの力は鬼島山百合にはない。なぜなら鬼島山百合など足元に及ばぬほど、白百合の業はさえている。
ただ、鬼島山百合と白百合が暗い顔をしている中で、錬太郎はこんなことを言った。
「イオニス君は無事だったか……よかった。
となると、あとはルアウダさんだけか。まぁ、イオニス君が大丈夫だったなら、ルアウダさんも大丈夫、だろうな。へっぽこにしか見えなかったが、頭は回ってたし」
錬太郎は少しも暗くなっていなかった。自分と向き合っている白百合もその顔色の悪さもわかっているけれど、激情を表に見せていない。
錬太郎は微妙を浮かべていてさわやかな顔をしていた。
さわやかな微笑を浮かべている錬太郎に、白百合が話しかけた。
「ごめんなさい、錬太郎ちゃん。あなたをこの島に保護するわ。
睡蓮が決めたのなら、私は従わなくてはならないの。本当にごめんなさい」
錬太郎に謝りながら、白百合は銀色の柱に向かって歩き出した。銀色の大きく太い柱に近付く白百合は悲痛な表情のままだった。
しかししっかりと足は動いている。命令を絶対に果たさなければならないと白百合の頭が切り替わっているのだ。本当ならば、こんな命令を聞きたくはない。個人的な感情を優先したいのが本当である。
しかしそれはできない。なぜなら白百合の上司からの命令だからだ。確かに白百合は個人である。自由意志がある。しかしそれは組織の中で生きているからこそ与えられるものなのだ。
それはたとえ神様と呼ばれるような時間を生きている白百合であってもどうしようもない事実であった。
白百合はこのどうしようもない状況が理解できているため、いくらいやだと思っていても冷静な頭がまともな行動を選択してくれる。
まともな行動とは組織として動き、組織の目的を果たすために全力を尽くすということである。それはつまり組織のトップである睡蓮の命令を完遂すること。錬太郎をこの島から出さないということである。
これはどちらも白百合の人格なのだ。個人として生きている自分と、組織の中で生きている自分が冷静に判断を下し、優先順位の強いほうを選び取った。それだけだった。しかしおそらく白百合の立場なら、ほとんど間違いなく誰もが同じ行動に出ただろう。
銀色の柱に向かっていく白百合の背中に、錬太郎はこんな言葉を贈った。
「いや、かまわないさ。あんたも大変なんだなくらいしか思わないよ。
でも、もう少しやる気を出したほうがいいと思うな。勝つのは俺だから」
白百合を許すといいながらも挑発する錬太郎は、笑っていた。軽く体のストレッチをして、体の調子を確かめたりしている。
錬太郎は戦うつもりである。それも真正面から戦って、鬼島笹百合のところへ向かうつもりなのだ。錬太郎は睡蓮の話も、白百合の立場も何となく理解できている。
詳しく白百合がどういう状態にあり、どういう上下関係にあるのかはわからない。睡蓮が何を思い、往く手を阻むのかもわからない。
わからないことはあるけれども、睡蓮が邪魔をして、組織の一員として白百合が本気で自分を拘束しに来るというのははっきりとわかっている。
確かに面倒くさいことになったという思いはある。間違いなく面倒くさいことになっている。すんなりと鬼島笹百合を取り戻せると思ったら、これだからとんでもなく面倒くさい。
しかし、怒りは沸かない。憎しみも覚えない。なぜなら大した問題ではないからである。まったく大した問題ではない。今までと同じだ。むしろ今回は自分が狙われているので、全くといっていいほど怒りはない。
それに白百合の事情もよくわかっているので、同情心しかわいてこないほどである。そんな錬太郎であるから、全く悪い気がしていない。ただいままでちょっかいをかけてきた存在と戦うことになり、全力で戦うだろう状況が生まれたことを喜んでいた。
相手の事情が分かっているのは間違いないが、それはそれ、これはこれなのだ。左の足首も回復し、右の拳どころか全身が回復している今、憂いはない。
戦うには最高にいい状況だった。挑発を乗せるくらいの余裕さえあるのだから最高だ。
挑発交じりの錬太郎の激励を聞いた白百合は足を止めて、一瞬だけ振り返った。ほんの少しだけだ。本当に少しだけ錬太郎の顔を見るためだけに振り返っていた。
そして錬太郎の顔を見て、歩き出した。今まで絶望でいっぱいだった白百合の顔に笑顔が戻ってきていた。目に力が宿り、爛々としていた。白百合の心から後ろ暗い気持ちがさっぱりなくなっているのだ。それはそうだ。錬太郎の顔を見て、後ろ暗い気持ちを持つ者などいないだろう。
今の錬太郎の顔はどう見てもさわやかな笑顔でいっぱいの好男子だった。四の五の言わずにさっさと戦って白黒はっきりさせようじゃないかという暑苦しいオーラでいっぱいになっている。こんな笑顔で許すといわれて、思い切りやろうじゃないかと誘われてしまったら、絶望など感じてはいられない。
ここまでいい笑顔で挑発されてしまったら、本気でやるしかなくなるではないか。単純な笑顔一発であるけれど、白百合の絶望を吹っ飛ばしていた。
元気を取り戻した白百合は、銀色の柱の前に立った。手を伸ばせば銀色の柱に手が届く距離である。そしてこういった。
「錬太郎ちゃん、あなた本当に素敵よ。
笹百合ちゃんでもみなとちゃんでもいいから、お嫁さんにしてこの島で暮らしてくれたらいいのに。本当に、今は心の底からそう思うわ。
あと、私を挑発したことを後悔させてあげる。だてに暇を持て余していたわけじゃないのよ?
見せてあげる桁違いの研鑽の果てにある武術の技を!」
錬太郎に戦いの始まりを告げる白百合は、銀色の柱に手を触れた。そうすると銀色の柱が姿を変えた。錬太郎の銀色のフクロウがそうだったように、動き出した。
銀色の大きく太い柱は、羽のように散らばって、体育館ほどある空間を埋め尽くした。そして一秒ほどしてから、一気に白百合のところへ集まり、白百合の体をかためていった。錬太郎が目を丸くして見ていると、準備が整ったらしい白百合が姿を現した。
白百合は銀色の兜を身に着け、銀色の具足で体を包み込んでいた。兜といってもほとんどフルフェイスのヘルメットのような形状である。
そして銀色の具足は体にぴったりと張り付いていて、体の動きを妨げるようなところはない。無駄を省きに省いて、機能を追求した形をしていた。
おかしなところがある。それはこの防具一式には光のラインが入っているということである。この光のラインは、間違いなく錬太郎の体を癒してくれた光と同じ光だった。
白百合の背中には翼が生えているのだけれどもこれはたたまれていた。背中の翼は小さく折りたたまれて、戦いの邪魔にならないように大切に守られていた。丁度マントをつけたような状態にみえた。しかし翼を守るためにカバーをかけているような状態なので、燕尾服の裾のように二つに分かれていた。
また、白百合の手には一メートル八十センチほどの銀色の杖が握られている。鬼島山百合が持っている八角柱の杖がそのまま銀色の金属で包まれたのならば、全く同じものが出来上がるだろう。
白百合の姿を見た錬太郎は、銀色のフクロウの杖をナイフを持つように構えた。今まで余裕ぶっていた錬太郎から、一切の余裕が消えうせている。今までにないほど錬太郎は緊張していた。油断など一切なかった。
錬太郎は白百合の体を包み込んでいる鎧を見て、全く油断どころか、全身全霊をかけなければやられてしまう相手であると判断した。
白百合の体を包んでいる防具一式自体を見て恐ろしいと思ったのではない。錬太郎はこの防具から放たれている光が、かつて自分が相手取って戦った恐るべき怪物たち、ネフィリムたちが身にまとっていた光であるとようやく察したのである。
錬太郎はその光を放つ者たちが、異常なほど強い超能力を持っていたのを知っている。身をもって体験しているのだ。巨大なビルを軽々と引き抜いてみたり、成層圏まで見通す眼力を持っていたり、また、自由自在に人の心を操ってみたり、怪物を一瞬で銀色の砂の山に変えてみたりと、その力はあり得ない領域にあった。
となれば、かなり光が弱いけれどもネフィリムの光を操っている白百合は間違いなく強敵である。たとえ一万分の一、一億分の一の力しか出せないとしても、間違いなく錬太郎は圧倒されるのだから、緊張するのも無理はない。
錬太郎の緊張した姿を見て、白百合はこういった。
「戦う前に一つだけ教えてあげる。錬太郎ちゃんが見抜いている通りこれはネフィリムの力を再現した武装。
さぁ錬太郎ちゃん。あなたに私が倒せるかしら。かつてネフィリムだったあなたなら、この力がただの人間に止められるような代物ではないとわかるでしょ? さっさと降参したほうがいいわよ?」
白百合の忠告交じりの挑発を受けて、錬太郎の杖になった銀色のフクロウが大いに笑った。奇妙な鳴き声を上げて、くちばしをバチバチと鳴らして羽をはばたかせた。
それにつられて、錬太郎は笑った。間違いなく目の前の脅威におびえている。敗北が監禁につながる不安も間違いなくある。
しかし笑っていた。恐怖が笑わせたのではない。やけっぱちになったのでもない。銀色のフクロウが笑うのに自分が笑えないわけがないと思ったのだ。
錬太郎は銀色のフクロウが笑うのを見て、こう思ったのだ。どうしてビビッているのかと。どうして戦う前からビビッて負けると思い込んでいるのかと。こんなに小さな銀色のフクロウが、しかも生き物でもないような怪しい存在が笑って余裕ぶっているのに、どうして考えて、動けて、戦える自分がこんなにおびえているのか。
この無機物を見て、自分もやってやろうじゃないかという気持ちになったのだ。やってみなければ、どちらが勝つのかはわからない。そんなこともわからなくなるほどビビっていた自分を笑ったのだ。
錬太郎が不敵に笑ったのを合図にして戦いは始まった。
初めに仕掛けたのは、白百合だった。十五メートルほど離れたところに立っていた白百合があっという間に錬太郎の目と鼻の先まで近づいてきていた。既に銀色の杖で錬太郎に攻撃を仕掛けている。あと一秒足らずの間に錬太郎の腹部に杖が叩き込まれるだろう。
白百合の神速といっていい攻撃に、錬太郎は対応した。かろうじて白百合の移動を視界に残像として押さえられたのをきっかけにして体を丸めるような格好で防御を行った。
しかしどう見てもへたくそな防御であった。しかししょうがないともいえる。あまりにも白百合が素早すぎるのだ。十五メートル離れていれば、間合いを詰めるのには三秒ほどかかるだろうが、それを一秒かからずに詰めるだけに飽き足らず、攻撃まで行っている。
反応して、防御まで持って行けただけよくできた。しかも両腕を盾の役割を果たせるように交差させられているのは本当によくできたとしか言いようがない。
しかし、白百合の杖での突きがなくなるわけではない。白百合の突きはしっかりと錬太郎の体をとらえていた。錬太郎は両腕を盾の代わりに使っていたが、それさえ意味がなかった。腕の隙間を縫い、錬太郎の腹に杖を突きいれていた。
突きを受けた瞬間、錬太郎の体はふっとんだ。そして広い空間の壁にぶち当たって止まった。壁に衝突した時にあまりに大きな音がしたので、鬼島山百合は当然として白百合まで冷や汗をかいた。壁にぶつかった衝撃で錬太郎の手から銀色のフクロウの杖が転がり落ちていた。
壁にぶつかった錬太郎であるがまだ息があった。それどころかぴんぴんしていて、戦いを続行する気満々である。
恐ろしい衝撃が錬太郎を襲ったはずである。鬼島山百合と白百合が冷や汗をかくほどの勢いと音が響いていた。確かに勢いはあった。音も大きかった。ただ杖での突きも、衝突の勢いもそれほど大した問題ではなかった。なぜなら錬太郎は攻撃を受けるとわかった時から、自分の体をほんの少しだけ浮かしていた。ほんの少しだけだ。一センチに満たないあまりにも低い浮遊を錬太郎は行っていた。
しかし小さな浮遊は非常に効果的だった。錬太郎の体が浮いていた結果、杖での突きは完全に衝撃を伝えきれなかった。
これはつまり風船を思い切り殴ったような状態なのだ。確かにわずかな衝撃は届くが、完全に破壊するのは難しい。なぜなら衝撃を加えた瞬間から、ふわりと移動し始めて衝撃を逃がしてしまうからだ。
これが固いもので重たいものならばこうはいかなかった。たとえば壁のようなものならばきっと大穴を開けて壊れていただろう。
この浮力でもって錬太郎は攻撃のほとんどをいなしたのだ。しかし完璧ではなかった。わずかに腹部は傷んでいる。しかし戦えないほどではなかった。戦いの興奮で十分耐えられた。
すぐに錬太郎は動き出した。もがきながら両手両足で地面をとらえて、肉食獣が獲物を狙う姿勢を取った。錬太郎の右目の奥にとらえきれないほど小さな夕焼けのような光がともっていた。
白百合がほっとしている間に、今度は錬太郎が一気に距離を詰めて攻撃を仕掛けた。錬太郎の攻撃は錬太郎の足首を狙ったものだった。足首をつかみ、そして叩きつけてやろうという考えで行われていた。
錬太郎の攻撃、第一段階は見事に決まっていた。錬太郎が動いていることにほっとした白百合の油断は、錬太郎の攻撃を成功させる一番の原因になっていた。
錬太郎はしっかりと銀色の具足で守られた白百合の右足首をつかんでいた。もともとかなり華奢な女性である。具足を身に着けたところで錬太郎にとっては大した変化ではなかった。
そして錬太郎は攻撃を次の段階へ持っていった。つまり思い切り振り上げて、床にたたきつけてやろうとした。
当たり前のように軽々と片手と背中の運動で人間を振り上げた錬太郎は、そのまま振り下ろそうとした。まったくためらいはなかった。鎧を着ている人間であろうと、強い衝撃に耐えられるわけがないという確信が、錬太郎に手加減を一切なくさせていた。勝利に向かう錬太郎の目に手加減などない。
ただ、錬太郎のこのたたきつけようとする攻撃は失敗した。白百合がカウンターを仕掛けたのである。
錬太郎に振り上げられたところで、白百合は錬太郎を持ち上げてしまったのだ。非常に愉快な光景である。
白百合を浮かび上がらせた錬太郎は白百合の足首をしっかりと握っている。白百合は空中に持ち上げられてどうしようもない状態だった。確かにここまでは錬太郎の思ったまま進んでいた。しかし白百合は空を飛べる。
当然ながら空中にとどまるなどというのはまったく難しい行為ではない。鬼島笹百合を連れていても普通に空を飛べるのだから、錬太郎の腕力に抵抗するのはそう難しいことでもない。
また、空中にとどまった状態で、自分の右足を思い切り振り上げることもそれほど難しいことではないのだ。
そうして白百合が右足を思い切り振り上げたものだから、錬太郎は魚が釣られるような調子で思い切り空中に浮かび上がってしまったのだ。
空中に浮かばされた瞬間、錬太郎は白百合の笑い声を聞いた。間違いなく笑い声だった。白百合はとても楽しそうに笑っていて、いやな気配は一切なかった。きっと純粋に楽しんでいるのだろうなと錬太郎が感慨にふける間もなく、白百合の左足が、錬太郎を蹴り上げた。
空中での行動であるのにもかかわらず、何の問題もなく白百合は見事に体を操っていた。気が遠くなる時間を武術の研鑽のために使ったというのは嘘でないと錬太郎は体で理解した。
思い切りけり上げられた錬太郎は、全く抵抗できずに天井にぶつかって、そして落ちてきた。二十メートル近い高さにぶつかって落ちてくる錬太郎はやや意識を薄くしていた。どう見ても着地を果たせるようには見えない。
しかし錬太郎は空中で動きを止めた。白百合がとめたのだ。念力である。
空中で錬太郎をとらえた白百合は錬太郎にこう言った。
「私の勝ちね?」
錬太郎は答えた。
「まだだ……」
錬太郎の答えを聞いて、白百合は翼を広げた。今まで隠していた羽を広げて、羽ばたき始めた。そうすると銀色の羽が抜け落ち始めた。ぱらぱらと落ちてくる銀色の羽はあっという間に空間を埋め尽くすほどとなった。そして銀色の羽は雨あられのごとくに錬太郎に殺到した。ジャズの羽毛と同じできれいな銀色の羽だった。
錬太郎に殺到する羽たちは錬太郎をぎりぎりかすめる軌道で飛び回った。かろうじて錬太郎には当たっていなかった。
全身をかすめるように飛ぶ数えきれない銀色の羽は弾丸そのもので、体をかすめる音を聞くだけで、視覚に入れるだけで恐れおののくべきものであった。これらはすべて、白百合が操作しているのだ。
白百合はこういった。
「あきらめなさい。私のほうが強い。どうやっても錬太郎ちゃんは私に勝てないわ。
錬太郎ちゃんは私に負けて、この島で暮らす。うなずきなさい。そして復唱するのよ。この島で暮らすと。
それに、この島にいれば、睡蓮と接触できるわ。睡蓮に話を聞けばいいじゃない。睡蓮ならばあなたの疑問に、第一文明がどういう末路をたどったのか応えてくれるわ」
白百合の降伏勧告に錬太郎は黙ったままだった。錬太郎は葉波根みなとの助言を思い出していた。
五秒ほど黙ったままだった錬太郎は答えた。
「いやだね。俺は自由に進みたいんだ。あんたたちに任せるつもりはない……それだけなんだ。
なんだ……簡単な答えだったな。俺はそれだけだ。それだけなんだ。進みたいだけだ。
俺を好きにしたいなら、力づくでやれよ。悪いけど、俺は折れないからな」
白百合の誘いを錬太郎は断った。この時の錬太郎は実に楽しそうに笑っていた。全く自分が置かれている状況など全く気にしていないらしい、本当にさわやかな笑顔だった。今まであった不安が一切なくなって、一皮むけていた。
錬太郎は自分が求めていた答えに手が届いたのだ。きっとそれは海波根島にきていろいろな人と出会ったからに違いない。
葉波根みなと鬼島山百合、そして今目の前で錬太郎の心を折に来ている白百合。彼女らに出会わなければ、間違いなく自分が何を求めているのかなど答えに至らなかっただろう。
しかし彼女らに出会い、助言を受け、戦ったことでやっと自分がどうしたいのかが分かった。答え自体は単純すぎて、おろかにさえ思える。ただただ、進みたいという願い。情熱そのものが形になったような無鉄砲極まる未来設計である。
しかしそれがおよそ間違いなく錬太郎が納得できる形だった。大学進学を望んだのも、結局はこの熱意があったからに違いない。そして自分の内面の一端を理解できたことが、錬太郎を一皮むけさせ、喜びを生み出し、気持ちのいい笑顔を作った。
錬太郎の答えを聞いた、白百合はいったん攻撃の手を止めた。今まで空中を高速で飛び回っていた銀色の羽たちはぴたりと動くのをやめて、完全に空中で止まっていた。海の中を泳ぎまわる小魚の群れが一塊になって泳ぐことがあるが、そっくりそのまま写し取って空中に張り付ければ、ちょうど同じ光景になっているだろう。
ただ小魚とは違い白百合の羽たちは一発一発にありえないほどの衝撃が込められているので、口に入れると頭が吹っ飛ぶだろう。
白百合が行動を止めたのは、錬太郎が輝いて見えたのだ。この輝きは自分の子供たちが一歩前に進んだときに見える、きれいな輝きだった。錬太郎のさわやかな笑顔は、間違いなくそれだった。卑屈に笑うのでもなく、面白いから笑うのでもない。
一歩一歩大人になるために先に進んでいる子供たちが成長した時に見せてくれる大人びたいい笑顔だった。
白百合はこの笑顔が好きだ。もともと自分の使命に忠実な白百合である。子供たちが正しく成長してくれるのは、子供たちが増えて地に満ちていくのと同じくらいに大好きなものだった。そんな白百合である。錬太郎がこの土壇場で、一歩前に進み、大人になりつつあるのを見て、うれしく思った。
しかし同時に残念だとも思った。錬太郎が成長したのはいいけれどもそれをへし折らなければならない役目が自分にあるのだ。
それはとても悲しいことだった。だから白百合は少しだけ動きを止めた。本当にこれでいいのかと悩んでしまったのだ。
白百合がわずかに悩んでいる間に、奇妙な変化が起きた。錬太郎の杖、銀色のフクロウの杖が錬太郎めがけて飛び込んできたのである。
手のひらに収まるほどの大きさしかない小さなフクロウであるが、銀色の翼をはばたかせて、錬太郎のもとに参上していた。
この小さなフクロウは、空中で拘束されている錬太郎の目の前に現れて、錬太郎の両目をじっと見つめた。銀色の小さなフクロウの目が、錬太郎を覗き込んでいた。
銀色の小さなフクロウの異変を察した白百合はすぐさま攻撃を再開した。錬太郎の周りに侍らしていた銀色の羽の群れを一気に加速させた。
白百合は少しばかり焦っていた。銀色のフクロウの確実な正体に白百合はいきあたっていないからである。
変化した理屈自体は見つけていた。それ自体は非常に簡単だったのだ。第一文明が滅んだ時に、人間が怪物へと変じる事案が数多くみられたのだが、それと全く同じ理屈だった。
ただ、どうしてフクロウのお面にそれができたのかはわからない。錬太郎がネフィリムだったことが影響しているのか、それともまったく別の何かが原因なのかは見当もついていない。
ただ、何かしら白百合でもわからない何かがあるのは間違いなかった。この正体不明の銀色のフクロウが何か行動を起こそうとしているというのならば、白百合は一番に排除しなければならない。なぜなら錬太郎よりもはるかに正体不明の怪物であったから。
しかし白百合の行動空中を埋め尽くす羽の魚群による攻撃はフクロウの翼によって防がれた。フクロウの小さかったはずの翼があっというまに風船のように膨らみ、ターバンのように変形すると、錬太郎を左右から包み込んでしまったのだ。翼で包まれた錬太郎はミイラ男のような風貌になったが、白百合の羽での攻撃からは完全に守られていた。
急に錬太郎と白百合の勝負に割って入ってきたフクロウであるが、どうやらまだやることがあるらしかった。錬太郎に巻きつけた翼をさらに変化させて、錬太郎に防具一式と杖を与えていた。
丁度、白百合の身に着けている防具一式と杖の装備と鏡写しになっているように見えた。また白百合と同じく、光のラインが走っている。しかし錬太郎の装備はやや不規則に走っていた。白百合の光のラインは体の表面をきれいに覆い尽くせるように規則正しく縦横のラインが走っているのだが、錬太郎の装備には光のラインが右目の眼球を中心にして蜘蛛の巣のように四方八方に伸びていた。
放たれている光は錬太郎の右目の奥で輝く夕焼け色の光と同じものだった。
錬太郎の変化を目の当たりにした白百合は何が起きたのかわからずに空中で茫然と錬太郎を見るばかりになった。
錬太郎が自分と同じ装備を身に着けているのもわからない。またどうしてネフィリムの力を人間であるはずの錬太郎が身にまとっているのかもわからないのだ。わからないことばかりで、白百合の頭はいったん考えるのをやめていた。
白百合と同じ装備を身にまとった錬太郎は、白百合の拘束から脱して着地していた。随分身にまとっている鎧が重たいらしく鈍い音が広い空間に響いた。
着地を果たした錬太郎だが攻撃はしなかった。自分の体を確かめていた。右手を見てみたり、左手を見てみたり、体を眺めてみたりといろいろと忙しかった。戦いの最中なのだから、攻撃の一つでも繰り出すべきという考えはもちろん頭にある。
しかしそれよりも銀色のフクロウが作り出した防具一式が非常に興味深いものだったのだ。しかしこれは変形したから興味深いわけでも白百合が身に着けている防具一式と杖のセットとそっくりだということに興味を持ったのではない。
錬太郎が興味を持ったのはフクロウが作り出した防具一式を身に着けた時から感じる力の高まりである。いろいろな疑問は頭にあるが、それ以上に体中に力がみなぎっているのを感じていた。それだけならば、おそらく対して興味は持たないだろう。
超能力だとか神通力と呼ばれているよくわからない力を手に入れた時も同じような感覚があったのだから。
これだけでも十分おかしな話だが、この防具一式を身に着けた時から、かつてネフィリムだったころに錬太郎が身にまとっていた光の衣を着ているような感覚がよみがえってくるのだ。
これは非常に不思議な感覚だった。自分とすべての空間が一体化して全知全能になったのではないかと思えるほどの力の充実があった。錬太郎はこれがどうにも不思議で、どうしようもなく興味がわいてしまった。そんな錬太郎だから、戦いの真っ最中であるにもかかわらず、自分の状況を確かめて勝利のチャンスの一つを逃すのだった。
錬太郎が防具一式を身にまとっている自分の姿を確かめている間に、白百合が話しかけてきた。白百合はずいぶん冷静になっていた。また地上には降りていなかった。広い空間の中、錬太郎を見下ろすように浮遊している。彼女はこういうのだ。
「錬太郎ちゃんは本当にわくわくさせてくれるわね。
人類がリスタートしてから今まで、こんなにわからないことが連発するなんて初めてだわ。
錬太郎ちゃんがこの島に来てくれてよかった。本当にうれしいわ。
ねぇ錬太郎ちゃん、先に謝っておくわね。私これから本気であなたを倒しにかかるわ。そしてあなたを拘束する。
あなたの夢だとか、将来設計だとかはずたずたになるけれど、我慢してね
大丈夫よ心配しないで。さみしくないようにみなとちゃんをつけてあげる。あの子あなたに気があるみたいだから、ちょうどいいでしょう?
ねぇ、錬太郎ちゃん負けてもいいのよ? 私に勝てないのは当たり前なんだから、ちょっと頑張って意地を見せて、それで終わらせてしまいましょうよ。そうしたら、いい生活を与えてあげる」
錬太郎に話しかけている白百合は挑発するような行動をとっていた。手をふわふわと揺らしてみたり、声の調子をいらだたせるようなものに変えてみたり、高圧的なものを言いをしてみたり。
なかなかの演技であるためにそばで聞いている鬼島山百合が自分のことでもないというのにいらだち始めていた。
白百合は挑発することでもって、チャンスを手に入れようとしている。つまり錬太郎を見くびっていないのである。
錬太郎が身にまとった防具一式、白百合と同じフルフェイスヘルメットのような兜と、銀色の具足がその理由である。ただの兜と具足なら何の問題もないのだ。鼻で笑って倒せるだろう。問題なのはどう見ても白百合と同じ技術を使い同じ力を手に入れているというところである。
その技術というのはつまりネフィリムの力を人の身で使うという技術である。今までは一方的な戦いだった。もともと白百合の武術のレベルが非常に高いので、錬太郎の攻撃はほとんどさばけていたのだけれども防具一式の力が勝利をより確かなものにしていた。
完全武装の達人が、小さな子供相手に一方的に力をふるっているような状況だったのだ。そのくらいに白百合の防具一式と杖のセットは実力を離していたのだ。
しかしそれがほとんど同じ土俵に乗ることになった。今の状況は単純に白百合の武力と錬太郎の武力の戦いだ。今までのような道具の有利はまったくない。となれば、白百合は自分の勝利のために何かしなければならない。
その何かというのが挑発だった。錬太郎が怒り狂い、冷静さを失えば武術の達人である白百合ならばあっという間に仕留められると彼女は考えた。長い年月で養われた挑発の技術、その演技ならばできると信じた。
しかし、白百合の挑発に錬太郎はこんな答えを出した。
「見え見えすぎるぞ、挑発はもっと短く簡潔にやるんだ。長々とやっても相手はついてこない。理解しようと努めて冷静になるからな。わかるか?
こんな風にやるんだよ、このド貧乳が!」
白百合に錬太郎は挑発で返していた。空中に浮かんでいる白百合を見上げて、バカにしていますよという気持ちを両手を使って表現していた。実に堂々としていて、気持ちがいいくらいだった。錬太郎はよくわかっていた。よくわかっていたからやり返したのだ。
白百合の言動は短い付き合いながらもしっかりと錬太郎は覚えている。腹立たしいことばかりを錬太郎に仕掛けてきたから余計に覚えているというのが本当のところなのだが、理由はどうであれ覚えているのは間違いない。その覚えている言動から白百合の人格というのをおおよそだが察することができる。
これは鬼島山百合のような長年付き合ってきたからわかるというものではなく本当に表面的な人格を撫でただけだ。理屈として頭になくとも何となくの感覚として把握できるレベルのものである。その何となく白百合がどういう人物なのかというのを把握している錬太郎にとって、白百合というのは案外誠実な人物であるというように見えている。
錬太郎ははじめましての段階でひどい目に合わされているので、悪印象のほうが強いけれど、鬼島山百合や葉波根みなと達との会話を見ていると、どちらかといえば順序を踏んでしっかりルールを守ろうとしているのがわかる。
このルールというのは白百合が守らなくてはならない白百合が決めたルールだ。しかしきっちりとやっている。波根の道で錬太郎を調べていたのも、試練を行ったのも、ルールをきっちり守ってのことだった。
証拠は錬太郎が無事にここまで来れたことだ。怪我はしたが動き回れていた。ルール無用ならそもそもまどろっこしいことはしなくてよかったのだ。
錬太郎を無理やりに拉致して、強制的に記憶を調べればよかった。それはできたはずだ。一騎打ちなどせずに、今まで錬太郎と戦った者たちで襲いかかればいい。錬太郎は間違いなく敗北するだろう。
そもそも白百合自身が非常に強いのだから、錬太郎の正体がわかった時点で、不意打ちを仕掛ければよかった。それをしなかったのはルールをしっかり守っていたから。ルールを守らなければならないのだという誠実さがあるからだ。
そんな風に白百合の表面的な人格を理解できている錬太郎である。白百合の口から明らかに意地の悪い言葉が飛び出してきたり、自分の子供のように思っている島人たちをもののように扱うような言葉というのが出てくると、らしくないなと思ってしまう。
お前はそういうのが一番嫌いなタイプだろうと。そしてあっという間に挑発行為であると察せたのだ。そうして察したものだから、逆に挑発し返したのだ。挑発が必要な土俵に自分が立っているのだと錬太郎は推測したのである。
錬太郎の挑発にカチンと来ている者が二人いた。錬太郎を見下ろしている白百合と、全く戦いに巻き込まれないだろう処で見守っている鬼島山百合である。
二人とも非常に気にしているのだ。どことは言わないけれども白百合の影響を強く受けている子供たちは、どことは言わないけれどもある一部分が、非常に平坦なのだ。
それはきっと空を飛ぶために無駄が省かれた結果なのだろうけれども、平たんなのである。仕方のないことだとあきらめている節は当然ある。
なぜならそういう一族なのだからそういうものだと思うしかない。しかしその代わりに高い筋力と身軽な動きを行える神経と、非常に強い神通力を持って生まれてくる。平坦なだけで、これほど素晴らしい力が手に入るのなら、喜んで受け取るものは多いだろう。
ただ、気にしてしまうのはしょうがない。男の目線が自分たちの胸を通り過ぎる経験を何度も繰り返せば、いやでも気になるのだ。挑発だとわかっている言葉であってもなかなか見過ごせない言葉だった。
錬太郎の挑発を受けた白百合はこんなことを言った。
「お、面白いことを言うわね錬太郎ちゃん。
私は人類の始まりからずっと生きているのよ? そんなどうでもいいことを気にするような小さな精神はとっくの昔に超越したわ」
錬太郎に話しかける白百合であるが、話をしながら背中の翼を大きくはばたかせていた。翼をはばたかせるたびに、どこからともなく銀色の羽が現れて、徐々に広い空間を占めるようになった。数回羽ばたいた時には、銀色の竜巻で空間すべてが蹂躙されそうになっていた。
挑発は白百合によくきいたのだ。全く白百合は自分の身体的特徴を気にしていないのだけれども、それでもそこをつつかれると頭に来るのは間違いない。
本当に全く気にしていないので、たとえバカにされるようなことを言われても少しカチンとくるだけであるから、全く問題はない。
普段なら笑って軽く蹴るくらいで済ませる挑発である。しかし、今の状況は錬太郎をどうにか拘束しなければならないという状況である。力づくで抑え込むのが非常に難しい相手、錬太郎からの挑発である。それも結構気にしている痛いところを軽くつつかれたのだ。
手加減をしなければならないなという気持ちがなくなってしまうのもしょうがないことであった。そんな錬太郎の挑発を受けてややリミッターの外れた白百合であったから、逃げ場のない広い空間で銀色の羽の弾丸で作った竜巻などを作って錬太郎を追いこもうとするのであった。
この銀色の竜巻が現れた時、錬太郎がとった行動は肉食動物のように低い姿勢を取ることだった。獲物を狙うライオンのように、相手をじっくりと見つめて、いつでも飛びかかれるように全身をリラックスさせている。
兜の下にある錬太郎の目は鋭く白百合をにらむが、口元は笑っていた。錬太郎は少しだけ楽しくなっていた。どうにも目の前の光景がすさまじくてしょうがないのだ。体育館ほどの広さの空間のなかで銀色の竜巻が起きるというのも、その竜巻の中は恐ろしい威力を秘めた弾丸が渦巻いているということも、そしてこのままだと竜巻が徐々に部屋を埋め尽くして、なすすべなく敗北するだろうということも恐ろしい。
そして敗北した暁には島の奥深くに拘束されて、出られなくなってしまう。それもまたとても恐ろしい。
しかし不思議と元気が湧いてくる。まったくあきらめるような気持ちにならない。体を包み込んでいる鎧が懐かしいネフィリムの力を与えてくれているからなのか。
それとも自分の中にある行動原理を理解できたからなのか。わからない。
ただ、あきらめるだとか愚図つくような気持ちにはならなかった。目の前の銀色の竜巻を乗り越えて、自分の情熱を果たしてやろうと錬太郎は考えた。そして果たせるかなと思うとどうにも胸が高鳴り、笑顔を作ってしまうのだった。
それから一秒もしない間に、竜巻はいよいよ体育館ほどの空間をほとんど占領してしまった。あとは錬太郎を取り込めばそれで終わりというところまで来ていた。
しかしまだ錬太郎はあきらめていない。銀色の羽の作る竜巻の中へ、錬太郎が飛び込んでいったのだ。
床をしっかりとつかんでいた両手、両足で思い切り床を蹴り、弾丸のように錬太郎は飛び出した。強化された超能力の補助は錬太郎を夕焼け色の弾丸へ変えていた。
一直線に白百合に飛び掛かる錬太郎に作戦はない。なぜならすでに十分に作戦は成功しているからである。作戦とはつまり、白百合に武術を使わせないということである。白百合は今武術を全く使っていない。
銀色の羽を呼び出してたくさんの弾丸へ変え、竜巻を作り出している。確かに驚異的な力である。恐ろしいとは思う。普通ならあっという間にやられてしまうだろう。どう見てもナイフが高速で渦巻いているようにしか見えないのだから。
間違いなく竜巻の中へ入り込めば切り刻まれるだろう。しかし、それは普通ならばの話である。錬太郎には鎧がある。神通力と呼ばれる超能力もある。錬太郎が恐れるのはこのナイフの竜巻ではないのだ。
手も足も出ない武術の達人、白百合が直々に錬太郎の相手をすることである。冷静に棒術だけで戦われたら間違いなく手も足も出ない。
錬太郎には達人を追い込むだけの技量はない。それは自分がよくわかっている。しかし竜巻ならば、突破できる。そして不意打ちもできるだろう。錬太郎の挑発は、見事に大技を繰り出させることに成功した。
精密な武術を使われないように挑発してみたら、大雑把なナイフの竜巻を作り出してくれたのだ。作戦は大成功だ。あとは痛みに耐えて、突破するだけである。
行かなければならない。これはチャンスなのだ。身を切り裂くナイフの竜巻は、生きるためのチャンスだった。
竜巻に飛び込んだ錬太郎を見て、鬼島山百合が顔をしかめた。鬼島山百合には暴風の中で飛び回る鋭利な銀色の羽たちがよく見えているのだ。鬼島山百合は錬太郎の死を予感していた。
銀色の羽の竜巻の中に飛び込んだ錬太郎は、一気に白百合に向かって飛びかかっていった。弾丸のような勢いで突っ込んでいく錬太郎は鎧と兜に突き刺さる銀色の羽たちを全く気に留めていない。
ただ、羽を操っている白百合ばかりを狙っていた。錬太郎は勝利をあきらめていない。確かに、錬太郎よりも白百合が優位に立っている。
これは武力という面においても、武力以外の面においても圧倒的に白百合が優位である。武力以外というのは情報や協力者の多さ、仲間の多さで圧倒的に錬太郎は敗北している。
その事実に錬太郎は気がついているし、認めている。白百合が本気で錬太郎を追い込めば、あっという間に錬太郎は武力でも武力以外の面でも追い込まれて縛り付けられるだろう。
しかし錬太郎はそうならない可能性も感じているのだ。これは白百合の態度から察したものだった。白百合は錬太郎との約束を守ろうとしている。
口約束以下の雰囲気としか言いようがないが、錬太郎が試練をやり遂げれば鬼島笹百合は解放され、錬太郎は海波根島から脱出することができる。
ただの口約束であるから知ったことではないとなかったことにされてもしょうがないのだが、白百合はおそらく守るだろうと錬太郎は考えていた。
この考えの根拠になっているのは錬太郎を拘束しようと思えばできたのに、今の今までまったく実力行使に出ていないことだ。
確かに刺客を放ったのは確かであるし今も攻撃を受けている。しかしそうではなく、閉じ込めようと思えば楽にできるはずなのにしていない。
不意打ちもしていない。白百合の巣に近付けば近付くほど、簡単に外へ出られないのは真実なのだから、戦わずに来た道を封鎖すればいいだけの話なのだ。
それをしていない。それはどういうことかといえば白百合の中に約束を守るとする意志があるからであろう。
つまり、ここで白百合を倒すことができれば、武力でもっておさえこめたのならば、何かしらの理由をつけて解放してくれるかもしれない。それが約束を守ることにつながると白百合が考えているのならば、なくはないだろう。
錬太郎はその可能性にかけていた。だから全く錬太郎の目から希望が消えない。
そして錬太郎の挑発を受けてまんまと大技を繰り出している白百合の状態ならば、逆転の可能性もある。たとえ鎧を切り裂く銀色の羽の竜巻の中を突っ切るようなまねをすることになったとしても、可能性があるのならいかねばならなかった。
錬太郎はまだ、あきらめていないのだから。
そうして錬太郎が竜巻に突っ込んでから一秒もしない間に、錬太郎の体はハリネズミのようになってしまった。全身くまなく銀色の羽が突き刺さり、フルフェイスの兜の下、鎧の下から錬太郎の赤い血がにじみ始めた。
銀色だった錬太郎の防具一式は徐々に赤黒く汚れていった。しかしハリネズミのような状態になっていても錬太郎はあきらめずに、それどころか勢いを増して白百合に襲いかかっていた。
羽の竜巻を受けてハリネズミのようになっている錬太郎であったが、目標のすぐそばまで到着した。
錬太郎が竜巻に突入して、三秒後のことだった。わずか三秒間の竜巻だったが、錬太郎の鎧は赤黒く汚れ、その下の錬太郎は刺し傷でずたずただった。しかし間違いなく、白百合は目と鼻の先であった。
このとき錬太郎と白百合の目があった。空中に浮かび錬太郎を見下ろす白百合と、獣のように這いつくばって白百合を仰ぎ見る錬太郎の二人の姿があった。
白百合の半径一メートルだけが竜巻の目のように何もない状態であったのだ。銀色の羽の竜巻を抜けてきたことで、二人の姿はお互いによく見えた。
二人の目が合った時だ。白百合がうろたえた。明らかに精神集中に失敗していた。その証拠に今まで自由自在に操れていた銀色の羽の竜巻が調子を外し始めている。今までは聞こえなかった羽と羽がぶつかってはじけ飛ぶ音が聞こえるのだ。
今までこんなへまを白百合はしていなかった。しかししょうがない。白百合は錬太郎の姿を見ていたたまれなくなっていた。心配してしまったのだ。今の錬太郎の姿はどう見てもいい姿ではない。体中に銀色の羽が突き刺さって、痛々しい。
防具一式を身に着けているため致命傷には至っていないけれども、それでも肌が切れて、血が流れているのはわかる。なぜなら錬太郎の身に着けている防具一式が赤黒く染まり始めている。白百合はどうにも耐えられなかった。
戦わなければならないという気持ちはある。命令をやり遂げなくてはならないという気持ちもある。しかし自分の子供にひどい目を見せてしまったという考えのほうがずっと強く表に出てきてしまっていた。
もちろん自分が腹を痛めて生んだ子供ではない。錬太郎は錬太郎の母親から生まれてきた子供であるから、白百合の子供ではないのだ。
そうではなく、白百合にとって現在生きている人間たちは無条件で自分の子供であるというような感覚がある。母性愛が強いといえばいいだろうか、子供が傷ついているのがどうにも耐えられない。
であるから、はっきり言って自分で子供を本気で傷つけるような結果になると、どうにも心が揺さぶられてしまって、コントロールが甘くなる。錬太郎のぼろぼろになった姿が、自分のせいだというように思ってしまって、それが余計に羽のコントロールを雑にしていた。
白百合が精彩を欠いたのを錬太郎は見逃さずに攻撃を仕掛けた。全身の力を余すところなく使い、空中に浮かんでいる白百合に飛び掛かり、地面に引きずり落とした。しかしそれ以上のことはしなかった。
白百合を床に押さえつけて、それだけだった。これだけすれば錬太郎は納得してもらえると思ったのだ。そして、それ以上の行動をとれなかった。取れなかったのだ。思い切り殴ることも鎧を着ていても意味がない攻撃を、例えば心臓マッサージのような攻撃を仕掛けるということもできたのだ。しかしやらなかった。
それは自分の姿を見て、白百合がひるんだのがわかったから。そして白百合がまったく戦う意志を失ってしまっているのがわかった。
錬太郎が飛びかかった時の白百合はどう見てもうろたえていた。表情はフルフェイスの兜を身に着けているのでわからない。しかし白百合の身振り手振りが、それこそ今まであった美しいと思えるほどの武術が一切なくなる身振り手振りを見ていると、戦う意志がなくなったのだと推測するのは難しくなかった。
焦る白百合は手を出すのがためらわれる姿だった。だから錬太郎は完全に逆転した姿勢から、さらなる攻撃を放たなかった。これ以上は全く必要ないし、これ以上の行動はまったく意味がないと思ったのだ。
錬太郎に押さえつけられている白百合であるが、押さえつけられたままでこんなことを言った。
「あら、攻撃しないの? 私を倒さないと錬太郎ちゃんはこの島から出られないわよ」
錬太郎に押さえつけられながら白百合は話をしているのだが、この時に白百合は背中の翼をもぞもぞと動かしていた。白百合の羽は錬太郎の体を包み込もうとしていた。
白百合が何か行動を起こそうとしているのは錬太郎も察していたが、何もしなかった。錬太郎は白百合の質問に答えた。
「必要ないだろう。俺の勝ちで、あんたの負けだ。
あんたは俺に負けて、おれを捕まえられなかった。悪いけど、睡蓮とかいう上司に怒られてくれ」
白百合は錬太郎にこんなことを言った。
「私はまだ動けるわ。翼もまだ動かせる」
白百合の背中の翼が徐々に広がって、いよいよ錬太郎を包み込んでいたが、錬太郎は何もしなかった。白百合の翼が錬太郎に接触し始めていたが、それでも気にせずに、錬太郎は答えた。
「あんたはもう戦う気がない……俺の体のことなら心配しないでいい……です。痛いけど、我慢できます」
錬太郎の答えを聞いて、白百合はこういった。
「……あらあら、ばれちゃってたか。
いいわ。わかったわ。もう完敗よ。錬太郎ちゃんの勝ち。睡蓮に怒られてあげる」
白百合の答えを聞いて、錬太郎はうなずいた。そして錬太郎がうなずくのを見て、白百合もまたうなずいた。お互い戦いが終わったと納得したのだ。勝敗がついて、これ以上はまったく無意味であると納得した。
白百合が錬太郎の勝利を認めて五秒ほど後のことだった。鬼島山百合が大きな声を出した。
「二人とも、気をつけな!」
鬼島山百合の叫びは、広い空間によく響いていた。鬼島山百合は何としても知らせなくてはならないという使命感に燃えていた。
錬太郎と白百合は、お互いに見詰め合っているために自分たちがどういう状況にあるのかわかっていないと、少し離れたところで一部始終を見ていた山百合は予想が簡単に立てられた。
というのが、少し離れたところから見ていた山百合には、今まで特に何の変化もなかったはずの床が、徐々にだが薄くなり、特に白百合と錬太郎がいるところだけが素早くなくなりつつあるのが見えた。
そしてこの床のなくなり方から察するに、二人を狙っての変化であるというように考えるのはそれほど難しいことではなかった。つまり二人をどこかに連れて行き、この場合は床を消滅させて深いところへ落して、閉じ込めようとしているのではないかと考えるのは、睡蓮と白百合の話からしておかしな話ではなかった。
鬼島山百合はすぐに床の変化から、睡蓮の思惑を察して二人に注意を促したのだ。
しかし、鬼島山百合の叫びも少しだけ遅かった。二人が床の変化に気付いた時には、二人はまっさかさまに落ちていった。二人が落ちた瞬間に、なくなっていたはずの床が元通りになっていた。二人が戻ってこれないようにふたをしたように見えた。
床の変化からの落下中に、白百合が叫んだ。
「睡蓮ね! 人の家を勝手にいじくりやがって!」
叫ぶ白百合であるが、叫びながらも冷静に行動していた。落とされたとわかった時には、すぐそばにいた錬太郎を抱きしめていた。そして、自分の背中の翼を使って羽ばたき始めた。白百合は自分がどこに落とされようとしているのか察している。
もともとこの床が抜ける仕掛けというのは、白百合の寝床にたどり着くための仕掛けである。正式な手順を踏めば、床が抜けるのではなくしっかりと扉が開くような演出があり、そして長い螺旋階段を下りていくようにして下に下に降りていくような構造になっている。
丁度錬太郎たちが未来都市から帰還するために使った螺旋階段がここにもあるのだ。しかし今回はそれがない。
睡蓮の不正なアクセスによって、床だけが取り外されて縦穴を落下することになった。そうなるとかなり長い距離を落ちることになる。錬太郎も白百合も落下の衝撃で死ぬことはないかもしれない。しかし危ないのは間違いない。
そしてお互いあまり力が残っているわけでもない。それならば白百合は錬太郎を守るために錬太郎を捕まえて、そして落下の衝撃を自分の翼の力を使って、和らげようとした。二人ともかなり重たくなっているけれどもそれでも少しくらいなら羽ばたいて弱められると考えていた。
白百合が錬太郎を抱きしめた直後だった。大きな衝撃が二人を襲った。二人は穴の底に着地したのだ。しかしきれいな着地ではない。思い切り地面にぶつかって、ガチャンという大きな音を立てて、そのまま床に転がっていった。
そして転がるといってもすぐに止まれるようなものではなく、ゴロゴロと転がって、それはもうひどいありさまだった。普通なら生きてはいられない落ち方だった。
しかしすぐに錬太郎が動き出した。かなりの衝撃が全身を襲ったはずだが、それでも立ち上がろうとしていた。しかし衝撃の威力はすさまじかったらしく、錬太郎は膝立ちになったところで動きを止めていた。また、今まで以上に錬太郎の防具一式が赤黒く染まっていた。そろそろ銀色の部分はなくなっている。落下の衝撃で体の傷が開いたのだ。
また、錬太郎を守ろうとしていた白百合も動いていた。しかし錬太郎を守るために力を割いていたせいだろう、錬太郎のように膝立ちになることはできていなかった。何とか起き上がろうともがいているのだけれども、床に寝転がった状態で体をひねるのが精いっぱいという状況だった。
数十秒後のことだ。膝立ちになっていた錬太郎が立ち上がって、白百合に近付いてきた。どう見ても体の状態が悪いのがわかる。左の足を引きずり、右手は力なく垂れていた。錬太郎は白百合を助けようとしていた。
錬太郎にとって白百合はただの悪者であった。初めはそうだった。鬼島笹百合をさらわれた時は命を取って怒りを鎮めようとしていたほどである。しかし今は違うのだ。錬太郎は白百合が自分を助けようとしたのを見ていた。
翼を広げて、落下の衝撃を抑えようとしたこと。そしていよいよ間に合わないとなった時、積極的に衝撃を白百合が引き受けたことを。確かに頭に来ることはたくさんあった。全身傷だらけになったのは間違いなく白百合のせいであるから、嫌う理由はある。しかし十分好きになれる理由もあったのだ。
少なくとも錬太郎にとって、白百合を助けるという行動に何の矛盾もなかった。
一度助けてもらったのならば、助け返すのはまったく理屈として錬太郎の中では矛盾しないそれどころか、正当な行動であると胸を張れる。だから錬太郎は動いていた。自分の体が痛むのはどうでもよく、白百合の状況を確認して、命を助けるために動いていた。
ぼろぼろになっている錬太郎が近寄ってくると、白百合はこんなことを言った。
「動いちゃだめよ錬太郎ちゃん。ここは超能力が使いにくくなるの。落下の衝撃で体の傷が開いているわ、無茶したらダメ。本当に死ぬわよ」
白百合は顔だけ錬太郎に向けて話をしていた。子供を諭す母親のような口調であった。白百合は純粋に錬太郎を心配していた。
どう見ても錬太郎の肉体は悲惨な状況になっているのがわかる。なぜなら、白百合の羽の竜巻を超えてきている。羽の竜巻は錬太郎の防具を突き抜けて、錬太郎の肉体を切り裂いている。白百合は自分の巣の中心部分が、超能力の力を弱めるということもよく知っている。
防衛上の理由から、できる限り能力が使えないように設計されているのだ。
今まであった万能の力は限りなくゼロに近付いているはずである。ならば、無理をしてはならない。落下の衝撃が殺しきれなかったのならば、当然だが今までのように超能力によって衝撃を散らすこともできないのだから、単純に死にかけているのは間違いない。
白百合も同じ状況であるが、体中をハリネズミのようにしていた錬太郎ならば、余計に厳しい状況だろう。だから心配したのだ。自分のことは放っておいて、錬太郎はおとなしくしていればいいと。
白百合が錬太郎を諭すのと同時に、錬太郎の体を包み込んでいたフクロウの防具一式が不思議な変化を遂げた。
どこからともなくフクロウの鳴き声が聞こえてくると、錬太郎の体に突き刺さっていたたくさんの羽を、フクロウの翼が呑み込んだのだ。一瞬錬太郎の体が膨らんだように見え、タコの足のように翼が跳ねまわった時には、錬太郎の体に刺さっていた羽はどこにもなくなっていた。ただ、少し変化があった。錬太郎の背中に白百合のマントと同じマントが出来上がっていたのだ。ただ色が随分違っていて、赤黒かった。これは錬太郎の防具一式の色と同じだった。
白百合が錬太郎を諭したが、錬太郎は聞き入れなかった。白百合に近寄っていき、こんなことを言った。
「ここだと力が使いにくいのなら、使えるところへ行かなきゃな。
どうすすめばいい? ここがあんたの寝床なんだろ?」
左足を引きずる錬太郎だったが、白百合を担ぐくらいのことはできた。そしてそのまま歩く力もまだ残っていた。左足首が痛むけれど、問題なかった。白百合の言うとおりに錬太郎の体は傷んでいる。
歩くのもつらい。全身から血液が流れ出しているのも間違いない。しかしだからこそ先を急がなければならなかった。力が制限されているというのならば、白百合の言葉が本当であるのならば、できるだけ早く上に戻らなければならないだろう。
そうすれば、白百合も錬太郎も助かる可能性は高くなるのだ。今襲い掛かっている激痛も命を永らえさせるためには耐えられるのだ。
錬太郎の肩に担がれた白百合は、少し黙った。そしてこういった。
「しょうがない子だわ、頑固者ね。
あと、女の子の扱いがなっていない、勉強が必要よ。もう少しあったでしょうよ、お姫様抱っことか。背負うとか。なんで肩に担ぐのかしら?
まぁ、いいわ。私の言うとおりに進んで。トラップとかはないから、大丈夫よ。睡蓮が不正アクセスをしたから光が付いていないけど、大丈夫でしょ? 千里眼も透視も使えているみたいだし」
肩に担いでいる白百合が文句を言っていたが特に錬太郎は気にしなかった。少し足を引きずりながら、歩き始めた。少し疑問に思うこともあったがきかなかった。
疑問というのは千里眼と透視を使っているという白百合の言葉である。透視はいいのだけれども千里眼は自覚がなかった。錬太郎はそんなものが身についているとは少しも思いもしなかった。
錬太郎はこの疑問に自分で答えを出していた。というのが、白百合がそういうのなら身についているのかもしれないと考えた。
実際物を透かして見るというのは意識的に使いこなしているのだから、千里眼というのもできるのかもしれないと考えたのだった。
少しの疑問は錬太郎の中にあったが、なんとか白百合を担いで錬太郎は歩き出した。真っ暗闇の中を太陽の下を歩くように寝床へと進んでいった。
真っ暗闇の中を白百合の案内に従って錬太郎が歩き始めて十五分ほどたった。そうすると、錬太郎に担がれている白百合が、錬太郎に止まるように命じた。白百合は錬太郎が止まるのを確認してからこう言った。
「錬太郎ちゃん、ここからはかなりセキュリティーが厳しくなるわ。
今回は睡蓮が無理やり道を開いたから、錬太郎ちゃんをしっかりと認識できていない可能性が高いの。
それでこれからさらに先に進もうと錬太郎ちゃんはすると思うけど、もしも体力が持ちそうになかったら、すぐに教えて。私とあまり距離が離れると、錬太郎ちゃんは異物としてはじかれるかもしれないのよ。
ここから三十分くらいは歩かないと到着しないから、無理そうならすぐに休むようにしましょうね?
あと、大分回復してきたから、背負ってもらえる?」
白百合のお願いを聞いて、錬太郎は白百合を背負いなおした。この時錬太郎は一瞬顔をゆがめた。激痛が全身を走ったのだ。錬太郎は特に問題なく行動していたけれども錬太郎はぼろぼろになっている。
白百合の作り出した羽の竜巻に飛び込んだときに全身に受けた刺し傷も、治っていたはずの左足首の傷も、右こぶしの傷もどうやら開いたらしく痛みがぶり返していた。今まで問題なく歩けていたのは、単純な理由がある。
それは戦いの興奮が錬太郎の神経をマヒさせていたのだ。激しく動いている間、激しい感情の渦の中にいる間、普段とは違った状態に入ることがある。
それこそスポーツをしているときに思い切り体を動かして、全く問題なく行動できていたとしても後になって、体が冷えてくると怪我をしていたことが分かったりすることがある。
交通事故にあった人が、その瞬間はまったく痛みを感じず、また数十分、数時間を耐えることがあるけれどもそれも興奮の強い力が神経をマヒさせているのだ。
錬太郎は命がけの戦いに挑み、全霊をかけた興奮で、全身の刺し傷も深く傷ついた左の足首の痛みも右の拳の痛みもほんの少しの間だけ、忘れていられたのだ。
しかし冷静になって体が落ち着いてくるにつれて、徐々に痛みが正常に働くようになったのだ。これが正常な状態なのだ。銀色だったはずの錬太郎の防具一式が赤黒く染まるほどの傷を受けているのに、当たり前のように動けているのがおかしいのだ。
しかし錬太郎はなんとか白百合を背負いなおして、真っ暗闇の向こうを目指して歩き出した。気合を入れて、一歩一歩ゆっくりと歩いた。視界ははっきりしている。何もない広い空間が延々と続いているのが見えている。
時々不思議な光のラインが碁盤の目のように広がっている床があった。しかしそれも全くものともせずに錬太郎は先に進んでいった。防具の下の錬太郎の肉体は嫌な汗をたくさんかいていた。気持ちのいい汗ではない。
どろどろとしていて、耐えがたい不快感があった。しかしそれでも歩いていた。ただ錬太郎は意地になっていた。鬼島笹百合を連れ戻すのだという意地だけが錬太郎にあったのだ。
錬太郎はこれまでの道のりを覚えている。初めはただのお手伝いのために来た海波根島。そして鬼島笹百合をさらわれて、怒りにとらわれて無鉄砲に歩きだした道。そして理不尽な目にあって散々だった道である。あきらめてしまったら楽になれるのは間違いないだろう。しかしここまでやってきたことが頭に浮かぶとどうしてもあきらめきれない。
何か特別なものが道の先にあるわけでもなければ、鬼島笹百合を取り戻したからといって、何が手に入るわけでもない。何か高い地位に着けるわけでもなければ、金がもらえるという話ではない。あきらめたほうがずっとましであるのは間違いない。
しかし、できない。ここまで来たからにはやり遂げなければならないという気持ちがわきあがっていた。錬太郎の頭にあるのは功利主義的な考え方ではなく頭の悪い子供っぽい考えだけなのだ。だから、何も利を考えずただただ前を見て先を進んでいった。
三十分ほどしかかからないはずの道をゆっくりと歩く錬太郎の背中にいる白百合は、黙って錬太郎の歩くのを見守っていた。軽口をたたくようなこともなければ、心を折るような言葉もはかなかった。海波根島にとどまればいいことばかりがあるなどという話も一切しなかった。ただ黙って見守っていた。
そして一時間ほど時間をかけてやっとのことで錬太郎は歩ききった。真っ暗闇の中を歩ききった錬太郎は立つ力もほとんど失っていて、簡単に肩に白百合を担いで歩けていたのに、今はもう背中に背負っているのも難しくなっている。
また、今までにないくらいに息が切れてた。防具の下の錬太郎は汗をこれでもかというほどにかいていて、青ざめていた。疲労困憊という言葉がよく似合う姿だった。しかし、錬太郎は歩ききっていた。ここまで来れたのはただの意地である。ただただ、意地を張って、決めたことだからと思い歩ききったのだった。
錬太郎の行動は無駄ではなかった。錬太郎の目の前には大きな壁があった。見上げるほど大きな壁で、どこまで壁が続いているのか、縦も横も非常に大きく錬太郎の目では終わりを見つけられないほどだった。
この壁の前に来たところで、白百合はこういった。
「ここよ、ここが終点。さぁ、行きましょう錬太郎ちゃん。本当によく頑張ったわ」
錬太郎をほめる白百合は、大きな壁に手を触れた。そうすると壁に光のラインが碁盤の目のように現れた。きれいな正方形が壁に浮きあがったと思えば、あっという間に壁は姿を消した。
壁が消えた時錬太郎は目をつむった。あまりにもまぶしかった。壁がなくなった瞬間、朝焼けのような光が壁の向こうから錬太郎を照らしたのである。




