第五章 白百合
巨大な銀色の鳥ジャズの巣からエレベーターに乗った錬太郎たちはどんどん上に登っていった。エレベーターに乗っている間錬太郎たちは非常に緊張していた。
どこからか攻撃が仕掛けられるのではないかと錬太郎は常にエレベーターの周りを透かしているし、車川貞幸は何があってもいいように気を張り続けていた。
それはそうで、翼の生えている女性というのはこれまでにいろいろな手で錬太郎の邪魔をしてきている。山田と田中の二人もそうだが、無理やりにこんな良くわからない未来都市に連れてくるのも、そして巨大な銀色の鳥に錬太郎たちを襲わせるようなこともした。
そんな相手が錬太郎に道を進めという。
これが普通に道を進んで来いというのなら緊張などないだろう。それこそ鬼島笹百合だとか、葉波根みなとが道案内をしてくれて、散歩するような話ならば全く緊張などしないのだ。
したとしても年上の女性に対して気後れするだけである。
自分の命を狙った相手が手ぐすねを引いて待ち構えているような場所なのだ。誰でも気が立ってくるし、緊張する。そして錬太郎のみならず、車川貞幸も状況がよくないのは理解できているので、当たり前のように緊張して、対応のために力をみなぎらせるのだ。
しかしほとんど意味はなかった。というのもエレベーターは特にこれといった問題もなくあっという間に目的地に到着したからである。
もともとエレベーターに特に仕掛けらしい仕掛けはなく、乗ると勝手に上に上に動いている。そもそも階数を指定するようなスイッチはなく、自動運転なのだ。
間違いなく翼の生えた女性の意のままにされているのだけれど、どうやら翼の生えた女性は錬太郎をこの場所で狙い撃ち様な考えはないようだった。
そうして目的地にたどり着いたエレベーターであるが、たどり着いた場所というのがなかなか不思議なところだった。
エレベーターがたどり着いたのは大きな吹き抜けだったのだ。かなり広い空間が広がっていて、大体大きさは小学校の運動場ほどである。錬太郎たちから離れたところには、螺旋階段のようなものがある。その階段は上に上に続いていて、天井まで伸びている。
しかし少し不思議なことがある。吹き抜けになっているのだけれど、何かが蓋をしているのだ。天窓があるのかというとそうではない。運動場ほどの大きさがある空間の吹き抜けを覆う、大量の水が天井にあったのだ。
しかしこの水というのは水たまりのようなものではない。よくよく目を凝らせば、吹き抜けのふたになっているのは大きな池なのだ。
大きな池の底をさらに仰ぎ見る地の底に錬太郎たちは立っていた。
この奇妙な吹き抜けにたどり着いた時、錬太郎の右手首をつかんでいた葉波根みなとがつぶやいた。
「もしかして、ご神体めぐりの池? たぶんあの形は間違いない……池の底がふたになっているの?」
自分の考えをつぶやいている葉波根みなとは目を細めて、じっくりと吹き抜けのふたをにらんでいた。
未来都市を見た後のことである。自分が暮らしていた島が実はとんでもない技術でできた都市の上に出来上がったものであるとか、翼の生えた女性だとか、人知を超えた巨大な銀色の鳥だとかを見た後である。
ご神体めぐりで使う洞窟の道の前にある池が、作り物でそのうえ何かしらの技術で下からのぞきこめるようになっているなどと発見できたところで、いまさら驚きおののくことはない。
今まで見てきた者のほうがずっと驚くべきことで、このくらいで一一驚いていられないのである。
それこそ超能力を使える錬太郎を見た後で、スプーン曲げをして超能力ですと見せられるような気分である。いまさらそんなことでは驚かない。葉波根みなとも同じで、冷静に考えるだけの余裕があった。こんなものでは全く驚くに値しないようになっているのだ。
葉波根みなとのつぶやきが吹き抜けに消えてすぐに、錬太郎が葉波根みなとを自分の背中に隠した。銀色のフクロウのお面が瞬きをはじめ、くちばしを鳴らし始めた。それに合わせて、錬太郎の体を包んでいる銀色の翼が震え始めた。
葉波根港をさがらせて、自分の背中に隠したのは、吹き抜けに作られた螺旋階段を下りてくるものがいるのを発見したからである。
錬太郎は螺旋階段を下りてくる人に見覚えがあった。螺旋階段を下りてくる人影は二つ。スーツを着た男と女。錬太郎が始末したはずの山田と田中だった。
これが翼の生えた女性であれば、錬太郎もここまで警戒しなかっただろう。翼の生えた女性のことを信頼しているわけでもなければ信用しているわけでもない錬太郎である。
ただ、翼の生えた女性は直接攻撃してくるようなことはなかった。ただその一点だけこの山田と田中とは違っていた。
この男と女は問答無用で錬太郎に攻撃を加えてきて、そして、錬太郎を負傷させている。戦いで追うことになった負傷についてあれこれ蒸し返すつもりはない。
ただ、錬太郎だけではなく葉波根みなとも巻き込もうとしたのは覚えている。錬太郎が逃げないように葉波根みなとにむけて攻撃を仕掛けた根性を覚えていた。
この一点だけで対応ががらりと変わる。それはそうだ。一応会話をしようとしている謎の翼の生えた女性と、全く会話もせずそれどころか戦う力のない人間まで巻き込もうとする人間。
安心安全からは程遠い。人間とは思わず、獣と思うのがいいだろう。誰彼かまわず攻撃する獣である。ならば、錬太郎の行動もそれほどおかしくはない。葉波根みなとを背中に隠し、螺旋階段を下りてくる二人組を始末することだけを心に決めて錬太郎は動き始めていた。
螺旋階段から降りてきているスーツを着た男と女の二人組、山田(女)と田中(男)は大きな声で、こんなことを言った。初めに口を開いたのは田中(男)だった。
「思ったよりも早かったな。もう少しゆっくり来てくれてもよかったんだがな!……まだ心の準備ができていない」
螺旋階段を下りてきながら話をする田中は、自分の首を撫でていた。螺旋階段を下りてくる足取りは非常に悪い。また、やる気もなさそうだ。
しかし錬太郎をにらむその眼にはしっかりと闘志が宿っていた。田中(男)は翼の生えた女性にこんなことを言われていた。
「錬太郎ちゃんの、力試しをしてきて。
本格的に試験するから本気でやってね、虎の眷属ならできるでしょ?ぼろぼろにしてもされてもいいわよ。
死なないようにだけ気を付けてね、死んでしまったらできるだけ急いで私のところに来て、早ければどうにかできるから。
まずありえないと思うけどね、だって錬太郎ちゃん、ジャズをへこませたし」
これが、自分の上司からの命令であれば、どう考えても反発するところである。何せ、田中(男)が相手にしていたのは普通の男子高校生などではなかったのだから。
神通力を当たり前のように使うのはもちろんのこと、命を奪うのを少しもためらっていない。肉体の強靭さに格闘技術が加わっているのも最悪だった。
しかしいかないわけにはいかないのだ。何せ翼の生えた女性は非常に格上の存在であるから。ここで嫌だなどといえば、自分だけでなく自分の所属している役所も、もしかすると自分の故郷にまで影響が出るかもしれない。
役所勤めのつらさは知っている田中であったが、それよりももっと断りにくい翼の生えた女性からのお願いなら、断れるわけもなかった。だからいやいやでも螺旋階段を下りて錬太郎に戦いを仕掛けるのだ。そして仕掛ける以上は負けてたまるかと気合を入れていくのであった。
そして田中(男)に続いて山田(女)がこういった。
「申し訳ないけどこっちも仕事なのよね。文句なら鳥母神様にお願いね。後、もしもなんだけど就職を考えているのなら、私たちのところに来ない? 即戦力になれると思うのよね。興味があったら、声かけてね?」
翼の生えた女性に命令されていやいややっているのだといいながら、田中(男)の後から山田(女)は螺旋階段を下りてきていた。
田中(男)と同じくまったくやる気がなかった。まったく覇気がない。かろうじて目に闘志が宿っているけれど、それだけだった。
山田(女)も田中と同じで仕事だからいやいややっているだけである。いっそのこと先輩である田中にすべて押し付けて自分は見ているだけというのもアリといえばありだったのだが、錬太郎の戦力を体験している彼女にしてみると、それをすると間違いなく田中(男)が悲惨なことになるので、戦うしかなかった。
実力が完全に勝っているのならば田中だけでいいのだ。しかし二人同時に仕掛けてみても油断していたとはいえ、ほとんど殺されたような状況まで持って行かれたのだから一人で戦わせるわけにはいかなかった。
そんなわけであるから、いやいやでも山田(女)は田中と一緒に螺旋階段を下りて、錬太郎と一戦交えるつもりなのだった。
ただ、いやいや螺旋階段を下りてくる二人をみて、葉波根みなとがこんなことを言った。
「そんなに戦いたくないなら、どけてよ! 邪魔しないで!」
正論を吐く葉波根みなとは錬太郎の背中に隠れたままだった。頭をこっそり出して、大きな声を出していた。葉波根みなとはしっかりと二人の声を聴きとっていた。やる気がなさそうなのも声の調子からくみ取っている。
若しもやる気がみなぎっているようならば、いちいち口出しするようなことはなかったのだ。さすがにやる気があるのなら、葉波根みなとも口を出そうとは思わない。
しかしお互いにやる気がない状態で、特に戦ったとして得があるわけでもないならば戦わずに終わらせるのがいいだろう。
それは非常に合理的であるし、まったくおかしなことではない。非常に当たり前のことである。だから葉波根みなとは少し怖がりながらも当たり前のことを大きな声で伝えたのだった。
葉波根みなとの正論が大きな吹き抜けの中で大きく響いた。そうすると、どこからともなく翼の生えた女性の声が聞こえてきた。
「みなとちゃんの言うことはもっともだけどそれだと意味ないのよねぇ。
錬太郎ちゃんはもうわかっていると思うけど、戦わないと先に進めないようにしているから……ね?
その虎の眷属の二人なら気にしなくていいわよ。一応無効にも確認しておいたから。丁度いい修行になるって喜んでいたわ。
だから思い切りやってね。
それじゃあ頑張って、私はしっかり見てるから。あと勝手にスカウトするのはやめてね」
戦わなければ前に進むことはできないとはっきりと翼の生えた女性は伝えていた。しかしすぐそばに翼の生えた女性がいるということはなかった。吹き抜けのどこかにスピーカーが隠されているらしく、遠くから声を届けていた。
翼の生えた女性のメッセージが吹き抜けの中で響いて、数秒後のことであった。螺旋階段を下りてきていた田中(男)が錬太郎にこう言った。
「そういうことだ。俺たち二人を倒せたらお前は先に進める。鳥の母神様が力を見せてほしいとおっしゃっているのだ。光栄に思えよ。大変だがな、小僧」
錬太郎に同情するようなことを言う田中(男)はついに螺旋階段を降り切った。そうして螺旋階段を下りてきた田中は、隠し持っていた鉈を引き抜いた。
ズボンのベルトに括り付ける形で鞘に入れて隠し持っていた。引き抜かれた鉈はよどんだ鉄の色の刃をしていた。吹き抜けの天井から降り注ぐぬるい光を受けて怪しく輝いている。
凶器を使うと決めたのは錬太郎が前回とはまったく違った様子だったからである。錬太郎はどう見てもまともではなかった。
銀色のフクロウの仮面は前回よりもはるかに勢いを増している。前回見た時には頭と首を守っているだけだった翼が、今では全身に及んでいるのだ。
よく目を凝らさなければ錬太郎の生身の部分を見つけることはできないほどである。両手の先から両足のかかとまでフクロウの銀色の翼が包み隠している。
そして錬太郎が携えている杖。銀色の羽の飾りがついた杖は錬太郎に手の届かない距離への攻撃を可能にさせる。
前回のように素手の錬太郎ではなくさらに謎のフクロウの仮面が錬太郎の肉体を守っているように見える。前回とは違いすぎた。
前回の素手の錬太郎でさえ命を奪われかける状況に追い込まれたのだまったく油断などできない。当然なのだ。
一度負けた相手がさらに強力な状態になって目の前に現れている。しかも全く油断がない。これで油断する理由はまったくないだろう。
なぜなら前回と同じように挑みかかれば同じような結末が待っているのは間違いないのだから。学校のテストと同じだ。前回失敗したところを何も学ばずに同じテストを受ければ、同じように失敗する。
それどころか、前回よりも難しくなっているのならば、前回よりも悲惨な失敗を起こすことになる。田中はそれがよくわかっていた。
目の前の錬太郎が前回よりも力をつけてきているのなら、自分も手加減する理由など全くない。だからどう見ても命を取りに行くような武器でも自然と使う気持ちになり、少しもためらわずに引き抜けたのだ。
田中が鉈を引き抜き近づいてくると、葉波根みなとが小さく悲鳴を上げた。そしてそれに合わせて、丙花白が顔色を悪くした。
葉波根みなとも丙花白もほとんど血の気が引いてしまっていた。そして、車川貞幸も同じような顔をして、震えていた。
三人は翼の生えた女性の話を聞いていたので、殺されるとか、殺すとかそういう事態にはならないとどこかで思っていた。翼の生えた女性は力試しをするくらいの気持ちで動いていて、それこそ少し戦ってだめならそれで終わりだろうと。
実際先ほどの放送でもそんな雰囲気があった。だから精々力試しといっても骨が折れるとか打撲程度で終わるだろうと楽観視していた。しかしそうはならなかった。
遊びに近い感覚でいたら、目の前に恐ろしい凶器を持った人間が現れたのだ。まったく想像もしていない光景だった。三人とも度肝を抜かれてしまった。
田中の手にある鉄色の刃の鉈をみて、そこまでしなければならないことかと声も出せないほど怖くなってしまった。
三人が震え、田中が近づいてくる。そしてそのあとから同じように山田が近づいてきた。螺旋階段を降り切るころには山田もズボンのベルトに括り付けていたさやから鉈を引き抜いていた。錬太郎に近づいてくる山田と田中はどちらもやる気で満ちていた。
まったく油断するところはない。二人とも錬太郎が油断ならない相手であると判断していた。
山田と田中があと十メートルというところまで来た時、錬太郎は葉波根みなとたちにこう言った。
「少し離れていてください。できれば、すみっこのほうで動かないように」
葉波根みなとたちに危ないから離れていろという錬太郎は、杖をついて距離を詰めていった。杖を突く錬太郎の歩き方はおぼつかない。
左足首の負傷が響いているのはだれの目から見ても明らかである。しかしそれでも何とか歩いて距離を縮めようとしていた。目の前に現れた二人組、鉈を構えている山田と田中にどうにか対応しなければならないのだ。
本当ならば刃物を持った二人組と戦うようなことはしたくない。危なくて嫌なことだ。しかしこの二人組をどかさなければ、どうにもならない。地上に戻ることもできないだろうし鬼島笹百合のところへも行けない。
ならば、戦わなければならないだろう。理由のわからない理不尽な行為に対する怒りはあるが、それを超えて取り戻したいものがあった。手に入れたいものが自分の身に降りかかる苦労をはるかに超えているのだ。だから錬太郎はいらだちを感じても怒りに震えても戦いに出ていくのだ。たとえまともに歩けない負傷を負っていたとしても。
山田と田中とあと五メートルほどでぶつかるというところで、錬太郎がこけた。杖をついていたのだけれどもうまく歩けず地面に倒れこんでしまった。両手をついて、杖を手放して、視線も山田と田中から離れていた。
錬太郎がこけるのに合わせて、山田と田中が飛びかかってきた。二人とも全く手加減するつもりはないようだった。錬太郎がこけたのを幸いとして一気に距離を詰めて、錬太郎に鉈を振り下ろしてきた。
鈍い鉄色の刃が二つ、別の軌道を描いている。一つは錬太郎の肩を狙うもの。もう一つは頭を狙うもの。錬太郎のことをよく見ていた二人であるから、まったくためらわなかったのだ。それは錬太郎が足を引きずってきたこと、そして前回の戦いで錬太郎に負傷を負わせていたことをしっかりと覚えていた。
錬太郎が負傷してまともに動けないと二人は判断したのだ。動けないのならば、始末するのはたやすい。神通力で多少の攻防はできるだろうが、それにも限界があると。
弱っている獲物がいるのならば一気に命を奪ってしまえばいい。特に足を負傷している獲物なら、特に恐れるようなこともない。なぜなら足を負傷している者は素早く動くこともできなければ、まともに立ち上がることもできないのだから恐れるものではない。
人間でも動物でも同じだ。動けない相手を始末するのは簡単である。眠っている人間に刃を突き刺すような簡単な作業になる。山田と田中は自分たちの前回の行動が今回の有利につながっていると錬太郎の足を引きずる様子から見抜き、そしてこけたのを幸いとして一気に仕留めにかかった。楽に倒せるのならそれに越したことはないからだ。
山田と田中の鉈が錬太郎にぶつかるかと思われた時、恐るべきことが起きた。倒れ伏していた錬太郎が地面すれすれを飛んだ。猛禽類が獲物を捕らえるような、俊敏な動作だった。両手で地面をつかみ、まともに動かせる右足を支えにして、全身のバネを駆使して飛んだ。
錬太郎の両腕は地面をえぐるほどの力で体を押し出し、右足は脚力のすさまじさを地面に刻んだ。左の足首が負傷していたので完全な突撃とはならなかったが、油断していた獲物を捕らえるのはそれほど難しいことではない。
獲物をさらう猛禽のように地面すれすれを飛んだ錬太郎は攻撃をかわすと同時に、田中よりわずかに自分に近かった山田の右足首を左手でつかんだ。突進の勢いは、右足首をつかむことで帳消しになっている。ただ、つかまれた山田はバランスを完全に崩し、猛烈な勢いで地面にこけた。
すべては錬太郎が地面に着地を果たす一秒にみたない時間の間に行われていた。錬太郎が無様に地面に倒れてからここまで、三秒も過ぎていない。
攻撃から回避、そして迎撃までかかる時間があまりにも短すぎたため山田は反応さえできなかった。それこそ初めからこうなるのが計算のうちだったかのような錬太郎の行動は完全なカウンターをなしていた。
事実、そのとおりである。無様にこけるのも、攻撃を仕掛けてくるだろうことも錬太郎は予想していた。正確に言えば、そうなると思い賭けていた。いかにも足を引きずり動きにくそうにしている自分が、若しも目の前でこけるようなことをしたとして相手はいったいどういう行動に出てくるだろうかと錬太郎は考えていた。
ただ、錬太郎はどちらでもよかったのだ。
これはつまり、相手が自分の行動を疑わしく思ったとしても、こけたことをチャンスだと思って攻撃してきたとしてもどちらでもよかったということである。
仮にこけたことを疑わしいとして近づいてこなければ、すでに十分近づいてきている二人に対して、非常に低い姿勢から突撃を仕掛けて、足をもいでいけばいいと考えていた。
これはつまり、猛禽類が飛びかかるように攻撃を仕掛けるということである。既に五メートルの近距離まで近寄っているのだ。幼馴染のように自在にとは言わないけれども短い突進ならば連続で行うだけの技量があった。
回避の方法と同じことを攻撃として繰り出すつもりだったのだ。
チャンスだと思い攻撃してくるのなら、今のように攻撃に合わせて迎撃を仕掛けるだけであった。身を低くしている錬太郎であるからそれだけ攻撃は難しくなる。
なぜなら地面すれすれまで鉈を振り下ろす動作は非常に手間がかかるからだ。格闘術は直立しているのが当たり前の形で組み立てられているため、錬太郎のような低い姿勢を取ると、対応するのは非常に難しくなる。
冷静に攻撃できるものであっても足を使うくらいのもので、武器を持って優位に立っている者はどうしても武器を使いたがり、結局体のバランスを崩す地面を狙った大降りに出て、無様にカウンターを取られるのだ。
それだけのことであった。この一連の流れを頭の中で組み立てていたからこそ錬太郎は素早く行動できた。頭の中でいったん組み立ててから行動することでいちいち考えなければならない無駄を省いたのだ。
テスト勉強をしてからテストにのぞめば楽々点数が取れるけれど、その場で考えていると悲惨なことになるのと時間が足らなくなる。一秒がもったいない土壇場である。場を支配していた錬太郎に思考の優位があった。
その結果回避と同時に山田の足首を取るといういいカウンターが出来上がったのだ。
チャンスをつかんだすぐ後だ。地面に着地すると同時に、上半身の力だけで錬太郎は左腕を振りぬいた。野球選手が大きく振りかぶって球を投げるようにして、人間を地面にたたきつけたのだ。たたきつけられた山田は動かなくなった。
呼吸はしていたが、戦えそうになかった。何が起きたのかさっぱり理解できない顔で、瞬きを繰り返していた。敵の数は少ないほうがいい。二人よりも一人がいい。いないのが一番いいが、いきなりゼロにするのは難しい。
錬太郎は自分のつかんだチャンスを無駄にしなかった。しっかりと敵の数を減らせるように動いていた。丁寧に一つひとつ消していけば、何事もさっぱりして安心できる。足首をつかんで、自由にできるのならばおとなしくなってもらえばいい。
心臓まで止めるつもりはないが、それに近い状態になってもらって結構という気持ちで錬太郎は左腕を振りぬいていた。
足元を通り過ぎた銀色の獣と獣に襲われ動けなくなった山田を前にして、田中がこんなことを言った。
「マジで、どこの眷属だ? ありえねぇだろうこれは。
それにいくらなんでも戦い慣れしすぎだ。負傷を利用する発想はいいが、この土壇場でやるかよ」
冷や汗をかきながら分析を続ける田中は錬太郎からじりじりと距離を開けていった。鉈はしっかりと構えたままである。
そして全く目線が錬太郎から切れていなかった。錬太郎が目の前で転ぶという好機にやや油断したとはいえ、簡単にカウンターを取られ山田が戦闘不能。
確かに本気で戦ったとしても楽勝だとは思っていなかった田中である。しかし、一瞬で終わらされるようなことにはならないはずだったのだ。
もう少し時間をかけて、長引かせるだけの力があると思っていたし、勝つこともできると思っていた。そんなところで、瞬殺劇である。確かに恐るべき相手であるという評価を出していたけれどもここまでのものを見せられれば、緊張は尋常なものではなくなる。
じりじりと自分から距離を離していく田中を四足歩行の獣のような格好で錬太郎は睨んでいた。銀色のフクロウのお面の翼が錬太郎の全身を包み込んでいるので、巨大なフクロウが獲物を狙っているように見えた。
そして少しの油断も錬太郎には存在していなかった。まだ、目の前には田中が立っている。鉈を構えているし少しもあきらめていない。おびえているけれどもそれだけだ。
まったくやる気を失っていない。これで獲物が武器を捨てて、あきらめたのならば錬太郎は戦いにはいかないだろう。鉈を奪い、それで終わりにするつもりである。
しかし今目の前には鉈を構えてまったくあきらめていない田中がいる。ならばやらなければならないだろう。あきらめていないのだから。そして危害を加える気持ちがあるのだからやらなければならない。
当然である。凶器を構えて自分を攻撃しようとしているのだ。たとえ相手が怖がっていたとしても相手の相棒を戦闘不能にしていたとしてもまったくなんのやめる理由にならない。
やめるのは完全に相手が動けなくなるまで、もしくは死ぬまで止まらない。目の前で錬太郎と距離を開けながらもそれでもまだあきらめていない田中がいるのなら、やるだけなのだ。
じりじりと田中が距離をあけてついに十メートルほど錬太郎との距離ができた。そうすると田中が、ポケットの中から手に納まる分だけ小銭を取り出した。
十円玉とか五円玉とか一円玉とかの硬貨である。百円玉や五百円玉はない。何をするのかと錬太郎が見守っていると、田中は思い切り硬貨を投げつけてきた。結構な勢いが出ていたが、驚くようなものではない。野球のボールのように適度な重さがあればいいが、その重さもないので錬太郎に届く前に勢いを失っていた。
しかし、驚くべきことに投げられた硬貨は空中にとどまった。地面に落ちることもなく浮かんだままである。硬貨を宙に浮かせているのは田中の仕業である。そして宙に浮かんでいた硬貨たちは一気に加速して、錬太郎に殺到した。
初めに錬太郎に投げつけられた時よりもスピードが出ていた。
硬貨が一気に加速してぶつかってくるのに気づいた錬太郎は右手で防御を試みた。顔の前に右手を構えて、直撃を防ごうとした。
顔めがけて飛んできた硬貨たちは錬太郎にぶつかった。顔をかばっている右手にぶつかるものもあれば、フクロウのお面にぶつかるものもあった。なかなかの勢いがあったため、少なくない衝撃があった。しかし気を失うほどのものではなく、命を奪うほどでもなかった。
それで問題なかったのだ。錬太郎が防御に回ったところで、一気に田中が距離を詰めて、錬太郎に攻撃を仕掛けてきた。ご丁寧に這いつくばっている錬太郎に足で砂をかけてから、鉈を振り下ろしていた。
地面に這いつくばっていた錬太郎はほとんど抵抗することもなく砂の目つぶしを食らうことになった。フクロウのお面がかなりの部分を防いでいてくれたのだが、空洞になっている眼の部分からわずかに砂が入り込んでいた。
鉈が振り下ろされた時、錬太郎は完全に目をつぶっていた。砂が目に入ってきたことで反射的に目をふさいでしまったのだ。これはどうしようもないこと。熱い物に手を触れたら、考える暇もなく体が反応するのと同じことである。
鉈の振り下ろされる軌跡は錬太郎の頭部を狙っていた。田中は全く手加減をするつもりがない。相棒である山田を戦闘不能にされた時点で手加減などしていい相手ではないと心を完全に切り替えていた。今の田中は怪物を退治するつもりで行動していた。
鉈の軌道は間違いなく錬太郎の頭部を狙って振り下ろされていた。しかし当たらなかった。振り下ろされた鉈は、地面に深く突き刺さった。狙われていたはずの錬太郎は、田中からわずかに距離を取ったところにいた。
遠くから見ていた者は何が起きたのかがわかるだろう。錬太郎は視界を奪われ攻撃されるとわかるや否や、全身を駆使して後ろに飛んだのだ。依然変わらず、四足歩行の獣のような姿勢であった。
地面に突き刺さった鉈を田中が手放して次なる行動に移ろうとした。田中は何とも言えない表情をしていた。驚きと恐怖で不思議な笑みが出来上がっていた。
どう考えても錬太郎が回避できるような状態ではなかったのにもかかわらず、回避して見せたからである。目つぶしが完全に決まっていたはずなのに、砂の目つぶしもそうだが、硬貨を使っての目つぶしもできていたはずなのにそれでも回避してのけた理由がわからなかった。
しかし答えを出すことはなかった。時間がなかった。何せ錬太郎は待ってくれない。考えている間に始末しに来るだろう。ならばどうにか錬太郎に対応するために次の行動をとらなければならない。鉈を捨てたのは地面に深く刺ささりぬく時間がもったいなかったからである。そして覚悟を決めて素手での格闘を田中は挑もうとしていた。
が、必要ない行動だった。鉈を捨てて構えた時にはすでに錬太郎が目の前に来ていた。両手と、右足の力だけで一気に距離を詰めていた錬太郎に田中は地面に押し倒されていた。
田中が気絶する前に見たのは、銀色のフクロウのお面に空いた光を取り込むための二つの穴から見える錬太郎の目。怒りで爛々と輝く二つの目。そしてきつく握りしめたことで傷口が開いた右こぶしが、振りかぶられている光景である。
山田と田中の二人組を打倒した錬太郎は地面に座り込んで、フクロウのお面を引きはがそうとした。左足をまっすぐにのばして、右足だけあぐらをかいているような形になっていた。
錬太郎が思いきり銀色のフクロウのお面を引っ張ると、銀色のフクロウのお面はするすると翼を引っ込めて、普通のお面に戻っていった。しかし木彫りのお面に戻ることはなく、いまだ銀色に輝く不思議なフクロウのお面のままだった。
ただ、あっという間に手に収まるサイズに戻って見せたのはすごかった。田中が放った砂の目つぶしは見事に錬太郎に決まっていた。
ほんの少しの砂粒だったが、錬太郎は目をつぶってしまっていた。田中のもくろみは見事に決まっていたのだ。そうして目の中に砂の粒が入ってしまってどうにもたまらなくなって、錬太郎はお面を脱いで砂を取ろうとしたのだった。
錬太郎が座り込んで目をこすっていると、葉波根みなとが駆け寄ってきた。顔色は真白である。錬太郎の闘う光景があまりにも恐ろしく、気を失いそうだった。
戦いがやっと終わり、錬太郎が無事に動いてくれているのを見てやっと動き出せた。そして動き出せるようになって、何をしたらいいかと考えてすぐに錬太郎の状況を確認しに動いた。特に錬太郎が座り込んで目をこすっているのを見て、何か起きてしまったのかもしれないと不安になっていた。
細かく戦いを見ていれば、砂が目に入ったのだと予想がつくが彼女は恐怖が頭の中にありすぎて、分析する余裕がない。そしてただ錬太郎の姿を見て近寄って確かめようとしていた。
お面を外している錬太郎に葉波根みなとがきいた。
「大丈夫? どこか悪いの?」
小さな子供に聞くような口調で、錬太郎の肩に葉波根みなとは手を置いていた。そして錬太郎の目をじっくり覗き込んでいた。
錬太郎の目を見た葉波根みなとは少し困っていた。錬太郎の目を見たからだ。特に右目がおかしいように思った。
なんとなくだが、右目と左目の色が違っているように見えたのだった。しかしあまり指摘することはなかった。なぜなら光の加減で、見え方が変わるということもよくあるからだ。
特に今、錬太郎たちがいる吹き抜けは光も弱く錯覚も起きやすい場所である。見間違えたという可能性のほうがずっと高かった。そして目の色が本当に左右と違っているとしても、いちいち言葉にするつもりはなかった。
なぜなら珍しいが珍しいだけで錬太郎だけに見られる特徴ではないと知っている。だが珍しいのは珍しいので少し驚いた。
目に入った砂が取れると、銀色のフクロウのお面を再び錬太郎は身に着けた。そうすると銀色のフクロウのお面はあっという間に錬太郎の頭全体を翼を伸ばして、ターバンのように巻きついて、あっという間に首から肩へと進行して、全身を銀色の翼でローブを作り隠してしまった。また、全身を覆い隠した後、銀色のフクロウのお面が瞬きをして、くちばしを鳴らし始めた。
この様子を見た葉波根みなとはさっぱり動じていなかった。特に何も言わず、錬太郎に杖を差し出していた。それというのがいまさらこんなことを驚いてもしょうがないなという気持ちになっているのだ。
確かに理屈はさっぱりわからない。お面がどういう理屈で動いているのか、超能力の謎も全く分からない。
そもそも翼の生えた女性とか、未来都市もさっぱり意味が分からない。
しかしだ、問題ないのだ。別に答えがわからなくとも問題ない。早い話が完全に開き直ったのだ。よくよく考えてみるともともと全知全能の存在ではない自分であるから、知らないこともたくさんあると大いに開き直ったのだ。
それこそ、車という存在を知っているし、免許も持っているけれども車の中身について詳しく知っているわけではないし、パソコンだとか携帯電話を持っているけれど中身がどうなっているのか完全に説明できるわけでもないというように考えた。
つまり別に答えを知らなくとも問題ないという答えを出したのだった。そしてよく考えてみるとそこまで仕組みに対して興味があるわけでもないので、そういうものはそういうものとして受け入れた。そして今できることというのを考えた時、これはやはり錬太郎のサポートだろうという考えになっていた。それが杖を渡して歩きやすくなってもらうという行動につながっていた。
葉波根みなとから杖を受け取った錬太郎は杖を支えにして立ちあがった。左の足首はまだ痛むけれども、耐え切れないものではなかった。銀色のフクロウのお面のしたで痛みを我慢している錬太郎の顔は誰にも見られていなかった。
そうし地面に倒れ伏している山田と田中に向かって錬太郎はこういった。
「多分、生きてますよね。動けないと思いますけど、まだやりますか? 俺の勝ちでいいですよね?」
杖を突きながら錬太郎は地面に落ちている鉈を拾って歩いた。この鉈は山田と田中が持ってきた鉈である。
二つの鉈は、手が空いている葉波根みなとに渡した。鉈を拾って歩く錬太郎は、じっくりと寝転がっている二人のことを見ていた。
地面に転がっている山田と田中はどちらもまだ呼吸をしていた。田中は意識を失っているようだったが、山田はまだ意識があるようで錬太郎をしっかりとみていた。
若しもまだ戦うつもりがあるというのならば、錬太郎は戦う気が合った。相手が攻撃してくるというのならば、戦わなければならないだろう。
無抵抗にされるがままになるなどという考えは錬太郎には一切ない。どちらかといえばやられる前にやるタイプである。
しかし、二人ともどう見ても戦闘不能である。弱い者いじめがしたいわけではなくほとんどからまれるような形で戦っていたのだから、これ以上相手がやる気がないのならば錬太郎も手を出す気はなかった。
それこそこんなことになったのは錬太郎に絡んできたのが悪いのであって、錬太郎自身にそれほど強い戦闘への欲求があったということはないのだ。
だからいちいちこれで終わりだろうと念を押して歩いているのだ。鉈を奪って、振り下ろさないのは戦う気がないのだという表明である。
鉈の回収が終わると鉈の鞘を同じように回収していった。山田と田中が動けなくなっているので錬太郎が近寄っていき、ベルトに括り付けていた鞘を一つ一つ奪っていった。
奪った鞘を錬太郎は身につけた。腰に鉈のベルトを身に着けた錬太郎は、葉波根みなとに渡していた鉈の一つを受け取り、鞘に納めた。
もう一つ残った鞘は、葉波根みなとに渡して、身に着けておくように言った。
そうして鉈を回収し終わった時だった。どこからか翼の生えた女性の声が聞こえてきた。
「なかなかやるとは思っていたけど、歴代の御子のなかでも断トツの強さかもしれないわね。
私、断然錬太郎ちゃんに興味を持っちゃったわ。どうしてこんなに強い子が私たちの目に触れずにいられたのかしら。絶対にどこかで見つけられるはずなんだけど。
もしかして錬太郎ちゃん、今まで文明から切り離されたところにいたりしなかった?
まぁ、そんなバカな話はないでしょうね。だって、ばっちり高校生活してるみたいだし。
ねぇ錬太郎ちゃん。頑張ってここまで来てね。あなたに見せたいものがあるの。きっと驚いてくれると思うわ。そして、できればあなたのすべてを見せてほしい。
あぁ、そうだ。言い忘れてたけど、いまさら辞めるなんて言わないでね。ここでやめるなんて言ったら、私悲しくなってどうにかなっちゃうかもしれないから……わかるでしょ?
あと、虎の眷属ちゃんたちは、そのままにしておいてあげて。すぐにジャズが回収するから。それじゃあね」
翼の生えた女性が言いたいことを言い終わると、吹き抜けのふたに変化が起きた。今までご神体めぐりの滝が流れ込んでいた池の裏側が見えていたのが、急に何も見えなくなったのだ。
今までガラスのように透けていたのが、今はきっちりとした壁に変化していた。これでは光が入ってこないはずなのだが、、吹き抜けの中が真っ暗闇になるということはなかった。吹き抜けの中の壁が光り始めたのだ。
壁全体が光るのではなく、一本の光のラインが道を示すように吹き抜けの中に現れた。この光のラインは螺旋階段を通り、吹き抜けを半分ほど登ったところの壁で止まっていた。
ラインの止まっているところには光のサインが現れていて、おそらくそこに出入り口があるのだろうと予想がついた。
吹き抜けに光の道が現れた時、異変に気付くものがいた。葉波根みなと車川貞幸そして丙花白の三人である。この三人は光の道以外に光り輝いているものがあるのを見つけていた。
それは錬太郎の二つの目。銀色のフクロウの仮面の下にある錬太郎の二つの目が、夕焼けのような光を発していたのである。また、錬太郎の全身を包む梟の翼が、今までにないほど震えた。
そして今まで一度も鳴かなかったフクロウが大きな声で鳴いた。光がほとんど失われた状態であったからこそ気づいた変化だった。次へ進むための光の道しるべが強力な光ではなく、足元が確認できるだけの光だったため、錬太郎の輝きを見つける邪魔にならなかった。
これが太陽の光をそのまま注がれている状態であれば、もしくは次の道に進むための光が激しいものであれば、きっと邪魔されて気づかなかった。それほど錬太郎の目の輝きは弱いものだった。
しかし気づけたこと自体が、よいことであるかと問われればきっと違うだろう。間違いなく気づかなければよかったものだった。なぜならば、錬太郎の異変に気付かなければ、ジャズから受け取った杖を振りぬいて地面を砕く激怒した錬太郎の姿を見ずに済んだからだ。
錬太郎が砕いた地面に人の気配はない。ちゃんと山田と田中から離れたところに、杖を振り下ろしている。また、葉波根みなとたちにけがをさせるようなこともないように気を使っていた。そうして思いきり振り下ろされた杖は、吹き抜けの地面をたたき、砕いた。左足がおぼつかない状態で振り下ろされたというのに全く問題なく地面をたたき、地面にひびを入れたのだ。
無言で杖を振り下ろし地面を砕いた錬太郎をみて、身体がしびれて動けない山田が震えあがった。全く錬太郎から目が離せなくなっていた。
地面にたたきつけられた衝撃以上の恐怖が、体全体を包んでいた。錬太郎の目の光を山田もしっかりとみていたのだ。そしてその光から感じる尋常ではない怒りも。
山田は、この錬太郎の怒りようがいまいちわからなかった。納得いっていなかった。確かに怒らせるようなことをした。嫌われるようなこともやっている。しかしここまで激怒が続くというのはおかしなことだった。
何せ、試練だと翼の生えた女性は何度も伝えている。はっきりと言っていないが、目的は錬太郎だけだとわかるように伝えてきている。それを山田は聞いていたし、実際先ほどの放送でもわかるように伝えていた。
つまり真剣勝負に見えて、実際は真剣勝負ではないのだ。それこそいくら殺すほど真剣でといわれても本当に殺すつもりなど翼の生えた女性にはない。ただ、錬太郎は違う。どこからどう見ても、抹殺を心に決めていた。
それがおかしいのだ。一応の試練の形式は錬太郎も察しているだろうに、試験官に対して憎しみを持つなどというのがおかしい。確かに実際のところは憎んでもいいことをしている。人をさらってまで試練を強制しているのだからシャレでは済まないだろう。
だがまともに翼の生えた女性の話を聞いていれば、そこまで本気になる必要はないとわかるはずだ。
それは車川貞幸たちを見ていればわかる。仮に錬太郎が試練を乗り越えられなかったとしても鬼島笹百合は戻ってくるのだろうという楽観的な考え方である。車川貞幸たちのふるまいには結局は大丈夫なのだろうという余裕が見える。
この感覚自体は山田と田中も同じだ。全体から感じられるお遊びの匂いが本気にさせない。怒りこそ感じるだろうが、憎しみまでは至らないはず。
だからこそ恐ろしい。だからこそ目が離せない、恐怖を乗り越えるために見透かそうとする。自分の命を奪いに来た山田と田中に対してさえ配慮する少年が、完全に抹殺を心に決めるような逆鱗の正体を。
ただ、山田が答えを出すには時間が足りないうえに情報が少なすぎた。山田が恐怖と謎で震えている間に、錬太郎たちは先に進んでいった。
先に進む錬太郎たちの行列は非常に静かなものだった。光の道を追いながら進む錬太郎は黙って階段を上っていくだけである。そのあとを追いかける葉波根みなとは、鉈を一本ずつ片手に持ち足元を確認しながら歩いていくだけだ。
葉波根みなとの後ろから丙花白が追いかけ、そのあとを車川貞幸が続いている。葉波根みなとの顔色は良くなかった。錬太郎のピリピリした空気に耐えられそうになかった。彼女の後から続く丙花白と車川貞幸は何とも言えない顔をしていた。二人とも恐怖というのがあったのだが、かわいそうなものを見るような眼で錬太郎の背中を見つめていた。
光の示すほうへと進んでいった錬太郎たちは、細長い通路を歩いていた。細長い通路は人一人が通るといっぱいになるような道である。錬太郎などは身長が高いせいでかなり縮まって先へと進んでいった。
そうして先に進んでいるとどこからか声が聞こえてきた。翼の生えた女性の声だった。
「ねぇ、錬太郎ちゃん。どうしてもわからないことがあるから教えてほしいの……いいかしら? 暇でしょ?」
翼の生えた女性の質問に対して、錬太郎は無視を決め込んだ。杖を突きながら進む錬太郎だが、全く相手にする気がないようだった。
よほど腹が立っているらしいのが歩く姿からでも簡単にわかるほどだった。錬太郎は翼の生えた女性の声が聞こえるのがどうにも気に入らなかった。葉波根みなとの声や、丙花白の声、車川貞幸の声なら全く問題ないのだけれども、どうにも翼の生えた女性の声はイラついてしょうがなくなっていた。
やはり、あれだけ挑発されてしまったら声を聴くだけでも腹が立ってくる。翼の生えた女性はおそらく錬太郎をやる気にさせるつもりだったのだろう。しかし
「若しも錬太郎が試練に付き合うのをやめてしまったら、鬼島笹百合がひどい目に合う}
とほのめかしたのが、錬太郎の逆鱗にほんの少しだけ触れていた。
たったそれだけなのだけれども十分すぎるほど嫌いになれた。嫌いになると、その者すべてが嫌になる。
声も嫌いになるし、臭いも目つきも、言葉の選び方も嫌いになる。アツアツのカップルが分かれた後を思い出すといいだろう。ひどい別れ方をすると背格好から人格まで徹底して罵倒することがあるが、錬太郎の嫌い方はそれに近かった。
翼の生えた女性の挑発は見事に錬太郎の好感度を下げていた。それこそ完全に無視を決め込んでしまうほどに。
錬太郎が無視を決め込んでいると、翼の生えた女性の声が聞こえてきた。
「もしかして……嫌われちゃった? まぁ、仕方ないわね。でも、聞こえているのは間違いないでしょ。だから勝手に質問させてもらうわね。
錬太郎ちゃんはどうして神通力が使えるの? 少し調べさえてもらったけどお父さんもお母さんも普通の人よね。
お姉さんがいるみたいだけど錬太郎ちゃんみたいに力が使えるわけじゃないわね。
ここがわからないのよね。眷属の血統でもないのにここまで強いなんて。どうしてもわからないの。錬太郎ちゃんが思いつくことがあれば、教えてもらえないかしら」
翼の生えた女性の話を聞いた錬太郎がぴたりと動きを止めた。足が痛くて歩くのをやめたのではない。自分の家族に対して翼の生えた女性が話し始めたから足を止めたのである。
自分について翼の生えた女性がいろいろと話をするのはまったく問題ないのだ。好きなように分析すればいいし、思ったことを口にすればいい。しかし家族について翼の生えた女性が口にするのはまったく許せないことだった。激しい怒りが錬太郎の身体を止めてしまったのだ。
あまりにも激しい混乱が体の動きを止めてしまうということがある。強過ぎる恐怖で体の動きが鈍くなるようなもので、強すぎる感情は体の動きを悪くする。
錬太郎の場合は、家族の情報が翼の生えた女性に漏れているということがどうしても許せないことだった。錬太郎は家族に対して何かちょっかいをかけられるのではないかと思い、一気に感情を昂らせたのだった。
錬太郎が立ち止るのとほとんど同時に、銀色のフクロウの仮面が鳴き声を上げた。フクロウの鳴き声は、遠くにいる翼の生えた女性にも聞こえるほどよく響いていた。この鳴き声は、錬太郎の小さなつぶやきを完全にかき消していた。
フクロウの鳴き声が残響になると、翼の生えた女性の声が聞こえてきた。
「私が気になっているのは、どうして神通力が使えるのかというところだけなの。それ以外に興味はないわ。
だから、教えてお願い、錬太郎ちゃんも暇でしょ? 黙って歩くよりも楽しくおしゃべりしましょうよ」
翼の生えた女性のお願いを聞いた錬太郎はこんなことを言った。立ち止まったまま、虚空をにらんでいた。
「答えても、支離滅裂で意味が分からないと思うけど?」
翼の生えた女性に答える錬太郎は、ゆっくりと歩き始めた。狭い通路をゆっくりと歩いていた。今までにないくらいに足取りがしっかりとしている。左足首の痛みがあるのだけれども、それを無視して歩き始めていた。
痛みに耐えてでも先にいかな帰ればならないのは、翼の生えた女性が自分についていろいろと調べ始めていると知ったからである。自分について調べられているだけなら、問題はないのだ。これは問題ない。問題なのは家族について調べられているということ。
錬太郎はそれがどうにも気に入らない。特に翼の生えた女性が自分の家族を調べているというのがまずいのだ。錬太郎は自分の家族に危害が加えられるのではないかという可能性に思い当たっている。
それが錬太郎の足を動かす理由になっていた。問題というのはできるだけ少ないほうがいい。攻撃を加えてくるかもしれない相手はできるだけ少ないほうがいい。できるならいないほうがいいのだ。山田と田中を戦闘不能に追い込んだように、翼の生えた女性を動かないようにすることで安心できる。錬太郎は家族に対して言及した翼の生えた女性をそのままにしておくつもりがない。だから手の届く範囲まで近づいて終わらせるため歩き始めた。
錬太郎が歩き始めたところで、翼の生えた女性の声が聞こえてきた。
「支離滅裂でもいいわ。答えてくれるだけでいいの。そうしたら納得するわ」
翼の生えた女性に歩きながら錬太郎は答えた。全く相手と仲良くするつもりはないのが声の調子から分かる。非常にそっけなかった。
「旅をして身に着けた技術だ。なんて言えばいいか、不思議な旅をしたことがある。
月が大きな世界を旅したんだ。地上から見える月が二倍か三倍くらい大きく見えていたと思う。
超高層ビルなんてものじゃない、ありえないほど大きなビルが立ち並ぶ未来の都市を友人と一緒に暴れまわった。
向こうは俺のことを友人と思っているかはわからないが、少なくとも俺は友人だと思っていた。年がかなり離れていたみたいだから俺のことは悪ガキくらいにしか見ていなかったかもしれないけどな。
その旅を経て、おれは超能力を手に入れたんだ。神通力って呼び方ははっきり言って変な感じがする。
向こうでは神通力とは言わず超能力といっていたからな。向こうでは普通に超能力を研究していたみたいだし、ほとんど解明しているようだった。
それにもっと性能が良かったと思う。
そういえば、あんたみたいな怪物もごろごろいた。人間を食う怪物だ。
いや、違うな。あんたみたいにほとんど人間の形を保った怪物は珍しかった。ほとんどただの怪物になっていたし、まともに話せるのは一握りだった。
俺の友人もなかなかイカした面構えだった」
錬太郎の話を聞いてピンときている者は全くいなかった。葉波根みなとも丙花白も車川貞幸もいまいちピンと来ていなかった。ただ、どこか遠くに潜んでいる翼の生えた女性だけは違った。錬太郎の話を聞いてすぐに、ピンと来たらしく変な声を出していた。
そして翼の生えた女性は聞き返してきた。
「ねぇ錬太郎ちゃん。もう少し詳しく聞かせてもらえるかしら。あなたはどこを旅してきたの。そして何をしてきたの?
超能力を解明していたというけれど、どうしてそんな風に思うの?」
錬太郎はだるそうに首に手をやった。杖を突きながら歩くのはなかなか骨が折れるのだった。それにあまり話をしようという気持ちはなかった。翼の生えた女性が興味を持っていることは、錬太郎にとって興味を持っていることではない。
翼の生えた女性にだるそうに錬太郎が答えた。
「旅の場所はよくわからない。いちいち気にしている暇はなかったからな。
目が覚めた瞬間から死にかけたし、頭のおかしい奴らに狙われ続けたし、何よりどうでもよかった。
俺にできることといえば、怪物を始末するくらいのもので……そうだな、そのくらいのものだった。全くの別世界に来てしまったから、できるだけ人のためになるように動いていた。
そのくらいしか生きる意味がなかったからな。それだけだ。そういえば、あの二人は無事に戻れたのだろうか。結局最後まで見届けられなかったからな。イオニス君には悪いことをした。
超能力については発明した博士がとんでもないことを言っていたからな、ほとんど解明したものだと俺は思っている。
無茶苦茶な爺だったな、時間を越えるために研究をつづけたなんて。でも、その気持ちはわかるし、少し感謝している。
あの爺の研究がなければ、俺は戦う力を得られなかった」
錬太郎が話し終わるのと同時に翼の生えた女性がおかしな声を出した。
「えっと、ちょっと待って。今、イオニスって言った? 間違いないわよね、イオニスって」
翼の生えた女性が驚くのを放っておいて、錬太郎はこんなことを言った。
「しつこいな、イオニスであっているはずだ。イオニス・タイム、月がでかい顔をしている世界で俺が初めてであった友人だ。
短い間しか一緒にいなかったが、頼りになった」
イオニス・タイムという少年の話をする錬太郎は、少しだけ足取りを軽くしていた。声の調子がやさしくなっている。激しい怒りが少しだけ和んだのだ。
イオニス・タイム少年と出会った旅は激戦続きで、あまり思い出していい気分になるものではない。戦いについて延々と話をしていても気持ちが晴れることはないだろう。
しかし、イオニス・タイム少年とのほんの短い間だけだったが、心が安らぐ時間があったことを錬太郎は覚えていた。
つらいことばかりだったからこそよく思い出せたのだ。あの少年がいなければきっと何もかもあきらめて投げやりになっていたとさえ思うほど、頼りにしていた思い出がしっかりと思い出せていた。
この安らかな気持ち、心がまっすぐになる感覚が錬太郎の荒れ狂う心をおさめたのだ。激しい感情は持続するのが難しいものだ。打ち上げ花火が激しく燃え上がるように、一瞬だけしか心に残らない。
残像は目に焼き付いているけれどそれでも長くは続かない。しかし静かな感情はいつまでも心に残るのだ。そして自分の支えになってくれる。
今先ほどの怒りは激しく燃え上がり錬太郎を狂わせそうになったけれど、イオニス・タイム少年との思いでが、旅の経験が錬太郎の心をまっすぐに鎮めたのだ。それが、錬太郎の足取りを軽く、声をやさしくさせた。
錬太郎がやや調子を持ち直したところで、翼の生えた女性が、再び質問を始めた。
「もしかして錬太郎ちゃん、月に行ったことがある?」
声が非常に小さくなっていた。かなり気を付けて聞いていないと月に行ったことがあるかという不思議な質問を聞き逃していた可能性があるだろう。しかし、錬太郎と翼の生えた女性以外口を開くものがいなかったので、特に問題なく会話ができた。
月に行ったことがあるかという質問に錬太郎は答えた。
「ある。だが、それがどうした。
あると俺が言ったところでお前は信じるのか? どう考えてもおかしな話だ。自分で話をしていても全く納得できるところがない。
超能力が使えなければ、夢でも見ていたのだと思うところだろう。お前は信じるのか?」
翼の生えた女性に正直に答える錬太郎は、前に前に進んでいった。少し調子を取り戻してきた錬太郎からは怒りの気配が非常に薄くなっていた。
しかし、目的はしっかり頭に残っている。鬼島笹百合を取り戻さなくてはならないのだ。鬼島笹百合がさらわれているというのはやはりどうしようもない事実である。彼女を取り戻さない限りは錬太郎の足は止まらない。
冷静さを失わせる激しい怒りはなりをひそめているが、静かな怒りはまだ胸の奥で燃えたぎっていた。胸の中の熱は錬太郎の足を進める原動力になっていた。
錬太郎の答えを聞いた翼の生えた女性は、こんなことを言った。
「信じるわ。あなたはイオニス・タイムと出会い、怪物たちと戦いそして月に向かった。
そしてあなたがであったという博士はダナムという名前だった、そうでしょ?」
翼の生えた女性の話を聞いた錬太郎は少し驚いた。声を上げるようなことはない。静かな驚きが胸の奥で起こった。
ダナム博士の名前を翼の生えた女性が口にしたからである。まさか、ダナム博士の名前がこんなところで聞けるとは思わなかった。少なくとも月が大きな顔をしていた世界の住人だった博士の名前であるから、この世界で聞けるわけがないと思っていた。
そして、翼の生えた女性が博士の名前を口にしたところで錬太郎はある可能性に達することができた。うすうす気づいていたことだったので、激しく驚くことはなかったが、それでもやはり間違いないという確信が得られるとなれば、驚いてしまう。
妄想と現実の境は大きい。妄想と現実が非常にあいまいな状態であるようならば、確信が持てるまで常に謎であり続ける。錬太郎はそうだったのだ。
翼の生えた女性に錬太郎はこういった。
「何となくそんな気はしていたが、やはりそうか。
となると、ダナム博士の研究成果は俺が頂いたということになるな。研究は失敗だったといっていたが、嘘じゃないか。
まぁ、あれだけのことをやったんだ、自分が使えなかったとしても文句は言わないだろう」
ダナム博士について話をする錬太郎は少し楽しそうだった。足取りが少し軽くなっている。錬太郎はダナム博士との会話を思い出していた。
それも一番最後に会話をした記憶を思い出していた。かといって、ダナム博士のことが好きだったのかといわれると全く違う。初めて出会ったときは殺すつもりであったし、最後に出会ったときは確実に始末するつもりで動いていた。
悪意しか持たずにダナム博士の前に立っていた。しかし、最後の会話をした時にはなかなか悪い気はしなかった。
というのが、博士との会話は心が通じ合っていたような気がした。不思議と相手のことが認められた。殺さずにはいられない関係だったが、それでも分かり合えていたような気がするのだ。
錬太郎はその時の何とも言えない感覚を思い出して、楽しくなっていた。何とも言えない感覚が、心を温かくさせていたのだ。博士がしたことと、錬太郎がしたこととを考えると全く笑えないのだが、妙な関係性があった。
錬太郎が少し楽しそうにしていると、翼の生えた女性は黙り込んでしまった。目の前に相手がいないので黙っているのかスピーカーが切れているのかわからないところなのだが、これは感覚でわかる。
スピーカーの電源が入っているため、翼の生えた女性の呼吸音だとか、生活音というのが聞こえてきているのだ。そのため黙り込んで何かを考えているのだろうなと推測することができた。
そして推測できている錬太郎はこういった。
「全部話したぞ。気は済んだか」
錬太郎の問いかけに翼の生えた女性は答えなかった。しかし錬太郎は特に問題とせずに、通路を先に先に進んでいった。左足の痛みが少し引き始めた頃であったけれどもやはりそれでも、普通に歩くには無理があるような動きをしている。
ただ、杖を突き足をかばっている錬太郎だが、表情は少しだけ明るくなっていた。翼の生えた女性の話が錬太郎にいろいろな疑問を与えていた。
その疑問というのは錬太郎が旅した世界が結局どうなったのかという疑問。そして、自分とわずかな間だけでも一緒に旅をした少年と女性が無事でいてくれただろうかという疑問である。
どうやら翼の生えた女性はイオニス・タイム少年にかかわりがあるらしいので、話をしてみたいという気持ちになっていた。不思議なことで、問答無用で始末してやろうという怒りがかなりの部分収まっていた。
今は、興味のほうが勝っていた。鬼島笹百合を取り戻すのは間違いない目的だが、できるなら始末する前に話が聞きたいとそんな風に考え始めていた。その考えは錬太郎の表情を少しだけ優しくさせていた。
翼の生えた女性が黙り込んだ後、五分ほど狭い道を通っていくと錬太郎の前に扉が現れた。しっかりと閉じられた扉で、カギが閉まっていた。錬太郎は扉を開けようとしたのだけれども、どうやっても動かなかった。
まったくびくともしないのである。ドアノブらしきところを思い切り引っ張ってみてもびくともしない。いっそのこと壊してやろうかとも思ったが、道全体が狭いので力を込めるのも難しくどうしようもなくなっていた。
錬太郎が扉の前で困っていると、翼の生えた女性がこんなことを言った。
「正直信じられないけど、真偽は後でわかるからいいわ。
正直に話してくれてありがとう錬太郎ちゃん。そういうところとてもすてきよ。
扉を開けるわね。次の試験官が待っているから、頑張って。それじゃあね」
翼の生えた女性の声が聞こえなくなると、扉が開いた。扉の向こう側には石造りの階段があった。階段は何百年前に作られたのかわからないような、苔むしたものである。
ところどころ欠けているところもある。これが、上に向かって続いている。この階段の両側面はぴったりとした石の壁だった。積まれたものではない。階段を作るために無理やりに切り取られたような断面だった。
この断面にも苔が生えていて、どこから植物のツタが這い出してきていた。階段の行く先はまっすぐ上に続いている。見上げてみても見えるのは緑だけである。
青々とした植物たちが階段の終わりを隠している。ただ、それほど長い道ではなかった。三十メートルほどの上に続く階段である。。
この石造りの階段を錬太郎たちは登って行った。
石造りの階段を上っているときに、錬太郎の後ろからついてきていた葉波根みなとがこんなことを言った。
「ねぇ、今の話って本当なの? 月に行ったとか、怪物と戦ったとか」
階段をのぼりながら錬太郎に質問をする葉波根みなとは少し笑っていた。錬太郎の話が信じきれなくて、疑って嘘を言うなとバカにしているわけではない。
むしろ逆であった。錬太郎の話を聞いたから、笑ってしまったのだ。これは楽しいとか、面白いという気持ちから出てきたものではなく、とんでもないものを見てしまった、知ってしまったという感情から出てくる笑いである。
それこそとんでもない問題を見つけてしまって、どうしようもなくなって困っているときに浮かぶ笑みである。錬太郎の話が本当ならば、錬太郎は月に行ったことがあるうえに、怪物と戦ったことがあるということである。
しかもそのうえ、超能力という技術があるという話なのだというのだからいよいよわからなくなってくる。
すでに錬太郎という超能力を自在に使える人間という証拠を知っている彼女であるから、錬太郎の話をウソだと言い切ることもできず、とんでもないことになってきたなという気持ちになり、笑ってしまうのだ。
葉波根みなとの質問に階段をのぼりながら錬太郎が答えた。
「本当ですね。どうしてそうなったとか、どういう理屈なのかはさっぱりわからないですけど。
でも、超能力が使えるようになったのは間違いなく旅の影響だと思います。
昔は念力だとか透視はできませんでしたから」
葉波根みなとの質問に答えながら錬太郎はどんどん階段を上っていった。杖を器用に使って、左足をかばいながら上に上に進んでいく。
左足の痛みも翼の生えた女性への怒りも胸の中にあるのだけれども、顔色は少しだけよくなっていた。翼の生えた女性との対話が錬太郎の気分を少しだけよくさせた。
翼の生えた女性との会話などいらだつばかりというのがほとんどだったのだが、翼の生えた女性との会話から月が大きな顔をしていた世界と今生きている世界がつながっていることが察せられた。そして自分が気になっている人たちの行く末を知っている可能性がある存在がいることで、少し心がわくわくし始めている。
興味がわいていた。その興味とはつまりイオニス・タイム少年の行方とそしてもう一人の同行者の行方である。おそらくもう二度と会えるはずがないとわかっているのだけれども、それでもどうだったのかを知りたくなっていた。
翼の生えた女性との会話からこの興味がわきだしてきて、この興味が錬太郎を少しだけ明るくさせていた。
錬太郎の答えを聞いて葉波根みなとは黙り込んでしまった。足はしっかりと動いているけれども、錬太郎の背中を目で見つめているだけになった。錬太郎の答えが、彼女を黙らせていた。
いっそのこと茶化してくれたのならば、やはりウソだったのかなどといえたのだ。しかし錬太郎は茶化さなかった。普通に、嘘をつくこともなく淡々と答えていた。それが真実味を与えていた。
錬太郎の答えを聞いたほとんどの人は、嘘はついていないとすぐに見抜けただろう。そう思えるほど飾り気も混じり気もない答えだったのだ。
そして答えを突き付けられた彼女だから、それ以上何も言えなくなったのだ。何せ直球で返されてそれ以上何もできることがない。
もともと何かを知りたかったわけでもなく何かを明らかにしたかったわけでもないのだ。質問に対する答えがきれいに目の前に現れれば、それ以上は動けない。
テストの答え合わせをするような気分である。それもできれば本当でなければいいなと思うような答えが本当だったときの気分だった。
そしてそうなった葉波根みなとは何も言えなくなり、ただ錬太郎の背中を追い、階段を上るだけしかできなくなった。
黙り込んでしまった葉波根みなとに変わって、丙花白が口を開いた。葉波根みなとの後ろからついてくる丙花白は鋭い視線を錬太郎に送っていた。彼女はこんなことを聞いた。
「お兄さんは、旅をして力を手に入れたんですよね。いろいろな怪物と戦ったといいましたけど、どんな怪物と戦ったんですか?
話したくないなら別に無理して話さなくてもいいですけど、後学のために聞かせてもらえませんか?」
葉波根みなとの後から階段を上ってくる丙花白は、葉波根みなとから距離を開けていた。それはそのはずで、葉波根みなとが腰に下げている鉈の鞘が大きく、近づいていると当たりそうだったのだ。
これが傘だとか、杖なら近づいて行ってもいいのだが、さすがに刃物だと鞘に入っているとわかっても近づきたくなかった。さすがに恐ろしかった。
身長の関係で、結構ギリギリのところを鉈が通り過ぎるのだ。鉈の刃が人に当たらないのはわかっていても怖いものは怖い。
丙花白の質問に、錬太郎は少し考えてから話し始めた。すぐに答えなかったのは、そろそろ階段の終わりが見え始めたからである。
階段を上り切ったところには植物が密集していて、ひどいありさまだった。草を抜いたり整備するような人はいなかったらしい。これできれいさっぱり手入れされていたのならば、すんなりと答えることもできたのだが、これから上に登り鬼島笹百合を取り戻そうとするために移動するというのなら、植物だらけはまずかった。
いくらなんでも邪魔過ぎた。この植物をどうにかしようと考えていたため、少し反応が遅れたのだ。
そうして階段の終わりで、錬太郎は立ち止って答えた。
「獣と人間の間みたいな怪物とか、超巨大な巨人とか、いわゆる神話に出てくる怪物といえばいいか、かなりバリエーション豊富だったな」
軽く答えながら錬太郎は腰に下げていたさやから鉈を取り出した。そして障害物になっている植物に向けて振り下ろした。
そうすると思ったよりも簡単に植物の障害物はなくなってしまった。錬太郎の腕力がそれなりにあるということももちろんだが、奪い取った鉈が結構な切れ味を持っていたのである。
よくよく見てみると鉄色の刃だと思っていたものが、本当はきれいな銀色の刃であることがわかる。鉈を扱っている錬太郎も少し様子がおかしいとは思ったのだが、光の加減から刃の色が違って見えたのだろうと思い、特に疑問としなかった。
ただ、鉈をふるうたびにきれいに植物たちが切り落とせるので、それだけで十分に思っていた。一振りで簡単に道が切り開けるのだ。切れ味の悪い鉈ならば、こうはいかなかった。
錬太郎がばっさばっさと植物を切り落として道を切り開いていると、後ろからついてきている丙花白が、さらにこんな質問をした。
「超巨大な巨人? どんなです?」
錬太郎の切り開いた道を葉波根みなとの後からついてくる丙花白は、顔をしかめていた。
階段を上り切ってから、急に体に感じる熱が跳ね上がったのだ。今まではかなり快適な温度が保たれていたのだが、ここにきて急にじめじめして暑くなっていた。快適なクーラーの効いた部屋から、夏の暑い空気がいっぱいの世界へ放り出された。気分も悪くなる。
気持ちのいい空気の世界で快適に暮らしていたいというのが本当だろう。
丙花白の質問に錬太郎が答えた。
「二十キロくらい離れていてもでかいとわかるくらいでかい巨人だ。高さ一キロくらいあったんじゃないかな。
起き上がった瞬間に、都市のほとんどがひっくり返っていたからもしかしたらもっと大きかったのかもしれない」
質問に答えながら、錬太郎はどんどん道を切り開いていった。特にどこへ向かうということも錬太郎にはなかった。
とりあえず障害物である植物たちを切り裂いて、その先に道を求めていた。とりあえずどこでもいいから道が見つかればいいと思っての行動だった。
ただ、完全に道に迷っているわけではないのだ。山田と田中と戦った場所が、ご神体めぐりの道の下であったから、吹き抜けの道を通ってきたというのなら、おそらくその近くだろうとあたりをつけていた。
ただやはり土地勘がないので、正確な道はわかっていなかった。
錬太郎が道に迷いながら障害物を切り裂いていくと、丙花白がこんなことを言った。
「高さがキロ単位の巨人? そんなに大きいとまともに立ち上がることもできなはずじゃないの?」
丙花白は少し笑っていた。錬太郎の話がどうにもおかしかったからだ。
特に錬太郎がであったという高さが一キロもあるという巨人の存在というのはどうしてもおかしかった。これが五メートルとか、十メートルくらいであればまだ真実味があったのだが、さすがにキロ単位というのはおかしい。
常識的にそれだけ大きければ立ち上がることもできなければ動くこともできないからだ。大きくなればなるほど重たくなるのだから、動くだけの力が必要になる。
キロ単位の大きさのある肉体を動かすというのならそれはとんでもない力が必要だろうが、生命体にそんな力があるわけがないというのが彼女の考えだった。
だから笑ってしまった。いくらなんでもおかしいだろうと。
丙花白に錬太郎が答えた。錬太郎は立ち止っていた。フクロウのお面の下の錬太郎は笑っていた。
「まぁ、普通はそうだろうな。だが、その巨人はあり得ないほどの巨体でありながら普通の人間が動くように体を動かして見せた。まったく問題なくな。
理屈は簡単で、その巨人は超能力が使えたんだ。それもかなり強力な奴がな。
ビビるぜ、山みたいな体が格闘家みたいに動くのも、攻撃してもあっという間に再生するのも」
立ち止まった錬太郎は丙花白の質問に答えた後、背後に来ていた葉波根みなととこんな会話をした。
「どっちに行けばいいですかね。たぶんご神体めぐりの道のそばだと思うんですけど」
と錬太郎が尋ねると、葉波根みなとは錬太郎にこう言った。
「ちょっと肩車してもらえる? 高いところから見ればたぶんわかると思う」
そうして葉波根みなとを錬太郎は肩車した。左の足首を負傷しているけれども、特に問題なさそうだった。錬太郎の肩に乗った葉波根みなとは、フクロウの翼の感触を感じて何とも言えない顔をしていた。
二人が道を探し始めると、今度は車川貞幸がこう言った。
「どうやって勝ったんだ? 爆弾とか?」
葉波根みなとを肩車したまま錬太郎はゆっくりと回転し始めた。葉波根みなとが今いる場所を特定しやすいようにしているのだった。
そうして、回転しながら錬太郎は答えた。
「なんて言えばいいかわからないんですけど、普通に超能力を使って倒しましたよ。
あれですよ、核になる部分をつぶして、それで勝利したんです。ありがちでしょ?」
錬太郎が答えていると、肩車されていた葉波根みなとが大きな声を出した。
「何かこっちにくる! 気を付けて!」
葉波根みなとの声に合わせて、ほとんど同時に空から襲撃するものがいた。それは鳥人間の石像だった。
十一体の鳥人間の石像が生きているかのように羽ばたいて空から襲ってきたのだった。この襲撃してきた者たちはあっという間に車川貞幸、丙花白に掴みかかり、空へと連れ去っていった。また同時に、十一体のうちの一つが錬太郎の目の前に現れ、視界を奪った。
よく目を凝らしても錬太郎は周りの様子を確認できないようになっていた。これとほとんど同時に、錬太郎の背中に衝撃が走った。
背後から石像に体当たりされたのだ。そして錬太郎が地面に転がると、葉波根みなとの叫び声が聞こえた。葉波根みなとは両脇を二体の石像に固められて、空に連れ去られていった。
車川貞幸を連れ去る石像が一つ、丙花白を連れ去る石像が一つそして葉波根みなとを連れ去る石像が二つ。合計四つの石像が空に舞い上がりどこかに飛び去っていく。
十一体の残り七体は錬太郎に攻撃を仕掛けていた。武器は持っていない。七体は自分の体の硬さを十分にいかして体当たりを行っていた。
しかし、この七体の石像を錬太郎は無視した。まったく見もしなかった。錬太郎が見ていたのは連れ去られる三人だけである。怒りよりも三人を取り戻さなくてはならないという気持ちが先に来ているのだ。
そして飛び去る石像の大体の方向を覚えると錬太郎は一気に駆けだした。足の調子が悪いので、勢いは出ていない。左足をかばいながら、障害物を鉈で切り裂きながら進んでいった。
ただ、簡単にはいかなかった。七体の石像が錬太郎の邪魔をするからだ。錬太郎が無視していても石像はまったく意に反さない。それどころか無視すればするほど錬太郎にちょっかいをかけてくる。何度も体当たりを仕掛けてきては錬太郎にかわされている。
石像たちが邪魔をするというのなら、錬太郎もただで済ませることはない。錬太郎は飛んでくる石像に合わせて、杖で応戦した。しかしなかなかうまくいかなかった。
杖があまりにも長いので、木々の間を縫うように飛んでくる石像を始末するのが難しかったのだ。杖はとても長いので、自在に操るためには広さが必要なのだ。人込みで大きな荷物を持って移動するのが難しいのと同じである。杖は長いので、どうしても木々が邪魔してうまく扱えない。七体の石像も簡単によけてしまえるのだ。
生い茂る植物と木が邪魔をして杖での応戦が難しいとわかると、錬太郎は鉈で応戦するようになった。やはり足の悪いのが影響しているのか、何度か石像から攻撃をもらって、錬太郎はうめき声をあげた。石像の体当たりは錬太郎の中に響く嫌な攻撃だったのだ。
石像に連れ去られた葉波根みなとたちは見覚えのある景色の中にいた。それは滝が落ちてくる池の前である。流れ落ちてくる滝の裏側には洞窟があり、洞窟を抜けた先にご神体がある。そのはずだ。
葉波根みなと達をさらった石像たちは洞窟の前で彼女らを下ろした。そしてぴたりと動かなくなった。まるで初めからただの石像だったかのような調子で全く動かなくなったのだった。
滝の前に連れてこられた三人は、ただ困っていた。いったい何が起きたのかいまいちわかっていなかった。葉波根みなとと丙花白は座り込んで、荒い呼吸をしている。車川貞幸はあまりの経験に声も出せなくなっていた。
三人が動けずに固まっていると、洞窟の中からたくさんの石像たちが飛び出してきた。どこに隠れていたのか、三十体近い石像が一気に飛び出してくる。悪夢でも見ているような光景だった。
三十体近い鳥人間の石像は、三人を取り囲んで飛び始めた。まるで獲物を狙うハンターのようだった。三人は何もできずただおとなしくしているばかりだった。
三人が震えあがっていると、空を飛んでいた鳥人間の石像の一つが大きな音を立てて壊れた。何か重たいものにぶつかったのだろう、砕けてばらばらになっていた。
何が鳥人間の石像を砕いたのかは地面を見ればわかる。地面には鳥人間の石像の頭が二つ転がっていた。一つはつい先ほど砕かれたもの、もう一つは石像を砕いた頭である。
つまり、鳥人間の石像に、鳥人間の砕いた頭をぶつけて、砕いてしまったのだ。
野球のボールをぶつけるような調子で頭を投げたということである。投げたものはすぐに姿を現した。生い茂る植物を切り裂き、木々を押しぬけて現れた錬太郎である。よほど機嫌を悪くしているのだろう、肩で息をしていた。
錬太郎を邪魔するために残った七体は影も形も残っていなかった。どうなったのかは錬太郎の握っているぼろぼろになった鉈と少し汚れのついた杖を見ればわかる。惨殺されたのだ。
錬太郎が現れると総勢三十三体の鳥人間の石像が空を飛び始めた。錬太郎を中心にしてぐるぐると空を飛んでいた。
しかもしっかりと錬太郎の手が届かない距離を保っているのがいやらしかった。そして三十三体の鳥人間の石像は一気に錬太郎に襲いかかってきた。かといってとくに工夫を凝らしているわけではない。鳥人間の石像にできることといえば、思い切り体当たりをするくらいのものであるから、できることをしていた。
しかしバカにできるものではない。固く重たい物体が思い切りぶつかってくるというだけで恐ろしいことだ。こぶし大の石が思い切り体にぶつかれば非常に痛い。当たり所によれば命を失う。それが人間大の大きさになれば、しかも空から結構な勢いで飛んでくるとなればとんでもないことだ。
一気に襲いかかってきた三十三体の鳥人間の石像に、錬太郎は杖で対応した。思い切り杖を振りかぶり、思いきり振り下ろした。この時錬太郎の目の前にきていた鳥人間の石像は完全に砕かれた。
しかし四方八方からくる鳥人間の石像たちはまだ健在である。どう見ても錬太郎は石像に押しつぶされる運命にしか見えない。しかしこれで問題ないのだ。錬太郎の大きく振りかぶった一撃は攻撃ではない。攻撃も兼ねてはいたが本当の目的は別にあった。
錬太郎は自分が囲まれていることを理解している。四方八方からくる石像をよけなければ名ならないとわかっているのだ。
これが一対一ならば、そもそも振りかぶるようなことはせずに突いていただろう。囲まれていて、動き続けなければ攻撃をもらってしまうとわかっていたから、錬太郎は振りかぶって杖をたたきつけたのだ。
そう、たたきつけることで、自分の体を浮かせたのだ。
錬太郎は自分の攻撃の反動で自分の体を移動させた。杖をたたきこんだ反動で、錬太郎はふわりと空中に浮きあがっていた。これだけでまずは目的を果たせていた。少なくとも完全に囲まれた状況で鳥人間の石像に包みこまれて終わるということにはならなかった。
しかしまだ安心できない空中に浮かびあがった錬太郎に方向転換して石像たちが突っ込んできていた。鳥人間たちの追尾性能はなかなかのものだった。しかし考えなしに近づいてきたのはまずかった。
空中に飛びあがった錬太郎は杖を手放していた。完全に両手を自由にしていた。錬太郎は自分が完全に囲まれていて、鳥人間の石像たちがあと少しまで近づいてきているのを確認しているのだ。
もしももう少し離れた状況であれば、杖を手放したりはしない。杖がなければ相手を攻撃できない距離であれば、杖を持たままだったはずだ。
しかしもう必要ない。すぐそばに、手が届く距離に鳥人間の石像たちが近づいてきてくれている。ならば、やることは一つだけだ。両手を自由にして両手を使って、石像たちを攻撃するだけである。
錬太郎は空中に浮かびあがったまま、あっという間に近くを飛んでいた石像をつかんでしまった。右手で一つ、左手で一つ。
左手は石像の足首をつかみ、右手は首をつかんでいた。
つかまった鳥人間の石像は一瞬だけ反応したけれど、あっという間に動かなくなった。錬太郎が力任せに振り回したからである。錬太郎を押しつぶすために近づいていたことが、完全にあだになっていた。
もう少し距離を取っていればこんなことにはならなかっただろう。錬太郎が力任せに全身をコマのように回転させて暴れまわるので、恐ろしい被害が鳥人間の石像に出ていた。
錬太郎が着地した時、残っていた石像はわずかに五体。錬太郎から少し離れたところにいたことで、被害を免れたのであった。錬太郎は左足を引きずりながら、空を飛ぶ五体の鳥人間の石像に、攻撃を仕掛けた。
錬太郎の足元にあった鳥人間の石像から、つかみやすい破片を奪い取り、思い切り投げつけたのだ。そうするとあっという間に鳥人間の石像たちはいなくなった。ただの残骸になり、池の周りを汚していた。
三十三体の鳥人間の石像を始末した錬太郎は、池のほとりで腰を下ろした。無茶な移動を繰り返したことで、左の足首に激痛が走っていた。
そして、無茶な戦いをしたことで体中が痛くなっていた。さすがに少し休まなければ歩けそうになかった。
錬太郎が腰を下ろすと、葉波根みなと達が駆け寄ってきた。葉波根みなとは錬太郎を心配そうに見守り、丙花白たちは錬太郎のすさまじい戦果をみて夢のような旅を体験したという話を本当に信じてもいいのではないかと思い始めていた。
錬太郎が腰を下ろして休み始めると、葉波根みなとは錬太郎がほうりだした杖を拾いに行った。錬太郎が杖を持たずに池のほとりまで歩いているのを見ておかしいなと思ったのだ。錬太郎が左の足首を怪我しているのは彼女はよく知っていたので、助けになれるようにという気持ちで動いていた。
葉波根みなとが杖を拾いにいている間に、丙花白が錬太郎に話しかけてきた。丙花白の目は真剣だった。
「今の戦いぶりを見せられると、不思議な世界を旅してきたというのも信じなきゃだめですね」
錬太郎に話しかけながら、丙花白は錬太郎のすぐそばに立っていた。丙花白は錬太郎を興味深そうに観察していた。
話しかけられた錬太郎はこんなことを言った。
「まぁ、これくらいなら別にどうってことはないよ。ただ、急いできたから足が痛くなっただけで……少し休めばどうにかなると思う。
前の時は休んでもどうにもなりそうになかったから、今回のほうがずっとましだ」
丙花白に話している錬太郎は、ぼんやりと滝を眺めていた。丙花白に話をしている間に錬太郎は月が大きな顔をしていた世界での戦いを思い出していたのだ。
そしてその時のことを思い出すと、今の自分というのはそれほど悪い状況にはいないと思ってしまう。前はいくら休んでも体の調子が良くなることはなかったのだから、ずいぶんましだったななどと考え始めたので、妙に緊張感がなくなってしまっていたのであった。
錬太郎は滝を見ていたのではなく記憶の中の光景を見ていたのだ。
池のそばで座り込んだ錬太郎がぼんやりとしていると、車川貞幸が話しかけてきた。
「もしかして巨人とやらも今みたいに素手でやったのか? 近寄れないだろ?」
車川貞幸に答えようとした時だった。
葉波根みなとの悲鳴が聞こえてきた。
錬太郎が悲鳴のほうを見てみると、錬太郎の杖を持った葉波根みなとのすぐそばに、翼の生えた女性が立っていた。
翼の生えた女性は紺色のロングコートを着て、八角柱の杖を片手に持っていた。葉波根みなとに悲鳴をあげられて、少しショックだったらしく悲しそうな顔をしていた。
翼の生えた女性を見つけて錬太郎は立ち上がろうとしたが見事に失敗した。すぐに取り押さえてやろうとしたのだが、左足が邪魔して立ち上がれなかったのだ。できることといえば、翼の生えた女性をにらむだけであった。
錬太郎に睨まれた翼の生えた女性はこんなことを言った。
「久しぶり錬太郎ちゃん。そんな怖い顔をしないで? 私はあなたたちを招待するためにここに来たのよ? 道に迷ったら困るでしょ? ね?」
錬太郎から感じる殺気をものともせずに翼の生えた女性は軽い口調で話をしていた。そして、自分のすぐそばにいた葉波根みなとに近寄っていった。
翼の生えた女性が近づくと葉波根みなとが飛びのいた。ものすごく怖がっていた。そして錬太郎の杖を突きつけて、来るなという意思表示をした。
杖を突きつけている葉波根みなとに翼の生えた女性はこういった。
「別に取って食うつもりはないわよ。
笹百合ちゃんだって、錬太郎ちゃんをやる気にさせるために連れて行っただけだし、今だって不意打ちができたのにしなかったでしょ?
私は少し興味があるだけ。ジャズが錬太郎ちゃんに杖を作ってあげたみたいじゃない、少し見せてくれてもいいでしょ?」
葉波根みなとが持っているジャズの作った杖を翼の生えた女性はじろじろと観察していた。全く攻撃を仕掛けるつもりはないようだった。
あまりにも毒気の少ない行動に錬太郎が聞いた。
「どういうつもりなんだ、あんた? 俺をどうしたいんだ」
錬太郎は大きくため息を吐いていた。
錬太郎に翼の生えた女性は答えた。
「そうね、最初はあなたが私の御子にふさわしいかどうか試したいというのが始まり。
笹百合ちゃんをさらったのは、あなたをやる気にさせるためと、あなたの性格を知るため。その点、あなたはとても優秀だったわ。
足手まといにしかならない二人を守りながら戦い、恋人でもない人間を助けるために必死になっていた。
とてもすてきだったわ。しかも神通力……超能力まで使えるとなればこれは合格よ。
でもそれは、さっきまでね。今は御子になれるかどうかではなく錬太郎ちゃんの正体が知りたいの。
だから戦ってもらっている」
困り果てていた錬太郎はこういった。
「何が気になっている? さっさと教えろ。すぐに答えてやる。
満足できたらちょっかいをかけるのをやめろ。いい加減こっちも我慢の限界だ」
錬太郎が答えている間に葉波根みなとは錬太郎に駆け寄っていた。杖を観察していた翼の生えた女性が、視線を杖から切ったのを見て、これ以上は必要ないだろうと判断したのだ。
杖をじっくりと観察する翼の生えた女性は真剣そのものであったのでもしかするともう少し観察したかったのかもしれない。
たまたま視線が外れたという可能性ももちろんは波根みなとの頭にはあった。しかし、そろそろいいのではないだろうかと思い錬太郎に近寄っていった。
つまり、そろそろ翼の生えた女性から離れて安心できる錬太郎のそばに寄っていきたかった。そもそも翼の生えた女性に対して葉波根みなとはあまり信頼していないどころか怪しんでいる。無茶な扱いをされたのをしっかりと覚えている。
いくら見た目がきれいでも不審者扱いなのだ。だから視線が切れた時にこれ幸いにと錬太郎に駆け寄っていった。
錬太郎がいらいらとし始めると翼の生えた女性が聞いた。
「あなたもしかして、ネフィリム?」
翼の生えた女性の質問は、非常にわかりやすい質問だった。そしてとくに重要な質問のようには聞こえなかった。
趣味は何かくらいの調子で飛ばされた質問だった。目の前にいる錬太郎がいよいよ爆発しそうだったので、わかりやすく聞いたのだ。
翼の生えた女性に対する錬太郎の様子といえば、非常にイラついている。身振り手振りが鬼島笹百合をさっさと引き渡せと言っているのがわかる。
もう少し話を引き延ばせば間違いなく暴力に打って出るだろうとわかるほど錬太郎の精神は追い込まれていた。
余裕があれば、回りくどい表現で錬太郎に接することもできた。しかし今の錬太郎には余裕がない。頭を使って会話をする発想自体が、無駄だと断じられて切り捨てられる状態だった。
下手に難しく言葉をこねくり回せば回すほど錬太郎は間違いなくいらだってまともに答えないだろうと想像がついた。
まともに想像がついたからこそ、ひねりも加えることなく思い切った質問に打って出れたのだ。交渉ごとは交渉する相手を見て行わなくてはならない。錬太郎の様子から回りくどい交渉事が失敗につながると見抜いて思い切れた。
ネフィリムなのかという質問に錬太郎が答えた。
「ネフィリム『だった』が正解だな。それがどうした?」
錬太郎の答えを聞いて翼の生えた女性がのけぞった。そして笑った。
笑い始めた女性を見て錬太郎は困った。どうしたらいいのかさっぱりわからないという顔で固まっていたが、フクロウの仮面をかぶっていたので全く誰にもばれていない。
しょうがないことだ。いきなり笑い始めるのだから錬太郎にはどうしようもない。別に冗談を言ったわけでもないのだ。
錬太郎にすれば真面目に答えてる。だからはっきりって笑われるとは思わなかったし、笑わらわれてもどうすることもできない。
もちろん相手にどうして笑うのかと聞けば謎も解けるのだけれども、応えられる相手が今も笑っているままなのでどうしようのなくなる。
錬太郎が困っているとすぐそばにいた車川貞幸が小さくつぶやいた。
「ネフィリム? 神話に出てくる巨人?」
十秒ほど笑った後で、翼の生えた女性がこんなことを言った。
「すごい偶然だわ。本当にすごいことが起きたのね。なんて言えばいいのか。運命ってやっぱり存在しているのよ。
ねぇ錬太郎ちゃん、私あなたにすごく興味がわいたわ。前よりもずっと知りたくなった」
翼の生えた女性の話が終わり、少し間を開けてから錬太郎はこういった。
「あんたが俺に興味を持つのは好きにすればいい。だが鬼島先輩は返してもらう、先輩は関係ないだろ?」
錬太郎が鬼島笹百合を返せというと、すぐに翼の生えた女性は答えた。
「もちろんよ。もちろん返してあげる。錬太郎ちゃんはしっかり私に答えてくれたし、頑張って試練を乗り越えてくれた。全然問題ないわ。
それじゃあ、はい。私の手を取って?」
鬼島笹百合を返すという話をしながら翼の生えた女性は錬太郎に近寄っていった。全く警戒していなかった。そして錬太郎に近づいて行って、錬太郎に右手を差し出した。
差し出された右手にはなにもなかった。本当に何もなかったのだ。きれいな右手があるだけだった。
錬太郎のぼろぼろになり擦り切れて血がにじんでいる右手とは全く別物の、美しい女性の手をしていた。
翼の生えた女性は錬太郎がこれまで頑張って試練を乗り越えてきたのを知っている。かなり離れたところから見ていたし、聞いていた。
まったく何も見ていなければこんなことはできなかっただろう。近くに現れることもしなかっただろうし、不用心に近づくこともなかった。
彼女は錬太郎の人となりを知ることができたから、こうして無防備に近寄ってきたのだ。
つまり翼の生えた女性は錬太郎の行動パターンを読めるようになっているのだ。完全に理解しているとは言い切れないが、錬太郎のおおよその性格ならば簡単に言い当てられた。彼女が把握している錬太郎の性格とは簡単なものである。
たとえば、優しいこと。これは錬太郎の行動を見ていればすぐにわかることだ。女性にも男性にも老人にも子供にも全体にやさしい。
そして正義感のある人間であるということ。力を持っているけれども、自分の中の正義に従って行動しているのがわかる。そして悪を叩きのめせる心の強さがある。
そして最後に、理性的な人間であるということ。翼の生えた女性は錬太郎に正直に接すれば接するほど錬太郎からとげが取れていくのを見破っていた。つまりしっかりと説明しさえすれば、安易に攻撃をしてこない。理解できるからこその甘さがあるのだ。
そうして大体の錬太郎を理解できたので全くご神体めぐりの最深部に入ってきたとしても問題ないと判断した。超能力の技量も十分合格していた。文句なしだった。
だから右手を差し出したのだ。これからは自分が直々に道案内をしてやろうと。そういうつもりで右手を差し出していた。
ただ、右手を差し出された錬太郎はその手を取らなかった。差し出された右手をじろじろと見るだけだった。何か怪しいものでも見るような眼で翼の生えた女性を見ていた。
翼の生えた女性がしてきたことをしっかりと覚えている。そもそもこれまで襲いかかってきたいろいろな障害物たちは翼の生えた女性の仕込である。葉波根みなとや車川貞幸、丙花白が握手を求めるような動きを取るのなら、全く問題ないのだ。
肩車だって簡単にできる。ただ、翼の生えた女性は別だ。あれだけの邪魔をしたうえでいきなり握手を求められても全く普通の握手だとは思えない。
何か裏があるのではないかと考えてしまう。これも何かのひっかけ、超能力を使った攻撃の一種なのではないかなどと思うくらいである。もしかすると合気道の熟練者で、手を握った瞬間に拘束されるという可能性さえ考えらる。
だから錬太郎は怪しいものを見るような眼で翼の生えた女性を見るだけで手を取らなかったのだ。
握手の形のまま錬太郎が全く動かなくなり十秒ほどしたところ。翼の生えた女性が引きつりながらこういった。
「思ったより、信用されていないみたいね。
握手よ握手。それだけだから心配しないでいいわ。笹百合ちゃんのところまで案内するからよろしくねってこと。
なんなら、自己紹介してあげましょうか? 白百合よ、よろしくね錬太郎ちゃん」
翼の生えた女性白百合が自己紹介を済ませると、錬太郎はものすごく警戒しながら握手をした。錬太郎の握力からすると考えられないほど弱く右手を握り、さっと引いた。
ただ、あまりにも錬太郎が強く警戒しすぎているので、周りで見ていた葉波根みなと達が翼の生えた女性白百合を少し不憫に思うほどであった。
錬太郎の警戒が強すぎて、握手が握手として成り立っていなかった。
しかし、錬太郎からしてみればあれだけ邪魔をした人物である。いまさら自己紹介をされたくらいで警戒心がなくなるわけではない。
人をさらったうえ、刺客を送り込んできた人物がいまさら仲良くしようなどといい始めて仲良くできるわけがない。
握手をするだけまだ優しいというものだろう。一応自己紹介をしてきて、しかも鬼島笹百合の居場所を知っているのが翼の生えた女性白百合だけであるから、しょうがなしに握手をしているだけなのだ。明らかに怪しいけれどもしなければならないどうしようもない事情が、錬太郎に握手をさせたのだ。
ただ、あまりにも露骨に警戒しているので、翼の生えた女性白百合にわずかな精神的なダメージを与えていた。錬太郎と刹那の握手が終わった後、目をぱちぱちとさせていた。
あっという間に終わった握手の形のままで動かなくなり、本当に小さく震えていた。錬太郎の握手が原因だ。
一瞬の握手が、結構な衝撃を与えていた。握手というのはじっくりやるものだ。一秒か二秒くらいは手を握っておくものだろう。長さはいろいろとあるにしても常識的な長さというのがある。
常識的にやってくれれば、それでよかったのだ。少し強めに握るくらいならしてもらってよかった。ただ、錬太郎のあまりに素早い握手というのはどう考えても錬太郎の心のありさまをわかりやすいくらいにわからせてくれていた。
本当にいやいや握手をしているのがわかってしまう握手だ。いっそのこと握手をしないでいたほうがよかったのではと思うようなやり方ですらある。翼の生えた女性白百合はまさかここまで嫌われているとは思わず、結構な衝撃を受けて頭が働かなくなってしまっていたのだ。
翼の生えた女性白百合が合流した後、錬太郎はこんなことを言った。
「それで、鬼島先輩はどこに? まさか洞窟の中とか?」
錬太郎の質問に、間を開けず翼の生えた女性白百合が答えた。
「違うわ。神社の奥よ。祭りをしているほうじゃなくて、山のほうよ。山の神社の奥で休んでいるわ」
翼の生えた女性白百合が錬太郎に答えてすぐだった。葉波根みなとがこんなことを言った。
「えっ? 山の神社の奥?」
葉波根みなとのつぶやきに、翼の生えた女性が答えた。
「私が暮らしているところよ。みなとちゃんは知らなかったわね、いい機会だわ。覚えておいて。
山の神社の奥は私のすみかだから、用事がある時には訪ねてね」
翼の生えた女性が話し終わると、葉波根みなとがこう言った。
「ちょっとまって、あんたいったいどこに暮らしてんのよ。あそこは私の家が管理しているのよ?」
翼の生えた女性白百合が答えた。
「知ってるわよ。私がそういう役目を与えたんだから。というか、気づいているでしょう?
翼を見たはずでしょ? 神社の娘なら聞いたことがあるはずよ、この島の神話を。
私こそがこの島の神様」
翼の生えた女性白百合の答えを聞いて葉波根みなとが一歩引いた。そしてこういった。
「そうなると……もしかして……」
顔色の悪くなった葉波根みなとを見て、錬太郎が首をかしげた。さっぱり意味が分からなかったからだ。
翼の生えた女性白百合はこういった。
「そういうこと。私があなたたちのご先祖様。敬ってくれていいわよ。偉大な母なる神様とね」
葉波根みなとに自分の正体を明かす翼の生えた女性白百合は、ちらちらと錬太郎のほうに視線をやっていた。
時折、丙花白と車川貞幸にも視線をやってにやにやと笑っていた。というのも、今までの錬太郎たちの失礼な態度であったのを翼の生えた女性白百合はしっかり覚えている。
どう考えても目上の存在に対する対応の仕方ではなかった。錬太郎に至っては問答無用で始末しようという行動をとっていたので、論外であるが、錬太郎に引っ張られてほかの三人もなかなか失礼な目で自分を見ていたのを覚えている。
これが鬼島山百合や兵辰のような丁寧な扱いをされていたら、特にどうも思わないのだけれども、ここにきて正体を明かして、驚いて頭を下げるようなことになれば、想像するだけで気分がよくなる。逆転劇だ。
怪物だと思っていた存在が、まさか神様でしかも自分のご先祖様だったなんて本当に愉快極まりない。
それこそ時代劇の気分だった。翼の生えた女性白百合は今こそその気分を味わうために、ちらちらと今まで失礼千万だった錬太郎や、葉波根みなと達の顔を見るのだ。良い趣味である。
だが、翼の生えた女性白百合の顔が驚きに変わった。にやにやしていた顔が一気に驚きに変わるのは非常に愉快だった。
白百合は錬太郎の顔を見てしまったのだ。葉波根みなと達の顔を見ているときには非常に気持ちがよかったのだ。
ものすごく驚いて、まさか目の前に自分たちの祖先にあたる神と呼ばれる存在が現れるなんてという気持ちが透けて見えていて最高だった。こういう顔が見たかったのだという顔をしてくれていた。
しかしこの三人とは全く別の顔を錬太郎はしていた。まったくどうでもいいような動作をするばかりである。大雑把にいえば、愛想で相槌を打ってくれている優しい聞き役という動きである。
これはまったく思いもよらない反応だった。驚くとか、そういう反応さえない無反応。こんなものを見せられてしまったらさすがに翼の生えた女性白百合も驚かざる得なかった。まさかみんな驚いてくれた正体がここまであっさり流されなどとは思いもしなかったのだ。最高のジョークを、誰もが笑ってくれるジョークを渾身のタイミングで放ったら、見事に滑った気分だ。
驚いている翼の生えた女性白百合に、錬太郎はこういった。
「そうっすか、それじゃあ鬼島先輩のところへ行きましょうか。そろそろ足も大丈夫そうなんで」
鬼島笹百合のところへ行こうという錬太郎は、杖を支えにして立ちあがっていた。立ち上がる時にやはり足首が痛むらしく足をかばうような動きをしていた。
翼の生えた女性は自己紹介もしたし、自分の正体というのも伝えた。これ以上話すことはない。趣味だとか好きな食べ物とかを話したいというのならばすればいいが、それは話しながらでもできることである。
これ以上無駄話をしている必要はないのだから、錬太郎はさっさと先に進もうと皆を促したのだ。
錬太郎が先に進もうといい始めると、翼の生えた女性白百合が震え始めた。両手をわなわなとふるわせて、どう見ても怒っているように見えた。そしてこういった。
「まぁいいわ……いいですとも。今はそうやって冷静にふるまっていればいいわ。
ここからよ。ここからが本番なのよ。ここから錬太郎ちゃんは驚天動地の海波根島めぐりを行うことになるのよ!」
翼の生えた女性白百合がぶつぶつ言っているのに、錬太郎はこのように返した。
「わかりましたから先に進みましょうよ」
翼の生えた女性白百合は錬太郎にせかされて、軽く錬太郎に拳をたたきこんだ。銀色のフクロウの翼が錬太郎の体を包み込んでいるので、全く錬太郎の体に衝撃は伝わっていなかった。
そうして拳をたたきこんだ翼の生えた女性白百合は、錬太郎たちの先頭に立ちこういった。
「野郎どもついてきな! 私が案内してやるよ!」
威勢のいいことを言う波根の生えた女性白百合の後を錬太郎が一番について行った。そしてそのあとから、葉波根みなと達が続く。葉波根みなとが錬太郎の右手をつかんできたが、特に錬太郎は何もしなかった。
翼の生えた女性白百合の道案内を受けながら錬太郎たちは進んでいった。翼の生えた女性白百合は、滝の裏側にある洞窟に入っていった。翼の生えた女性が一緒に滝の裏側の洞窟に足を踏み入れると、洞窟の中が一気に明るくなった。
洞窟の地面が光り始めて、光の道を作り出した。この光は激烈なものではなく、かろうじて洞窟の天井までいきわたるほどの弱い光だった。洞窟の中が弱い光で満たされると、葉波根みなとや、丙花白は目を輝かせた。
翼の生えた女性白百合は洞窟に足を踏み入れた時に、ちらりと後ろを見ていた。こっそりと、できるだけ自然にあとをついてくる錬太郎たちの様子をうかがった。
それはそうで、ほんの数分前にとんでもないものを見せてやるぞといって意気込んだのだ。ものすごいものがこれから待ち受けているのだといって大きなことを言ったのをしっかりと白百合は覚えていた。
正直、口が滑ったなという気持ちしかない発言であったのだけれども、口にしてしまった以上は驚いてもらわないと体裁が保てないのである。
洞窟に光をともしたというのは白百合にとっては大したものではないのだ。未来都市ほどの技術が使われているわけでもなければ、それほど重要な技術でもなんでもない。便利だというくらいのものである。
しかしこう言ういかにも美しい幻想的な風景というのは人の心を打つと白百合は知っていたし、自分もそれなりに好きだった。そういうわけで、もしかしたら開幕早々の洞窟の変化で自分の言葉が正当化されるのではないだろうかという予感を持った。
そうして、その予感が正しいかどうかというのを確かめるため、できるだけ自然に後ろからついてくる錬太郎たちの様子をうかがったのだった。
ちらりと背後の様子を確認した翼の生えた白百合は素早く姿勢を戻して、再び歩き始めた。表情は明るかった。また足取りもなかなか軽くなっていた。
背後で目をキラキラとさせている葉波根みなとと、丙花白を確認できたからである。車川貞幸は何とも言えない顔で驚いていたけれども、それはそれでいいだろうという気持ちになっていた。
ただ残念なことに錬太郎の表情というのはどういう理由なのか透かして見ることもできない状況であるから、さっぱりわからなかった。
ただ、錬太郎についてきている女性二人がなかなかいい顔をしてくれているので、これは間違いないだろうという気になっていた。
ここで、全くつまらないものを見せられたような顔をされていたら、それこそ白百合にしてみると非常に困ることだ。
何せ、驚天動地と入ったはいいが、白百合は特にこれ以上驚いてもらえるようなものを思いつけなかった。未来都市を先に体感しているのだから余計にそういう気がしてならないのだった。
そんな白百合であるから、女性陣が喜んでいるのを見て、よかったという気持ちになりほっとするのだった。とりあえずこれで、自分の発言を取り戻せたと思えたのだ。
洞窟に入ってから数分後、特に何の問題もなく洞窟を抜けることができた。前回は洞窟の中に壁があったのだが、今回は何もなかったのだ。当然のように普通の洞窟があるだけで、簡単に洞窟は向こう側へと続いていた。
洞窟を抜けたところで、翼の生えた女性白百合がこう言った。
「ねぇ錬太郎ちゃん。私あなたのことをこの島の御子にしようと思っているんだけど、どうする?」
錬太郎たちを案内する翼の生えた女性白百合は、杖を突きながらゆっくり歩いていた。特に急いでいるわけでもなく緊張しているわけでもない。
自分の家の近所をぶらぶらと散歩しているような調子で歩いていた。白百合にとって海波根島は自分のホームグラウンドである。
島全体が自分の家と変わらない感覚なのだ。錬太郎のように島の外から来た人間が感じるような不安感というのはまったくない。
恐れというのももちろんない。なぜなら隅々まで知っているからだ。たとえ洞窟を抜けてから見える道が、どう見ても獣道であっても、その先に続いているのが海波根島の一番大きな山であったとしてもまったく不安になることはないのだ。
なぜなら知っているからである。そうして知っているからこそ、特にこれという問題も感じず、散歩するような気持ちで歩き続けるのであった。
翼の生えた女性白百合の質問を受けた錬太郎はかなり間を開けて、答えた。
「どうとは?」
翼の生えた女性に答える錬太郎は非常に困っていた。フクロウのお面が邪魔をしているので表情は見えないけれども白百合が何を言いたいのかさっぱりわからないというのが声の調子から察せられた。
困っている錬太郎に白百合がこう言った。
「いつこの島に腰を落ち着けるのかって話よ?」
翼の生えた女性白百合の答えを聞いた錬太郎は一瞬立ち止った。白百合の答えがいまいち理解できなかった。
なぜ島に腰を落ち着けなければならないのかさっぱりわからないのだ。そもそも錬太郎は島で暮らすつもりなど全くない。
海波根島の祭りが終われば、さっさと帰るつもりであるし、執着しているようなものもないので帰りたくないなどという気持ちはまったくないのだ。
そんな錬太郎であるから、さも当然のように錬太郎がこの島に残るのだろうなどという翼の生えた女性白百合の答えは、どうにも理解できなかった。
しかしすぐに錬太郎は歩き出した。そしてこんなことを言った。
「この島に居つく気はない。というか、なぜそんな話になった?」
錬太郎が島で暮らすつもりは一切ないと答えると、少し間を開けてから白百合がこう言った。
「んっ? 何か不都合があるの?
この島にいれば望むものは何でも手に入るわよ。物流はしっかりしているし、インターネットもつながる。
なんなら、錬太郎ちゃんの家族も一緒にこっちに来ればいいじゃない」
錬太郎に話して聞かせる翼の生えた女性は立ち止って、錬太郎のほうを振り返っていた。全く錬太郎がどうして自分の誘いを断るのかわからないという顔をしていた。
翼の生えた女性は錬太郎が執着している者などないと知っている。これはつまり錬太郎の周辺を調査してみて、あえて元いた場所に戻らなくてはならない理由が全くないことを知っているということだ。
学校も家族も将来のことも海波根島にいても全く問題なく解決できるのだ。学校に関しては通学が面倒くさくなるけれども、それならこの近くの学校に移動すればいいし、家族も海波根島に移住してもらえばそれで終わりだろうと思っている。
将来のことなど海波根島で暮らすのなら何の不安もないだろう。なぜなら海波根島で暮らす以上は尋常ではない未来の技術を使い、それこそ何の不安もなく生きられるのだから。
将来の道も錬太郎が迷っているのは知っている。ほとんど決まっていないとわかっている。だから断られるようなことになるとは思いもしなかった。
全く自分の誘いを錬太郎が断るのがわからない。そうして、錬太郎のほうを見て、何が間違えているのか確かめようとしていたのた。
翼の生えた女性白百合が立ち止り錬太郎に振り返った後、錬太郎は何も言えなかった。何か言おうとしていたけれども、強く断ることができなかった。
錬太郎は自分に何もないことが見えていたのである。これはつまりどうしてもやらなければならないという強い目的が自分自身にないという事実が、見えていた。
正確に言えば、今まで隠れていただけで常に付きまとっていたといったほうがいいだろう。
錬太郎にはどこかに進みたいという熱意だけがあり、どこかへと向かう目的というのがまったくない。この目的というのは鬼島笹百合を取り戻すという目的ではなく将来についての目的である。錬太郎はそれを知っていたから、強い誘いに対して強い意思で対抗することができない。
実際理屈から考えれば、錬太郎は海波根島にいても問題ないのだから、強い理由がなければ、はっきりと立ち向かうことはできない。
できたとしても精々、相手が信用できないからくらいのものである。しかしそれさえも時間をかけて説明されていけば、簡単に崩されるだろう。合理的な説明さえあれば錬太郎は折れる。
黙り込んでしまった錬太郎に翼の生えた女性白百合が近寄ってきた。白百合は優しい目をしていた。自分よりもはるかに背の高い錬太郎を、小さな子供でも見るような眼で見つめていた。口元もやさしく微笑んでいて、母なる神という言葉が嘘ではないと思わせてくれる。
錬太郎と同じように悩んでいる子供たちを白百合はよく知っていた。長い時間生きている白百合であるから、錬太郎と同じようにどうするべきかわからなくなっている子供たちをよく知っている。そうしてよく知っていたから、錬太郎が苦しんでいるのも、すぐに了解できた。
だからこそ、導いてやろうとしたのだ。迷って心が苦しんでいるのならば、自分にまかせてみればいいではないかと。そうして近寄ってきたのだった。
翼の生えた女性白百合は、錬太郎の手を取ろうとしたが、できなかった。錬太郎の手を取ろうとしたところで、葉波根みなとが阻んだ。
白百合は錬太郎の右手を取ろうとしたのだけれども、葉波根みなとが、横から邪魔してきてつかめなかった。阻まれた時白百合は何が起きたのかいまいちわかっていなかった。なぜなら、葉波根みなとが邪魔をするとは思わなかった。
葉波根みなとは自分の手を払いのけるような子供ではないと知っていた。攻撃的な特性は持っていないはずだった。だから結構な勢いで手を払われたのが不思議でならなかった。
翼の生えた女性白百合の手を払った葉波根みなとは小さな声でこう言った。
「錬太郎は……大学に行くんです。だから、この島にはいられません。通学に不便ですから」
翼の生えた女性白百合に反論する葉波根みなとは下を向いていた。また目線は白百合から完全に離れていた。
声も震えている。自分がとんでもないことをしているとわかっている。少なくとも手を思い切り払ったのはどう考えてもまずかった。葉波根みなとの前にいる翼の生えた女性白百合は、島の元締めである。いろいろな謎を解き明かしていくとどうしてもこの翼の生えた女性が一番力を持っていると葉波根みなとは推理できている。
その女性にただの女性である葉波根みなとがたてつくのだ。
しかも意見するだけでなく錬太郎に触れさせないために手を払う暴挙に出ている。どうやってもまずい行動だった。
それがわかっているから、彼女は前をまっすぐに見れないのだ。怖くてしょうがなかった。しかし、錬太郎を縛りつけようとしている白百合を見過ごせなかった。
葉波根みなとはわかっているのだ。確かに錬太郎は迷い、目的を持っていない。しかしだからといって海波根島に縛られる理由にはならない。
錬太郎には錬太郎の自由意志がある。翼の生えた女性白百合の願いなど無視してかまわない。それこそ嫌だといえばそれで済ませていい話。まともに取り合う必要はない。それがわかっていた葉波根みなとであるから、錬太郎を思い、思い切り白百合を阻んだのだ。
葉波根みなとの答えを聞いて、翼の生えた女性白百合がこう言った。葉波根みなとにはたかれた手を撫でていた。
「そう……少し残念だわ。でも、ちょっといいことを思いついちゃった……ねぇ、みなとちゃん?」
翼の生えた女性白百合は残念そうな顔をしてまた道を歩き始めた。くるりと軽やかな身のこなしで道を先に進み始めた。思い切りたたかれた手が少し痛んでいたけれどもどことなくうれしそうにしていた。
白百合は葉波根みなとの妨害がうれしかったのだ。妨害されたこと、錬太郎を押しきれなかったことは残念なことであるが、それ以上に今まで弱弱しい心しかもっていなかった葉波根みなとが、力強く自分の意思を前に出してこれたのが素敵だった。
それはとてもうれしいことだった。そして、そういう姿を見せてくれたからこそ思いつけたアイデアがあった。そしてそのアイデアを形にするため道を進むことにしたのだった。
少なくともこれ以上ここで話をしても錬太郎はうなずかないのはわかっていたし、まだまだサプライズはしかけたままだ。あまり長い間待たせても叱られるだけだとわかっているので、先に先に歩き始めた。ただ、やはり思いついたいろいろを試したいという気持ちになっていて、気持ちは楽しくなっていた。
翼の生えた女性白百合の道案内で十分ほど歩いた。そうすると開けた場所に出た。その場所は半径二十メートルの円形の空間だった。
大きな広場なのだけれども、雑草が円形にきれいに刈り取られていた。しかしこれは、常にこのように刈り取られているわけではないだろう。なぜなら刈り取った草が、みずみずしい輝きを放ったまま山積みになっている。
これは木々と草が茂っているところに捨てられているのである。この円形の広場の向こうに長い坂道があった。坂道は海波根島の一番大きな山、母山に向かって伸びていた。
この無理矢理に作った円形の広場に到着すると、翼の生えた女性白百合はこういった。
「ねぇ錬太郎ちゃん。実をいうと、まだ少し戦ってほしい人がいるの。いいかしら?
これは正式なご神体めぐりの行事なんだけど、どうかしら?
ダメそうなら、別にかまわないけど」
翼の生えた女性の提案に、少し迷ってから錬太郎は答えた。
「いいさ。やってやる。ここで断ってごねられても困るしな」
翼の生えた女性白百合の提案を受けるという錬太郎は、杖を突きながら無理やり作られた円形の広場に向かって歩いて行った。左足首をかばいながら、ゆっくりと杖をついて歩く。
今回はこけるようなことはなかった。なぜならまだ戦う相手の姿が見えていないからだ。翼の生えた女性白百合の提案を受けたのは、白百合の提案だったからである。
もしもこの提案が別の誰かから出てきたものであったとしたら、錬太郎は戦わなかった。なぜなら戦うだけの体力はほとんど残されていないし、体の状況もあまり良くない。
できればゆっくり休みたい。しかし、戦わないかといって提案してきているのは翼の生えた女性白百合である。この白百合は鬼島笹百合の居場所を知る人物である。そして海波根島の下にある未来都市を仕切っている人物でもある。
ということはつまり下手に逆らって機嫌を損ねると面倒なことになる可能性がある。錬太郎はそれがすぐに頭に浮かんで、いやいやながらではあるが提案を受けた。しょうがないことだった。錬太郎に拒否権などないのだ。
錬太郎が広場の中心に近づいた時だった。木々の上を飛んで、巨大な人影が現れた。それは錬太郎の真正面に着地して、八角柱の杖を錬太郎に向けた。身長が錬太郎よりも大きく、翼の生えた女性白百合と同じような深い紺色のロングコートを着ていた。顔は見えない。頭を隠す頭巾と、銀色のタカの仮面をつけているからである。
目の前に現れた巨大な不審者を前にして、すぐさま錬太郎は杖を構えた。丁度巨大な不審者を鏡に映したように同じ格好をして見せた。
ただ、錬太郎のほうが少しぎこちない。なぜなら錬太郎の左足首に負傷があるためである。錬太郎がこのようにしたのは木々の上を飛んできた巨大な不審者に見覚えがあったからである。
錬太郎の前にいる不審者は波根の道で錬太郎に攻撃を仕掛けてきた不審者である。
錬太郎はそれをしっかりと覚えていた。前回は完全に仕留められなかった相手である。この不審者に対して錬太郎が同じように構えたのは挑発のためだ。前回の戦いから、この巨大な不審者はかなりの手練れであると錬太郎は察していた。
少なくとも自分よりも技量が高い。特に超能力を武術に織り交ぜて戦うとなると完全に格下になってしまうとわかっている。
だから、錬太郎はどうにか相手に怒ってもらおうとしたのだ。錬太郎の相手の構えを真似する行動とはつまり、猿まねである。相手を少しでもイラつかせて、平静を失わせて、そして隙を見出そうとした。
錬太郎が猿まねで挑発したすぐあとのこと、不審者が大きく地面を踏みつけた。右足のつま先を上げて、ぱたんと地面をたたいたのだ。そうすると地面がわずかに震えた。静かな水面に水滴が落ちるような変化だ。
不審者は錬太郎の挑発を受けて行動したのである。しかし怒り狂っての行動ではない。不審者は錬太郎の技量が自分に及ばないことを見抜いている。腕力と体力では錬太郎が勝っているけれども、純粋な技量特に杖の操作と超能力の業では自分が勝っていると見抜いていた。
だから錬太郎の挑発を見て、錬太郎の狙いというのを見抜いた。つまり、錬太郎は挑発することで隙を見つけて、そこに攻撃を撃ち込んで来ようとしているのだと見抜いたのである。
だから不審者は少しも油断せずに、定石通りに丁寧な行動を仕掛けてきた。この足元に生み出された地面を伝う波紋、この効力についてはすぐに錬太郎が体験することになる。
不審者の不思議な行動から一秒後、錬太郎の体がほんの少しだけ宙に浮いた。一ミリほどの空中浮遊だ。まったくないのと同じ変化である。しかし体が浮いた錬太郎の驚きは計り知れない。
しっかりと地面を支えていたはずの両足が、片足を負傷しているけれどもそれでもしっかりと立っていたのにもかかわらず、宙に浮く体験をするのだ。
錬太郎は一瞬心臓が跳ねるのを感じた。まったく思いもよらない攻撃で、完全に錬太郎の注意が切れていた。
この錬太郎の隙を不審者は見逃さなかった。突きつけていた杖を思い切り錬太郎にぶち込んだ。一気に踏み込んで、錬太郎の肩をついたのだ。
錬太郎の体をローブのように包み込んでいる銀色のフクロウの翼がいくらか衝撃を吸収したが、その威力はすさまじかった。浮き上がっていた錬太郎の体は支えなどなく、抵抗することもできない。はじかれたピンボールの玉のように錬太郎は宙を飛んだ。
錬太郎が吹っ飛ばされたあと、葉波根みなとが悲鳴を上げた。尋常ならざる勢いで錬太郎が木にぶつかるのをみた。衝突した時の音はすさまじかった。人間の体が出すような音ではなく、太鼓を思い切りたたいた時のような音がした。ぶつかった錬太郎がどうなっているのかを想像すると葉波根みなとは恐ろしい気持ちしかわいてこなかった。
この時ほとんど同じ表情を車川貞幸丙花白たちも浮かべていたが、白百合は別の顔をしていた。にやついて、巨大な不審者を見つめていた。
翼の生えた女性白百合は先ほどのぶつかり合いで錬太郎が攻撃するのをしっかりとみていたのである。
錬太郎の攻撃とは飛ばされる瞬間に行われていた。攻撃を受けて、ふっとばされるとわかった錬太郎が実に短い時間の間に、手に持っていた杖を地面に差し込み、小石を不審者に向けて発射していた。
その威力は相手を制圧できるようなものではないし、命中率も高くなかった。ただ、錬太郎の超能力を持ってい撃ち込まれた小石たちは見事に不審者に命中して、いくつかは錬太郎の狙い通り視界を奪うに至っていた。
翼の生えた女性白百合はこの見事な行動を見て、にやついたのだ。錬太郎と不審者の間にある経験の差はどうやっても埋められるものではないと翼の生えた女性は知っている。おそらく錬太郎はぼろぼろにされるだろうと思っていた。
しかしそれが一矢報いるような機転を見せた。さすがにこんなものを見せられると翼の生えた女性白百合はうれしくなってしまう。こういう頑張りが白百合は大好きなのだ。
木に吹っ飛ばされた錬太郎は呻きながら立ち上がった。ジャズにもらった杖は手元にない。吹っ飛ばされた時に落としてしまっていた。衝撃が全身を駆け巡っていた。杖での一撃もそうだが、木に思い切りぶつかったのが聞いていた。
それでも立ち上がっているのは錬太郎の前に立ちふさがっている不審者がまだ健在であるからだ。吹っ飛ばされるときに相手に目つぶしをかけていたのだけれども、それもほとんど意味がなかったらしいのがわかる。
まだ相手は錬太郎のほうをじっと見て、そして杖を構えて動かない。錬太郎が呻いている間に攻撃を仕掛けてくればいいのだけれども錬太郎の出方を窺い、油断がない。
さすがに格上でしかも油断もしない相手を前にして、ゆっくりと休むようなことはできなかった。
錬太郎が呻きながら立ち上がると、杖を構えた不審者が一気に距離を詰めてきた。
あっという間のことで、十メートル近かった距離があっという間に縮まった。見た目の大きさからはまったく想像もつかない身軽さだった。
不審者が突っ込んでくると錬太郎は木にもたれかかった。完全に背中を木にあずけていた。そして両手をだらりと下げていた。どう見てもあきらめているようにしか見えなかった。全く抵抗する気迫がない。
不審者の突っ込んでくるすさまじさは錬太郎自らが行動するという発想を奪っていた。不審者の足さばきはどう見ても錬太郎よりも素早く、負傷している足をかばいながら追いつけるものではない。また、杖の操作も圧倒的に相手が上で、しかも今の錬太郎は杖を持っていない。
完全な素手の状態だった。こんな状態で、どうにか抵抗する方法など全くないのだ。だから錬太郎は木にもたれかかり、相手が襲いかかってくるのを待った。
一気に距離を詰めてきた不審者が錬太郎の喉めがけて突きを仕掛けてきた。ぎこちないところなどなく放たれた突きはすんなりと錬太郎の喉へと吸い込まれていった。突きの衝撃で錬太郎がもたれかかっていた木が大きく揺れた。
ここで不審者がわずかに動きを止めた。錬太郎の喉を突いたのにもかかわらず、杖にしっかりとした感触が返ってこなかったのだ。間違いなく錬太郎をついたのにもかかわらずである。
しかしすぐに不審者は錬太郎の仕掛けに気付き、距離を取ろうと背後に飛んだ。
不審者は妙に厚みのない錬太郎の銀色のフクロウのお面と、その装束を発見したのだ。これはつまり、錬太郎を包み込んでいた銀色のフクロウの翼が、中身を持っていないということである。中身のないサンドバックを不審者はついていたのだ。
だが、仕掛けに気付いたところで動き出したところで遅すぎる。錬太郎は既に不審者をつかんでいた。不審者の両足をつかみ、今まで自分がもたれかかっていた木に向けて思い切り振りぬいた。錬太郎は自分が完全に不審者に技量で劣っていることを理解して、自分にできることをしたのである。
自分にできることとはフクロウのお面を使ったおとり、そしてお取りを使って一気に距離を詰めて、始末することである。
しかし賭けだった。相手が近づいてきて、おかしいと少しでも思われたらそれで終わっていた可能性がある。なぜならこの作戦は何度も使えるものではなく、また、銀色のフクロウの仮面がしっかりと自分の思うことをやり遂げてくれるかもわからなかった。
不審者の両足をつかみ気にたたきつけた錬太郎は目を見開いた。不審者が胴体部分で分離したからである。そして分離した上半身と下半身を見てさらに驚いた。
木にぶつかってわかれた二つの人体は、二人の人間だったからだ。地面に転がっていたのは鬼島山百合、お面をつけていたのは鬼島山百合だった。そして下半身を担当していたのは鬼島兵辰であった。
錬太郎はこれを見てものすごく驚いていた。何せあまりにも二人の連携は完璧すぎて、錬太郎には一人の人間にしか見えていなかった。ぎこちないところは一切なく本当にたった一人の人間が目の前にいるようにしか見えていなかった。それがまさか二人の共同作業であったなどとなればこれは襲われていたことよりもずっと驚きだった。
あまりの光景に錬太郎は鬼島兵辰の足を離していた。錬太郎に思い切り振り回された鬼島兵辰は、両手で衝撃を和らげたようだったが、かなりの衝撃に顔をゆがめていた。また、木にぶつけられるのを回避するために飛びのいた鬼島笹百合は、銀色のお面を外して、ほほ笑んでいた。
鬼島山百合と鬼島兵辰が目の前に現れると、錬太郎は困った顔をして立ち尽くしていた。何とも言えない顔で、鬼島山百合と鬼島兵辰を見るだけだ。やはり錬太郎には目の前の光景が信じられなかったのだ。まさか巨大な不審者が二人の合作だったなどとは思いもしなかった。
錬太郎が困り果てていると、翼の生えた女性白百合がこう言った。
「これは、錬太郎ちゃんの勝ちでいいわね。山百合ちゃんも兵辰ちゃんも、若い時ならもう一戦くらいできたかもしれないけど、もうダメそうだし、いいでしょ?」
白百合が錬太郎の勝利を告げると、銀色のタカのお面を片手に持ち、紺色のコートを着た鬼島山百合がうなずいた。
少しも異論はないらしい。鬼島山百合は自分たちが見事に錬太郎に一本取られたのをわかっている。本当に杖で攻撃した時には錬太郎がおとりにしているなどとは思わなかった。そして見事に攻撃を仕掛けられて、これが本当に一人の人間であったとしたら、間違いなく行動不能になっていたのは間違いなかった。
杖の技量も戦いの技術も間違いなく自分たちが上だろうとは思っているが、それでも負けは負けだった。だから鬼島山百合は特に文句を言うこともなく、白百合の勝利宣言を受け入れた。
そうして数十秒後、やっと錬太郎が動き出した。錬太郎は自分と戦った鬼島山百合と鬼島兵辰にこう言った。
「えっと、最初っからこの鳥女とグルだったんですか?」
鬼島山百合と鬼島兵辰に話しかける錬太郎は、少し不機嫌になっていた。銀色のフクロウのお面を脱ぎ捨てている錬太郎には、翼のターバンもマフラーもローブもないので錬太郎のそのままの表情がよく見えた。
錬太郎はどう見てもすねていた。完全にすねていて、へそを曲げていた。それはそうだろう、必死になって頑張っていたのが最初から最後まで完全に打ち合わせされた遊びみたいなものだったのだから。
それこそ鬼島笹百合と鬼島兵辰を見ればわかる。この二人がちょっかいをかけてきたのは、かなり早い段階だ。不審者の格好をして、波根の道に陣取ってそれで襲いかかってきた。思えばあれも翼の生えた女性白百合が錬太郎のことを試そうとした結果なのだろうけれども、そうなると鬼島笹百合が羽の生えた女性にさらわれたという話も、おそらく全く何の騒ぎにもなっていないということで間違いないだろうと予想ができた。
これはつまり、鬼島山百合に怪物が現れて鬼島笹百合がさらわれたと連絡がついたとしても、翼の生えた女性の正体が海波根島の神であると知っているのだから、当然鬼島山百合が動くことはない。
当然だが島の人たちも鬼島山百合が握りつぶせばそれで終わるのだろうから、動くわけもない。そういういろいろが錬太郎の頭に浮かんできて、何とも非常に面倒くさいことをやらされた上にバカを見たような気になってしまっていた。
ここまでのことをされてしまうとさすがの錬太郎でも気分はわるくなる。
錬太郎がすねているのを見て、鬼島兵辰がこう言った。
「本当はこんなに派手にするつもりはなかったんだ。本当のご神体めぐりは、ただの散歩さ。白百合様をモデルにして作られた石像を順番に見て回って、それで白百合様の寝どこまでたどり着いておしまいだった。
だから今回みたいなのは正直初めてなんだよ。本当ごめんね」
錬太郎に謝る鬼島兵辰は、少し離れたところにいる白百合をにらんでいた。口調こそやわらかいけれども、面倒くさいことをやってくれたなという気持ちが声に現れていた。
島の外からわざわざ孫娘のために手伝いに来てくれた少年に悪いことをしているという後ろめたさがとんでもないことになっているのだ。
錬太郎の姿を見てみればわかるが、ぼろぼろである。右手と左の足首は応急処置をしなければならないほど傷ついているし、全身は擦り傷だらけでぼろぼろだ。貸し出している法被もボロボロ、その下の錬太郎のシャツもズボンもボロボロ。よく見ればわかるが、細かい傷が無数に出来上がっている。
それこそ孫娘の旦那になるかもしれないくらいの気持ちで接していた少年である。そう思ってもいいくらいになかなか優しく力のある少年だった。それをここまで追い込んで、だますようなまねに手伝わされた。
そうなるとさすがの鬼島兵辰も頭に来る。翼の生えた女性白百合の願いしてくる理由もわかるのだ。六十年近く御子が現れなかったのだから、やっといい子が見つかったと喜ぶのはわかる。しかしはしゃぎ過ぎだ。にらむくらいのことはしていいくらいである。
鬼島兵辰が謝ると錬太郎は何とも言えない顔をした。そして、翼の生えた女性白百合をじろりとにらんだ。目は口ほどにものを言うというけれども、非常にわかりやすく錬太郎の気持ちを表していた。
やっぱりお前のせいじゃないかという気持ちがいっぱいで、お前のことが本当に嫌いになったぞという顔をしていた。
錬太郎は納得はしていないけれども一応の流れを理解したのである。鬼島兵辰の説明と、翼の生えた女性白百合に対するいまいち経緯の足りていない行動からそれがよくわかったのである。
これでもしも白百合のことを崇め奉っていて、全く白百合のやることには間違いなどないという態度であれば、白百合に対する悪感情もやや軽減されていたところである。
つまり妄信的に神様という存在を崇めている者が少し行き過ぎた行動に出てその結果錬太郎に被害が出てしまったということであれば、白百合のコントロール不足だったということで少しはましに思えていただろう。
しかし、鬼島兵辰のどこからどう見てもいやいや付き合っていた感じ、本当にしょうがなくやっていたという顔を見ていると、やっぱりお前がわがままを言ってとんでもないことになったのかという確信を持ってしまう。
この確信を得てしまうといよいよ錬太郎の中では評価が最低に近いところまで行っている翼の生えた女性白百合は底の底まで落ちることになるのだ。このあたりは神様がどうだとか美人だとかは一切関係ない。
今までやってきたことを省みれば当然の結果だ。にらむくらいで済んでいるのは一応今までの行動が試験だったからと理解できているからで、若しも何かのきっかけがあれば喜んで始末するだろう。
鬼島兵辰と錬太郎にじろりとにらまれている白百合が、引きつった笑みを浮かべた。そして少し間を開けて鬼島山百合に近付いて行って、こういった。
「ねぇ、山百合ちゃん。ちょっと二人の機嫌を取ってよ。
確かにはしゃぎすぎちゃったけど。外から来た子の選定なんてこのくらいやってちょうどいいってわかるでしょ?
お願い、山百合ちゃん。一生のお願い!」
鬼島山百合に錬太郎たちの機嫌を取ってくれという白百合は、両手を合わせて拝んでいた。身振り手振りに余裕があるようだけれども、今までよりは余裕がなくなっていた。
目元がやや厳しくなっているのがその証拠である。さすがに白百合もここまで嫌われるとは思ってもいなかった。
確かに、鬼島笹百合をさらう真似をしたうえ、鬼島山百合と鬼島兵辰の年齢を考えない無茶なお願いをしたのは間違いない。
考えてみると全く好かれる要素がないのだけれども、白百合にしてみればあとで事情を説明すればどうにかなるだろうというくらいにしか考えていなかった。
実際錬太郎に事情を説明してからは、錬太郎から厳しい攻撃が飛んでくるようなことはなくなり、普通に会話してくれているのだから間違いではなかった。
しかし今の鬼島兵辰と錬太郎を見てみるとこれはどうやら間違いだったとわかる。二人とも結構頭に来ているらしいのが身振り手振りから分かる。好感度というのが目に見えたら、おそらく一番下まで落ちているだろう。
さすがにここまで嫌われると思っていなかった白百合である。できれば仲良くしたいという気持ちのほうがはるかに多いので、現在の御子であり、おそらく二人をなだめられる鬼島山百合に手助けをねだったのである。
ただ、助けてほしいといわれた鬼島山百合であるが、ほとんど間をおかずにこんなことを言った。
「すぐには無理ですよ。花飾くんも、兵ちゃんも結構頭に来ているみたいですし、それにばれてますよ?
鳥頭が途中から別の目的のために動いていたの」
白百合のことを鳥頭とののしりながら、鬼島山百合は動き出していた。
全く白百合のお願いを聞くつもりはないらしかった。錬太郎がほうりだした銀色の杖と、銀色のフクロウのお面を拾いに動いていた。銀色のフクロウのお面はいつの間にやら元の形に戻っていて、鬼島山百合が拾いに行った時にはしっかりとで持てる状態になっていた。
鬼島山百合は顔にこそ出していないけれども、それなりにいら立っている。そもそもご神体めぐりの全体図というのを鬼島山百合はよく知っている。
ただの散歩である。波根の道という恐ろしく暑苦しい道を延々と歩くだけの行事なのだ。そして滝の洞窟を通り、山道を登って行って白百合の寝どこまで入っていけばそれでおしまいである。知っているから、今回のように延々と攻撃を仕掛けて、引っ掻き回すような真似をすというのが必要ないことであるとわかっていた。
錬太郎が神通力を秘めているというのがわかったところで、錬太郎の情報を集めていたのは間違いではないけれど、信用できるかどうかというのは戦ってわかることではないのだ。
はっきり言って無駄だった。そして白百合が何か別の目的のために動いているのは、錬太郎たちが洞窟で海波根島の土台になっている未来都市へ強制的に移動させられたのを見て、間違いないと察した。
そうなって察した時に鬼島山百合には白百合がいらないことをしたのだなという気持ちにしかならず、そうなってくれば立場を考えない無茶なお願いをしてくる白百合にいら立つようになるだけだ。
そして虎の眷属二人を差し向けられたり、自分たちと戦う羽目になってしまっている錬太郎を見て、あわれに思う気持ちばかりになる。そうなってきて、錬太郎たちの機嫌を取ってくれなどといわれても鳥頭だなというあきれた気持ちにしかならないのであった。
一応海波根島の神様であるから敬わなければならないのだろうけれども状況によって変化するのだ。なかなか鬼島山百合と兵辰は柔軟な頭の持ち主である。
鬼島山百合が銀色のフクロウのお面と銀色の杖を持ってきてくれるのを見て、錬太郎はお礼を言った。そしてしっかり受け取った。錬太郎が銀色のフクロウのお面に手を触れた時、銀色のフクロウのお面が鳴いた。カチカチとくちばしを鳴らして鳴いたのだ。
この様子を特に錬太郎はただ眺めていた。特に驚くこともなく、普通に眺めている。道端のカラスが鳴き声を上げたのを見ているような調子で眺めている。
錬太郎にとっては特におかしなことでもなんでもない。錬太郎はここに来るまで銀色のフクロウのお面が生きているかのように動くのを何度も感じているし見ている。錬太郎の体に翼を巻きつけてきて、ターバンを作ってみたり、マフラーを作ってみたりローブを作っている。鳴き声を上げるのもくちばしを動かすのも今に始まったことではない。
錬太郎はすっかり慣れてしまった。海波根島に来てご神体めぐりを初めて数時間のことであるけれども、いちいち考えることないほど慣れ切っていた。
それこそ普段の生活で鳥たちが鳴き声を上げていたり、犬猫が歩き回っているのを見て特に何も思わないのと同じ感覚である。そのため目の前で無機物であるはずのお面が生きているかのようにくちばしを打ち鳴らしたうえ、どうやって声を発しているのかもわからわないが鳴き声を聞かせるという異常現象を完全に無視して受け入れるようなことをやっているのである。そしてこれは、葉波根みなと達も同じだった。丙花白も車川貞幸も全く驚くようなことはない。
ただ、この銀色のフクロウのお面が鳴くのをみて驚く者たちがいた。鬼島山百合、鬼島兵辰、そして白百合である。三人は目を大きく見開いて、固まっていた。それはやはり不思議すぎるのだ。それというのも銀色のフクロウのお面というのは普通のお面だったのを三人は知っている。
特に鬼島山百合と白百合は錬太郎に銀色の飾りがついたお面をプレゼントしているので、余計によくわかっている。
それこそ白百合などは自分がデザインして作り出したお面であるから、生き物のように動くというのはおかしいとすぐにわかる。そんなつもりで作ったお面ではないし、変化があるとしても鬼島山百合のお面のようにお面全体を銀色で覆うくらいのものであるとわかっている。
そうなってみて、今の錬太郎のフクロウのお面はどう見てもおかしい。どこからどう見ても生きているようにしか見えず白百合が思っていたような機能以上の力を身に着けているようにしか思えなかった。
鬼島山百合、鬼島兵辰、白百合はこのよくわからない変化に戸惑い固まってしまったのだ。しょうがない話である。自分たちがよく知っている者が数時間のうちにありえない変化を遂げたのだから困るのは困るだろう。何となくおかしなことになっているというのは遠目で見てわかっていたのだけれども鳴き声まで上げられると完全に理解不能だった。
固まっている三人を前にして錬太郎が少し不思議そうにした。銀色のフクロウのお面を片手に持って、杖で体を支えた状態で、鬼島山百合、兵辰、白百合をちらちらと見始めた。
どことなく落ち着かないところがあった。錬太郎は不安になってしまった。今までそこそこ普通に話をしていた三人である。錬太郎は白百合のことが苦手であるけれどもそれでもそれなりには会話ができていた。鬼島のおじいさんとおばあさんは特に問題なく意思疎通ができていた。これは間違いないだろう。しかし今になって急にぴたりと動きを止めて固まっている。
三人とも驚いた表情で動かない。それを見てしまうと何かやってしまったのではないだろうかという気になってしまうのである。頭に血が上っているときには戦いに出て行ったり、無謀なことをする錬太郎である。
しかし傍若無人であるかというとそうではない。それは鬼島笹百合の手伝いのためにわざわざこんな島まで来たことや、葉波根みなと達を守りながらここまで来たことを考えれば、それほどおかしなことではないとわかる。
一般常識もそれなりにある。見た目こそ大きいけれども内面が少年なのは間違いない。将来の行方に悩んでいる少年だ。
そんな錬太郎であるから、急に目の前の年上の存在が、動きを止めて何か驚いたらしいという恰好であれば、さすがに不安になる。小さい子供たちが急に驚いているのならば不安になることはないが、自分よりも知識と経験があるような人たちが急に固まってしまうとさすがに何かあるのではと思ってしまう。
そうして錬太郎も何なのかと不安になり、三人が動き出すのを待ったのだった。
錬太郎が困っていると、葉波根みなとがこういった。
「あの? おばあちゃん? おじいちゃん? どうしたの?」
鬼島のおじいさんとおばあさんに話しかける間に、葉波根みなとは錬太郎のそばに近寄ってきていた。いつの間にやら錬太郎の隣に駆け寄ってきているのはなかなか素早い動作だった。葉波根みなとは錬太郎の支えになろうとしているのだ。
これは肉体を支えるというよりは、精神的に支えようとしていた。
葉波根みなとは錬太郎といくらか会話している。非常に短い間しか付き合いがないのでものすごくいろいろなことを知っているかといわれると違うだろう。
しかし、錬太郎がどういう感覚の持ち主で、どういう気持ちで行動しているのかを察するのはそれほど難しくはない。
特に追い詰められた状況で出た行動というのはおそらくその人の本当の部分が大きく出るだろうから、信じられる。そうなってみると少なくとも葉波根みなとにとって錬太郎は信頼できる人間だった。
決してあきらめないし、弱いものを捨てていくような人間でもない。体を張って守ってくれるのを何度も見ている。ご神体めぐりの試練は錬太郎の輝かしい部分をよく教えてくれていた。そうなってみると錬太郎に支えなどいらないという話になりそうだが、そうではないと葉波根みなとは見抜いているのだ。
見抜いたのは錬太郎の将来に対する希望の弱さである。錬太郎にはどこへ行くべきなのかという目的がきれいに抜け落ちている。きれいに、目的だけがないのだ。
それが錬太郎の弱いところだと、葉波根みなとは見抜いていた。実際つい先ほど白百合に海波根島で暮らせと誘われて、うまく断れなかった。嫌だといえばそれでいいだけなのに、押し切られそうになった。
それは結局未来に対しての目的がないから起きたことだ。少しでも目的意識があれば、はねのけられた提案だった。それを知っているから、葉波根みなとは錬太郎の味方になろうとしたのである。
目の前にいる鬼島山百合、兵辰、そして白百合が何に驚いているのか葉波根みなとにはわからない。島の人間なら三人に味方するべきだろう。しかし彼女は錬太郎を応援していた。自分がかつて悩んでいたように悩んでいる錬太郎を守ろうとしているのだ。
そして彼女は錬太郎のそばに駆け寄っていって、三人に対抗しようと構えたのであった。ただ、やはりはるかに年長者で権力者である三人の前に立つのは恐ろしいらしく、伏し目がちだった。
葉波根みなとが固まっている三人に話しかけるとやっとのことで鬼島山百合が動き出した。鬼島山百合はこういった。
「いや、ちょっとね。花飾くんのお面なんだけど、それが不思議でね。
私も同じお面を持っているけれど、そんな風に鳴いたことはなかったのよ。それで、不思議だなって。ねぇ、兵ちゃん?」
葉波根みなとに答える鬼島山百合は、そばにいた鬼島兵辰を杖でつついていた。八角柱の杖で、軽く腰のあたりをつついていた。
いつまでも驚きっぱなしではいられないのだ。確かに錬太郎の銀色のお面は理解不能な状態になっている。お面が鳴く姿を見るのは初めてだった。
しかし全身を覆い隠すまでに成長するというのは歴代の御子たちにもあったという話を聞いているし、鬼島山百合も若いころにはそれに近いこともできたのでそれほどおかしいとは思っていない。
錬太郎はかなり強い力を持っているらしいので、そういうものであろうと納得してしまっていた。そうして、そうなってくるといつまでも驚いたままではいられない。
特に鬼島兵辰や白百合が固まったままでは残された錬太郎たちが困るばかりになるのが鬼島山百合にはわかる。
何せ道案内ができるのは鬼島山百合たちだけなのだから。葉波根みなとはもちろんのこと、車川貞幸や丙花白たちは道を知らないのだから、待つしかない。
また、ここまで結構な戦いを繰り広げてきた錬太郎を見ればいつまでも待ちぼうけさせておくというのはかわいそうにしか思えないのだ。そうして、さっさと自分たちのやることを済ませてしまうために動き始めた。鬼島兵辰も動かなくてはならないのだから、さっさと正気に戻れ突ついていた。
鬼島兵辰が正気に戻り、鬼島山百合がさっさと鬼島笹百合のところへ行こうかと言おうとしたところであった。固まっていた白百合がこう言った。やや大きめの声だった。
「錬太郎ちゃん! ちょっとそれ見せて! ちょっとでいいの! お願い!」
錬太郎の銀色のお面を見せてくれと言いながらすでに白百合は錬太郎の目の前まで迫っていた。銀色のお面を調べたくてしょうがないらしいのが表情から分かる。クリスマスプレゼントの箱を渡された子供のようなキラキラした表情だった。
かわいらしいのだけれどもとんでもない勢いで距離を詰められたので錬太郎とそばにいた葉波根みなとはおびえていた。白百合は錬太郎の銀色のお面が不思議でならない。わからなさ過ぎて興味がわきあがっていた。
白百合は自分が作ってきたお面たちをよく覚えている。どういう形に変化していったのか、どういう力を持っていたのかまでしっかりと覚えているのだ。
それも遠い昔から今に至るまでずっと覚えている。だからこそ、錬太郎のような変化を起こしたお面というのは初めての経験だった。
全身を覆い尽くすほどの力を手に入れるお面というのは珍しくはない。百年に一度くらいのペースでありうるケースだった。しかし声を出すのは初めてだった。つまり、自律している状態のお面というのは初めてだったのだ。
自分の作り出したお面が、こんな変化を起こすのは初めてで、それも桁違いに長い年月の中での初めてであったために、不思議がわいてきてしまうのだ。その不思議はとても素晴らしい気持ちに白百合をさせた。一気に錬太郎との距離を詰めて、お面を強奪しかけるほどに。
錬太郎が
「えっ、はい?」
といって答える前にすでに銀色のフクロウのお面に手を伸ばしていたのでほとんど強奪と変わらなかった。
錬太郎から銀色のフクロウのお面をやや急いで受け取った白百合はお面を調べ始めた。初めは両手でしっかりとお面を持って調べていたのだが、白熱してきたのか地面に座り込んでしまった。そうして地面に座ると、紺色のコートが羽を圧迫して苦しいらしく、コートを脱ぎ捨てて調べ始めた。鬼島笹百合が自分の部屋で服を脱ぎ捨てるような調子で、コートを草むらに放り捨てるのだった。
白百合は、この久しぶりにわくわくしているのだ。わくわくしてしょうがなくなっている。白百合にとって、面白いことなどこの何十年の間に数えるほどしかないのだ。ドラマを見たり、漫画を読んでみたり、芸術をやってみたりして暮らしているけれど、恐ろしく長い時間の流れが、あっという間に退屈にしてくれる。
それこそ桁違いに長く生きる経験は、経験を与えてくれる代わりに、知らないということを奪っていく。人間の命が百年で、その間に知ることができることが世界中のほんの少しであったとしても、白百合の生きてきた年月を考えると、簡単に何もかもを見てくることができるのだ。
そんな彼女である。知らないものを見つけるというのは素敵な気分にさせる。そしてわからない、理解できないものというのはとんでもなく素敵な気持ちにさせてくれるのだ。
錬太郎の銀色のフクロウのお面は間違いなく素敵なものだった。自分が生み出したはずのお面が、今この瞬間にはまったく理解できない奇妙な品物へと変化しているのだ。こんなに素敵なものを前にして、抑えきれるわけもなかった。
だから自分の格好が非常に品のないものになっていたとしても、全く関係ないというふるまいをするのだ。一応見た目は鬼島笹百合や、葉波根港と同じくらいの年ごろの女性なのだから、もう少し格好に気を付けるべきだろう。
コートの下に来ているのが背中が大きく開いた、ランニングシャツと、短いズボンだけであるから、怒りを覚えていた錬太郎が見てはならないと思い配慮するほどである。
しかし、それほどまでに夢中になれる興味深い一品だった。だからコートを脱ぎ捨てて、地べたに胡坐をかいて調べ始めるようなことをしたのである。
白百合が熱心に調べ始めると鬼島笹百合が、こんなことを言った。
「この鳥頭は放っておいて、さっさと先に行きましょうね。あとからついてくるでしょうから、放っておいたらいいわ。
心配しなくていいわ。ヒグマくらいなら寝ながら屠れる力があるのよこのバカ。イノシシやシカくらいならにらむだけで逃げ出すわ」
錬太郎の銀色のフクロウのお面を必死になって調べ始めている白百合を放っておいて先に行こうという鬼島笹百合であるが、錬太郎たちを誘いながら、脱ぎ散らかされた紺色のコートを拾いに動いていた。
白百合の話から考えると鬼島山百合のほうがずっと若いはずなのだけれども、白百合を見る彼女はできの悪い娘を見るような眼をしていた。
いくら片付けろといっても片付けない年頃の娘を見る母親の目だった。すぐそばで見ていた錬太郎が大変だなと同情するほど鬼島山百合の感情がにじみ出ていた。
コートを拾いに動いたのはこの紺色のコートは非常に大切なものであるからである。この紺色のコートにはびっしりと銀色の糸で刺繍が施されているのだ。これが単純に紺色のコートであれば、全く捨てておいただろう。しかしこの銀色の糸で羽と百合の刺繍がされているコートは捨てておけないのだ。
というのもこの鬼島山百合も来ているコートには、歴代の御子たちの重みがある。つまり、この紺色のコートととは、歴代の御子たちに渡される御子のあかしなのだ。白百合自体は特に何の感慨もなく、自分のできのいい子供たちのために造っている服という考え方しかしていないのだけれども、それは作る側の考えである。
この紺色のコートを着るために一生懸命修行をしてみたり、必死になって道を歩いてきた人たちのことを鬼島山百合は見ているし、知っている。
そのいろいろな気持ちを知っている彼女だから、脱ぎ捨てられているのを見るとどうにも言葉にできない気持ちになってしまうのだった。
ただ、あまり大きな声で白百合にやめるともいえないのだ。何せ、作ろうと思えばいくらでも白百合はこの紺色のコートを作れるのだから。
そして、何百、何千の御子たちを見出しては見送っていったつらさを知っているので、思い出せとも言えなかった。このあたりわかっていたから、黙って紺色のコートを拾って先を急ごうとしたのだった。
脱ぎ捨てられている紺色のコートを鬼島山百合が拾ったところだった。お面に夢中になっているはずの白百合がこんなことを言った。
「錬太郎ちゃん、それ着てみて?
ぼろぼろのまま歩くよりずっといいでしょ? サイズなら気にしないで、服が合わせるから大丈夫」
自分の着ていた紺色のコートを錬太郎に来てみろという白百合であるが、全く視線はぶれていない。今も銀色のお面に注がれている。
そして両手もまだしっかり動いていた。両手が動くのに合わせて、背中の大きな翼が動いているのはなかなか面白かった。錬太郎にも興味は沸いているけれど、目の前の大きななぞに対しての興味が勝っているのだ。
白百合は、周りが見えていないわけではないのだ。しっかりとまわりは見えている。鬼島山百合と兵辰の顔も、錬太郎の顔も、笹百合の顔も、丙花白の顔も、車川貞幸の顔もしっかりと見えていた。三百六十度きっちりとものが見えているし、察知できている。
もちろん耳もしっかりと動いている。鬼島山百合が錬太郎を案内しようとしているのを見て、自分がやるべきだという気持ちももちろんある。
しかしそれよりも錬太郎の銀色のお面のなぞをどうにか解き明かしたかった。このなぞが興味深く、全く分からないから解き明かしたい。錬太郎に世話を焼きたいという気持ちよりもこのなぞのほうがややおもしろそうだった。
そんな気持ちがあるから、コートを着てみろと言いながらも視線や手は錬太郎のお面から、動かない。
ぼろぼろの服を脱いでいいコートを着てみろと言われた錬太郎はいやいや鬼島山百合からコートを受け取った。何となく嫌そうな顔をして、鬼島山百合を見ていた。
本当にこの紺色のコートを着なければならないのかという気持ちが、表情に現れている。正直嫌だった。嫌だったというのは、全体的に嫌だった。
細かく言えば、まず暑苦しく見えた。紺色のコートというのはどう見ても冬用のコートである。分厚い生地、ぴっしとした襟、袖の飾り。風通しを全く考えていない恐ろしく長い裾。完全に季節を間違えている。
海波根島は夏だ。夏真っ盛りなのだ。太陽がぎらついていて、風が止まっていて粘ついている最高のコンディションである。
錬太郎のそばにいる葉波根みなとや、丙花白、車川貞幸など汗まみれである。当然だ。湿度も温度も熱中症まっしぐらの勢いである。
こんなところで見た目が恐ろしく暑苦しい紺色のコート、しかも銀色の刺繍が見事で頑丈そうなコートなど身に着けられないし、身につけたくない。
そして何より、白百合が今まで身に着けていたものを身に着けるのが嫌だった。これは白百合の好感度が低いというのもあるが、単純に今まで女性が身に着けていたものを着るというのが気恥ずかしかった。
このいろいろな理由ががっちりかみ合って、錬太郎の表情に現れたのだった。ただ断らなかったのは、白百合の言うことがもっともだったからだ。錬太郎は今やぼろぼろである。体中ぼろぼろで血がにじんでいるところも多い。
このまま歩き回るのはなかなか難しい。人がいないところを歩くのはいいが、人の多いところを歩くことになった時銀色のフクロウの翼で隠し続けるというのはさすがに無理があった。怪しまれないように普通にこの島から去るためには、夏に冬用のコートを着るということ自体がおかしいが、それでもまだましな選択肢だった。
だから錬太郎はいやいやながらでも受け取った。そして、身に着けたのだった。
白百合の紺色のコートをいやいや身に着けた時だった。葉波根みなとが驚きの声を上げた。今まで伏し目がちだったのが急に目を見開いていた。
目の前で非常に不思議なことが起きたのである。葉波根みなとは錬太郎のことを見ていたのだ。特に見るものがなかったからというの本当なのだけれども、錬太郎が白百合の紺色のコートを身に着けようとしているので、なんとなく目で追っていた。
この時、どう考えても錬太郎の体に白百合のコートは似合わないだろうと思っていたのだ。というのが、錬太郎はかなり体が大きい。身長が百九十センチで、がっちりした体格だ。一方で白百合は非常に華奢である。
葉波根みなとと同じくらいの身長で、百五十センチあるかないかというところ、筋肉も脂肪もほとんどついていない細い体である。
この白百合が身に着けてすこし大きいくらいのサイズが紺色のコートの大きさなのだ。普通に考えると紺色のコートは錬太郎の体を包み込むには布地が足りない。
よくて片腕が通るか通らないかというところだろう。しかしこれがおかしなことで錬太郎が身に着けようとした瞬間に、大きさが変わったのだ。錬太郎の腕が通るほど袖が大きくなり、錬太郎の全身を隠せるほど布地が広がっていった。
まったく奇妙な光景で、それこそ夢を見ているようだった。錬太郎の銀色のフクロウのお面が当たり前のように変身するのを見ていたのでとんでもなく驚くようなことはないが、不意打ち気味に見せられるとさすがに驚いてしまった。
ただ驚いたのは葉波根みなとだけではない。無理だろうなと思いながら身に着けようとした錬太郎も、それを見ていた丙花白も車川貞幸も当たり前のようにサイズを勝手に合わせてくれる紺色のコートに驚いていた。ただ、やはり錬太郎の銀色のフクロウのお面を見ていたので、こういうものもあるだろうなというくらいにしか驚いていなかった。
錬太郎が紺色のコートを身に着けると、白百合がこんなことを言った。
「いいじゃない、よく似合っているわ。
私の子供たちは私によく似てあまり大きくならない子が多いから、錬太郎ちゃんが着ると結構印象変わるのね」
錬太郎をほめる白百合は視線を錬太郎に向けていた。手はしっかりと銀色のフクロウのお面をいじっているのだけれど、頭は錬太郎に向いている。
白百合は一応錬太郎の格好を見ておきたかったのだ。後でいくらでも見れそうなものだが、これから錬太郎たちが鬼島笹百合を隠している寝床に行くという話をしているのは了解している白百合である。
白百合は自分抜きで先に進まれるのは少しさみしい気がしているが、それはわがままをしている自分が悪いと納得している。
それはいいのだけれども、ここで錬太郎を見逃してしまうと自分の作ったコートが錬太郎に似合っているかどうかで気が散るようになると白百合は予想していた。
そういう性格なのだと白百合は自分のことを思っているから、錬太郎の姿を確認しておいて、いいか悪いかというのを判断しようとしたのだ。
悪かったとしても問題はないのだ。ただ、見ておいたらそれで興味がほかにそれることがなくなるので、見ておきたかったのである。
やはりこれも銀色のフクロウのお面を調べつくすためであった。そうして紺色のコートを着た錬太郎を見てこういう感じになるのだなと理解して、銀色のフクロウに集中しはじめるのだった。
白百合が錬太郎から視線を切って熱中し始めたのを見て、鬼島山百合が歩き始めた。白百合のことは本当においていくつもりらしくまったく振り返りもしなかった。八角柱の杖を片手に軽快な足取りで険しい山道へと踏み出していく。そのあとを鬼島兵辰が汗をかきながらついて行った。鬼島兵辰も白百合を待つつもりはないらしく少しもためらいがなかった。
鬼島兵辰もまた非常に軽快な足取りで年齢を感じさせなかったが、山百合と比べるとさすがに年を取っているという感じがあった。ただそれでも後ろからついて来ようとしている葉波根みなと丙花白車川貞幸と比べると、すさまじい勢いがあった。
この後ろからついて来ようとしている三人は、頭の真上に登った太陽と、粘ついている空気で体力を削られていた。ただでさえ波根の道を通り、そこからさらに未来都市をかけぬけてきているのだ。体力はそろそろ限界だった。
鬼島山百合と鬼島兵辰が先に進み始めたところで、錬太郎がこんなことを言った。
「あの、ここから人のいるところへ三人を連れて行ってもらえませんか?」
紺色のコートを身に着けている錬太郎は、やや大きめの声で白百合にお願いをしていた。錬太郎はここからは一人で大丈夫だと思ったのだ。
錬太郎はしっかり三人の状況がわかっている。葉波根みなとも、丙花白も車川貞幸もボロボロだ。錬太郎のように外傷があるということではない。しかし三人とも汗をかいて息が上がってしまっている。
大丈夫そうに見えているけれども、見えているだけだ。もう少し無理をすれば間違いなく熱中症になって、動けなくなる。錬太郎は三人の顔色を見ているとどうしてもそういう考えになってしまうのだ。
できれば一緒についてきてくれるのが一番いいのだけれど、心強いとも思うし、頼りになるとも思う。
しかし、途中で倒れるようなことになればそれこそ一大事であるから、さみしいとか恐ろしいという気持ちは押し殺した。
そうなってくると、誰かが三人を連れて移動しなければならないということになるのだが頼りになりそうなのは白百合しかいなかった。葉波根みなとも島で暮らしているのだから地形をゆくわかっていそうだが、白百合には劣るだろうし、無理をさせてはならないという考えがよぎり錬太郎は白百合を頼った。
錬太郎のお願いを聞いた白百合はぴたりと手を止めて錬太郎を見た。錬太郎が何を言い出したのかさっぱりわからないといった顔をしていたが、すぐに錬太郎の言いたいことに思い当たり、意地の悪い顔をして笑顔を作った。
地面に胡坐をかいたままで白百合はこんなことを言った。
「えー? どうしよっかなぁ?……そうだ、錬太郎ちゃんこれから私のことは白百合さんて呼んで?
そうしたら三人を人里まで連れて行ってあげる」
お願いを聞く代わりに名前を呼べという白百合の要求を錬太郎はすんなりと飲んだ。
まったくためらいがない。それどころかとくに嫌がる様子もなかった。それはそうで、特に問題ないのだ。確かに鳥頭がやってきたことを錬太郎はしっかり見ているし覚えている。
非常に腹が立ったのも覚えている。しかし一応は理由があったことであるし、よくよく考えてみると自分がこの島に来なければ鬼島笹百合がさらわれるようなこともなかったのだ、ななどと思うような気持ちもある。
もちろんだからといってちょっかいをかけてきた人間が許されるかというと全く違う。白百合がいらないことをしなければ何も起きなかったのだから錬太郎が悪いのだなどと反省する必要はない。
しかし結局のところ鬼島笹百合の無事がほとんど確約された状況になっているので、どうでもよくなっているのだ。錬太郎は錬太郎自身ではなく鬼島笹百合に降りかかった理不尽に関して怒り狂っていただけで、自分に対して降りかかった出来事に対してはそれほど怒っていないのだ。そのため白百合のことは少し嫌いだなという気持ちになっているが、本当に憎しみでまみれているというようなことにはならない。
そして名前を呼ぶくらいなら特に問題もないし、白百合に三人を任せても大丈夫だといたってまともな判断を下すこともできるのだった。怒りにまみれていたら白百合に三人を任せる判断など出せるわけもないのだ。
錬太郎が白百合の名前を呼ぶと、白百合はぎょっとしていた。完全に虚を突かれていた。まさかすんなりと錬太郎が名前を呼んでくれるとは思いもしなかった。
自分が嫌われているのは錬太郎との会話でわかっている。錬太郎に嫌われる理由というのも予想がつく。そんな中で錬太郎が自分にお願いをしたのは少しでも仲良くしたいという気持ちを持って名前を呼んでくれるように頼んだ。
ただ、お願いした白百合であるがすんなりと名前を呼んでもらえるとは思っていなかった。なぜなら嫌われているからである。
切羽詰まった状況だから錬太郎は仲間を助けてくれとお願いをしてきたのであって、それがなければ自分にお願いをするなんてありえないと思っていた。
それこそ非常にいやいやだけれどもお願いをしているのだという気持ちでいるのだと思い込んでいた。だからこそ名前を呼ぶのに非常に苦労すると思っていたし、蛇蝎のごとく名前を呼ばれると思っていた。
しかしそれが、実に普通に名前を呼んでくるのだからこれは驚きである。
白百合の名前を呼ぶと錬太郎はこういった。
「それじゃあ、あとは任せますからよろしくお願いしますね。信用してますから」
白百合にお願いをした錬太郎は鬼島山百合と兵辰の後を追いかけていった。三人のことを少しも振り返らなかった。ジャズからもらった銀色の杖を突きながら、左足をかばうような歩き方をしていた。
錬太郎が歩き始めると、葉波根みなとが駆け寄ってきた。そしてこういった。
「ちょっとまって、私も一緒に行く……大丈夫だから」
錬太郎に駆け寄ってくる葉波根みなとは息が切れていた。太陽に焼かれて、かなり汗もかいている。顔色もいいとはいえなかった。葉波根みなとは、まだ心配なのだ。
葉波根みなとは白百合が錬太郎をこの島に縛ろうとしているのに気付いている。そして錬太郎がいまいちはっきりと誘いを断れないのも気づいていた。
それを知っているからこそ葉波根みなとは心配になってしまう。はっきりと誘いを断れるのならば、錬太郎を一人で行かせられるのだが、錬太郎はそうではないのだ。だから心配で、錬太郎と一緒に行こうとするのだ。たとえかなり体調が悪くなっていたとしても。
駆け寄ってくる葉波根みなとを見て、錬太郎は少し困ってしまった。ついてくるなとはっきりといえるはずなのに、うまく言葉にできなかった。断ろうと頑張っているのだけれども、ほんの少し喜んでいるところも見える。
やはり一人きりで先に進むのが少し不安だった。情けない話だが、これから向かうところは錬太郎にとって全く味方のいない状況で間違いない。
確かに鬼島山百合と鬼島兵辰は錬太郎に気を使ってくれているし、白百合もまた事情を説明してくれて意思疎通をしてくれている。それは確かに安心させてくれる行為だ。相手が敵ではなく味方であるように思わせてくれる。
思わせてくれるのだが、錬太郎には拭いがたい不信の念が残っている。考えてみれば、鬼島山百合たちは一から十まで知っていたのにずっと黙ったままだった。
確かにあとから聞いてみると命の危険がない出来レースだったとわかる。しかしこの出来レースを仕込むことに強く鬼島山百合たちは反対しなかった。実際錬太郎は襲われているのだから、自発的な行動もあるだろう。
そして話からして白百合は間違いなく錬太郎よりも深く長くこの島の人間たちに寄り添って生きている。親しげに話をする様子も思い返せば錬太郎にとって悪い評価にしかならない。つまりいざというときにはほとんど間違いなく錬太郎に敵対するだろう者たちであるという評価である。
錬太郎はこの考えを無意識のうちにそれこそ体の動きに出ないほどの無意識のうちに抱えている。そのためどうしてもほんの少しでも信頼のおける人間がそばにいてくれるという状況が何より素敵なことに思われた。
たとえ葉波根みなとが島で生まれて暮らしてきた人間であったとしても、ほんの少しでもましならそれで喜んでしまうほど。そして、葉波根みなとが体力の限界を迎えて疲れ果てているというのに、彼女が疲れ果てている事実さえ無視してしまえるほど錬太郎は不安だった。だからうまく断れなかった。
しかし少し悩んで錬太郎は何とか拒絶の意思を動作にあらわした。近寄ってきていた葉波根みなとを手で止めた。軽く肩に手を触れて、これ以上来るなと止めた。声は出せていないし、目も見れていない。
しかし間違いなく錬太郎の気持ちが現れていた。不安に押しつぶされそうな心があるけれど、それよりも葉波根みなとの体のほうがずっと心配だった。男のプライドがほんの少しだけ不安を超えていたともいえるだろう。
錬太郎はやはり無視できないのだ。自分の近くに寄ってきた葉波根みなとはどう見ても疲れ果てている。汗もかいているし、呼吸も荒い。全身に疲れがたまっているのだろう、姿勢もずいぶん悪くなっている。
こんな状況でこれから山道を行こうというのは非常に危険だ。熱中症の危険はもちろんだが、山道を上がっていくことになるのだ。事故の危険も高まる。確かに不安で心は押しつぶされそうだ。相手が裏切る可能性もあるのだから心休まることはないだろう。
しかし、それはそれだ。自分の心が不安でしょうがないから、倒れそうな女性についてきてもらいたいなどと泣き言が言えるほど錬太郎は弱くない。だから来ないでほしいと手で止めた。
錬太郎が来るなと葉波根みなとを止めるのを見て、白百合が話しかけてきた。目線はいまだに銀色のフクロウから揺らいでいなかった。地べたに胡坐をかいたままで、両手をせわしなく動かして何か調べているらしかった。
白百合はこういうのだ。
「振られちゃったわね、みなとちゃん。 でも見る目あるわ、応援してあげる」
白百合が茶化すとどこからか小石が飛んできて白百合の額を直撃したのだが、特に気にせず葉波根みなとは錬太郎にこう言った。
「わかった、あんたの考えはよくわかった。だからここはおとなしくしてあげる……でも言いたいことがあるの。
よく聞いて、いい? あと声が出ずらいから、ちょっと屈んで」
葉波根みなとは錬太郎に語りながら、息を切らしていた。随分疲れ果てているらしく、呼吸をするのが苦しそうだった。
錬太郎が身をかがめると葉波根みなとはこういった。
「これから私の言うことをよく覚えておいて錬太郎。いい?
あんたは大学に行くという目的がある。まだあいまいな目的だけどきっといつかはっきりとした目的が見つかる時が来る。
私と同じようにね。今は見つかっていないだけ。いろいろなものを見ていけば、きっと何かが見つかるわ。
だから、今この瞬間に心を決められなくとも負い目を感じる必要はないわ。遅いか早いかの違いしかないんだから。
少なくともこの島で御子になるしかない、なんてことは違う。そうでしょ?
私たちの神様が勝手に言っているだけなんだから。あんなのは無視していいの。あんたがいきたいところへ自由に生きなさい。
あんたならきっとできるから。負けないで」
錬太郎の耳元で錬太郎に聞こえるだけの声で葉波根みなとは錬太郎を激励した。錬太郎のどこへ行けばいいのかわからないという迷いを完全にはらすものではない。
具体的などこへ向かうべきかについて答えてくれたわけではない。しかし錬太郎の心に響く激励だった。
葉波根みなとはただ錬太郎が縛られるのを見たくない。本当ならば、神様に味方するべきなのかもしれない。自分の地元の元締めが錬太郎をほしがっているのなら、手を貸していたほうが利益を得られるかもしれない。
しかし、錬太郎は本当によく似ていたのだ。数年前に島を出て勉強をするのか、それとも島に残り家を継ぐのかといって悩んだ葉波根みなと自身と。
あの時、悩んだ彼女は非常に苦しい思いをした。外に出ても内側に残ってもどちらもそれなりにいいところがあり、悪いところがあるのがわかっていた。
そして結局島に戻ってこなければならないという気持ちがあった。たとえ外で勉強しても何もかも無駄になるのだから、ならば最初から動かなければいいとさえ思った。
しかし外に出て勉強を始めて熱中できるものを見つけた。結局島に戻ってきて家を支えることになるだろう。しかしそれでも身に着けた技術と経験は間違いなく人生をよいものに変えると確信できた。
ならばきっと錬太郎もそうなるだろうと言い切れる。錬太郎が熱意を持って生きていくのなら、どこへ行くのかを探しているのならばきっと何かを見つけてやり遂げて、喜びを生むと理解できるようになるだろう。
ならば、それを知っている人生の先輩たる葉波根みなとは、導かねばならないという気持ちになってしまう。こんなところで、最初の一歩で神様にとらわれて、結局こうなる運命だったのだなどとあきらめてほしくない。
この気持が、葉波根みなとの激励になった。そして悩んで先に進んでみてきたものだからこそ、錬太郎の胸を打つ熱い激励になっていた。
錬太郎から離れるときは波根みなとは錬太郎の背中を軽くたたいた。二人の姿を見ていたのか、白百合がこんなことを言った。
「熱いわー、無茶苦茶熱いわー熔けちゃいそう。
そっちのお嬢ちゃん……と、おじさんもそう思うでしょ? 若いっていいわねぇ」
銀色のフクロウのお面を調べながら茶化す白百合の額にもう一度小石が飛んできた。今回はさすがに飛んできた小石を白百合は防いでいた。
そして小石を飛ばしてきた鬼島山百合をじろりとにらんでいた。
葉波根みなとの激励を受けた錬太郎は左足首を引きずりながら、鬼島山百合と兵辰の後を追いかけた。
錬太郎の歩く道は少しずつ角度が付き始めていた。初めはほんの少しの角度だったのが、あっという間にきつい角度に変わるのだった。この道は上に上にと続いていて、その先には翼の生えた女性白百合に連れ去られた鬼島笹百合がいるはずである。そしてその連れ去られた場所とは、白百合の話が本当ならば錬太郎が一度八角柱の杖を取りに来た古い社がある場所である。




