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第三章 波根の道 上

海波根島、二日目の朝が来た。錬太郎はいつも通りの時間に目を覚ましていた。鬼島の家での初めての夜だったが、全く問題なかった。布団の上で目を覚ました錬太郎は実にさわやかだった。

目を覚ました錬太郎は客室から抜け出して、洗面所に向かった。いつもの癖が出ていたのである。普段の錬太郎は目を覚ますと一番に顔を洗いに向かう。この習慣は、鬼島の家に来ても変わらなかった。

昨日、風呂場の脱衣所に洗面台があるのは確認しているので、迷いはしなかった。朝の、かなり早い時間に起きたはずなのだが、鬼島の家の中には誰かが動き回っている音がいろいろな方向から聞こえていた。廊下を歩く錬太郎の足音もその一つであった。錬太郎はこの時、さすがに鬼島笹百合と鬼島兵辰は目を覚ますのが早いのだろうなと勝手に納得していた。

 洗面台の前に立った錬太郎は、目を細めた。微妙に、視界がぼやけていたからである。鏡に映っている自分の姿が、姿といっても錬太郎の身長が高いので、顔がほとんど見えない状況であったが、非常にぼんやりと見えていたのだった。目を覚ましてから少しの間は視界がぼやけていることがあるが、そういう状態とよく似ていた。

 顔を洗えばぼんやりとした視界も良くなるだろうと思い錬太郎は顔を洗った。非常にしっかりと洗っていた。

 そうして、洗い終わってから錬太郎は鏡に映っている自分の顔をよく見ていた。ぼやけていた。全部がぼやけているわけではないのだ。片側だけ、右目の担当している部分だけが、微妙にぼやけて見えていた。鏡を見つめる錬太郎は何とも言えない顔をしていた。じっくりと自分の顔を見て、右目をこすって見たりしていた。錬太郎は、自分の視力が片側だけ悪くなっているのに気が付いて、夢でも見ているような気持ちになっていた。

視力が落ちてきているのは把握していたが、自分の視力が悪くなるなどと思ったこともなかった。父親も母親も、姉も全く視力が悪くないのだ。きっと自分も年を取るまでずっと視力を保っていられると信じていた。きっと家族と一緒だろうと。

 しかしそれが、全く違ったことになった。思いもしないことが起きたのだ。どうして自分がこんな目に合うのか。

 いやな夢を見ているような気持ちになるのだ。ただ、夢ならいいが間違いなく現実に右目の視力だけが落ちてきているので、逃げられなかった。しかしやはり逃げたいという気持ちがあるからだろう、何度も視力が落ちているという確認をしていた。間違いないと思えるほどの実感はやはり恐ろしいのだ。

 錬太郎が気落ちしながら鏡を見つめていると半分寝ぼけた鬼島笹百合が洗面所に入ってきた。

洗面所に入ってきた鬼島笹百合は鏡の前に陣取っている錬太郎を見つけて、静かに驚いた。

 しかしすぐに、いつも通りの鬼島笹百合になっていた。神秘的な雰囲気のかわいらしい女性になっている。

 ちなみに鬼島笹百合が目を覚ましたのは自力ではないのだ。鬼島笹百合の携帯電話に葉波根みなとから着信があり、彼女は目を覚ましたのだった。この着信は葉波根みなとに頼んでおいた保険である。

 鬼島笹百合は自分の力で目を覚ませる自信がなかったので、葉波根みなとに起こしてもらえるようお願いしていた。

 ご神体めぐりを行うというのはそこそこ朝の早い時間に行われるので、若しもぎりぎりで目を覚ますようなことになると、非常に格好の悪い姿をさらすことになる。特に錬太郎の前で失態を犯すと、ほとんど間違いなく錬太郎の姉、晶子に伝わるだろうから、避けたかった。

 そうして、なんとか目を覚ました鬼島笹百合は、特に今の自分の格好にも気を払わずに錬太郎の前に現れて、とりあえず目を覚ませたなという達成感でいっぱいになっていた。錬太郎を見て驚いたのは、どちらかというと錬太郎に朝のだらしない姿を見られたというところではなく、朝の早い時間に錬太郎が当たり前のように起きているのが驚きだったのだ。


 錬太郎があわてて鏡の前から、というよりも洗面所から出て行こうとすると、鬼島笹百合は錬太郎に挨拶をした。

「おはよう錬太郎くん、起きるのはやいね」

 錬太郎に挨拶をする鬼島笹百合は洗面所の出入り口の前に立ったままである。錬太郎が非常にすばやく左右にステップを踏んで、鬼島笹百合をかわそうとしているけれども、鬼島笹百合が全く動こうとしていないので、錬太郎は洗面所から出ていけない。

 錬太郎が必死に洗面所から出て行こうとしているのを見て、鬼島笹百合は少し笑っていた。錬太郎が何を必死になっているのかわからなかったのだ。そして、何か必死になって洗面所から錬太郎が出て行こうとしているのがおかしかった。

 鬼島笹百合がいまいち自分の服装を気にしていないので、錬太郎は視線を明後日のほうへ向けながら、朝の挨拶をした。

「おはようです、笹百合さんも早いですね」

 挨拶をしながら錬太郎は、わかりやすいように視線を鬼島笹百合からずらして見せた。これは、一度鬼島笹百合と目を合わせてから、軽く下を見て、そして明後日のほうへと視線を向けるというやり方である。目は口ほどにものを言うというけれども、鬼島笹百合へ錬太郎の目は言いたいことをきっちりと伝えてくれていた。


 錬太郎の挨拶と、錬太郎の視線の動きの数秒後。鬼島笹百合は洗面所の出入り口からのいた。錬太郎が何をしようとしていたのか、鬼島笹百合は察したのだ。鬼島笹百合の顔が真っ赤になっていた。

 錬太郎が洗面所を出ていくときに鬼島笹百合はこんなことを言った。

「いつもはこんなに早くないよ、みんなが動いている音が聞こえてきたからね。起きちゃった」

 錬太郎にやや間違えている情報を伝える鬼島笹百合は、すでに洗面台に向かっていた。洗面台に向かう鬼島笹百合は自分の両手を自分のほほに当てていた。

 洗面台の鏡に映っている自分の顔が、真っ赤なのに気付いたからだ。そして自分の服装も。そうなってみると、恥ずかしさが湧いてくるのだけれども、どうにかごまかしたいと思うのが人間というものである。彼女は特に当たり障りのない会話を続けることで何とかごまかそうとしていたのである。

 錬太郎が洗面所から出て行った後、鬼島笹百合はがっくりと肩を落とした。朝っぱらから、思い切り失敗してしまったせいで心が折れそうになっていた。



 

 それから少し時間がたち、朝ごはんの時間になった。鬼島山百合と鬼島兵辰、鬼島笹百合と錬太郎で食卓を囲んでいると誰かが鬼島の家を訪ねてきた。すくなくとも二人組らしいことがわかる。というのが玄関で

「鬼島さん」

と呼ぶ女性の声と、

「おはようございます」

と家の奥にいるだろう鬼島の住人に聞こえるように挨拶をする男性の声が聞こえてきていたからである。

 声の感じからして二つの声の主はどちらも若い。また、朝の静かな時間帯であったために、玄関に向かって歩いてくる靴の音の数で、二人だと判断することもできていた。少なくとも鬼島山百合、鬼島兵辰、そして錬太郎は、近づいていた二つの足音がこの二つの声のものなのだろうと予想をつけていた。

 玄関で響いた挨拶を聞いてすぐに、鬼島山百合が立ち上がり玄関に向かっていった。鬼島山百合はお面とはっぴを脱いだ状態であった。鬼島笹百合と姫百合の祖母であるということもあり、やはりよく似ていた。

 また、鬼島笹百合と姫百合と同じように華奢だった。しかし運動能力では明らかな違いがある。孫娘たちよりも動きにキレがあった。玄関に向かう動きだけ見ても、センスのある身のこなしだった。

 鬼島山百合は朝の早い訪問客に思い当たるところがあったのだ。このお客さんは、町役場の職員さんたちである。なぜ朝の早い時間に訪ねてくるのかというと、海波根島の祭り、二日目のご神体めぐりに参加してくれるにぎやかしのためである。

 若しもまったく二日目の行事に参加してくれる人がいなければ、それは非常に悲しいことであるからといって、町の役場の職員が気を聞かせてくれたのだった。町の役場には当然だが海波根島出身の人間もいるので、祭りを行う大変さもよくわかってくれていたのである。

 鬼島山百合は朝の早い時間に訪ねてくるという話を聞いていたので、きっとそれだろうと思い一番に動いたのだった。



 玄関に鬼島山百合が向かうと、何やら話し声が玄関から聞こえ始めた。朝の非常に静かな時間帯であるから、耳を澄ませる必要もない。役場から来たという男女の二人組が名前を名乗り、鬼島山百合が今日はよろしくといって話し始めるのだ。

 会話は当たり障りのないもので、今日の天気予報では一日中晴れになるから、熱中症に気をつけなくてはいけませんねとか、体調が悪くなればすぐに休憩してくれたらいいですという話を、お互いにしていた。

 鬼島山百合が玄関で役場から来た二人組と話し始めると、鬼島笹百合が鬼島兵辰に聞いた。

「だれ? こんな朝早く」

 鬼島兵辰に質問をする鬼島笹百合は目を細めて錬太郎を見ていた。鬼島笹百合は朝ごはんに集中している錬太郎を観察することで錬太郎の心の中を読み取ろうとしていた。

 これは操ってやろうとか、そういうたぐいの行動ではない。朝っぱらから失敗していた自分のことをどういう風に見ているだろうか知りたいと思ったのだ。鬼島笹百合は見栄っ張りだとか自信家の類ではない。人の目は気になるけれども、振り回されるタイプではないのだ。

 しかし、身近な人間からの評価というのはやはり気になるところである。そしてもともと彼女の中では錬太郎というのは自分のことを高く評価してくれている人間という思いがあった。高く評価してくれているだろうと思う具体的な根拠は一切ない。

 ただ、先輩としての立場が高く評価されていると鬼島笹百合に思わせる原因ではある。錬太郎に対して自分が先輩として話を聞いて、助言を与えられること、そして錬太郎が自分のことを先輩として敬ってくれていること、これは錬太郎の態度を見ていればわかるのだけれども、これを総合すると結構高い評価を受けていると彼女は感じられる。

 そのため、錬太郎の評価ががっくりと下がってしまったかもしれない朝の一件を思うときになってしょうがないのだ。玄関で会話している何者かはそれほど興味はないけれども、黙って見つめるよりは会話をしてのほうがよいだろうということで鬼島兵辰に質問をしていた。

 鬼島笹百合の質問に鬼島兵辰が答えた。

「役所の人だろう。ご神体めぐりには参加してくれる人がほとんどいないから、賑やかしのためにね。気を使ってくれているんだ」

 鬼島笹百合に答えながら、鬼島兵辰はテレビのチャンネルをいじっていた。チャンネルをいじる鬼島兵辰は、天気予報を選び、真剣な表情でニュースを聞いていた。

 というのも、海波根島の二日目の行事、ご神体めぐりというのは実に暑苦しい行事である。そして過酷な行事でもある。そのため、参加する人たちが途中で倒れたりしないように考えて動かなくてはならない。

 特に、空に全く雲がかからない気持ちのいい天気になると、あっという間に体調を崩す者もいるくらいであるから、祭りの関係者はよく考えて動かなくてはならないのだった。天気の情報は大切で、気を抜くわけにはいかない。

 鬼島兵辰が役場の人たちだと答えると鬼島笹百合は少しさみしそうにうなずいた。目線は錬太郎から切れていた。

 鬼島笹百合は海波根島の島祭りの寿命が長くないのを感じ取っているのだ。もともと海波根島の中で行われていただけの小さな祭りである。徐々に若い人たちが島から出ていき、戻ってこない状況を考えるとあと十年は持たないだろう。

 今年でさえ鬼島笹百合を何とか呼びつけて祭りの助けにしようとしていたくらいなのだ。鬼島笹百合ひとり来たくらいで、間違いなく何かが変わるけがない。しかしそれでも必要な状態。

 人が足りないのはしょうがないこと。起きてしまうのはしょうがないことである。海波根島以外にも同じような状況があっただろう。それをわからない鬼島笹百合ではない。しかし、懐かしい思い出の中にある祭りが姿を消す予感は、それだけでさみしい気持ちにさせるのだった。

 二人のやり取りを見ていた錬太郎は少し黙った。箸はせわしなく動き続けている。視線だけ鬼島笹百合と鬼島兵辰に向けている。二人を見つめる錬太郎の視線は鋭かった。錬太郎は今のやり取りで、二人の間に微妙に違った考えがあるのに気が付いたのだ。

 特に、鬼島笹百合は非常にわかりやすかったので鬼島兵辰が別の感情を持っているのを見抜くのは簡単だった。鬼島笹百合は錬太郎から見てわかるほどさみしそうにしている。祭りについて何かマイナスのイメージを抱いているのは間違いないだろう。

 しかし鬼島兵辰の表情は違うのだ。祭り自体にマイナスのイメージを持っていない。そして、なんというか祭り自体をそれほど重視していない様に錬太郎は見えた。これがいまいち錬太郎にはわからなかった。鬼島笹百合のさみしそうな顔の理由は、いろいろと想像ができる。

 しかし、鬼島兵辰の祭り自体を重視していないような雰囲気はどうにもわからないのだ。祭り自体はどうでもよく、その先に何かがあるような眼をしていた。この目の理由が錬太郎には思い当たらず、困るのだった。鋭い目になってしまったのはこのなぞについてやや真剣に考え始めた結果である。




 朝ごはんが終わった。そうすると、朝ごはんの片づけを妙に気合を入れた鬼島笹百合が行った。鬼島兵辰が不安そうな顔で鬼島笹百合を見ていた。

 妙に気合を入れた鬼島笹百合は錬太郎にこう言うのだった。

「さぁ、錬太郎くん。ご神体めぐりの時間まであと少しだよ。

 さっさと着替えておいで、私がしっかりと案内してあげるからね!」

 錬太郎をせかしながら、鬼島笹百合は食器を運んでいた。鬼島笹百合は錬太郎の中の自分の評価が、やや低くなっているのに気がついて、評価の回復を狙って動いていた。これは実に難しい感覚だけれども、錬太郎が自分を見る目が変わっているのに気が付いたのである。

 昨日までの錬太郎が自分を見る目というのは、ものすごく偉大な先輩をみる目をしていた。大学をしっかりと選んでしっかりと合格して見せた先輩だという目をしていたのだ。少なくとも鬼島笹百合にはそう見えていた。

 そして、この先輩の言うことなら、真実だろうと信じ切ってくれる無垢な目をしていた。現実的に錬太郎がそのように思っていたかは問題としない。すくなくとも鬼島笹百合の目線ではそういう風に見えていた。

 しかし今の自分を見る錬太郎の目というのは、鬼島笹百合の友人、花飾晶子と初めて出会った時の目とよく似ていた。鬼島笹百合は初めて出会った時の花飾晶子の対応というのをよく覚えていたので、錬太郎がもしかしたらそのレベルまで評価を落としているのではないかと心配したのだ。

 どのあたりまで評価が落ちているのかは怪しいところだが、少なくとも今までの尊敬していますという目はしていない。この評価がどうにか戻るものなのかはさっぱりわからないが、それでも動かないと落ち着かないので、彼女は一生懸命動いていた。


 鬼島笹百合が頑張って動いている間に、錬太郎は客室に戻り、昨日受け取った木彫りのフクロウのお面と燕尾服のような長い裾の法被を身に着けた。錬太郎は身長が高く体格がいいので、木彫りのお面と奇妙な法被を身に着けると威圧感がとんでもない。どこからどう見ても不審者だった。

 これで錬太郎の暮らしている街を歩き回ったら、間違いなく警察に捕まるだろう。しかし今日は問題ない。なぜならこの格好木彫りのお面をつけて燕尾服のような奇妙な裾の法被が海波根島の正装だからである。ファッションは時と場合を考える必要がある。錬太郎はばっちり状況を読めていた。

 この海波根島でならば、錬太郎は不審者ではなく礼儀正しい人物に変わるのだ。そして、この格好になるということはつまり海波根島の祭り、二日目の行事ご神体めぐりに参加するということである。

 面倒くさいのならば断わってもいいと鬼島笹百合には言われたけれども、錬太郎は参加する気持ちでいっぱいになっていた。ここまで来たのだから一つ不思議な祭りの行事に参加して、家族友人たちに話してきかせようじゃないかと思うようになっているのである。

 錬太郎が怪しい格好に着替え終わるのにあわせて鬼島笹百合が客室に現れた。鬼島笹百合は「入るよ」

と一応一言錬太郎に声をかけてから客室に入ってきた。しかし、ほとんどためらいがなかった。入るよといった時にはすでに、襖はあいていた。そして客室に入ってきた鬼島笹百合は着替え終わった錬太郎こう言った。

「いやー、何度見ても、ものすっごい怪しいわ。写メとっていい? 昨日取り忘れたの」

 鬼島笹百合は錬太郎に写真を撮っていいかといいながら、すでに携帯電話を取り出して構えていた。錬太郎が断るなどとは全く思っていないようだった。

 にこにこ笑って携帯電話を構える姿は、無邪気だった。また、錬太郎が断ったとしても写真は撮っていただろう。というのも、錬太郎が奇妙な格好で祭りに参加することになるという話を花飾晶子に話して聞かせていたからである。

 これはつまり、錬太郎の姉が鬼島笹百合に対してお願いしていたことなのだ。自分の弟がどんな奇妙な格好で祭りに参加するのか知りたいと思っている姉に対して、友人であるところの鬼島笹百合ができることというのは、写真を撮って送ることだけである。

 ならば、友情に報いるためにも行わなくてはならないだろう。食器をかたずけているときに花飾晶子からのお願いを思い出した彼女はさて忘れないようにといって、動き出して錬太郎の泊まっている客室に突撃してきたのだった。

 携帯電話を向けられた錬太郎は両手を広げて見せた。そうするとどうだろうか、恰好が相まって非常に大きな鳥のように見える。あきらかに怪人物であった。

 携帯電話を向けられている錬太郎だったが少しも嫌な顔をしていなかった。朝ごはんの片づけをしていたはずなのに、どうしてこんなところにいるのだろうかと疑問には思った。しかし、手早く片付けたのならば、片付けられなくはないだろうと納得していた。

 そして携帯電話を向けられているという状況で、自分の格好を思い出して、一番いいのはどういう行動だろうかと錬太郎は考えたのだった。そうして、この奇妙な格好ならば、やはり鳥のようなポーズをとるのが一番見栄えがいいだろうと錬太郎は思い立った。

 木彫りのフクロウのお面と、燕尾服のような長い裾を持った法被を着ているのだ。これは間違いなくとりだろうということでやってみたのだった。そうすると、身長二メートル近い鳥のお面をかぶった怪人が現れるということになるわけで、非常に怪しかった。

 ポーズを決めている錬太郎を鬼島笹百合がいろいろな角度から写真を撮っていると、鬼島山百合が客室に現れてこう言った。

「お楽しみのところ悪いわね。そろそろ時間が来るわ。集合場所に向かいましょう」

 鬼島山百合は錬太郎を会場に促しながら鬼島笹百合の尻をたたいた。やや、鬼島山百合は怒っていた。というのが、鬼島笹百合が洗面台に残してきた洗い物の片づけを今まで代わりに行っていたからである。

 そうして、洗い終わって錬太郎の部屋まで来てみたら何か写真を撮って遊んでいるのだから、さすがの鬼島山百合も機嫌が悪くなる。尻を叩くくらいで済んでいるのは間違いなく孫だからだろう。これが鬼島兵辰だったら、間違いなく技の一つでもかけていただろう。

 そうして、鬼島山百合に時間が来たぞと促され、錬太郎はさっさと鬼島の玄関まで移動して、靴を履いた。錬太郎はまったく何も持っていなかった。祭りに参加するために必要な正式な格好はしている。しかしそれ以上には用意していない。たとえば、水筒だとか、塩分補給のための飴のようなものはないのだ。まったくそのままの格好で動き出していた。

 それはそのはずで、特に何を用意する必要もなかったからだ。錬太郎はまったくそれだけで十分だと思っている。辛くなったら、途中でやめてもいいと鬼島笹百合も鬼島山百合も言っているのだ。どうしてそこまでのものが必要になるのだろうか。それこそ昼ごはんの時間までかかりそうならば、それだけで錬太郎はやめるつもりである。全力で歩き回るわけでもないのだから、錬太郎にしてみれば丸腰でよかったのだ。

 玄関から外に出てきたとき、錬太郎は少しだけ戸惑った。というのも鬼島の家の前にはスーツを着た男女が立っていたからだ。二人ととてもつらそうだった。額の汗を拭いてみたり、大きくため息を吐いたりしている。

 男性は三十歳くらいの男性で、身長が百七十センチほどである。清潔な髪型だった。スーツを着ていてもわかる程度には鍛えている。

 女性は男性よりも若く二十代後半だった。身長が百六十センチほどで、長い髪の毛をひもでまとめて流している。どちらもいかにも公務員という雰囲気があった。

 ただ、二人ともおそろいの腕輪をつけていた。錬太郎の目からは鉄の腕輪に見えた。冷たい鉄の色をした腕輪である。男性は右腕に、女性は左腕に着けている。この二人が鬼島の家の前にいるのは、錬太郎と同じくご神体めぐりに参加するためである。そろそろ行事が始まる時間であるから、鬼島の家の前に集合しているのだった。

 錬太郎が戸惑っていると、錬太郎の背後から鬼島山百合が現れて、こういった。

「ご神体めぐりの助っ人さんたちだよ。そっちのお兄さんが田中さん。そっちのお姉さんが山田さん」

 錬太郎の背後から声をかける鬼島山百合は錬太郎の背中に手を触れようとして失敗していた。鬼島山百合は昨日と同じように木彫りのお面と、燕尾服のような長い裾の法被を着ている。

 鬼島山百合は錬太郎の背中を軽く押そうとしたのだけれどもうまくいかなかった。

 錬太郎が玄関のすぐ手前で動くのをやめていたので、外に出れなかったのだ。だから前に進めと背中を押そうとした。錬太郎の体は大きいので、玄関の入り口で止まられると出られなくなるのだ。それをどかそうとしたのだった。しかし、錬太郎が鬼島山百合に気がついていたので、その必要はなかった。

 謎の二人組の正体が町役場から派遣された田中さんと山田さんであるとわかったところで、錬太郎は鬼島の家の玄関から数歩歩いた。木彫りのお面と燕尾服のような裾を持つ法被を着て動き回る錬太郎はやはり怪しかった。

 夏の日差しの中にお面と燕尾服のような裾を持つ法被を着て錬太郎が現れると、錬太郎の部分だけがきれいに浮き上がって見えた。また、見ているだけで非常に暑苦しい格好だった。これが太陽の登り切らない時間帯であるため、まだ見ていられるけれども太陽が頭の真上に上った時には、見ているだけで人の気分を悪くさせるだろう。

 錬太郎が玄関から数歩歩いたのは、邪魔になっているのがわかったからである。錬太郎は自分の体が大きく、人の通行の邪魔になるのがよくわかっていた。そのため、鬼島山百合の移動の邪魔にならないように、もちろん鬼島兵辰も鬼島笹百合も、邪魔にならないように配慮したのだ。

 玄関から少し離れたところに立つ錬太郎は少しだけ間を開けて鬼島山百合に聞いた。

「あの、笹百合さんは?」

 鬼島笹百合の行方を尋ねる錬太郎であるが、その視線は奇妙なところを向いていた。錬太郎の体の方向自体は、鬼島山百合に向いているのだ。そのため、錬太郎は真正面から鬼島山百合を見ているような格好になっている。

 しかし錬太郎の視線は役場から派遣された田中と山田に向けられていた。錬太郎は二人のことを嫌っているわけではない。そもそも嫌う理由がない。しかし、何となく錬太郎は嫌な感じがしたのである。気になったといったほうがいいだろうか。田中と山田が自分を観察しているように感じられたのだ。

 しかそしれは、身長が高いからとか、恰好がおかしいからというと表面的な問題を観察しているのではなく、中身に対して分析を加えられているような気がしたのだった。そのため錬太郎は、どうにも気になって二人に視線をやってしまっていた。これがお面をかぶっていなければ、視線を向けたりはしないだろう。

 しかし今はちょうどいい具合にお面をつけているので、まったく遠慮せずに二人に目を向けていたのだった。ただ、鬼島笹百合が出てくるまでに少し時間がかかっているのは間違いなかったのだ。それは間違いないので、鬼島山百合に聞いたのだった。

 田中と山田に視線と意識を向けながら錬太郎が質問すると、あきれ気味に鬼島山百合は答えた。

「準備があるんですって。もう少し待ってあげて」

 鬼島山百合は錬太郎に答えながら、玄関から出てきた。錬太郎と同じように木彫りのお面をかぶり、燕尾服のような裾の長い法被を着ている。鬼島山百合の身に着けているお面は実に使い込まれていてぼろぼろである。しかし法被は新品そのものであった。

 鬼島笹百合がそろわなければ出発しないつもりの鬼島山百合であるから、暑い日差しの中にあえて出ていく必要はないのだ。玄関の影の中で涼んでいればいい。年齢を考えるとそのくらいのことはしておかなくてはならないだろう。しかし、鬼島山百合にはあまり関係がないのだ。そして、そこまで熱中症に対して心配する理由が鬼島山百合にない。そのため、さっさと出発できるように玄関から出て、軽く体を動かしていたのであった。

 鬼島山百合が夏の日差しの中に現れたところで、、錬太郎はうなずいた。自分の姉、晶子が鬼島笹百合の文句を言うときには準備が遅くて嫌になるといって怒っていたのを思い出したのだった。



 そして、錬太郎は腕を組んで鬼島の家を見つめるのだった。お面の下の表情はいつもと変わらない。怒ってはいない。それはそうで、怒るほどのことではないのだ。確かに準備の時間を待つのは面倒くさい。姉の話からするとものすごく準備に時間がかかるというのだから、面倒なこととも思う。

 しかし鬼島笹百合ばかりを責める気にならないのだ。特に、錬太郎は姉の情報が当てにならないと知っている。というのも錬太郎の姉はもたつくというのがほとんどない人であるから。また、きっちりと前もって準備をして置くタイプの人である。

 そのため女性がおそらく平均的に使うだろう準備の時間というのが、姉の晶子にはない。まったくないのだ。そのため錬太郎のようにほとんど何も準備しなくていい男子的な勢いで動き回ることができる。

 つまり化粧やいろいろなアイテムを用意する時間というのが非常に少ない人間なのだ。そういういろいろがわかっているため、錬太郎は特に怒るでもなく、夏の日差しの中でいつもと変わらない調子で待ち構えられるのだった。


 鬼島山百合と錬太郎の準備が完了して数分後、リュックサックを背負って麦わら帽子をかぶり、半袖のTシャツ。ジーパンとスニーカーという出で立ちで鬼島笹百合が現れた。手には虫よけスプレーを構えていた。

 そして、半袖をカバーするように、ひじあたりまでを覆い隠す白い手袋を両手に着けていた。鬼島笹百合はこれから歩き回る場所が非常に厄介な場所であると知っているのだ。夏の日差し自体も非常に厄介なのだけれども、海波根島の祭り二日目のご神体めぐりは、森の中を歩き回る行事である。

 暑いというのも厄介である。森の中を歩くので足腰がおかしなことになるというのも厄介だ。しかしそれよりも厄介なものがある。虫である。どれもこれも厄介であるから、彼女は一生懸命に考えてこれなら大丈夫だという格好をして現れたのだ。片手に持っている虫よけスプレーは自分にかけるため、そして錬太郎にかけるためである。

 玄関を越えて出てくるとすぐに錬太郎にむけて鬼島笹百合は虫よけスプレーを吹きかけた。そしてこういった。

「これでちょっとはましになると思うわ」

 虫が寄り付かなくなるといいながら錬太郎にまんべんなく鬼島笹百合はスプレーを振りかけた。鬼島笹百合は錬太郎よりも身長がかなり身長が低いので背伸びをして振り掛けていた。この時に錬太郎がやや嫌な顔をした。

 鬼島笹百合が降りかけてくれるスプレーというのが結構な臭いを放つものだったからだ。虫よけスプレーの独特なにおいである。あまりいい匂いではないけれども、虫よけの効果を約束してくれているような気がする臭いだった。

 錬太郎に虫よけスプレーをふりかけた後、鬼島笹百合はスプレーを玄関に置いてこういった。

「ごめんおばあちゃん、ちょっと遅れちゃった」

 鬼島山百合に謝る鬼島笹百合は、すでに汗をかき始めていた。そして、ポケットから取り出した、ハンカチで額の汗を拭いていた。朝の早い時間帯であるのだけれども夏の日差しはじりじりと体温を上げている。太陽からの日差しは空からだけではなく地面と、海波根島の豊富な植物たちの緑に反射して四方八方から襲いかかっているのだ。嫌でも体温は上がる。

 鬼島笹百合がやることをやり終えたのを確認して、鬼島山百合が歩き出した。鬼島山百合の歩く姿には、全く辛さがない。夏の暑さにも年齢による体力低下も問題なさそうに見えた。いまだ、鬼島兵辰が姿を現していないけれども、これでよかった。鬼島兵辰は少し遅れて出発することになっているのだ。

 ここにいる田中と山田の二人組、そして鬼島笹百合と錬太郎の二人組がそろったのならば出発である。そもそも鬼島兵辰に案内はいらないのだ。

 自分の後ろからついてくる者たちに、鬼島山百合はこういった。

「それじゃあ、集合場所に向かいましょうね。みんな熱中症には気をつけなさい」



 十分ほど歩いて錬太郎たちは集合場所に到着した。集合場所は、海波根島の森の前の広場だった。広場にはぼろぼろになった看板が立っている。

 看板には守護の森と書かれているのだけれども、ほとんどかすれてしまって読めなくなっていた。この守護の森の前の広場に、錬太郎たちは歩いてきたのだ。わずか十分ほどしか歩いていないのだけれどもほとんどひどいことになっている者がいる。

 田中と山田。そして鬼島笹百合である。汗があふれ始めていて、田中と山田はスーツの上着を脱いで手に持っていた。鬼島笹百合は、リュックサックから取り出しタオルで自分の顔を拭いていた。この三人とは全く反対に、鬼島山百合と、錬太郎は特に汗をかいていない。

 夏の暑い日差しの中で錬太郎たちのような奇妙な格好をしてれば、間違いなく汗まみれになる。しかし不思議なことで、錬太郎たちはまったく暑さを感じていなかったのだ。むしろ涼しかった。これは錬太郎たちが来ている法被の効果である。

 はっぴの独特の形状が涼しい風を読んでいるのか、それとも法被自体の色合いに関係があるのかはさっぱりわからない。しかし間違いなくこの涼しさは法被がもたらしたものであった。これからご神体めぐりに参加するという話なのだけれども、この時点でほとんどどういう結末になるのかが見えていた。 

 ご神体めぐりに参加する人たちが集まっている守護の森の前の広場には、ぽつぽつと人の姿があった。多く見積もっても二十人に届くか届かないかといったところである。海波根島の規模から考えるとよく集まったというところではないだろうか。錬太郎と同じような正装をしている者もいれば、鬼島笹百合ややまだと田中のように普段着で参加している者もいる。

 しかしおそらく考えていることは皆同じなのだろう、暑苦しい格好をする人というのはほとんどいなかった。このほとんどいない珍しい格好の参加予定者の中に葉波根みなとの姿もあった。

 ご神体めぐりに参加するために集まっている葉波根みなとは錬太郎たちを見つけると駆け寄ってきた。駆け寄ってくる葉波根みなとは木彫りのお面をかぶり、燕尾服のような裾の法被を着た格好である。森の中を歩き回るため、長ズボンとスニーカーを履いて、その下にTシャツを着ているのだけれども、かなりおかしな格好だった。

 しかし、錬太郎のように見るものをおびえさせる怪人物といった風ではない。どちらかというとかわいらしい風で、ハロウィン風の衣装にも見える。少なくとも普通に街に出て歩いたとしても職務質問を受けたりはしないはずである。

 この葉波根みなとであるけれども、ご神体めぐりに参加したはいいがとてもさみしい気持ちでいた。というのも、参加したのはいいけれども周りにいる人たちが全く交流のない人たちばかりであったからだ。もちろん顔は知っているのだけれど気楽に会話ができるような人たちではない。そのため、暑苦しい中で精神的にも不安でたまらなかった。

 背の高い錬太郎の怪人物としか言いようのない格好を見て、思わず駆け寄ってきたのはきっと鬼島笹百合もいるだろうと思ったからである。そして、仮に鬼島笹百合がいなくとも、錬太郎がいるのならば特に不安に思うこともないと考えたのだ。

 それこそ、道案内を買って出て一緒に回るくらいのことはしてもいいと思っていた。そうして、葉波根みなとは集合場所に到着した錬太郎たちのところへと駆け寄ってきたのだった。



 葉波根みなとと鬼島笹百合が朝の挨拶をしている間、錬太郎は参加者たちを眺めていた。特に、理由があってのことではないのだ。ぼんやりと眺めていた。それというのも、錬太郎はこのような苦行にしか思えない行事に参加する人などはいないと思っていたのである。

 冷静に考えると何が楽しいのかさっぱりわからない行事だ。夏の日差しを耐えながら、暑苦しい木彫りのお面をかぶり、奇妙な法被を着て森の中を歩き回る。何か手に入るのならばやってもいいが、特に報酬もない。

 ならば、やる気になる人というのはいないだろう。若い年代の人間が島の外へと流出しているという話なのだから、おじいさんおばあさんと呼ばれるような人たちが、もしくは少し下の年代のオジサンおばさん世代が無茶をするということになるのだ。これにあえて参加するというのなら、よほどの物好きである。

 手伝いのために来た錬太郎はまだしも、自分から進んで参加する人というのはなかなか不思議だったのだ。しかしものすごく興味がある問題ではなかった。参加するのなら、すればいいというだけで、本当にそれだけのことだった。

 ご神体めぐりの参加者たちを眺めているときに、錬太郎は部外者が混じっているのに気が付いた。島の外から来ただろう人間が二人混じっていた。一人はメガネをかけた男性。三十歳くらいで、動きやすい格好をしている。帽子をかぶって、山の中をゆくのも大丈夫という感じでリュックサックを背負っていた。

 この男性の隣に、小さな少女がいた。この少女も森の中を歩いても大丈夫な格好をしていた。また帽子をかぶっていて日差しも問題なく防げるだろう。しかし年齢が小学校低学年というところに見えるので、あまり参加にふさわしく見えなかった。この二人が部外者であると気が付けたのは、簡単な理由があった。というのがこの二人、明らかに浮いていた。

 服装自体は普通の格好である。これはほかの参加者も同じだった。つまり鬼島笹百合や、山田と田中のような好きな格好で参加しているということである。特におかしなことではない。

 問題はこの二人を見る周りの視線である。海波根島の住人達の視線というのが昨日の錬太郎を見る目とほとんど同じだったのだ。だから気が付けた。しかしこの部外者二人組は、全く気にしていないようだった。





 ご神体めぐりの参加者たちの集合場所に到着した鬼島山百合は集合場所を見渡してこういった。

「参加者は十九人ね。よく集まってくれたわ。みなさんありがとう。さみしがりやな神様も喜んでいるはずよ。

 ご神体めぐりをやり遂げたのはこの六十年の間で私一人だけだった。このままだと私が最後の巫女になると残念に思っていたけれど、今年は違うと信じているわ。

 でも、無理はしないでほしいの。この暑さのなか、暑苦しい格好をして歩き回るのだから、体調に気をつけなくてはならないわ。みんなもわかっていると思うけどね。

そのあたりしっかりと肝に銘じて頑張って。

神様も自分の子供たちがこんなことで傷つくのは望むところではないでしょうから」

 鬼島山百合が話をしている間に祭りの準備を手伝っている島人たちが参加者たちに紙で作られた鳥のお面を渡していった。

このお面は粗末なもので、おもちゃのようなものだった。ゴムひもで止めるタイプである。錬太郎のかぶっているような飾りひもで止めるものではない。このお面は一応の体裁を取り繕うためのものである。

一応伝統では、錬太郎の格好をしていなければならない。しかし実際に動ける人間はほとんどいないので、だれでも参加できるように代わりのものを用意しているのだった。

この行事自体は参加することに意味があるのであって、行事をやり遂げるところにそれほど意味はないのだ。だからこのような柔軟な方法で対応できていた。

大切なのは、この行事で体調を崩さないことで、鬼島笹百合も言っていたように神様を悲しませないところに重点が置かれているのだった。そうなると正式な服装などいらないように思うが、それはそれ、これはこれである。

伝統は伝統として守り、体調は体調で守る。そういう考えのもとの紙のお面だった。


 参加者に紙のお面がいきわたると、鬼島山百合がこう言った。

「では、ご神体めぐりのルールを説明します。全部で三つ、これを守ってくださいね。

 では説明を始めます。

 一つ目、参加者たちは波根の道を通り終点のご神体に触れて帰ってくること。

 二つ目、装束を脱がないこと。お面だけの人はお面を脱がないようにしてね。

 三つ目、体調が崩れたときはすぐにご神体めぐりを中止すること。以上三つ。何か質問は?」

 ご神体めぐりのルールを説明している鬼島山百合はやや脱力していた。まったく気合が入っていなかった。仕方がないことなのかもしれないが、鬼島山百合たちにとってご神体めぐりのルールなど、何十回も聞いている。

 飽き飽きしているのだ。もちろん、鬼島山百合など自分が何十回も説明しているのだから、そろそろどころか完全に飽きてしまっている。

 そのため、こんな話などせず、さっさとはじめてしまおうじゃないかという気持ちが湧いているのだ。しかし、一応のルールであるから、説明しないわけにはいかない。一応はやっておかなくてはならないことである。

 そうしなければ、無理をする人がいるかもしれない。そうして、体調を崩してひどいことになる可能性もある。それは困るのだ。そういう事故はまったく望まないことであるから、しっかりと説明をしておいて、気を付けてもらうのだ。

 鬼島山百合が説明し終わると錬太郎が手を挙げた。そうすると、鬼島山百合が錬太郎を指差した。鬼島山百合に指を刺された錬太郎はこういった。

「道に迷うことはありますか? この島の地理に疎いのですが」

 道に迷うかもしれないから不安であるというような意味で錬太郎は質問をしているのだけれども、少しもおびえているようなところがなかった。

 まっすぐに手を挙げて、質問をした時からそうだったがむしろ楽しんでいるような調子がある。それに一応錬太郎には鬼島笹百合が付くので、道に迷う心配というのは非常に少ないだろう。

 しかしもしかしたら思いもよらない事態が起きる可能性もある。錬太郎が心配しているのは自分の心配ではなく鬼島笹百合の心配なのだ。鬼島笹百合は山の中を知り尽くしているわけではないのだから、迷ってしまうかもしれない。そうなったとしたら、錬太郎は鬼島笹百合を連れて、無事に戻る役目を担うことになるだろう。

 錬太郎はそれを心配しているのだ。錬太郎自身は、イノシシでもクマでも現れればいいくらいの気持ちで動いているけれども、鬼島笹百合がいるのなら無事に戻るのだという気持ちが強く働くのだった。

 錬太郎の質問に、鬼島山百合はこのようにこたえた。

「道に迷う可能性が全くないとは言い切れないわ。

 ただ、常識的に道を歩いていけば確実に目的地にたどり着けると思うの。わざと道を外れれば話は別だけどね」

 錬太郎に答える鬼島山百合は少し笑っていた。錬太郎の質問をする様子が、小さな子供と変わらないように見えたからである。どう見ても年相応の少年にしか見えなかった。

 このような一面があるというのに、全く別の一面をのぞかせることもあるというのはなかなか面白かった。鬼島姫百合に電話をしてからかった話を、本当にしてもいいのではないだろうかと思い始めるくらいには、面白いと鬼島山百合は思っていた。

 鬼島山百合が道に迷うことはないと答えると、今度は鬼島笹百合が手を挙げた。鬼島笹百合は配られた紙のお面を片手に持って、団扇代わりにしていた。

 全く顔に着けるとかいう仕草はしていない。鬼島笹百合は非常にいらいらとしている。夏の暑い日差しがそうさせたのだ。

 鬼島山百合が指差すよりも早く、というよりも手を上げると同時に鬼島笹百合は質問をした。

「ギブアップは自由? 時間経過なし?」

 完全に投げやりな質問だった。始まった瞬間辞めてやるぞという気合がこもっていた。頭の上でぎらついている太陽が悪いのだ。麦わら帽子をかぶっても、涼しい格好をしてみても暑いものは暑い。こんなところにいられるかというのが彼女のすべてである。

 さっさと鬼島の家に戻り、クーラーをつけて、だらけてしまいたい。それだけが彼女の中にあった。きっと錬太郎も自分の意見に賛同してくれるに違いないという根拠のない確信を得るほどの暑さであった。

 鬼島笹百合の質問にまったく間をおかずに鬼島山百合は答えた。

「もちろんいつでもどうぞ。

 まぁ、個人の体力と相談してうまくやってね。無理をして倒れるのが一番だめだから。

 一応役員たちを警備にあたらせているから、万が一倒れるようなことになっても大丈夫、心配しなくていいわ」

 鬼島笹百合に答える鬼島山百合であるが、じっと錬太郎のほうを見ていた。すらすらと自分の孫娘に対して、いつでもギブアップしてもいいと優しい言葉をくれている。

 しかしそれだけだ。鬼島山百合の目はギブアップさせる気などない。鬼島笹百合をではない。鬼島笹百合が案内することになっている花飾錬太郎を、ギブアップさせる気がないのだ。

 錬太郎がどこまで来れるのかに、鬼島山百合は興味を持っている。これはつまりご神体めぐりを完了させられる器があるかどうかという試練であるから、鬼島山百合は錬太郎にその器を確かめたくなっているのであった。

 鬼島山百合がすらすらといつでもギブアップしてもいいと話をすると、今度はよそ者の少女が手を挙げた。元気いっぱいに手を上げるその姿は、実に年相応だった。非常にかわいらしい。この少女が手を挙げると太陽の光を受けて鉄の指輪がぎらついた。

「あの! ご神体めぐりを完了させたら巫女になれるって、本当ですか!?」

 鬼島山百合に質問をする少女は鬼島山百合をじっと見つめて質問をしていた。質問にしっかりと答えてくれるように願っているのだ。目を見て、しっかりと質問をすることで、相手の気持ちを知ろうとしているのだった。

 少女は目を合わせて会話をすることができれば、相手の気持ちがわかると信じているのだ。非常にかわいらしい考え方であった。

 少女の質問に少し場がざわついた。巫女になりたいなどとよそ者がいうからである。海波根島の巫女というのは非常に名誉ある職である。そして尊敬を集める職でもある。それを島の外から来たよそ者が狙うというのはまったく海波根島の住民たちには認められないことだった。

 たとえ、六十年にわたりまったく手も足も出ていないという状況であったとしても、よそ者に取られるのは嫌なのだ。巫女は自分たちの身内から出したい。巫女という称号は自分たちだけのものだと考えているのだ。



 ざわついていた集合場所が落ち着くのを待って、鬼島山百合が答えた。

「もちろん。この島の外から来たあなたでも、もちろんあなたのお隣の男性もミコになれますよ」

 鬼島山百合は集合場所全体に向けて話をしていた。よそ者の少女にだけに話をしているのではないのだ。

 鬼島山百合は能力さえあれば、全く問題ないと思っている。ご神体にたどり着き触れることができれば、ミコを名乗ればいいと思っているのだ。鬼島山百合はそれだけのことだと思っている。海波根島の住人のような自分たちでなければならないという気持ちはないのだ。

 むしろ鬼島山百合は六十年ぶりに、ミコになれるものがいるというのならぜひ出てきてほしいと願っていた。それが外からか、内側なのかはどうでもいい問題だった。だから全員に聞こえるように、海波根島の住人達にも向けて伝えたのだ。能力がすべてだと。それがミコなのだからと。

 鬼島山百合の答えを聞いて、少女が隣にいる男性にこう言った。

「ですって! がんばりましょうね、車川しゃかわ先生!」

 少女の隣にいる男性は、額に手を当てていた。完全に困り果てていた。おそらく錬太郎が男性の立場であったら、同じような行動をとっていただろう。何せ周りにいる海波根島の住人達から向けられる視線というのが、非常に厳しいものに変わったのだ。害を与えるような目でではない。ライバルを見るような眼で少女と男性を見るのだ。しかも二十人近い人数がじっとりと見つめる。気分がいいわけがなかった。

 少女が車川という男にがんばろうといっている間に、役員たちが何かを配り始めた。それは、長い木の棒だった。一メートル八十センチほどある。八角形の杖で握りやすくなっていた。役員たちがこの木の杖を参加者たちに渡しているのは、これから山道を歩くからである。

 単純な、優しさである。これから、ご神体めぐりをするのだから、これくらいあったほうがいいだろうということで、杖を貸しているのだ。そのため、先ほど海波根島の島人たちにややライバル視された二人組にも当たり前のように配られていた。

 ミコになるとかならないというのは、確かに大切であるが、体調が崩れるほうがずっと問題だというのが、役員たちの考えなのだ。

 参加者十九名に八角形の杖が行き届くと鬼島山百合がこう言った。

「準備ができたみたいだからそろそろ、波根の道に入ってもらうわ。何度も言っているけれど、非常に体の調子を崩しやすい格好をするわけだから、気分が悪くなったらすぐにギブアップするようにね。

 では、新しいミコが誕生することを祈って、ご神体めぐりはじめ」

 鬼島山百合は号令をかけると集会場から姿を消した。まったく、参加者たちの動向には興味がないらしく、やることをやったらさっさとどこかに消えていた。仕事は済んだのだから、別の仕事をするのだと非常にわかりやすく割り切っていた。

 鬼島笹百合にしてみれば、これは何十回も繰り返している行事である。いちいち感動することもなければ、期待することもほとんどない。今回は錬太郎が参加しているので、やや期待しているけれどもそれもどうなるかはわからない。

 少しさみしくも思う。しかし何にしても鬼島山百合の仕事はまだ残っている。祭りの時期になるといろいろと仕事が山積みになるのだ。鬼島笹百合を無理にでも歩かせる仕込みは終わっているのでこれ以上することもない。ならば、残っている仕事に向かうべきであろう。



 鬼島山百合が姿を消すとほとんど同時に、祭りの準備を行っていた役員がこういった。

「では、各々のタイミングで始めてください。

 波根の道はこちらから入れます! すでに何度も話に出ていますが、熱中症の危険が非常に高いので無理をしないようにお願いします!」

 注意を繰り返してから、祭りの準備をおこなっていた役員たちも姿を消した。それぞれの仕事に向かったのだ。この仕事というのはそれこそいろいろとある。

 たとえば普通の仕事。祭りとは関係のない仕事のことだ。朝の早い時間であるから、仕事の前の空いた時間で手伝ってくれていた人たちはここからは普段通りの仕事をする。

 また、祭りの手伝いをする人たちというのもいる。この人たちは三日目の祭りの祭りといっても神輿を担ぐくらいのものだけれどもその準備をする人たち。

 そして、これから始まるご神体めぐりで参加者が調子を崩さないように見張るための監視員をやる人たちである。彼らもこれから、長い時間頑張らなくてはならないので装備は大変気を使って選んでいた。

 何とも気の抜けた始まりであったが、こうして祭り二日目、ご神体めぐりが始まった。ご神体めぐりの参加者たちはそれぞれ夏の暑さに対抗できるように装備を整えていた。この人たちは早足で、波根の道に入っていった。

 この道はほとんど獣の道に近いような参道である。人が二人並ぶとぶつかるような細い道で、まともな舗装はほとんどされていない。足元に気を付けていないと転ぶ道である。この波根の道を参加者たちは歩いていくのだ。やはりというか、錬太郎と同じような格好をしている人は全くいない。錬太郎のすぐ近くにいた葉波根みなと、そして鬼島山百合くらいのものであった。

 参加者たちの中でも、一番初めに動き出したのは役所から来たという田中さんと山田さんだった。二人はあっという間に紙でできたお面をつけて、杖を片手に波根の道に突っ込んでいった。どうやらご神体めぐりの内容を知っていたらしく、バックパックの用意があった。スーツで突っ込んでいく姿というのはやや狂気じみたものがある。

 しかしそれでも二人は一生懸命に祭りを盛り上げようと頑張っているのだった。二人の腕に着けられている鉄の腕輪が太陽の光を反射して、反射した光が錬太郎の目に飛び込んできていた。不愉快極まりなかったが、頑張っているのだからしょうがないことである。そもそも自然現象である。二人を責めるのはおかしい。

 暑苦しいスーツの二人組に続いたのが、島の外から来た少女と車川と呼ばれた男性である。この二人もご神体めぐりの話を知っていたようで、バックパックを用意してきていた。少女が一層懸命に長いつえを持って歩こうとしているのはほほえましかった。しかしなかなか力が強いらしく、杖を当たり前のように使いこなしていた。また、車川と呼ばれた男性も細身なのだけれども力があるらしく杖を使いこなしていた。

 三番目が葉波根みなとだった。当然のように葉波根みなとは波根の道を歩く準備をしていた。ウエストポーチをしっかりと身に着けて、波根の道に突入していた。彼女は神社の娘である。神社の娘であるから、巫女を名乗りたいという気持ちがある。この巫女というのは神社の巫女ではなく、海波根島の神様の巫女を名乗りたいという気持ちがあるのだ。

 六十年間海波根島の神社から巫女が出ていないこと自体が、不名誉であると彼女は考えている。そして誇りを損なっている原因であるとも。

 彼女は自分の力で、巫女の称号を葉波根に取り戻そうとしていた。だから彼女は一生懸命なのだ。一生懸命、夏の暑い日差しを我慢して駆け抜けるのだった。

 


 猛烈な勢いで突っ込んでいった者たちのあとは皆バラバラ、大体同じような勢いで次々に参加者たちが波根の道と呼ばれる山道に入っていった。しかしほとんど急いでいるものはなかった。急ぐものではないと知っているからである。

 波根の道は長い。大切なのは一瞬の素早さではなく持久力なのだ。それも太陽の日差しをしのげるだけの体力と、参道を歩ける力が必要なのだ。急いで頑張っても、何も得るところはない。ゆっくりと丁寧に歩くことがご神体めぐりの攻略法である。

 何十年と繰り返された行事である。彼らは攻略法を先人たちから教えられているのだ。それにのっとり彼らもまた挑むのだった。

 最後に波根の道に入ったのが錬太郎と鬼島笹百合である。錬太郎自体がすでに祭りの準備が完了した状態であったのだが、鬼島笹百合が非常に面倒くさそうに用意をしていたので、ゆっくりと移動することになったのだった。

 出発するときに鬼島笹百合が背負ってきたリュックサックを錬太郎が運ぶことになった。錬太郎が申し出たのだ。そうすると鬼島笹百合は機嫌をよくして錬太郎にリュックサックを任せた。錬太郎はまったく気にならない重さであるが、鬼島笹百合には重たかったのだ。

 出発するときに鬼島笹百合は錬太郎に冗談を言った。こんな冗談だった。

「もしも私が歩けなくなったら、あの時みたいに担いでいいよ。

 定期便の時みたいにね。でも優しくしてね?」

 錬太郎は小さくうなずいた。苦笑いを浮かべているのはお面で隠れて見えていないけれど、鬼島笹百合には錬太郎の困った笑顔が見えた気がしていた。





 こっから、試練の道。



 一番最後に波根の道に入っていった錬太郎と鬼島笹百合であったが、すでに困ったことになっていた。というのが、鬼島笹百合が一メートル八十センチの杖を持っていられなくなったのである。これは、鬼島笹百合が手を抜いているということではなく、杖自体が見た目よりもかなり重たいうえに、彼女が夏の暑さで追い詰められた結果であった。

 もともと、運動不足気味なところもあるのだけれども、あっという間にスタミナが尽きていた。

 波根の道に入る前からすでにギブアップ寸前の鬼島笹百合から錬太郎は杖を受け取り、こういったのだった。

「笹百合さん、やばそうならすぐに言ってくださいね」

 鬼島笹百合の杖と自分の杖を片手に一本ずつ持ちながら、錬太郎は鬼島笹百合に声をかけていた。錬太郎は随分心配していた。鬼島笹百合の体力のなさは、夏の日差しの中ではあまりいい方向に転ばないのがわかっているのだ。

 錬太郎自身、波根の道の奥に何があるのかという興味はある。しかしそれは、何としても見なければならないものであるというような意気込みではない。わからなければわからないで問題なく、拝見できるというのならそれはそれで良しといった程度のものだった。

 当然だが、鬼島笹百合の体調よりも優先されるものではなかった。

 錬太郎の提案を受けた鬼島笹百合はすぐにうなずいてこういった。

「やばいわ、汗が止まらない。よく耐えられるわね、錬太郎くん」

 錬太郎に話しかけながら、鬼島笹百合はタオルで汗を拭き、紙でできたお面を団扇代わりにして仰いでいた。すでにかなりの運動をした後のような具合である。間違いなく、鬼島笹百合はご神体めぐりをやり遂げられないだろう。しかし彼女ばかりが悪いのではない。暑いのが悪い。

 夏の暑さによく耐えられるなという鬼島笹百合に錬太郎が笑いながらこう言った。

「なんだか調子がいいんですよね。不思議なことに。まぁ、もう少し歩いたら俺もギブアップしますよ。さすがに開始十分でやめるのはまずいでしょうから」

 錬太郎がこのようなことを言うと、鬼島笹百合が笑った。そして少し気分を持ち直した鬼島笹百合はこういうのだった。

「ごめんね、なんか気を使わせちゃって」

 錬太郎に謝る鬼島笹百合は申し訳なさそうにして錬太郎を見上げていた。夏の暑い日差しの中を歩き回るという過酷な条件である以上に、鬼島笹百合という体力のない案内係を背負って動かなくてはならない錬太郎がかわいそうに思えたのだ。

 これで錬太郎が一人で波根の道を歩いていくというのならば、それほど鬼島笹百合の罪悪感は刺激されないのだけれども、錬太郎がそういうタイプではないというのに彼女は気が付いているので、余計に申し訳ないようなことをしているような気持ちになる。

 このようなやり取りをしたあとで、二人は波根の道に入っていった。錬太郎が長いつえを片手に一本ずつ持ち、リュックサックを肩に通してかけて、ゆっくりと鬼島笹百合が付いてこれるように歩いた。鬼島笹百合は錬太郎の少し後ろをついて歩いていた。完全に案内役と客人の立場が逆転していた。しかしそれでよかった。ご神体めぐりを急ぐ理由などない。

 また、絶対にやり遂げなくてはならないものであるとも思っていないのだからこれでいいのだ。二人の歩みは実にゆっくりとしてそれこそ散歩のようだった。



 さてそうして二人が波根の道を歩いていると、錬太郎が波根の道の奥のほうを指差した。というのが、誰かがうずくまっているのが見えたのである。

 錬太郎と同じ法被を着た人物であるのが遠目からでもわかる。また、錬太郎とはデザインの違う鳥のお面をかぶっていた。木の影に座り込んで、休んでいた。錬太郎がこの休んでいる人に気が付いたのは、何かがそこにいるような気がしたからである。

 はっぴの色合いと休んでいる人の身長の低さを考えると、見つけるのは非常に難しいだろう。しかし、錬太郎にはそこに誰かがいるような感じがしたのだ。これは意識することなく微妙に感じる視界からの違和感が、錬太郎に誰かがいると伝えてくれていたのだ。

 特に、熱中症で倒れるかもしれない状況だという話を延々と聞かされていたことで、錬太郎はもしかしたら疲れ果てて倒れている人がいるかもしれないという考えを持てていた。そして自分たちが一番後ろから歩いているということもあって、もしもを強く思うことができていたのが発見の手助けになっていた。

 近づいて錬太郎が声をかけてみると、休んでいた参加者が反応を返した。錬太郎が

「大丈夫ですか?」

といって、話しかけると錬太郎のほうを見て、うなずいたのだった。

 そうして、お面を外して、錬太郎にお礼を言った。この休んでいた参加者は女性だった。鬼島笹百合よりも若いように見える。しかし錬太郎よりは年上のような雰囲気があった。また、非常に華奢だった。

 髪の毛を肩のあたりで切りそろえているのだけれども、美容院で切った感じの髪型ではない。面倒くさいので、決まったラインで鋏を入れているといった調子のおかっぱである。そして服装がややおかしかった。祭り用の法被を着ているのだけれども、少しデザインというか材質が違っていた。錬太郎たちが来ているよりもずっといいもので出来上がっている。そのため、はっぴというよりは冬用の紺色のコートのような印象をうける。

 錬太郎が目を凝らして女性の着ているコートを見てみると、ゆらゆらと輝くものが見えた。しかしはっきりと何かがあるとは判断がつかなかった。おそらく刺繍がされているのだろうけれども、不思議とはっきり視界に入らなかった。

 不思議な格好をしている女性は錬太郎にこんなことを言った。

「大丈夫ね、問題ないみたい……あっ、でも歩くのは難しいかもしれないわ。

 足をひねってしまったの」

 足をひねってしまったという女性は立ち上がろうとしていたがまったくうまく立ち上がれていなかった。そばの木にしがみついて立ち上がろうとするのだけれども、足元がおぼつかない。

 ふらついている女性を見て、鬼島笹百合が首をかしげていた。

「えっと……誰だろ……どこかで見た覚えはあるんだけど……」

 鬼島笹百合がつぶやく声に反応して、ふらついている女性が頭をかいた。薄い笑みを浮かべているのは面白いからというよりも、なんとなく恥ずかしい気持ちがあるからだ。これは、自分は相手のことをよく知っているのだけれども相手が自分のことを思い出せない状況というのを体験すればわかる気持ちである。なかなかいいようのない気分にさせてくれる。この女性の気持ちはそれだった。

 そうして何とも言えない空気が広がる前に錬太郎がこう言った。

「それじゃあ、戻りましょうか。おぶっていきますから、乗ってください」

 ふらついている女性に背中におぶされと言うと錬太郎はしゃがみこんで両手に持っていた二本の杖を木に立てかけた。そして、肩にかけていたリュックサックを鬼島笹百合に渡した。

 錬太郎は、これから波根の道を戻り足をひねってしまってふらついている女性を助けることに決めたのだ。もともと、錬太郎にはご神体めぐりをしなければならない理由はまったくない。

 そのため、目の前で動けなくなってしまっている人を優先するのはまったく問題ない行動だった。夏の暑い日差しの中で、足をひねって動けなくなっている華奢な女性をどうして放っておいて、ご神体めぐりという特に意味のない行事を続けなくてはならないのか。そのため錬太郎はさっさとご神体めぐりをやめるという決定を下して、助けに入るために動き出したのだった。

 錬太郎がしゃがみこむと足をひねった女性は錬太郎の背中に乗った。錬太郎の背中におぶさる時に、少し勢いを出して首にしがみついていた。もう少し落ち着いておぶさったほうがいいのだろうが、錬太郎の背中が大きかったので、少し勢いをつけなくては、しがみつけなかったのである。

 背中におぶさった女性はこんなことを言った。

「ごめんなさい。邪魔をしちゃったみたいで。そっちの御嬢さんは彼女でしょ? きいてるわ、どこが気に入ったの?」

 おぶさってきた女性は、錬太郎に質問をしながら鬼島笹百合に視線をやっていた。口元がにやりとつり上がっていた。この女性は、鬼島笹百合が彼氏を連れて戻ってくるという話を知っていたのだ。

 そのため、鬼島笹百合に近づいた時には、聞いてやろうという気持ちになっていた。そんなとこで錬太郎たちと出会ったのだから、聞かないわけにはいかなかった。そして、おそらく錬太郎だろうと予想を立てられたのは、ここが海波根島だからである。

 ほとんど顔見知りばかりなのだから、錬太郎のような目立つ人間を知らないわけがない。ならばと思い、錬太郎が鬼島笹百合の彼氏に違いないとこのような話をしたのだった。単純にからかっているというところもあるけれども、興味があってのことだった。

 彼氏なのだろうと問われて、錬太郎はこのように答えた。

「違いますよ、ただのお手伝いです」

 足をひねった女性の質問に答えながら、錬太郎は立ち上がった。その時に鬼島笹百合のほうをちらりと見た。錬太郎は思い出していたのだ。

 これは鬼島姫百合が錬太郎に対して、しつこく注意していた話についてである。ほとんどどうでもいいことだろうと考えもしていなかったが、ここに来てやっと理解できていた。しかし悪い気はしていなかった。特に女っ気のない錬太郎であるから、嘘でもそういう対象になるといわれるのはいい気分だった。

 錬太郎が立ち上がった時に、背負った女性が驚いて声を上げていた。錬太郎が立ち上がって、そこから見る世界が思ったよりも見慣れない世界だったからだ。錬太郎の身長は百九十センチであるから、おんぶされていると、大体その視線を感じることができる。

 女性の身長からして四十センチ近く開きがあるのだろうから、錬太郎の高さの視線はなかなかの新感覚だった。

 よしこれで、困っている女性を助けられるぞと錬太郎が来た道を戻ろうとした。その時に、鬼島笹百合がこう言った。

「ここまで来たら、前に進んだほうがいいと思うよ。もう少し進んだら祭りの会場にぶつかるから」

 錬太郎に話しかける鬼島笹百合の目線は泳ぎに泳いでいた。きょろきょろとしていて、心配になるほどである。鬼島笹百合は今の今まで、自分が錬太郎に秘密にしていた話を忘れていたのだ。

 そもそも、鬼島山百合だけについた見栄だったのだけれども、初見で見破られてそれ以来ほとんど気にしていなかった。

 本当ならば錬太郎には一番に説明しておかねばならないことである。しかし、それを今の今までさっぱり忘れていた。錬太郎が全くこの件に関して触れてこなかったからだ。完全に忘れていた。 

 そして、今になって思い出して冷静に考えてしまう。勝手に彼氏扱いされているというのなら、おそらく錬太郎はあまりいい気はしないに違いないと彼女は思う。

 不意打ち気味に島に連れてきて、彼氏の役をさせていたと知ったら、それこそいやな気分しかないだろう。それも手伝いと偽っていたのだから、たまったものではない。

 きっと錬太郎は怒っていると鬼島笹百合は思っている。そしてその怒りをどうにかおさめる方法を必死で考えていた。この時鬼島笹百合の脳裏には錬太郎の姉の晶子の姿が浮かんでいた。怒りの沸点が高い花飾晶子であるが一度火が付くと非常に激しく怒り、また恐ろしい形相を見せるのだ。

 鬼島笹百合は錬太郎もそうではないかと震え始めていた。

 鬼島笹百合が波根の道を進んだほうが素早く助けることができると提案すると、錬太郎はうなずいた。錬太郎の目に怒りの色はない。むしろさすが鬼島笹百合であるといった調子だった。錬太郎自身、全くおこる理由はない。鬼島笹百合が彼氏のふりを自分にさせていたのだとわかったところで、大した問題ではないからだ。

 実際のところはまったく彼氏でもなんでもない。そして彼氏なのかと聞かれて違うと答えたところで、何か問題になるわけでもない。

 島の住人達に彼氏なのかといって問われ続ければうっとうしいと思うかもしれない。しかしそれだけだ。いちいち違うといって答えるだけで終わりである。やはり錬太郎には怒る理由がない。また、そんなことをしている暇もなかった。そんなことよりも、背負っている足をひねった女性のほうが大切だったのだ。

 錬太郎が女性を背負ったまま先頭をゆき、そのあとから鬼島笹百合が何とも言えない顔でついて歩いた。二人とも無言だった。錬太郎は話題がなく、鬼島笹百合は錬太郎が怒っているのではないかと思い、声をかけられなかった。

 

 無言のまま十分ほど歩くと、分岐点に到着した。右に進む道と、左に進む道に分かれていた。立て看板はなかった。パッと見たところ右の道はさらに島の奥に続いていた。左の道は少しのぞいてみるとわかるのだが、広場につながっていて、広場にはたくさんの島人たちが集まっていた。この広場というのは出店が出ている葉波根神社前の広場である。焼きそばで使うソースの匂いが錬太郎たちのところまで届いていた。

 錬太郎が左の道に入ろうとすると、背負っていた女性が人を呼んだ。

「兵辰ちゃん! ちょっと手を貸してちょうだい! 足をひねってしまったの!」

 人の手を呼ぶ足をひねった女性は、錬太郎の背中から手を振っていた。非常にご機嫌といった様子だった。にこにこと笑っていて、全く気分を悪くしていない。錬太郎の後ろからついてきている汗まみれの鬼島笹百合とは対照的だった。

 錬太郎が背負っている女性が人を呼ぶと、祭りの準備をしていた島人たち数人と鬼島兵辰が集まってきた。錬太郎と同じような奇妙な法被を身に着けている彼らは、島の人たちの中でも少し浮いていた。

 足をひねってしまった女性を背負っている錬太郎を見つけて、鬼島兵辰がこう言った。

「し……どう……どうした!?」

 錬太郎に話しかけていた鬼島兵辰は背負っている女性を見てふらついた。完全に顔が引きつっていた。鬼島兵辰は錬太郎が背負っている女性が、ここにいてはならない人物であると知っているのだ。この錬太郎が背負っている女性は、別の仕事があるのだ。しかしそれをしていない。錬太郎に背負われているというのなら、間違いなく何もしてないということになるだろう。

 仕事をしていないというのは間違いなく問題なのだけれども、それよりも自分の孫娘とその客人にちょっかいをかけているというのも見過ごせない問題だった。間違いなくこの事実を知れば、鬼島山百合は激怒するに違いない。鬼島兵辰がふらついたのは、この一瞬で複数の問題の発生に気が付いたからだった。夏の暑い日差し以上にうっとうしい状況が生まれていた。

 錬太郎に背負われている女性が事情を説明した。そうすると、鬼島兵辰がこんなことを言った。

「なるほど、それじゃあ仕方ない……花飾くん、こっちに来てくれるかな。ごめんね、世話をかけたみたいで」

 説明を聞いてうなずいている鬼島兵辰であるが、全く笑っていなかった。仕方ないなといって言葉にはしているけれども全く納得していない。完全に目が怒っていた。

 鬼島兵辰が錬太郎に左の道に進むように言うと、錬太郎に背負われていた女性がこう言った。

「あー! そうだ、そうだ。ここからならもう大丈夫よ! 錬太郎ちゃん、おろしてもらえる?」

 錬太郎に下すように言いながら、足をひねった女性はばたついていた。鬼島兵辰の表情から、ものすごい勢いで叱られる予感がしたのである。そしておそらく、このまま錬太郎に背負われて左の道に入っていくようなことになれば、逃げだす機会を失うだろうと思いここで自由になろうともがいたのだった。

 足は大丈夫だと女性が言うので錬太郎は女性を下した。しかし錬太郎は少し心配そうに女性を見ていた。女性のあわてようからして間違いなく鬼島兵辰から逃げようとしている。しかし、あわてたからといって足が治るわけでもない。嘘だったというのなら問題ないのだ。しかしただの強がりで大丈夫だといい、逃げるためだけに無茶をしているというのなら、とても心配だった。

 足をひねった女性が錬太郎の背中から降りると、鬼島笹百合がこう言った。

「それじゃあおじいちゃん。私たちもここでギブアップするね。暑くて仕方ないよ」

  鬼島笹百合は錬太郎のほうをちらりと見た。その時鬼島笹百合はほっとしていた。錬太郎が全く自分に対して怒りを感じていないのがわかったからだ。お面をかぶっていて錬太郎の表情は見えないけれども、立ち振る舞いからして怒りが感じられなかったのだ。

 

 さて、これでお手伝いは終わりだろうと鬼島笹百合がほっとしていると、波根の道の奥のほうで悲鳴が聞こえた。広場へと続く道ではなくご神体へ続く道の奥からきこえる。女性の声だった。錬太郎は女性の声に聴き覚えがあった。葉波根みなとの声である。

 悲鳴が聞こえるや否や、錬太郎が駆けだした。今までの緩やかな動きとは対照的に、非常に素早く波根の道をかけぬけていった。風が錬太郎の背中を押しているようだった。足場の悪さなど全く問題とせずにかけていく。

 そしてあっという間に悲鳴のもとへとたどり着いた。錬太郎は少しも息が切れていなかった。錬太郎のはるか背後から、鬼島兵辰たちが追いかけてきているけれども、ずいぶん後に到着することになるだろう。

 悲鳴のもとにいたのは葉波根みなとである。彼女は何か不思議な踊りを披露していた。はっぴとお面を脱ぎ捨てて、背中に手をまわそうと一生懸命にもがいていた。しかしうまくできていない。

 というのがはっぴの下に来ていたTシャツは、汗で湿って張り付いていた。そのせいで、シャツの下に潜り込んできた異物をうまく取れないで、彼女は困ってもがいていたのである。異物がシャツと自分の背中の間に入り込んだという焦りが、一層難しくさせている。

 彼女はシャツの中に潜り込んできた何者かが、虫だろうと予想をつけられていた。波根の道には木々が生い茂っている。背中に何か入り込んできたというのなら、間違いなくその類であろう。彼女はすぐに思い当たったからこそ、もがきながら悲鳴を出してしまったのだった。

 錬太郎を見つけるやいなや、葉波根みなとは錬太郎にこう言った。

「背中になんか入った! とって!」

 錬太郎にお願いをしながら、葉波根みなとは自分の背中を見せた。葉波根みなとは全く自分の姿を全く気にしていなかった。自分の格好を気にしている暇があるのならば、背中に入り込んだ何者かを排除するほうがずっと大切だったのだ。それこそムカデのような毒を持った生物が入り込んでいたとしたら、とんでもないことになるのだ。少しの恥ずかしさなどどうでもいい問題だった。

 葉波根みなとのあわてようからすぐに事態を察した錬太郎は、彼女のTシャツをまくり上げた。まったくためらわなかった。汗でへばりついているシャツをうまくまくり上げて見せていた。錬太郎がまったくためらわなかったのには理由があるのだ。

 というのが、錬太郎の目にはしっかりと葉波根みなとの背中とシャツの間でもがいている虫の姿が見えていた。この虫の形というのを錬太郎はよく知らなかった。もともとカブトムシとかクワガタのようなよく聞く名前の虫しか知らない錬太郎であるから、さっぱり思い当たらないのである。

 しかし、これが何かしらの毒虫であれば、このままではまずいことはすぐに錬太郎は思い当たった。そのため少しも心を揺らさずにできることをしっかりと行った。その結果が、背後からシャツをほとんど脱がす形で思い切りまくり上げるという行動につながったのだった。そうするとシャツの中から、よくわからない形の虫が転がり落ちてきて、茂みの中へと逃げて行った。

 葉波根みなとの問題が解決して錬太郎がほっとしていると、鬼島兵辰と鬼島笹百合が追い付いてきた。鬼島兵辰も鬼島笹百合も額に汗を浮かべていた。二人とも一生懸命に走ってきたのだろう。息が切れている。

 特に鬼島笹百合は何キロも走った後のような勢いで呼吸していた。二人とも、悲鳴の主が葉波根みなとであると察して、悲鳴が恐ろしい事件の予兆なのではないかと心配していたのだ。その証拠が、全力疾走で現場に駆けつけてきた二人である。特に鬼島笹百合など、普段ののんびりとしたところはなくただただ必至といった形相であった。

 現場に到着したところで、鬼島笹百合は息を切らしながら、錬太郎に質問した。

「何がどうなっているの錬太郎くん?」

 錬太郎に質問をする鬼島笹百合は、倒れそうだった。すぐそばに立っていた鬼島兵辰を支えにして何とかたっている状態だった。普段の運動不足が完全にたたっていた。もともと体力がないのもあり、無茶な全力疾走というのは彼女の体力をこれでもかと削ったのだった。それでも葉波根みなとの状況を知りたがるのは、葉波根みなとがとても大切な友人だからである。しかし、不安一色ということはない。なぜなら錬太郎がすでに事件を解決させているのがわかったからだ。ただ、情報はしっかりと手に入れたかった。安心したかったのだ。

 全力疾走してきた鬼島兵辰と鬼島笹百合に、錬太郎は簡単に説明をした。

「背中に虫が入って悲鳴を上げていたみたいです」

 二人に説明をしながら、葉波根みなとから錬太郎は視線を切った。そして、できるだけは葉波根みなとの姿を視界にとらえないように努力をしていた。錬太郎はお面をかぶっているので視線がどこに向かっているのかさっぱりわからないのだけれども、体の動きからしてかなり頑張ってみないように動いている。

 つい先ほどまで錬太郎は気にもしていなかったが、葉波根みなとの恰好は非常にまずい。錬太郎のような少年が彼女の姿を視界に入れていると、言いがかりをつけられたら逃げられない。特に、錬太郎は無視を取り除くために彼女のシャツをまくり上げているので、余計に気を使っていた。

 葉波根みなとの悲鳴は虫が背中に入ったからであると説明をすると、鬼島笹百合はほっとしていた。そして同じようにほっとして鬼島兵辰がこのようなことを言った。

「まぁ、無事で何より」

 何事もなくてよかったとほっとしている鬼島兵辰は錬太郎をじっと見つめていた。錬太郎というのが、ずいぶんな体力の持ち主であるとわかったからである。やや強い興味を錬太郎に持ち始めていた。もともと錬太郎の腕力、体力はなかなかのものであった。重たい杖の束を一人で運び、長い坂道を歩いても息切れしていなかった。

 そしてここにきて、波根の道という足元の悪い道を全力で駆け抜けて、しかも息切れしていないそのすさまじさというのは、無視できないものになっていたのである。この体力のすさまじさは、若いころの鬼島兵辰にもなかったものだった。

 悲鳴が大したものから起きたものではないとわかり、錬太郎たち三人がほっとしていると、葉波根みなとがお礼を言った

「心配してくれてありがとう。あぁ、でもどうしよう。お面とマントを脱いじゃった。私、ここで失格? せめて、滝までは行きたかった」

 お礼を言い終わったところで、葉波根みなとはがっくりと肩を落としていた。ここまで錬太郎と同じような暑苦しい格好をして歩いてきたせいで、汗まみれになっているのだけれど、それを少しも気にしていなかった。ほほが赤くなっているのは夏の暑さのためもあるが、錬太郎に世話をかけて、少し恥ずかしくなったからである。

 葉波根みなとは錬太郎の助けがあったことをとてもありがたいものと思っている。おそらく、葉波根みなとひとりであれば、あの状況を何とかするには時間がかかっただろう。その間に、虫にかまれていたりしたらと思うと、いやな気分にしかならない。

 そして助けてくれた錬太郎には、やはりありがとうの気持ちと、少し変なところを見られたという恥ずかしさしかない。ただ、それはそれとして正装を脱ぎ捨ててしまったのは失敗だったとも思う。これは海波根島の神社の娘として、巫女になるための試練を失敗してしまったということになるのだ。せっかく頑張ったのに失敗してしまったというのは悲しいことだ。

 葉波根みなとが肩を落としていると、鬼島兵辰がこう言った。

「いや、そこまでしっかりと守らなくていいよ。山ちゃんも言っていたが、ご神体めぐりが出来さえすれば、それでいいんだ。

 それよりも体のことをよく考えてやりなさいな。そんなにルールに縛られた厳しい行事じゃないからね。臨機応変にいこう。

 楽しく元気にね」

 葉波根みなとにご神体めぐり続行を許すという鬼島兵辰であるが、少しも悪びれるところはない。正装を脱いでしまったから、ここで終わりだという神社の娘に対してまったく問題ないと言い切れている。

 それもそのはずで、誰も正装でなければならないなどと決めている者はいないからだ。もちろん、伝統として神様のミコになれるものは正装で挑んで達成してきている。そのため、正装でなければならないという話になっているだけである。

 つまり逆なのだ。ご神体めぐりを達成できる人たちが、たまたま同じ格好をしていただけであって、この格好でなければミコになれないというわけではない。逆なのだ。格好が重要なのではなくご神体めぐりができるかどうか。廻れるかどうかが大切なのであって、服装はどうでもいいのである。

 実際、鬼島山百合はご神体めぐりができれば、よそ者でも巫女になれるというのだから、服装などあってないものである。鬼島兵辰はそれを知っている。そして、葉波根みなとが小さなころから巫女になりたいといっているのも知っている。そのためわかりやすく大丈夫だといって応援したのだ。

 鬼島兵辰がこのように言うと、葉波根みなとはほっとして喜んだ。六十年間も巫女をしている女性の旦那の言う言葉の重さは彼女の不安を吹っ飛ばせるだけのパンチ力を持っていた。




 一応ひと段落したところで、鬼島笹百合がこう言った。

「それじゃあ、錬太郎くん私たちは帰ろうか。もう十分でしょう」

 帰ろうかといって提案しつつ、鬼島笹百合は来た道を戻り始めていた。非常にゆっくりとした足取りである。すでに疲労困憊だった。明日は筋肉痛であろう。

 鬼島笹百合にしてみると、すでにやることはやっている。そこそこに錬太郎を案内しているし、それなりに運動もした。汗もかいている。鬼島笹百合の今の気分からすると間違いなく体重が減っていることだろう。そのくらいには頑張った。

 もう満足なのだ。だからもう帰りたい。全く錬太郎の意見など聞かないくらいには帰る気持ちでいっぱいだった。

 鬼島笹百合がこんなことを言うと、錬太郎はうなずいた。うなずきながら鬼島笹百合の後を追いかけていた。錬太郎もやることはやったなという気持ちになっているのだ。それなりに道を歩いているし、少なくともご神体めぐりに参加したという体裁が出来上がるくらいには時間がたっている。

 これ以上歩き回ったところで、特に何があるわけではないというのはすでに聞かされているので、錬太郎はご神体めぐりに対しての興味を失い、さて、鬼島笹百合と鬼島の家に戻り昼ごはんでもごちそうになろうかななどと思い始めているのだった。

 鬼島笹百合と錬太郎が引き返そうとすると、葉波根みなとがつぶやいた。

「え、二人ともいっちゃうの?」

 小さなつぶやきである。葉波根みなとが全く意識しないところから生まれた呟きでもあった。葉波根みなとは実のところ少しだけほっといしていたのだ。錬太郎が自分の近くにいてくれたこと、そして鬼島笹百合が自分の悲鳴を聞いて駆けつけてきてくれたことに。

 葉波根みなとにとって波根の道というのは特に知らない道ではない。かといって、知り尽くした道ではないし、一人でふらついていていい場所でもないのだ。

 そもそも森の中にある参道である。女性が一人で歩くのはやはり恐ろしい。錬太郎のように何が現れても問題なく戦えるタイプの人間ではないのだ。だから、少し心が冷えてきた今の彼女にとって、錬太郎たちが消えてしまうというのはただ不安になるばかりで、いったん不安から解放されてしまったからこそ余計に、さみしく思ってしまう。

 その心がつぶやきを生んで、その場にいた者たちに届いてしまったのだ。普段の気丈な彼女なら、きっとこんなつぶやきは生まなかっただろう。

 葉波根のつぶやきに、鬼島笹百合は足を止めた。そしてこんなことを言った。

「暑いうえに虫までいるのよ? やってられないでしょ」

 葉波根みなとを納得させるために理由を並べる鬼島笹百合は、顔だけ葉波根みなとに向けていた。体は帰り道に向いたままである。葉波根みなとの性格を知っている鬼島笹百合は、できるならついて行ってやりたいと思っている。そうして、できるならば巫女になってほしいとも思う。

 しかし、体力の問題があるのはどうしようもない。がんばってみても途中で倒れたりする可能性が非常に高いのだ。葉波根みなとは体力があるけれども鬼島笹百合はそうではない。錬太郎が息を切らすこともなく駆け抜けた道であっても、鬼島笹百合にとっては地獄の道のりであったのだ。そんな状態なのに、一緒に波根の道を歩き回るなどというのは無茶である。

 熱中症で倒れてもおかしくないどころか、おそらく現時点で一番熱中症の可能性があるのは鬼島笹百合だろう。すでにリタイアしている人は多いけれど、自分からだめだと思いやめるのと倒れてやめるのとではやはり違うだろう。

 だから彼女は断りを入れるのだ。自分の体力ではこれ以上ついていけない。さみしくとも一人でやれと。

 鬼島笹百合の疲労困憊の表情を見て葉波根みなとはとても残念そうな顔をした。実にしょんぼりとしている。年齢と性格から考えるに、残念だという気持ちを隠そうと努力しているのはだれの目にも明らかであった。しかし、久しぶりに会う幼馴染ともう少し遊べるかもしれないとか、もう少しいろいろな話をしたいという気持ちがうまく表情を作らせなかったのである。

 そして、もう少し彼女が口が回る人間であれば、言い訳も考え付くのだろう。しかし彼女は口がうまく回らない。そして本心を隠して相手の気持ちを変えられるような技術もない。かといって捨てられない見栄があるわけで、結局黙って悲しそうにする意外になくなるのだった。


 何とも言えない気持ちを起こさせる葉波根みなとを見かねて鬼島笹百合がこう言った。

「あぁー、そうだなーやっぱりもう少し先に行こうかなー。

 どうしようか、錬太郎くん。もう少し先に進んでもいい?」

 錬太郎に質問をする鬼島笹百合は引きつった笑みを浮かべていた。自分でもバカなことをしているとはわかっているのだ。何せ、つらくて仕方がない状態なのにもかかわらず、あえて、より体力を使う道を選ぼうとしているのだから。こんなにバカなことはなかった。

 鬼島笹百合の提案に、錬太郎はうなずいてみせた。そしてこういったのだった。

「行きましょう。なんだか楽しくなってきましたよ、おれ」

 鬼島笹百合に答える錬太郎は笑っていた。錬太郎は少しも嫌な感じを出していなかった。鬼島笹百合が大丈夫だというのならば、それに従うつもりなのだ。

 確かに夏の日差しの中を歩き回るのはつらいことである。しかし、鬼島笹百合の心遣いはなかなかいいものに見えた。そして、その心がどうして生まれているのかというのも、大体察しがついた。

 だから、錬太郎は少し手助けをしようと思ったのだ。そして、少しだけ葉波根みなとに興味がわいていた。これは、恋愛感情ではないのだ。ただ、どうしてここまでこだわるのか知りたかったのだ。

 つまり巫女になるのに一生懸命になるのかわからなかった。それについて錬太郎は少しだけ興味を持った。ストレートにどうしてと聞いてもいいが、錬太郎はそうするつもりはない。なぜなら無粋だとわかっているからである。

 きっと、何か彼女なりの何かがあるに違いないのだ。それを錬太郎は直接聞かずに知りたいと思った。この鬼島笹百合に対しての気持ちと、葉波根港に対しての気持ちが合わさり笑みになっていた。

 一緒についていくぞと葉波根みなとに伝えると葉波根みなとはとても喜んだ。そして鬼島兵辰に別れを告げて、三人は波根の道をさらに奥に進んでいったのだった。この時に葉波根みなとはお面とはっぴを完全に脱いだ。

 暑くて身に着けているのが嫌になったのだ。すでにご神体めぐりが始まって三十分近くたっているのだけれども、出発するときから恰好が変わっていないのは参加者の中では錬太郎ただ一人だけだった。



 三人を見送る鬼島兵辰は心配そうだった。鬼島笹百合の体力が限界に近いように見えたからである。しかし鬼島兵辰は止めなかった。錬太郎がいたからである。鬼島笹百合と葉波根みなとだけであれば、厳しい道のりである。

 しかし錬太郎がいれば、どうにかなるだろうと思えた。少なくとも葉波根みなとか、鬼島山百合のどちらかが倒れたとしても、錬太郎が担いで帰ってくるだろうから大丈夫だろうと、そんな風に思えたのだ。それだけの力が錬太郎からみなぎっているのに鬼島兵辰は気が付いていたのである。


 


 鬼島笹百合と葉波根みなとは会話をしながら波根の道を歩いていた。ずいぶんゆっくりと二人は波根の道を歩いていた。会話をしながらではあるけれども、しっかりと道の状態を確かめて歩いているのは、さすがに歩きなれた感じがあった。

 鬼島笹百合と葉波根みなとは波根の道が非常に長いのを知っているのだ。この波根の道というのは通ってはならない道というわけではない。つまり、行事の間だけ使われている道ではなく、普通に島人たちが使っている道なのだ。

 しかしものすごく使われている道というわけではなく、急いでいるときには使う道だった。というのが、この波根の道というのは海波根島を一周する円の形をとっているのだ。そして、この円の形は徐々に、島の中心にある山に向かって集まっていく。

 もちろん、波根の道と呼ばれている道はきれいな一本道ではなく途中で右にわかれていたり左にわかれていたり、詳しく見ていけば、生活のために造られた細かい分かれ道があるのだが、大体は円の形で、島の中心に向かっている一本道なのである。

 そしてこれは、非常に長い道であるということである。それはそうで、内側に向かう螺旋の形であるから、普通に島を一周するより圧倒的に長い距離になる。

 二人が話しながらゆっくりと歩くのも無理はない。急いで歩いて行けるような長さではないのだ。少なくとも二人には無理だった。


 話をしながら歩く二人の少し後ろから、錬太郎がついて行った。二人の後ろからついてくる錬太郎というのは実に怪しい存在であった。木彫りのお面をかぶり、燕尾服のような裾の長いはっぴを着て、鬼島笹百合の荷物を肩にかけているのだ。

 どこからどう見ても怪しかった。また、ほとんど口をきくこともなかったのも、怪しさを増長させていた。しかしそれはしょうがないことである。なぜならば、年上の女性二人組、それも幼馴染が仲良く話をしているのだから、割って入るのは非常に難しい。

 そして何よりも錬太郎には話をする話題がない。また話をしようという気持ちがない。人と会話をすることで交流しようという気持ちはあるのだ。しかし、いつも口を開いているようなタイプではなかった。そんな錬太郎であるから、黙ったまま二人の後を追跡する怪人に成り果ててしまったのだった。

 この状態のまま、十分ほど歩いて行ったところで、三人は立ち止った。波根の道に障害物があったのだ。この障害物は、波根の道をふさぐように倒れた木である。波根の道のわきに生えている木々の一本が、波根の道に向かってへし折れていたのだ。どうやら内側から折れたらしく、木の皮がつながったまま倒れていた。

 三人とも反応はいろいろとあった。前を歩く二人は立ち止まって、がっくりと肩を落としていた。そして、非常に困った顔をしてどうしたものかといい始めた。錬太郎は、困っている二人を見て、困っていた。というのが、道をふさいでいる障害物というのが、これといって、錬太郎には障害物にはならないものだったからだ。

 確かに道を障害物が塞いでいるのだけれども、乗り越えられないものではない。物理的に乗り越えることも当然できるものであるし、少し波根の道からわきにそれて移動すれば、それで問題ない。

 錬太郎にとっては特に問題のない障害物であるけれど、鬼島笹百合と葉波根港にとっては、問題なのだ。何せ、二人の身長は錬太郎よりも低く、そしてあまり体力があるわけでもない。特に鬼島笹百合はそうだ。

 緑生い茂る波根の道のわきに入るというのは、あまり好ましい行為ではない。そして見るのは美しいけれども、何が潜んでいるのかわからない。あえて入っていきたいと思うものはなかなかいないだろう。また何か肌のかぶれるような植物が生えているかもしれない。それを思うと女性的にはよくない状況だった。

 二人が非常に困っているのをいよいよ見かねて、錬太郎はこんなことを言った。

「あの、そろそろ行きませんか?」

 鬼島笹百合と葉波根みなとに先に進もうといいながら、錬太郎は道をふさいでいる中途半端に倒れた木を思い切り押した。錬太郎は、道をふさいでいる中途半端に倒れている木が二人の足を止めているのだとわかっている。そして、中途半端に倒れている木が中途半端であるのがまずいのだというのもわかっていた。

 これが、完全に道に倒れていたら、乗り越えるのは簡単だ。しかし幹の中間部分で折れ曲がっているのがまずい。変に曲がっているせいで、乗り越えるのが難しい。ならば、これを完全に追ってしまえば、二人は楽に進めるだろうと考えたのだ。

 錬太郎の見るところでは、幸いあと少しで樹皮が断ち切れそうな状態であったので、自分の体重と腕力を加えれば、いけるのではないかと錬太郎は試してみたのだ。もしもこれでだめなら、鬼島笹百合と葉波根みなとを引っ張り上げて、乗り越えるつもりだった。

 そうして、錬太郎が行動を起こしたところで、葉波根みなとが息をのんだ。錬太郎の体が一回りほど大きくなったように見えたからである。もともと身長が高く、体格のいい錬太郎であるけれどもそれが膨れ上がったように見えた。

 これは、錬太郎が中途半端な状態になっている木を完全に地面につけるために全身の筋肉を動かした結果である。葉波根みなとは実に華奢な女性である。男性の力こぶを見て、自分も同じような筋肉があれば、もっと力を発揮できるだろうになどと思うこともあった。

 自分よりも腕力の低い男性の筋肉が膨れ上がるのを見たことはあるけれども、錬太郎の迫力というのはなかなか、すさまじいものがあった。

 錬太郎が力を込めて数秒後中途半端に折れていた木はずしんという音を立てて地面に叩き落とされていた。まったく、悲惨な状況だった。中途半端な状態で首をつないでいた木は、完全に切り離されている。いまあるのは、地面にしっかりと根を張った部分から地上三十センチあたりまでの幹だけだ。

 そして錬太郎によって切断された幹から、枝までの部分は完全に地面に叩き落されて、二度と役割を果たすことはなくなった。錬太郎の力は、中途半端な状態で首をつないでいた木を完全に切り離してしまったのだ。切り離した錬太郎はとくに感動もなかった。思い切って力を入れたら、思いのほか簡単に切り離せたなといった程度である。

 ただ、鬼島笹百合は目を丸くしていた。錬太郎を見て口を半開きにしている。驚き呆けていた。鬼島笹百合は知っているのだ。波根の道の緑豊かな自然、その自然の一つである木々たちは、簡単に断ち切れるようなものではないのだと。

 少なくとも鬼島笹百合と葉波根港が両手をつないでやっと一回りできるほどの太い幹を持った木、の樹皮が人間の力でどうにかなるものではないと、彼女は常識として知っているのだ。

 断ち切るには腕力ではなく金属の力が必要だ。鉄を鍛えて作った刃物の力だ。それがなければ、できるわけがない。しかしやってのけた人間がいる。これはまったく理解できないことだった。



 道が開けたなと錬太郎が一歩踏み出した時、錬太郎は波根の道に転がっていた小石を拾い上げて、明後日の方角へと投げた。右手で小石を拾い、手首だけで投げていた。

 特にこれといった意味があっての行動ではないのだ。ただ何となく、緑豊かな木々の間、緑の茂みの中から視線を感じたのだ。錬太郎はこれが、イノシシだとか、クマの類ではないかと考えて行動していた。

 このように錬太郎が考えたのは、道をふさいでいた中途半端に倒れていた木を見ていたからである。中途半端に倒れていた木は、自然に倒れたものではない。それは、折れるきっかけになった傷跡を見ればわかる。まだ傷跡は生々しく、何かが力を加えて、作ったものだった。枯れ木が折れたのではなく、生きている木が何者かによって削られて、倒れていたのである。

 この傷跡がどんな生物が行ったのか錬太郎にはわからない。しかしなかなか太い幹を持った木が倒れるほどの力である。生半可な生物の仕業ではないだろうと錬太郎は考え、そして考えが正しいとすれば、イノシシやクマのような存在が行ったのだろうというのが錬太郎の結論だった。

 自分を見ているような気配に対して、小石でけん制を行ったのはこのような理由からだ。

 野生動物は警戒心が強いと錬太郎は聞いたことがあるので、これでどこかに消えてくれたらいいなと考えていた。

 錬太郎の不思議な行動を鬼島笹百合と葉波根みなとは気にしなかった。気にせずに、錬太郎の開いた道を歩き始めていた。ただ、二人とも少しだけ錬太郎を見る目が変わっていた。鬼島笹百合は錬太郎の怪力に驚き、感心し、葉波根みなとは錬太郎の怪力に感心し、対抗心をいよいよ本格的に燃やし始めていた。

 二人の変化に錬太郎は気が付かなかった。錬太郎には道が開けてよかったという気持ちしかないからである。



 障害物を乗り越えて、三人がさらに進んでいく。そうして、五分ほど歩いたところで鬼島笹百合が、錬太郎に話しかけてきた。彼女は緑生える木々の向こうを指差してこういった。

 「錬太郎くん、あそこに石像があるのが見える? お地蔵様みたいな石像があると思うの。あれがね、この島の神様。この島の人たちの生みの親で、守り神なの。

 この神様は子供を守る神様で、どこからでも子供たちを見守りどこからでも助けに来てくれるの。

 海波根島のお祭りはね、この神様のためのお祭りなの。この神様はとてもさみしがり屋で、一人でいるのがさみしいらしいの。

 だから一年に一回、神様が人前に出てきても驚かれないように、みんなで神様の格好をまねるんだよ」

 錬太郎に説明をしながら、鬼島笹百合と葉波根みなとは、錬太郎の前を進んでいった。そして錬太郎に見せようとしている石像の前まで連れてきた。

 鬼島笹百合の指差す石像を錬太郎は見た。視線の先には石像があった。石像は、お地蔵様の石像とほとんど同じ大きさの石像であった。さらにこの石像に近寄ってわかることがあるのだが、お地蔵様の石像ではないのがよくわかる。お地蔵様というのは頭を丸めた優しげな人物の石像であるけれども、この石像は人間の形をしていないのだ。

 一応は人間のような造形なのだが、顔の部分が鳥だった。そして、背中からは羽が生えていた。いわゆる鳥人間の石像である。この鳥人間が、両手をしっかりと合わせて祈りのポーズをとっていた。

 奇妙な鳥人間の石像を錬太郎は熱心に見つめた。ひざを折り、じっくりとみていた。錬太郎は不思議に思ったのだ。というのが、鬼島笹百合の話からすると、この石像のモデルになった神様というのが、海波根島の神なのだ。

 ということは、鬼島笹百合たちはそのルーツが鳥ということになる。そうなるとおかしなことではないかと錬太郎は思うのだ。鬼島笹百合にはくちばしがない。そして、羽がない。どこからどう見ても人間であり、鳥ではないのだ。伝説なのだからいちいち細かいことを考えるのはおかしいが、少し気になった。

 これだけでも錬太郎が興味を持つ理由になるのだけれども、わからないことが多すぎるのが、錬太郎に興味を与えていた。なぜ、さみしがり屋なのかとか、子供を守る理由はなんなのかだとか、神様なのだから、好きな時に遊びに出てくればいいのに出てこない理由はなんなのかだとかである。

 そんな謎を手に入れた錬太郎は、どうにも、興味がわいて、もっと知りたいと思うようになった。その気持ちが錬太郎に膝をつかせて観察させるきっかけになったのだ。


 錬太郎が石像を熱心に調べているのを見て、葉波根みなとが錬太郎に声をかけた。

「ご神体めぐりはね、こういう神様由来の何かをめぐる行事なんだ。

 興味がわいたのなら、もっと一緒に行こう。もっとたくさんのいろいろなものが見れるよ」

 葉波根みなとは錬太郎の背後から声をかけていた。錬太郎に声をかける葉波根みなとはにこにこと笑っている。彼女はとてもうれしい気持ちになっているのだ。

 この気持ちは、錬太郎が海波根島の神話に興味を持ち始めたことで生まれたのである。しかしこの葉波根みなとのうれしい気持ちというのは鬼島笹百合には湧いていない。

 それはそのはずで、葉波根みなとは神社の娘であり、神話を受け継いでいる家である。鬼島笹百合はそうではないし、鬼島笹百合は葉波根みなとのように、神話を大切に思っていない。

 おそらく島の人たちの中で葉波根みなとの家の人間ほど海波根島の神話に愛着を持っている人というのはいないだろう。これは家の役割の問題であるからしょうがないのだけれども、やはり、長い付き合いがあり自分が深い理解を持っているものに対して、興味を持ってもらえるというのはうれしいことだ。

 そうなると錬太郎の観察の様子など最高だった。真剣に石像に見入っている。興味があるのが雰囲気から分かる。これを見たら葉波根みなとの心はくすぐられてしまう。島の人間でさえ興味を持たない不思議な石像。そして神話。それを話す機会が与えられたこと。最高だった。錬太郎が海波根島の神話に対して興味を持ってくれたというのは、葉波根港にとってはいい気分になる出来事だった。

 葉波根みなとの誘いに、錬太郎は乗った。

「そうですか、それじゃあ先に進まないとだめですね。

 あっそうだ。笹百合さん、つらくなったらすぐに言ってください。おんぶします」

 鬼島笹百合が耳を疑うような提案をしながら錬太郎は立ち上がり、先に進み始めた。錬太郎の心は謎でいっぱいになっていた。海波根島の神話をもっと知りたいと思うようになっていた。

 鬼島笹百合がびっくりするような提案をしても少しも恥ずかしいと思わず、それこそ今この瞬間から背負って歩いてもいいと思うくらいには、自分の見つけた謎に対して真剣だった。心の中の暗黒に火がともったような気持ちのいい瞬間だった。



 この奇妙な石像との出会いから十分後、鬼島笹百合を錬太郎は背負っていた。まだまだ、海波根島の中心部分には遠いところだった。まだ、ご神体めぐりは三分の一も終わっていないところである。

 背負われている鬼島笹百合はリュックサックから取り出したペットボトルに入ったお茶を飲んでいた。顔色はいい。しかし、そろそろ足が疲れていた。葉波根みなとの悲鳴に駆けつけた時に全力で走ったのがたたっていた。

 鬼島笹百合は錬太郎にそのことを漏らしたのだ。そろそろ話題がなくなってきていたので、軽い気持ちで話をした。そうすると、錬太郎は速やかに彼女を背負い、おんぶの形にしてしまった。

 鬼島笹百合の体力は何となく把握できている錬太郎である。葉波根みなとや鬼島山百合のように動き回る力がないのはわかっていたので、もしもの時の行動を既に考えていたのだ。

 もしもの時というのは、鬼島笹百合が動けなくなった時の行動である。葉波根みなとが錬太郎の代わりをするという可能性ももちろんあるのだろうけれども、体格と体力を考えれば間違いなく錬太郎が動くべきであるし、錬太郎も問題ないと思っていた。

 そして鬼島笹百合がダメそうだといったところで錬太郎はついに来たなと思い、すぐに行動を起こしたのだった。

 そこそこに、先輩の意地がある鬼島笹百合であるが、非常におとなしくしていた。恥ずかしさはない。この威厳のない格好のままで落ち着いているのは、思ったよりも快適だったからである。

 錬太郎の背中というのは思ったよりも広く、固く安定していた。何より暑くない。人と人が触れ合うと非常に熱を持つのだけれどもそれがない。これは男女が引っ付いているからということではなく、人間には体温の話である。

 しかしそれがない。むしろどこからともなく気持ちのいい風が吹いているようなさわやかな気持ちだった。波根の道の風の通らない蒸し暑い空気の中を普通に歩いているよりずっと快適だった。だから黙って背負われていた。

 見るからに怪しい錬太郎と、その隣を歩く葉波根みなとそして、鬼島笹百合、この三人はさらに先に、さらに海波根島の深いところに向かって歩き出したのだった。おかしな三人組だった。



 錬太郎が鬼島笹百合を背負ってさらに十分ほど波根の道を進んでいった。錬太郎の隣には葉波根みなとがついている。この時の二人の位置はやや錬太郎が先を進んでいるような状態だった。錬太郎は全く息を切らせずに、鬼島笹百合を背負ったまま歩いている。足場の悪い波根の道であるけれども錬太郎には大した問題ではなかったのだ。

 しかし、葉波根みなとには重大な問題だった。葉波根みなとからは、とめどなく汗があふれている。水分補給も、塩分補給もしっかりと行っていたけれどもそれでもかなりつらそうにしていた。

 波根の道の足場の悪さと、風の通らない蒸し暑い空気が彼女の体力を奪っているのだ。この二つはどちらもうっとうしいものである。

 波根の道は一応道の体裁をしているけれども、ほとんど獣道である。しっかりと舗装されたアスファルトの道とは違い、ところどころ植物の根っこのようなものが飛び出してきている。道のほとんどは土で大きな石ころもそのまま放置されている。

 足元の注意は非常に大切だった。何より厳しいのは空気が死んでいるのではないかと疑うほど風が通らない、粘着する蒸し暑い空気である。筋力は人よりも優れている葉波根みなとであるけれど、蒸し暑い空気に耐えきれるだけのスタミナは持ち合わせていなかったのだ。

 この足場の悪さとつつまれているだけで息苦しくなる夏の空気が錬太郎と葉波根みなとのスピードの差になっていた。



 この二人の様子に気が付いた鬼島笹百合がこんなことを言った。

「みなと、ちょっと交代しよう」

 交代しようと葉波根みなとに言いながら鬼島笹百合は錬太郎の肩をたたいた。鬼島笹百合は自分の幼馴染の顔をじっと見つめていた。交代しようじゃないかといって持ちかけてはいたけれど、全く提案の調子はない。完全に命令の調子である。

 それはそのはず、葉波根みなとの顔色、汗の書き方、体の動かし方は葉波根港が調子を崩し始めている予兆に間違いなかった。おそらく錬太郎では気が付かない予兆であるけれど、幼馴染である鬼島笹百合には間違いないものであると断言できた。

 鬼島笹百合はこのままでは葉波根みなとが本格的に体調を崩すことになると察して、錬太郎に背負われるよう命令したのだった。

 鬼島笹百合が錬太郎の背中から降りていると、葉波根みなとはこういった。

「大丈夫だよ……まだ歩けるから」

 葉波根みなとは立ち止まって、笑っていた。しかし息が上がり始めている。汗も引いていない。大丈夫だとは言っているけれども、大丈夫ではないだろう。強がりにしか見えなかった。葉波根みなとはまだ、ご神体めぐりをあきらめていないのだ。これはつまり、巫女になるのをあきらめていないということである。

 ご神体めぐりや、巫女に興味を持っていない鬼島笹百合と錬太郎にはない気持ちである。そもそもご神体めぐりのルールなどあってないようなものである。どうしても守らなければならないルールといえば、歩いてご神体めぐりを行い、ご神体を見ることくらいのもの。

 錬太郎に背負われたとしても問題はないだろう。人の手を借りてはならないとは言っていないからだ。おそらく鬼島山百合も関係者たちも、かまわないというだろう。そのくらい緩いルールなのだ。

 しかし、彼女は自分で、胸を張って巫女になりたいと思っている。だから、錬太郎の力を借りたくないのだ。自分一人の力で歩ききらなければ、一人前の巫女ではないと思うところがある。だから大丈夫だと強がるのだった。

 葉波根みなとが強がると鬼島笹百合がこう言った

「大丈夫そうに見えないから言ってるんだけどね……まぁいいわ。あんたがそういうならもう少し付き合ってあげる。でも、ダメだと思ったら問答無用だからね」

 汗が止まらない葉波根みなとに厳しいことを言う鬼島笹百合は、錬太郎に目配せをした。鬼島笹百合の目は葉波根みなとを非常に心配していた。

 そして、いざというときには錬太郎の力を借りたいという気持ちが見える。鬼島笹百合はいざというときには錬太郎の力を借りて、強制的に葉波根みなとをリタイアさせるつもりなのだ。

 そもそも波根の道を歩ききれる人間というのは鬼島山百合や鬼島兵辰、錬太郎のような体力が桁違いの人間だけなのだ。いくら小さな海波根島であっても、らせんを描きながら徐々に内側に向かって歩いていくというのは非常に長く険しい道である。

 葉波根みなとの筋力が人よりも高いのは鬼島笹百合も承知しているのだけれども体力が人並み以上あるわけではないのも知っている。鬼島笹百合よりは体力がある程度ではどうにもならないのである。だから、鬼島笹百合はいざというときには錬太郎に頼り、葉波根みなとの体の調子を気にするのだった。

 それから三人は非常にゆっくりと波根の道を歩いて行った。鬼島笹百合と葉波根みなとが調子を崩さないスピードで歩いたのだ。錬太郎は二人の前を歩いて、波根の道の障害物を排除していった。障害物というのはいろいろで、わきの茂みから飛び出している植物の葉っぱだとか、朽ちた木のようなものたちである。普段使われている道ではないので、手入れが行き届いていないのだった。

 ゆっくりと三十分ほど歩いたところで、広場のようなところに出た。広場といってもとんでもなく広い場所ではないのだ。半径五メートルくらいの円形の空間が森の中にぽっかりと空いているのだ。そして粗末な立て看板が立っていて、看板には波根の道といって書かれているだけだった。

 ほかにもいろいろな情報が書かれていたらしいのだけれども風雨にさらされて読めなくなっていた。

 この広場の中心には石像が二体置かれていた。どちらも一メートル二十センチほどの高さである。二つの石像は向き合うように置かれていて、金剛力士像のようなポーズをとっている。ただ、少しだけ独特なのは、二つの石像のどちらも鳥人間だったのだ。鳥のような頭を持ち、背中からは羽が生えていた。残念なことがある。というのが、もともとはしっかりとした羽だったのだろうが二体ともほとんど羽の原形を保っていなかった。

  この広場に出たところで、錬太郎は歩くスピードを速めた。どこに向かっているのかはすぐにわかる。広場の中心に置かれている二体の石像である。この広場の中心にある、苔の生えたみすぼらしい奇妙な石像に、錬太郎は興味を持ったのだ。

 石像の古さ加減からして百年二百年単位の大昔からあるのは間違いないだろうというのだけが錬太郎にわかるすべてだった。ただ、それ以上のことはわからず、謎ばかりである。しかしそれが余計に錬太郎に興味を沸かせた。わからないのがよかったのだ。わからないからこそ興味がわいていた。

 苔の生えた小さな二つの石像を錬太郎が調べていると、葉波根みなとが倒れた木の上に腰を下ろした。葉波根みなとはすっかり息が上がっていた。今までと同じようなスピードで波根の道を歩くのは無理そうだった。また、葉波根みなとの隣に鬼島笹百合が座ったのだが、葉波根みなとと同じく息が上がっていた。二人とも石像を興味深そうに調べている錬太郎を見ていた。

 石像を調べている錬太郎に鬼島笹百合がこんなことを言った。

「石像に興味があるのなら、そっち方面に進んでみるのも面白いかもしれないわね。」

 倒れた木に腰を下ろしたままで、鬼島笹百合は話をしていた。タオルで汗を拭きながら、呼吸を整えていた。しかしあまり気分はよくなさそうだった。いくら呼吸を整えてみたとしても、吸い込む空気は暑く粘ついているのだ。気分が回復することはない。

 鬼島笹百合が提案すると、錬太郎は困って黙ってしまった。膝をついて石像を調べていたのだけれど、石像に指を触れたままで固まっていた。錬太郎は自分が実に中途半端な状態であることを思い出していたのである。

 錬太郎は、大学進学を決めているけれども、それだけである。そこから全く先に進んでいない。具体的にどの大学に進むのか、どの学部を選ぶのか全く何もない。大学がどういう場所なのかを知りたい。それだけで大学進学を選んでいるのだから、当然である。

 いっそ、鬼島笹百合の提案に乗ってしまうのもよかったのだが、まだうまくうなずけなかった。納得できていないのだ。なぜならこの石像に興味を持っているのはただの気まぐれである。本当に心の底から興味を持っているわけではない。おそらく興味が持続するのは海波根島にいる間だけ。長々と付き合えるほどの興味はないのだ。錬太郎はそれに気が付いている。気が付いているために、簡単にうなずけなかった。

 錬太郎が黙っていると、鬼島笹百合の隣、倒れた木に腰かけている葉波根みなとがこう言った。

「笹百合の通っている大学にでも行けばいいんじゃない?

 近いんでしょ? 悩んでいるなら、あえて決める必要はないともうよ。後回しにしてゆっくり考えればいいわ」

 錬太郎にアドバイスというか、ほとんど投げやりな意見を言いながら葉波根みなとはタオルを団扇のように使って、風を起こしていた。鬼島笹百合と同じで、蒸し暑いのと足場が悪いので、気分を悪くしていた。

 心の中にある巫女に対するあこがれは失われていないけれど、今すぐに動き出せるほど体力は残っていなかった。また、頭を働かせてうまい助言をするというような心の余裕も残されていなかった。それこそ頭の中では錬太郎に背負って歩いてもらってもいいのではないかと、理屈をこね始めていた。

 先輩たち二人がほとんど体力を失って、機嫌を悪くしている間に出てきた提案を黙ってきいていた錬太郎がこう言った。

「それもいいかもしれませんね」

 膝をついて奇妙な石像を調べていた錬太郎は石像に手をついてうなだれた。お面をかぶっているので表情が見えないが、何とも悲しそうな雰囲気だった。

 錬太郎は自分の中に具体的な目的がないことにいやというほど気が付いていた。錬太郎が大学へと進みたいと思ったのも、就職するだけの積極的な理由がなかったことと、大学というのがいったいどういうものであるのかという謎に対する非常に弱い積極的な理由があっただけというだけの話なのだ。

 特にこれといって選ぶ理由のない選択肢と、わずかにある胸を張って選べない理由の選択肢がぶつかって、わずかに選ぶ理由がある選択肢が生き残っただけである。

 この生き残った選択肢が大学進学だった。となれば、ほかの学生たちのような積極的な理由などあるわけもなく、胸を張って歩くのは難しかった。いっそ開き直っていけるのならばいいのだが、納得しないまま歩けるほど錬太郎は強くなかった。

 自分の中途半端さがわかっているからこそ、錬太郎は心折れそうになるのだった。

 錬太郎が鬼島笹百合の大学に進むのもいいかもしれないと投げやりなことを言い始めると、葉波根みなとがこういった。

「まぁ、私が言うのもあれだけど、そんなに心配しなくていいと思うよ。

 がっちりとどうしたいって決めている人って案外少ないもん。未来の自分なんてぼんやりしているもんだからさ。私も料理人になってんのか、それとも普通に家で巫女として働くのかもわからない。

 もしかしたらお嫁さんになって、島から出て行っているかもしれない。そんなものよ。

 専門学校に通っているのも、初めは島から出て生活してみたいって気持ちのほうが大きかったよ。

 今は、逆だけどね。

 錬太郎もそのうち何か見えるようになるって、やってみて初めて見えるものってあるでしょ? 

 今もそうでしょ? ここに来るまではきっと石像に興味を持つなんて思わなかったと思うの、そういうことがきっと選んだ後にも起こるの、それを期待してみるのもいいと思うわ」

 錬太郎に助言を与える葉波根みなとは実に真剣な口調だった。まったく先ほどの様子とは違っている。葉波根みなとは錬太郎が思いのほか悩んでいるのに気が付いたのである。

 彼女自身は、それほど進路で悩んだ経験はない。というのも、彼女には二つの道しか残されていなかったからである。葉波根みなとは高校を卒業した後、自分の実家である神社の手伝いをするか、進学するしかなかった。

 彼女は島の外での生活というのに憧れていたので、すぐに外に出る進路を選んだ。この時料理について興味を持っていたので、その道に進んだ。それだけのことで、それ以上の理由がない。料理に熱烈な情熱を持っているというわけでもなく、むしろ島の外がどうなっているのかという情熱のほうが圧倒的に勝っていたと彼女は思うし実際そうだった。

 そんな彼女であるから、いまいち錬太郎の気持ちはわからない。錬太郎はどちらの道でも選べて、好きなようにやるだけの学力がある。実家に縛られているわけでもない。まったく彼女とは同じではないのだ。

 しかし、わからないからといって、錬太郎が悩んでいるのはわかるのだ。力になれるのならなってやりたいという気持ちもある。それはきっと、自分の幼馴染がかつて悩んでいた姿を知っているからで、錬太郎の姿が鬼島笹百合と重なるからなのだ。鬼島笹百合の助言は、ほんの少しの優しさから出たものだった。ただ、彼女出なければ出てこないものだっただろう。

 葉波根みなとの助言を聞いて、錬太郎は小さく何度もうなずいた。葉波根みなとのほうは見ていない。石像に向けて頭を何度も下げているような格好だった。葉波根みなとの助言を聞いて少し視界が開けたような気持ちになっていた。

 葉波根みなとの話は希望を持たせる話だった。本当にそうなのかはわからないけれども、ありそうな話であった。そして、錬太郎にはうなずいてもいいのではないかという実体験がある。

 葉波根みなとが言うように今の錬太郎自身、どうして興味を持っているのかもわからない石像があるではないか。きっと海波根島に来なければこんな興味を持つことはなかっただろう。

 そして一生懸命に波根の道を歩いてもいいじゃないかと思うこともなかったはずだ。これが、大学進学を選び問題なく大学生になった後にも起こるのならば、それはきっと素晴らしいことだろう。もちろんそうならないかもしれない。

 しかし期待してもいいのではないかと思い始めていた。それがうなずきに変わったのだ。ただ、非常に怪しい光景だった。鳥のお面をかぶり、奇妙な法被をきた大男が同じような恰好の鳥人間の像の前で祈りをささげているようにしか見えないのだ。これから怪しい儀式を始めてもさまになるだろう。



 葉波根みなとの進路相談をを鬼島笹百合が面白くなさそうに見つめていた。何とも言えない機嫌の悪そうな顔で葉波根みなとと錬太郎を交互に鬼島笹百合は見つめるのだった。理由は三つあるが、三つの理由、そのどれもが気に入らなかったのである。

 一つ目は、二人がいかにも青春じみた会話をしているというのがうらやましかった。こういう青春の匂いがある会話というのはまったくしたことがないので、単純にうらやましかった。

 二つ目は葉波根みなとがお姉さんぶっているというのが格好良かったこと。自分の知っている幼馴染にまさかときめくとは思わなかった。やるじゃないかと一瞬思わされたことを不覚に思った。

 三つ目は錬太郎の中で葉波根みなとの評価がうなぎ上りになっていることが単純にうらやましかった。錬太郎は自分の後輩であって、葉波根みなとの後輩ではないという気持ちがあるのだ。そんなところで先輩の役割を葉波根みなとがうまくしてしまったので悔しかった。

 そして、錬太郎の様子を見ていれば評価が上がっているのがわかるので余計に悔しく思い、また、先輩としてうまくやってのけたのがうらやましかった。

 三人とも思うところはいろいろとあるのだけれども、そんな疑問が吹っ飛ぶ出来事が起きた。錬太郎が石像を倒してしまったのだ。錬太郎が石像を調べているときに、鬼島笹百合が近づいてきて、こけたのだ。

 その時錬太郎はあわてて鬼島笹百合を受け止めに行った。錬太郎のすぐそばまで近寄っていたので、簡単に捕まえられた。問題はここからで、捕まえたのはいいが、錬太郎の体が石像の一つにあたってしまったのだ。しかし思いきり衝突したということではなく体がこすれるという程度のものであった。この微妙な接触で、石像の一つがふらりと傾きそのままパタンと倒れてしまった。幸い、石像が砕けるようなことはなかった。

 石像を倒してしまった錬太郎は、動けなくなっていた。やってしまったという気持ちでいっぱいになり、頭はどうしたらいいのかわからなくなって混乱していた。鬼島笹百合を捕まえているのも全く気にしていなかった。

 また、錬太郎に捕まえられている鬼島笹百合も動きを止めていた。錬太郎の腕が体に巻きついているので、錬太郎が固まったのに合わせて動けなくなったのである。鬼島笹百合はぬいぐるみの気分を味わうことになった。

 動かない二人とは反対に、葉波根みなとは軽快に動いていた。倒木から立ち上がり、固まっている錬太郎を通り過ぎて、石像をもとの形に戻してしまった。それこそ倒れた自転車を元に戻すような調子だった。

 石像を直して葉波根みなとは錬太郎にこう言った。

「大丈夫だよ、直せばいいだけだから。

 それに、なかなか壊れないんだよ、これ。これと同じ石像を重機で壊そうとしたことがあるんだけど、壊せなくて困ったことがあるんだ。

 結局は鬼島のおばあちゃんが壊しちゃったけど」

 いかに鳥人間の石像が固いものであるかと説明しながら葉波根みなとは錬太郎の背後に回った。そして背中をつついた。からかっているように見えた。それもそのはず、錬太郎が青い顔をしているのが見えたような気がしたからである。

 


 十分ほど休憩してから、三人はさらに波根の道を歩いて行った。時々暑いとか、もうだめだといって鬼島笹百合がだれるので、錬太郎が背負って歩いた。葉波根みなとはなんとか自分の足で波根の道を歩いていた。

 しかし足の運び方、呼吸の乱れ具合、汗のかきかたからして限界が近づいているのは間違いなかった。錬太郎が特に何も言わずいつもよりはるかに遅いペースで歩いているのも、葉波根みなとに気を使ってのことだった。

 錬太郎が鬼島笹百合を背負って歩いているのを葉波根みなとがじっと見つめた。葉波根みなとが錬太郎の少し後ろを歩くようになって五分ほどしてからのことだった。錬太郎を見つめる葉波根みなとはうらやましそうにしていた。

 葉波根みなとの体力はいよいよ限界を迎えていたのである。夏の暑い日差しに熱された粘つく空気と、足場の悪い道。そして、周りは忌々しいほど緑色で生い茂っている木々と植物たちの壁。風の通らない不愉快な道で、景色も変わらないとなれば、精神的にも体力的にも削られてしまう。

 葉波根みなとはよく持ったほうである。ほとんどの参加者はこんなところまでこれない。ほとんどは初めの分かれ道であきらめる。

 そうして、体力の限界が来た彼女の心は折れて、胸を張って巫女になる道よりも体力を回復して何としても巫女になる道を選んだ。

 それはつまり、錬太郎の背中に背負われている鬼島笹百合の状況である。しかし、言い出せるわけもなかった。なぜなら彼女は一度断っている。そして年上である。


 葉波根みなとが錬太郎の背中をじっとりとした目で見つめ始めて十秒後、錬太郎はこういった。

「葉波根さんも、乗ってみます?」

 自分の背中に背負われてみるかといって誘う錬太郎は、まっすぐ前を向いたままであった。しかし間違いなく自分の少し背後を歩いている葉波根みなとに向けての言葉であった。

 これは特に何があっての行動ではないのだ。背負っている鬼島笹百合が気を利かせたということはない。むしろ錬太郎の快適な背中からおろされるのかといって嫌がっているくらいである。錬太郎が誘ったのは何となく葉波根みなとが自分のことを見ているような気がしたからである。

 そして、そろそろ体力的に無理が来ているのだろうという大雑把な予想と絡み合わせて、誘いをかけた。

 これは、錬太郎が葉波根みなとと短いけれども一応コミュニケーションをしていたことで生まれた行動なのだ。葉波根みなとがなかなか意地を張る性格であることと、体力が削られているということを見ていたことで出た行動だ。

 そのため、錬太郎自身に説明を求めても何となくとしか答えられないだろう。しかし理屈はどうであれ、錬太郎の予感は正しかった。

 いいところで錬太郎が誘うと、少し間をおいて葉波根みなとはこういった。

「肩車して?」

 肩車をねだる葉波根みなとは少し恥ずかしそうに笑っていた。やはり葉波根みなとの中には恥ずかしさがあるのだ。

 これは一度は断ったのにもかかわらずやはり力を借りなければならないという状況。そして年下の少年に力を借りなければならないという状況に対する自分の情けなさから発する恥ずかしい気持ちである。

 錬太郎の恵まれた体格を考えると力を借りるのは全くおかしくもなんともない。また体調管理の重要さを知る者たちからすれば恥ずかしがる必要はないのだけれども、それはそれこれはこれであった。

 葉波根みなとはそんな恥ずかしいと思う気持ちをごまかすために背負われるのではなく肩車をしてほしいと頼んだのだ。体力が危ないのではなく、肩車という少し愉快な状況を楽しみたくなったのだと余裕のある自分を演出しようと考えたのだ。はっきり言って無理がある。

 ごまかせているかどうかは非常に怪しいところだが、錬太郎の力を借りるのは自分自身が肩車をしてほしいからであって、体力が底をついたからではないというように思わせようとしたのだった。

 ただ、錬太郎の背中から離れまいとして錬太郎の首に手をかけてもがいている鬼島笹百合からしてみれば、このごまかしはバレバレであった。

 もがきにもがいてから鬼島笹百合が背中から降りると、葉波根みなとの要望通りに錬太郎は膝をついた。葉波根みなとと錬太郎の身長差をかんがえると、膝をつかなければどうやっても肩車は無理だった。

 錬太郎が膝をつくと、葉波根みなとは肩車の形に入った。特に迷うことなく錬太郎の背後から近寄って、肩車の形に持って行ったのだ。ゆっくりと跳び箱を飛ぶような調子といえばいいだろうか。錬太郎の肩に手をついたところから、腕力だけで自分の体を浮かせるのだ。

 そして、そのまま両足を肩にかけて、肩車の形に移った。

 すさまじい腕力とバランス感覚であったが、葉波根みなとはかるがるとやってのけていた。また肩車をするのは少しも恥ずかしさがないようだった。背負われるのが情けなく感じられ、断っただけだ。錬太郎と接触するのはそれほど抵抗がなかった。

 しかし、無感情で葉波根みなとが肩車に入ったわけではないのだ。提案してみてこれから肩車をするのだというところになると、変にわくわくするのだった。

 子供のころは肩車をされた経験があるのだけれども、大人になってからはまったくない。そもそも女性だからといっても体重は子供のころよりも格段に増えているわけで、かつて自分を肩車をしてくれた父親も二十年近くたてば、足腰も弱ってくる。

 まったく肩車のない期間を長く過ごしてきて、ここで肩車をやるのだということになると何となく子供のころに戻ったような気がして、楽しくなってきているのである。

 葉波根みなとが自分の肩に乗ったのを確かめた。そして一般的な成人女性よりも華奢な葉波根みなとを全く問題とせずに錬太郎はすくっと立ち上がった。

 この時錬太郎は少し困っていた。というのは、葉波根みなとの体重が思ったよりも軽かったからである。体重を気にしている女性が聞くと嫌な感じがするかもしれないが、錬太郎の感覚からすると葉波根みなとの体重は軽すぎるように感じたのだ。ただ、錬太郎はこのおかしな感覚を突き詰めることはなかった。

 単純に葉波根みなとの体重が軽いだけだろうと思える理由は、葉波根みなとのきゃしゃな体を見ていればわかる。そして、錬太郎は機械のように正確に体重を測れるような技術は持っていないので、単なる感覚の間違いであろうと判断した。

 錬太郎が立ち上がると、葉波根みなとがこういった。

「ほほほ! 高い高い!」

 肩車をされている葉波根みなとは高笑いしながら錬太郎の頭にしがみついた。非常に楽しそうに笑っているのだけれども、おびえているのがわかる。錬太郎の頭をつかむ手に結構な力が入っていた。

 肩車をされた時の視点が思ったよりも高かったのだ。錬太郎の身長が百九十センチで、葉波根みなとの身長が百五十センチほどである。この錬太郎に肩車をされると視点は二メートルを軽く超える。普段の視点よりも五十センチ近く高いところを見る経験というのはなかなかない。

 そして、歩行を人に任せる経験というのもなかなかない。案外恐ろしいものなのだ。足元が不安定でしかも目線まで不安定であるというのは。よほど信頼しているか肩車慣れしていなければ、彼女のように大したことのないと笑われるような高さでおびえることになる。

 しかし、怖いという気持ちはあるのだけれども、楽しいのは間違いなかった。

 葉波根みなとを肩車した状態で、錬太郎は歩き出した。頭の上で騒いでいる葉波根みなとをさっぱり気にしていなかった。鬼島笹百合は、錬太郎の少し前を歩いていた。少し不機嫌そうなのは錬太郎の背中を下ろされたから。

 そして葉波根みなとがものすごく楽しそうにしているからである。



 

 葉波根みなとを錬太郎が肩車をして、その後ろから鬼島笹百合がついていくという形で波根の道を五分ほど歩いていると、葉波根みなとがこんなことを言った。

「あれ、誰か木の上にいるみたい。何やってんだろう。あんなところに上っても、見えるのは滝だけなのに」

 不思議な行動をとっている誰かがいるといって指摘しながら、葉波根みなとは少し足を閉じた。また、表情が少し暗くなっている。葉波根みなとはおびえているのだ。

 筋力が平均的な成人男性の二倍近くある彼女であるけれども、闘争本能が強いわけではない。また、肉体的に優れていることがすなわち、精神的に優れているということでもないのだ。

 簡単に言えば彼女はビビりだった。単純に、彼女が見ている光景というのは木登りをしている人間がいるというだけのことである。波根の道という人気の少ない場所で、特に見るものももないはずだけれども木登りをしている誰かがいるというだけのことなのだ。

 しかし、これが恐ろしかったのだ。おそらく葉波根みなとひとりでこの状況に遭遇していたら、やり過ごすための行動をとっていただろう。たとえば、歩くのをやめるて相手が動くのを待つとか、または、かなり遠回りをして羽の道の先に進むとか。

 今回は鬼島笹百合と錬太郎がいるので、小さな行動を起こすだけで耐えられていた。

 木登りをしているという葉波根みなとの報告を受けても特に錬太郎は歩く勢いを緩めなかった。また、錬太郎の少し後ろからついてきている鬼島笹百合も、変化はなかった。暑そうにしているくらいのものである。二人とも、木登りをしているくらいでは問題になるとは思わないのだ。

 ただ、鬼島笹百合と錬太郎の安心感の根拠はやや違ったところにある。鬼島笹百合も、錬太郎も非常にわかりやすい根拠を持っている。

 鬼島笹百合は葉波根みなとと錬太郎がいるから大丈夫だと思っている。葉波根みなと自分だけであれば、慎重に行動するだろうが錬太郎がいるのなら問題ないと思っていた。

 鬼島笹百合は葉波根みなとの怪力も知っているし、錬太郎が葉波根みなとをものともしないというのも知っている。また、一目見るだけで錬太郎が強そうなのも安心感になっていた。

 錬太郎の安心感の根拠は、大した問題ではないというだけのことなのだ。つまり、だれが来ても問題ないだろうという気持ち。つまり、不審者が近づいてきて、何かしらの行動をとるというのなら叩きのめすだけだという発想である。

 錬太郎の心の準備はとっくの昔に完了しているので、いちいちあわてる必要がなかった。二人の安心感の根拠は違うところにあるけれども、間違いなく安心、安定していた。迷いのない歩みに現れていた。

 錬太郎の肩の上でおびえている葉波根みなとを放っておいて、さらに波根の道を進んでいった。そうするといよいよどうして木に登っているのかわからない不審者と目と鼻の先まで近づいた。

 錬太郎たちが近寄ってきた時には木に登っていた不審者が木から降りているところだった。木に登っていた誰かというのは少女だった。

 小学校低学年くらいの少女である。この少女であるが、目を見張る運動能力を持っていた。高い木の上に上っていたのだけれども、少しも恐れずにあっという間に地上に降りてきたのだ。それも、自分の体重を指先で支えてみたり、体重の移動だけで見事にやるのだから素晴らしい。

 木登りをしていた少女が、地上に降りてきたのは、錬太郎たちが近寄ってきたからである。もう少し木に登って、波根の道の全体図と海波根島の様子を観察してもよかったのだけれどもあまり長い間木に登っていたら、間違いなく怪しまれるので切り上げたのだった。

 これが、錬太郎一人ならば、特に問題ないのだけれど、葉波根みなとと鬼島笹百合が一緒にいるのがまずかった。特に葉波根みなとに疑われるのは、少女の利にならないのでさっさと切り上げた。木から降りてきた少女は木のすぐそばで腰を下ろしていた男性の隣に駆け寄っていった。

 葉波根みなとを肩車しながら、錬太郎はこの二人に近寄って挨拶をした。葉波根みなとが落ちたりしないように、軽く頭を下げて

「こんにちわ」

といった。錬太郎は、この二人組に見覚えがあった。非常に印象的な二人組だったので、すぐに思い出せた。

 この二人を始めてみたのはご神体めぐりの参加者たちが集まるための広場である。この二人だとすぐにわかったのは、この二人組だけが浮いていたからである。いわゆるよそ者。錬太郎と同じよそ者の二人である。錬太郎がこの二人に挨拶をしたのは、特にこれといった理由はない。

 たまたますれ違った相手が、自分と同じ祭りの行事に参加しているとわかっているのだ。挨拶位するだろうという気持ちでやっていた。ここで何も言わないほうがおかしいだろう。

 実際、波根の道に全く人の気配がない。こんなにわかり居やすい接触が行われたのに、声をかけないのはそれこそおかしいことだった。

 錬太郎が歩きながら挨拶をするとよそ者の男が軽く頭を下げて会釈をした。男は三十台半ばといったところ、あまり運動が得意そうなタイプではない。細身で肌は白い。筋肉がついているわけではない。

 かなり汗をかいていて、呼吸も荒かった。明らかに体力がつきかけている。しかしそれでも一応挨拶を返したのは、立派だった。錬太郎の見てくれが尋常ではない怪しさであったけれども、祭りの参加者であるのは集合場所での目立ちようから知ることができていたので、不審者ではないと判断できていた。

 また、葉波根みなとと鬼島笹百合の二人が全く警戒せずに錬太郎に近寄っているのを見て、警戒しなければならない人間ではないと疲労困憊の男は判断したのであった。




 疲れ果てている男の会釈に、錬太郎はさらに会釈を返した。お面の下の錬太郎の表情は暗い。なぜならば、錬太郎に会釈をしてきた男はどう見ても体調が崩れていた。

かなり長い間涼しい部屋で休まなければ、体調は回復しないだろう。そういう顔色、そういう呼吸の仕方、また、汗のかきかたをしていた。

錬太郎は心配なのだ。これは救急車だとか、病院の世話にならなければならない人間なのではないかと。そうなるとなかなか、事情はよろしくない。つまりこの男がもしも非常に悪い状況であれば、今この瞬間にでも対応しなければならない。

錬太郎はこの若しもの事態を考えた時、非常に恐ろしくなり自分が何とかしなければならないという使命感にかられるのだった。これは間違った感覚ではないだろう。この場所にいる人間たちで、疲れ果てた男を運べるのは錬太郎だけだ。そして、祭りの環境の非常に悪いことを考えれば、錬太郎の心配は考えすぎではない。

それどころか非常に正しい。

 錬太郎の雰囲気がわずかに変化した時だった。木から降りてきた少女が、こんなことを言った。

「先生! まだまだ道は続くみたいです! あと一時間くらいは歩かないとだめっぽいです!」

 腰を下ろして休んでいる男に自分が見た景色についての話をしながら、錬太郎と男との直線状に少女が移動していた。丁度、錬太郎に背中を見せる形である。少女がこのような動きを取ったのは、錬太郎と男が接触するのを拒みたかったからなのだ。

少女にとって、錬太郎というのはすさまじく怪しい存在だった。この怪しい存在であるという印象が、錬太郎と男を接触させてはならないという行動に変わった。

 少女が波根の道はまだまだ続いていると話をすると、男はうなだれた。うなだれた時に、ひたいのあせがしたたり地面を濡らした。まったく歩く気力など残っていない。夏の日差しと、粘つく空気。足場の悪い道のり。すべてが体力を削り精神を追いつめていた。

ここまで来るのにも非常に苦労してきたというのに、ここからさらに一時間近く歩かなければならないというのなら、絶望的だった。そして、絶望的な気持ちにさせるという以上に、無理があった。無理とはつまりあと一時間ほど歩くという行動自体が、男の体力を考えると無理であるということだ。

そして、仮に波根の道を歩ききったとして、そこから戻ってくるということを考えると、男のご神体めぐりはここで終了だろう。うなだれたくもなる。

 波根の道があと一時間ほど歩かねば終わらないと聞いた男ははこんなことを言った。

「本当? 気が遠くなるね。少し休ませてもらっていい? そろそろ動けなくなりそう」

 少女に休ませてほしいという男であるが、すでに木陰で腰を下ろして休んでいる。全く動けるような様子ではない。ご神体めぐりを、男はまだあきらめていなかった。ここで少し休んで、体力を回復させられたのならば、先に進もうと考えたのだ。

しかし、あまり自分に期待していなかった。なぜなら波根の道は蒸し暑く風が吹かない。体を動かさないでいても、汗が噴き出してくる。また、風が吹かないために、汗が蒸発して体を冷やすこともない。それが男にはわかっていた。

 しかしそれでも、体力の回復に努めて、ご神体めぐりをやり遂げようとしていた。

 木陰で男が体力の回復に努め始めるのを見てから、少女はうなずいた。しょうがないというよりも、当然だろうという表情をしていた。実に大人びていた。この少女が思うことも男と同じであったのだ。そろそろ休憩しないといよいよ本当に調子を崩してしまうと。

 これは、少女も男も同じように抱えている問題であった。たしかに少女はまだ元気が残っている。木に登る力もある。しかし、いつまでも元気でいられるわけではないとわかっていた。

 夏の熱気で体力は奪われ、汗をかくことで水分は常に失われていく。体力が残っているような気がするという状態で、動き回っていよいよ熱中症にかかるということも大いにあり得る。

 何となく元気な感じがしているけれども、大事を取って元気なうちに自分も体力の回復に努めておくべきだろうという判断の仕方である。

 意識が薄れてきたり、体の調子が完全に崩れてから、体力の回復を行ったとしてもそれは遅いのだ。体調の変化が起きる前に水分を取り、塩分を取る。そうして休むことで、長い道を行く。

 少女はそれが大切なことであるとわかっていたので、今の自分に体力が残っていて、気力が満ちている状態であったとしても油断しないでいられた。そして休憩を受け入れられたのだった。そもそも男の体力が自分よりも少ないのはわかっていたので、そろそろ休ませようと考えているところでもあったのだ。丁度いいタイミングだったので、拒否する理由はなかった。



 二人の様子をぼんやりとみていた錬太郎の腕を鬼島笹百合が引っ張った。そしてこういった。

「そろそろ先に行こう?」

 錬太郎に先を急ぐように言う鬼島笹百合の顔色は良くない。あまり少女と男にかかわりあいたくないのがわかる。

 この鬼島笹百合であるが、実のところそれほど社交的な人間ではない。まったく人と会話をしないということはないし、初対面の人間ともそれなりに会話ができるのだけれども、それでも人との距離を縮めるのは苦手な人間である。

 錬太郎のように会話ができ遊べるというのは、かなり長い間付き合いがあったからできることである。それこそ錬太郎の姉、花飾晶子と遊んでいる間に、錬太郎とは何度も顔を合わせ、また遊んでいる。その経験が、錬太郎との距離を縮め仲良くやれている理由なのだ。

 しかしこの少女と男は完全な初対面。そして完全なよそ者である。そのため鬼島笹百合はかかわりたいと思わない。自分たちのコミュニティーの中に入ってきた侵入者であるとさえ思ってしまう。そんな気持ちがあるため、さっさと先に進もうじゃないかといって錬太郎に提案し、腕を引くようなことをしたのだった。

 この先を急ごうという鬼島笹百合に合わせて、葉波根みなとが合わせた。

「そうだね。錬太郎、ゴーだよ」

 錬太郎に肩車をされている葉波根みなとは、軽く足をばたつかせていた。馬に乗っている騎手がやるような動きである。

「足を止めるな波根の道を先に進め」

と錬太郎に指示しているのだ。

 この時の葉波根港であるが、やはりというべきか表情が暗かった。この理由ははっきりとしている。鬼島笹百合と同じである。あまりよそ者とかかわりあいたくないという気持ちが葉波根みなとにあった。ただここで、わずかな疑問も浮かぶだろう。それは錬太郎はどうなのかという疑問。錬太郎もよそ者ではないのか。確かに錬太郎はよそ者である。

 しかし少女と男にはないものが錬太郎に二つある。その二つが、葉波根みなとの信頼感を高めているのだ。

 二つとは鬼島山百合、鬼島兵辰、鬼島笹百合の三人が完全に錬太郎を信頼しているということ。そして錬太郎が海波根島の祭りで使われる正装をきっちりと着こなしていることである。

 自分の信頼している人間が、信頼している人間というのはそれだけで信頼するのに足りる。特に、自分が信頼できている人間の複数が大丈夫だと評する人間ならば、敵対心はおこらない。ライバルだと思う気持ちは沸くかもしれないが、これは健全な気持ちだ。

 また、錬太郎はよそ者であるというのに誰よりも海波根島の正しい格好をしている。これは、海波根島の神社の娘である葉波根みなとにとって好感が持てるところだった。

 単純に、この暑苦しい恰好で歩き回り行事を行ってくれるというのは、神社の人間にとってはうれしい。鬼島山百合は恰好などどうでもいいような話をしていたけれども、伝統を守り切ってくれるのならそれが一番なのは言うまでもないのだ。

 この二つの違いが、錬太郎に対する信頼感になっている。錬太郎にはこの二つがある。そしてこの二つを持つことで手に入れられた錬太郎との短いながらも楽しい時間が、信頼に変わったのだ。 少女と男にはどちらもない。もともと思い切って人の中に飛び込んでいくタイプではない葉波根みなとにすれば、あまり近寄りたくないのは当然のことだった。


 鬼島笹百合と葉波根みなとに促されて、錬太郎は先に進んでいった。少女と男を置いていく時錬太郎は二人を横目に見ていた。実に怪しい光景だった。少女と男が一緒にいることではない。少女が男のことを先生と呼んでいるのがいかがわしい関係を思わせたのではないのだ。

 これは錬太郎の見た目が怪しかったという話である。錬太郎は木彫りのお面をかぶり、暑苦しい法被を着ている。その上女性を肩車して歩いているのだ。怪しいにもほどがある。これが少女と男を横目に見ながら通り過ぎるというのは、あまりにもホラーだった。

 しかし驚かせようとしてのことではない。単純に心配だったのだ。男の体調の悪さ、そして少女。もしものことが起きたとして、対応できるのだろうか、そう思うと心配でならなかった。

 しかし声をかけるのはためらわれた。なぜなら少女と男は、すでに体調を回復させるための行動をとっていたからだ。これ以上何かをするというのは、少しおせっかいが過ぎるのではないかと錬太郎は考えた。

 あまりうるさく言うのも嫌われるだけだろうし、そもそも相手は大人であるから、それなりに考えがあるのだろうとも思った。しかし一応はそういう二人組がいたと頭に入れておいて、先に進んだ。ただ、そんな気持ちを持って歩くものだから横目に見るようなことになり、非常に怪しい人物になってしまったのだった。


 先に進んでいった三人を見送りながら少女が男に話をしていた。

「ねぇ、お父さん。あの人少しもつらそうじゃなかったね。私みたいな力があるのかしら?」

 波根の道をどんどん先に進んでいく三人組を見送りながら、男のことをお父さんと呼ぶ少女は、木陰に腰を下ろした。腰を下ろした場所は、父親の隣である。

 少女の表情は真剣そのものであった。少女は結構な汗をかいていた。隣に座っている父親ほどではないが、汗をかいていた。間違いなく暑かったからだ。空気も熱せられていて絡み付いてくるほど重い。いくら運動能力が高くとも、運動で発熱する以外のところから体温は上がってくるのだ。そんな状況で、少女は錬太郎が非常に不思議だった。

 自分でもじりじりと体力を削られていくというのに、どうしてあの大男はまったく体力を消耗していないのかと。少なくとも、はじめて集合場所で発見した時と全く変わっていないのだ。少なくとも体力を消耗してバランスを乱してもない。

 これは自分の父親のように疲れ果てて息が上がっているわけでもなければ、少し体力を使ったせいで歩くスピードが遅くなっている少女のような状態になっていないということである。いくらなんでも荒れた波根の道を一時間近く歩いてきたというのに、平たんな道をゆっくりと歩いてきたような印象を受ける錬太郎というのはおかしな存在でしかなかった。

 少女の父親はこういった。

「わからないな。体格が非常に良かったから、単純に体力があるだけかもしれない。軍隊で鍛えているような人間なら、このくらいの道なんて大したことはないだろう。

 仮に、体力があるだけだとしても、熱に対して強すぎるように思うけどね。まったくあの大男からは汗のにおいがしなかった。体温も全く上がっていないようだったし、なんだろうねあれは。

 島の人間じゃないみたいだし、もしかしたら外で見つけてきたのかもね、どこのだろう本当、全く分からない」

 少女に自分の考えを話しながら、少女の父親は荷物から扇子を二つ取り出した。そして、一つを自分の娘に渡した。取り出した扇子で風を起こして涼もうじゃないかということである。

 少女の父親は、まだ息が荒い。いくら呼吸をしても涼しい風が吹いてこないのだから、気分はいつまでも悪いままなのだ。

 しかし疲労困憊といった風であるが、その眼はぎらついていた。これは、自分たちの目の前に現れた、奇妙な格好をした大男、錬太郎についていろいろと考えを巡らせているからである。あの、奇妙な格好の錬太郎はまったくといっていいほど調子を崩していなかった。足の運び方、また華奢な女性を肩車をして平然としている姿は、明らかにおかしい。

 それがどういう理屈から起きているのかを考えるとき、少女の父親の胸は高鳴り、また興味がわき始めるのだ。ただ、立ち上がり調べまわる体力はなく、体力の代わりに気力を振り絞るほどというところまでの興味はなかった。

 あの大男はもしかしたら特別な人間なのかもしれないと父親が答えを出したのを聞いて、少女はこういった。

「そっか、それじゃあ私と同じだ。後で電話番号でも聞いておこうかな」

 自分と同じであるといって少女は笑った。少しほっとしているのと、警戒している色が混じっていた。警戒しているのは間違いなく錬太郎の背格好の問題である。

 どこからどう見ても怪しく、好感を持てるファッションではない。また、波根の道でであったのがまずかった。ハロウィンパーティーの会場で出会っていたらきっともう少し好感が持てただろう。これはしょうがないのだ。

 波根の道は木々に囲まれていて非常に静かだ。聞こえるのは自分の足音と呼吸の音。遠くから聞こえてくる鳥の鳴き声ばかり。セミの鳴き声さえ遠い。そんなところに奇妙な格好をした大男が女性を肩車をしたままで近づいてくる。

 怪しいにもほどがあった。心が弱ければ悲鳴を上げるような状況なのだし。また、ほっとしているのは単純に同類が見つかったかもしれないという喜びである。特別な身体能力を持っているというのは優越感があるという以前に、さみしい気持ちにさせるものでもある。特に普通ではないといわれるような能力を持っているのならば、さみしい気持ちは優越感よりもはるかに強くなる。

 そんなさみしい気持ちは同じ存在と出会うことでほんの少しだけ和らぐのだ。自分は一人ではなかったと思える。それが彼女を少しだけほっとさせたのだった。

 自分と同じなのだなと少女が笑うと、父親はこういった。

「そうだね、同じだ。まぁ、本当のところはわからないけどね。本当によく鍛えているだけという可能性もあるから忘れないように。

 まぁ、ほとんどないとは思うけどね、鍛えて手に入れた力なら筋肉が発熱しているはずだから、あれみたいには見えないのはおかしい」

 自分の考えを話す父親であるが、完全にうなだれて扇子を動かすだけの機械に成り果てていた。まったく考える気力も動く体力も残っていないのだ。錬太郎の状態についていろいろと考えを巡らせるよりもずっと大切なことがある。

 どうすれば涼しい風を起こせるのかである。そしてどうすればさっさとクーラーのよく聞いた部屋に戻り、冷たい飲み物にありつけるのかであった。目の前の明らかに怪しい何者かよりも大切な問題だった。

 ほとんど動けなくなっている父親に向けて、少女はこういった。

「お父さんはもう少し運動したほうがいいと思うよ。こんなのじゃいつまでもご神体にたどり着けないわ。

 ご神体まで行けばもっと研究が進むんでしょ? この島くらいだよよそ者にチャンスをくれるの。ほかのには乗るどころか、見るのもアウトなんだから」

 父親の隣に座る少女は、真剣だった。研究の心配ではない。それではなく父親の体力、体調を心配しているのだ。

 自分と血がつながっているのだから運動に素質があるのは間違いない。しかし普段の父親はほとんど机仕事としかしていないため、運動不足である。年齢を考えると若く見えるけれども、それは遺伝であって特にこれといった対策をとってのことでない。

 美容だとか、トレーニングをしているわけではないのだ。そのため今回のような体を動かすような行事に参加するとあっという間にぼろが出てくる。少女もそれほどトレーニングをしているわけではないけれども、しっかりと動き回っていれば自分と同じくらいの動きができて当然だと思っている。それがこの体たらくであるから、そろそろ改善したほうがいいだろうと思う次第なのである。

 少女にもう少し動いたほうがいいと言われると、父親はこういった。

「一応の目的は達成できているから、良しとしよう。ご神体までたどり着けたら最高だけどね。

 杖を調べられるんだ。これで十分だ。うん」

 うなだれた姿勢のままで、父親は木陰に放り投げていた杖を指出した。杖は二本ある。これは行事に参加する際に与えられた杖である。

 ぼろぼろになったさみしい神社から錬太郎が運びだした荷物の杖の一本である。少女の父親の目的を達成するためにはご神体のところまで行けるのが一番理想的である。しかし、海波根島の祭りを調べに来て調べなくてはならない最低限のところを考えると、ぼろぼろの倉庫の中から錬太郎が運び出した杖を調べるだけで十分足りるのだ。

 そろそろ体力が限界に近づいている少女の父親にとって、無理をするつもりというのはなく、というか、現実的に非常に難しいのがわかっているので、引き際をわきまえて行動していた。

 高望みをして、波根の道で倒れたとしたら間違いなく終わりである。助かる可能性は非常に低いだろう。祭りの役員たちが助けてくれるという話をしていたけれど、たまたま偶然見落とされる可能性もある。

 そんなことを考えると無理はできなかった。杖という最低限調べたい品物を調べられるのならば、満足するべきだった。

 ご神体めぐりで配られた杖を父親が調べ始めた。そうすると、少女がこんなことを言った。

「もう! つまんない」

 つまらないといいながら、少女は天を仰いだ。父親の隣に腰を下ろしたまま、扇子で風を起こしていた。少女は父親の言わんとすることを理解したのである。

 つまり、少女と父親は機会を見計らってリタイアするということ。少女にしてみれば波根の道は暑苦しく長い道であるけれど、歩けない道ではない。これをリタイアするというのは少し面白くない。自分がこの試練に敗北したような気がするからである。

 しかし納得はできるのだ。やることをやったのだから、さっさと引くべきである。なぜなら少女たちはよそ者だからだ。できるだけ早く問題を起こさずに外に出るのがいいだろう。だから納得はできる。文句は言わない。ただ、父親が自分を放っておいて杖を調べ始めるのはよくなかった。非常に退屈だからである。実際少女が文句を言うけれど父親はすでに調査に没頭して、全く相手をしてくれなかったのだから、少女はこれから調査が終わるまで一人でぼんやりしているしかなくなるのである。



 少女と男の二人組との出会いから十分ほどしてからのことである。歩きながら錬太郎は二人に聞いた。

「ご神体って、どこにあるんですか? さっきの子がものすごく遠いみたいなことを言っていましたけど」

 鬼島笹百合と葉波根みなとに質問をしながら、錬太郎は波根の道を歩いていた。錬太郎はいまだに葉波根みなとを肩車した状態であった。鬼島笹百合は錬太郎の斜め前を歩いているのだけれど、歩くスピードは遅かった。

 ご神体の場所を質問する錬太郎であるが、片手に団扇を持っていた。これは、鬼島笹百合が持ってきた団扇である。この団扇で風を起こしているのだけれども、風を受けているのは鬼島笹百合である。錬太郎が団扇で風を起こしているのは、鬼島笹百合が暑くて仕方がないと文句を言い始めたからであった。

 鬼島笹百合が文句を言う間、どう見ても錬太郎に背負ってほしいという顔をしていたのだけれども、葉波根みなともそこそこに体力を使っていたので、なかなかうまい具合に交代できなかった。

 ただ、鬼島笹百合の顔を見れば、言いたいことは錬太郎もわかるので、少しでも楽になるように団扇を借りて鬼島笹百合に風を起こして我慢してもらっていた。

 三人とも暑さについての条件はまったく同じであるはずなのだが、間違いなく錬太郎だけが全く暑さに影響を受けていなかった。むしろ錬太郎の格好を見れば、一番に倒れるのは錬太郎であるはずなのだが、まったくそんな様子はない。むしろ涼しいとさえ思っている。

 なので全く錬太郎は二人に対して気を使うのをおかしいとは思っていなかった。自分が非常に余裕があるので、相手を思いやることができていたのだった。

 錬太郎がご神体までの道のりについて質問をすると、肩に乗っている葉波根みなとが答えた。

「島の中心に滝があるんだけど、その裏側に洞窟があるんだ。波根の道を使わなければ簡単に見に行けるよ。

 港から一直線に道がつながっているから本当にあっという間、波根の道を使うと大体三時間か二時間半くらいじゃないかな。

 いちいち時間は測っていないけど、そんなもんでしょたぶん」

 肩車をされている葉波根みなとはパタパタと足を動かしていた。波根の道を高いところから見下ろして、楽しんでいるように見えた。また、非常に快適そうに見えた。汗もかなり引いている。葉波根みなとは波根の道の暑苦しさから解放されつつあった。

 不思議なことであるけれど、粘つくような空気が錬太郎の周りにはないのだ。涼しい風が錬太郎の体のすぐそばで巻き起こっていて、それが非常に気持ちがいい。なぜ風が吹いているのかなどというのは葉波根みなとにとってはどうでもいいことであった。

 ただただ、風の吹かないところで気持ちのいい風を感じられるのなら、それでよかったのだ。また、かなり視点が高いところから見る景色というのもそれなりに楽しいものがあったので、ずいぶん気分転換ができていた。暑苦しくてつらいだけのご神体めぐりが楽しくなり始めているのである。

 葉波根みなとの答えを聞いて錬太郎はこんなことを言った。

「二時間、三時間くらいの道のりなら簡単じゃないですか?」

 葉波根みなとに質問をしながら、錬太郎は少し強めに団扇をあおいだ。団扇の風が向かう先にいるのは鬼島笹百合である。

 葉波根みなとと錬太郎が会話をし始めると鬼島笹百合が非常に恨めしそうな目で、見つめてきたのだ。どう見てもさっさと葉波根みなとを下ろして自分を背負えと思っている顔をしている。まったく年上の威厳もなければ余裕もない。

 しかし不安定な足場の道を暑苦しい空気に絡まれながら歩けば、余裕はなくなるは当然のことである。人間のきれいな部分は余裕がある時にしか見えないものだ。聖人ぶっている人間でも夏の暑い日の中を延々と歩きまわり汗で不愉快になっていれば、いよいよ荒っぽくなっていく。

 鬼島笹百合も同じなのだ。そろそろ汗をかきすぎて先輩ぶりたいという気持ちがどうでもよくなり始めていた。錬太郎は、この変化をよく感じとって少しでも機嫌をなおしてもらえるように頑張っていた。できることといえば、団扇を強く仰ぐくらいのものでしかないのだけれども。

 葉波根みなとを強制的におろすというのも選択肢の一つとしてはある。

 ただ、まだ十分か二十分くらいしか休めていないので、どうなのかなという気がしてならない。つまり、葉波根みなとのほうが消耗しているだろうから、もう少し休ませたほうがいいだろうという配慮である。その配慮があるものだから、葉波根みなとを何ともできず団扇であおぎながら鬼島笹百合の気を紛らわせるように会話をするだけになってしまうのである。

 錬太郎がご神体めぐりなんて簡単ではないか、というと葉波根みなとがこういった。

「そうだね。実際滝までたどり着くのはそれほど難しくないんだ。

 それでもたどり着けるのは一人か二人くらいだけどね。熱中症覚悟で突っ込めば行けると思う。

 でもそこからが難しいんだ。滝の向こう側、ご神体へまでの道というのが真っ暗なんだよね。入り口を見ただけで通りたくないと思う人がいるくらいに不気味なの。まぁ、見てみたらわかるよ」

 錬太郎にご神体めぐりの難しさを説明しながら、肩車をされている葉波根みなとは少し足を閉じた。そして、錬太郎の頭に体重をかけた。上半身を錬太郎の頭に向けて傾けたのだった。

 どう見ても嫌がらせのような行動である。実際嫌がらせの行動である。少しだけ錬太郎の言い方に葉波根みなとはカチンと来てしまったのだ。

 具体的には波根の道を歩くのはそれほど難しいことではないと言い切ったところにカチンと来ている。葉波根みなとは、錬太郎が簡単だという波根の道でさえまともに歩ききったことがない。毎年頑張って参加しているけれども、大体半分を過ぎたところで体力が限界を迎えてしまう。

 錬太郎のように、木彫りのお面をかぶり燕尾服のような裾の法被を着て歩きまわるなんてことはまったくできない。着ているのは波根の道の入り口でだけだ。しかしそれを錬太郎は簡単にやってのけた。

 これは少し腹が立つ。うらやましい。また、葉波根みなとだけに限った事かといえば、そうでもない。ほとんどの島人たちはそもそも半分まで歩くということもできないし、滝の裏側に入っていくこともできないのだ。

 なぜなら波根の道の空気は動くということを知らない。道を囲んでいる木々のせいなのか道自体の構造上の問題なのか風が吹かない。

 熱でとろけた飴のように絡み付く空気で体力を消耗してリタイアするのである。錬太郎は知らないことであるが、すでにご神体めぐりの参加者のほとんどはリタイアしてしまっている。錬太郎が簡単だと言ってのけた道を半分も行けずに脇道に入ってやめているのだ。

 この六十年の間、鬼島山百合ただ一人がやり遂げた理由はここにあるのだ。これを簡単だといわれてしまうと、海波根島で生まれた葉波根みなとにすれば、いい気はしない。少しくらい悪戯をしてもいいだろうと思えるくらいにはいい気はしないのだった。

 ただ、効果的ないたずらではなかった。錬太郎が全くこたえていないからだ。特に、上半身を後頭部にあずけられても道を歩く錬太郎の姿勢は変わっていない。よく見れば微妙に変化はあるのだ。後頭部に重さを感じているので少し首に力が入っている。それと後頭部に葉波根みなとの心臓を感じて、困っているくらいのものである。

 

 

 さらに十分ほど錬太郎たちは波根の道を歩いて行った。歩いている間に肩車をしている相手が変わっていた。葉波根みなとが波根の道を歩いていて、鬼島笹百合が錬太郎に肩車をされていた。

 鬼島笹百合はずいぶん力を抜いてリラックスしていた。というのが、鬼島笹百合が体力をほとんど失って、ついに歩けないと言い出したのだ。全く動けないということはないだろうが、そろそろ波根の道をリタイアして涼しい部屋で寝転がりたいと思う気持ちが葉波根みなとに付き合うという思いやりに勝り始めていた。

 鬼島笹百合の気持ちを知ってか知らずか歩けなくなるというので錬太郎が心配し始めた。そうすると、肩車をされていた葉波根みなとがしょうがないなといって錬太郎の肩を譲ったのだ。

 そうして歩けないといってごね始めた鬼島笹百合を錬太郎が担ぐことになったのである。ただ、鬼島笹百合がごねているというのも精神的に追い詰められ始めているだけではない。

 いよいよ、鬼島笹百合の体力は限界を迎えようとしているのだ。しかしそれは、鬼島笹百合だけではない。葉波根みなとも同じであった。

 波根の道を行く三人は非常に静かで遅かった。まったく足が先に進まなかった。葉波根みなとの足がなかなか先に進まない。錬太郎は葉波根みなとの荷物を持っているのだけれども、それでも足が動かなくなっている。錬太郎の肩でだらけている鬼島笹百合もまた、黙っていた。

 鬼島笹百合も口を開くだけの体力と気力が残っていないのだった。錬太郎は二人に合わせて行動しているので、普段では考えられないほどゆっくりとした歩みで、波根の道を行くことになっていた。錬太郎たちを包む空気は悪い。あきらめの空気が鬼島笹百合と葉波根みなとから発せられていている。

 しかし、それでもまだ歩いていた。ゆっくりとこれ以上ないほどゆっくりと先に進んでいた。

 頑張ろうと思っているからではない。葉波根みなとの目に力はない。口元は緩んでいる。ただ、歩いているだけだ。鬼島笹百合も同じだ。目に力がなくぼんやりとしているだけである。

 二人とも、全く力がない。心の力が失われている。この状況は、どう見てもやめてしまったほうがよかった。少なくとも錬太郎はそう思えた。これほど消耗しているのなら、やめるべきだろう。

 しかし言い出せなかった。錬太郎はただの付き添いで、歩きたいと始めたものがやめないからだ。


 ではなぜ、ここまで追い詰められても歩いているのか。すでに惰性で歩いているだけなのになぜ歩くのか。

 葉波根みなとが止まらないのは、また、鬼島笹百合がとめようとしないのは誰かがやめようというのを待っているからである。

 やめ時を見失っているのだ。言い出せなくなっていた。誰かに止めてほしいが、言えないのだ。お互いがお互いを思うことができているからこそ、決断が遅れている。

 つまり葉波根みなとは、鬼島笹百合が自分のためについてきてくれていることがわかっているから、情けないところは見せられないと思っている。頑張らないとだめだと思っている。だからやめられない。自分から辞めるなんて格好が悪かった。

 鬼島笹百合は葉波根みなとの憧れを知っている。鬼島山百合のように正式な巫女になりたいと小さなころから話をしていたのを知っている。今回も頑張っているのを見ている。だからやめろとはいえない。行けるところまで行きたいと思っているのならついて行ってやりたい。だからやめろと言えない。

 思いやりが、やめ時を失わせて無意味な消耗の時間を作っていた。この時間はとてもつらい時間である。どちらもなんとも言えない空気の中で苦しむことになる。それこそ、鬼島笹百合と葉波根みなとのお願いに付き合っている錬太郎に無慈悲な一言を振り下ろしてもらいたいと願うほどであった。



 それからさらに十分ほど歩いた。精神的に粘ついている空気の中で鬼島笹百合がこんなことを言った。

「あれ? ちょっと止まって、誰かいる」

 とまれと言いながら鬼島笹百合は錬太郎の頭を軽くつついた。鬼島笹百合の表情が一気に曇り始めた。自分たちが進む波根の道の先に、奇妙な人影が見えたのである。

 これが参加者のものであれば、鬼島笹百合が止まれなどということはなかった。よそ者の少女と男とすれ違った時のようにすれ違えばいいだけである。しかし今回は様子が違うのだ。というのが、すれ違うという状況がいかにもおかしかった。

 少女と男の二人組は鬼島笹百合たちに背中を向けている状態だった。これはつまり、波根の道を進もうとしていたということである。だから少女と男の二人組を見つけた葉波根みなとはあの人たちは先に進んでいた人たちで、これからも先に進もうとしているのだろうなと判断ができたのだ。

 これは、葉波根みなとだけができる判断ではなく鬼島笹百合が肩車をされている状態であってもできただろう。

 今回は違う。波根の道の奥これから三人が進む予定の道には自分たちに正面をみせて立ちふさがっている人影があったのだ。これはつまり、完全に邪魔をするつもりであるということだ。

 前に進んでいた人たちに追いついたのではなく、立ち止まり後ろからくる者たちに向けて何かをしようとしている人間ということになる。

 どう考えてもおかしなことである。邪魔をする理由がないのに、どうして邪魔をするのか。ご神体めぐりは道を最後まで歩ききれば終わりなのだ。

 そして人数制限もない。これはつまり歩ききればすなわちミコであるという判定が下されるということだ。六十年間新しいミコが現れなかったので、鬼島山百合しか巫女がいないが、複数のミコが連続して生まれるということもあったのだ。だから、邪魔をするのはまったく意味がない。

 鬼島笹百合はご神体めぐりがどのような制度でどのような仕組みなのかを知っているのでこのような状況が全く理解できなかった。自分たちの道をふさぐようにして立っている人影というのはどう考えても怪しかった。だから錬太郎に止まれといった。近づかないほうがいいと判断したのだ。





 鬼島笹百合の忠告を受けて、錬太郎はすぐに歩くのをやめた。怪しいものがいるらしいのが言葉の調子から分かった。そこからの錬太郎の動きは素早かった。

 鬼島笹百合を肩からおろし、一歩前に出た。鬼島笹百合に断りを入れる間もなく、胴体をつかんで下してしまった。そして、鬼島笹百合と葉波根港を隠すようにして、一歩前に出たのだった。事態が呑み込めていない葉波根みなとと鬼島笹百合は戸惑うばかりである。

 しかし錬太郎が何をしようとしているのかは、すぐ見当が付いていた。錬太郎が行っているのは戦いの準備だ。これから行う行動の邪魔にならないように鬼島笹百合を肩からおろし、そして鬼島笹百合と葉波根みなとに何者かが届かないように一歩前に出たのである。この時木彫りの鳥のお面の下、錬太郎の二つの目の奥に、夕焼けのような小さな光がともったのに気付いたものはいない。

 あっという間に臨戦態勢に入った錬太郎をみて鬼島笹百合がこう言った。

「錬太郎君?」

 錬太郎に話しかけながら、鬼島笹百合は葉波根みなとの手を握った。血の気が引いていた。鬼島笹百合と葉波根みなとの顔色は非常に悪かった。錬太郎が何をしようとしているのか二人は察したのだ。

 暴力沙汰である。それもしゃれで済まないような本気の暴力を使うつもりである。少なくとも錬太郎はそうするつもりに見えた。錬太郎の行動がアピールの類ではないと二人は察せられていた。つまり、格好いいところを見せようとして行動しているのではなく、本気で不審者の命を取りに行くつもりであると気づいたのだ。

 この心の切り替えを行った錬太郎はただ恐ろしかった。そして、そうしなければならない何者かがいるということも恐ろしかった。

 鬼島笹百合と葉波根みなとを背後に守りながら錬太郎は歩き出した。今までのようなゆっくりとした足取りはない。一歩一歩が大きく、少しも勢いを弱めていない。今まで緩やかに脈打っていた心臓は一気に高鳴り始めた。両手両足の先まで血液が駆け巡る音が直接鼓膜に伝わってくる。

 木彫りのお面の下、錬太郎の目は鋭くなり、口元はきりりと引きしまり問答無用の意思を反映していた。

 錬太郎は鬼島笹百合と葉波根みなとを危険にさらすつもりはない。そのため、錬太郎は自分一人でもしもの状況に対して挑もうとしていた。これでただの勘違いであればそれでよく、何かの悪行を考えているというのならば、叩きのめすつもりなのだ。

 錬太郎の覚悟を持っての前進は非常に恐ろしい姿だった。全身から漂う戦いへの気迫、見た目の大きさも合わさり腰が抜けそうな迫力があった。そして何より恐ろしいのは、そのお面の変化である。これがおそらく何よりおかしかった。

 修羅場に向かおうとしている間に、錬太郎の木彫りのお面が奇妙な変化を起こし始めていた。木彫りのお面の目の部分にあった銀色の飾りが震え始めたのである。水の表面に起こる波紋が銀色の飾りの表面に起こり始め、形を変え始めたのだった。

 金属色のアメーバがうごめいているような夢でも見ているような光景だった。この銀色のアメーバは速やかにお面全体に広がり、お面すべてを侵食してしまった。木彫りのお面はもうない。今あるのは銀色に輝いている右目を閉じたフクロウのようなお面だけである。この変化に錬太郎は気が付いていない。浸食が自然に、素早く行われたからである。

 

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