エピローグ 変わり始めた日常
錬太郎たちの町に向かう電車の中はまったく人がいなかった。乗客は鬼島笹百合と錬太郎だけで、あとは乗務員さんがいるだけである。
夏の暑い日、太陽が頭の上にぎらついている時間帯、そして人があまり来ないような土地の電車である。鬼島笹百合と錬太郎というお客さんがいるのも不思議なくらいだった。
当然のように二人は広々と空間を使える。しかし鬼島笹百合も錬太郎も四人掛けの席に座ってそれ以上特に行動を起こさなかった。錬太郎の荷物を天井近くの網棚に乗せて、鬼島笹百合のキャリーバックを四人席に引っ張り込んだくらいだった。
錬太郎が窓際に座り、鬼島笹百合は錬太郎の斜め前に座っている。
席に座ったところで鬼島笹百合が錬太郎にこう言った。
「さっきの子、気に入ったの? やめておいたほうがいいと思うな、私。
たぶん、晶子も同じことを言うと思うわ」
電車に乗る前に出くわした車川貞幸と丙花白、特に丙花白について鬼島笹百合はきつい評価を出していた。
鬼島笹百合の視線は、錬太郎に向かっていたけれども、錬太郎をしっかりととらえてはおらず、錬太郎に話しかけてきたあざとい少女、丙花白を見ていた。
自分たちに迷惑をかけた白百合に対する扱いよりもはるかにきつい感情が鬼島笹百合には浮かんでいる。
丙花白というのは、どうにも鬼島笹百合の評価からするとよくない女だった。丙花白のしたことといえば、精々錬太郎に近付いて携帯電話の電話番号を覚えてちょっかいをかけてきたくらいのことである。
白百合がしたことから考えるとまったく大したことはない。白百合は鬼島笹百合をさらい、そのうえ錬太郎に刺客を放ち、戦いの渦に放り込んだ張本人である。
海波根島の神様だから好き勝手してもしょうがないと納得することもできるが、個人的に白百合に対して鬼島笹百合はそれほど悪感情はない。
だから強くあたろうとしても精々少し悪口を言うくらいのもの、それも友達がじゃれるくらいの軽い悪口を言うくらいのものだ。それを実際にやっていたのは鬼島山百合や、葉波根みなとである。あの二人は白百合が神様だとわかって上で仕返しをしていた。
実際白百合もそれをよしとしているところがあったので、やろうと思えば鬼島笹百合もできるだろう。ただ、その仕返しというのも、友人や家族に対して軽くやり返すくらいの限度を守っているものだった。
憎しみというよりは、軽い苛立ちとか、相手をただそうとする気持ちからの行動である。丙花白に対しては違う。
完全に敵だと思って行動している。一度か二度しか顔を合わせていない相手に対して敵だと思うというのもなかなかきつい発想である。
しかし、そう思わせるのに十分な行動というのがあった。それが、丙花白の錬太郎に対する媚びた行動だ。客観的に見れば、メールアドレスを小さな女の子が聞いていたというだけだ。
それに錬太郎が困って、しょうがないから許してしまったというように見えた。おそらくあの光景を見て説明をしようと思えば、ほとんど人はただのメールアドレスをねだる少女というようにしか説明できないだろう。
ただ、実際に目の前であの光景を見せられていい感情を抱く女性はいない。男性からしてみれば非常にかわいらしい少女だというだけで終わりそうだが、女性からすれば錬太郎に近寄るあの行動は非常にあざとく、わざとらしくいやらしかった。
自分の武器を完全に理解したうえで絶対に断れないだろうというやり方で錬太郎を追いつめていた。武力を持って襲い掛かったのではないのだから強く責めることはできないだろうが、人の弱いところを女性特有の力を持ってつつき壊したのだ。
男性はよしというかもしれないが女性から見ると、なんてことをしているのかという気にしかならない。
これはそのままスポーツでルールを無視する相手に対して感じる不愉快と変わらない。もちろん全ての女性が激しい敵対心を覚えるわけではないだろうが、自分の友人の弟に対して、またそれなりに仲良くなっている男性に対してルール無用の攻撃を仕掛けられてしまえば、さすがにきつい当たり方をせずにはいられなくなる。
白百合はこの点に関してまったくルールを破っていなかった。だから白百合に対してほとんどの女性も男性もあまり悪い感情をもちにくい。間違いなく、一番被害を受けただろう錬太郎の場合は単純に白百合への不満は戦いで消化して、落ち着いたからおさまっているというだけである。
つまり、鬼島笹百合をさらい、攻撃を仕掛けてきたすべての不愉快は思い切りぶつかりあって終わりというさっぱりした感覚である。
鬼島笹百合が丙花白との付き合いは考えたほうがいいと忠告をして、数秒ほど間を開けてから錬太郎はこういった。
「気に入ったとかではないですよ。ただ勢いに押されただけです。
あぁ、でも姉ちゃんがいたらきっと半ギレしてたでしょうね。ああいうのめちゃくちゃ嫌いですから。
でも、少し気に……すきとか嫌いとかじゃなく、気になることがあります。あの丙花白って子、見た目こそ小学生みたいに見えましたけど、結構な技術を持っていましたね。
携帯電話の操作も恐ろしく速かったし、電話番号を一瞬で覚えて見せた。
だからなんだって感じですけど、見た目と中身がかみ合っていないような気がしたんです。
まぁ、そういう特訓をしてきたというのならあるかもしれませんが、子供らしくなさすぎるような気がします。
俺みたいなのを見てもビビっていなかったし、受け答えも異常なほどしっかりしてましたし……それだけですね」
電車に揺られながら丙花白について話をする錬太郎は、窓の外の景色を眺めていた。丙花白について話をしてはいたけれど、あまり興味はないというのが雰囲気から分かった。
そして鬼島笹百合に対して話をしているのは間違いないのだけれども、鬼島笹百合に対しても興味があるわけでもないというのがわかる。
錬太郎が今興味を持っていることは、実のところ目の前にはないのだ。錬太郎の中にあるのは、自分をどこに運んでいくべきなのかという興味である。
これは海波根島に来た錬太郎が、自分自身には動くための力と動きたいという意志があるということを自覚して、しかしそれだけしかないという真実に行き当ったことで目覚めた興味だった。
錬太郎はエネルギーが充実した飛行機。車。船のようなものなのだ。
最高に力に満ちていて、どこへでも行ける。しかし、どこへ行くべきなのか計画がない。海波根島に来る前の錬太郎はこの自分自身にすら気づけていなかったが、今は完全に自分をつかんでいる。
海波根島での出来事が出会った人々が、葉波根みなとのような先輩が教えてくれた。今生まれ育った町へ変える錬太郎は冷静で、急いで解決しなければならない問題はない。
錬太郎に接触してきた者たちについて考えるのは後でいいだろう。今、ゆっくりと電車に揺られて考えるのならば、自分の目的地についてだろう。
そしてどこへでも行けること、こだわらないで考え始めるといよいよ錬太郎は難しいことになる。今までは大学に行くとか、行かないとかいうくくりで考えていたのが、この時に至ってはまったく自由であることに気付いてしまえたからだ。
これは難しくすぐに出せる答えではなかった。この自分自身がどこへ行くべきなのかという考え、時間を割くに値する問題に対しての興味が、ほかのいろいろのものをどうでもいいと切り捨てさせた。
どうでもいいなどといいながらも丙花白について詳しい分析をかけている錬太郎の答えを聞いた鬼島笹百合は黙って錬太郎の横顔を見ていた。
鬼島笹百合の口元はしっかりと結ばれていて、真剣なまなざしだった。じっくりと錬太郎を観察しているようなところがある。ただ、それほど迫力があるものではない。じっと見つめて、見つめているだけにしか見えなかった。
何か分析する技術があるようなところはない。にらんでいるといわれるとそんな気もしてくる何となくかわいらしい姿だった。
錬太郎たち以外にはお客さんがいないので特に問題にならないのだが、明らかに鬼島笹百合が錬太郎を観察する様子というのはよくなかった。
ただ、鬼島笹百合にしてみると錬太郎がとても似ていたのだ。似ていたというのは鬼島笹百合の友達、一番信頼しているといっていい存在、花飾晶子と錬太郎がよく似ていた。
似ているのは当然である。なぜならば花飾晶子と錬太郎は姉弟である。当然だけれども、顔つきは似ている。錬太郎のほうがはるかに背が高いけれども花飾晶子も女性の平均的な身長から考えるとかなり背が高い。
二人が並べばやはり血がつながっているのだなと思える。
そうではなく、丙花白について話をする錬太郎、そして窓の外の景色を眺めている錬太郎の横顔が、鬼島笹百合の知っている思考の海に沈む花飾晶子の横顔によく似ていた。
鬼島笹百合に自分の考えを聞かせる花飾晶子の何とも言えない表情と本当によく似ていた。鬼島笹百合は晶子の横顔が好きだ。
非常に美しく、この美しさを知っているのは自分だけだろうなどと思うと優越感がわきだすほどだった。自分だけの秘密だとさえ思ってほかの友人たちには話したことさえなかった。そんな横顔が、錬太郎にもあることを鬼島笹百合は発見していた。
そして間違いないだろうかとじっくりと観察し始めたのだ。周りに乗客がたくさんいたり、錬太郎がもう少し強く回りを見ていたら観察はしなかっただろうが、錬太郎がリラックスしていて、周りに人がいなかったのでにらむような勢いで錬太郎の横顔を見つめていた。
しかし、遠慮なしに人を見つめていたらいつかは気づかれるものである。鬼島笹百合が錬太郎を観察し始めて十秒ほどで、錬太郎は鬼島笹百合に気付いた。
この時二人の目があった。そうすると鬼島笹百合は驚くべき勢いで顔の向きを変えた。体の向きも変えようとしていたが、特に意味はない。
目があった錬太郎だが、急にそっぽそむいた鬼島笹百合不思議そうに見ていた。しかし特に何も言わずに、再び窓の外を眺め始めた。鬼島笹百合が自分を観察していたなどと錬太郎は露ほども思っていない。
普通ならおかしな行動をとっていたのだから何をしていたのかと考えるところである。しかし錬太郎が座っている席は窓際の席である。
電車の窓際の席に座っているのだ。そのため錬太郎のように窓の外の景色を見ようとするとどうしても錬太郎のほうへ顔を動かさないと難しい。
反対側の窓から見るということももちろんできるので、特にお客さんが全くいないので当たり前のようにできるが、景色を見るのだろうなと思うと特に問題にはならなかった。
そもそもなぜ、鬼島笹百合が自分の顔を見る必要性があるのかが思い浮かばないのだ。
錬太郎からしてみれば、たまたま窓の外を見ようとして錬太郎と視線がぶつかった。そして鬼島笹百合が視線があったすぐ後に、顔をそむけた。それこそ深く考えることもなく自分と同じように外を見ようとして、目があって気まずくなったな、で終わるのだ。
そんな錬太郎だから、特に問題と思わずに再び窓の外を見始めた。そしてじっくりと自分がこれからどこへ行くのかを考え始めた。そしてその考えは既に今までのような大学にしか進まないというところから外れようとしていた。
さて、錬太郎と目があって、明らかに不審者的な反応を見せた鬼島笹百合だがごく自然に窓の外を眺めていた。
先ほど錬太郎と目があってあわてていたのだが、今はまったくそんな様子を見せていない。行儀よく席に座り、錬太郎と同じ方向を見ていた。ただ、今回は非常に高度な方法で見ていた。高度なというのは直接錬太郎を見ずに錬太郎を見ていた。
目の焦点は、窓の外に向いているのだけれども、意識は錬太郎の横顔に向かっているのだ。先ほどのような必死に観察するようなへまを犯すことはないとばかりに、微笑が浮かんでいた。
鬼島笹百合だが、どう見ても慣れている。慣れているというのは、観察する対象に対して気取られることなく観察することになれているということである。
これは、錬太郎の姉であり、鬼島笹百合の友人である、花飾晶子に対して同じようなまねをしていたからとしか言いようがない。
つまり、観察する対象に対して、できるだけ観察しているということを気づかれないように長い間観察してきたということである。それこそ長い間当たり前のようにつづけてきた日課のようなものであるから、その技術の高さは非常に高い。
どんなものでも長く続けていれば、一級の技術になっていくのだ。特に試行錯誤しながらなら特別な技術さえ生み出す。
それこそ携帯電話の操作であっても長い間続けていると恐ろしい速度で操作できるようになる。具体的に言えば、メールのうち方。携帯電話を初めて使う人の操作の速度と、熟練した人の速度はまったく違っている。
初めて使う人はどうやって文字を打てばいいのかも、どうやって送ればいいのかもわからない。しかし熟練した人は文字を打つのも相手にどうやって送るのかも、考えることもなく無意識に行うことができる。
それと同じなのだ。鬼島笹百合の観察する技術は長い時間をかけた研鑽の結果の産物なのだ。あまり大きな声で発表できるものではない。
それから二人は時々会話をしながら目的地まで過ごした。電車が何度か駅に止まったけれどほとんど人は乗ってこなかった。また、乗組員さんが切符を持っているかどうかということで何度か回ってきたが、一度目に回ってきたときだけ確認してあとはまったく素通りだった。
目的地、錬太郎が生まれ育った町にあと少しで到着というところだった、錬太郎は肩を揺さぶられた。肩を揺さぶられた錬太郎ははっとして目を開いた。きょろきょろとあたりを見渡して、鬼島笹百合の姿を見つけてほっとしていた。
錬太郎は眠っていたのだ。ほんの少しの時間十分ほどの短い眠りの中にいた。あまりにも電車の中が快適で、何の問題もなく、また錬太郎の体の中に疲労があったために、気持ちよく眠れていた。
そして肩を揺さぶられて目を覚ましてみると、そろそろ見知った風景が見え始めている。そして自分が気を抜いて眠ってしまったのだと察し、状況を確認し始めたのだ。もしかして寝過ごしてしまったのではないかと不安になったのだ。
錬太郎の肩を揺さぶっていたのは、鬼島笹百合だった。おそらく錬太郎の肩を揺さぶるためだろう、錬太郎の隣の席に移動していた。肩を揺さぶって錬太郎が目を覚ました様子を確認した鬼島笹百合は笑っていた。随分楽しそうだった。
それから八分ほど電車が走ってようやく鬼島笹百合と錬太郎は生まれ育った町の駅に帰ってきた。
電車から降りて、駅の出入り口付近まで来た二人は少し疲れているような雰囲気があった。長い時間電車に乗っていたので体中の筋肉が固まってしまっていた。しかしどことなくうれしそうな顔をしている。これは二人とも同じだった。
やはりこれは、自分の街へ帰ってきたということで安心できたことが大きい。
二人は海波根島で言いようのない経験をした。友達に話してみても家族に話してみてもおそらく嘘だと笑われる経験をしていた。その経験はかなり心と体に疲労を与えている。
いくら体を休めてもなかなか精神的な疲れは取れないものなのだ。そもそも昨日の今日であるから肉体的な疲れも取れていない。
鬼島山百合と鬼島兵辰の家でゆっくりと休めはしたけれどそれでもやはり実家ではない。安心感が違う。
そして、やはり二人にしてみると海波根島は自分たちの場所ではなく、帰る場所ではなかったのだ。仲良くできる人たちがいても住みやすそうであってもやはり自分の場所ではなかった。そして自分の場所ではないという感覚は、小さな不安を生み、少しずつ体力を奪っていく。
しかし今二人が立っている場所は違う。この場所は、錬太郎たちが生まれ育った場所は帰ってくる場所で、心休まる場所だった。疲労困憊で家に帰って休みたいという気持ちしかないけれど、笑顔が出てくるのはそんなほっとする気持ちがあるからなのだ。
鬼島笹百合と錬太郎が駅から出てくると、駅前に止まっていた車がクラクションを鳴らした。小さく三回ならして、こっちを見るようにアピールしているようだった。駅前に止まっている車に錬太郎は見覚えがあった。鬼島笹百合が錬太郎を迎えに来た時に乗っていた車である。しかし運転手は鬼島笹百合ではない。
鬼島山百合と鬼島兵辰にどことなく顔つきが似ている中年男性だった。この中年男性は鬼島笹百合と錬太郎が車を見つけたところで、軽く右手を挙げて見せていた。
そしてこの車の助手席には不機嫌な鬼島姫百合が座っていた。明らかに怒っている。鬼島笹百合をにらんで、さっさと車に乗れと手で呼んでいた。
迎えに来てくれている車を見た時には喜んだ鬼島笹百合と錬太郎だが、足がほとんど動いていなかった。錬太郎は荷物を運びこまなければならないので、しぶしぶ足を動かしていたが鬼島笹百合はまったく足が動いていない。
非常にゆっくりと十メートルほどの距離をじりじり詰めるばかりになった。どこからどう見ても車に近付くのを嫌がっている。できれば逃げたいという気持ちが全身、そして表情から読み取れる。
十三階段を上る時の囚人の顔はきっと彼女の顔とそっくりに違いない。
しかしそれでも前に進んでいるのは、逃げると余計にひどいことになるとわかっているからである。当然だが、逃げるという判断も頭の中にある。錬太郎が荷物を車に運んでくれさえすれば、問題はないのだからあとは逃げて、花飾晶子に鬼島姫百合の怒りを鎮める手助けを頼みに行けばいい。
鬼島姫百合は姉の鬼島笹百合に対してはきつめにあたってくるけれども、部活動の先輩で尊敬していると恥ずかしげもなく名前を挙げる相手、花飾晶子にはかわいらしい後輩に変わる。
そのため、いざというときには味方になってもらうために走るということもできるのだ。ただ、逃げた瞬間にもっと妹の怒りが増幅するだろうとも予想がつく。
そして鬼島姫百合がすでに花飾晶子に対して手を打っている可能性も高いのだ。何が怒りの原因になっているのかはさっぱりわからないけれども、下手に逃げていらない怒りを呼ぶ必要はないと判断した。
つまり、今この瞬間に怒りを受け止めるのと、変に行動して必要のない怒りを呼ぶほうがずっと怖かった。この損得勘定がきっちりとできていたので、いやいやながらもお迎えの車に向かって歩いて行けた。
そんな鬼島笹百合とは反対に錬太郎は結構普通に歩いて行った。鬼島姫百合が非常に怒っているらしいので、近寄りたくはなかった。
しかし鬼島笹百合の荷物を運ばなくてはならないので近寄らないわけにはいかなかった。錬太郎一人だけなら、あえて危ないところに近寄らずにさっさと家に帰ればいいのだ。駅から錬太郎の家までそれほど遠いわけではないのだから歩いて帰ればいい。
ただ、錬太郎は鬼島笹百合の荷物を持っている。これを運ばないわけにはいかなかった。一応荷物持ちということでついてきていて、最後までその役割を果たそうとしているのだ。それにいざとなれば、本当に鬼島姫百合の機嫌が恐ろしく悪いというのならば、何かうまいこと言ってさっさと逃げればいいだけだった。
錬太郎が逃げる算段をつけながら荷物を車に運んだ。そうすると、運転席に座っていた鬼島笹百合と姫百合のお父さんがこう言った。
「後ろのドアを開けているから、そこから荷物を入れてもらえる?
ごめんね、なんだか面倒くさいことになったみたいで。あとありがとね、錬太郎君。オヤジもおふくろも喜んでたよ。
後、乗ってくよね? 送ってくよ」
運転席から錬太郎に話しかける鬼島笹百合と姫百合のお父さんは、ゆっくり車に近づいてくる鬼島笹百合に向かってさっさとこっちに来いというジェスチャーをしていた。
鬼島のお父さんは随分急いでいるように見えた。海波根島から帰ってきたばかりの娘とそして錬太郎を随分せかす雰囲気がある。
鬼島のお父さんが急ぐのも無理はないだ。鬼島のお父さんが運転する車は駅の少し広い道路に止められている。この道路というのはタクシーだとかバスも通る道で、そして、ほかの利用者たちのお迎えのためにも使われる道である。
時間をきっちり確認してそろそろ帰ってくる時間だろうというところでぴたりと車を持ってきた鬼島のお父さんだが、あまり長く駅前の道を占領しておくわけにもいかない。
当然だがそれは迷惑だからだ。
確かに子供たちが疲れて帰ってきているのわかる。鬼島のお父さんもずいぶん遠いところにある島なので行って帰るだけでへとへとになるとわかっている。ただ、それはそれだった。
自分たちの都合を優先したいという気持ちと、ほかの人たちに迷惑をかけなければならないという事実を考えていくと、少しくらい急がせても全く問題なかった。
そのため錬太郎はさっさと移動していたけれども、近寄りたくないという顔をしている鬼島笹百合に対してさっさとこっちに来なければおいていくぞというような顔をして見せていたのだった。
それから十秒もしない間に、鬼島のお父さんが運転する車は動き出した。特に急いだ様子はない。運転のルールをしっかり守り、安全ないい運転だった。車の後部座席には錬太郎と鬼島笹百合が乗っている。
鬼島笹百合と錬太郎の荷物も一緒に放り込まれている。ただ少しだけ、鬼島笹百合が困った体勢になっていた。しっかりと椅子に座っておらず、ぐにゃっとなっていた。無理やり後部座席に放り込まれたような、そして今まさに姿勢を直そうとしている最中という微妙な恰好だった。
鬼島笹百合の隣に座っている錬太郎は、申し訳なさそうに鬼島笹百合を見ていたが、特に謝ることはなかった。鬼島笹百合に対して謝るよりも助手席でなぜだか怒っている鬼島姫百合のほうがはるかに恐ろしかった。
錬太郎がしたことというのは大したことではないのだ。ゆっくり歩いている鬼島笹百合を見た鬼島姫百合に
「錬太郎くん、あれを車の中に放り込んでくれないかしら?」
と命令されて、従順な犬のように後部座席に運び込んだだけである。ただ、放り込んだわけではなく肩に担いで、丁寧に後部座席に運んでいた。
もちろん失礼であるから、あまり良くないのはわかる。ごめんなさいといいたい気持ちはある。しかしどう見ても起こっている鬼島姫百合を前にすると、いまいち鬼島笹百合に対して謝れなかったのだ。
これは何とも言えない空気なのだが、ここで謝ってしまうと鬼島姫百合の怒りの矛先が自分に向くような気がしたのである。錬太郎もただの男子高校生、それも後輩でしかなかった。
駅前から出発した車の中で、鬼島笹百合がこんなことを言った。錬太郎に運び込まれた時のような、何とも言えないぐにゃっとした格好からは復活している。そして、少し控えめに自分の妹にどうして怒っているのかを聞いていた。
「ねぇ姫ちゃん、どうかしたの? 私何か怒らせるようなことした?」
鬼島笹百合がどうして怒っているのかと質問をすると、鬼島姫百合が答えた。
「錬太郎君……御子になったそうじゃない?
おばあちゃんがメールをくれたわ。すごく喜んでた。それはいいの。六十年ぶりに御子が生まれたのは私もうれしいと思う。
嘘だと思ったけど、御子の証ももらえているし、信じたわ。
でもね、私が言いたいのはそこじゃないの。お姉ちゃん、私言ったわよね。悪い虫はダメだって。私の話を聞いていたのなら、あれは虫を寄せ付けるなという意味もあったとわかるはずだわ。
それで、聞きたいことがあるんだけどねお姉ちゃん。みなとちゃん、どうしたの?
言いたいことわかるわよね? 本当に、どういうことなの? あのみなとちゃんだよ? 本当にどういこと!?
頼子になんて言ったらいいのよ!? 絶対にばれるわ。ただでさえ最近感覚がするどくなっているのに、絶対に見透かされるわ……あたし、晶子さんみたいに演技うまくないもん……姉さんがいらないことをするからただでさえ怒っていたのに、これだと殺されるわよ私!? ぼっこぼこよ! ぼっこぼこ!」
助手席でかろうじて冷静さを保っていた鬼島姫百合が爆発していた。理由を説明している間にどんどん怒りが胸の奥から湧いてきているらしく、顔色が赤くなっていた。結構な勢いでまくし立てているんので割って入るのは難しそうだった。
運転席に座っている鬼島のお父さんは、われ関せずの態度を崩さず、安全運転を心掛けていた。バックミラーからうかがえる後部座席の様子から、自分の娘鬼島笹百合と、錬太郎がさっぱり理解できていないらしい困った顔を把握できていたが、割って入って娘の怒りを買いたくないとばかりにわれ関せずを保った。
そっちでどうにかしろと錬太郎に視線を送っているのは、なかなかだった。
かなり混乱している鬼島姫百合に鬼島笹百合はさっぱり何も言えなかった。困った顔をして、口をもごもごさせていた。そして隣の席に座っている錬太郎に助けてくれと視線を向けている。それはそうだろう。
鬼島笹百合はさっぱり理解できていないのだから。理解できないのは、そもそも何が問題になっているのかというところ。
鬼島姫百合が錬太郎にちょっかいを出すなといって何度も何度も繰り返していたのは鬼島笹百合は理解している。
そのため少しもそれらしいことはしていなかった。妹がそこまで言うのなら自分が変なことをしたらまずいだろうと考えた。
実際何もこれといった問題は起こしていないはずというのが鬼島笹百合の考えである。思い返してもそれらしい問題はない。
だからさっぱり怒られている意味が分からない。それこそ錬太郎に突っかかってきた存在を思い出してみてもこれだろうといえるのはせいぜい丙花白くらいのものだ。ここで葉波根みなとの名前が出てきてもさっぱり理解できなかった。
そしてわからないから、答えられない。問題が難しくてではなく、問題文自体が読めなくてわからないといった具合である。だから錬太郎に助けを求めた。もしかしたらわかるのではないかと。
そして混乱している鬼島の姉妹に対して、錬太郎はこういった。
「とりあえず、先輩にお土産渡しときますね。 白百合って人から譲ってもらったんですけどよかったらどうぞ。
後、池淵先輩が何か問題を起こしたっていうのなら、俺が話をしてみますよ。よくわからないですけど俺が問題を起こしたことで、そっちまで影響が出たんですよね?
夏休み明けでいいですか? 忙しいですよね?」
鬼島姫百合に対して話しかける錬太郎は、紺色のコートのポケットから銀色の貝殻を引っ張り出してきた。銀色の貝殻は、錬太郎につまみあげられるときらきらと輝いてい見せている。この貝殻が普通の貝殻でないのは一目で了解できる。
なぜならどこからどう見ても人工物らしい構造を持っていて、おそらく何者かが美意識をもってデザインしている形跡があった。
この銀色の貝殻を助手席に座っている鬼島姫百合に錬太郎は差し出していた。全く錬太郎の顔色に焦りも混乱もない。当たり前のようにポケットの中から銀色の貝殻を引っ張り出して、当たり前のように鬼島姫百合に渡していた。
もう少しあわててみたり困ってみたりするべきかもしれないが、錬太郎にとっては大して問題になるところがなかった。鬼島姫百合が何かいろいろと考えているのはわかるのだ。問題があるのもわかる。口ぶりからして池淵頼子から何か命じられているのだろうと推測できる。
ただ、ここで考えてみてもわかることではないし、問題自体がはっきりしていないのにいちいち謝ってみてもしょうがないという考えになっている。
そしてここで解決できる問題があるとすれば、池淵頼子と鬼島姫百合の間にある問題ではない。
ここで解決できそうな問題は、錬太郎がお土産を渡さなくてはならない人にお土産を一つ渡せるという問題である。つまり鬼島姫百合にお土産を渡せるのだから、渡して置こうじゃないかということで渡していた。
錬太郎は非常に頭の切り替えが早かったが、早すぎた。理にかなってはいた、かないすぎである。
錬太郎の急に見える行動を前にして、鬼島姫百合が驚いた。助手席に座っていた鬼島姫百合がびくりとはねて、助手席に手を伸ばしてきた錬太郎を見つめていた。いつも冷静沈着な鬼島姫百合がただの年相応の少女に見えた。
完全に虚を突かれたらしく反応できていなかった。それはそうで、今はお土産の話はしていない。
今していた話は、少なくとも鬼島姫百合が抱えて問題はお土産の話ではなく池淵頼子との約束と、約束を守れなかった鬼島姫百合、そして問題自体が理解できないいろいろな人たちという話だった。
それがどうしてお土産になるのか。まったく理屈が通らない。少なくとも鬼島姫百合からすると異次元からの切り返しだった。そのためまったく話題についていけなかった。そこまで頭の回転は速くなかったのだ。
数秒ほど固まっていた鬼島姫百合だが、やっと動き出した。錬太郎が差し出してきた銀色の貝殻を手のひらで受けた。そしてこういった。
「あ、ありがとう。大切にするわね……それにしてもきれいな貝殻ね。
白百合さんって人が、つくったの?
高かったでしょこれ、銀細工だし、めちゃくちゃ丁寧に仕上げられてる。
あ、そうだ。頼子ならできる限り早いほうがいいわ。
早いほうが絶対に私の被害が小さくなるから……そうね、今から予定を聞いてみて、それで錬太郎君予定を開けてもらえる? 私を助けると思って」
鬼島姫百合が錬太郎にお願いをすると錬太郎は答えた。
「もちろん。もともとお土産も渡さないいけませんからちょうどいいでしょう」
いつでもいいという雰囲気で錬太郎が答えると、鬼島姫百合は急いで携帯電話を取り出して、操作し始めた。使い慣れているらしくものすごい勢いで指を動かしていた。
鬼島姫百合は、池淵頼子に向けてメールを打っているのだ。電話でもよかったが、会話をすると何かぼろが出てしまいそうでできなかった。鬼島姫百合だが、錬太郎が池淵頼子といつでも会っていいという雰囲気で答えてくれたので、まったくためらうことがなくなっていた。
今までは鬼島姫百合の姉、鬼島笹百合がいろいろと迷惑をかけて、海波根島でもぼんやりとしか聞かされていないけれども面倒に巻き込まれた挙句、海波根島の名誉職である御子に命名されるという面倒の中にいる。
そんな錬太郎にさらに鬼島姫百合の面倒事、錬太郎と関係はあるけれども錬太郎が解決しなくてはならない問題ではない問題にも首を突っ込ませるというのはさすがに気が引けた。
そんなところだったのだが、錬太郎自身に許可がもらえたのでさてそれならばということで、いよいよ鬼島姫百合は自分の問題解決に動き出したのだ。
そして、鬼島姫百合が少し機嫌をよくして携帯電話を操作している間に、鬼島のお父さんが車を先に先に進ませていった。自分の娘が少し機嫌をよくしたのにほっとしたらしく、バックミラーに映っている錬太郎に、ウインクを送っていた。しかし残念なことに錬太郎は気づかなかった。
鬼島のお父さんの運転する車が錬太郎の家まであと半分というところに来たところで、鬼島姫百合の携帯電話が着信音を鳴らした。
鬼島姫百合があわてて携帯電話を操作して、うなずいた。そしてこういった。
「なんか、錬太郎くんの家にいるみたい。晶子先輩と遊んでるらしい……お土産楽しみにしてるって。
後、どんなお祭りだったのか話してほしいって」
池淵頼子からの返事を簡単に要約して錬太郎に伝えた鬼島姫百合は、ほっと胸をなでおろしていた。今までの緊張が一気になくなり、鬼島山百合や、鬼島笹百合、また白百合と同じような撫でやすそうな胸を押さえていた。
鬼島姫百合だが、やはり友人から罰を受ける可能性がなくなったのが一番うれしいことだった。今の今までは鬼島姫百合に対して友人が行うはずだったいろいろな罰というのが待ち構えていたのだ。
ただでさえ、鬼島笹百合が非常におかしな目的のために錬太郎を引っ張っていったという話である。
当たり前のように鬼島姫百合に対して友人がきつめのお願いをしてきていた。普段とても頼りになる友人であるからもちろん友人のお願いを聞くために動いていたが、失敗したらどうなるのかを考えると恐ろしくて仕方がなかった。
友人の性格ならば物理的な罰を用意することはまず考えられないけれども、結構な勢いでお願いをしてきたことを考えると、罰というのが精神的に傾いていたとしても恐ろしいのは想像するのに難しくない。
つまり、何としても罰から逃れたかった。そして罰を受けるかもしれないという予感は、鬼島姫百合の余裕と冷静さを簡単に奪ってしまった。しかしそれが、池淵頼子のメールでほとんどなくなり、よかったという気持ちでいっぱいになったのだ。
鬼島姫百合の話を聞いた錬太郎は少し黙った。考え込んでいるのだ。いろいろと考えて、離さなくてはならない内容と、話す必要のない内容を分けようとしていた。海波根島ではいろいろとありすぎたのだ。考えなくてはいつまでも話は終わらないだろう。だから考えた。
錬太郎がぼんやりと考え始めると、鬼島笹百合が助言した。彼女はこういったのだ。
「丙花とかいう子の話はしないほうがいいよ。あれは絶対に女に嫌われるタイプだから」
鬼島笹百合の助言に錬太郎はうなずいたが、運転席に座っていた鬼島白百合は聞こえないふりをした。丙花白といういまいちきいたことのないタイプの名前であったけれども、鬼島姫百合は女性だろうなというところまであたりをつけている。あたりをつけられたからこそ、知らないふりをした。きかないことにしたのだ。
どう考えても面倒くさいことになるのが予想がついたのである。鬼島姫百合はただでさえ池淵頼子に睨まれている。池淵頼子は鬼島姫百合の友達である。おそらく今までの友達の中で考えてみても一番仲がいいといっていいだろう。
しかし今は睨まれているのだ。それというのが、鬼島姫百合の姉の鬼島笹百合が錬太郎を彼氏代わりにして海波根島に引っ張っていくなどということをしたからである。
もちろん、鬼島笹百合も鬼島姫百合も池淵頼子に遠慮する必要というのはないのだ。なぜなら池淵頼子は錬太郎の彼女でもなんでもないからだ。そのため、鬼島笹百合が錬太郎を連れて行ったとしても、文句を言う必要はない。
ただ、正論を吐いて納得してくれるのかといえば全く話は違う。もともと心技体充実して人より頭一つぬきんでている池淵頼子が、最近さらなる段階へと進んでいるのも鬼島姫百合は気づいているが、それ以上に錬太郎に対する執着心もまた激しくなっているのを鬼島姫百合は恐れている。
自制心も人よりはあるだろうが、愛は限界を軽く超えてくる。
湧き出してくる怒りの感情を池淵頼子がどこにどうぶつけるのかは、彼女次第なのだ。この彼女次第というところに、鬼島姫百合がいる可能性というのが非常に高く、おそらく思いきりぶつけに来るだろうというのが鬼島姫百合の考えだった。
何せ今回の旅行に大反対していたのが池淵頼子であって、手を出さないように言い聞かせろとお願いをしてきたのも池淵頼子だったからだ。
さてそんな状況であるから鬼島笹百合が仮に錬太郎にちょっかいをかけていなくとも、別の女の影がちらつくようなことがあると非常に厄介なことになる。今聞こえてきた丙花白という名前の持ち主が男ならいいのだけれども、姉の話ぶりからしておそらく女性だろう。
なら聞こえないふりをして知らないふりをしておくしかない。鬼島姫百合がお願いされたのは鬼島笹百合にちょっかいをかけるなと圧力をかけろというだけなのだから、別の何かが近づいてきていたとしてもそれは約束上無視してかまわないという解釈である。
で、丙花白という名前を聞かないことにしたのだった。聞こえていたけれども知らないふりをするつもりである。
丙花白という正体不明の存在の名前を鬼島笹百合から聞かされた鬼島姫百合が、耳をふさいでいる間に、鬼島のお父さんの運転する車が花飾の家の前に到着した。そうすると、鬼島のお父さんに錬太郎がお礼を言った。
「ありがとうございました。 それじゃあ、失礼します」
家の前まで送ってくれたお礼を錬太郎が言うと、鬼島のお父さんはこういった。
「それじゃあ、よく休んでね。波根の道を駆け抜けたんでしょ? 明日はきっと筋肉痛だ」
鬼島のお父さんが笑って錬太郎をねぎらった。そうすると錬太郎はほほ笑みで返した。錬太郎は自分の荷物を持って車を降りた。その時に鬼島笹百合が、錬太郎に手を振った。そしてこういうのだ。
「またね、錬太郎くん。いろいろあったけど楽しかったよ」
鬼島笹百合の別れのあいさつに錬太郎が答えた。
「まぁ、いろいろありましたけど……そうですね、こうやって帰ってこれたなら、オッケーですね」
鬼島笹百合に答えている時の錬太郎は実に複雑な顔をしてた。旅行の始まりを思い出して、波根の道を怒りにまみれてかけぬけたことを思い出して、夢の中の話だったはずの旅が真実の旅立った時の気持ちを思い出した。
そして、超能力を使った戦いを思い出し、謎の存在に追いかけられたことを思い出した。
いろいろなことがありすぎた。本当にいろいろとありすぎた。わずか三日間の旅行で、ほとんどの困難は一日の中に凝縮されていた。ただの旅行であれば、きっともう少し楽しげに話せたはずだ。
鬼島笹百合が錬太郎を誘った時の話の通り、祭りの手伝いをするだけでよかったのならば、きっとそれなりに楽しかっただろう。もしかしたら浜辺で釣りだとか、泳いだりして遊べたかもしれない。肝試しだとかもできたかもしれない。
そんな思い出だけならばきっと笑顔だけで済んだ。しかし錬太郎にはいろいろとありすぎた。
超能力の存在。鬼島笹百合をさらわれたことで感じた激しい怒り。戦いの恐怖を押しつぶす自身の狂気。超能力を使う人間と、海波根島の隠された地下都市。それもはるか古代の人間たちが作った恐ろしい技術。
そしてそこに住む銀色の巨大な猛禽類。白百合というはるか古代の戦いを知る存在との出会い。白百合の上司という睡蓮が錬太郎を狙っているという謎。海波根島での出来事は、喜びだけではなく怒りだけでもなく、いろいろな感情がわきだすものばかりだった。
鮮やかすぎて、たった一つの感情で言い表すのは到底不可能だった。
鬼島笹百合と錬太郎が別れの挨拶をすると、鬼島のお父さんが車を動かした。動き出した車を錬太郎は少しだけ見送った。それから錬太郎は玄関の扉をたたいた。錬太郎が玄関の扉をたたくと、家の中からどたどたと走ってくる音が聞こえてきた。
誰かが玄関の扉の前に来ていると察した錬太郎は、こういった。
「ただ今!」
数日ぶりに実家に戻ってこれた錬太郎はリビングでくつろいでいた。今まで来ていた夏にはふさわしくない紺色のコートは姉の花飾晶子が面白がって着て遊んでいた。
錬太郎の大きな体に合うように作られている紺色のコートがあまりにも大きく、花飾晶子が身に着けるとぶかぶかになる。
袖が長く手は隠れ、裾が長いので、引きずってしまう。それが面白くて、年甲斐もなく紺色のコートで花飾晶子は遊んでいた。
クーラーの効いたリビングで紺色のコートを着て、歩き回って遊んでいた。旅行から戻ってきた錬太郎はだらけてソファーに浅く腰掛けてテレビを流し見している。
姉と弟しかいないのかというとそうではない。花飾晶子と花飾錬太郎が好きなことをしているリビングに、行儀よくふるまっている池淵頼子がいた。
錬太郎が座っているソファーの少しあいているところに彼女は滑り込んでいた。ただ、錬太郎の体が大きいのがあって、彼女は少し窮屈そうだった。
さてそうしていると、紺色のコートで遊んでいた錬太郎の姉、晶子がこう言った。
「ねぇ錬太郎、なんかポケットの中に入ってるみたいだけどなにこれ? じゃらじゃら言ってるけど」
長い袖を引っ張って、手を出して姉の晶子はコートのポケットの中に手を突っ込んでいた。
少しもためらうところはない。見てもいいかとか、触ってもいいかなどと聞くところはまったくなかった。ごく自然に、当たり前のように中身を確認しに動いている。弟のことであるから、大したものは入っていないとわかっているのだ。
花飾晶子からしてみると錬太郎は弟である。長い間一緒にいるので、性格も考え方もわかっている。そのため本当に大切なものというのはたとえば秘密にしておきたいものというのがある時には、絶対に人の手が届かないところに持っていくと知っている。
重要度の高い低いの差はあるので、どれも同じようにはしないが、例えば携帯電話であれば、コートに入れっぱなしにするようなことはなくズボンのポケットの中に入れて、手の届かないところに置くというようなことをするとわかっているのだ。
そんな花飾晶子である。錬太郎からはぎ取ったコートの中に重要なもの、触って怒られるようなものがないというのは簡単に予想がついた。そのため、許可を得ることもなく、それこそ小銭だろうなくらいの気持ちで、ポケットに手を突っ込んでいた。
サイズのまったく合っていない紺色のコートに苦戦しながら姉の晶子がポケットの中身を探っているのを見ながら、錬太郎はこういった。
「お土産だよ。つばめと静にも持っていくから全部持っていかないでよ。姉ちゃんに一つ、父さんと母さんに一つずつ。 後、池淵先輩にも一つ」
二人掛けのソファーに座っている錬太郎が、けだるげに土産だと答えていると、姉の晶子はこんなことを言った。
「せめて何かに包んで持って帰ってきなさいよ。小銭かと思ったじゃない」
何とかポケットの中身を取り出しながら錬太郎に話しかける姉の晶子は、笑っていた。弟らしいなと思ったのだ。
お土産を、そのまま持って帰ってくるというのは風情がないなというような気がする行為である。普通は何か包んでみたり、贈り物なので、それっぽくするのがふつうである。
しかし、錬太郎はそうしなかった。無礼だなという考え方をすることもできるが、姉の晶子はそうではなかった。姉の晶子からすると弟はお土産すら買ってこないだろうと思っていたのだ。
それはどういうことかというと、錬太郎はそういうものにいちいち気を配ってみたり、お土産というのにそもそも興味がないのを知っている。これは錬太郎が贈るという行為にも受け取るという行為にもいまいち感動していないのを見ていたからわかることなのだ。
そんな姉の晶子であるから、お土産を持って帰ってきたというだけでもこれはとんでもないことで、持って帰ってきたとしても雑な扱いだなということでやはり弟らしいと思い笑ってしまった。
ただ、ポケットの中に入っていたものを見て、姉の晶子は固まった。白く薄い姉の手のひらの上に載っているきらきらと輝く銀色の貝殻たちは、生きているかのように震えていた。
姉の晶子の震えが、手のひらの貝殻に届いているのである。姉の晶子はこの世の終わりのような顔をして、じっと手のひらを見つめていた。そして、すぐに我に返り池淵頼子と窮屈そうにソファーに座っている錬太郎に向き、こういった。
「どうしたのこれ!? 強盗したの!?」
なかなかひどい姉の一言に錬太郎は特に気にせず答えた。
「祭りで活躍したら、島を仕切っている人がお土産に持たせてくれたの……それに値段はついてないよそれ。
デザインした人から直接もらったものだから」
錬太郎の答えを聞いた姉の晶子は
「デザイナー?」
とつぶやいていよいよ固まった。掌の中に納まっている銀色の貝殻の一粒を指先で摘み上げて、目の前でじっくり観察し始めたのだ。
そうして観察し始めると、ぴたりと動きを止めた。目がまったく目の前の銀色の貝殻から動いていなかった。この銀色の貝殻がとんでもない技術でもって作られていると理解できたからである。
錬太郎はさっぱり美術的な知識というのがない。そのため美術品を前にしても何となくきれいだなとか、美しいなくらいの発想しか持てない。
しかし姉の晶子はそれなりに美術的な知識がある。また、美術的な技術があるのだ。絵をかいてみたり彫刻をやってみたり、音楽もそれなりにできる。
プロフェッショナルなのかといわれるとそうではないけれど、一般人とは言い切れない技量の持ち主だ。で、そんな彼女だからこそ分かることがある。素人目では理解できない細かい細工。そして仕掛け。小さな銀色の貝殻に込められている銀細工の技術は少なくとも姉の晶子には全くまねできない領域のもので、教科書に載ってもいいくらいに丁寧な仕事ぶりだった。
間違いなく美術品と呼んでいい代物で、しかもめったに見れない領域の仕事ぶりであったため、姉の晶子はぴたりと動きを止めて観察に入ったのだった。
姉が動きを止めていると錬太郎と一緒にソファーに座っている池淵頼子がこんなことを言った。
「ねぇ錬太郎くん、海波根島ってどんなところだったの? どんなお祭りだったのか聞きたいな」
海波根島での出来事を話してくれとねだる池淵頼子は思い切って錬太郎に体を預けていた。二人座るといっぱいになるソファーに少しだけ隙間ができた。ただ、隙間ができても二人が楽に座れているということはない。むしろ熱量は増えていた。錬太郎に体を預けている池淵頼子だが、特に恥ずかしがるところはなかった。この程度なら全く問題ないだろうと非常に余裕を持った表情である。
池淵頼子の大胆な行動は、錬太郎についてそれなりに理解があるからである。もしも錬太郎が人との接触を拒むタイプであったり、逆に女性に引っ付かれてしまうと舞い上がってしまうタイプなら、こんな真似はしない。
池淵頼子は錬太郎がこの程度なら全く動じずに受け入れてくれると理解している。錬太郎とはそれなりに長い付き合いの池淵頼子だが、最近はよりよく錬太郎のことを理解できるようになっていた。
そんな彼女であるから、なれなれしいとしか言いようのない距離まで近づいてきて、体を密着させるというよりもあずけてくるような真似をしても全く問題ないと言い切れた。
で、彼女は嫌われることがないとわかっているので、当たり前のように錬太郎に接触してくるのであった。
池淵頼子にねだられた錬太郎は
「もちろん」
と答えた。そして錬太郎が話し始めようとしたところで、携帯電話が鳴った。誰のものかと着信音を聞き分けると、錬太郎の携帯電話だった。
錬太郎が携帯電話をズボンから取り出そうとした時、池淵頼子が嫌そうな顔をした。今から錬太郎が自分のために話をしてくれるというのに、それを邪魔する無粋な電話であったからである。ズボンから錬太郎が携帯電話を取り出すと、池淵頼子をちらりと見た。
錬太郎は池淵頼子に電話に出てもいいかの確認をしているのだ。そうして錬太郎が池淵頼子に視線を送ると、池淵頼子は軽くうなずいた。そうすると錬太郎は携帯電話にでた。携帯電話の向こうから、丙花白の声が聞こえてきた。
丙花白はこんなことを言った。
「あっ! 錬太郎ですか? 丙花です! ちょっと車川先生が伝えたいことがあるらしいのでお電話させてもらってます。本当なら自分で伝えたかったみたいだけど、今手が離せないので私が伝えます。
用件だけ手短に伝えますから、あとで答えをくださいね。では伝えます。
『十月に遺跡を調査するつもりなのだが、君も一緒に来てくれないだろうか。きっといい経験ができると思う。お礼の用意もあるので、期待していてほしい。車川貞幸より』
以上です。ごめんね、本当ならもっとゆっくりおしゃべりしたかったんだけど忙しくて、じゃあね!」
丙花白の一方的な通話が終了した時、錬太郎は茫然としていた。一気にまくしたてられて、さっぱり何が起きたのか理解できていなかった。携帯電話を耳元に構えたままで、固まってしまっていた。
錬太郎と一緒にソファーに座っている池淵頼子が鋭い視線を向けているのに全く気付かないほどであった。
しょうがないといえばしょうがないだろう。錬太郎は今頭の中でいろいろと問題を整理していて、周りの様子を把握するだけの余裕がないのだ。錬太郎にとって、丙花白からいきなり電話がかかってくるというのは思ってもいないことだった。
もちろん電話番号を教えたのは間違いないことであるから、いつかは電話がかかってくるということも考えてはいた。しかし、教えたのはほんの数時間前のことであるし、いきなり電話をかけてくるような用事ができるなどと思ってもいなかった。
そして、錬太郎に話しかける丙花白は有無を言わせない勢いがあった。これは早口だったということではなく、何を伝えたいのか、どうしたいのかをはっきりとわかりやすく伝えていたので、いちいち疑問に思わせることがなかった。
そのため錬太郎はただ情報を頭に叩き込まれるという状況に落とされたのだった。しかしそうなってみても疑問は残るのだ。疑問というのはどうして自分が遺跡に誘われるのかかという疑問。この疑問と、理解できている部分とがぶつかって、頭の中が混乱してしまっているのだ。これがもしも疑問だけの頭の中ならば、全く困ったことにはならない。
なぜなら疑問にだけ対処すればいいから。当然すべて理解できているのならば、全く問題ない。
しかしそうではない。錬太郎はいろいろと考えることが頭にあり、周りにまで注意をむけられなかったのだ。
疑問を解消しようと努めているため動きを止めている錬太郎のすぐ隣にいる池淵頼子は瞬きを繰り返していた。ぱちぱちと、一定のリズムを持って繰り返している。そして錬太郎が冷静になるよりも素早く、こんなことを言った。
「晶子先輩も忙しいみたいだから、錬太郎の部屋で話そうよ。いいでしょ?」
錬太郎の部屋で話そうじゃないかと提案する池淵頼子は答えを聞く前に動き出していた。錬太郎と座ると少し窮屈なソファーからゆっくりと体を引き抜いていた。その時に、錬太郎の太ももに手を置いて、立ち上がっていたが、特に悪いというような顔はしていなかった。
池淵頼子だが、今の錬太郎ならというか、錬太郎なら話を聞かせてほしいといえばどこででも話をしてくれるという確信があった。
もともと池淵頼子は錬太郎のことをよく知っている。錬太郎の幼馴染たち、早房ツバメや、万年院静香と比べると付き合いが浅いけれども、錬太郎と知り合ってからの年数を数えると、なかなか長いことになる。大体十年ほどであるから、錬太郎の人生の半分は大体把握していることになる。
つまり錬太郎の行動パターンを完全に把握されていたのだ。行動パターンを把握されているので、錬太郎がこのくらいのお願いなら簡単に受け入れてくれるとか、少し押さなければきいてくれないとか、また、絶対に受け入れてくれないというのがわかる。
今回のお願いはまったく大したものではなかったので、少なくとも池淵頼子はお願いすれば、部屋に入れると確信していた。
錬太郎の部屋に行きたいというお願いに、いまいち頭がはっきりとしていない錬太郎は反射的に「はい、いいですよ」
答えた。考え込んでいたせいだろうか、少しびくっと震えてから答えていた。どう見ても考えて答えを出したようには見えなかった。
間抜けな返事をきいた池淵頼子は錬太郎の手を引いてソファーから引っ張り上げて立たせた。ものすごく重たい錬太郎の体が、アッサリと動いた。無理やり立たされた錬太郎は体の力を入れ忘れていたらしく膝があやふやな状態になっていた。
しかしすぐに対応して、二本の太い足で立派に立ってみせた。
錬太郎がしゃんとすると銀色の貝殻を観察している花飾晶子を素通りして、錬太郎の部屋まで錬太郎を、池淵頼子は引っ張っていった。
ずんずんと花飾の家の中を進む池淵頼子は少しもためらうところがない。どこを歩けばいいのか、どの部屋なのかいちいち問いかけることはない。
我が物顔で家の中を歩いて行った。あまりに堂々としているものだから、池淵頼子の家なのではないかと勘違いしそうになる。
池淵頼子にしてみれば、花飾の家の中など自分の家と変わらないようなものだ。池淵頼子は小さなころから何度もこの家に来ている。何度も何度もこの家に来ているのだ。
トイレの場所はもちろんのこと、誰がどこの部屋を使っているのかというのも知っている。台所に至っては錬太郎よりもずっとよく知っているだろう。それこそ錬太郎が自分の家の中で迷わないのと同じである。
池淵頼子にとって花飾の家の中など自分の家を歩き回るのとそう変わらないのだった。だから自信を持って当たり前のように錬太郎を錬太郎の部屋に連れて行けるのだ。完全に立場が逆転していた。
錬太郎の部屋にあと少しというところで、錬太郎がこんなことを言った。
「先輩……俺がこれから話をすることは俺たちのこれからに関係する話です。もしかしたら先輩は聞かなかったほうがいいと思うかもしれませんが、それでも聞きますか?」
今まで池淵頼子のされるがままだった錬太郎が、急に動きを止めた。池淵頼子に話しかける錬太郎は、自分を引っ張っていた池淵頼子の手を払いのけていて、そして、今は池淵頼子の肩をつかみ、真剣な目で池淵頼子の目を見つめていた。
今までのような考え込んでいてぼんやりとした目はなくなり、ただ真剣で冗談など言わせない強い力がこもっていた。
これからしようとしている話は、とても大切な話なのだ。だから冗談など言わないし、言わせるつもりもないという気持ちになる。
錬太郎がこれから話して聞かせようとしているのは、海波根島で体験したすべてである。この体験とは家族にも幼馴染たちにも聞かせられない話である。
おそらく池淵頼子以外の人間には、都合のいいところだけをつまんで話をするだろう。しかし錬太郎はそれをしない。
なぜなら池淵頼子と錬太郎は、この世界で唯一の完成したネフィリムだった人間だからだ。
錬太郎が知り得た情報、海波根島で手に入れた情報はこれからの二人の将来に大きな影響を与えるだろう。
なぜならば白百合の話ぶりからして白百合と同じような存在、そして未来都市のような技術を持った者は複数対存在していて、そしてきな臭い問題が起ころうとしているのが察せられる。だから錬太郎は真剣になった。
自分が真剣になることで、池淵頼子にどうしようもない問題がやってきたと伝えるためだ。
錬太郎と見つめあっている池淵頼子は答えた。錬太郎の目を見てしっかりと答えた。
「……もちろん。じっくり話しましょう。私たちのこれからのことを」
錬太郎に答える池淵頼子はほほ笑んでいた。どこかはかない印象がある笑顔である。池淵頼子は、しっかりと錬太郎の顔を見ていた。真剣になっている錬太郎に負けず池淵頼子も真剣になっていた。
錬太郎がこれから話そうとしていることをすべて本気で受け止める覚悟が見えている。
池淵頼子はうすうす気づいていた。自分たちが見てきたもの、感じたものがすべて真実で、そして自分たちが戦い暴れた世界ははるか古代の地球であったということに。
あまりに現実離れをした世界で、あまりにばかばかしい戦いを繰り広げた経験は、夢であったと納得するほうがはるかに簡単だった。
何もなかったのだと思い、そう思い過せば楽だった。
しかし彼女にはそれができない。彼女の胸に出来上がったばかりのおそらく消えないあざが証明してくれている。あざの中心にはほんの少しだけ銀色の砂の粒が残っていて、胸の苦しみも、罪悪感も忘れさせてくれない。
そして自分自身を助けてくれた錬太郎の夕焼けのような輝きも。
夢のような物語について錬太郎は一切口に出さなかった。夢だと思わせようとしているのか、それともあえて避けていたのかは池淵頼子にはわからない。しかししっかりと胸に残された錬太郎のつけた痣が、嘘ではなかったと教えてくれていた。
だから錬太郎が今真剣になって話をするといった時その時が来たとだけ思い、覚悟を決めた。うすうす心の中にあった確信に近い予感が本当になっただけだ。あわてるようなことはなかった。
池淵頼子は錬太郎を抱きしめた。両手を伸ばして、錬太郎を自分のほうへ引っ張っていた。二人の体が少しだけ触れるところまで近づいた。しかしそれ以上苦しくなるほど近づくことはない。抱きしめられた錬太郎は黙っていた。何も言わずにされるがままになっていた。
ただ、錬太郎の両目は静かな決意があった。
池淵頼子が満足して身体を離すと、錬太郎は自分の部屋の扉を開いた。そして池淵頼子を招き入れて、話を始めたのだった。
夏休みは、あと少ししか残っていない。そしてどこへ行くのかという最終的な決定もまた、いつまでも待ってはくれない。ただそれでも、先に進まなければならない。たとえそれが、泥の中を突き進む道であったとしても。




