第八章 海波根島の日常
海波根島の島祭り最終日の朝が来た。まったくいつもと変わらずに太陽はのぼり、海は穏やかである。朝の早い時間から、島人たちは最終日の祭りのために動き出している。夏の太陽が空気を熱くしてしまう前に準備を終わらせる算段である。
鬼島の家で眠っていた錬太郎が目を覚ましたのも同じような時間帯だった。来ていた服がぼろぼろになり、赤黒く汚れているのも気にせずに眠りについたはずの錬太郎だったが、眠っている間に誰かが服を着替えさせてくれたらしく浴衣を着ていた。
しかしおそらく鬼島兵辰の浴衣なのだろうが、大きさがあっていなかった。錬太郎が目を覚ましたのは、腹が鳴ったからである。錬太郎の腹が、大きくなり、その音で目を覚ましたのである。しかしあまりのも腹の鳴る音が大きくて目を覚ましたというのはややウソがあるだろう。
錬太郎というのは海波根島の島祭りの二日目の朝から、何も食べていないのだ。鬼島の家で朝ごはんをごちそうになったのが最後で、あとはまったく何も食べていない。それはそのはずで鬼島笹百合を取り戻すために必死になって戦い、戦った末に力を使い果たして意識を失って三日目の朝に至っている。
身体をこれでもかというくらいに酷使したうえで、ご飯を抜いているのだ。体に疲労が残っていたとしても空腹で目が覚めてしまう。
少なくとも体を休ませなければならないほどの疲労状態からは脱することができていて、そしてそうなれば次に必要なのは、栄養補給だろう。そういうことで朝になってちょうどいい具合に空腹を感じ目を覚ましたのだ。
ただあまり顔色は良くない。目を覚ました瞬間から強烈な空腹を感じているのだから、あまりいい気持ちはしない。
鬼島の客室で目を覚ました錬太郎は立ち上がって何か食べるものをもらいに動き出した。しかし立ち上がろうとした時に錬太郎はふらついてしまった。体を起こすのにも苦労して、立ち上がるのも苦労して、歩くのに苦労した。歩こうとする錬太郎は歯を食いしばっていた。錬太郎の体に激しい痛みが走っているのだ。
この痛みは全身を包んでいる。まったく逃れることができない恐ろしい痛みだった。いわゆる筋肉痛である。
当たり前といえば当たり前のことで、錬太郎は恐ろしい量の運動をこなしている。超能力と呼ばれている力で体の補助をしていたのは間違いないけれども、補助はどこまで行っても補助なのだ。
錬太郎は全身全霊をかけて戦いに挑み、戦いをかけぬけてきた。確かに補助があるけれども全身を全く使わないという話にはならない。それこそ逆上がりをしているときに助けをもらってみても結局使うのは自分の力で、頑張りすぎれば体中にとんでもない筋肉痛が襲いかかるのは間違いない。
当然だが錬太郎は手加減などしているわけもなく筋肉はいつも以上に酷使されていた。となれば、次の日に訪れるのは間違いなく筋肉痛である。
それも全身全霊を持って行われた運動の筋肉痛である。体全体がつっていないだけましではないかというのが錬太郎の運動量からすれば当然なので、むしろ筋肉痛くらいで済んでよかったというところだろう。
何にしても痛みはとんでもなく体を起こすのも動かすのも恐ろしく時間がかかった。超能力を使おうと思っても錬太郎は日常生活に耐えらえるような繊細な技術を持っているわけでもないので、全く利用できなかった。というのが体の補助をしようと思い使ってみたら、体がふわりと浮かび上がって、バランスを失い、こけたのだ。
錬太郎がこけてバタンと音をさせると、廊下を走ってくる音が聞こえてきた。バタバタと少しも遠慮することなくかけてくる。音の調子から察するに体重の軽い女性だろう。床のきしむ音が鬼島兵辰や錬太郎のような体の重たい人間の発する音とは違っていた。
そうして誰かが来ているなと錬太郎が考えていると、襖が開いた。ふすまを開いたのは、葉波根みなとだった。葉波根みなとの頭には赤黒い禍々しいフクロウが止まっていたけれど葉波根みなとは全く気にしていない様子だった。
エプロンを着て料理の匂いを引き連れて現れた。葉波根みなとが急いで錬太郎のところへかけてきたのは、錬太郎のこける音がよく響いていたからである。錬太郎が眠っているということは葉波根みなとはよくわかっていたので、物音が聞こえてきたことでもしかしたら錬太郎が目を覚ましたのではないかと考えたのだ。
そして錬太郎が目を覚ましたのならば、様子を見ておかなくてはならないだろうと考えていた。錬太郎が非常に頑張っていたのを葉波根みなとはよく知っている。そのため、目を覚ました時にはいろいろと話がしたいと考えていた。ただ、葉波根みなとは少し眠そうだった。
錬太郎がこけているのを見つけた葉波根みなとは、こういった。
「おはよう、錬太郎。調子はどう?」
葉波根みなとが朝の挨拶を錬太郎にしていると、頭に止まっていた小さなフクロウが錬太郎の頭に飛んでいった。そして錬太郎の頭に着地して、毛づくろいを始めた。
頭にフクロウが着地した時に錬太郎は葉波根みなとにこう言った。
「おはようございます、調子はまあまあです。どうも筋肉痛みたいで」
錬太郎が筋肉痛だと答えると、葉波根みなとはこういった。
「そっか、あれだけ動けばしょうがないかな。動けそうにないなら運ぶけど? おなか減ったでしょ、先にお風呂入る?」
葉波根みなとが気を使っていろいろと世話を焼いてくれているところで、錬太郎がこう言った。
「大丈夫です、一応動けますから。 すみませんけど、お風呂貸してください。なんか体がべたついて仕方なくて」
錬太郎がフラフラと立ち上がっているのをみながら、葉波根みなとはこういった。
「あっ、そうだよね、ごめんね。
それじゃあごはんの用意しておくから。お風呂ならすぐに入れるよ、兵辰じいちゃんが、朝風呂してたから」
ふらついている錬太郎だが、何とか体を動かしていた。錬太郎が立ち上がり動き出すと、葉波根みなとも動き出した。どうやらは波根みなとも筋肉痛になっているらしく、近付いてみると非常にさわやかな香りがした。
錬太郎がフラフラと風呂場に向かっていると、鬼島笹百合とすれ違った。鬼島笹百合は錬太郎を見るとほっとしていた。そして笑顔を作ってこういった。
「おはよう、もう体は大丈夫? 足首はいたくない?」
鬼島笹百合に錬太郎は答えた。
「まだ少し痛いですけど、大したことはないです。ただ、筋肉痛がひどくて」
錬太郎の答えを聞いて鬼島笹百合はほっとしていた。錬太郎の体の心配を家族のように本気でしていた。
鬼島笹百合は錬太郎が死にかけているのを見ている。そしてさまざまな刺客おそわれて、戦い抜いたのを見ている。錬太郎が意識を失って波打ち際に倒れこんだのを見ている。それらを見ているとどうしても不安になってしまう。
どう見ても普通には起きない現象で、どう見ても命の危険があるようにしか思えなかった。そして錬太郎を失うことが自分のいろいろな、大切なものを失うきっかけになるのではないかと思えて、仕方がなかったのだ。
それは人間関係も、自分の内側にある美徳も含めてのいろいろである。鬼島山百合や鬼島兵辰。葉波根みなとそして白百合は錬太郎は疲れて眠っているだけであるから心配しなくていいといっていたけれども、本当にそうなのかなど医者でもなんでもない鬼島笹百合には判断が付かず錬太郎が動いているのを見る、今の今までまったく安心できなかった。
そうして今やっと錬太郎を前にして、ようやく彼女は安心して、笑顔を作ることができた。
風呂場の前で鬼島笹百合とすれ違った錬太郎はふらつきながらも脱衣所に入り浴衣を脱いだ。その時に気付いたことがあった。
それは左の足首に見事に痕が出来上がっていることと、蚊に刺されていること、そして右目の奥に夕焼け色の光がちらついていることであった。左足首の痕の理由はすぐにわかった。銀色の手に握られたことで、やけどの痕のような状態になってしまったのだ。
また、体に蚊に刺されたような跡があるのもわかるのだ。何せ海波根島は自然豊かな島である。虫だってたくさんいるだろう。生きるために血を吸うことだってする。たまたま錬太郎だったというだけだと納得した。
右目に関しては確証はないけれども予想を立てることができていた。錬太郎は神通力、超能力を使うことの代償だろうと考えた。ネフィリムだったころに身に着けた技を初めて使った時に右目の奥が焼けるように痛んだことを覚えていた。
海波根島の試練を乗り越えるために必死になって、力を使ったのだからこの程度の異変が起きるのはまったくおかしなことでもなく、錬太郎は騒がなかった。また騒ぐ必要もないのだ右目も左目も全く問題なく役割を果たせていた。錬太郎の目はしっかりと見えていた。
少しおかしな変化が肉体に起きていたが錬太郎は気にせずに浴室に入り、体をきれいに洗い、浴槽に沈み込んだ。あまりにも気持ちがよかったので眠ってしまいそうになったが、空腹が眠らせてくれなかった。
風呂場から出てきた錬太郎は、自分の客室に向かっていた。風呂に入って出てきたときに気付いたのだけれども、錬太郎は浴衣しか身に着けていなかったのだ。誰かが着替えさせてくれたのだろうけれどもさすがに浴衣のみで人前に堂々と出ていく勇気はさすがになったのだ。
錬太郎が客室に戻って着替えをしていると、鬼島笹百合が錬太郎を呼びに来た。
「あぁ、ここにいた。朝ごはんができたから居間に来てね」
鬼島笹百合に呼ばれた錬太郎は少し遅れて、今に到着した。かなり頑張って動いていたけれど、体の痛みがなかなかひどく思ったように動けなかった。今にはすでに鬼島山百合と兵辰。そして鬼島笹百合が食卓についていて、食事を運んでいる葉波根みなとの姿もあった。
食卓の様子を見た錬太郎だが、目を見開いていた。かなり驚いているようだった。当たり前のように食卓に白百合がついていたからである。鬼島山百合のそばに正座していて、箸を構えて待っていた。鬼島山百合や、鬼島兵辰のように落ち着いていなかった。早く料理を食べようじゃないかという気分で満ち満ちていた。
錬太郎の記憶が確かなら、白百合はご神体のある地深くで寝起きしているはずである。そもそもかなり無茶苦茶なことをしたのだから、どうして当たり前のように食卓についているのかがわからなかった。
驚いている錬太郎に、箸を構えている白百合がこんなことを言った。
「錬太郎ちゃん、早く座りなさいよ。いつになっても食べられないじゃない」
白百合にさっさと座れと言われた錬太郎はしぶしぶ座った。納得いっていないのがはっきりとわかる。それはそうで、白百合がこんなところにいるから困っているのだ。当たり前のように食卓に着けと言われても困るだけだった。
錬太郎がしぶしぶ座るのに合わせて、葉波根みなとも食卓に着いた。空いているところが錬太郎のそばしかなかったので、そこに葉波根みなとは座った。そうすると鬼島兵辰がこう言った。
「では、いただきます」
鬼島兵辰の号令に合わせて、みなそれぞれに感謝をささげた。一番早く食べ始めたのは白百合で、次が鬼島兵辰だった。錬太郎はかなり迷った末に朝ごはんを食べ始めた。隣に座っていた葉波根みなとが
「食べないの?」
と錬太郎に聞いて、自分の空腹を思い出したのだ。
朝の食事が始まって終わるまでの間、錬太郎は黙って箸を動かしていた。また、目も耳もできるだけ食事に集中するようにしていた。ただ、錬太郎の表情は暗かった。明らかに警戒しているのがわかる。
いろいろと問題があるのだけれども錬太郎の中では空腹が勝っていた。だから食事をやめるということはまったくありえなかった。
錬太郎にしてみると空腹はすでに限界を超えている。おなかがすきすぎて、特に風呂に入ったこともあって空腹は既に痛みに変わっている。
そもそも空腹を感じて目が覚めるほどだったのだが、それが温かい風呂に入って完全に目を覚ましたことで無視できなくなっていた。
白百合が目の前にいるのは間違いないことである。鬼島笹百合が白百合と仲良くしているところは見ているし、鬼島兵辰が敬っているところも見ているので鬼島の家に姿を現して、朝ごはんを一緒に食べているというのも不思議ではない。
背中の翼を隠せるのならば、全く問題なく外を出歩けるだろう。それこそ鬼島山百合が着ていた紺色のロングコートを着ていれば、翼を完全に隠せるに違いない。ただ夏なので確実におかしな目で見られるだろうが、間違いなく分厚い布と面積が隠しきってくれるからこれなくはない。
一番問題なのはどうしてあえて錬太郎の前に現れたのかである。錬太郎にしてみれば一番問題なのはここであるはずだ。何せあれだけ面倒を起こしてくれたのだから。また何かちょっかいをかけてくるのではないかと考えて、攻撃の一つでも打って出るべきというのも間違いない。
しかし、いろいろと白百合を見るだけで湧いてくる疑問よりも、空腹が勝っている。どうでもいいと思えるくらいに空腹だった。
それに食べている間にやや冷静になり、よく考えると眠っていたところを襲えばいいのに襲っていないのだから、敵ではないのかななどと抜けたことを考えたりもしている。そんな錬太郎だから、警戒しながら朝ご飯を行儀よく食べるのだった。
錬太郎が朝ご飯を一生懸命食べているところで、葉波根みなとがこんなことを聞いてきた。
「たくさん用意してみたけど、どう? 力を使った後はものすごくおなかが減るってきいたから。
量を優先したけど、味も結構うまくいっていると思うの」
錬太郎に料理について感想を求める葉波根みなとは、食卓の料理を見つめていた。箸はしっかりと動いていたけれど錬太郎のようにたくさん食べたいという気持ちで箸を動かしているようには見えなかった。
料理人が料理の味付けが問題ないかどうか調べているように見えた。そしてどこか自信がないようにも見える。葉波根みなとが食卓に並んでいる数々の朝ごはんを見つめているのは、少し不安があるからだ。
彼女は料理の専門学校に通っている。かなり勉強を進めていて、普通の人が料理を作るよりもずっとうまく料理を作れる。それは間違いない。
実際鬼島笹百合などと比べると失礼なほど技術は高く、また味覚も確かだ。それこそ和洋中、専門ではないけれどもお菓子まで作れる。
十分胸を張っていいところまで来ている。そうなって朝ごはんを作るというくらいの仕事をするのなら全く問題ないはずだ。実際問題ないのだ。食卓に並んでいる朝ごはんの量も質も見事だった。ただ、不安もある。
というのも葉波根みなとは錬太郎の味覚について情報を持っていないのだ。これはつまりどういう味付けを好むのかというのを全く知らない。
鬼島笹百合が錬太郎に何とも言えない料理を食べさせたときに、かなり頑張って食べていたところを見ると、味覚は正常なのだろうと推測することはできるが、それでもかなりあいまいな状態だった。葉波根みなとは、パーフェクトなものを作ろうとしたのだ。パーフェクトというのは錬太郎がものすごく喜ぶものを作ってやろうとしていたということである。
別にそんなことを誰が頼んだわけでもないが、これはいわゆるる趣味の領域、熱中できる領域に生きる人間のどうしようもない性質だ。絶対に手抜きなどしてやるものかという気になってしまって、葉波根みなとは頑張った。
そして今が結果発表の時だったというわけである。寝不足であるためやや感覚が鈍っていたりして、悪い要素が頭に浮かんでくるところも余計に不安をあおる。そんな彼女であるから、鬼島山百合と、白百合がとんでもない勢いで料理を平らげているのも目に入らず、錬太郎も同じくらいか、やや遅いくらいの勢いで食べている理由も推理せずに、料理を見つめていたのだった。
葉波根みなとに料理はどうかと問われた錬太郎はすぐに答えた。まったくためらわなかった。
「おいしいです! すみませんが、おかわり下さい」
おいしいと答えた時には錬太郎は空の茶碗を葉波根みなとに差し出していた。特に何のためらいもなかった。すみませんといってはいたが、自分の家と同じようなふるまいをしていた。空腹があまりにも強く働きすぎているのと、錬太郎の視界に入っている鬼島山百合と白百合のとんでもない食欲に、自分の取り分が減ると危機感を募らせていた。
少なくとも鬼島山百合の隣に座っている鬼島兵辰のように、おかずをいくらか横から持って行かれるような状況にはなりたくなかった。
葉波根みなとにおかわりを要求したのは、葉波根みなとが仕切っているのだろうなと予想がついたからなのだ。
これはつまり、葉波根みなとにおかわりのお願いをしたら持ってきてくれる可能性が一番高かったということである。冷静に考えるとかなりぎりぎりの行動なのだけれども、食欲の暴走が錬太郎に遠慮という言葉を忘れさせていた。
遠慮していたらおかわりを頼まなかったかといえば、おそらくおかわりを要求していたに違いないが、もう少し落ち着いていたら自分で行動していただろう。
葉波根みなとにお願いをしたのは食卓についている者たちの中で、一番そういう役割らしく見えたからなのだ。朝一番に見た姿がエプロンを身に着けていたというのもあるけれど、食卓についている者たちが、葉波根みなとのやり方に従っているようなところがあった。
年齢と立場を考えると間違いなく下から数えたほうがいい葉波根みなとなのだが、鬼島山百合も鬼島兵辰も白百合も身振りに葉波根みなとを尊重するところがあった。だから錬太郎はこの場においては彼女こそ支配者で、そして彼女が許可してくれるのならば、おかわりも許されるのではないかと考えてお願いをしていた。
ただ間違いなくここまで予想がついていても食欲の暴走がなければ、錬太郎は自分でおかわりを取りに行っていただろう。
錬太郎がおかわりを要求するのを見て、葉波根みなとは笑みを浮かべた。そしてこういった。
「そういってもらえるとうれしいわ。おかわりだったよね、すぐに持ってくるね」
錬太郎のおいしいという一言を聞いて、葉波根みなとは上機嫌になっていた。まったく問題ないとばかりに錬太郎のおかわりを許し、台所に向かって動き出していた。葉波根みなとにとって一番の答えが返ってきたのだ。気分はよくなるだろう。
それこそ錬太郎の茶碗に炊きたてのコメを大量に盛り付けるくらいの勢いで動くのも当然だった。もしかしたら錬太郎の味覚に自分の料理が合わずに、まずいなどと言われるかもしれないと思っているところだったのだ。
もしかしたらあるかもしれない。葉波根みなとの味覚で味見をした時には全く問題ない味で、鬼島笹百合も白百合も全くもだいないといってくれたけれども、それでも不安は残っていた。しかし今錬太郎がおいしいといって、もっと食べたいという反応を見せた。
これはつまり最高だということだろう。腹が減っているということももちろん錬太郎のいい反応の理由になって入るだろうが、うまく出来上がっていなければこんな反応は帰ってこない。それがわかっている葉波根みなとだから、余計に機嫌がよくなる。やったと思う。
そうなるとおかわりの用意くらいならしてもいいどころかもちろんしてあげようという気持ちになって、軽やかに動き出せてしまうのだった。やはり自分のこれだと思っているもので成果を上げる。ほめてもらえるというのは気分がいいのだ。
そして葉波根みなとが動き出した時だった、鬼島山百合と白百合が同時に茶碗を差し出してきた。そしてこういった。
「私たちも一緒にお願い」
茶碗を差し出してきた二人は一言一句まったく変わらない調子でおかわりを要求してきた。なぜかわからないが非常に自信満々だった。
なぜ料理を作らず見ているだけだった二人が自信満々なのかはさっぱりわからないところだが、自信ありげに茶碗を差し出してきていた。
鬼島山百合も白百合も自分の手柄だと思っているところがある。茶碗を差し出してきておかわりを要求しているのはまだまだ腹が減ってしょうがないからなのだけれども、錬太郎がおいしいといっているのは自分の助言が大きな役割を果たしていると信じている。
今回の朝ごはんは完全に葉波根みなとが一人で作っている。この朝ごはんを作るという仕事は本当なら鬼島山百合がやるのが鬼島の家の当たり前なのだが、力をこれでもかと使ったせいで鬼島山百合にやる気がなかった。
そしてそんなところに白百合も現れて、また錬太郎もいる。力を使った後はエネルギーがなくなっているので非常に空腹になるというのは鬼島山百合も白百合もよくわかっていたので、これは料理を大量に作っていないと悲惨なことになるとすぐに予想がついた。
ただ、鬼島山百合は孫がいる年齢であるから、あまり気合が入らない。それで鬼島の家に泊まっていた葉波根みなとが朝ご飯の担当になった。
その時に葉波根みなとは当たり前のように錬太郎の評価を気にし始めた。そこで鬼島山百合と白百合が手を出さずに口だけ出して葉波根みなとを助けたのだ。助けたということになっている少なくとも鬼島山百合と白百合の頭の中では。
ここでは葉波根みなとに役立ったかどうかというのはまったく考慮しない。
そのいろいろな結果、錬太郎が最高においしいというという行動を見せて、おかわりを求めたのだからこれはもう、二人の頭の中では間違いなく自分たちの成果だという考えになる。助言があったからこの結果があるのだと思うのだ。そうして、そんな二人だから何のためらいもなくこれが年の功だといわんばかりに茶碗を差し出してこれたのだった。
ただ、葉波根みなとの対応はやや冷たかった。錬太郎の茶碗を受け取る時とは違い、一言二言小言を言っていた。
「食べすぎると、血糖値上がりますよ?」
とか
「鳥なのに人間のご飯食べるの?」
程度のものである。かわいらしいものだった。しかししょうがない。しょうがないのだ。料理をしている最中に、見ているだけならいいが、口出しをしてきたのだ。
これはもうとんでもなくうっとうしかった。二人のことを嫌っているのかというとそうではない。逆だ。鬼島山百合のことは尊敬しているし、好いている。よく巫女として海波根島の人たちのまとめ役になっていたなと思う。六十年もよくやったと褒められるべきだろうし自分がそうだったら途中でつぶれるとさえ思うところだ。そして白百合と付き合ってきたなと思う。
白百合にも尊敬の念はある。白百合から話を聞いてどういう役割を持っているのか、どういう存在なのかを聞いて敵対心は薄れ、よく役割を果たしているという思いが生まれ、尊敬さえしている。話を聞いてみれば見るほどとんでもない存在であるというのがわかるので、それだけで丁寧な扱いをしなければならないなと思うほどだった。
しかし、人間的な価値と台所での価値はまったく違うのだ。少なくとも葉波根みなとにとっては違うのだ。それはそれ、これはこれの思考方法で考えれば、動きもせず見ているだけで口を出してくる二人というのはただただ葉波根みなとにとってはうっとうしいばかりだった。
気が散ってしょうがない。包丁も火も使うのだ。手元が狂ったら大変である。鬼島笹百合が同じことをしてきたら間違いなく蹴り飛ばしていただろう。下手に立場が上の人間だったからイライラもたまっていた。そんなところで、自信満々で茶碗を差し出されたりすれば、軽い小言くらいは飛び出すだろう。
茶碗を受け取っておかわりを取りに行ってくれるだけ優しいとみるべきである。
軽く小言をぶち込まれた鬼島山百合と白百合は、目に見えて落ち込んでいた。しかし箸はしっかり握っていた。またどうやら、葉波根みなとの機嫌を損ねた理由は自分にはないと思っているらしく、鬼島山百合は白百合を、白百合は鬼島山百合に一言二言の軽い言い合いをしていた。具体的には
「もう若くないんだから体のことを気をつけなくちゃだめよ?
みなとちゃん心配してくれてるわよ。優しいじゃない。それにしてもご飯おいしいわね」
だとか、
「本当においしいわ、でもみなとちゃん大丈夫かしら。
鳥のエサなんて用意してないわ、ミミズでも食べてればいいのに」
などである。鬼島山百合も白百合も特に緊張することなく普通のキャッチボールをしていた。
ただ、同じ食卓にいる鬼島兵辰と鬼島笹百合は緊張していた。二人の会話のキャッチボールが全力投球で行われているようにしか見えなかった。
鬼島山百合と白百合が楽しい会話のキャッチボールをしていると、錬太郎が割って入った。錬太郎はこういったのだ。
「それで、白百合……さんは何か用事でも? この島に残れという話なら断ったはずですけど」
錬太郎が会話に割って入っていったところで、食卓についていた鬼島兵辰が目を見開いていた。そして、大きくうなずいた。何か満足しているようだった。朝ごはんを食べたいのは錬太郎だけではないのだ。できるなら穏やかに朝ごはんは食べたいのが本当であろう。鬼島兵辰はよくやってくれたという気持ちになっているのだ。
錬太郎が話しかけると白百合はすぐに答えた。
「心配しなくていいわ、錬太郎ちゃんは試練を乗り越えて、私を打ち負かした。いまさら無理やり島に縛り付けるなんてことはしないわよ、そんなのは卑怯だもの。
ここに来たのは睡蓮の後始末のためよ。錬太郎ちゃんを追いかけるために無茶苦茶なことをしたでしょ? あれで設備が壊れたりしていないか、点検するためにこっちにきてたの。
まぁ、あとはお祭りを楽しんで帰るつもりよ。特に問題もなかったし、やることはやったし」
錬太郎に白百合が話をしていると、台所からパタパタと足音をさせながら葉波根みなとがやってきた。お盆の上に茶碗をふたつ載せている。どの茶碗もかなりたくさんお米が盛り付けられていた。台所からやってくる葉波根みなとだが少し赤くなっていた。
少し汗もかいていた。そうして、台所からやってきた葉波根みなとは、手際よく二つの茶碗を鬼島山百合、白百合に渡していった。
全員が朝ご飯を食べ終わったところで、葉波根みなとがこういった。
「それじゃあ後片付けは任せますね」
葉波根みなとが立ち上がると鬼島笹百合が声をかけた。
「えっ? 一緒に祭りに行かないの?」
鬼島笹百合が声をかけると、葉波根みなとが答えた。
「あんまり寝てないから、これから寝るの。足腰痛いし、錬太郎は任せるわ。
それじゃあね錬太郎。元気でね」
葉波根みなとの答えを聞いた鬼島笹百合は首をかしげた。まったく納得していないらしかった。それはそのはずである。どう考えてもウソにしか聞こえなかったからである。
錬太郎のように付き合いの短い人間が葉波根みなとの答えを聞けば、特におかしな答えには思わないはずである。なぜなら葉波根みなとは結構長い道のりを錬太郎に付き合って歩いていた。途中で別れることになったけれどもそれでも筋肉痛を引き起こすには十分な距離を歩いている。
そうなると、体中が痛いというのは特におかしな話ではないだろう。眠れなかったというのは、その日の体調や環境の違いによって変わってくるだろうから、特におかしい話ではないけれど筋肉痛というのがおかしく感じられている。
というのが、葉波根みなとは波根の道を歩くくらいで筋肉痛になるような人間ではないと鬼島笹百合は知っている。暑さでまいってはいたけれどもそれだけで、筋肉自体は非常に優秀なのだ。それがわかっている鬼島笹百合であるから、筋肉痛になったといわれてもウソだろうという気にしかならなかったのだ。
そのため、納得できず考えてしまうのだった。
錬太郎に別れの挨拶をする葉波根みなとは、少しも錬太郎を見なかった。すでに玄関に向かって歩き出していたので錬太郎は背中に
「お元気で」
と別れの挨拶をした。これで葉波根みなとと錬太郎は分かれることになると予想しているから挨拶をした。
錬太郎は海波根島から帰る。葉波根みなとは島の外に出ているらしいけれども、もともとは海波根島の人間である。となるとここで別れてしまえばおそらく出会う可能性は非常に低くなる。鬼島笹百合にでも連絡を取ってもらえば顔を合わせられるだろうが、それをしなければおそらく永遠に分かれたままになる。
それがわかっていたので、別れの挨拶をしたのだった。
葉波根みなとが自宅に帰っていくと、白百合がこう言った。
「それじゃあ、みなとちゃんの代わりに私が一緒に遊んであげるわ。
それとも笹百合ちゃんと二人っきりのほうがいい? 山百合ちゃんと兵辰ちゃんはこれからお仕事だし、私はこれからひとりぼっとかしら。さみしいわ」
三人で遊びたいという白百合の話を聞いたとき錬太郎は露骨に嫌な顔をした。しかしすぐにうなり始めた。どうしたらいいだろうかと考えて、目で鬼島笹百合のほうをちらちらとみていた。白百合が言うように、鬼島笹百合と二人きりになりたいなどと考えているのではない。
明らかに嘘くさい演技で、白百合がさみしいといっているのを見て心が揺らいでいるのだ。さみしそうにしている白百合であるから、少しの間くらいなら一緒にいてもいいのではないかと。
錬太郎は白百合が一人きりであることがわかっている。それは、ご神体めぐりの最深部にあった白百合の寝床を見ていればわかる。普段は間違いなく一人きりであのさみしい場所にいるのだろうと予想がつく。
そして鬼島笹百合と葉波根みなとの初めて白百合を見た時の反応からして、かなり人目を気にしているというのもわかるのだ。つまり翼の生えた自分というのが普通の人間たちの前に現れれば騒がしくなるというのがわかっている。
そういういろいろが錬太郎には見えている。そうなってくるとさみしいというのは間違いなく本当だろう。どう見ても演技くさい風を装っているが、本心であるというのは間違いない。それを思うと錬太郎は少しくらい優しくしてもいいのではないかと思ってしまう。
錬太郎自身白百合のしたことには決着がついていると思っているので、単純にうっとうしいなと思うくらいしか悪い気分は残っていない。
しかし鬼島笹百合と一緒にという話になると、これは間違いなく錬太郎一人だけでは決められない。しかもさらわれたのは鬼島笹百合なのだから余計に。
かといって錬太郎が一緒に遊んでもいいのではないかなどといえるわけもなく、ちらちらと鬼島笹百合を見るばかりになるのだった。
錬太郎が本当に困っているのを見て、白百合がほほ笑んだ。悪い笑顔ではない。きれいな笑顔だった。白百合は錬太郎の心の動きというのが推測できているのだ。白百合は錬太郎がいい子だとわかっている。それは鬼島笹百合を取り戻そうとして頑張っていたところからも推測ができるし、実際会話をしてみた感じからもわかることだ。
白百合自身は鬼島笹百合と錬太郎が二人で祭りに行くという話になったところで、痛くもかゆくもないので問題はない。実際、ついていくという話をしたのもそれほど本気だったわけでもないのだ。さみしいのは本当だったが慣れている。
ただ、冗談でもさみしいといった時に錬太郎は本気で悩み始めた。それがどういう理由なのかがすぐにわかった。それは白百合からしてみるととてもうれしいことだった。冗談でも本気になってくれるところがうれしかったのだ。
さて錬太郎が困っていると、鬼島笹百合がこう言った。
「別に私はいいわよ? 錬太郎君がよければだけど。
後、祭りに行くのはいいけど翼はどうするおつもりで? 作り物じゃないって一発でばれると思うんですけど」
鬼島笹百合の答えを聞いて、錬太郎はほっとしていた。本当に目を輝かせて、自分のことのように喜んでいるように見えた。錬太郎なのだが、根がやさしい。
錬太郎からしてみれば、白百合というのは悪者以上のものではない。意味も分からないまま戦いの中に放り込んで、けがをさせて、よくわからない睡蓮とかいう存在に追い込まれるきっかけになった。
好きになる理由が全くないのだ。見た目が整っているというのは好きになれる理由だろうが、嫌いになる理由のほうがはるかに多くまた天秤を一発で傾けるだけの重さがある。
そのため白百合の願いがかなってよかったなどと思うのはおかしなように思える。憎しみを感じてもいいくらいなのだからがっかりしてもいい。ただ、錬太郎はいまいち憎しみを燃え上がらせられないのだ。
鬼島笹百合がさらわれた時にはそれはもう怒り狂っていたが、それは他人がひどい目に合っていたのが見逃せなかったというだけのことである。怒りの強度が高かったのは錬太郎のトラウマによるところが大きいが、自分は怒りの発生に関係ない。
つまり襲われたのも傷ついたのも戦わなくてはならなくなったのも、特に問題だと思っていない。実際白百合との対話を見ていれば、錬太郎はそれほど自分に降りかかったものについては頓着していない。それどころかすごく年上でしかも何か重要な役割を追っている存在に対して敬意を払っている節さえある。
まして、相手のことを考えて心配してしまう。これはもう単純に根がやさしいのだ。もちろん怒ったり恨んだりする感情はある。怒り狂ってとんでもない暴力をふるうこともある。しかし長続きしない。だから素直に相手のことの願いがかなったことを喜べた。
鬼島笹百合が白百合と一緒に祭りに出ることを許すというのを聞いて錬太郎はこういった。
「それじゃあ…仕方ないですけど、一緒に行きましょうか」
鬼島笹百合と錬太郎、そして白百合が一緒に祭りを見て回ることになると、鬼島山百合が立ち上がった。立ち上がる時に
「どっこいしょ」
といっていた。そして、居間から出て行って、服を持って戻ってきた。持ってきたのは白百合が身に着けていた分厚い布地の紺色のロングコートだった。そして、もう一つかなり大きなロングコートも持ってきていた。見ているだけで暑苦しくなる光景だった。これを持ってきたのは、祭りに行くというのならばこの格好をしていくのがいいだろうという考えがあるからだ。
まず、鬼島山百合たちは特に問題としていないけれど、白百合はどう見ても普通の人間ではない。鬼島山百合と鬼島兵辰はまったく問題なく普通の人間のように接しているけれど背中に翼がある。
しかもかなり大きい。しかも空を飛べる。普通の人間に見えるかといわれれば、見えないと答える人しかいないだろう。鬼島笹百合や、葉波根みなとはいちいち騒がなくなっているが、それでも初めて見た時には心安らかではない。
二人とも一一驚いている時間がなかったので、騒がなかったが時間があれば騒いでいたはずだ。鬼島白百合と鬼島兵辰の血縁者である二人が全く知らないような状況であるから、当然島の人たちも知らないと考えるのが当然で、仮に知っている人がいても一握り。
さてそうなって、白百合が当たり前のように翼が見える状態で歩き回れば、当然騒ぎになる。作り物ではないのは一目でわかるのだ。そして、大昔なら問題は島の中だけで完結させられるが、今はそれは無理だ。
携帯電話を誰もが持っている。あっという間に話題になって面倒なことになる。鬼島山百合が騒ぎになることを望んでいるかといえば、それはない。
超能力が使えるだけの優しいおばあさんだ。目立ったところで得るものはない。となると、隠す必要があるわけで、翼を隠すことができるものとなれば、もともとそのために作られた紺色のコートくらいしか思い当たらない。
それならばひとつでいいのだけれどももう一つ持ってきている。これは単純に目くらましのためというのが一つ。鬼島山百合と白百合だけが紺色のコートを着ていると目立つので、錬太郎にも来てもらおうという発想である。これは気を森に隠すという発想であるが、なぜ錬太郎だけなのか。
それは錬太郎が試練を乗り越えているから、つまり正式に御子として認められたから着るべきなのは錬太郎だろうという考えである。つまり分厚い紺色のコートというのはそういうものなのだ。
紺色のコートを鬼島山百合が持ってきて、錬太郎と白百合に渡した。そうすると白百合が紺色のコートを身に着けた。もともと紺色のコートは白百合のものだから特に気にせず身に着けている。
この時錬太郎は少し悩んだが、すぐにコートにそでを通した。どう見ても一点物の紺色のコートなのだが、錬太郎の体のサイズにぴったりだった。
錬太郎の紺色のコートには銀の糸で刺繍がされていた。銀色の百合の刺繍は鬼島山百合と白百合のコートと同じだったが、翼の刺繍が少しデザインが変わっていた。鬼島山百合と白百合の翼は優しいふんわりとした刺繍なのだが、錬太郎の翼の刺繍は鋭い猛禽類の翼だった。
夏の暑い時期に蒸し暑い格好をするというのはつらいだけのはずだが、黙って身に着けていた。鬼島山百合が何を考えているのかをすぐに理解できたのだ。だから身に着けた。
まず、白百合の見た目というのはどう見ても怪しい。かわいらしいというのはいいところだろうが、翼が生えている人間というのはいないのが常識である。それも空を飛べるような翼を持っているというのは明らかにおかしい。
このおかしいなというのは錬太郎も気づいている。あえて口にしなかったのはそれをいちいち口に出したところで意味がないからだろうが、気づいている。
当然人前に出たらどうなるかも予想ができるだろう。錬太郎はインターネットが身近になっている時代の子供である。携帯電話で写真を撮られて、あっという間に情報が拡散して面倒になるくらいのことは想像がつく。
白百合の見た目なら簡単に世界中が騒がしくなるだろう。当然、鬼島山百合が注意しなくとも、つまり翼が邪魔になるといわなくとも考える問題だった。それくらいの頭の回転はあるのだ。
となれば、鬼島山百合が紺色のコートを持ってきたのを見れば問題を解決するための方法であると考えるのはそれほどおかしなことでもなければ不思議でもない。熱いのはしょうがないけれど錬太郎の性格からして我慢しても一緒にいてあげたいと考えるのはおかしくない。そうして錬太郎は夏にふさわしくない分厚いコートを身に着けたのだ。
錬太郎が紺色のコートを身に着けたところを見て、白百合が大いにはしゃいだ。こんなことを言った。
「いやー、すごい似合ってるわ。やっぱり身長が高い子に合わせると派手になっていいわね。錬太郎ちゃんはガタイもいいから、すごく迫力があるわ。
ちょっと背中のほうも見せてもらえる? そうそう、そんな感じで。あぁ、やっぱりいい感じだわ。すごくいい。
今までの子たちはみんな私に似て小さかったから、こういうの新鮮でいいわ」
紺色のコートを着た錬太郎だが、完全に動きを止めていた。背中を見せろと言われて回転して、ただ黙って立っていた。途中少し猫背になった時、白百合に
「背中伸ばして胸張って」
といわれて、思い切り背筋をただされた。完全に錬太郎は押されていた。顔に覇気がなかった。助けてほしいと鬼島兵辰と鬼島笹百合に目線を向けたが、二人とも食卓の上を片付けるという大切な仕事があるので助けてくれなかった。
鬼島山百合だったが、白百合と同じような反応だったので全く味方はいなかった。
それから数十分後ようやく落ち着いたところで、鬼島兵辰がこう言った。
「それじゃあ、そろそろ会場へ行こうか。まだ少し早いが、始まっているはずだ。
白百合様も、子供たちの顔みせがありますからあまりはしゃぎすぎないようにお願いします」
鬼島兵辰に注意された白百合は大丈夫といって笑っていた。そうして、鬼島兵辰の号令のもと、錬太郎たちは海波根島の島祭り最終日の、ごくありふれた祭りに向かって出発したのだった。
海波根島の島祭り最終日は特にこれといった行事はない。葉波根神社の広場に出店が来ていたり、小さな子供たちが運ぶ神輿が一つと、大人たちが担ぐ大きな神輿が決まった道を練り歩くくらいのものである。
非常に地味な行事としては今年生まれた赤子を、葉波根神社に祭っている神様に顔みせするという行事があるのだけれども、赤子が生まれていない人たち、あまり関係のない人たちには特に目立ったものではないので、意識はむけられない。
海波根島の島祭りは案外人が多く訪れる。一日目からきている人は全くいないが、祭りの最終日には島の人たち以外にも、島の外から遊びに帰ってくる人が多い。この日だけは海波根島に向かうための船が増えていて、交通もよくなっている。
そんな海波根島の島祭り三日目なのだが、今年はどうにも島人たちの熱気が高まっていた。特にお年寄り、中年の人たちが非常に元気に満ちていた。
小さな子供たち、錬太郎くらいの年齢から、葉波根みなと達のようなうら若い世代は特にこれといってはしゃぐこともなく、出店を見て回ってみたり、いつもとは違った島の空気を楽しんでいるばかりであった。
島の大人たちがボルテージを上げているのには理由がある。彼らは新しい御子の誕生を知り、未来への希望を高ぶらせているのだ。海波根島の人たちにとって、御子というのはとても大切な存在である。
御子というのは海波根島の島祭り、二日目のご神体めぐりを完了させた人物のことを言う。現在の御子は六十年前にご神体めぐりを達成した鬼島山百合で、女性であるため御子を巫女と呼ぶ人も多い。御子という称号を得る人間がいたところで、何が変わるのかと思うところではあるのだ。なぜならご神体めぐりを行えるような、得意な力を持つ存在がいるということが分かったところで、島の人たちにご利益があるわけではないのだから。
それは確かにそうだ。しかし海波根島に暮らしている人たち、特に長い間この島で暮らしている人たちには一つのあいまいだけれども、ほとんど確信に近い予感がある。
これは神の実在である。このような考えに至るというのはややおかしな話かもしれない。しかし白百合という翼の生えた存在を知っているかどうかで神の存在を感じ取るかどうかという話になった時には、それほどおかしな話ではないというのがわかるはずだ。
なぜなら、白百合は人間全体のことを自分の子供のように思っている節がある。これは錬太郎たちに接する態度を見ていればわかる。
この白百合という存在が、仮にこの海波根島で誰かが泣いているようなことがあったとして、見て見ぬ振りができるのだろうか。もちろんあらゆる悲しみを取り除けるほど万能であるとは言わないが、さみしがり屋であるという性質も重なって、ほとんど間違いなく、肉体的な損傷なら癒してしまうだろう。
となれば、海波根島の人たちそれこそ数十年近くこの島で暮らして恩恵を得ていない人間などまずいない。その恩恵は当然だが理解不能な領域からの恩恵であろうから、人間ではなく人外のもの。人にご利益を与えてくれるというのならば、何と呼ぶかとなった時には神と呼ばれるようになる。そしてその優しくご利益を与えてくれる神様に好かれている存在が御子と呼ばれる人間ならば、どうだろうか。
間違いなく祭りの熱気はじわじわと高まっていく。ただ静かに熱が上がっていくのだ。なぜなら確信はないから。神の存在を素直に信じられるような時代ではないのだから。
しかし間違いなく存在しているのを感じている。だから熱だけが高まっていくのだった。一方で子供たち若い世代たちはまだ恩恵を肌で感じられないので、大人たちのようになっていないのである。
鬼島の家を一番最後に出たのは錬太郎たちだった。祭りが終わったらすぐに帰らなくてはならないので、荷物の整理をしていたのである。錬太郎の荷物というのは多くないので、さっさとできたのだが、鬼島笹百合がやや手間取っていた。荷物を放り出していたので、それをしまうのに時間がかかったのだ。
荷物を玄関に置いて鬼島笹百合と錬太郎は、白百合と一緒に祭りの会場に出ていった。この時太陽がいいかくどで空に浮かんでいて最高に蒸し暑くなっていた。空に雲一つなく、空気が粘ついていて最高の祭り日和だった。
家から出た時から鬼島笹百合の額に汗がにじみ、片手に持った団扇で顔を仰ぎ始めていた。そんな鬼島笹百合とは反対に、錬太郎と白百合は少しも暑さに参っていなかった。錬太郎も白百合も平然と紺色のコートを着て夏の日差しの下に立っている。錬太郎と白百合が並んで立っているのを見るだけで体感温度が一度上がりそうだった。
特に、銀色の糸で刺繍してあるのが太陽に反射してものすごくギラついて、印象が悪い。銀色の刺繍がなければ夏の間の評価は格段に上がるだろう。錬太郎と白百合だがここまで平然としていられるのは熱くないからである。
錬太郎と白百合には超能力と呼ばれている力がある。特に白百合は力を自在に操り、細かい操作も簡単にこなしている。錬太郎もまだまだ成長する余地があるけれど、それなりに力が扱える。風を捕まえてみたり、捕まえた風で体を補助してみたりといろいろとできる。
そうなってみると、戦いにしか力が使えないのかということになるが、そうでもない。風を捕まえるという技術は威力を抑えていれば気持ちのいいそよ風になる。
意識して力を使えるようになっている錬太郎、そして当たり前のように空気を操れる白百合にすれば、夏の暑さなど全くないも同然なのだ。
それこそ常にそよ風に吹かれているような気持ちよさのままで夏の暑い日差しの中を歩いて行ける。身体の補助のために力を使うよりもずっと簡単であるからできないわけがなかった。そんな錬太郎と白百合であるから、暑さに襲われるようなことはなく、鬼島笹百合のように汗をにじませるということもないのだ。
鬼島笹百合が家を出た直後から暑いと文句を言い始めた。そうすると、鬼島笹百合の隣を歩いていた錬太郎が軽く手を振った。右手の手首を揺らすような動きである。まったく鬼島笹百合を見ずに前を見たままだった。錬太郎が右の手首を揺らしたのに気付いているのは、錬太郎の少し前を歩いている白百合だけである。
錬太郎が右の手首を揺らした直後から、鬼島笹百合は全く文句を言わなくなった。団扇で一生懸命風を起こしていたが、それもなくなっている。気持ちの良さげな顔をして足取りを軽くしていた。
鬼島笹百合の髪が風に揺れている。
鬼島笹百合は、気分を良くしていた。気分がよくなってきて、全く文句を言う気持ちなどなくなっていた。今までは非常に暑苦しかった。朝の早い時間だからといっても夏である。太陽はかなり早い時間から顔を見せてくれる。
朝ごはんを食べ終わる時間になれば、当たり前のように世界を光で満たしてくれる。夏の空気はあっという間にあつくなり、日本らしい梅雨のじめっとした空気が不愉快な気持ちにしてくれる。
海の近くであるから潮の香りまで混じってきてなかなか耐え難い状況が生まれる。そして風が吹いていないというのは恐ろしくつらい。
また、鬼島笹百合の近くには夏なのに冬用の紺色のコートを着ているバカが二人いる。しかも銀色の刺繍がきれいに施されていて、太陽の光を照り返して目がちかちかする。団扇でいくら風を起こしたところで気分がよくなるわけがない。
しかしそんなところに風が吹き出したのだ。どこからともなくそよ風が吹いてきて、髪の毛を揺らしてくれる。すぐにそよ風がやむかと思えば、扇風機のように延々と吹き抜けてくれている。扇風機の前でくつろいでいるような状態になっていた。
そうなれば、今までのような不愉快な気持ちはほとんどなくなる。太陽光線が頭に直撃しているけれども、太陽光線くらいしか熱くさせるものがないということであるから、いよいよ文句を言う気持ちはなくなってしまうのだ。
鬼島笹百合が文句を言わなくなって数分後、錬太郎たちは葉波根神社の広場に到着した。葉波根神社の境内にはたくさんの出店が出ていた。海波根島の祭りがとくに有名であるということはないだろうが、結構な数の出店だった。また島の人たちがかなり顔を見せていて、島中の人間が集まっているのではないかという様相である。そして島の人たちではないだろう観光客、また島の外から祭りのために戻ってきているらしい人たちも見えて、なかなか勢いがあった。
葉波根神社の広場に到着した時、鬼島笹百合は小さくつぶやいた。
「うわぁ、めっちゃ人多い。いつもならこの半分くらいなのに」
鬼島笹百合はこのようにつぶやいていたが、特に気にせずに葉波根神社の広場に歩いて行った。この時に錬太郎と白百合を追い抜かしていた。足取りは軽く、口元がほほ笑んでいた。実のところうれしいのである。
人込みが多いというのはなかなかつらいところがある。夏の暑い時期の祭り、しかもこれから暑くなる時間帯から始まる祭りであるから、あまり楽しくはないだろう。
人込みなど入っていけば、機嫌が悪くなるばかりか体力も失われる。しかし、鬼島笹百合はこの島のことを知っている人間である。これは葉波根みなとのように島がどういう状態であるかを知っている人間であるということだ。
鬼島山百合の孫娘であるから、いやでも島が少子高齢化のあおりを受けているというのは知っている。そもそも錬太郎をこの島に呼び寄せたそもそもの発端でもあるのだから知らないわけがない。
そうして少子高齢化というのがなかなか都市部から離れた田舎では大きな問題になっているというのも新聞やテレビ、インターネットを通じて知っている。調べなくとも耳に入ってきてしまう。そうすれば、いやでもさみしい気持ちになる。
そうなってみてやはり自分の家族が暮らしいてる島に人が来てくれるというのは再生の兆しが見えるような気がするのである。
まったくこれで少子高齢化が片付くなどということはないだろうし、人が住み着くということでもない。しかしそれでも人がたくさんいるのだと思えること自体が、一つの喜びを起こすのだ。きっと錯覚に違いない。しかし前向きになれる錯覚、祭りが作った錯覚が彼女を喜ばせていた。
鬼島笹百合が少し先んじて、広場に入っていくと錬太郎と白百合が同時に広場に足を踏み入れた。錬太郎も白百合もうれしそうな鬼島笹百合を見て微笑んでいた。鬼島笹百合が何を思っているのかなど、さっぱりわからないけれど喜んでいる姿が、見ている二人を喜ばせた。
錬太郎と白百合が広場に入ってきたときだった。広場にいる人々の数人が、きょろきょろとあたりを見渡し始めた。おじいさん、おばあさんと呼ばれるような年齢の人たちで海波根島の島祭りの管理をしているような人たちが急にそわそわとあたりを確認し始めていた。
彼ら、彼女らがそわそわとし始めたのは、御子の到来を感じているからである。一番の理由といえば、風が吹き始めたからなのだ。どこからともなくふいてくる気持ちいいそよ風。このそよ風が延々とまったく途切れることなく、広場を包み込んでいくのだ。
そよ風が吹くことなど珍しいことではないけれど、彼らにとっては違うように映るのだ。何せ彼らは六十年前に御子として鬼島山百合が選ばれた時にも同じような体験をしている。
そして、今回の祭りには御子が正式に選ばれたという情報を既に鬼島山百合と鬼島兵辰から伝えられている。ただ、具体的にだれなのかは全く教えてもらえていない。だから彼らはそよ風がやまなくなった広場に御子が現れたのではないかと察して、見つけようとした。
葉波根神社の広場の中を歩く錬太郎と白百合、そして鬼島笹百合は実に目立つ存在だった。特に目立っているのが錬太郎だった。身長が非常に高くがっしりとしているというのはもちろん理由の一つなのだが、紺色のコートを着ているというのが人の目を引いている。
海波根島は今夏である。暑苦しい時期なのだ。普通の格好というのは半袖に短パン。短パンでなければ長ズボンを吐いている人もいるけれど、厚着をしている人はまったく見ない。
日焼け対策で長そでを着ている人はちらほらいるけれどもそれでも程度はある。錬太郎と白百合が来ている服というのはどう見ても冬用の服装である。どう見ても夏の暑い季節にはふさわしくない。見ているだけで暑く成る格好である。
完全に場にそぐわない格好だった。冬の寒い日に半袖半ズボンで雪の中を歩いている人がいれば目立つのと同じである。そんな錬太郎、そして白百合であるからこれ以上ない勢いで人の目を引いた。
しかし、話しかけてきたりちょっかいをかけてくる人というのはいなかった。錬太郎たちは特に問題なく出店を見て回り、遊ぶことができた。鬼島笹百合も錬太郎も白百合もなかなか祭りを楽しんでいた。周りにいる人たちの反応というのはいろいろとある。驚いている人もいれば、不思議がっている人もいる。
目を見開いて感動しているおじいさんおばあさんもいる。しかしそんな状況でも、まったく声をかける者はいない。
なぜならいちいち声をかけるような必要はないし、祭りの関係者たちはそもそも鬼島山百合から話しかけないようにと命令されているのだから、話しかけるわけにもいかないのだ。
祭りをただ楽しみにしている人たちというのは、祭りを楽しみに来ているだけである。服装が少し奇抜であったとしても特に気にしない。それこそ祭りなのだからですむのだ。祭りのいつもと違った空間なのだから、いつもと同じでなければならないなどという無粋なことは言うまいと、そのように考えている。
服装がおかしいなどといい始めたら浴衣を着るのもためらわれるようになるだろうし、そんな考えだった。
六十年前を知っているおじいさんおばあさんたちはシンプルに命令を受けているので動けない。鬼島山百合が御子を見つけても話しかけず邪魔をするなと命令しているのだから、それに従っているのだ。ただそれだけだった。鬼島山百合は新しい御子が現れた現在でもまだ高い地位を保っている。
葉波根神社の広場で行われている賑わいを堪能した後、三人は葉波根神社の本殿を目指して歩いていた。この本殿は広場から少し離れたところに立っている小さな建物である。
広場から見える建物ではないので、葉波根神社のことをよくわかっていないと、本殿だと見抜ける人は少ないだろう。というのが、この神社の本殿は物置と呼ぶには大きく、家と呼ぶには小さい建物だからだ。
それにどことなく地味である。葉波根神社の本殿を目指しているのは、錬太郎が
「お土産、どうしよう」
とつぶやいたからなのだ。これは、出店を回りながら、買い食いをしているときにつぶやいた一言だった。
錬太郎がこのようなつぶやきを発したのは、単純にお土産らしきものを見つけられなかったからだ。
この島に来るとき錬太郎は、自分の友人、知人、家族にお土産を買ってくるという話をしていた。島に来る前の錬太郎は、海波根島というのは普通の島でいきなり攻撃を仕掛けてくるような鳥頭などいないと思っていた。
だから、暇な時間を使って何かお土産になるものを見つけられると考えていたのだ。実際白百合がいらないことをしなければ間違いなくその時間はあっただろう。
しかし見つけられなかった。お土産を買ってくるというのがものすごく強い約束なのかといえば違う。別に守らなくてもいい約束である。しかし今の錬太郎には余裕があり、買わない理由もない。そうなると心の中にやらなければならないという気持ちがわいてくる。
約束を守るという気持ちになるのだ。錬太郎自身、そういうところがあると思うのだが口約束でもぼんやりとした約束でも守ろうとする。生真面目といえばそれだけだが、約束を守らなければ気持ちが悪く感じるタイプなのだ。
そのため、余裕が出てきて約束を守れるなという状況になってみて、さてお土産を買えないかもしれないとなってくると錬太郎としてみると、よくない。それが小さなつぶやきになったのだ。
そして、そんな錬太郎のつぶやきを聞いたものだから、白百合はこんなことを考えたのだ。
「それなら、迷惑もかけたし私がお土産を用意してあげようじゃないか」
と。
錬太郎といろいろと争った白百合であるから、錬太郎が困っていても放っておくかというとさすがにそういうことはない。白百合というのはなかなか面倒見がいいし、上司とけんかをしても約束を守るとしてくれたりとなかなかの人物である。
そんな白百合であるから、自分の御子になった錬太郎がお土産がないと困っているというのなら、いいものがあるから持って帰れというわけである。
気持ちとしては自分の孫にお土産を持たせようとするおじいさんおばあさんの気持ちである。それに非常に近い感覚である。そのため錬太郎が錬太郎がつぶやいたのをこれ幸いと思い、葉波根神社の本殿に向かおうという話をして、錬太郎たちを案内したのだ。
葉波根神社の敷地内を我が物顔で歩く白百合とそのあとをついていく鬼島笹百合と錬太郎。この三人と葉波根神社の関係者が何度かすれ違った。この関係者というのはおじいさんおばあさんと呼ばれるような年齢の人たちだったりした。普段着を着ている人ばかりだったが、決まって同じ法被を着ていた。
燕尾服のような裾の長い法被である。暑苦しいのに頑張ってきていた。そして、すれ違う時に同じような挨拶をしていた。大体このようなものである。
「お久しぶりです白百合様」
そして挨拶をすると、さっさとどこかへ消えてしまうのだった。この人たちは、白百合の顔と恰好をよく見ていた。だから挨拶をしたのだ。
彼らは白百合がどういう存在なのかを知っていた。そして、どういう存在なのかを知っているから、丁寧なあいさつをしたのだ。
挨拶というのはだれにするのかによってやり方が変わってくる。友達に挨拶をするのなら、友達用のあいさつ。先生にするのなら先生用の、お客さんにするのならお客さん用。自分たちの神様に挨拶をするのなら、神様用のあいさつで行うのが自然である。
鬼島笹百合も錬太郎も使い分けていることだ。彼らもまたそうだった。白百合の顔と、銀色の糸で刺繍を施したコート。この二つを確認すれば、あいさつは丁寧になる。そして、あいさつをしたら邪魔にならないようにするというのが彼らのやり方だった。
そうして何度か人とすれ違って、葉波根神社の本殿に到着した。白百合は当たり前のように本殿の扉を開いて、中に入っていった。本殿の中はきれいに掃除されているのだけれども、散らかっていた。
ほこりが立つとか、雨漏りがするようなことにはなっていない。非常に切れに保たれているのだけれども、木彫りのお面が転がっていたり、大きな機織り機らしきものが設置されていたり、作りかけの石像が転がっていたりして、ひどい状況だった。
本殿の中に入った時、錬太郎は眉をひそめた。そして、口元をもごもごとさせた。何か言いたいことがあるような顔だが、口に出さないように頑張って耐えているように見えた。錬太郎にとって、この本殿の惨状はなかなかの衝撃だったのだ。
本殿の中が、非常に清潔でしっかりと整えられているのはわかるのだ。白百合ではない誰かが掃除をしているのは間違いない。また、壊れたところを直しているのも間違いない。きっと丁寧に働いたのだと予想がつく仕事ぶりである。
それだけならいいのだ。錬太郎も気分よくいられただろう。別に錬太郎は潔癖であるとは言わない。散らかっていても少しなら構わないという余裕はある。
しかし限度があった。散らかりっぱなしのものの山はダメだったのだ。ゴミなのか必要なものなのかわからないくらいにうずたかく積まれたものの山はダメだった。これが山脈を作っているのならさすがに錬太郎でも味方につけない。
つまり、片付けられない人間を見た時に感じる、どうしようもないなという気持ちである。あきれと言ったらいいだろうか。小さな子供ではないのだから、物を使ったら元あった場所に戻そうじゃないかというそれだけの、当たり前ができていないがっかりした気持ち。
常に部屋を清潔に保てとまでは言わない。掃除をし続けろともいわない。しかし脱いだ服をかごに入れるとか、使った道具をしっかりとしまうというのは当然やっておくべきだろうという常識の問題である。
この本殿の散らかりようは、この常識を刺激するのに十分な散らかりようで、あきれさせるのに十分すぎる状況だった。ただ、何となく錬太郎も白百合が片付けられないのか、しないのだろうなとわかっていたので、何も言わなかった。
そうして本殿の中に錬太郎たちは入っていった。そうすると本殿のごみの山の中から、白百合が何かを発掘し始めた。山を掘り進めるたびに、山が崩れて大変なことになっていたのだけれども白百合はさっぱり気にしていなかった。
そうして、山を三つ四つ崩してようやく白百合は錬太郎にお土産を持って現れた。白百合の両掌には小さな銀色の貝殻が山盛りになっていた。この銀色の貝殻は、どれも非常に美しい銀細工だった。
一枚一枚が全く別のデザインで、細かい工夫がされている。それこそ宝物を見せつけているように錬太郎に白百合は見せつけている。
なのだがゴミの山から引っ張ってきているので、錬太郎の感動はやや弱かった。白百合がこの銀色の貝殻の山を選んだのは、これがたくさんあったからである。正確に言えば、たくさん作っていたのを覚えていたからである。
錬太郎はお土産を持って帰りたいといった。そして白百合にはお土産になりそうなものというのがいろいろと思い浮かんでいる。そしていろいろの中に思いあったのがこの銀色の貝殻だった。特にやることがなく暇をしていた白百合が暇つぶしに大量の銀細工を作っていたので、これでいいだろうと思い持たせようとしているのだ。
これが一番白百合にとって当たり障りのないものだったのだ。つまりお土産というのは高価すぎてもいけないし、ゴミになってもいけないしちょうどいいものが一番。
そうしなければお土産を渡すのが非常に難しくなる。それこそ旅行に行ったら、まんじゅうでも買って帰れば当たり障りがないだろうという配慮が、白百合からすれば銀色の貝殻の山だったのだ。
これなら海波根島の外に持ち出してもそれほど騒ぎにならないだろうし、渡す錬太郎の気持ちもそれほど悪くならないだろうとそういう優しさの結果なのだ。
白百合が両手の上に銀色の貝殻の山を差し出してくると、錬太郎は山の中から十個ほど銀色の貝殻をつまみあげて
「ありがとうございます」
とお礼を言った。白百合の両手の上にはまだ大量の銀色の貝殻が残っていて、錬太郎は半分も持って帰ろうとしていなかった。三分の一、もしかしたら四分の一くらいである。
しかし錬太郎は摘み上げた分を大事そうに両手でもって、これでお土産は大丈夫だと安心していた。
ただ、錬太郎に銀色の貝殻の山を差し出した白百合は少し不満げである。白百合は両手の中にあるたくさんの銀色の貝殻を差し出していたのだ。両手の上に銀色の貝殻を集めて持ってきて、これをすべて持って行けという気持ちでやっていた。
ほんの少しだけ持って行けとか、美しいだろうといって自慢をするつもりではないのだ。お土産をたくさん持って帰らせようとしたら、ほんの少ししか持って帰らないというのだからこれはおかしなことではないか。そんな気持ちに白百合はなっていた。
そんな白百合であるから、十個だけ持って帰ろうとする錬太郎にこんなことを言った。
「それだけでいいの? もう少し持っていったほうがいいんじゃないの?」
錬太郎にもう少し持って帰ればいいじゃないかという白百合は、両手の上にある銀色の貝殻をぐいぐい押しつけていた。白百合の目は、何が気に入らないのかといって錬太郎を探っている。白百合からすれば、両掌の上にある銀色の貝殻というのはかなり美しい。ものすごくきれいに作られているし、おそらくこの海波根島以外の世界中どこを探しても手に入らない代物であると断言できる。
ほかの船の所有者たちも同じようなものを作ろうと思えばできるけれども白百合のように貝殻を作って細工を施してみるなどということはまずやらないと知っているので、完全な一点ものである。
ならば、非常に価値があるし、価値がわからないとしても銀色の輝きと、只者ではない雰囲気がある小さな貝殻の細工である。それこそ浜辺で拾った貝殻よりもずっといいだろうし、まんじゅうを買って帰るというようなありきたりでもない。
非常に気の利いたお土産で拒まれる理由というのがさっぱりわからない。白百合からすればこれは最高のお土産だという考えだ。
なのに錬太郎は拒んでいる。さっぱりわからない。それで白百合は錬太郎を探るような眼で見て、もしかすると遠慮しているのかもしれないと思い、そんな遠慮は必要ないぞといってすべて持たせようとするのである。
ぐいぐいと銀色の貝殻の山を持って帰らせようとする白百合に錬太郎は答えた。
「あんまりお土産を渡す人がいないんで、これくらいでいいんです」
白百合に友人知人は少ないですと答えた錬太郎は、恥ずかしそうに笑っていた。自分の目を覗き込んでくる白百合の目線に耐えかねて、あさっての方向を見ていた。正直にお土産を渡すような友達と知人がいないと答える錬太郎なのだが、本当ならば答えなくともよかったはずである。
ごまかそうと思えばごまかせたはず。それでも答えたのは白百合がかなりたくさんのお土産を持って帰らせようとしているからだ。
錬太郎が必要ないといっても白百合はぐいぐい持って帰れと押し付けてくる。全くひくつもりがないらしく本当にぐいぐいやってくるのは、錬太郎の祖父母と全く同じだった。
デパートで買い物をしたり、客引きに声をかけられるのなら簡単に払いのけられるのだ。錬太郎もそこまで押しが弱いわけではない。必要ないときには必要ないと答えられる。時間がないとか、必要ないといってさっさと目的地に行けるのだ。
それはそうで、そういう仕事なのだとわかっているから、錬太郎の良心は傷まない。仕事でやっているのだから、あしらっても問題ないと納得できる。しかし親切心でやってくれていることというのは断りにくい。
相手が自分のためにしてくれているという優しさがわかるため、断ると心が痛くなる。錬太郎の祖父母がやさしくしてくれるのを強く断れないのは間違いなくこれが働いている。白百合に対してもそうだ。
優しくしてくれているのがわかるから、強く断れない。これ以上は必要ないといって突き放せない。だから錬太郎は恥ずかしいのも我慢して正直に答えたのだ。そうすれば必要ないのがわかってもらえれば白百合もあきらめてくれると考えた。
錬太郎が正直に答えると、白百合はあっさりひいた。そしてこんなことを言った。
「錬太郎ちゃんそんなにお友達いないの? さみしくない?」
白百合に問われた錬太郎は答えた。
「さみしくはないですよ。特に困ることもないですし、一人でも死にはしないですから」
錬太郎の答えを聞いて、白百合が驚いていた。明らかに驚いていた。あまりにも驚いてしまって、両掌に銀色の貝殻を山盛りにしているのを忘れて両手を下げていた。また、わなわなと体を震わせている。
錬太郎の言葉だ。錬太郎の一人でもどうにでもなるとか、困ることはないとか、死ぬことはないという言葉が白百合に衝撃を与えていた。
錬太郎の言葉をざっくりといいなおせば、友達がいなくとも全くさみしくはないし、いてもいなくてもいい。極論として友達がいなくとも自分の人生に何ら影響を与えることではないので、いちいち悩み苦しむことではないといっているのだ。
友達がほしくて、いつも誰かと一緒にいなければさみしくてしょうがないという話ならば、白百合は納得できただろう。もしくは一人の親友がいればそれでいいというような話ならば全く驚きもしなかっただろう。
一人でいることが心底恐ろしいのが白百合なのだ。さみしいからといって自分の姿形を気にせずに地下から出てきてみたり、自分と同じ力を持つ子孫を見出して自分の話し相手にしてみたり、また、話し相手がいなくなったらいやだからといって島の外から来た不思議な少年を島に縛り付けようとしたりするのが白百合なのだ。
だからさみしさなどない。まったく気にもしていないという錬太郎の言葉、答えはまったく理解不能で驚くべき答えだった。
実際にそのような強がりを吐いた子供たちはいたけれど、錬太郎のように本心からいてもいなくても問題ないと答える人間は初めてだった。ただこれは島の外に出られないことと、限られた人間たちの前にしか姿を現さなかったことも衝撃の強さに影響しているだろう。
白百合が銀色の貝殻の山を床にぶちまけると、錬太郎があわてて貝殻を拾い始めた。両手に持っていた貝殻はコートの大きなポケットにしまい、いそいそと膝をついて貝殻を拾うのだった。錬太郎が貝殻を拾っていると、鬼島笹百合も貝殻を拾い始めた。
鬼島笹百合も錬太郎も、少しイラついていた。それはそうだろう。掌に山盛りの銀色の貝殻を持っていた白百合が、何を思ったのか急に床にぶちまけたのだ。ぶちまけられたくさんの銀色の貝殻は、ただでさせものが散乱している本殿の床に散らばっている。しかも小さな銀色の貝殻であるから、床に落ちた反動であちらこちらに散らばっている。
物の影に入り込んだものもあれば、隙間に滑り込んでいる奴もある。本殿の床が銀色の砂浜のようになったといえば聞こえはいいけれども最高に片づけるのが面倒くさい状況になった。
またここが、白百合の寝床だったとしたら、錬太郎は放っておいただろう。おそらく笹百合もいちいち銀色の貝殻を拾うようなこともしなかったはずだ。実際錬太郎は、白百合の寝床にあった大量のごみの山を見ても特に片づけるようなことはしなかった。白百合の寝床に足を踏み入れた時にはやることがあったからというのもあるが、寝起きしている白百合が問題ないのならいちいち手を出さないでいいと思うところがあったのだ。
つまり自分の部屋で何をしようと白百合がいいのなら、好きにさせておけばいいだろうという考えである。これは錬太郎も自分の部屋は自分が住みやすいようにしているところがある。白百合のようにゴミだらけにはなっておらず、男子の部屋としては格別にきれいに整頓されている。
では誰かにやらされたのかとなれば違うのだ。自分で動いている。ではどういうことか。つまりそれは、整理整頓されていてそこそこきれいな状態であることが錬太郎の体質と性格に合っているということである。自分の好きにしていい空間を自分のいいようにしているだけなのだ。
そんな錬太郎だが、葉波根神社の本殿で散らかすのはどうかと考えた時白百合の行動というのはよくなかった。葉波根神社の本殿に来るまでのおじいさんおばあさんの反応からして、ここも白百合が好きにしてもいい場所なのかもしれないという感覚は錬太郎にもある。
ただ、おそらく本殿自体をきれいに保ってくれているのは、つまり雑巾をかけてくれていたりするのは間違いなくおじいさんおばあさんだろうから、ここで散らかすようなまねをするのはよくなかった。
つまり実質おじいさんおばあさんが管理している空間なのだから、散らかすなという考えで錬太郎は動いてた。これは鬼島笹百合も同じで、片付けないのに散らかすなという気持ちで動いていた。
鬼島笹百合と錬太郎が散らかった銀色の貝殻を拾い集めていると、白百合がこう言った。
「錬太郎ちゃんは、強いのね。一人でもいいなんて。私には耐えられないわ」
非常に小さな声だったが、よく聞こえていた。そして悲しげにつぶやいた白百合は、錬太郎たちにならって、床に散らばった銀色の貝殻を拾い始めた。三人で散らばった貝殻を集めるのは簡単だった。あっという間に貝殻は回収できた。回収した貝殻を白百合に渡す時に錬太郎はこんなことを言った。
「多分、強いとか弱いとかじゃないと思います。姉を見ていると友達を増やしたほうが健全なのではないかと考えることもあります。
でも、俺にはできそうにない。一人か二人話し相手がいればよくて、別に話をしなくてもいい。一緒に遊びまわりたいとも思わない。
何というか、あれですよ。体質でしょう。俺は一人でもいい体質で、白百合……さんはそうじゃない。それだけでしょう。太りやすいとか、痩せやすいとか、そんなもんですよ。
そうつまり、貧乳みたいなもんですよ。個性です」
錬太郎が言い終わるかどうかというところで、錬太郎の背後からきれいなローキックが錬太郎の右ふくらはぎを襲った。またほとんど同じタイミングで錬太郎の腰骨あたりを白百合に蹴られた。蹴られた錬太郎だが、まったくびくともしていなかった。
いいことを言ってやったぞという顔をしてまっすぐ白百合を見つめていた。最後の最後まで格好をつけなかった錬太郎だが、自分の発言が頭に残っているのだ。自分の発言とは、白百合に対して語った友達についての考えである。錬太郎の偽りのない考えで、まったく嘘はない。
すべて真実で、白百合のように本気で悩んでいる者に尋ねられれば、答えるだろう正直な答えである。ただ、最後までやり切れなかったのは、冷静になってしまったからなのだ。
暴走していて冷静でなければ、最後まで気分を変えずに話ができただろう。それこそ鬼島笹百合を連れ戻そうとするときには、錬太郎は一貫してまじめだった。まったく茶化すこともなくただただ真剣だった。
なぜそうだったかといえば、間違いなく怒りで暴走していて錬太郎が冷静になれなかったからだ。自分を客観視できずただただ突っ走るだけの錬太郎になっていた。だから自分の発言を冷静に思い返すこともなく思い切ったことも言えた。
ただ、今は違う。頭が回転していて冷静になっている。冷静に自分の発言を見返すということができると、発言は控えめになる。
どこぞのことわざに、発言は銀、沈黙は金というものがあるが、冷静に自分の発言を見れるようになれば、むやみに口を開くことがどんな面倒を引き起こすのかわかるようになる。
錬太郎が白百合に答えた真実は錬太郎にとっては面倒なこと、少なくとも茶化してしまいたくなるような内容だった。話している間に自分がとんでもなく赤裸々に真鍮を告白しているのがわかり、恥ずかしくなったのだ。
何をまじめに答えているのか、何を正直に答えているのかと。そう思ってしまって最後の最後までまじめで通せなかった。だから最後の最後で茶化しながらの挑発をやってのけて、自分の生真面目さをかき消そうとしたのだった。
錬太郎にけりを放った白百合はゴミの山の中にあった小さな箱の中に銀色の貝殻をしまいながら、こんなことを言った。
「最後まできっちり格好つけなさいよ。
なんで茶化すのと同時に挑発するのかしらね。びっくりするわ本当」
錬太郎に小言を言う白百合であるが、微笑みを浮かべていた。今までのしょんぼりした空気がなくなり、楽しげなものに変わっていた。また、背中の翼が動いているらしく紺色のコートがもぞもぞと動いていた。
海波根島のお土産を白百合の作った小さな貝殻の銀細工に錬太郎が決めると、錬太郎たちは葉波根神社の広場に向かって歩いていた。
本殿に向かうときはゆっくり歩いていたのだけれども、今回はかなり早足だった。鬼島笹百合も白百合も、錬太郎もできるだけ忙しく足を動かしていた。白百合など超能力を使って風を捕まえて、ほとんど飛んでいるような状態だった。
ここまで忙しくしているのは、時計の針がそろそろ顔見せの時間を指そうとしているからである。顔見せというのは今年生まれた赤子の顔を葉波根神社の神様に見せるという行事である。島祭りの三日目に行われる行事の目玉で、この顔見せのためだけに三日目があるといっていいのだけれども非常に地味でそもそも三日目というのは出店がたくさん出てきて楽しいくらいにしか考えていない島人も多い。
錬太郎たちが急いでいるのは、この顔見せに遅れそうだからなのだ。ただ、急がなくてはならないのは錬太郎ではなく、もちろん鬼島笹百合でもない。急がなくてはならないのは葉波根神社でまつられている神様、白百合である。
ほかの行事なら、例えばご神体めぐりのような行事なら、白百合は時間を過ぎたところで全く問題なく行動するだろう。余裕を持ってどころか、気が乗らなければ呼ばれるまで動かないことさえある。それはそうで、優先順位というのがあるのだ。
海波根島の島祭り三日目に、朝目を覚ました錬太郎は食欲を優先するか体の汚れを落とすかで体の汚れを落とすのを優先していた。また、海波根島の島祭り二日目の錬太郎は、自分の肉体が傷つくのと、鬼島笹百合を取り戻したいという目的を天秤にかけて、鬼島笹百合を優先させた。すべては優先順位の問題である。
優先するべきものに天秤が傾けば、そちらを優先する。白百合にとって島祭りの三日目に行われる赤子の顔みせは何においても優先されるもので、遅刻するようなことは絶対にしたくなかった。だから白百合は急いだ。超能力を使ってでも遅れないように移動をした。
ただ、あまりに急ぎ過ぎれば人目に付きすぎるのでごまかせる限界ぎりぎりで動いていた。白百合について鬼島笹百合と錬太郎が一緒に動いていたのは、白百合がどうしても三人で動いていたいといったからだ。
白百合が錬太郎たちに言うのだ。
「二人とも当分はこの島に来ないでしょ? だからできるだけ一緒にいたいの。ダメかしら……」
それも非常にさみしそうに、本当に悲しそうに言うのだ。そうすると錬太郎も断れるわけもない。さみしそうにしていて、悲しそうにしている姿を見てしまうと、どうにかしてやりたいと思ってしまうのだ。
これは錬太郎の感覚の問題である。錬太郎自身気づいていないかもしれないが、非常に錬太郎は優しい。甘いといってもいいくらいにやさしいのだ。それこそ白百合がしでかしたことを考えれば、好きになるのはむずかしい。戦いを挑んできたのも、白百合の上司睡蓮に絡まれたのも白百合が原因だろうといって嫌いたくなる。
しかし錬太郎は嫌いになっていない。大したことだと思っていない。小さな子供が泣いている子供に手を差し伸べることがある。また、大人になった時に困っている人を助けることがある。大したことはしなくていい。電車で優先座席を譲るとか、ちょっとした優しさを見せる人がいる。そういう人たちにある心は、結局相手を思いやる心があるからだ。
うがった見方をすることもできるが、行動に移せるのならどこかに優しさがあるのだろう。白百合に対しても錬太郎の心は動いていて、その心に従って、白百合の願いをかなえていた。
そして少し急ぎ足で三人は葉波根神社の拝殿の中へ入っていった。この拝殿とは、広場から見える大きな建物のことで、神社というのはどういうものかと想像するときに一番に思いつく建物のことである。
おそらくは波根神社に来ている人たちも、葉波根神社というのはどの建物のことを言うのかといってたずねられれば、間違いなくこの拝殿を思い浮かべるだろう。本殿から急いできた白百合たちは、神社で働いているおじいさんおばあさんに先導されて、薄暗い拝殿の中心部に向かった。
この時神社で働いている人たちのほとんどが全く錬太郎のことを拒絶しなかった。まったく何もなかったのだ。鬼島笹百合は葉波根みなとと子供のころから顔見知りであるし、そもそも鬼島である。拒絶される理由がない。
白百合に関しては奉られている側なのではじかれるわけもない。ただ錬太郎は関係者ではないのだ。どう見ても身長が高くガタイのいい少年である。普通ではないけれども、普通人だ。神社で働けるような資格は持っていないし堂々と中に入れるようなコネもない。
神社の人たちが錬太郎をすんなりと中に入れたのは、錬太郎の服を確認したからである。錬太郎の着ているもので目を引くのは、紺色のロングコート。それも銀色の糸で刺繍を施された、奇妙なロングコートである。このロングコートを見て、葉波根神社の関係者たち特に白百合の正体を知る人たちはまったく問題ないという判断を下した。
なぜなら銀色の刺繍を施された紺色のロングコートは、御子の証。海波根島の神、白百合が自分の子であると認めた証しである。
この紺色のコートを着ている以上、間違いなく関係者である。他人と身内を分けるための方法というのはいろいろとある。肌の色。髪の毛の色。服装から、刺青のようなものまでさまざまである。学生なら学生服で自分たちと、そうでないものを分けることができる。
人間の人種も髪の毛の色、肌の色で簡単に分け、自分たちとそうでないものを分ける。葉波根神社の人たちは銀色の刺繍を施された紺色のロングコートを着た錬太郎を見て、一般人と御子を簡単に見分けたのだ。そして見分けられたから、全くさえぎることもなく受け入れたのだ。白百合の御子であるというのはつまり鬼島山百合のような存在であり、これからの海波根島を仕切る存在であるという判断なのだから。
神社で働く人たちに案内されて拝殿の中心部に到着すると、すでに鬼島山百合が待っていた。鬼島山百合は錬太郎と同じ紺色のロングコートを着ていて、銀色の鳥のお面をつけていた。そして、八角柱の杖を片手にもち、これから来るだろう今年生まれた赤子と家族を待ち構えていた。
しかし異様な姿の鬼島山百合を見て驚くことはないだろう。なぜなら、ご神体にあたる白百合を赤子と家族が見る機会は、ない。
拝殿の奥、儀式を行う部屋には二つの出入り口がある。一つは赤子と両親が入ってくる入口。そしてもう一つの入り口は、ちょうど反対側にある。この反対側の入り口から錬太郎たちは部屋に入ってきている。
そして儀式を行う部屋の中心部分に人と神を遮る仰々しい飾りがある。色鮮やかな布の壁が二つ三つと重なっているだけであるが、この布のおかげで、全く赤子と両親は異様な存在に気付くことはない。
実際の儀式を行うのは葉波根神社の神主なので、おそらく全く気付く者はいないだろう。鬼島山百合はこの布のカーテンを隔てた、反対側の入り口のそばに立っている。
白百合が儀式の間に到着すると、鬼島山百合がこう言った。
「遅い……遊び過ぎだわ、鳥頭」
鬼島山百合の声は非常に小さかった。しかしよく響いていた。片手に持つ長いつえが、儀式の間の床をかつんと叩いていた。
鬼島山百合に白百合がこう言った。
「ごめんなさい。今年は確か、五人だったかしら? 六人?」
鬼島山百合に謝りながら白百合は分厚い布のカーテンの向こう側を見つめていた。
白百合の問いかけに、鬼島山百合が答えた。
「五人ですよ。珍しいですね、あなたが新しく産まれた子の数を間違えるのは初めてかしら?」
鬼島山百合に白百合がこんな言い訳をした。
「そうだったわね。はしゃいじゃって数え間違えていたわ。落ち着いて数えないとだめね」
鬼島山百合と白百合が話をしていると、分厚い布のカーテンの向こうから、神主が顔を見せた。鬼島山百合よりもはるかに若い、錬太郎のお父さんと同年代の男性だった。この神主は、平均的な身長よりは背が低かった。この神主の男性は、二人にこう言った。
「それではそろそろはじめますので、お静かにお願いします」
神主の男性が儀式を始めるというと、鬼島山百合も白百合もすぐに黙った。二人が黙った時に、神主の男性は錬太郎たちにも声をかけた。
「笹百合ちゃん、君もいつかこちら側に来るとは思っていたが、こんなに早くなるとは思わなかった。これからは母さんを支えてあげてほしい。いろいろと難しい時代だから、頼むよ。
そして、花飾くんだったよね? 白百合様がいろいろと迷惑をかけたみたいなのに、付き合ってくれてありがとう。
いろいろとうるさく言われているだろうけど、白百合様も悪い人じゃないんだ。ただ少し、さみしが屋でなんというか、その、ね?」
神主の男性が声をかけていると、白百合がこう言った。
「あんまり私のことを悪く言うと私が泣きわめくわよ?」
恐ろしいほど情けない脅迫を受けた神主の男性は、分厚い布のカーテンの向こうに消えていった。去り際に不敵な笑みを浮かべていた。白百合の扱いに関しては熟知しているらしかった。神主の男性が姿を消したところで、鬼島笹百合がこう言った。
「おじさんも白百合様のこと知ってたんだ……まぁ、当たり前か。
それにしても、こんなに真っ暗なのに顔なんてわかるの? 少し離れているだけでも何も見えないのに」
鬼島笹百合は真っ暗闇としか言いようのない空間で、両手を探るように動かしていた。彼女はまったく何もものが見えていないかのごとき振る舞いである。一応光はあるのだ。しかしほとんどないといっていい状況だった。
自然光はまったくない。差し込んでくる光は完全になく、光になるのは小さな蝋燭の光だけである。そのろうそくも六本しかない。またこの六本のろうそくも分厚い布のカーテンの向こう側にあるのだ。
これはつまり錬太郎たち側にはほとんど光が届かないという状態だった。かろうじて物のシルエットが見えるだけ、一番目を引くのは闇夜でもはっきりわかる銀色のお面と、銀色の刺繍だけなのだ。さすがに鬼島笹百合も真っ暗闇の中で黙っているのはおそろしい。
さみしいと言ったらいいだろうか。誰でもいいから人の気配がほしかった。夜寝るときに小さなときにぬいぐるみが手放せなかった人がいると思うが、今もぬいぐるみがないと眠れない人というのがいるかもしれないけれど、それである。
さみしい気持ちが膨らんで、誰かのぬくもりがほしくなっていた。
この時に鬼島笹百合の手を握ってくれたものがいた。鬼島山百合である。孫娘が両手を動かしているのを見て、そうだろうなと察してくれたのだ。
簡単に察せられたのは、孫娘と同じような動きをした人物を知っているからだ。そしてその人物から、どうしてあのような行動をしていたのか、理由を聞きだしていた。そのためすぐにおかしな行動の理由に思い当たり、すぐに助けに向かった。さすがに孫娘であるから、性格も似るのかなどと面白く思うところもあった。
孫娘と鬼島山百合が手をつないでいる間に、儀式が始まった。儀式は淡々と進んでいった。両親が大切に赤子を連れてきては、神主が呪文を唱える。呪文が終わると別の家族が入ってくるという繰り返しだった。
赤子であるから泣いていることもあった。神社の何とも言えない雰囲気が恐ろしかったのか、それともただ腹が減っているだけなのか、わからないが泣いている子もいた。しかし儀式の間に入ってくると、すぐに泣くのをやめてしまう子ばかりだった。
なくのをやめてしまう理由はさっぱりわからないが、どこからともなく吹いてくる頭をなでるような優しい風が一つの理由であるのは間違いなかっただろう。
儀式が終わると白百合を先頭にして鬼島の家に向かって錬太郎たちは歩いていた。鬼島の家に戻る前に出店を軽く回って昼食をとった。
錬太郎たちが鬼島の家に向かっているのは、そろそろ定期便が来る時間だったからだ。海波根島の島祭りのために定期便が増えているといっても一日に五本といったところである。普段が一日二本であるからかなり増えているといえる。
しかし、一本でも見逃すと次の船に乗るために非常に長い時間を待たなくてはならない。そして、長い時間を待つことになると、帰りの電車に乗り遅れることになり、どんどんと帰れなくなってしまう。そのため計画していた通り、帰りの定期便の時間になったところで錬太郎たちは島から出ることを決めたのだ。
この時にこれ以上ないくらいあからさまに白百合が悲しんだが、さすがに錬太郎もこの悲しみを癒してやれなかった。
そして、錬太郎たちが鬼島の家に荷物を取りに戻ると、玄関に葉波根みなとが座っていた。葉波根みなとは錬太郎を見つけるとこういった。
「お父さんが、そろそろ帰る時間だからってね、いらないお世話だっつーの。
でも、目がさめちゃったから一応ね。びっくりした?」
玄関に座っている葉波根みなとをみて錬太郎が答えた。
「はい。また会えてうれしいです」
錬太郎が答えていると、鬼島の家の奥から禍々しい色の小さなフクロウが飛んできた。この小さなフクロウは、葉波根みなとの頭に止まりそして翼を休め始めた。
島から出て行こうとする錬太郎が荷物を持ち、フクロウもつれて行こうとしたのだが、フクロウは錬太郎について行こうとしなかった。錬太郎が指に止まらせようとしたのだが、フクロウはそっぽを向いてしまった。
錬太郎が嫌われるような事でもしただろうかと不思議がっていると、フクロウは翼を広げて、足踏みをして見せた。そして何度かうなずくような動きをした。この動きを見て錬太郎はこういった。
「この島に残るつもりか? 正直俺なんかよりお前のほうがずっと不思議だ。いったいなんなんだお前は?
でも、無理やりにつれていくつもりはないよ。かなり助けられたからな、好きなようにしろよ。
後、賢いからたぶんわかっていると思うけど、葉波根さんたちに迷惑かけないようにな」
赤黒い小さなフクロウに錬太郎が別れを告げると、フクロウは小さく鳴いた。
そして鬼島笹百合の荷物と自分の荷物を持って錬太郎は鬼島の家から出て、港を目指した。鬼島笹百合も葉波根みなとも、白百合も一緒に港に向かっていた。
海波根島の港にはすでに定期便が到着していた。定期便には続々と人が乗り込んでいて、もう少しすれば出発というところであった。友人や家族を見送るために集まっている人たちも多くいた。ここに、鬼島山百合と鬼島兵辰もいた。鬼島山百合と鬼島兵辰は両手にビニール袋を提げていた。弁当のようなものが入っていた。
二人の姿を見つけて、錬太郎たちが近寄っていった。そうすると鬼島兵辰が鬼島笹百合にビニール袋を渡していた。鬼島笹百合が中身を聞くと、鬼島兵辰は答えた。
「お弁当だよ。これから移動するだろう? 持っていったほうがいいと思ってね。出店だけだと足らないだろう?」
鬼島兵辰がお弁当を鬼島笹百合に渡している間に、鬼島山百合が錬太郎に話しかけた。
「花飾くん、いろいろと迷惑をかけてごめんなさいね。
そのコートも必要なければ捨ててしまって構わないから」
鬼島山百合が錬太郎に話しかけている間に、定期便の係員が、大きな声を出した。そろそろ出向するらしかった。
鬼島笹百合が急いで定期便に駆けて行った。鬼島笹百合の後を追って大きな荷物を持って錬太郎が駆けだした。鬼島笹百合が一歩先に定期便の乗り込み、錬太郎が乗り込んだ。定期便が大きな音で出航を知らせている。
その大きな音に負けない声で鬼島山百合に錬太郎が答えた。
「これ! 気に入りました! 大切にします!」
錬太郎の声はしっかり届いていた。港を離れる船に向けて白百合が大きく手を振り、鬼島山百合と鬼島兵辰が、ほほ笑みをおくる。葉波根みなとは、小さく手を振って錬太郎の旅の無事を祈っていた。葉波根みなとの頭に止まっているフクロウは、船の行方を探っていた。
海波根島の定期便はまったく問題なく錬太郎たちを陸地に運んだ。海波根島から久しぶりの陸地に戻ってくると、鬼島笹百合が大きく背伸びをした。両手を上げて、つま先立ちになって、体を伸ばしている。あまりにも大きく伸びをするので、へそが見えていたが、気にしていなかった。
それはそうで、定期便の中は非常に穏やかな時間が流れていた。まったく波は立たず、ほかのお客さんたちも祭りの疲れからだろうか静かだった。そうなるとゆらゆらしている波は妙に眠気を誘うようになって、まぶたが異常に重くなっていく。鬼島笹百合はとんでもない眠気を感じて、というか眠っていた。
定期便から降りてきた鬼島笹百合は完全に寝起きである。少し体をほぐさないと動けそうになかった。
そして荷物運びをしていた錬太郎だが、少し眠そうにしているだけで普通に動いていた。目に力がないけれども、動く分には全く問題なさそうだった。鬼島笹百合の荷物を持ち、自分の荷物を持ち全く問題ないとばかりに、紺色のコートを着たままで定期便から現れた。
錬太郎だけれどもずっと起きていたのだ。定期便の中で鬼島笹百合が自分の分の弁当も食べていいというので、海を見ながらずっと食べていた。鬼島笹百合は出店買い込んだ食べ物だけで満足していたのだけれども、錬太郎は見事に足りていなかったのだ。
それで二人分の弁当をこれ幸いにとばかりに食べながら、定期便から見る海を楽しんでいた。得にすることもなければ、定期便に揺られている間に眠たくもなるだろう。しかし錬太郎には食べるという大切な目的があったので、全く眠たくならなかった。
それに鬼島笹百合が錬太郎の隣で眠っていたので、錬太郎が気を抜いて眠れなかったというのもある。ただ、船の揺れるリズムが見事だったのは間違いなく、やや眠くなっていた。特に眠たくもなんともないのに電車に乗って電車の揺れるリズムを感じていると眠くなる現象が船でも起きていた。
そうして定期便から降りてきた二人は、駅に向かって歩いて行った。駅に向かっている途中も鬼島笹百合は体をほぐしていた。結構な時間眠っていたので、体が硬くなっているのだ。
二人が駅にたどり着いた時、駅の出入り口付近に車川貞幸と丙花白が立っていた。海波根島の波根の道の途中で白百合に保護してもらった二人である。車川貞幸は細めの三十代くらいの男性。丙花白は、十代前半かそれ以下くらいの少女である。
どうやら車川貞幸と丙花白は駅前にずっといたらしい。それがわかるのは彼らの足元にごみの入ったビニール袋があった。この二人であるが、ずいぶん疲労がたまっているように見えた。近付いてみるとわかることだが、車川貞幸も丙花白もすごくさわやかなにおいがする。
駅の出入り口に立っている二人を見つけて、錬太郎が声をかけた。
「あれ、どうしたんです?」
車川貞幸と丙花白に声をかける錬太郎は、不思議そうな目で二人を見ていた。車川貞幸の服装を見て、顔色を観察する。
そして丙花白の服装を見て、顔色を観察していた。
というのも錬太郎は二人の服装が全く変わっていないのがわかっているのだ。波根の道で白百合に二人をまかせた時の服装と全く変わっていなかった。汚れ具合もまったくそのままなのである。これは少しおかしなことだ。
錬太郎が二人と別れたのは二日目なのだ。今は三日目である。それも二人と別れた時錬太郎とは違い自由に動けたはずである。
葉波根みなとを扱うように白百合が二人を扱ったかは怪しいが、それでも白百合がすぐに錬太郎のもとに現れたのを見れば、得これといった悪戯もせずに二人を人のいるところに届けたのは間違いない。
しかし二人は昨日の格好をしたままである。金がないから昨日の格好のままなのか。それだと全く足元のコンビニのビニール袋が説明できなくなる。このちぐはぐな状況が錬太郎にはわからなかったのだ。
それで二人に近付いて行って、謎を解いてみようとしたのだ。それこそなぞなぞを解くような気持ちで、近寄っていた。
荷物を持った錬太郎が近づいていくと車川貞幸と丙花白がすごくうれしそうに笑った。丙花白などガッツポーズまで披露してくれていた。
この二人の行動を見て、錬太郎はぴたりと動きを止めた。まったく二人に近付くのをやめている。目は警戒心をあらわにしている。車川貞幸と丙花白が急に目を輝かせたのを見て、錬太郎は二人に使づくのをやめた。この反応を見ただけで、この二人が何をしようとしていたのか錬太郎はすぐに見抜いたのだった。
どう考えても錬太郎だった。二人の服装が二日目と変わらないのは、錬太郎がいつどの瞬間に島から出てくるかわからないため、駅に張り込んでいたから。足元にあるごみ袋は食事の時間に錬太郎が動き出しているかもしれないと考えた結果であろう。
ここまであっという間に錬太郎は予想して、そしてこれから何をしようとしているのかと思い、すぐに距離を取ったのだ。
錬太郎が警戒心をあらわにすると、車川貞幸がこんなことを言った。
「驚かせてすまない。少し君にお願いしたいことがあってね。私は車川貞幸、考古学者だ、一応な。
それで君に少し話を聞かせてもらいたくて、ここで待っていた。
これから時間はあるかい?」
車川貞幸が錬太郎に交渉を持ちかけるのに合わせて、鬼島笹百合が答えた。
「申し訳ないのですが、電車の時間があるので失礼します。
行きましょう、錬太郎君。もう切符買ってあるから、すぐに乗れるよ」
車川貞幸に答える鬼島笹百合は、錬太郎の腕を引っ張っていた。鬼島笹百合は錬太郎の紺色のロングコートを結構な力で引っ張っていた。鬼島笹百合は車川貞幸と錬太郎をかかわらせたくない。
鬼島笹百合にしてみると車川貞幸というのは怪しい人物でしかないのだ。なぜなら車川貞幸の言葉本当であれば、錬太郎を待ち構えてずっと駅の入り口を張っていたということになる。
この暑苦しい時期に、来るか来ないかもわからない錬太郎をずっと待っていたというのだ。それも話を聞きたいというだけの理由で。どう考えても怪しい。
熱中症になる可能性が非常に高い時期にそんな無謀なことをしてまで関わりたいといってくる人間の執念というのはまったくまともなものとは思えない。少なくとも鬼島笹百合にとってはさっぱり理解できない類のものだった。
たまたま道で知り合いと出会って話をするというようなシチュエーションとは違うのだ。相手は錬太郎を待ち構えていた。ストーカーとののしらないだけいいのではないだろうか。
鬼島笹百合にコートを引っ張られた錬太郎は軽く頭を下げて、車川貞幸と丙花白から離れていった。
少し申し訳なさそうな顔を錬太郎はしていた。かなりきつめに鬼島笹百合が二人を突き放したからである。
しかし鬼島笹百合に反論しようとか、車川貞幸に味方しようとはしていない。鬼島笹百合とほとんど同じ理由からである。確かに車川貞幸と丙花白とは顔見知りである。しかし少しの間だけ錬太郎と一緒にいただけの人間である。
はっきり言って全く関係はないといっていい人間だ。むしろ錬太郎のような暴力を振るい、戦いに赴くような人間というのはできるだけ避けて通る人種にみえる。
錬太郎も自分がかなり無茶なことをやっているというのがわかっているので、二人が寄ってくるというのが不思議でならない。
そして今この瞬間に近寄ってくるというのならば、何かあるということになるだろう。考古学者だから気になったなどといわれて納得できるほど錬太郎も馬鹿ではない。
錬太郎の力を見て、海波根島の未来都市を見て、さらに近づいてくるというのなら、何かあると思ってもしょうがないし、できるだけ警戒するべきだろう。だから全く鬼島笹百合に反論せず、さっさと電車に乗ろうとした。
しかしうまくできなかった。錬太郎の手を丙花白がつかんだからだ。錬太郎よりもはるかに背の低い丙花白は、錬太郎の手をつかむと両目に涙を浮かべてこう言った。
「時間がないのなら、メールアドレスだけでもいいから教えてください……お願いします!」
丙花白のお願いを聞いた時、鬼島笹百合はめまいに襲われた。二つの目を何度もぱちぱちとさせて、錬太郎の手をつかんだ丙花白をにらみつけている。
口元にうっすらと笑みが浮かんでいるが、楽しい気持ちになっているからではない。鬼島笹百合は怒っていた。理由はわかる。丙花白の行動が原因である。
丙花白の行動というのは錬太郎に対しての行動のことだ。錬太郎の手をつかんで、少女特有の高い声で錬太郎にお願いをした。お願い自体は大したものではない。メールアドレスを教えてくれというだけのお願いである。
それを両目に涙を浮かべて、お願いしただけのことだ。
背が高くガタイのいい錬太郎に向けて、小さな少女が涙ながらにお願いをしているのだ。普通に頼めばいいところを、こんな頼み方をしたのだ。
メールアドレスを知りたいというときにどのようにお願いをすればいいのか。人によっていろいろとあると思う。錬太郎なら、メールアドレスを教えてくれと直接言うだろうし、面識のない人のメールアドレスを知りたい時には人づてに来ていくかもしれない。いろいろとあるだろう。
すくなくとも丙花白のように、男に媚びるような動作をふんだんに取り入れて行う必要はまったくない。ただただこれが気に入らなかったのだ。
嫌いなものというのは人それぞれあるが、丙花白の錬太郎を攻撃する一切の行動は、鬼島笹百合の趣味に合わないものだった。
メールアドレスを聞いたというところではなく、この行動自体が気に入らなかったのだ。普通にきけばいいだろうがと叫びそうになっていた。
これで錬太郎が折れるかと思われたが一切錬太郎は折れなかった。むしろ非常に困っていた。きょろきょろとあたりを見渡して、困ったという表情で助けを求めているように見える。
丙花白のこれ以上ないほど自分のかわいさを考慮したお願い、そのお願いが非常によく通る声で行われていたのだ。
聞き取れないということは一切ないのはいいことだろうが、問題があった。周りの人たちにばっちり聞かれていたのだ。
錬太郎が心配したのは世間体である。可憐としか言いようのない少女に、つかまっている錬太郎。そしてその少女からお願いされている明らかに人並み外れたいい体の錬太郎である。どう見ても不審者なのは錬太郎だった。
駅の出入り口なのだ。嫌でも人目は引く。いくら田舎の駅だからといってこの時間帯に人がいないということはない。
騒ぎになれば面倒くさいことになるのは間違いないのだ。痴漢の冤罪という話を聞いたことがある錬太郎にとって、この状況は白百合に追いつめられるよりもずっとまずかった。
錬太郎が困っていると、追い打ちをかけるように丙花白がこう言った。
「お願いしますお兄さん! お願いします!」
丙花白の追い討ちが始まった瞬間、声が響き渡るあたりで、錬太郎は大きな声でこう言った。
「わかった! わかりました! 教えますからやめて!」
錬太郎が折れると、丙花白はごく自然に携帯電話を取り出した。そしてこんなことを言った。
「それじゃあ、教えてくださいね。 代わりに私のメールアドレスを教えてあげます」
錬太郎が折れて、丙花白が携帯電話を取り出したところで、駅の中から大きな音が聞こえてきた。どうやら、錬太郎たちが乗る電車がそろそろ到着するらしかった。
そしてそのアナウンスを幸いとして、鬼島笹百合が錬太郎を引っ張った。それはもう強く引っ張っていた。鬼島笹百合は錬太郎を引っ張りながら、切符を引っ張り出している。
そうすると、丙花白が
「ちょっと待って」
と抗議するのだけれども、まったく鬼島笹百合は止まらなかった。
あっというまに錬太郎を駅の中に引きずりこみながら、駅員さんに切符を切ってもらっていた。そして駅員さんが切符を鬼島笹百合にかえしているところで、丙花白が大きな声でこう言った。
「携帯見せて!」
大きな声を出された錬太郎は携帯電話を取り出した。そうすると丙花白が恐ろしい勢いで携帯電話をひったくり、一秒もしない間に錬太郎に返した。
錬太郎が何事かと不思議に思っているとホームに帰りの電車が到着した。錬太郎の腕を引っ張る鬼島笹百合の力がさらに強くなった。錬太郎は引っ張られるのに任せて、改札をくぐった。
錬太郎が電車に乗り込む寸前で、錬太郎の携帯電話が鳴った。錬太郎が携帯電話を取ると、携帯電話の向こうから、丙花白の声が聞こえてきた。
「これが私の番号だから、登録しておいてね。花飾錬太郎君」
改札の向こうに、車川貞幸と丙花白が立っていた。車川貞幸は何とも言えない顔で錬太郎を見送っている。その隣には丙花白が立っていた。車川貞幸とは違って、実にかわいらしい笑顔を浮かべている。そして電車の窓ガラス越しに目を合わせて、手を振って見せた。




