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第一章 夏休みの始まり

前作ネフィリムの続きですが、前作を読まなくとも大丈夫になってます。

 高校二年生の夏休みが始まる数日前の話である。

友人早房ツバメと花飾錬太郎はなかざり れんたろうは学校の教室で雑談をしていた。自分の机に上半身を預けて、椅子に浅く座った錬太郎は頭を抱えながらこういうのだ。

「大学進学を決めたはいいが、細かいところが全然きまらねぇ」

高校二年生といえば、進路を決めておかなくてはならない時期である。早い人ならば高校に入ってきた時点で進路を決めている。細かい進路は人ぞれぞれあるだろう。一応は大学進学を錬太郎は決めていた。

 しかしこの選択は非常にあいまいなものだった。大学に行ってみたいなという興味だけで大学進学を選んで実行しようとしていた。興味が物事の始まりであるというのは珍しいことではないし、特に責めるようなものでもない。細かいところは後から詰めていくという人も多いだろう。

 ただ、目の前に差し迫っているどこの大学を受験するのかという問題はどうやっても回避できない。大学に行くというのなら、どこへ行くのかを決めなくてはいけない。大学は山ほどあるのだ。受験するというのならどこを受験するのか決めなくては話にならない。錬太郎にはそのどこにというのがさっぱり抜け落ちていた。

 錬太郎が困った困ったと繰り返しつぶやくと、錬太郎のすぐそばに立っていた早房ツバメがこういった。

「そもそも順番が逆なんだよ。普通はやりたいことがあるから、大学に行くわけでな、お前みたいに大学に行ってみたいから大学に行こうとするなんてのは、おかしいわけよ」

 錬太郎と比べても見劣りしない体格の早房ツバメが困り顔になっていた。早房ツバメは錬太郎の話を聞いているとどうにもおかしいと思ってしまってしょうがなくなるのだ。

 何せ自分の研究したいことであるとか、大学の先にあるものを見据えて行動するのが早房ツバメにとっては当たり前である。少なくとも早房ツバメは大学の先にあるもののために計画を練って大学を選んでいた。だから、錬太郎のようにふわふわとしたものだけで道を決めていくというのはずいぶんおかしなことで、相談されたところで目的もない人間に、何を助言していいのかさっぱりわからないのである。かといって、幼馴染で一番の友人である錬太郎の相談に乗らないわけにはいかない。そうして困ってしまうのだった。

 早房ツバメの言葉を聞いてと錬太郎は小さくつぶやいた。

「そうだよな。普通はそうだよな」

 力のない呟きだった。また、少し後ろ暗い感情というのも顔に出ていた。錬太郎も自分が何となくおかしなことをやっているというのがわかっているのだ。実際熱意のある人間というのは、それこそ早房ツバメのように将来を見据えて大学を選ぶだろう。別に大学といわず自分の未来をしっかりと決めている人間からすれば錬太郎のような考え方というのはやはりおかしい。

 目的があるから先に進む。しかし錬太郎は何もない。ただ、エネルギーだけがある。身体を動かす情熱だけが満ちている。そしてどこへでも進める勇気も。ただ、持て余していた。力をどこへ向けて放てばいいのかわかっていない。

 これは困ったことで、そして錬太郎自体が目的を持って歩いている人たちを比べたときなんとなく罪悪感を感じてしまう原因なのだ。つまり自分はふわふわとしていて未来に対して不誠実ではないのだろうかと。目的を持てないのは早房ツバメのように真面目に考えていないのではないかと。

 二人が雑談をしていると、担任の先生がやってきた。時間は午後を少し過ぎたころ、授業がすべて終わり、今日一日の連絡をして終ろうという時間の始まりであった。三十歳になりかけの女性の先生だった。夏の暑い日のことであるから、さわやかな格好だった。そしてこういった。

「それじゃあ、ホームルームを始める。さっさと帰りたいだろう? 協力しろ」

 二人はさっさと雑談をやめておとなしくなった。帰りのホームルームが長引くのは困るのだ。早房ツバメも錬太郎も暑苦しい教室に長居したくない。さっさと連絡を済ませてさっさと家に帰り、クーラーでもつけたいという気持ちがあったのだ。

  ホームルームが終わり、部活動に顔を出す早房ツバメと別れた後、錬太郎が一人さびしく帰ろうとした。早房ツバメは部活動があるので、ホームルームが終わったとしてもすぐに帰宅というわけにはいかない。しかし錬太郎は部活動に入っていない。そして、これといって用事らしい用事もない。そのため、蒸し暑い教室にいつまでもとどまっている理由というのもないのでさっさと家に帰って扇風機にでもあたろうなどと考えているのである。



 そうして帰りの準備をしているところで、錬太郎の携帯電話が鳴った。携帯電話には、ずいぶん前に登録したきり連絡をしなかった先輩、鬼島姫百合の名前が表示されていた。

 錬太郎が携帯電話を取り、返事をすると鬼島姫百合が要件を伝えてきた。

「姫百合です、錬太郎君ですか? いろいろと話したいことがあるのだけれども、とりあえず用件だけを伝えるわ。

 私の姉、笹百合があなたに変わったお願いをしようとしているみたい。私にしてみると姉の問題はどうでもいいのだけれども、友達の悲しむ顔は見たくないわ。

 それで、何が言いたいかということなのだけど、姉さんのお願いは聞いてもいいけれど手を付けるようなことはしないでほしいの。

 私がこんなことを言わなくともあなたはきっとそんな真似はしないだろうけれど、一応、確認のためにね。もしも万が一があった時に私はとても後悔すると思うの。だからこうして電話まで掛けたのよ。

 たぶん、全く意味が分からないと思うけど、頭にだけ入れておいて。言いたいことはそれだけ。それじゃあね」

 言いたいことだけを言って鬼島姫百合は電話を切ってしまった。そのあとに取り残された錬太郎はただ、立ち尽くすばかりであった。有無を言わせない迫力があったのと、少しくらい自分の話を聞いてくれてもいいのではないだろうかという、鬼島姫百合を責めるような気持ちが頭の中に生まれたのである。

 いきなり電話をかけてきて、よくわからない話を一方的に聞かされたのだ。さっぱり理解できるわけもない。話の内容自体もあいまいとしていて真意をつかむには至らない。それこそなぞなぞの答えだけがわからないような実に気持ちの悪い感情が湧いてきて、そして、そういう気持ちにさせている相手に何一つ文句を言えなかった自分というのがいて、錬太郎は動き出せなくなったのである。



 鬼島姫百合の思惑というのを考えがら錬太郎は家まで帰ってきた。太陽が傾き始めてはいたけれども、夏の太陽は長い間顔を出しているものである。高校の授業が終わった後でも太陽は世界を照らしていて、非常に暑苦しかった。しかし帰り道の暑苦しさというのはいくらか忘れることができたのだ。

 何せ錬太郎の頭の中には鬼島姫百合が一方的にぶち込んできた不思議な話という謎がある。鬼島姫百合の姉、鬼島笹百合のお願いとは一体何なのか。そして、万が一というのはいったい何なのか。また、鬼島姫百合が後悔するというのはいったい何についてなのか。

 錬太郎が通う高校から自宅への道のりが全くないように感じられるほど簡単に暇をつぶすことができていた。

 しかしこのなぞというのは真剣に取り扱うようなものではなかった。その証拠に悪魔で錬太郎にとっては暇つぶし程度の問題であった。

 本当に謎を解きたいというのなら電話をかけなおして、問い詰めればよかっただけの話なのだ。しかしそうしなかったのは特に本気になるようなものではないと錬太郎が判断したからである。そしてその価値の重さというのは帰り道の暇つぶす程度のものだった。

 花飾家の入口で錬太郎は立ち止った。見慣れぬ自転車が止まっていたのである。この見慣れぬ自転車は実にかわいらしい自転車だった。おしゃれで、若い女性が好むようなデザインだった。花飾の家には錬太郎以外にも家族がいる。錬太郎の父親、母親、そして姉の晶子である。錬太郎にはかわいらしい自転車に乗るような知り合いというのが非常に少ない。友達だとか知り合いというのは大体がむさくるしい男である。

 一番仲良しなのが幼馴染の早房ツバメで、女性の知り合いと行って仲がいい人というのを思い出していくと幼馴染の万年院静であるからもともとそれほど交友関係は広くないので、頑張って思い出してもあまり意味はない。

 女っ気というのはないに等しいのだ。そういうわけで、玄関前に止まっている自転車というのを見ると、さて誰のものであろうかという考えが浮かぶ。父親の知り合いのものだろうか、母親の知り合いのものだろうか、それとも姉の晶子の知り合いのものだろうか。このような疑問を錬太郎は玄関前の自転車から思い浮かべた。

 そうして、はっきりと誰の知り合いだとは言えないがおそらくお客さんが来ているだろうというところに行き当たり、錬太郎はこう思うのだ。

「これは、静かにしておかなくてはいけないぞ」と。

 お客さんに絡まれたら面倒くさいなという考えである。こうして玄関前の自転車から謎を受けて、おそらく待ち構えているだろうお客さんを思い、玄関の前で少しだけ立ち止まったのだった。



 わずかに玄関で立ち止まった錬太郎だったが

「さっさと自分の部屋に行けば問題ない」

と思いながら錬太郎が

「ただ今」

といった。声に少し迫力がこもっていた。本当にお客さんに出会いたくないという気持ちでいっぱいならば、ただいまなどといわなければいい。しかしいつも家に帰ってきたときにはただいまといっているので、言わずにはいられなかったのだ。それこそ、毎朝の日課を毎日同じようにしないと気分が悪くなるようなものである。そういういつもの癖でただいまといっていた。そうして、お客さんに出会いたくないという気持ちが声にこもり妙に力強いただいまが玄関から、リビングに響いた。

 そうしてあっという間に靴を脱いで自分の部屋に向かった。靴を脱いでそろえるときに錬太郎は玄関に見慣れない靴が並んでいるのに気が付いていた。若い女性が好きそうな靴だった。しかし細かいブランド名だとかはさっぱり錬太郎にはわからなかった。

 しかしこの靴を見た瞬間、錬太郎は姉のお友達が来ているのだろうと予想を立てた。というのが、姉の晶子が履いている靴がすぐそばに揃えておいてあったからだ。そうして素早く誰の友達が来ているのか予想を立てると、急いで自分の部屋に向かったのだった。

 姉のお友達ならば錬太郎よりも年上の女性の可能性が非常に高い。そういう年上の女性が錬太郎にとってはさばきにくい対象であったので、できるなら、特に姉がすぐそばにいる状況であるならば、さっさと自分の安全地帯に逃げ込みたかったのだ。

 しかし、二階の自分の部屋にたどり着けなかった。声をかけられたからだ。リビングから姉の晶子が呼ぶ声がしたのである。

「おかえり。ちょっとこっちおいで」

 リビングに通じる扉は閉じたままであったが、姉の晶子は錬太郎が帰ってきたのだとわかっているらしかった。

 そして、こっちに来いと姉に呼ばれた錬太郎は、いやだといえるわけもないので、固まってしまった。

 もちろんいやだといって拒もうと思えばできる。しかしそれをするほどお客さんと顔を合わせるのが嫌だというわけでもない。また姉の機嫌をあえて損ねるようなまねをするほどいやだということもない。

 しかし、面倒くさいなという気持ちはあるので、いやだという気持ちと、お客さんと顔を合わせるくらいいいじゃないかという気持ちの間で揺れてしまうのだった。

 何となく納得できない錬太郎が固まっていると、姉の晶子がリビングに通じる扉を開けた。

 そして

「おかえりなさい」

といって迎えてくれた。錬太郎を呼んだのはいいけれどもいつになってもリビングにやってこないから、わざわざ自分から呼びに来たのだ。錬太郎の足音から帰ってきたことはすぐにわかっていたけれども、もしかすると父親が帰ってきたのかもしれないし、母親かもしれない。もしかすると家族でもなんでもない人間が入り込んでいるという可能性もあるので、姉の晶子は自分の目で錬太郎が帰ってきたということを確認しに来たのだった。そして錬太郎が間違いなく帰ってきているのを見て、さっさと中に入れというのだった。

 そして、姉の晶子の招きに続くように見慣れないけれども顔見しりの女性が

「おかえりなさい、お邪魔してます」

というのだった。この見慣れぬ女性は錬太郎と比べると非常に小さかった。大体百五十センチくらいの身長であるから、それほど小さいというわけではない。

 ただ、少し線が細い印象があった。そして何とも言えない雰囲気がある。神秘的なといえばいいだろうか、そういう妙な空気をまとった女性だった。錬太郎の姿を見て、あいさつをする姿というのは和やかなものである。

 それはそのはずで、錬太郎とこの女性が顔を合わせるのは久しぶりだったのだ。一年近くは顔を合わせていなかったのである。

 穏やかな挨拶をしたのは久しぶりに出会う少年が、自分の記憶通りの少年のままであったからである。一年前よりもかなり身長が伸びているけれど、姉の晶子とよく似た雰囲気の少年のままだとほっとしていた。


 姉の晶子の友人に挨拶をされた錬太郎は軽くうなずいてから、このように反した。

「ただいま、姉さん、笹百合さん。それと、お久しぶりです」

 錬太郎は少し硬くなっていた。口はしっかりと動いていたが、体の動きがぎこちなくなっている。若い女性との対話というのは男子学生にはなかなか難しいものがある。それこそ高校二年生の男子生徒にとって、年上の女性などというのはとんでもない存在だ。うまく口が回るわけもない。そして、姉の友人だというところから感じる精神的な圧迫感も錬太郎の緊張に拍車をかけていた。これが、同級生だとか、見知った女性であれば固くなるようなこともないのだけれども、どうにもならないこともある。

 錬太郎が挨拶をすると、見慣れない女性鬼島笹百合がほほ笑んだ。鬼島笹百合のほほえみには少しだけ、翳りのようなものが見えた。それはそのはず、彼女は少しだけ困った問題を抱えて、花飾の家に顔を出したのだ。

 そして、彼女はその問題の解決のために錬太郎の協力を必要としていた。これが気心の知れた友人であれば、それほど遠慮するようなことはないだろう。しかし錬太郎と鬼島笹百合はかなり遠い関係しか持っていない。錬太郎にとって鬼島笹百合というのは姉の友達である。それだけだ。また鬼島笹百合にとって錬太郎というのは親友花飾晶子の弟でしかないのだ。このあってないような関係でもって問題の解決のために動いてくれなどという話をしようというのはなかなか難しいものであった。そしてそれを切り出さなくてはならないという問題もまた、彼女のほほえみを微妙なものにするのに十分な理由になったのだった。



 軽い挨拶をした後、錬太郎はさっさとリビングから立ち去ろうとした。リビングで会話を楽しもうという気配はまったくなかった。さっさと一人きりになりたいという気持ちが表情と動作に現れている。若い女性と会話ができるというのは、一見すると実にすばらしいことに見えるし聞こえるものである。しかし生きている男性のすべてが若い女性と是非会話したいという気持ちでいるわけではない。そして若しもそういう気持ちを持っている人がいたとしても、毎日同じような感情のままで暮らしているわけではないのだ。

 錬太郎の中に女性に対しての興味があるのは間違いないことであろうが、それは時と場合というのがやはり関係していて、学校で勉強をした後、自分の姉がそばにいる状況で、しかもほとんど姉を通じてしか会話をしたことのない女性と話をするというのは、つらいものでしかなかったのだ。

 それこそ多少無礼に思われてもいいから、さっさと引っ込みたいと思うくらいにはつらいことだった。

 しかし錬太郎は逃げられなかった。姉、晶子が呼び止めたのだ。

「ちょっと待ちなさい。あんたに話があんのよ」

 錬太郎のほうがずっと姉の晶子よりも身長も高く、体格もいい。そのため無理矢理に手をつかまれたとしても、肩に手を置かれても、抱きつかれたとしてもまったく拘束することはできないだろう。声をかけただけで、拘束できるというのは不思議な話でもある。しかしやはり呼ばれてしまったら、動けなくなってしまうというのもまたしょうがないことなのだ。

 弟と姉という関係性があるうえに、これからの日常生活のことを考えると、つまり円滑に当たり障りのないように生きていこうとするとすると、やはり呼ばれたのならば聞かなくてはならないだろうというように考えてしまい、そして止まってしまったのだった。

 姉の一言で錬太郎が足を止めた。呼び止められたとき露骨に嫌な顔をしていた。

 錬太郎が嫌な顔をしていると、姉の晶子が笑いながら呼び寄せる手の動きをした。その手の動きというのは、姉の晶子の前に空いている椅子があるので、そこに座りなさいというジェスチャーである。姉の晶子には錬太郎に話しておかなくてはならないことがあるのだ。というより、ここに錬太郎がいなければそもそも晶子の友人であるところの鬼島笹百合が顔を出すということもなかったはずだ。

 姉の晶子からしてみれば弟が自分のお願いを聞きたくないなという気持ちでいるというのはわかるのだ。かわいそうなお願いをするのは申し訳ないとも思う。しかしそれ以上にうれしかったのだ。

 それこそ錬太郎の優しい気持ちというのを見透かして、何となく嬉しくなっていた。姉の晶子も錬太郎というのが本気になって反抗しようと思えば、たやすく自分から離れられるとわかっているのだ。弟の錬太郎であるけれども頭の回転も肉体の素質も抑え込めるものではない。実際姉の晶子が襲いかかったとして、錬太郎を制圧できる可能性はゼロだろうし、口で言いくるめるというのもおよそ不可能に近い。

 錬太郎もこの優劣を理解しているのだろうが、それでも姉として慕ってくれているということ自体がうれしいことだった。しかし錬太郎の優しさであるとか慕ってくれているという感情を利用してしまうようなことをしなくてはならないというのが、どうにも姉の晶子にとっては嫌な感じをさせるのだった。


 錬太郎が席に着くと、姉の晶子はこのような話をした。

「あんたさ、夏休みの予定ってどう? 空いてる?」

 錬太郎に夏休みの予定を聞いたのは、錬太郎に夏休みの間にしてもらいたいことがあったからである。長年錬太郎の姉をしている晶子からすると、弟の夏休みに予定があるというのは実に可能性の低いことだと予想がついていた。仮に何かするということになっていたとしても、精々男友達と、男友達といっても幼馴染の早房ツバメだろうが、遊ぶくらいのものである。そして男友達と遊ぶというのもはしゃぎまわるというよりは、むさっ苦しい男がどちらかの部屋に集まって、クーラーの中で涼みながら漫画でも読むくらいのものであるのだという本当を知っていた。

 実際去年の夏休みなど、錬太郎の部屋に早房ツバメだとか万年院静のような友人がふらりとやってきて、だらだらと話をしていた。しかしそれくらいのもので、全くといっていいほど何もなかった。特に女の影がちらつくというのは皆無といってよい。

 おそらく今年も同じようなことになるだろうと予想はついていたけれど、高校二年生の夏休みであるから何か特別な授業でも入ったかもしれないといって一応予定を晶子は聞いてみたのだ。

 姉の晶子の質問に錬太郎は嫌な顔をしながら答えた。

「埋まってるよ」

 ウソである。まったく予定などない。夏休みの予定は真白である。それでもあえて予定をひねり出そうと思えば、出せるのだ。たとえば友人と夏休みは遊ぶ約束があるといってみるとか。しかし友人と遊ぶという予定も非常にあいまいな予定だ。なぜならおそらく遊ぶだろうとしか言いようがないのである。おそらくお互いにひまであれば遊ぶことがあるだろうという状況であるから、今の時点で予定が埋まっているという言い方は難しい。

 しかしおそらく友人たちも暇をすることになり、暇つぶしがしたいなと思うようになるだろうから、予定は埋まっているといえなくもない。

 姉の晶子の質問に対してほとんどウソのような答えを返したのは、どう考えても夏休みをつぶす何かの面倒を押し付けられる質問だったからだ。夏休みの予定を聞かれただけであるから、ただの雑談という可能性もなくはないだろう。しかし長いこと姉の弟をやっていた錬太郎は、姉の晶子が遠回りに予定を聞いてくるときには何か用事がある時であると知っていたのだ。予定がないのならば快く引き受けてもいいところではある。

 姉のご機嫌もとれるだろう。もしかしたらお小遣いをくれるかもしれない。結構、姉の晶子は気前が良いうえに、錬太郎に少し甘い。しかし、暑い夏に外で出歩きたいとは思わないのが錬太郎だったし、できるならクーラーの中でごろごろしておきたいというのは人間としては普通な気持ちだった。


 夏休みの予定についてほとんどウソに近い返事を錬太郎が返すと、姉の晶子はこのように言った。

「少し前にさ、頼子の手助けをしてくれたでしょう? 私はあんたにお手伝いのお礼をしたいと思ってんの」

 姉の晶子はずいぶん嬉しそうにほほ笑んでいた。そして錬太郎の目をじっと見つめていた。姉の晶子が言うところの頼子のお願いというのは池淵頼子を花飾のうちに連れてきてくれないかというものである。

 池淵頼子を家に連れてくるだけでお礼をするというのは実に気前がいい話である。

 しかし池淵頼子というのが随分姉の晶子と顔を合わせたくないと思っていたところがあった。錬太郎は理由を知らない。しかし池淵頼子が姉の晶子を避けていたので難しい仕事だった。これも錬太郎は知らないことだ。

 錬太郎以外の人にとっては難しいことだったのだ。この難しさとはつまり人によって池淵頼子の対応が違っているというだけの話で、錬太郎以外の人には厳しかったというだけのことである。そのため錬太郎にはさっぱり何が難しかったのかわからない。お礼を言われるほどのことでもないという気持ちになるのもしょうがないことだ。錬太郎にとっては学校の帰りに先輩に声をかけて連れてきたというだけのことなのだから。

 しかし何にしても錬太郎が姉のお願いを聞いて、しっかりとやり遂げたのは間違いではない。そうなってくると姉の晶子は自分の弟がよくやってくれたという気持ちになるわけで、ご褒美を上げたいと思うようになる。

 ただ、夏休みにご褒美を上げると弟である錬太郎に話をしているわけだが、錬太郎が嫌がるので姉の晶子は少し困った。ただ、怒ったりはしない。なぜならご褒美が単純なご褒美ではないので、姉の晶子も少し複雑なところはあった。



 姉の晶子が池淵頼子の話をするのを聞いて錬太郎はうなずいた。そしてこういった。

「別にそんなのいらないよ。池淵先輩を連れてくるだけだったじゃん」

 錬太郎の目は姉の視線から逃れるようにきょろきょろとしていた。話の流れからして何かしらのご褒美を与えられるのだというのは理解できている。しかしご褒美というのが何か別のお願いの一部になっている可能性に錬太郎は思い当たったのだ。つまり何かのお願いついでにご褒美も一緒に与えられるということ。たとえばこれからコンビニに買い物に行って来いとお願いされたとする。その時に一万円札を渡されて、姉の晶子がこう言うのだ。

「アイスを人数分買ってきて。おつりはお小遣いにしていいよ」

 コンビニのアイスなど数百円のものである。一万円の残りをお小遣いにしてもいいというのなら、それは結構なお小遣いになるだろう。姉の晶子はご褒美をこういうやり方で渡してくることが多いのだ。

 直接渡すことももちろんあるが、どちらかといえば別のお願いの中に含ませてくる。そうなってくると、今回のお願いも一緒に来るだろうと予想を立てるのは難しくもなんともなかった。ご褒美はいらないといっているのは、ご褒美を受け取るために必要なお願いを回避するためである。

 目を泳がせながら錬太郎がご褒美などいらないと答えると、姉の晶子はこういった。

「そうはいかないでしょ。約束は約束だし。

 それにあんたの予定がまっさらなのはすでに把握してるのよ? 断る理由なんてないでしょ?」

 錬太郎と押し問答をするつもりは晶子にはないのだ。自分のお願いを錬太郎が聞かないということ自体がないのはわかっているので、面倒なやり取りはやらない。それに錬太郎が夏休みに予定の下調べはとっくの昔に済ませているのだ。

 姉の晶子がこのように話をすると錬太郎は反論をした。

「勉強するし。ツバメと遊ぶし」

 錬太郎もほとんどだめだとは思っている。しかし一応はやる気がないのですよアピールはしておいた。すんなりと受け入れてもよいのだけれど、あまりにもすんなりとお願いを聞き届けてばかりいると、面倒くさいことになるような気がするのだ。それこそいつでも好きなように使われると思われるのは気に入らないことである。しかし、どちらかといえば年上の姉に対して自分だってそれなりに考えているのだぞという反抗期のような気持ちのほうが強い心情であった。

 錬太郎の雑な返し方に姉の晶子はこのように返してきた。

「誰と誰にあんたの予定を確認したと思う? ツバメ君なんて一番初めに確認したわよ、静にももちろんね」

 錬太郎の雑な返し方にきれいなリターンをかけた姉の晶子はほほ笑んだ。自分の弟のもがき方がかわいらしかったというのもあるけれど、弟のパターンをきっちり見極められたのがうれしかった。 

 ただ、やはりお願いを聞いてくれる姿勢に錬太郎が入っていたのは姉の晶子も気が付いていた。弟を自在に操れる自分というのを誇らしく思いそうなところではあるが、そうはならなかった。

 姉の晶子は少し暗い気持ちになっていた。なぜなら錬太郎がお願いを聞いてくれるということは、高校二年生の夏休みを自分の都合で消費させてしまうということ。大学に進むという決定を下した弟の時間である。勉強に使いたいだろうと思うと、弟が自分の都合よりも姉のお願いを優先してしまってくれたことに行き当たり、それがどうにも、少し暗い気持ちにさせるのだった。

 姉の晶子が夏休みの予定を知っていると言うと錬太郎はうなだれた。肩を落としてしょんぼりという状況だった。錬太郎は姉のお願いをいよいよ聞かなくてはならなくなったとあきらめたのである。もちろん断ろうと思えばできるけれども、やろうとは思わなかった。錬太郎の友人である早房ツバメと万年院静に連絡を取って状況を確認しているという話であるから、それなりに大切な用事ということなのだと納得ができていた。

 そしておそらく幼馴染たち以外にも錬太郎に近い人物には連絡を取っていちいち回ったのだろうとも予想がついた。錬太郎は姉の晶子がそういう地味な作業をすると知っていた。そうしてそこまでしなければならないという話なのだから、断る気持ちは一切なくなっていた。残念なのはだらだらと暮らせなくなってしまったというところだけである。姉が心配しているような学業については一切考えていない。考える必要がないのだ。錬太郎にとって学業というのはそれほど難しく考えるものではないからだ。割と優秀なのだ。



 錬太郎がうなだれて姉の晶子がにやりと笑うと笹百合が話しかけてきた。

「錬太郎君、私と一緒にお祭りに出てほしいの。ダメかな? どうしてもひとりじゃだめなのよ」

 実に申し訳なさそうにして鬼島笹百合はお願いをしていた。この姉と弟のやり取りというのはそもそも鬼島笹百合が花飾晶子に泣きついたことが始まりなのだ。鬼島笹百合が泣きつかなければ錬太郎はうなだれるようなことにならなかっただろうし、そもそもは錬太郎の姉の晶子がいろいろと電話をして回り予定を聞きいていく面倒をしなくて済んだ。

 しかしかといってお願いを取り下げられなかった。お願いが聞き届けてもらえなければ、非常に困る状況に鬼島笹百合はいた。そういう困る状況を何とか回避したいがために鬼島笹百合は心苦しいけれども花飾の姉と弟を頼ったのだ。そして今、ここが正念場だった。

 鬼島笹百合が話し終わった時に、姉の晶子がこう言った。

「荷物持ちよ荷物持ち。見なさいよ鬼島の細い体と細い腕。こんなので動き回るのはつらいのよ。お父さんやあんたみたいに体がでかい奴にはわからないかもしれないけどね。

 旅費は私が出すから助けてあげて」

 非常に早口で説明をしていた。また身振り手振りで隣に座っている鬼島笹百合の体がいかに頼りなく繊細であるか表現していた。姉の晶子がこのようなジェスチャーをしていたのは錬太郎を説得するためではない。

 錬太郎はすでにお願いを聞くつもりになっていたので、いまいち姉の説明の素早さ、説得の力押しに興味を持っていなかったが、冷静に見ていると非常に怪しい。

 この怪しさというのは姉の晶子がやや後ろ暗い気持ちを持っていたために起きたものなのだ。鬼島笹百合の体が非常に頼りないものであるから、ボディーガードと荷物持ちを兼ねてついて行ってくれというのならそれこそ堂々とその話をすればいいのだ。

 錬太郎の体は非常に大きくたくましい。身長が百九十センチあり、筋肉もついているのだからよほどの腕自慢でもなければ近寄ってくる者はいないだろう。そうなると鬼島笹百合を守るというのもさほどおかしな話ではない。

 しかし姉の晶子はかなり急いで話を済ませて、突っ込まれないように流そうとしていた。というのもこのお願いには荷物持ち以外の狙いがあったからなのだ。そしてこの狙いを錬太郎に説明した時何が起きるのかが姉の晶子にはいまいち予想がつかなかった。だからできるだけ素早く終わらせようとしていた。

 姉の晶子が説明を終えたとき、錬太郎はうなずいていた。やや姉の勢いに押されていた。しかし間違いなく自分の意思で姉のお願いを聞いていた。錬太郎にしてみれば細かいいろいろというのはどうでもよかったのだ。錬太郎は姉のお願いを聞いてそれでおしまいだと思っているし、それでいいと思っている。

 鬼島笹百合のお願いが祭りに一緒に出ていくことで、そして荷物持ちを兼ねているというのなら、それを達成してくればいいだけのこと。大したことではない上に、考え方を変えてみると特に予定もなかった夏休みが年上のかわいらしい女性と一緒にまつりに出かけられるというようにも取れる。姉の説明の勢いがすさまじかったことは、夏の熱気のせいで姉の頭の調子が悪くなったのだなくらいにしか思わなかった。これもよくあることだったからだ。



 お願いを聞き入れた錬太郎が部屋に戻っていったあとリビングで二人が話をしていた。鬼島笹百合が申し訳なさそうにこう言った。

「ねぇ、晶子。よかったのかしら。こんなだまし討ちみたいなこと」

 声の調子も非常に弱弱しく、自分が悪いことをやってしまったのだという罪悪感が顔に張り付いていた。鬼島笹百合は錬太郎に肝心なところをさっぱり説明していないのに気が付いていた。はっきり言ってしまえば祭りに一緒に出てもらうこと自体は大したことではないのだ。

 祭りに一緒に出てもらうことで起きるだろう面倒事について、錬太郎について説明していないところが問題なのだ。

 この問題はすでに姉の晶子には説明しているので、あえて錬太郎に説明していないのは不自然である。しかし、鬼島笹百合は錬太郎がいる前で話をしなかった。当たり前である。錬太郎がお願いを聞かないかもしれないと姉の晶子が判断したからとすぐに理解できた。どう考えても、本当のことを離せば錬太郎は嫌だというだろう。だから言わなかったのだ。たとえだまし討ちになったとしても聞いてもらえなくては困るからと、そう理解したのだ。ただ、だまし討ちをしてしまったのは、気分が悪くなる行為だった。弟をだまさせるようなことをさせてしまったことに鬼島笹百合は罪悪感を感じていた。



 申し訳なさそうにしている鬼島笹百合に姉の晶子はこのように言った。

「いいのよ。本当のことを話したらあの子は絶対に嫌がるでしょ。

 頼子のことなら心配しないでいいわ。まだ、そういう関係じゃないから。それにやましいことをするわけじゃないでしょ。

 祭りの手伝いをしてもらうだけ。それだけのことよ。私の弟は少し押されたくらいで折れるような軟弱ものじゃないわ。若しもへし折れたとしてもそれでも立ち向かえる強い子なの。

 それに悪い子でもない。優しい子よ、きっとわかってくれると思う……もしもダメだったら私が代わりに謝るわ」

 錬太郎と話をしている時のような和やかな雰囲気というはどこかに消えていた。まったく暖かさのない冷たい目で鬼島笹百合を晶子は見つめていた。姉の晶子にとって今回の錬太郎に対してのお願いというのは、完全に鬼島笹百合の失敗のせいである。

 しかもこの失敗というのが何とかして挽回しなければならないものでもないのだ。それこそお金がなくなってしまったとか、モノが失われたとかいう話ではない。

 そういう話ではなく、鬼島笹百合の実にどうでもいいプライドの問題で、今回錬太郎にいちいちお願いしなくてはならなくなったのだから、姉の晶子からするといい気分にはならない。そもそも花飾晶子からすると鬼島笹百合は自分でどうにかするべきだという気持ちのほうがはるかに多いのだ。 しかしそれでも一応しょうがないからやっているのは、鬼島笹百合に言葉通り泣きつかれたからで、友達でもなければ絶対に助けなかっただろう。そんな鬼島笹百合であるから、錬太郎の姿がなくなって、本当のことを知っている二人だけになれば、つめたくもなる。

 姉の晶子が随分冷たい目で見つめた後、少し時間をかけて鬼島笹百合はもごもごとしてこう言った。

「それはそうだけど」

 姉の晶子が随分冷たい目で見るので、少し言い訳したい気持ちになったのである。しかし鬼島笹百合が言い訳をしていい立場にいないのは十分理解しているので、もごもごする以外にないのだ。

 鬼島笹百合がもごもごしてすぐに、姉の晶子はこういった。

「鬼島がいらない見栄を張るからこうなるのよ。

 なんで彼氏ができたなんてベタなうそをつくかな。絶対嘘だってばれてるわよ」

 姉の晶子は大きくため息をついていた。鬼島笹百合にあきれているのだ。どうしてこんなにどうでもいいことで、私たちを困らせるのかと。今回の鬼島笹百合のお願いというのは花飾晶子にとってはとんでもなくどうでもいいものであった。嘘かと思ったくらいである。

 数日前に鬼島笹百合に見栄を張ってしまって面倒くさいことになったと泣きつかれたときには、冗談かと思ったほどである。しかし話を聞いてみると冗談ではなく本当の本当であることが分かった。そうしてどうして自分に頼み込んできたのかと聞くと、鬼島笹百合の友達で信用できて彼氏だと言い張って全く問題がない人間が花飾錬太郎しかいないと思い当たったからというのだから、軽く叩いても問題ないだろう。

 それこそ鬼島笹百合が泣きついてきたのを聞いた時、姉の晶子はそこら辺を歩いている人間を引っ張ってきて彼氏にでもすればいいだろうといってはねのけたのだ。が、それではだめだというのが鬼島笹百合だった。何がダメなのかといって聞いてみると、知らない人と話をするのが嫌だからというのだ。そうなってきて錬太郎に頼みたいというのだから、本当に軽く殴っても問題ないだろう。

 鬼島笹百合は小さくこう言った。

「ごめん。私だってわかってるわよ。

 でもね、おばあちゃんがしつこくてつい『いる』っていっちゃったのよ。

 いいじゃない、私だって胸を張りたい時もあるのよ」

 鬼島笹百合はもともと小さいのにさらに小さく縮こまっていた。鬼島笹百合の隣に座っている花飾晶子から発せられる雰囲気が随分とげとげしいものに変わっていたからである。鬼島笹百合は花飾晶子が比較的温厚であると知っている。そして面倒見がいいことも知っていた。今回のようなどうでもいいようなお願いを聞いてくれるのは鬼島笹百合の友人の中では花飾晶子以外にはいない。

 当然だけれども、話を最後まで聞いてくれてしかも動いてくれるのは彼女くらいしかいないだろう。かといって優しいだけではないと鬼島笹百合は知っていた。

 どう考えても筋が通らない話なら、絶対に話は受け入れてくれないし、今回のお願いも泣きついたからぎりぎり聞き入れてくれただけなのだ。特に弟である錬太郎に助けを求めるというところで、姉の晶子はずいぶん考えて、かろうじてうなずいてくれた。本当に本当に幸運だった。何にしても花飾晶子の独特の空気、鬼島笹百合のおばあさんが発するような空気というのは彼女を無条件で威圧するものだったのだ。この威圧する空気というのは鬼島笹百合に言い訳をさせるのに十分すぎるものだった。

 花飾晶子が軽く笑ってこう言った。

「わからなくもないわ」

 鬼島笹百合のくだらないにもほどがあるお願いに弟を突き合わせるというのは非常に心苦しいことではあった。しかしそれでも花飾晶子がお願いを聞き入れたのは鬼島笹百合がおばあさんから彼氏はいつできるのかだとか、いつ孫の顔が見れるのかといって攻められるという話をよく聞いていたからなのだ。

 成人してくるとどうしても考えなくてはならない問題である。花飾の家は一般的な家庭であるから、家を継ぐとか継がないとかいう話をすることはめったにない。しかし鬼島の家のような由緒正しい家の娘として生まれた時にはやはりどうしても問題になってしまう。こればかりはどうしようもない。そしてそんな立場にいる鬼島笹百合に男の気配がないのは、友人である晶子が一番よく知っていた。そしてさらに言えば、男が寄ってこない花飾晶子は彼氏がいるのかいないのかという話自体が非常にプライドを刺激するのを知っていた。その何とも言えない感情が、今回の一件が実に馬鹿げた話であったのにもかかわらず協力してしまった理由の一つでもある。




夏休みの予定が決まってしまった錬太郎は自分の部屋に戻っていた。二階にある自分の部屋に向かうまでの錬太郎の足取りは非常んに重たかった。そしてそれほど重たくもないはずの学生かばんが重たいもののように見えるほど肩を落としている。

錬太郎が部屋に戻っていったのはこれ以上、姉と姉の友人と一緒にいたくなかったからである。二人のことは嫌いではない。嫌いでしょうがないということはないのだ。しかし一緒の部屋にいたとして落ち着いていられるのかと考えた時に、うなずくのは無理である。一応学校で勉強をして帰ってきているのだ。頭をそこそこ使って疲れもたまっている。いちいち気を使わなくてはならない相手と一緒に居続けるというのは無理がある。

 それこそよくわからないお願いをされた後の微妙な空気の中に一緒に居続けるのは耐え難いことだ。

 そのため錬太郎はほとんど会話らしい会話もせずに、さっさと自分の部屋に戻ってしまったのであった。見る人によっては愛想のない対応に見えるけれども、頭を使うことでたまってくる疲労というのを耐えるのは難しいことだった。

 自分の部屋の机の上に学生かばんを置くと錬太郎はベッドに寝転がった。妙に頭が痛かったのだ。頭痛がしているというよりは何となく頭の中に重たいものがあるような変な感じがあった。おそらく長い間本気になって勉強をしていたことで、頭の体力がなくなってしまったのだろうと錬太郎は考えた。

 そしてベットに横になって頭を休ませようとしたのだった。知恵熱のような状況には、休むのが一番の対処方法であると錬太郎は知っていたし、これまでの経験からしてもこういう場合には特に何も考えずにリラックスしているほうがいいとわかっているのだった。

 ベッドに横になってから数分後、錬太郎は不思議な行動をし始めた。ベットに横になってから数分間はおとなしくしていたのだ。しかし数分後に目を開いて天井をにらんだ。それからすぐに右目と左目を交互に閉じ始めたのだった。

 この不思議な行動をしている間、錬太郎は顔をゆがめていた。錬太郎は自分の見えて居る景色が微妙に歪んでいることに気が付いたのだ。何となくおかしいなという気はしていたのだけれどもそれがいよいよ見慣れている天井を見て、はっきりと歪んでいるのに気付いた。どうやら視力が落ちてきているらしいのだ。おそらく右目が左目よりもほんの少しだけ弱くなっている。錬太郎はそれに気がついて、間違いではないだろうかといって自分で視力検査をやっていたのである。しかしもちろん正確に視力を割り出せるわけもない。

 ただ、片方の目が微妙い悪くなっているという確信がほしかっただけなのだ。確信さえ持てれば、あとは面倒くさがりな自分のしりをたたけるのだから。


 自分流の視力検査に空き始めたところであった。錬太郎は勉強机に腕を伸ばして携帯電話を取ろうとした。しかし微妙に距離が足りていなかった。錬太郎の携帯電話に誰かが電話をかけてきたのだ。ほとんどの場合は早房ツバメで、次に多いのが母親と姉の晶子である。さらにその次が池淵頼子と万年院静である。

 錬太郎は着信音を聞いて、おそらく早房ツバメであろうと予想をしていた。着信をんで人を分けるようなことはしていない。ただ、割合的にそうだろうと思ったのだ。

 そうして、手を伸ばして携帯電話を取ろうとしたができなかった。ベットから携帯電話まではどうやっても錬太郎の腕の長さでは届かなかった。ベットから身を起こして動いていけばいいだけのことだったが、錬太郎はなかなか動こうとしなかった。ベッドの上から何とかしてやろうともがいている。ベットの上にいる状況というのを捨てきれなかったのだ。それで何としてもベッドから降りてやるものかと腕を伸ばして届かない距離に挑んでいた。

 着信音が二回、三回となるあいだ錬太郎は携帯電話に手を伸ばし続けた。どうやっても、手が届くわけがないのにもかかわらず錬太郎は手を伸ばしていた。体をひねってみても、ほとんど体を起こすような格好になっていたけれども、それでも届かなかった。しかし錬太郎はあきらめずに続けていた。

 そうするとおかしなことが起きた。携帯電話がふわりと浮きあがったのだ。明らかにおかしなことが起きていた。手も触れていないのに携帯電話が勝手に動き出すというのは明らかにおかしい。しかし、錬太郎にとってはまったくおかしなことではなかったし、特に騒ぎ立てるようなこともでもなかった。これは錬太郎が不思議な旅の果てに手に入れた能力。世間一般で呼ばれているところの超能力と呼ばれている力である。錬太郎はこの能力の理屈をさっぱり理解していない。どうしてものが勝手に浮き上がるのかはわからないし、どうやって使っているのかもわからない。しかし間違いなく自分の使いたい時に力を使える。

 この能力のなぞについて錬太郎が考えることは非常に少ない。今はただ便利な道具、それこそものを取るのに楽ができる能力くらいの考えしかもっていなかった。しかしなんでもよかったのだ。使えるものは使っておこうという根性である。

 このような根性を持って、五回目の呼び出し音が鳴るところで錬太郎は手の中に携帯電話を収めたのだった。しかしあまり顔色は良くなかった。超能力を使うと非常に疲れるからだ。しかしこれでも非常にましになったといえるのだ。というのが自分が超能力を使えると気が付いた時には、少し能力を使っただけでまったく何もする気持ちがなくなってしまうほど疲れてしまった。

 しかしそれが少しずつ距離が延びるようになって、今ではほんの少しだるくなるくらいでいろいろと動かせるようになっていた。能力が伸びてきているというのは実のところ錬太郎にとってはどうでもよかった。今の錬太郎の頭にあるのは、携帯電話くらい普通に動いて取ればよかったなという後悔の気持ちと、反省の気持ちだった。能力を使うよりも自分で動いたほうがずっと早かっただろうというのは、だれの目にも明らかなことである。


 携帯電話には、見たことのない電話番号が表示されていた。電話番号だけである。これは錬太郎の知らない誰かからの電話ということになる。

 少し考えてから、錬太郎は電話にでた。

「花飾りです」

 間違い電話かいたずら電話だと思い切って着信拒否をしてみるのも一つの手であった。しかし、なんとなく今日はそういう気分ではなかった。仮に間違い電話であれば、間違いですよといって終わりにするつもりで電話を取っているし、いたずらで電話をかけてきているのならばそれに対応するというのも一興だった。普通に考えるとかなり変わった感覚ではある。しかしそれをするだけの余裕が、錬太郎にはあった。暇だったのだ。

 錬太郎が電話に出るすぐに、電話の向こうから女性の声がかえってきた。電話の向こう側にいる女性は、錬太郎にこう言った。

「あぁ、錬太郎くん? 私、私。笹百合よ。晶子から番号を聞いたの。番号を教えてなかったと思うから、登録しておいてね。

 あと、お願いを聞いてくれてありがとう。助かった」

 電話をかけてきたのは鬼島笹百合であった。彼女が錬太郎の携帯電話に連絡を入れてきたのは彼女の電話番号を錬太郎に伝えるためである。二人は知り合いではあったけれども、電話番号だとか、メールアドレスを交換するような関係ではなかった。二人が知り合ってからすでに結構な年数がたっているのだが、錬太郎がさっぱり鬼島笹百合に興味を示さなかったのが大きな原因である。ただ、姉の友達に連絡先を積極的に聞きに行くというのはかなり具体的な目的がなければできないことであるから、錬太郎の行動というのはそれほどおかしなことではないだろう。

 しかし、これから少しの間一緒に行動するわけで、その時に携帯電話の番号を知らないというのは、少し不便だった。そういうわけで、錬太郎が一緒に動いてくれるということになったところで、彼女は錬太郎の電話番号を姉の晶子から聞き出して、登録して、連絡をしてきたのだ。

 電話の向こうにいる、おそらく花飾の家のリビング花飾晶子の隣にいるだろう鬼島笹百合に錬太郎はこのように言った。

「いえいえ、どうせ夏休みは宿題をやるか、ツバメたちと遊んでいるかするだけですから。しかし、どうしました、なんだかしおらしいですけど」

 この時の錬太郎の声は少しはずんでいた。というのが、ほんの少しだけ心の余裕を取り戻したことで、先ほどの鬼島笹百合の様子というのがおかしかったことに気が付けたからである。錬太郎自身、あまり鬼島笹百合と交流があるわけではない。姉のお友達の女性というくらいしかつながりはないと、錬太郎は思っている。

 しかし何度か顔を合わせているので、その人柄というのは大まかに把握できていた。錬太郎にとって鬼島笹百合というのは錬太郎の先輩である鬼島姫百合の姉で、その性格から背格好まで非常に鬼島姫百合と似ていた。もちろん妹と姉であるから似ているのは当然だろうが、二人の性格だとか身振り手振りを見ているとやはりそうなのだろうなと一発で納得できる程度には似ているのだった。

 となると、鬼島笹百合は非常にしっかりとした性格で、しかもなかなか頭が働くタイプであるということになる。

 見た目が似ているからといって中身まで似ているとは言えないが、少なくとも錬太郎にとっては、鬼島笹百合というのはしっかりとしていてしかもなかなか頭のまわるタイプの女性であるという感覚がある。

 そうなってみると先ほどのしおれたような雰囲気というのはおかしかった。弱弱しくあまりに頼りなかった。これは性格をほんの少しだけ把握できている錬太郎から見るとおかしなことだった。それを今になって冷静になり思い出してきて面白くなっていた。



 錬太郎がからかうと、電話の向こうの鬼島笹百合笹百合がこう言った。

「気のせいじゃない? それじゃあ、錬太郎くんの時間を三日もらうからね。あとから困らないように夏休みの宿題を済ませておくことを勧めます」

 電話越しに話をしているとき、鬼島笹百合は軽く指先でテーブルをたたいた。ほほが少しだけ赤くなっていた。また、話をしている間、少しだけ声が上ずっていた。隣に座って話を聞いていた晶子も気が付く変化だった。

 鬼島笹百合は少し恥ずかしくなってしまったのだ。というのが、普段の彼女からしてみると、今回のように頭の悪いお願いを誰かにするということは考えられない。お願いの理由からしておかしなことなのだから、おそらく普段の彼女からするとまったくありえないことなのだ。

 しかし、今回はそのおかしな問題のために信頼できる友人に頭を下げたうえに、言葉通り泣きついた。そして年下の男子に対してだまし討ちをするような真似までしている。

 とりあえずお願いを聞いてもらえたという安心感の中にいる彼女は、自分の今までの行動というのが随分自分らしくないことに気が付けたのだ。

 しかし気がつけたのは彼女にとってはあまりいいことではなかった。彼女の性格からして、彼氏の真似事をさせているというのもだまし討ちをしてしまったというのもあまりいいことではないのだ。そうしてそういう自分ではだめだと思っている痛いところを錬太郎が思いきりついてきたものだから、衝動を抑えきれなくなり、指先が勝手に動き出してしまったのだった。

 そして、錬太郎が答えるより早く一方的に鬼島笹百合は電話を切った。電話を切る時の鬼島笹百合というのは実に面白い顔をしていた。真っ赤になってしまっていて、全力疾走でもしてきたのかというくらいに息が切れていた。

 彼女は自分の未来について考え始めていたのである。そしてその未来というのが実に愉快で、考えるだけで胸が高鳴るものだった。このようになったのは自分の見栄を張ったどうでもいいお願いが達成できるかもしれないという第一段階を突破したためである。

 今までは錬太郎がお願いを聞いてくれるかもわからないので、お願いを聞いてくれるかどうかというところにばかり頭が向いていた。しかし錬太郎がうなずいてくれたことで、その次のことに頭を働かせる余裕が生まれたのである。

 お願いが聞いてもらえたのだからこれで良しというように考えれば、何も興奮することはないだろう。しかしお願いの種類がまずい。ただの仕事のお願いなら、こうはならない。なにせお願い自体が彼氏の真似事である、錬太郎には内緒であるけれども、仮にばれたとしても花飾晶子の弟ならば、その性格上なし崩しに真似くらいならしてくれるだろうというのは、大体予想がつく。

 しかし、問題はその彼氏の真似事をしてくれる錬太郎に対して、鬼島笹百合の精神が耐え切れるのかというところなのだ。早い話が、彼氏の真似事をしてくれるという大したことのないままごとのような行為に妄想が膨らみ始めて、彼女の頭の中ではひどいことになり始めていたのである。いわゆる少女漫画的なことが起きるのではないかなどと妄想していた。そういう妙な気持になり始めていて、心理不安定をさとられたらまずいと電話を切った。年上の見栄を保ったのだ。この内心を覚られないように動いた頭の回転はいい。しかし力を発揮するのにはあまりほめられるような理由ではないのは、お願いと同じだった。




 電話を切られた錬太郎は勉強机に向かっていた。勉強机に向かっている廉太郎は、一生懸命頭を働かせて夏休みの宿題を片付けていった。夏休みに入る前なのだけれども宿題自体はずいぶん前から教科ごとに渡されているので、夏休みの始まる前に済ませることができる。

 すくなくとも錬太郎はそうしていた。夏休みが始まる前の話であるから、宿題を急いでする理由というのはない。錬太郎自身夏休みの宿題をさっさと済ませるようなタイプではないのだ。どちらかというと毎日コツコツと宿題を済ませて行くタイプだった。

 しかしかなり早めに宿題を済ませているのは鬼島笹百合の旅行に行くのだから早めに済ませておいたほうがいいのではないかという忠告が、もっともだとうなずけたからだ。

 錬太郎自身はそれほど急がなければならないという気はない。しかし旅行に行くということはいつもとは違うことが起きる可能性が高いということである。となると、もしかすると旅行の疲れてまったくやる気が出ないということもある。

 まったく知らないところに行くのだから、それなりに疲労はたまっていくだろう。しかも荷物持ちをしなければならないというのだから、これはもしかすると旅行から帰ってきたところで体力が限界になり風邪をひくようなこともありうる。

 ならば、元気が有り余っている今のうちに片づけられる宿題は済ませておいたほうが、賢いというものである。そして暇なのは間違いないので、宿題をやらなければならない理由を見つけられた今ならば、それなりにはかどるという考えもあった。

 錬太郎が勉強机に向かって宿題を済ませて、そろそろ半分以上終わるかというところで携帯電話が鳴り響いた。メールの着信音ではない。電話の着信音だった。携帯電話の画面には鬼島姫百合と大きく表示されていた。

 錬太郎は四つコールがなる寸前で携帯電話に出た。この時、錬太郎は少しだけ目をこすっていた。宿題に集中していたため、脳みそに疲れがたまり始めたのだ。そしてやはり視力が落ち始めていると実感するのだった。

 携帯電話に出た錬太郎はすぐにこういった。

「なんでしょう、先輩」

 電話に出た錬太郎の声が少しだけ震えていた。そして軽く目をつぶっていた。錬太郎は少しだけ緊張していた。鬼島姫百合というのは錬太郎の知り合いである。そして先輩でもある。何度も会話したことがあるし、共通の友人もいる。もしかすると鬼島姫百合は錬太郎を友達だと思っているかもしれない。

 しかし錬太郎にとっては鬼島姫百合というのはなかなか緊張する先輩であったのだ。年上の女子であるということも緊張する理由の一つなのだけれども、鬼島姫百合の人を寄せ付けない冷静な空気が、鋭い目線が錬太郎には緊張のもとになっていた。この緊張が錬太郎に苦手意識になり、そして苦手意識が錬太郎の声と表情に現れるのだった。

 錬太郎が電話に出て数秒後、鬼島姫百合がこう言った。

「錬太郎くん。夏休みに姉さんと一緒に海波根島に行くことになったそうですね。

 嬉しそうに私に教えてくれましたよ」

 錬太郎に話しかけているときの鬼島姫百合の声に力が入っていなかった。声の音量自体は聞き取れるものである。しかし抑揚がないのだ。それもそのはず錬太郎はまったく知らないことだけれど、鬼島姫百合の姉である鬼島笹百合が花飾の家から戻ってきて、とてもうれしそうに妹の鬼島姫百合に錬太郎がお願いを聞いてくれたことを説明してくれたのである。

 そして姉の鬼島笹百合がとてもうれしそうに錬太郎がお願いを聞いてくれたといって話をするのに従って、妹の鬼島姫百合は問題が起きているとすぐに察した。

 問題というのは錬太郎に対して彼氏の真似事をしてくれと正直に頼んでいないことではない。姉の鬼島笹百合とそして共通の友人である花飾晶子が正直に話をするとはまったく鬼島姫百合は思っていないし、彼女自身が姉の立場であれば絶対にそんな情けない話はしないだろうとも思う。

 問題なのは、姉の鬼島笹百合が錬太郎に対して接近を試みているような節があるところだ。錬太郎に対して姉に手を出すなといってくぎを刺したのは、もしかすると錬太郎が姉に興味を持ってしまうかもしれないと考えたからであった。

 しかし逆は考えていなかったのだ。逆とは鬼島笹百合が錬太郎に興味を持ちそして、捕りにかかるという状況である。

 そもそも彼氏の真似事をさせるのだから興味があるのだろうと考えるのはさほどおかしな話ではない。嫌いな相手には頼まないだろう。ただ、鬼島姫百合自体が錬太郎を恋愛対象に見ていない。まったく見ていないのだ。何せ彼女の好みというのは、いわゆるアイドルのようなイケメンが好きなのだ。錬太郎のような背が百九十センチ近くあり、筋骨隆々で、しかも一昔前の男前というのはストライクゾーンから、大幅に外れていた。錬太郎のような一見するだけでわかる雄臭い男ではなく、香水の匂いがするような優男が好きなのだ。

 鬼島姫百合は自分の姉も同じような性格と趣味をしているとわかっているので、おそらく男の趣味も同じだろうと踏んでいた。となると錬太郎というのはまったくストライクゾーンから外れているので恋愛などというのは成立しない、完全な安全人物となるはずだったのだ。しかし、ふたを開けてみると姉の鬼島笹百合は錬太郎にお願いを聞いてもらえて非常に喜んでいるどころか、妙にはしゃいでいるのだからおかしい。どう見ても普通ではない。

 しかもこの普通ではない状況を普段よく見ている鬼島姫百合は嫌な予感しかしなかった。だから鬼島姫百合はさらに強く釘を錬太郎にさすことに決めた。当然だが姉にも思いきり釘をさすことにしていた。この電話というのは、そのための電話であり、電話越しの声に抑揚が乗らないのは友人の池淵頼子の無言の圧力を感じなくてはならないかもしれないという恐れからである。


 電話の向こうにいる鬼島笹百合に錬太郎はこのように返事をした。

「先輩が言っていたお願いは笹百合さんのことだったんですね。お祭りの手伝いなんて頼まれるとは思ってもいませんでした」

 鬼島笹百合と会話をする錬太郎は笑っていた。実に鬼島姫百合の忠告というのが大したものではなかったからである。実際大したものではなかったのだ。何せ夏休みの数日間を荷物持ちとして過ごせばいいというだけのものである。確かに体力勝負であるから、体力のない人にとってはつらいものではある。

 しかし錬太郎のような力が有り余ってしょうがないタイプの人間にとっては、大した問題ではない。気を付けるところというのも歩き回るかもしれないので、日焼け止めを持っていくとか、虫に刺されないように気をつけるくらいのものである。そうなってくると、鬼島姫百合の忠告、すでにほとんど錬太郎は忘れているけれども、心配し過ぎだと面白く思ってしまったのだった。少し驚かせすぎだろうと、錬太郎はどうにもおかしく思ったのだ。

 錬太郎が笑い、少し間を開けてから鬼島姫百合がこう言った。

「ふん、そう。お手伝いね。

 まぁ、いいわ。ねぇ錬太郎くん、あした美術部に来てもらえるかしら。終業式が終わってからでいいわ。ちょっとお祭りの説明をしたいの。いいでしょ?

 まったく何もわからない祭りに参加して、ヘロヘロになって帰ってくるよりも、準備をしていけるほうがいいと思わない?」

 鬼島姫百合は話をしながら額に手を当てていた。また、声の調子こそ優しげだったが、その目は鋭かった。鬼島姫百合ははっきりと理解したのだ。つまり錬太郎から鬼島笹百合に対して手を出すことはおそらくありえない。錬太郎自身が、年上の女性に対して遠慮しているのか、もしくは姉の花飾晶子の友人であるということから苦手意識を持っていると予想ができた。

 しかし、もう一つはっきりと鬼島姫百合は理解したことがあった。姉の鬼島笹百合が錬太郎に対して祭りの説明を一切していないというところである。なぜはっきり理解できたのかといえば、仮に鬼島笹百合が錬太郎に対して祭りの内容を伝えていれば錬太郎のように笑いながら話をするというのが難しい内容だからだ。

 これはおそらくどのような屈強な人間であったとしても祭りの内容だけを聞けば、嫌がるものなのだ。当然のことだけれども、鬼島姫百合は参加したいとは思わない。錬太郎に対して祭りの説明をしたいといって誘うのは、この祭りの説明をすることで錬太郎の手助けをしたいというところが一つ、また、錬太郎と顔を合わせて話をするという場を設けることで、錬太郎に大きく釘を刺そうと考えたのであった。


 鬼島姫百合の提案を聞いた錬太郎は電話越しですぐにうなずいた。そしてこういった。

「わかりました。ぜひお願いします先輩」

 鬼島姫百合の提案にうなずいているときの錬太郎はずいぶん気圧されていた。電話越しなのにもかかわらず、鬼島姫百合の芽が鋭くなっているのがわかったのである。誘いの形をとってはいたけれども、まったく断らせるつもりなどないように聞こえた。

 そして、実利というのももちろんあった。実利とは祭りの情報である。錬太郎は祭りのお手伝いと荷物持ちをするという話だけは聞いていたが、それ以上の話を聞いていないのだ。もちろん鬼島笹百合から話を聞けばそれでおしまいだけれども、いまいち交流のない鬼島笹百合に電話をあえて掛けるというのも、気が引ける。また、姉に頼んで聞いてもらうというのも何か違う気がする。

 そういうわけで鬼島姫百合の提案というのは、少し恐ろしい感じもするけれど実に魅力的だったのだ。断るような提案ではなくむしろ喜んでというところである。

 錬太郎が祭りの説明を受けたいと答えると、鬼島姫百合がこう言った。

「そう言ってもらえるとうれしいわ。それじゃあ、待っているわ」

 錬太郎を待つといって話をしている鬼島姫百合はとてもうれしそうにほほ笑んでいた。錬太郎が自分の作戦に乗ってきてくれたことで、いろいろと面倒くさい問題が、もしかすると一発で消えるかもしれないと計画を描いたのであった。

 この計画とは、祭りの内容を伝えることで錬太郎が嫌気をさすようになり、やめてしまい、面倒事が一切消えるという計画である。そして、仮にそうならなかったとしても、祭りの内容について説明をしなかった姉の鬼島笹百合に対する錬太郎の好感度を下げることができるのではないかという狙いもあった。

 そしてさらに、もう一つ考えるところがあるのだけれども、それは鬼島姫百合がどうすることもできない問題なので、池淵頼子に任せるつもりである。思うところは多いけれども、鬼島姫百合は問題を解決できる糸口を手につかみ、そしてその先の情景を思い、ほほ笑んだのだった。ただ、このあたりやはり姉妹で、鬼島姫百合のほほえみは鬼島笹百合の少女漫画的な妄想中のほほえみとよく似ていた。



 携帯電話のボタンを押した錬太郎は、ぼんやりと天井を見上げた。そして、右目をこすり始めた。今までもしかしたら視力が落ちてきたのかもしれないというあいまいな感覚がなくなったのだ。錬太郎は自分の右目の視力が左目よりもずっと落ちているのを受け入れた。

 そうして、独り言をいった。

「眼鏡がいるかもな」

 独り言を言う錬太郎の顔色は良くなかった。恐怖を感じたのだ。しかしこれはメガネだとか、コンタクトレンズへの恐怖ではない。恐れはない。視力が落ちてきたのならばメガネをつけるというのはよくありふれた光景である。同級生の中にもメガネをかけているものは多いのだ。何が恐ろしいものか。

 また、眼鏡が嫌ならコンタクトレンズを入れるというのもあるだろう。これはなかなか恐ろしいようにも思うが、恐ろしければメガネを使えばいいだけのことであるから、顔色を変えるほどのものではない。恐ろしいのは、顔色が悪いのは自分の視力が落ちるという現象それ自体についてなのだ。今まで当たり前にあったものが、いつの間にか変わってしまう。

 このいつの間にか変わってしまうという変化が恐ろしかったのだ。それも自分の肉体の一部分、光をとらえる眼球の力が落ちていくのだから、これは恐ろしい。



 夏休み目前。待ちに待った終業式の日、錬太郎は美術部の部室に向かっていた。制服を夏仕様のものに切り替えているけれども、額には汗がにじんでいた。廊下を歩くスピードもいつもより遅いように見えた。錬太郎が美術室に向かっているのは、一つ上の学年の先輩である鬼島姫百合に呼び出しを受けたからである。断るということももちろんできたのだけれども、受験勉強で忙しいなか、時間を割いて錬太郎のために時間を使ってくれるという鬼島姫百合先輩である。断るわけにはいかなかった。

 美術部の部室に向かう途中で、大きな荷物を抱えた万年院静とすれ違った。荷物を運んでいる万年院静はとても難しい姿勢で道を進んでいた。両手で抱えている荷物が彼女の視界をふさいでいるのだ。風呂敷のようなもので包んでいるけれどもガチャガチャと歩くたびに聞こえる音から推理すると、彼女の私物の塊であろう。万年院静は少し小柄な女性である。そのため少し大きな荷物を抱えると、あっという間に姿が見えなくなってしまうのだ。この万年院静であるが美術室に置いてあった自分の私物を運び出しているのである。

 普段は私物を部室においているのだけれども、夏休みに入るということで片づけをしていたのだ。物を持って帰るというのも一つであるが、それに付け加えて、掃除もしてしまおうという発想であった。しかし毎日毎日積み重ねたものというのは大きくなるというのが常である。万年院静が持って帰っていなかった私物というのは結構な量になっていて、そうしていまつけを彼女が払うことになっていた。

 万年院静とすれ違った時、錬太郎は万年院静に声をかけた。

「転ぶぞ」

 声をかけた時の錬太郎は嬉しそうに笑っていた。これは、転んでほしいと思ったわけではないのだ。そして、意地の悪い考えというのがあったわけでもないのである。錬太郎はただ自分の友人と廊下ですれ違ったことがうれしかったのである。本当に大したことではないのだ。それだけのことで少しだけうれしくなっていた。

 錬太郎が声をかけると、万年院静は大きな声で答えた。

「大丈夫大丈夫! 見た目より軽いの! そうだれんちゃん! 先輩がコワい顔してたよ!」

 両手で抱えている荷物のせいで、万年院静の顔が隠れていたけれど、彼女は笑顔になっていた。また、声も弾んでいた。特にこれといった理由はないのである。うれしくなったのは錬太郎とすれ違い、声を掛け合ったからだ。それだけだった。

 そうして錬太郎に忠告をするとあっという間に万年院静は荷物を運んで行った。廊下を進む万年院静の背中に錬太郎は礼を言った。

「そっか、ありがと」

 礼を言いう錬太郎の表情は非常に暗い。美術室に向かっていたはずの足は完全に止まっていた。それはそのはずで先輩が怖い顔をしていたというのなら、機嫌が悪いということであろう。そして機嫌が悪いということは、これから祭りについての説明を受けるはずの錬太郎は機嫌の悪い先輩と一対一で会話をすることになるということであろう。もともと鬼島姫百合の男を寄せ付けないクールな雰囲気自体が錬太郎は苦手なのだ。

 そんな鬼島姫百合の機嫌が悪いというのなら、それはもうとんでもなくつらい時間が待ち受けているということに他ならない。これから待ち構えているだろう恐ろしい時間を思うと足取りも気分も悪くなる。



 いつもより少しだけ丁寧に廊下を歩いて、錬太郎は美術部に到着した。美術室までの廊下を丁寧に歩いたおかげで錬太郎の足音というのはまったくないも同然である。身長も体格もいい錬太郎であるが、ここまで足音をさせないというのはなかなか見事な足運びだった。かくれんぼうをするのなら間違いなく役に立つ技術だった。

 しかし、顔色というのはやはりよろしくない。夏の暑さのために汗をかいているのか、それともこれから待ち構えている鬼島姫百合先輩との一対一の説明会を恐れて冷や汗をかいているのかさっぱりわからない状況だった。今から引き返してみるという選択肢が何度も頭の中によぎってはいた。しかしすでに万年院静とすれ違っている状況で、帰るという選択肢自体は選べない。

 また、やはり先輩が直々に説明をしてくれるという約束を結んでいるのだから、失礼なまねはできないというのが心に強くあったのである。その心にあったものが錬太郎の足を進ませたのだが、この結果がどのような未来を呼ぶのかは美術室に入ってみないとわからない。

 顔色の悪い錬太郎が部室の扉をノックすると扉の向こうから鬼島姫百合の返事がかえってきた。

「はい、どうぞ」

 返事をする鬼島姫百合の声が非常に上ずっていた。いつものような冷静沈着な雰囲気が声に乗っていない。それもそのはずで、鬼島姫百合はとんでもなく驚いていたのである。ノックに驚いたのではないのだ。

 まったく気配を感じることもなかったのに、ノックが部室に響いたのを驚いたのだった。これはつまり錬太郎のせいである。錬太郎が全く足音を立てずに美術室まで歩いてきた。それが彼女を驚かせることになったのである。

 もともと美術室というのが非常に静かなところにある。人がいなくなるとほとんど音がしないようになるのだ。もちろんグラウンドからの音も聞こえるし、吹奏楽部が演奏している音も聞こえるのだけれど、音が混乱していないので誰が部室に近づいているのかというのがすぐにわかるのだ。

 それこそ部室の中で会話をしていても遠くから廊下のきしむ音が聞こえてきて、廊下を靴が叩く音が聞こえてくるのがわかるのだ。

 これは特別な技術ではない。静かな場所であるから、音を出して動くものがよくききわけられるのである。そんな美術室であるから、鬼島姫百合はいきなりノックされるというのは驚くべきものだった。何せ今まで足音もなく廊下がきしむ音も感じられなかったのだから、これは驚くことだった。

 そうしてそんな状況で反射的に入って来いと合図を出してしまったので、クールな雰囲気を声に乗せられなかったのである。

 かわいらしい返事を聞くか聞かないかというところで、錬太郎は扉を開けた。錬太郎の顔色というのはやはり悪いままだった。緊張しているようにも見える。それもそのはずで、錬太郎の頭の中ではクールな雰囲気の先輩と万年院静が戻ってくるまでの間戻ってくるかもわからないけれども、その間一対一で会話をする試練が待ち構えているという頭になっているのだ。

 もともと鬼島姫百合のクールな雰囲気というのが苦手な錬太郎にしてみると、この状況はあまり良いものではなく、いよいよ迫った修羅場に錬太郎の顔色は悪くなる一方であったのだ。当然だけれども扉に手をかけた時の錬太郎の表情たるは、いったい何者と相対するのかという程度には悪くなっていた。

 錬太郎が部室に入ってくると部室の中で動き回っていた池淵頼子と鬼島姫百合の動きが止まった。ぴたりと時間が止まったのかと思うほどにはきれいに動きを止めていた。髪の毛を長く伸ばした鬼島姫百合と、平均的な女子生徒よりはスタイルがよろしい女子生徒池淵頼子が驚いた顔のままで固まっているのは、やや間抜け面白いものであった。

 一見すると、気配を感じさせない不意打ちのノックに驚いていたようにみえる。しかし実のところは部室の中に入ってきた人物、錬太郎を見て、二人とも同じように驚いていたのである。錬太郎を呼び寄せたのは鬼島姫百合であるから、当たり前のこととして錬太郎が部室に来ると知っていた。もちろん錬太郎が部室に来るのは知っていた。何をこれからするのかというのもわかっている。

 ただ、錬太郎がノックをした人間だとは思わなかったのだ。なぜなら錬太郎というのは美術室に来るときには足音を立ててくるのだ。うるさい足音ではない。普通に歩いてくるだけなのだけれども、それでも結構離れたところからでも錬太郎が美術室に向かってきているなとすぐにわかるのだった。そういうわけなので、鬼島姫百合も池淵頼子も全く思いもしなかった人物が部室に入ってきたので、驚いたのだった。



 池淵頼子と鬼島姫百合の動きが止まっている間に、錬太郎は部室の中に入ってきてこう言った。

「お邪魔します。祭りの説明を受けに来ました」

 錬太郎の表情に少しだけ元気が戻ってきていた。口元が少しだけ上がり、目に力が戻り始めていた。ただ、少しだけ体が震えていた。これは緊張からくるものではない。部室に入った途端にいつも冷静沈着な先輩たちが面白い格好で固まっているのを見て、笑いそうになったのを我慢しているのだ。

 思い切り笑ってもいいような気もするのだけれども、ここで下級生である錬太郎が笑ってしまうととんでもないことになるような気がして、なんとか我慢している状態であった。冷静に考えるとそれほど面白くもない格好なのだ。しかし笑ってしまうととんでもないことになってしまうという緊張感が実際の面白さよりもはるかに面白さを生んで、とんでもないことになっているのだった。

 困ったことである。しかし二人の面白い格好のおかげで、錬太郎の緊張はほとんどなくなっていた。

 笑うのを我慢しながら錬太郎が美術部に来た目的を伝えると、鬼島姫百合が動き出してこういった。

「あぁ、そうだったわね。思ったよりも早くて驚いたわ。それじゃあ、海波根島の祭りを説明しましょうか。

 空いてる椅子に座って。ちょっと汚れているけど、使えるでしょ」

 錬太郎に対応するために口を開いていた鬼島姫百合であるけれども、実に動きが素早かった。固まっていた姿勢をすぐにいつも通りのすっとした立ち姿に戻し、荷物を片付けてしまった。そして、いつもと変わらない冷静な口調で話をするのだ。ただ、耳が恐ろしく赤くなっていた。

 耳が赤くなっている鬼島山百合に椅子をすすめられた錬太郎は、少し困っていた。きょろきょろと美術室の中を見た。それというのも、どの椅子に座っていいのかわからなかったからだ。

 このどの椅子に座っていいのかわからないというのは、鬼島姫百合との会話にちょうどいい椅子というのがどれなのかがわからないということである。

 それというのが、鬼島姫百合はまだ部室の中を歩き回っている。錬太郎は鬼島姫百合に説明してもらうために美術室に来ているのだから、彼女の話を聞かないわけにはいかない。となると、全く見当違いの椅子に座るというのはよくないだろう。これで、椅子が一つか二つしか空いていないというのなら、困ることもないのだが美術室の中には五つほど用意されていて、どれも鬼島姫百合と微妙な距離にあるものだから、これは困った状況だった。

 錬太郎が困っていると、先輩の池淵頼子が差し出してくれた。実にやさしく、錬太郎の手を取って椅子に導いたのである。錬太郎を見る目は優しく、微笑みを浮かべているさまというのは模範的な優しい先輩そのものだった。

 池淵頼子が錬太郎を導いたのは錬太郎がとても困っているのをすっかり見抜いてしまったからである。錬太郎というのは自分では冷静にふるまえているように思っている節があるけれども、少し注意深く見ていると心の動きが簡単に体の動きとして現れるのを、池淵頼子は見抜いていたのである。

 そうして、錬太郎を見ていた彼女は鬼島姫百合に座るように促されて、困り始めたのにすぐに気が付いた。顔が困っているのだから、そんなに難しいことではないけれども、錬太郎を見つめていた彼女であるから反応が素早かった。



 池淵頼子に導かれて錬太郎は椅子に座った。池淵頼子に手を握られて、やや錬太郎の顔が赤くなっていた。池淵頼子に手を握られて心臓が飛び上がりそうになったのである。

 もちろん感謝はしているのだ。どの椅子に座ればいいのかいまいちわからないところで助けてくれたのは非常にうれしいことであった。

 しかし、椅子に座るくらいのことならば手を握る必要など全くない。何せ錬太郎は高校生であるから、指示だけもらえば椅子に座るくらいのことは問題ないのだ。しかしそれなのにもかかわらず、手を握るようなことを池淵頼子がするものだから、錬太郎は恥ずかしくなったのである。恥をかいたということではなく、一つ上の学年の女子生徒に手を握られたこと自体が錬太郎の顔を赤くさせたのだった。

 赤くなった錬太郎が椅子に座るか座らないかというところから、鬼島姫百合が話し始めた。

「海波根島の祭りは少し変わっているの。仮装パーティーみたいなものでね、すごく地味なの。

 神輿も一応あるけれどみんなで騒ぐようなものではなくてね、若い人が来ても楽しめるようなものではないわ。

 もちろん出店みたいなものもあるし神輿も担ぐわ。でもね、それはたぶん錬太郎くんにはあまり関係ないと思うの。

 姉さんが手伝ってほしいのは祭りの二日目。ご神体めぐりと呼ばれている儀式に参加することなの」

 海波根島の祭りについて話し始めた鬼島姫百合であるが、窓の外に体を向けていた。錬太郎と池淵頼子は鬼島姫百合の背中しか見えない状態だった。ただ、錬太郎も池淵頼子も何も言わなかった。失礼だとも思わなかった。なぜなら彼女の耳がまだ赤かったからである。

 鬼島姫百合がう波根島の祭り、おそらく錬太郎が参加するだろう行事について話し始めたところで、錬太郎は首をかしげた。

 さっぱりわからないという顔をしている。このわからないというのは祭り自体が意味不明であるということではない。自分がどこを手伝えばいいのかさっぱりわからなかったのである。

 神輿を担ぐとか、何か重たい荷物を運ぶ手伝いをするというのならば話は分かるのだ。錬太郎の肉体というのは肉体労働に向いているように見えるし、実際のところ力も強い。

 だから、鬼島笹百合のお願いで荷物持ちをするとか、祭りの手伝いをするという話になった時には、すぐに神輿を担ぐ手伝いをするのだろうとか、重たい荷物を運ぶための手伝いをするのだろうと納得できた。

 しかしご神体めぐりというと話は変わる。なぜなら今の錬太郎が想像できるところからすれば、ご神体めぐりなど力のいる仕事ではない。今の時点でのイメージであれば、島の中をぶらぶらと歩くだけのように聞こえていた。精々ハイキング程度の喪だろうと。

 このようなイメージがあるものだから、錬太郎はわからないと思ってしまう。自分の手伝いが必要なのかと、おかしいと思う。

 錬太郎が困っているのを見透かしたように、鬼島姫百合がこのようにつづけた。

「錬太郎くんは荷物運びでもするつもりだったみたいだけどね、姉さんが手伝ってもらいたいのはご神体めぐりのほうなのよ。

 たぶん説明してないででしょ? 説明したらきっと嫌がられると思ったのね。

 でもね、わからないでもないの。私も何度か参加したことがあるからわかるのよ。このご神体めぐりってのはね、森の中を歩き回るの。それも変な格好をしてね、これが苦しくてね、二度と参加したくないわ」

 ご神体めぐりについて話をする鬼島姫百合であるが、今もまだ窓の外に体を向けていた。いくらか耳の赤いのは元に戻ってきているようだった。





 鬼島姫百合の説明を聞いて錬太郎はうなずいた。ほんの少しだけ納得がいっているらしく微笑みが浮かんでいた。ご神体めぐりという行事が散歩ではなく体力を使うものであるというように納得がいったのである。錬太郎が思い浮かべたのは山の中を歩き回る修験者の姿だった。

 宗教的に似ているのかどうかというのはこの際全く考慮していない。しかしおそらく険しい道を歩き回るたぐいのものであろうと理解した。

 錬太郎が一人でうなずいていると、いつの間にか錬太郎の隣に椅子を引っ張ってきてすわっていた池淵頼子が質問をした。

「ねぇ、姫ちゃん。それがいったい何が悪いの? たぶん錬太郎くんなら問題ないと思うよ」

 鬼島姫百合に質問を飛ばす間、池淵頼子は錬太郎の肩に手を当てていた。その手つきというのは錬太郎の肉体の強度をはかっているように見えた。

 池淵頼子から見る錬太郎というのは、実に屈強な肉体を持つ少年であった。身長も高いうえに筋肉もついている。どこかのアスリートだろうなと思わせる風格がある。

 鬼島姫百合の話を聞くところによると、なかなか体力を使う行事のように聞こえる。夏の暑い時期の中、島の中を歩き回るような行事であるから、つらいのは間違いない。しかし、いちいち説明を必要とするほどにも思えなかったのだ。電話で十分のように思えた。

 池淵頼子が隣に座っている錬太郎の肩に手を当てている間に、鬼島姫百合が答えた。

「まぁ、その体格なら大体の問題はどうにかなるでしょうよ。普通ならね。

 でもね、祭り二日目はものすごく動きにくい格好と、とんでもなく視界を制限される格好でやるの。しかも森の中を歩くから、足場は最悪。次の日は確実に筋肉痛になるのわ」

 海波根島の二日目の行事、ご神体めぐりの感想を話す鬼島姫百合は実にいやそうな声を出していた。

 いまだ窓の外を見たままであるけれども、いやな顔をしているのだろうなと話ぶりから簡単に予想できる。

 このいやな声と嫌な感想自体が、鬼島姫百合の思うご神体めぐりの本当の気持ちだったのだ。一度参加したら二度と参加したくないと思わせる面倒くささだったのである。

 もしも自分の家族が海波根島に住んでいなければ絶対に参加しなかっただろうという確信さえあった。今年の夏に自分の姉、鬼島笹百合が島に向かい祭りに参加するなどと言い出した時には正気を疑ったほどである。


 錬太郎の肩に手を触れたままで池淵頼子がこう言った。

「へぇ、でもご神体を見に行くだけでしょ? ぼろぼろになるような道を行くの?」

 鬼島姫百合に質問をする池淵頼子の視線が錬太郎に向かっていた。質問と声は鬼島姫百合に向いている。

 池淵頼子は錬太郎のことを心配していた。錬太郎の体格からすると、よほどのことがない限り問題は起きないだろうと、池淵頼子は考えていた。事故というのも気を付けておけばどうにかなるだろうというように考えている。

 しかし、自分の友人である鬼島姫百合がここまでいやそうにする行事というのならば、何か悪いところがあるということであろうとも彼女は思う。

 何せ鬼島姫百合はそれなりに運動ができるタイプである。運動能力だけを見れば、世の中の女子たちの上から数えたほうが早いくらいには運動ができる。

 しかしその鬼島姫百合がとんでもなく嫌がるほどというのだから、これはおかしい。ここまで嫌うというのなら、何かあるというように思うのは、自然なことであった。また、そうなってきてこれから参加するかもしれない錬太郎のことを思うと、不安になるのだった。

 池淵頼子の質問を受けてすぐに鬼島姫百合が答えた。

「六十年前にうちのおばあちゃんが完走したきり誰も達成できていないわ。あんなのは無理なのよ。うちのおばあちゃんがおかしいだけ」

 池淵頼子の質問に答える鬼島姫百合の声にとげがあった。これは池淵頼子の質問が彼女のプライドに触ったからである。

 というのが鬼島姫百合は海波根島の島祭り二日目のご神体めぐりを途中で棄権している。これはだるくなったからやめたということではなく、先に進めなくなってしまったのである。

 ご神体めぐりなどという非常に簡単そうな行事で、失敗してしまったものだからそのことを彼女はよく覚えていた。鬼島姫百合が初めてご神体めぐりに挑戦した時には、自分が六十年ぶりの達成者になるのだといって意気込んでいたくらいなのだ。

 話には聞いていたけれども楽勝だと思っていたところがある。何せ、ご神体めぐりなどというのは非常に簡単な道を歩いていくだけとしか思えなかったからである。しかし失敗した。準備万端整えていったのにそれでも失敗したのだ。そして、その失敗を今でも覚えているのである。そんな彼女だったから、池淵頼子の質問がプライドを刺激して声のとげになってしまったのである。



 二人のやり取りが終わったところで、錬太郎がこういった。

「まぁ、大丈夫でしょう。ダメだったらすぐに棄権します」

 鬼島姫百合の説明を聞いてそれでも錬太郎はやめようとしなかった。ほんの少しだけ、面倒くさそうな顔と声だったけれども本気でやめにかかってはいなかったのだ。

 鬼島姫百合の話を聞くと鬼島笹百合の説明というのはまったく大切なところを話していないものである。不完全な説明で錬太郎をはめたのだといって怒ってもいいくらいである。

 しかしそれでも錬太郎が怒らないで手伝いをするつもりでいるのは大したことではないと高をくくっているからである。

 確かに話を聞くと不思議な祭りではある。しかしやることというのをまとめてみれば、不思議な祭りの装束を着て森の中を歩くというだけのことである。大したことはない。祭りなのだから変な格好も許されるし受け入れなければならないだろう。それが祭りだからだ。いちいちいつもと違うことを問題にするのは無粋だ。

 しかも鬼島姫百合を見ていればわかるが、ダメそうならば途中でやめることもできるのだ。もしもこれが、成功させなければ生きて帰れないというようなとんでもない祭りならば話は変わるだろう。

 しかし鬼島姫百合は無事に戻ってきているし、ダメそうならさっさとやめても構わないというような真剣さなのだ。

 これならば、特に難しいと思うようなことはない。少し体験してみて大丈夫そうなら続ければいいし、ダメそうならばやめればいいという程度の話である。

 そして一番大切なことがある。説明不足であったということはあるにしても、錬太郎はすでにお願いを聞きうけてしまっていた。すでにお願いは聞いているのだ。

 確かに情報が隠されてはいたけれども、注意深く説明を求めればおそらく聞き出せただろうとも錬太郎は思う。隠されたこと自体を攻める気持ちは実のところ少ないのだ。自分でどうにかできた可能性が高いのだから。そういうわけなので錬太郎はどちらにしても動かなければならないという気になっていたのである。

 説明を聞いた錬太郎が特に問題ないと答えると、鬼島姫百合が動き出した。何かごそごそとかばんをあさっている。そして十秒ほどしてから、不思議な仮面を見せつけてきた。鬼島姫百合が錬太郎と池淵頼子に見せつけた不思議な仮面は、鳥の仮面だった。

 何かの木を彫りぬいて作られていた。鳥と判断が付いたのはくちばしのようなものと、少しデフォルメされた二つの目玉からイメージされるものが、鳥だったからだ。

 このお面を見せる鬼島姫百合の耳の赤はずいぶん引いていた。もうすっかりいつも通りだった。鬼島姫百合がかばんを探っているときに錬太郎と池淵頼子に振り返ったけれども、その時の顔色というのもいつもと同じ冷静沈着なものだった。

 鬼島姫百合が動き出したのは、耳の暑さが引いてきたというのもあるが、一番は錬太郎を島の祭りに参加させないというところにあった。自分の姉のお願いをたたき折りたいと願っているわけではないのだけれども、鬼島姫百合にしてみると祭りに参加させないことが何より自分の目的にかなうことであったのだ。

 そして今の錬太郎の特に問題にしないという態度を見て、ここでひと押ししなければ自分の目的は達成できないと判断したのである。

 これで錬太郎が完全に祭りに参加する気をなくしてしまえば、それでよい。また、あとだしの情報の連打で、わずかにでも錬太郎の鬼島笹百合に対しての好感度を下げておきたかった。


 鬼島姫百合は不思議な仮面を錬太郎に見せつけて、そしてこういうのだった。

「私が小さなころに使ったやつよ。見てこれ、鳥のお面なんだけどほとんど何も見えないの。こんなのを顔に着けて、走り回るのよ。頭おかしいでしょ?」

 祭りに文句をつけながら、鬼島姫百合は木でできた鳥のお面を自分の顔に当てて見せた。木でできた鳥のお面は鬼島姫百合の顔にはずいぶん大きく、彼女の顔はきれいに隠れてしまった。

 鬼島姫百合が気でできた鳥のお面を見せているのは、錬太郎の祭りに対する好感度を下げておきたいという気持ちももちろんあるが、それ以上にこの木でできた鳥のお面をかぶり夏の暑い森の中を歩き回らなくてはならない苦行を体験した自分の苦しみを錬太郎と池淵頼子にわかってもらうためだ。

 そうして、自分が被った木でできたお面を鬼島姫百合は錬太郎に手渡した。つけてみろということらしかった。なぜだか少しだけ誇らしげである。鬼島姫百合は錬太郎がお面をかぶることで、自分がどれほど苦しい状況に置かれて難しい試練に挑んだのかを理解してほめてもらいたいのだ。 

 錬太郎にお面を渡す時には、鬼島姫百合は間違いなく錬太郎もこんなものをかぶって歩き回るのは無理だといってくれるだろうと予想をしていた。

 鬼島姫百合にお面をかぶるように促された錬太郎は小さな鳥のお面を顔に当ててみた。どう考えても錬太郎の頭には少し小さかった。

 そして、鬼島姫百合が思いきりかぶった後のお面であるということもあったので、自分の顔にお面を持っていくのに少しためらいがあった。鬼島姫百合が嫌いだからというよりも、高校生的な感覚として今先ほどまで女性が身に着けていたお面を、自分が被らなくてはならないという気まずさに、体が鈍ってしまった。

 鬼島姫百合が被れと促しているのだから、気にすることはないはずではある。しかしやや冷静な錬太郎にしてみると、まずいのではないかという気持ちになるのは当然のことだった。

 しかし、なぜか自信満々の鬼島姫百合に逆らうわけにはいかないので、錬太郎は自分の顔にお面を当ててみた。そうするとさすがに錬太郎の顔を完全に隠せるほどお面は大きくないので、錬太郎の顔がすこしはみ出してしまっていた。少し面白い状態だった。


 錬太郎が仮面をつけたところで、鬼島姫百合がこう言った。

「それで、いいかな錬太郎くん? ここからが本題なんだけど、たぶんおばあちゃんが錬太郎君にいらないことをすると思うの。その時にはぜひ強い心で乗り切ってほしいわ」

 錬太郎に忠告する鬼島姫百合であったが、少し笑っていた。錬太郎のかぶっているお面がどう見ても小さく、しかしそれでも律儀にお面をかぶっている錬太郎が面白かったのだ。

 最後まで鬼島姫百合が忠告を言い切るかどうかというところで、錬太郎はこういうのだった。

「これ、そんなに見えないですか? 割と普通に見えますけど」

 鬼島姫百合にお面をつけた感触を話す錬太郎は実に不思議そうに部室を見渡していた。きょろきょろとして、美術室の中にあるものをしっかりと見て確認できている。

 それもそのはずで錬太郎はお面をかぶっていてもしっかりとものが見えていた。確かに木でを彫りぬいて作られたお面は視界をかなりの部分奪うつくりになっている。見えるのはお面の目の部分に空いている小さな穴だけだ。

 しかし錬太郎には十分だった。お面をかぶっていてもいつもと変わらない視界が広がっているように見えていた。いつもと違うことがあるとすれば、お面が顔にあたっているというところと、視力が落ち始めている右目で、わずかに景色がぼやけているくらいのものであった。

 そのため、錬太郎は鬼島姫百合が言うような視界が制限されて困ってしょうがないという状況にはならなかった。そうなってくると、鬼島姫百合の話が少しおかしくなるので、錬太郎は困ってしまうのだった。

 錬太郎がお面をかぶっても物がよく見えるというと、鬼島姫百合は驚いた。一瞬大きく目を見開いていたけれども何とかいつも通りの冷静な自分を保っていた。しかし驚いたこと自体はまったく隠しきれていなかった。

 池淵頼子と錬太郎の二人も平静を保とうとする鬼島姫百合の姿を見て、驚いたなと一発で見抜いていた。

 だが、鬼島姫百合が驚くのも無理はない。何せ、木彫りの鳥のお面を身に着けて視界が保てるわけがないからである。確かに鳥のお面には外をのぞくための二つの穴が作られている。しかしその穴というのは小さなもので、針の穴から光がとおるくらいのものっでしかないからだ。光を取り込んではいたけれども少なすぎる。仮に見えたとしても針の穴一つか二つ分の大きさであるから、いつもと同じというのは絶対にありえない。

 がんばってお面をつけて歩くことはできるが、それでもかなり気を付けなければ足を取られて転ぶのは間違いない。錬太郎のように普段と変わらないほどよく状況を把握できるというのは、いくらなんでもおかしなことだった。

 鬼島姫百合が驚いている間に、隣にいる池淵頼子に錬太郎は仮面を差し出した。木彫りの鳥のお面を、かぶってみてほしいと視線で合図を出して手渡したのだ。

 これは鬼島姫百合があまりにも驚いているので、自分が間違えているのではないかと心配になったのである。錬太郎はまったく嘘をついたつもりはない。木彫りのお面をつけていても全く問題なく視界を確保できていた。しかし鬼島姫百合はそうではないといい、驚いていた。

 となるともしかすると錬太郎がおかしいのかもしれない。そうなって不安になった錬太郎は、隣に座っている池淵頼子に試してみてもらおうと考えたのだった。鬼島姫百合と錬太郎で状況が違っているのなら、もう一人に試してもらえれば、どちらが正しいのかがわかるかもしれないのだから。

 錬太郎に木彫りの鳥のお面を差し出されると、特に迷いもなく池淵頼子はお面をかぶって見せた。木彫りのお面を池淵頼子が被るときれいに彼女の顔は隠れてしまっていた。また、お面をかぶる時の池淵頼子に迷いというのは少しもなかった。

 特に鬼島姫百合にお面を渡されて気恥ずかしい気持ちを感じていたような錬太郎のようなためらいというのは一切なかった。池淵頼子にとってみれば、お面をかぶるくらいのことは何の問題もなく、錬太郎が被った後のお面だからといって特に問題があるように思わなかったのだった。

 池淵頼子がお面をかぶって五秒ほどしてから、池淵頼子がこう言った。

「姫ちゃん。普通に見えるよこれ」

 お面をかぶったままで鬼島姫百合に話しかける池淵頼子はすぐそばに座っている錬太郎の腕をつついていた。まったくお面をかぶっていないときの動きと同じである。視界が制限されている恐ろしさはない。またぎこちなさもまったくない。どこからどう見ても物が見えている動きであった。

 それもそのはずで、池淵頼子の目にはしっかりと美術室の様子というのが見えていた。隣に座っている錬太郎の姿も見えているし、驚いている鬼島姫百合の面白い顔も見えていた。隣に座っている錬太郎の腕を触ったのはただのデモンストレーションである。物が見えているという証明のために腕を触っただけで、太ももでも肩でも背中でも構わなかった。今は腕の気分だっただけである。

 そして、驚いている鬼島姫百合をほっておいて、池淵頼子は立ち上がって、部室の中を普通に歩き回って見せた。驚いている鬼島姫百合がいまいち反応を返してこないからである。鬼島姫百合は驚いて、なんとか冷静を装ったところまではいいのだが、そこからの動きが非常に遅かったのだ。

 何か考えているらしく瞬きが多くなって、黙ってしまった。そしてそうしている間にやることがない池淵頼子と錬太郎であるから、池淵頼子がしっかりと見えていますよということを示すように、部室の中を歩いて回ったのだった。

 そして最後に座っている錬太郎の背後に回り、抱きついて見せた。少しだけ間を開けての行動であったため錬太郎は少し驚いていた。錬太郎に抱きつくときに、池淵頼子は少しだけためらっていたが、覚悟を決めて抱き着いていた。

 今まで錬太郎に触ってみたりちょっかいをかけてみてもいまいち錬太郎が驚いたり反応を返してくれなかったので、思い切って抱き着いてみたのだ。特にこれといった理由はなく、ちょっとしたいたずら心からの行動だった。この時すでに、お面をかぶっていると視界が制限されてしまうという話はさっぱり池淵頼子の頭から抜けていた。

 池淵頼子が自在に歩き回る様子を見た鬼島姫百合がつぶやいた。

「うそでしょ。二人とも同じなの?」

 小さなつぶやきを吐いた鬼島姫百合の顔色は悪い。目も泳いでいるし声に力がない。鬼島姫百合の頭の中には、自分の祖母の顔が浮かんでいたのである。自分の祖母の顔を思い浮かべて、気分を悪くしているというのはおかしなことではある。

 祖母に対して悪い感情があるということではないのだ。鬼島姫百合は自分の祖母と目の前の二人が同じ存在ではないのかという疑いを持ったのである。そして、仮に二人が鬼島姫百合の祖母と同じような存在であるというのならばとした時に彼女の頭の中には様々な感情と問題が湧きあがり、冷静沈着な自分を演出する余力を完全に失ったのである。

 ひどい顔で独り言を言う鬼島姫百合が落ち着くのを待つ間、池淵頼子から木彫りの鳥の仮面を受け取って軽く顔に当ててから普通に部室の中を錬太郎は歩き回って見せた。そして、池淵頼子に近づいて捕まえて見せた。

 鬼島姫百合の心の整理ができるまでの間、池淵頼子も錬太郎もさっぱりやることがなかったのである。声をかけても大丈夫だからといって取りつく暇もないのだから、これはしょうがない。

 そのやることがない状況であったから池淵頼子にお願いして、お面を再びかぶり、部室の中を歩き回って見せるという暇つぶしをやったのだ。特に理由らしい理由はないのだ。暇だったからというくらいのもので、池淵頼子の行動のまねをして遊んでみたというくらいのものである。

 そして椅子に座っている池淵頼子の背後から軽く捕まえるように肩に手を置いたのも、池淵頼子のまねであった。さすがに抱き着くのは恥ずかしくて無理だったのだ。

 そうして、暇をつぶしていると、困り果てている鬼島姫百合に池淵頼子がこう言った。

「もしかして、姫ちゃん視力落ちてる?」

 鬼島姫百合に話しかける池淵頼子は少し笑っていた。声も明るかった。鬼島姫百合を責めるのが楽しいわけではないのだ。お面を受け取った錬太郎が思いのほか面白いことをしてくれたので、上機嫌になっているのである。

 鬼島姫百合の視力が落ちているのではないかという指摘は、受験勉強で頑張って鬼島姫百合の話をよく聞いていたために出てきた発想だった。しかし真剣な指摘ではないのだ。お面をかぶっても視界が確保できているかいないかというのは池淵頼子にとってはどうでもいいことで、錬太郎との遊びのほうが大事になっていた。

 池淵頼子に視力が単純に落ちただけではないかと指摘された鬼島姫百合は首をかしげながら、木彫りの鳥のお面を受け取ってつけてみた。お面をかぶる時の鬼島姫百合に冷静な様子というのはまったく残っていなかった。

 さっぱりわからないと首をひねりながら、ぶつぶつ言いながら動いていた。鬼島姫百合の感覚からすると、おかしいのは自分ではなく池淵頼子と錬太郎なのだ。なぜならば、この木彫りの鳥のお面をかぶりまともに動き回れるほどの視界を確保できた人間というのは、ほとんど彼女の知り合いにはいない。

 彼女の父親も母親も全くといっていいほど視界を確保できなかった。鬼島姫百合の姉の笹百合も同じだ。また、海波根島で暮らしている親戚たちもほとんどが、視界を確保できなかった。

 鬼島姫百合が知っている限りでお面をかぶったままの状態で視界を確保できる人間は、鬼島姫百合の祖父と祖母だけである。そして、海波根島の一握りの島民たちだけだった。

 だからこそ、池淵頼子と錬太郎のように当たり前のように動けるというのは納得がいかなかった。再びお面をかぶってみようとしているのは、もしかすると何か変化しているのではないかという気がしたからと、確認のためである。

 そして木彫りの鳥のお面をかぶった鬼島姫百合は立ち上がって、歩きまわろうとしたができなかった。まったく何も見えなかったからだ。思い切って動こうとしていたのだけれども視界が制限されているために、荷物にぶつかりそうになっていた。しかし荷物に足を取られて転ぶようなことはなかったし、机やいすにぶつかるようなこともなかった。池淵頼子と錬太郎がすぐにサポートに入ったからである。

 木彫りのお面をかぶって歩き回ろうとして失敗した鬼島姫百合はさっぱり納得できていないようだったが、とりあえず祭りの説明が終わった。

 そして、鬼島姫百合は最後にこう言った。

「錬太郎君、うまく言いたいことが伝わったかわからないけどそういうことだから察してほしいわ。  

 きっと海波根島についたら何となく私の言いたいことがわかるはずだから、姉さんに誘惑されても負けないように頑張って」

 錬太郎にがんばれという鬼島姫百合であるが、やはりまだ納得いっていないようだった。木彫りの鳥のお面をじろじろと見つめて、何か二人と違ったところがあるのではないかと考え始めていた。しかしそれでもしっかりとくぎを刺すのを忘れていなかった。

 くぎを刺すというのは鬼島姫百合の姉、鬼島笹百合に錬太郎が手を出さないように注意することである。錬太郎が島に行く気力を完全に折れればそれが最善だったのだが、それができない以上はくぎを刺しておかなくてはならないだろう。そうしなければ、鬼島笹百合の友達池淵頼子が非常に悲しむことになるのだから。

 そして、くぎを刺した後、鬼島姫百合は非常に小さな声でつぶやいたのだった。

「肝っ玉が小さいのよね、一部分は大きいのに」

 鬼島姫百合のつぶやく先にいるのは錬太郎の隣に座っている池淵頼子である。錬太郎に聞こえないようにつぶやいたたった一言に、鬼島姫百合のすべての感情が乗っていた。なぜ自分がこんな面倒くさい真似をしなければならないのかという気持ち。

 そして、自分の友人の恋を成就させてあげたいという気持ち。そして、若しも自分の姉が万が一目の前の花飾錬太郎と恋人にでもなった時の池淵頼子の怒りがいったい誰に向かうのかという恐れ。

 それらが小さなつぶやきすべてに乗っていた。そもそもこのような回りくどい方法を取らずとも、さっさと動いて自分のものにしてしまえばいいではないかというのが、鬼島姫百合の思うところである。池淵頼子の器量ならばできるに違いないと信じている。そのあたりのことを考えてみると、面倒くさいことこの上なかった。

 鬼島姫百合のつぶやきから、一秒もたたないうちに池淵頼子の人差し指が、鬼島姫百合の脇腹に突き刺さった。錬太郎の隣の椅子に座っていたはずの池淵頼子であるが、つぶやきを聞き洩らさなかったのである。

 そして、鬼島姫百合のつぶやきが何を思って発せられたものであるかをすぐに察して、池淵頼子は行動に移ったのだった。この人差し指での一刺しはもしも錬太郎にばれたとしたら、困ったことになるではないかという一念から出たものであった。

 鬼島姫百合と池淵頼子がじゃれ始めると、錬太郎は

「頑張ります」

といって部室から逃げ出した。

 池淵頼子に文句を言う鬼島姫百合と鬼島姫百合以上に冷静な顔で鬼島姫百合の腹をつつく池淵頼子の間に割って入る勇気がなかったのである。

 しかし正解であろう。二人とも上級生で、しかも女子生徒。口論になったとして、頭を冷やさせるだけの技量は錬太郎にない。

 そもそも二人ともじゃれあっているだけに見えるものだから、抑えさせるというのも難しいだろう。それに、逃げ出したというのも聞こえが悪い。

 説明自体はしっかり受けたのだから、用事は済ませている。美術室から出て行ったのは、用事を済ませたからであって面倒事にかかわりたくないという逃げの気持ちからではないのだ。すべては部外者は出て行ったほうがいいという配慮の気持ちからなのである。

 美術室から出て、少し歩いた廊下で万年院静とすれ違った。その時このような会話をした。

「ちょっと旅行に行ってくるわ。お土産買ってくるから楽しみにしてろよ」

と錬太郎が言うと、万年院静がこう答えた。

「おぉ!いいね! 楽しみにしとく!」

 万年院静が元気に答えると、錬太郎はこういった。

「後、先輩たちが部室で遊んでるから頑張って」

 万年院静は露骨に嫌な顔をした。そしてこういった。

「止めるの手伝ってよ。先輩たち騒ぎ出すとうるさいんだから」

 錬太郎はしぶしぶうなずいた。そして、万年院静とともに美術室に入ってじゃれている池淵頼子と鬼島姫百合を止めるのだった。






 夏休みが始まってすぐのことである。錬太郎は旅行の準備をしていた。しかし大した用意はしていなかった。三日分の着替えを用意して、大きめのリュックサックに詰めるだけである。

 錬太郎は結局、鬼島笹百合のお願いを断らなかった。海波根島の島祭りが思いのほか面倒くさいこと。そして、思いのほか苦しいものになるということはわかっている。

 しかし、一応は約束したことであるからと納得していた。そして夏休みにこれといった予定もない錬太郎であるから、気分転換のためと思いやる気を出していた。そしてこんなことも思うのだった。

「今の自分には大学に行こうという気持ちしかない。細かい道を見つけるだけの何かがない。もしかするとこの旅行で、何かが見つかるかもしれない。少なくとも自分の部屋でダラダラ過ごしているよりはましだろう」

そういう淡い希望も持って、錬太郎は旅行の準備を進めていた。

 そうして旅行の準備を進めていると、錬太郎の部屋に姉 晶子が入ってきてこう言った。

「そろそろ、鬼島がくるよ。準備できたの?」

 錬太郎に準備ができたかと聞く姉の晶子は、非常にだるそうにしていた。また、目の下にクマができていた。というのも昨日の夜遅くからずっと電話で話をしていたのである。

 姉の晶子はさっさと話を切り上げて眠りたかったのだけれども、話をしている相手がなかなか話を切り上げさせてくれなかったのだ。かなり強引に会話を終了させて眠りについたのだけれども、普段よりもはるかに遅い時間に眠ることになったので、寝不足であった。

 錬太郎と同じく目覚ましを必要としないタイプなのだけれども、さすがにいつものペースを崩されると調子が悪くなる。

 だるそうにしている姉の晶子に促されると、錬太郎はすぐに返事をした。

「もうとっくにできているよ」

 返事をする錬太郎は少し焦っていた。旅行に行くことが何となく錬太郎の心を不安にさせたのである。旅行といっても海外に行くわけでもなければ、長い旅行に旅立つわけでもないのだから、不安に思うことなどないだろう。今回の旅行というのも電車に揺られて移動して船に乗って島に向かうだけである。

 しかも海波根島というのも未開の無人島というわけではなく、謎の文化に支配されている閉鎖的な島というわけでもないのだ。

 どこにでもあるような日本の島。それも日本の文化文明のもとにある島である。携帯電話の電波も届くし、通信販売も利用できる場所である。恐れることなど何もない。インターネットで軽く調べてみると、事故で死亡する人が限りなくゼロで、怪我をしてもすぐに治るパワースポットがあるなどという。さらに奉っている神様が海と空を支配しているらしく、近場の漁師たちはみんな海波根島の神様のお守りを持っているという。しかも結構暮らしやすいところらしく旅行に行ってそのまま住みつく人もいるというのでなかなか評判はいい。

 ただ、親しい友人もなく、あまり関係性のない鬼島笹百合とともに知らない場所へ行くというのが、ほんの少し不安にさせたのだった。

 錬太郎が焦っているのを見て、姉の晶子がからかい、弟の錬太郎が恥ずかしそうに言い返していると、旅行の準備を整えた鬼島笹百合が錬太郎の部屋に現れた。

 錬太郎の部屋に現れた鬼島笹百合は、ワンピースの下にジーパンをはいていた。ばっちり日焼け止めも塗っている。鬼島笹百合が錬太郎の部屋に現れたのには理由があるのだ。鬼島笹百合が錬太郎を迎えに花飾の家に来た時のことである。

 チャイムを鳴らして、呼び出そうとしたのだけれどもその時に錬太郎と晶子の母親が玄関から出てきたのだ。そうして錬太郎と晶子の母親が、鬼島笹百合を家の中に招き入れたのだった。錬太郎と晶子の母親はこういったのだ。

「暑いでしょう? 中に入って。

 あと、もう準備はできているから、部屋に行ってみたらいいわ」

 そうして、鬼島笹百合は花飾りの家の中に招かれて、錬太郎の部屋まで足を運んだ。

 鬼島笹百合が現れたのを見て、あわてて錬太郎は荷物の再確認した。そうしていると鬼島笹百合はこういった。

「準備万態みたいね。それじゃあ行きましょうか」

 錬太郎がしっかりと準備をしていたことを確認した鬼島笹百合はほほ笑んでいた。もしかすると錬太郎がさっぱり準備をしていないかもしれないと思っていたからである。

 鬼島笹百合は自分の妹が錬太郎にいろいろと話していたのを知っていた。妹である鬼島姫百合が自分から、錬太郎にいろいろと説明をしておいたと教えてくれたのだ。

 だから、もしかすると錬太郎は嫌がって土壇場で旅行に行かないと言い出すかもしれないと考えていた。しかし、錬太郎はしっかりと準備をしていた。それがわかり、彼女はほっとしたのだった。

 鬼島笹百合が錬太郎の部屋から出て行った。それに合わせて錬太郎が動き出したのだが、その時に姉の晶子に封筒を渡された。晶子はこういうのだった。

「旅費とお小遣いよ。お土産もついでにお願いね」

 封筒を受け取った錬太郎はうなずいた。錬太郎がうなずくのを見てから、姉の晶子は錬太郎の部屋から出て行った。自分の部屋に戻ってもう一度寝るためだ。錬太郎に封筒を渡すために何とか起きてきたけれどもやはり眠たくてしょうがなかったのだった。



 花飾の家を出発して二時間ほど電車に揺られて、鬼島笹百合と錬太郎の二人は港に到着した。海波根島駅という駅で降りて、五分ほど歩いたところに港があるのだ。

 この港には海波根島に向かうための定期便がある。二人はこの定期便に乗るつもりなのだ。定期便は型落ちのフェリーである。錆が浮いているけれども、人とモノを運ぶのには十分な代物であった。メイドインジャパンである。

 しかし、気を付けなければならないことがある。フェリーの耐久性についてではない。この定期便というのが一日に二本しか出ていないのだ。そのため出発の時間を間違えていると、悲惨なことになる。鬼島笹百合はよく定期便について心得ていたので、しっかりと出発時刻のに十分前に到着することができていた。

 ここで定期便に乗り遅れてしまうと、完全に祭りに遅れてしまうことになるのだ。海波根島の島祭りは、今日から始まっている。

 そして今日、明日、明後日と三日間かけて祭りを行うのだ。三日間の祭りというのでそれなりに派手な祭りになるのかというとそうでもなく、非常に地味である。日程は今日から祭りが始まっているということになっているが、ほとんどの参加者たちは最終日のことを指して海波根島の島祭りという。

 というのが、一日目、二日目というのはほとんど面白い行事がない。いわゆる騒ぐ祭りではなく、文化としての祭りと、三日目に向かっての準備に費やされるのだ。そのため本格的に楽しいのは、最終日の三日目だけである。そして楽しいといっても出店が出て、島の人間が集まって少し不思議な格好をして神輿を担ぐくらいのものである。

 何にしても、鬼島笹百合と錬太郎はしっかりと始めの一歩を踏み出せていた。

 港に到着すると鬼島笹百合はこういうのだった。

「ここからは船で移動するわ。さぁ、こっちよ。定期便が出ているからそれに乗ればいいわ」

 錬太郎に指図をする鬼島笹百合は目を細めていた。口調は暗い。しかしすこしだけ楽しそうにも見えた。

 鬼島笹百合は実にくだらない問題を抱えていた。自分のおばあさんに彼氏がいるなどという見栄を張り、その見栄を張りとおすために錬太郎を引っ張ってきた。

 当然だけれども錬太郎は彼氏ではないので、嘘である。だから、若しも錬太郎に鬼島笹百合のおばあさんが確信をつくような質問をすれば、あっという間にウソがばれてしまうだろう。

 そしてウソがばれてしまったらどうなるかというと、おばあさんにからかわれるのは間違いないだろうし、彼氏のふりをさせるために連れてきた錬太郎にも嫌な顔をされるに違いない。

 それを思うと、海波根島へ向かう定期便に乗り込むのは気が重たいものになる。しかし、気が重たくなる問題はあるけれども、懐かしい海の匂いに包まれるとうれしくなってしまう。

 小さなころの楽しい記憶が、海の匂いとともに思い出されていたのだ。それが彼女の少し楽しそうな雰囲気として現れていた。

 いいのか悪いのかわからない顔をしながら鬼島笹百合が錬太郎の先を歩き始めた。そのあとを錬太郎はついて行った。鬼島笹百合が重たそうなキャリーケースを引っ張っているのを錬太郎は見ているだけだった。海波根島の島祭りの手伝いと荷物持ちを頼まれたのだから、鬼島笹百合の荷物を持つくらいのことはしてもいいはずである。

 しかしできなかったのだ。重そうだからできないのではない。鬼島笹百合が持ってほしくなさそうにしていたので、手伝わなかったのだ。もちろん、荷物を持ってほしいと頼まれれば持つつもりではあった。

 そうして、鬼島笹百合が荷物を引きずりながら、錬太郎がそのあとをついて歩いて、定期便の発着場を見つけた。すでに定期便は到着していて、続々と荷物が運び込まれている。

 荷物と同時に海波根島に向かう人たちも乗り込んでいた。目を引いたのはスーツを着た男女と、少しくたびれた三十歳くらいの男性と小学校低学年くらいの少女である。この二組が目を引いたのには理由があるのだ。

 この二組だけが随分となじんでいなかった。雰囲気が全くなじんでいないのだ。雰囲気というとあいまいなもののように思える。ただ、この雰囲気というのは一見するだけで誰でもわかるものである。なぜなら、周りにいる人たちはなれているからだ。

 慣れているというのは定期便に乗り、海波根島に向かうのに慣れているということである。これは体の動かし方と表情で一発でわかる。船といわず、始めてくる場所で戸惑っている人たちと、通いなれた道をゆく人たちの雰囲気の違いであった。

 定期便の発着場にたどり着いたところで、錬太郎はじっと定期便を見つめていた。非常に真剣な表情で、じっと錆の浮いた定期便を見つめるのだった。錬太郎は船に乗るのが初めてだったのだ。家族で旅行に行ったことも、修学旅行に行ったこともあるけれど、船に乗ることはなかったのだ。

 移動は大体電車から車で、たまに飛行機に乗るくらいのものだった。そのため船という言葉は知っていても、実際に見て乗ってみるというのは初めてで、実際に見てみると思いのほかドキドキわくわくするものであった。

 船をみてドキドキわくわくするなんて小さな子供のようではないかと思うところではある。しかし、実際にモノを見るのと知識として頭の中に放り込むのとでは、感じるものは変わってくる。それこそ料理を楽しむためには知識だけでは足らないように、錬太郎もそうだった。

 わくわくしながら錬太郎が船を見つめていると、鬼島笹百合が聞いてきた。

「珍しい?」

 錬太郎に話しかける鬼島笹百合は笑っていた。夏の暑い日差しを受けてけだるげにしていたのが、さっぱりなくなっていた。鬼島笹百合は錬太郎が定期便を見てはしゃいでいるのが面白かったのだ。

 鬼島笹百合からしてみると錬太郎というのは花飾晶子の弟である。そして身長が高く、がっしりとした高校生だ。それだけなのだ。鬼島笹百合はそれだけの情報しか錬太郎について知らない。

 お互い歩み寄ろうとしている気配を感じているけれども、それでも錬太郎が錬太郎の本心を見せていないのには気が付いていた。年下の男子高校生で、しかも鬼島笹百合が姉の友人であるという関係性からだろうと彼女は推理していたのだが、何にしても錬太郎について知っていることは非常に少なかった。

 そんな鬼島笹百合が錬太郎を見て思うところは、もう少し社交的になれば女性にもてるのではないかという残念な評価だった。しかし、今の定期便を見てはしゃいでいる錬太郎を見ていると思うところは変わってくる。彼女は思うのだ。

「今まで口数が少なかったのは、緊張していたからね。

 まぁ、当然よね。だって、今まで晶子を抜きにして会話をすることもなかったのだから。

 それにしても、笑った顔が晶子によく似ているわ。晶子も錬太郎君も笑うとかわいいのに残念ね」

 このように考えると、楽しそうにしている錬太郎に引っ張られて、彼女も面白くなってしまうのだった。 

 鬼島笹百合に質問された錬太郎は答えた。

「はい。初めて船に乗ります。というか、船を実際に見るのは初めてです」

 鬼島笹百合に答える錬太郎は、定期便を見つめたままだった。鬼島笹百合が自分の隣まで来て笑っているのにも気が付いていなかった。

 船なんてテレビだとかインターネットを使えば簡単に見ることができるのだけれども、やはり実物を見るのは違った感動がある。そして、大きな船が海の上で揺れているのを見ていると、これもまた何とも言えない感動があった。さらにそれにたくさんのものと人が乗り込んでいるのだから、これまた何とも言えなかった。現金なものだけれども、この時の錬太郎には海波根島の島祭りが面倒くさいと思うような気持ちはなかった。

 定期便を見ながら錬太郎が答えると、鬼島笹百合が笑ってこう言った。

「そうなんだ。それじゃあ、船酔いの薬を飲んでおいたほうがいいかもしれないわね。持ってきておいてよかったわ」

 鬼島笹百合が船酔いの薬を差し出してくれたので錬太郎はお礼を言って受け取り、さっさと飲みこんだ。



 定期便が出るまでまだ時間があった。暇をつぶすために鬼島笹百合と錬太郎が話をしていると、不思議な格好をした人物が話しかけてきた。不思議な格好をした人は随分背が低いように見えた。大体百四十センチほどだろう。

 背の低さはいいとして、話しかけてきた人の格好というのはおかしかった。夏の暑い日なのにもかかわらず、燕尾服のような法被はっぴを着ていた。また、銀色の飾りがついた木彫りのお面をかぶっているのだった。

 どこからどう見ても、暑苦しい格好で見ているだけで汗が出てきそうだった。この暑苦しい格好の人は、鬼島笹百合と錬太郎にこのように話しかけたのだった。

「おやおや、笹百合ちゃんはこういう趣味だったかしら? なかなかいい面構えじゃないの。体格もいい」

 不思議な格好をした人物は、燕尾服のようなはっぴを鳥の羽のように広げて見せた。話しかけてきたときにお面のために表情は見えないけれども、声の調子からして笑っていることがわかった。

 実際この不思議な格好をした人物は鬼島笹百合が連れてきた錬太郎が面白く見えていたのだ。なぜなら、鬼島笹百合の男の趣味というのは、少なくとも鬼島笹百合が好むような男性像というのはいわゆる優男系である。イケメンが好きなのだ。

 そうなると錬太郎のような一昔前のそれこそ白黒映画の俳優のようなタイプはあまり好かないはずである。

 そのため、錬太郎を見た時にはすっかり何もかも見抜いてしまったのだった。そして、笑ってしまったのだ。やはり、あのセリフは見栄を張っただけだったなと。

 いきなり話しかけられた錬太郎は少し身を引いた。驚いたのだった。これは、いきなり話しかけられたということももちろんあるのだ。人見知りをするタイプではない錬太郎だけれども、さすがに不意打ち気味に話しかけられると驚いてしまう。

 そしてこれが一番大きな理由なのだけれども、やはり話しかけてきた人の服装というのがおかしかった。一目で見ておかしいのがわかる。何せ、恐ろしく暑い日に木彫りのお面を身に着けている。そして燕尾服のような裾の長い法被を着ているというのもおかしかった。これもまた見ているだけで暑くなりそうな格好であるから、よほどの物好きであろう。錬太郎がこの格好をして歩き回れば、あっという間に汗でびしょびしょになるだろう。

 錬太郎が驚いていると、鬼島笹百合がこう言った。

「おばあちゃん! どうしたのこんなところで、もしかして迎えに来てくれたの?」

 明らかに怪しい格好をしている人物に話しかける鬼島笹百合は非常に驚いていた。しかしこれは怪しい格好をしていることに驚いているわけではない。

 自分のおばあさんがなぜこんな場所にいるのかがわからなかったのだ。鬼島笹百合は自分おばあさんがこの時期になると祭りの準備で忙しく走り回るのを知っているのだ。

 祭りは今日から始まっていて、三日目が本番なのだけれども、こんなところで待ち伏せをしていられるような暇がないのは知っていた。だから、驚いていた。

 また、驚きの中には、わずかな焦りもある。彼氏がいるなどと見栄を張るきっかけになった人物が目の前にいるのだ。鬼島笹百合と、錬太郎の対応次第ではあっという間にばれる可能性がある。それを思うと、自分のおばあさんとの再会も微妙な気持ちになる。

 なんともいえない気持ちの鬼島笹百合が不思議な格好をしている人物に迎えに来てくれたのかと話しかけると、不思議な格好をしている人物は、こういった。

「そうよ。わかりやすい嘘をついて見栄を張った孫娘がどんな顔をしてくるのか見に来たの。

 でもどうやら私の読み間違いだったみたいね。まさか本当につれてくるなんて」

 木彫りの鳥のお面をかぶっているので、声のみで判断するしかないのだが、とても楽しそうだった。自分の孫娘のわかりやすい嘘を見破っているとはっきりと言い放った時には、燕尾服のような裾が付いたはっぴを鳥の羽のように動かして見せていた。

 夏の暑い日に暑苦しい格好をしているということは置いておいて、鬼島笹百合のおばあさんはやはり孫娘と話ができてうれしいのだ。もともと海波根島に暮らしているためにめったに孫と会うことはできない。

 声を聴くのも電話越しばかりで、実際に顔を合わせて話をするのは久しぶりだった。さみしいと思う気持ちはある。しかし海波根島が船に乗らなければならないような場所にあることを考えると、さみしさを抑えなければならないという気持ちもわいてくる。

 そういうわけであるから、たとえバレバレの見栄を張っておそらく嘘が見破られないように他人に協力を求めて海波根島に向かおうとしているのも、それはそれでうれしいものだった。巻き込まれた、名前も知らない少年にはかわいそうにとは思っているが、それを上回って孫に会えたのがうれしかった。

 鬼島笹百合のおばあさんが見破っていたとはっきり伝えると、鬼島笹百合は黙り込んだ。完全に目線が明後日のほうへ向いていた。

 目の前にいる鬼島笹百合のおばあさんに目線が向くことはなく、また錬太郎を見上げることもできなかった。特に錬太郎に目線を向けるのはどうしても無理らしく、体をひねって逃げの態勢に入っていた。鬼島笹百合はまさかこんなところでウソが見破られるとは思っていなかったのだ。

 そもそも鬼島笹百合は自分のウソ、彼氏ができたというウソを、自分のおばあさんに見破られていないと思っていた。

 しかし、現実は逆。完全にばれていた。ウソがばれてしまったということ自体が鬼島笹百合にとっては恥ずかしいことだ。もともと見栄を張るためについていたウソだったのだから、見破られたらたまらない。そして錬太郎を見れないのは、どんな目で自分を見ているのかを恐れたのだ。何せ錬太郎には彼氏のふりをしてくれと頼んでいない。

 もともと荷物持ちを頼み、祭りの手伝いをしてくれと頼んだのだ。錬太郎がどんな反応をするのかなど、鬼島笹百合にはさっぱりわからない。ただ、負の感情を錬太郎から向けられるかもしれないと思うと恐ろしく、錬太郎を見つめられなかった。

 鬼島笹百合が黙り込んだところで、錬太郎は鬼島笹百合のおばあさんに挨拶をした。

「あの、初めまして。花飾錬太郎です。祭りのお手伝いに来ました」

 鬼島笹百合のおばあさんに挨拶をする錬太郎はさわやかだった。まったく少しも暗いところがない。鬼島笹百合のおばあさんにした挨拶の礼の動きなどこのまま面接に出ても問題ない。

 錬太郎がきっちりと礼をして、さわやかであるのは特別な問題というのがなかったからだ。鬼島笹百合が何か企んでいるのはわかっていた。鬼島笹百合の妹である鬼島姫百合があれだけいろいろと忠告してきたのだ。何か狙いがあるのはわかる。

 鬼島笹百合のおばあさんと鬼島笹百合の間に何か見栄を張りたい問題があるというのもわかる。そしてその見栄を張るとか張らないというところに、自分が利用されたのもわかるのだ。

 しかしそれだけの話である。何の問題もない。錬太郎は祭りの手伝いをするために、荷物持ちをするために海波根島に向かうのだ。いろいろな問題があるというのは、鬼島姫百合から嫌というほど聞かされた。しかし自分でここに来た。

 本当に嫌ならば、断ることはできた。錬太郎の姉である晶子も本気で断れば錬太郎の味方をしただろう。しかしそれでもここに来た。今の鬼島笹百合と鬼島笹百合のおばあさんとの間に何があるのかはどうでもいい。ただ、錬太郎はやることをやるだけ。そして、今の錬太郎がするべきは何かというとき思い浮かぶのは挨拶だったのだ。これはつまり、初対面の鬼島笹百合のおばあさんとまったく自己紹介をしていない状況を打破しようとしたのである。

 錬太郎が挨拶をすると、鬼島笹百合のおばあさんがこう言った。

「あらあら、あいさつがまだだったわねぇ、ごめんなさいね。鬼島山百合です。よろしくね。笹百合とはもう付き合いは長いの?」

 錬太郎とあいさつを川明日鬼島笹百合のおばあさん、鬼島山百合はカタカタと木彫りのお面を震わせていた。木彫りの鳥のお面の口の部分、くちばしの部分がカタカタと生きているように動いているのは不思議なものだった。

 また、あいさつをする鬼島山百合の声がとてもはずんでいた。錬太郎が実に鬼島山百合の趣味にあったのだ。

 鬼島山百合が質問を飛ばしてくると、わずかに鬼島笹百合の表情が曇った。錬太郎に対して、付き合いが長いのかという質問は鬼島笹百合のウソが確実にばれる質問だったからだ。

 鬼島笹百合は鬼島山百合がまだ嘘を完全に見破ったわけではないと思っていた。なぜなら、一応錬太郎を連れてきているのだから、嘘だとは言えない。

 しかし、鬼島山百合はほとんどウソだと思って動いている。そして今の質問、錬太郎と鬼島笹百合の付き合いが長いのかという質問は、完全に二人の関係が嘘だとばれる質問だった。なぜなら錬太郎と鬼島笹百合の付き合いは非常に長く薄い。

 錬太郎の姉の晶子の友達であったことで、小さいころから顔見知りではあった。しかしそれだけなのだ。錬太郎の趣味も知らなければ、錬太郎の靴のサイズも知らない。そして打ち合わせも足りていないので、当然だけれどもこの質問だけで恋人なのかどうかはすぐに理解できる。

 そもそも恋人なら、付き合ってからの期間をこたえるだろうから、錬太郎はきっと違うように答えるだろう。それを思うと、いやな顔になる。

 鬼島笹百合の顔色が非常に悪くなるのも知らず錬太郎は普通に答えた。

「そうですね。小学校くらいからの付き合いですからずいぶん長いですね。いつもお世話になっています」

 鬼島山百合の付き合いは長いのかという質問に答える錬太郎は少し考えていた。そしてはっきりと答えたのだった。

 錬太郎に嘘をつく理由はない。どのくらいの付き合いなのですかといって質問をされて、答えるだけだ。このような質問というのはそれほど珍しいことではない。

 それこそ会話の糸口としてはよくあるパターンだ。そのため、錬太郎ははっきりと自分と鬼島笹百合の出会いから今までを思い出して、答えたのだった。嘘はまったくなかった。

 小学生のころに姉の晶子が家に連れてきたのが初めての出会いで、それから遊びに来ているのをなんも見ている。そして今に至った。それだけの答えだった。

 錬太郎の「知り合い」としては大正解、「恋人」としては不正解を答えると、鬼島山百合は小さくうなずいた。そしてこういった。

「そうなの……それじゃあ、祭りの内容については聞いているかしら。

 地元の人間も不思議な祭りだと思うようなことをするのよ。大丈夫?」

 錬太郎の答えを聞いてそして海波根島の祭りを手伝うのはいいけれども構わないかといって確認を取る鬼島山百合は少し声のトーンを落としていた。また、燕尾服のような裾の長い法被を鳥の羽ばたきのように動かして見せていた。

 鬼島山百合は、錬太郎がさっぱり孫娘である鬼島山百合に説明を受けていないのではないかと心配したのだ。説明というのは恋人のふりをするというのももちろんだが、祭りの内容についても説明されていないのではないかと心配になった。

 恋人のふりをするかどうかというのはこの際どうでもいいとして、祭りの手伝いをするのに全く説明を受けていないのは非常にかわいそうなことになる。かわいそうなというのは、夏の暑い日に奇妙な木彫りのお面をかぶり暑苦しい奇妙な法被を着なくてはならないということである。慣れているなら問題はないだろうが、知らないでこんな格好をするのはつらいだろう。

 もしも知らないでここに来たというのなら、説明をして選ばせるのがいいだろうという配慮があった。

 二人の会話を聞いている鬼島笹百合の顔色が非常に悪くなっているが、全く気にせずに錬太郎は答えた。

「はい、姫百合先輩から説明を受けました。

 鳥の仮面と装束を身に着けてご神体を目指すそうですね。 でも、ダメそうなら途中で抜けてもいいと聞いています。

 自分としては荷物を運ぶくらいのお手伝いしかできないと思っているのですけが、いいですか?」

 鬼島山百合に説明は受けたと答える錬太郎は少し目が泳いでいた。というのも錬太郎はご神体めぐりにも一応は参加するつもりだった。

 祭りの手伝いにご神体めぐりまで含めているのかはわからないが、そういうつもりだった。しかしこの夏の暑い日に暑苦しい格好をして歩き回るというのはなかなかつらいものがある。そうなってくるともしもギブアップができないような行事であったとすると、それこそ、男と女とでは扱いが違うというのはよくある話なので、自分だけ思いのほかきつい条件を課されたりするかもしれない。

 それを思うと、少し恐れる気持ちが湧いてくるのだった。いくら肉体が屈強であったとしても暑いものは暑い。熱中症にもなる。さすがにそれは嫌だった。

 錬太郎が鬼島姫百合から説明を受けているときいて、鬼島笹百合の顔色が悪くなったけれど、気にせずに鬼島山百合がこう言った。

「一応の説明は受けているのね。よかったわ説明の手間が省けて。

 それで、参加するとなるとお面をつけることになるわけだけど、サイズを測らないといけないの。少し時間をくれるかしら? お面がずれたりするといやでしょ?」

 錬太郎の顔のサイズを測るという鬼島山百合は自分の木彫りのお面を指差していた。鬼島山百合は錬太郎を祭りに参加させるつもりなのだ。もともと不意打ち気味につれてこられたのだろうとあたりをつけてはいた。だまし討ちを受けてかわいそうだなとも思っている。

 しかし、人手が足りないのは本当なのだ。特に若い人間の力が少ない。そのため、錬太郎のように若い力を借りられるのならば、ぜひ借りたいところだった。少子高齢化の流れというのは海波根島にもあるのだ。

 鬼島山百合の提案に錬太郎はすぐにうなずいた。そして、お面のサイズを測るために動き出した。

鬼島姫百合に木彫りのお面を借りたことを思い出していたのだ。鬼島姫百合に木彫りのお面を借りた時には、全く顔のサイズと会っていなかった。鬼島姫百合が小顔であるとしても、全くサイズの合っていないお面をかぶり動き回るのは厳しいものがある。錬太郎は荷物運びのような動き回る仕事の手伝いをするつもりでいるので、サイズの合わないお面を持って動くのは避けたかった。



 錬太郎がうなずくと、鬼島山百合が動き出した。鬼島笹百合のおばあさんであるから、それなりの年齢であるはずである。

 しかし、その動きはキレがあり、実年齢以上に若いという言い方が不適切なほどでだった。つまりそこら辺の若者よりずっと足腰がしっかりしていて機敏だった。それこそ、孫娘である鬼島笹百合よりも動きにキレがあった。

 そのあとを錬太郎は後を追いかけていった。鬼島山百合がおばあさんであるから、歩くスピードはそれほど速くないと侮っていたため少し出遅れていた。そうして鬼島山百合と錬太郎が歩き出した時に鬼島笹百合が遅れた。随分顔色が悪かった。

 また、歩くスピードが遅い。鬼島笹百合はすっかり落ち込んでいたのである。見栄を張るために仕組んだ作戦もさっぱりダメになり、それどころか見栄を張ったのがバレバレだったというのも落ち込む原因である。

 鬼島笹百合の異変に気が付いた錬太郎はすぐに彼女に駆け寄った。そして、声をかけた。

「何やってんですか。行きますよ」

 鬼島笹百合に話しかける錬太郎は随分心配していた。鬼島笹百合が熱中症にかかったのではないかと心配しているのだ。錬太郎は特に問題ないけれども、夏の暑い日差しを受け続けていたら熱中症になるかもしれない。それこそ熱中症というのは自分では自覚できない症状が多いものである。

 特に錬太郎は姉の晶子から熱中症だとか、虫に刺されないようにという細かい注意を受けて家を出てきているので、余計に気になったのだった。

 鬼島山百合と一緒に先に進んでいた錬太郎が戻ってきて、声をかけたところでやっと鬼島笹百合ははっとした。

 そしてうつむいていた顔を上げて、錬太郎の顔を見つめた。鬼島笹百合は自分が随分考え込んでいたことに気が付いた。そして、先を進んでいた鬼島山百合と、錬太郎が自分を待っていることに気がついて、あわてていた。

 鬼島山百合において行かれないように、錬太郎を心配させないようにと歩きだそうとしたのだけれども、その時に鬼島笹百合は自分の荷物にぶつかったしまった。キャリーバックは大きな荷物であるから、視界に入らないということはないのだ。

 しかし、それは冷静な時の話である。鬼島笹百合は失敗を連続して重ねたことで焦っていたのだ。そして焦りが彼女の視界を狭めてしまった。そうして、自分の荷物であるキャリーバクにぶつかってしまったのだった。

 キャリーバックにぶつかった鬼島笹百合は転びそうになった。あわてていたのと、勢いをつけてぶつかったせいで体がふらついたのだった。普段ならこんなことはないのだ。しかしあわてて動き出したのがまずかった。そして夏の強すぎる日差しが体の調子を狂わせていた。合わさって、彼女は思い切り地面にこけそうになったのだ。

 しかし鬼島笹百合が転ぶことはなかった。すぐそばにいた錬太郎が彼女を支えたのだ。鬼島笹百合が転びそうになった瞬間には、錬太郎の右腕が動き鬼島笹百合の細い体を支えに動いていた。

 錬太郎にしてみると、鬼島笹百合は調子が悪い状況に見えている。そのため鬼島笹百合が転びそうになった時にも、すでに調子が悪いのだから何か起きるかもしれないという心構えを錬太郎はできていた。そのため、少しも間を開けることなく簡単に鬼島笹百合を助けられた。そして錬太郎はこういった。

「マジで、大丈夫ですか。さっさと行きますよ」

 鬼島笹百合を心配する錬太郎は鬼島笹百合を放さなかった。倒れそうになった鬼島笹百合を支えて、そのまますぐに肩に担いでしまった。

 というのも、錬太郎は鬼島笹百合の顔色が悪いのをいよいよはっきりと認めていた。そのため錬太郎は鬼島笹百合が熱中症にかかり、調子を崩しているのだと考えたのだった。そして、調子を崩している鬼島笹百合に無理をさせないように、自分が彼女を運ぶことに決めた。デリカシーゼロの行動である。

 そしてどうにも鬼島笹百合と同じような体型の万年院静を扱うときの癖が出てしまっている。早い話錬太郎にとってはデリカシーよりも、鬼島笹百合の体調が心配だったのだ。

 鬼島笹百合が文句を言うよりも早く、鬼島笹百合のキャリーバックを片手に軽々と持ち、彼女も肩に担いで鬼島山百合のところへと錬太郎は歩いて行った。

 鬼島笹百合を肩に担ぐのも、キャリーバックを普通のカバンを持ち上げるように持ち上げるのも、すさまじく素早い行動だった。鬼島笹百合も、キャリーバックもそれなりの重たさがあるはずだが、見た限り中身の入っていない荷物を扱うような勢いである。

 錬太郎は鬼島笹百合をどこか休める場所に、できるならクーラーでもかかっているような場所に連れて行きたいという気持ちになっていた。そのため、全くそのあたりの可笑しさに気が付かなかった。錬太郎にとっては実際の肉体以上の力が出ているおかしな状況は、どうでもよかったのだ。ただ、鬼島笹百合の調子の悪さが心配だった。

 そうして、錬太郎がいともたやすく鬼島笹百合を担いでいるのを見て、鬼島山百合がこう言うのだった。

「これはすごい力持ちだね。

 それにしてもうちの孫娘たとはそろいもそろってどうしてこうドジなのか。困ったものだわ」

 錬太郎が鬼島笹百合を肩に担ぐのを立ち止まって鬼島山百合が眺めていた。木彫りの鳥のお面が生きているかのように瞬きをしたのだけれども、錬太郎たちは気が付かなかった。



 定期便が海波根島に出発するまで一時間ほど時間が空いていた。この暇な時間の間、定期便を待つ人たちのために用意されている休憩所で鬼島山百合は錬太郎の体のサイズを測った。錬太郎の体のサイズを測る時に使っていたのは、長い紐のようなものだった。銀色の糸で編みこまれたロープのようだった。等間隔で目印になるようなガラス玉のようなものがついている。

 鬼島山百合はこのロープを器用に操って、錬太郎の身長、胴回り、足の長さを図ってしまった。あっという間の採寸であったために錬太郎は自分が何をされたのかさっぱりわからないでいた。銀色の長い紐が一瞬自分の体にまとわりついただけにしか思えなかったのだ。

 そして最後に、錬太郎に不思議なお面を手渡して鬼島山百合がこういうのだった。

「さぁ、最後にお面の大きさを見ないといけないね。かぶってみてもらえる?」

 鬼島山百合が手渡したのは鬼島山百合が被っているお面ではない。どこからか引っ張ってきた、予備の木彫りのお面だった。ただ、鬼島山百合が被っているお面とはデザインが違っている。鳥のお面なのはお面なのだけれども、鬼島山百合のお面よりもかわいらしい。印象はスズメである。

 木彫りの少しかわいらしい鳥の仮面を錬太郎は受け取り、顔に合わせてみた。少し小さいようだった。鬼島山百合も錬太郎も少しも変わった様子がない。錬太郎はすでに鬼島山百合の奇妙な格好を受け入れている。

 また、鬼島山百合も錬太郎の大体の性格を把握して、落ち着いていた。そのため、ただ平穏なお面のサイズを合わせているだけであった。

 しかし、錬太郎の肩に担がれて移動した鬼島笹百合だけが少し不満そうにしていた。錬太郎の肩から、ベンチに移動した鬼島笹百合は錬太郎をじっとりとした目で見つめていた。

 鬼島笹百合は錬太郎に担がれたのを根に持っているのだ。確かに荷物にぶつかって失敗したのも、ふらついたのも間違いではない。しかし肩に担がれなければ移動できないほどダメなわけでもないというのが彼女の思うところだった。しかし、納得はできていた。納得というのは、やはり花飾晶子の弟だなという納得である。

 錬太郎がお面をつけたのを確認して、鬼島山百合がつぶやいた。

「あれ、メジャーがないね。どこにやったかな?」

 鬼島山百合の手には銀色のひもが握られている。しかしきょろきょろとあたりを探していた。鬼島山百合が捜しているのは銀色のひもではないのだ。鬼島笹百合が捜しているのは、しっかりと目盛りが刻まれているメジャーである。持ってきていたはずなのだけれども、手元になかった。だから、鬼島山百合はどこだろうかなと、独り言を言ったのだった。

 鬼島山百合の呟きに錬太郎が答えた。

「メジャーならここにありますよ」

 錬太郎は答えながら、ベンチの上に置かれていたメジャーを指差した。鳥のお面をかぶった錬太郎が動くと、不思議な感覚が起きる。

 テーマパークで着ぐるみを見るような気持である。しかしそんな気持ちは、錬太郎にはなくただ自分のすぐそばにメジャーが転がっていると鬼島山百合に伝えていた。

 できるなら、さっさとお面を外したかったのだ。お面をかぶってみても、それほど暑苦しいことはないのだが、いつまでもお面をかぶっているのは恥ずかしい気がした。周りに港で働く人たちが見えているのだ。あまりいい格好ではないだろう。そして、錬太郎は自分のすぐそばに転がっていたメジャーを山百合に手渡した。

 錬太郎の行動から一秒ほど間を開けて、鬼島山百合がメジャーを受け取った。鬼島山百合はメジャーを受け取る時に何度か手を左右に振っていた。これは、錬太郎が鬼島山百合にメジャーを手渡そうとすると、急に手の位置を変えて遊び始めるのだ。何というか、小さな子供がするようないたずらのような動きだった。鬼島山百合は三回ほど繰り返して、やっと受け取った。

 メジャーを受け取った鬼島山百合は錬太郎にこういった。

「花飾くんは目がいいわね。うらやましいわ。私なんて老眼でね、よく見えないのよ」

 錬太郎の目をほめる鬼島山百合はとてもさみしそうに言った。

 鬼島山百合に目をほめられた錬太郎は答えた。

「全然ですよ。普通です。

 後、お面なんですけど、ちょっと小さいみたいです。もう少し大きめのやつがいいですね」

 鬼島山百合に褒められた錬太郎はすぐに別の話をし始めていた。さみしそうにしている鬼島山百合を見ていると、何とも言えないさみしい気持ちを錬太郎も感じてしまう。そのため、すぐに話を切り替えて、気持ちを切り替えようとしたのだった。

 錬太郎が話を切り替えると、鬼島山百合はこういった。

 「そうね、ちょっと大きめのお面で、いいお面を用意しなくちゃダメね。ちょっと動かないでね、すぐに採寸するから。

 後、装束のほうは問題ないわ。今あるもので十分足りる。今持ってきているのがあるから、着てみてもらえるかしら。たぶん大丈夫だと思うの」

 メジャーを受け取ったところからの鬼島山百合の動きは非常に素早かった。あっという間に錬太郎の頭のサイズをメジャーで測り、定期便の待合所のすぐそばにある事務所に走っていった。そして、五分もしない間に戻ってきた。

 戻ってきた鬼島山百合の手には暑苦しい燕尾服のような裾の長い法被があった。そして手には杖のようなものを持っている。

 この装束を見たとき錬太郎は非常に嫌な顔をした。ものすごく暑そうに見えたからである。それというのも、はっぴの色が真っ黒に近い紺色だったのだ。どこからどう見ても暑苦しい色だった。そして、鬼島山百合が来ているときにはいまいちわからないことだったが、燕尾服のような長い裾があるために恐ろしく通気性が悪いように見えた。これを着て、動き回るとなると非常に厚く、つらいものになるだろう。錬太郎は鬼島姫百合の忠告の意味が分かり始めていた。

 装束を手渡された錬太郎は非常にいやいやながら、身に着けていった。

 そして来てみた結果錬太郎はなぜか笑っていた。思ったよりも涼しかったからだ。むしろ今までよりもいい感じに風が体を冷やしてくれていた。

 錬太郎が軽く装束を身に着けたところで、山百合がうなずいた。そしてこういった。

「いい感じじゃないか。暑くないかい?」

 錬太郎は素直に答えた。

「大丈夫です。不思議ですね。なんだか涼しいです」

 錬太郎が答えるのを聞いて、二人に放っておかれていた鬼島笹百合が首をかしげた。まったく錬太郎が涼しいなどとありえないことを言ったからである。鬼島笹百合は鬼島姫百合と同じく、祭りに参加したことがある。

 その時に木彫りの鳥のお面をかぶり燕尾服のような長い裾を持つ法被を身に着けて、ご神体めぐりをした。その時の記憶というのは今もはっきりとしている。通気性の悪い法被を着て、視界が全くないお面をつけて森の中を歩くので、あっという間に精神的にも肉体的にも追いつめられて、リタイアした。

 ほとんどの島民も同じで、五分もしないうちにやめる者ばかりだった。そのため錬太郎が言うような、涼しいなどという単語自体が信じられない。お世辞にしてはいくらなんでもありえなさすぎて皮肉にきこえるほどである。ただ、錬太郎の声、体の動きから予想できる錬太郎の状態は、どう見ても良好だった。それが鬼島笹百合にはわからなかった。

 こうして、なんやかんやとやっている間に定期便が海波根島に向かう時間がやってきた。錬太郎の体のサイズを測っていた鬼島山百合のところへ係員がやってきて

「山百合様、そろそろお時間です」

といって教えてくれたのだった。そうすると鬼島山百合は錬太郎に

「それじゃあ、花飾くん。お面と法被をこの子に渡して、正式なお面と法被は島で渡すわね」

といって、係員にお面とはっぴを渡すように指示するのだった。錬太郎はその指示に従って少し小さめのお面と、やや小さめの法被を係員に渡すのだった。そうすると係員は鬼島山百合に深く一礼して事務所に消えていった。

 錬太郎は鬼島笹百合のキャリーバックを持ち、鬼島山百合を先頭にして定期船に乗り込んだ。定期船に乗り込むときに鬼島笹百合がバランスを崩してこけそうになったが、それ以外に問題はなかった。三人はこの船に乗って、海波根島へと向かうのだった。


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