17 海の悪魔
満面の笑みでシアーズが顔を上げた。
「逃げる!」
「うおおおおおおお!キャプテン!さすが海賊!やることがせこい!」
クルーは戦わなくていいことにほっとしたようだ。重々しい空気が充満していた船室が、一気に酒場のような雰囲気に変わった。
「あっ、でも、約束は?」
一人のクルーが思いだしたように言った。シアーズとクルーはたちまちしゅんとなった。約束とはつまり、『全て終わらせる』と言ったことだ。
「そうなんだよなー、あいつ約束破ったとなると、きっとすっげー怒るからなー。だから、いったん約束した場所へ行く。で、戦うと見せかけて逃げる!」
シアーズは仇を討たいとも思っていたが、クルーを無理に巻き込んではいけないと思っていた。こいつらには私情なんて関係ない。……でも、すっごく卑怯だ。卑怯すぎて笑える。これではもう戦法というより、言葉のあやだ。
「よし、ひとまず、スペインから足の速い船をかっぱらってきて、馴らしておくぞ」
「えっ、じゃあ、レディを捨てるのか?」
シアーズは笑った。レディを捨てるなど、シアーズが農夫になるというのと同じくらいありえない話だ。
「いや、レディはどこか島にでも隠しておく。俺の大切なお姫様に傷なんかつけられたら困る、戦いに行くわけでもないのに。万が一、戦うようなことがあっても、エンプレス号より足が速ければ逃げられるからな」
なぜスペインの船を選んだかというと、単なるローランド卿への嫌がらせだ。
イギリスに帰ってから、士官は報告書をまとめて、ローランド卿の司令官室へ行った。先日、搭載する艦砲はカルバリン砲よりカノン砲が良いと言われ、流行のものを外し、数をやっと揃えることが出来た。本当にローランド卿は用心深い。確実に狙うつもりだ。ついでに『詳しいこと』の概要だけでも聞いておこうと思った。
ノックをしたが、いつものような返事が無かった。いないのなら報告書だけを置いて行こうと思って、扉を開けた。だがローランド卿はいた。椅子に深く腰掛け、左腕を肘掛の向こうへすっかり投げ出している。そして、その手に体重をかけるようにして、肩が凝りそうな体勢で眠っている。
まだ昼過ぎだ。午後の柔らかな日差しが部屋に差し込んでいる。士官は机へ静かに歩み寄った。右手には、昨日渡した報告書が握られていた。ローランド卿は士官のいるのに気付く様子もない。この方は、一体どんな夢を見ておられるのか。夢の中ですら安らげないのか、安らげるような夢を見ているからこそなのか。頬に涙の痕がある。長く、綺麗なまつ毛が濡れている。これで髪をほどいていたら、十人中十人が、彼のことを女性だと思うだろう。
「ローランド卿……?」
呼びかけてみたが、全く反応が無い。士官は報告書を机の上に置いた。上官はそれでも微動だにしない。まるで人形のようだ。
士官はそれきり何も言わず、黙って一礼すると部屋を出ていった。その時も細心の注意を払って、音を立てないようにした。扉を閉めた時、カチャリと音がして、士官はガラスの向こうから室内を確認した。何も変わっていない。
上官は、よく泣く。声を立てずに、涙だけ静かに流す。だから、顔を見ないと泣いていることは分からない。泣くと言っても、決して自分のためには泣かない。たいてい、戦いで部下が死んだとかだ。他の将校ではしないことだろう。弱いからではない。強いからこそ、泣くのだ。だがせめて、夢の中では自分のために泣いてほしいと願った。
海軍司令部本塔の庭先には、ローランド卿が自分の邸宅から分けて植えた薔薇が、血のような斑を持った花を咲かせていた。




