闇とクリームパン
「……今日こそ、平和な一日になりますように」
朝日が差し込む小さな家の中で、レインは真剣な顔で祈っていた。
別に大層な願いじゃない。魔物に襲われないとか、金持ちになりたいとか、そんなことではない。
ただ普通にパンを買って、普通に帰って、普通に昼寝したい。それだけだ。
レイン・クロード、十八歳。職業は雑貨屋の手伝い。
そして、生まれつき少し珍しい影魔法の使い手だった。
「よし」
レインが床に伸びる自分の影へ手をかざすと、影がゆらりと揺れ、黒い手が現れた。
その手は器用に棚の上に置いてあった財布を取り、レインの手元へ運ぶ。
「便利だなぁ……」
火魔法や剣術みたいな派手さはないが、日常生活ではかなり役立つ。レインは満足げに頷き、町へ向かった。
王都から離れた小さな町・アルネス。朝の市場は活気に溢れていた。
「焼きたてパンだよー!」
「新鮮な果物はいかが!」
レインは目当てのパン屋へ向かう。今日は新作のクリームパン発売日だった。
絶対に買う。その決意だけは誰にも負けない。
だが――
「……ん?」
路地裏から、物音が聞こえた。
ガシャンッ!!
誰かが倒れる音だった。レインが恐る恐る覗くと、そこには血を流して倒れる銀髪の少女がいた。
黒い服、鋭い目つき、そして大量の血。
「えっ!?」
さらに少女の背後では、武装した男たちが迫っていた。
「いたぞ!」
「裏切り者を逃がすな!」
レインは固まった。
関わりたくない。非常に関わりたくない。今日はパンの日だ。
だが、少女がかすかに目を開けた。
「……たす、け……」
「……ですよねぇ!!」
レインは頭を抱えた後、覚悟を決めた。
「来い!」
影が地面を這い、男たちの足元へ伸びる。
次の瞬間、無数の黒い手が地面から飛び出した。
「なっ……!?」
「化け――」
男たちは一瞬で拘束され、そのまま地面へ叩き伏せられる。
レイン自身も驚いていた。
「ちょっと強すぎない?」
とりあえず気絶した男たちは放置し、少女へ駆け寄る。
「しっかりして!」
傷は深い。普通なら助からない。
レインは迷った末、影を少女の傷口へ伸ばした。
黒い影が傷を覆い、ゆっくりと血を止めていく。
少女の身体が震えた。
「……禁忌の……黒魔術……?」
「いや応急処置だけど!?」
やがて少女の呼吸が安定し、レインは安堵した。
「よかった……」
少女――ルナリアは震える瞳でレインを見上げる。
圧倒的な闇の力。追手を瞬殺する実力。死の淵から自分を救う禁忌の術。
彼女の中で答えは一つだった。
「ついに……見つけました」
「え?」
ルナリアはその場で跪いた。
「我が主よ」
「……はい?」
「世界を闇で統べる、真の魔王様」
「いやパン買いに来ただけなんだけど!?」
その瞬間、遠くから声が響いた。
「あー!クリームパン完売したよー!」
レインは静かに空を見上げた。
「……俺、何したんだろ」
こうして平穏を愛する青年は、自覚なきまま魔王としての第一歩を踏み出した。




