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庶務令嬢がゴミ箱を漁ると、戦地にいる夫からの恋文が出てきた

作者: 夜明け前
掲載日:2026/03/05


「明日、出征する」

「ええ、わかりましたわ」


私がそう言うと、彼は両手のフォークで弄くり回していた魚の味噌煮を、おもむろに見つめ始めた。何食わぬ顔で食卓を囲む私たちの間に、重い沈黙が流れる。


「宰相補佐が執務室まで来てな」

「執務室……使わないのなら、私の昼寝場所にしてもよろしいでしょうか?」


沈黙、再び襲来。

傍に控えていた古参の侍女ハンナが、必死そうに首を振っている。


窓の外からは、衛兵や近衛騎士団訓練兵の「エッサホッサ」という掛け声が響いていた。夫の声はもともと小さく、朝方はなおさら聞き取りにくい。少佐として、もう少ししっかりしてもらわないと困る。



「夜、一人で寝れるか?」

「私は子供ではありません。第一、元々一緒に寝ていないじゃないですか」




夫は私の返事を聞くと、覚束ない足取りで部屋を去っていった。

物静かな人だが、たまに自室に籠って手紙を認めていることがある。――社交界ではよくある、妻以外へ綴る恋文というやつだろう。どこか遠慮がちに見えるのも、不倫がばれないようにしているためだろうか。




私――アリナ・ビリアスが夫のギアンに出会ったのは、お見合いの席……ではなく、旧態依然とした騎士訓練兵のための寮だった。男所帯の薄汚く埃をかぶった、南校舎。聖騎士のような二枚目を期待していた私は、一言で言えば、わかりやすく項垂れた。男なら背中で語れ、というような、不器用な奴だ。


それでも、軍人にしては筆まめで、執務室で一日中筆を走らせていても退屈そうではなかった。署名も綺麗。そんな横顔を、隣で眺めているのが、私は少し好きだった気がする。


積み上がった上質紙が半日で片付いていくのは、見ていて気持ちのいいものだった。



今思えば、彼の自室も執務室も、余分なほど整っていた。蝶だの花だのと大切に育てられてきた私には家事などまるで縁がなく、片付けとなると「大掃除よ」と継母が張り切ってモップを持ち出す前に、中庭へ逃げ出すほどだった。


もう少し、夫に優しくしてもよかったかも知れない。片付けの仕方も、聞いておけばよかった。









出征の当日。


「いってくる」

「ええ、頑張ってきてね」


今思えば、もっと掛ける言葉があったかも知れない。


ギアンを庶民たちは、英雄を見るような目で眺めていた。彼の功績を称える新聞を手にする者、手を振り始める子供。黄ばんだ綿の連なる風景の中に、近衛騎士や夫の磨かれた鎧が浮いている。



武将として名を上げた彼が最前線に立たされるのは当然かも知れないが、この光景には無性に腹が立った。




あれから、一週間が経った。

私は夫の執務室で、資料の山に頭を突っ込んでいた。


ほら言わんこっちゃない、と融通を利かせた継母がやってきたが、すぐに追い出した。


今度は侍女がやってきた。少佐夫人として教育を受けてきたはずですが、やはり身についていませんでしたか、と言う。余計なお世話なので、これまた追い出した。



いつものように雑務をこなすふりをしていると、使用人が執務室へ飛び込んできた。漂う異臭に一瞬よろけたが、体勢を整えると、ギアンからの手紙を差し出してきた。


「ありがとう」

「ぜひ、読んでください。あ、それと。お部屋も綺麗になさってください」


ふらふらと幽霊のように去っていく使用人。

屋敷にこんな令嬢がやってくるとは、とため息を吐いているようにも見えた。


「あ、そうだ」



その前にと、私は夫からの手紙を机の隅に置くと、応接室へ向かった。









そこらでも有名な資産家の嫡男――ジェット・リーヴァスイ。部屋着だった私が一分ほどでドレスに着替え、応接室へ駆け込んでくる姿がよっぽど面白かったのだろう、物凄く笑っていらっしゃる。


なお、私のアホ毛は今なお健在だ。継母、使用人、侍女揃って顔を顰める。軍事家の屋敷に来たからには、戦況についての小難しい話だとは思うが、当主が居ない今、何を話せば良いのだろう。



(アリナ嬢様はいつも、外面ばかり良いのですから…)

と、私が思っていたこととは裏腹に、侍女のハンナが思っていることなど知る由もない。




「兵糧の事なんですがね」


ジェット様が切り出す。すると、部屋の空気が一変した。使用人たちはかろうじてわかるだろうが、侍女や勝手に屋敷について来た継母、ましてや夫の職業に一切興味のない私に至ってはさっぱり分からない。


ただ、難しそうな話というのはわかる。幼稚園児が世界の均衡について聞くほどの知識量だ。



「随一の公爵家に願い出たのですが…」

「ま、まず。要件はなんですか?」



重苦しい空気が切り裂かれる。



「補給列車が行ったきり帰ってこず、調べると北部辺境の物流が閉ざされているのです」


北部辺境――夫ギアンがいるところだ。

つまりは保存食がなく、窮地に堕とされているということ。北部辺境の中でも山岳地帯と言っていたから、相当な執念がないと生き残れないとは思うが、あそこにはリアム大佐が居たな、と私の脳は最終的に都合のいい方へ解釈した。


ギアンの無口さと鈍感さが掛け合わされれば、存在感がなさすぎて、例え伏兵でも生き残れるだろう。



「大丈夫ですね」

「何がですか?北側は拠点として抑えておかないと、戦況にも影響が出ますよ」



ジェット様は、私たちの軽薄さに頭を抱え始めた。


「ええ、では玄米は提供しますね」


「はあ…」



庶民でも白米やパンが主食かも知れないが、保存食として向いているのは玄米だ。あの地域は精鋭の兵士が多いのに加え、夫の腕だけは立つところを見かねると何とかなるだろう。


すると、見兼ねた使用人が背後から尋ねてきた。


「ギアン様から、お便りは届いていませんか?検閲がありますが、限定的な情報なら書いてあるかも知れません」

「手紙ですか…来てませんね。戦地から手紙なんて…流通網が凍結してるんでしょ?」


今度は分かりやすく、空気が凍結した。

侍女や使用人たちは思考に暮れ、継母はため息をつく。他国の内政に干渉するような真似でもしただろうか。


「夫のギアン少佐の事でしたら…」


「なんですか?」


「戦況報告書によれば、生存率は計りかねますが…生きているといいですね」


「まあ、このままじゃ執務室が汚くなる一方ですから」



実際に居なくなっても、軍事家デリアキルナの経済に少なくとも影響は出るが、少し骨が折れる程度だ。それと同時に婚約も解消される。そうすれば、また縁のある貴族家へ嫁ぐことになるだろう。社交界とはそういう場所だ。少し寂しくはなるが、誰かに縋りいて生きてきた私には慣れ切ったことだ。


第一、私にだって一人でも生きていける。



(アリナ嬢様…まさか、この期に及んで相続財産とか考えてるのね…)

その背後で侍女のハンナがそんな事を考えているなんて、私には与り知らなかった。







応接室の扉を開け、ジェット様を城門まで帰すときには白薔薇が辺り一面橙色に染まっていた。最後まで後ろに着いていた使用人は、気難しそうな顔をして、最後まで何も喋らなかった。私もその様子を見かねて、話し掛けることも出来ない。ようやく、離宮の寝室前の廊下に着いた時に、一言口にした。


「ゴミ箱、整理した方が良いですよ、デリアキルナ家はいつでも無常迅速ですから」


そう言い放つと、落ち着いた足取りで去っていった。妙にしんみりとした背中は、この期起こる事を予知したかのようだった。




部屋に戻り、机に向かう。

まず、ギアンからの手紙を開こうとして——ふと手が止まった。後で読もうと机の隅に置いて、それきり忘れた。


最初に困ったのは、些細なことだった。

暖炉の薪が切れかけていることに気づいたのは深夜で、どこに補充を頼めばいいかわからなかった。ギアンなら知っているはずだ、と思いかけて、いないのだと気づく。使用人に聞けばよかっただけの話だが、「薪の場所もご存知ないのですか」という顔をされるのが癪で、結局その夜は毛布を三枚重ねて凌いだ。翌朝、侍女のハンナが暖炉を見て盛大にため息をついた。


次に困ったのは、書類だった。

夫の雑務とはつまり、軍関係の取引先への定期連絡、屋敷の維持費の精算、出入りの商人への支払い確認——要するに、私が一度も目を通したことのない書類の山だった。見よう見まねで処理しようとしたが、三通に一通は宛先を間違え、継母に「少佐夫人とは名ばかりですね」と嫌味を言われた。ぐうの音も出ないのが、余計に腹立たしい。


戦況の報告が来るたびに、北部という二文字を無意識に探していた。自分でも気づかないうちに。


夫の不在が知れ渡ると、屋敷への訪問者が増えた。

軍の調達担当、取引先の商人、遠縁の貴族——肩書きだけは立派な面々が、当主への用件を携えて次々と現れる。応接室で愛想笑いをして、お茶を出して、「ギアンは只今出征中でして」と繰り返すうちに、私はすっかり屋敷の番人になっていた。継母が「少佐夫人らしくなりましたね」と満足そうに言うので、腹の底がじわりと冷えた。褒められているのに、少しも嬉しくなかった。


やがて、辺境伯からの夜会への招待状が届いた。


「行かなければなりませんか」

「当然です。デリアキルナ家の顔を潰す気ですか」


侍女のハンナに言い切られ、私は渋々ドレスに袖を通した。夜会は久しぶりだった。久しぶりすぎて、誰と何を話せばいいかわからなかった。かつての社交仲間たちは、夫の武勲を称えながら、私を品定めするような目で見ていた。愛想よく笑い返して、グラスを傾けて、当たり障りのない言葉を並べて——気がつけば、帰りの馬車の中で意識を失っていた。


屋敷に担ぎ込まれた私を見て、継母が盛大にため息をついたらしい。らしい、というのは、その三日間の記憶がほとんどないからだ。






それから、二つの季節が過ぎた。

私は家政に無頓着だった自分を恥じ、雑務を淡々とこなすようになった。執務室の埃汚れを端から端まで掃除し、ある程度ではあるが、机の上の使わない資料も寝室へ移した。それとは裏腹に、以前までは見栄を張って参会していた夜会も、一切出なくなった。意味もなく執務室に来ては、夫の雑務仕事を邪魔するような真似をしていたころが懐かしく思えた。


「辺境伯への招待状…夜会ね」


夜会と聞けば、胸の辺りがちくりと痛む。私のところには、招待状など一切来なくなったのだから。


当初は「なんかかっこいい」という理由で羊皮紙を使っていたが、最近は上質紙に変えた。雑務に慣れてくると、良し悪しも分かってくる。一度、貴婦人にこの恋文を推敲して頼まれた時、お相手の方が撓みで読みにくという無茶な理由で文を送り返して来たと、怒り心頭に発っしてきたこともある。


「はあ…」


そう呟きがてらに次の書類に手をつけようとすると、ふと手が止まった。――戦闘報告書。軍隊が戦闘後に状況を報告する公式文書。書類を強く握り締めたせいか、指先から血が爛れる。


「ギアン…」


六ヶ月前。

国を代表する資産家の嫡子が、訪問された時。帰り道に使用人が意味深な言葉を残した後、私は文字通りゴミ箱を漁った。私の冷静さを欠く行動と、文から立ち込めた腐敗臭だけは覚えている。感情に駆られた私は、文を何処か目に見えないところに隠した。それからと言うもの、記憶が全くない。


「生きてるの…」








私は九十の書簡の控えを放り投げた。

執務室の扉を勢いよく閉めると、会議室、控え室、厨房…あらゆるところを探し始めた。風が冷たい。部屋に篭って書類しか目を通していないからか、足が覚束ない。一時間も経てば、屋敷中を蹣跚としていた。


すると、先日の使用人が様子を見兼ねて駆けつけて来た。


「アリナ嬢、文をお探しですか」

「ええ、ど、何処にあるの?」

「直情径行な癖は前から変わりませんね、文なら執務室のゴミ箱に再び捨てられてましたよ」


射るような目で、淡々と話した。


「ええ、灯台下暗しです。あと、戦争は終わりましたよ」

「え?どういう…」

「本当に知らないんですか、鐘楼から大きな音が聞こえませんでした?」


戦闘報告書―― 北部リリニア陣地奪還作戦。被害は弾薬の減少、死傷兵は十数名。

血の気が引いた。今日確かに目を通した書類には、生き残った兵の名前も何も書いていなかった。


「三年も部屋から出て来ずに、一時期は毎晩のように泣いてたんですから…心配になりました」


平然と、口から出て来た言葉を気にすることなく喋る。

三年も経っていたなんて…。カーテンも閉め切っていて、書類の内容で季節を判別していたからか、大きな認識違いをしてしまったらしい。


「そう言えば、手紙の内容…どうでした?」

「え、あっ!いや…普通に、天気の話とか…検閲されてたんで」


「旦那さん、今日帰られるので。今、執務室へ行こうと」


赤薔薇が咲き乱れる中庭、私は顔を真っ赤にして佇んでいた。熟した果実のように紅潮したので、支配人は驚きを隠せずにいる。思い出した…感情に駆られたのは、夫に似合わない甘酸っぱい文が綴られていたからで、記憶がなくなるまで机に頭を打ちつけたのだ。腐敗臭は、野外病院から送っていたから。


「もうっ!ややこしいわよっ、どれだけ心配したと思ってんの」


私が大声を出した矢先、よく晴れた羊雲の向こう側に、軍服を纏った男性がいた。全身血だらけで、半透明の幽霊のようだ。男なら背中で語れ臭がプンプン漂う。彼は綺麗に敬礼をして見せると、初めて寮で出会った時のように、こう言い放った。


「手紙、読んでくれましたか?」


婚約者からの初めての手紙だ…と満を持して封を開けた時が思い出される。また、夫からの恋文コレクションが増えてしまったじゃないか…!しかも、追加数十通!


気がつけば、背後に使用人から侍女まで勢揃いしていた。素直になれよ、とでも言うような感じで。私は緊張しながらも、空気中の大気を吸い込み、屋敷中に響くような声で発した。


「あんな恋文は二度と送らないでよねっ!あと、私一人で生きていけないみたいだわ!」


「まあ」と皆、ため息をつき始める。夫に関しては、照れ笑いをし始めた。世話がかかる輩たちだ、と私は少々呆れながらも、何処か嬉しい気持ちを抑えられなかった。



その後、夫から聞いた話によると「自室に籠っていたのは、アリナへの恋文を非常用に書き溜めていた」とのこと。

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手紙を書きためていた夫 すごい
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