第1話. 駆除依頼
大陸アストリアは、美しい地だった。
朝霧に覆われた平原では農夫が歌い、川辺の村では子供たちの笑い声が響き、王都の市場では色とりどりの布と香辛料が溢れていた。
山間の城塞からは金色の朝陽が谷を照らし、森の奥では鹿が静かに草を食み、鳥たちが枝から枝へ飛び交う。
夜になると星々が降るように輝き、人々は家族と食卓を囲み、酒を酌み交わし、愛する者に寄り添って明日への希望を語り合った。
それは、決して完璧な世界ではなかった。
争いも、飢えも、病もあった。
それでも、人々は互いに手を差し伸べ、歌い、踊り、子を育んだ。
王女たちの優しい眼差し、子供たちの笑い声、恋人たちのささやき、風に揺れる麦畑、朝の露に濡れた花びら……。
すべてが、永遠に続くと思えた。 だが、今、その光は霧に溶け始めていた。
アストリア大陸の辺境、シルベニア王国領内の小さな村「ルミエル」。春の陽光が柔らかく降り注ぐ丘陵地帯に、村人たちの生活は穏やかに流れていた。
朝霧に包まれた麦畑で農夫が鍬を振るい、川辺では子供たちが笑い声を上げて水遊びをする。
そんな平和な村の酒場「黄金の麦穂亭」では、今日も冒険者たちが下級クエストの張り紙を眺めていた。
「ん~~~~」
「あの、いいから早く決めてよ」
「洞窟の大型ハエ型モンスター『ヴェスパ』の討伐……なにこの報酬、額間違えてね?これいってみる?」
指をさされるその張り紙は、下級にしてはその報酬額は頭一つ抜けたものだった。
「あのさ、あたし虫ムリなんだよね、」
女性レンジャーのリアンは、赤毛を軽く揺らして笑った。
二十歳を少し過ぎた彼女は、背が高く、しなやかな体躯を持つ。
長年森を駆け回った結果、肌は日焼けして健康的に褐色に輝き、
緑の瞳は鋭く獲物を捉える。
腰に下げた短剣と背中の弓は、彼女の命綱だ。
ギルド登録二年目だが、すでに多くの下級クエストを成功させており、村の子供たちからは「姉御」と慕われている。
「いやそんなんでこれからやってけねえだろ!虫っつってもちょいちょいって駆除しておわり。慣れだよこんなんは」
相棒の男、弓使いエリックは、リアンの隣で肩をすくめた。
二十五歳、細身だが筋肉質で、長い金髪を後ろで束ねている。
表情はいつも穏やかだが、弓を構えた瞬間に目が鋭くなる。
「そのちょいちょいっての、あんたがやってよ?あたし入口で待ってるから」
「おいおい頼むわ、リアンさん!触る必要ないって、ひょ~っとすると、毒針とかあるかもだけど、松明つかって油瓶で焼き払えば終わりよ。道具とかそういうの専門だろ?」
「い~~~やっ!あなたの弓使って」
彼の声は落ち着いているが、指先は常に矢筒に触れている。
エリックは村の生まれで、幼い頃から森で狩りをしていたため、
弓の腕は村一番。
リアンとは幼馴染で、互いに命を預け合う仲だ。
「まぁまぁ、前衛は俺がやるよ。リアンは今回は道具だけ力を貸してくれ」
男剣士のガレンが、剣の柄に手をかけながら苦笑した。
二十八歳、がっしりとした体格で、肩幅が広く、黒い短髪に髭をたくわえている。
古い鎧には無数の傷跡が刻まれ、過去の戦いを物語っている。
村の鍛冶屋の息子として生まれ、
剣を振るうようになったのは十代の頃から。
リアンとエリックより年上だが、
三人の中で最も冷静で、戦闘では前衛を務めることが多い。三人は軽い装備で洞窟に向かった。
洞窟は村から離れた森の奥、苔むした岩壁にぽっかりと口を開けていた。
入り口近くで、甘い花のような香りが漂っている。
「なんか甘いにおい」
リアンが鼻をくんくんさせながら言った。
「リアンさんも虫さんみたいに花の匂いにすい寄せられてない?」
「ちょっと!」
エリックは弓を構え直し、ガレンは剣を抜いて先頭に立つ。
「ま、虫とはいえ初めて相手するんだから油断すんなよ」
ガレンが低く言った。洞窟は意外に広く、湿った空気が肌にまとわりつく。
「確かに巣っぽいわね」
リアンが短剣を構え、火把を掲げて照らす。
奥へ進むにつれ、羽音が響き始めた。
低く、うなるような音。
空気が重く、息苦しい。三人は息を潜め、ゆっくりと奥へ進んだ。
火把の炎が揺らぎ、壁に長い影を落とす。
足音が反響し、静寂を切り裂く。
突然、暗闇の奥から、低い唸り声が聞こえた。
それは、羽音だった。
一匹の羽音。
しかし、その音はただの虫のものではない。
重く、威圧的に響く。
(いた……!)
リアンが短剣を構えた瞬間、
暗闇が爆発した。 体長二メートル近い、黒光りする外骨格のハエ型モンスターが、
猛烈な速度で飛び出してきた。
「でっ・・か、速!?」
翅を激しく震わせ、複眼が赤く輝く。
その動きは異常だった。
人間の剣士が全力で振り下ろす速さを、遥かに超える。
爪が空を切り裂き、風を裂く音が洞窟に響く。
「くる...来る...!」
リアンが叫ぶと同時に、モンスターは三人に襲いかかった。
エリックが矢を放つが、異常な反射神経でかわされ、矢は壁に突き刺さる。
ガレンが剣を振り上げ、間接部を狙うが、甲殻が弾き、衝撃で腕が痺れた。
リアンは短剣で翅を狙うが、モンスターは体を捻り、逆に彼女を押し倒した。
爪が鎧をかすめ、金属が軋む音が響く。
「くそっ、こいつ硬ェ!」
ガレンが歯を食いしばり、剣を振り回す。
ヴェスパは低く羽音を上げ、爪を振り上げてガレンに迫る。
彼は剣で受け止めるが、衝撃で膝をついた。
リアンは転がって立ち上がり、短剣を投げて翅を狙うが、
モンスターは体を傾け、浅く傷をつけただけ。
そこに、エリックがすかさず火矢を放つ。
その大きさに似合わない速度で角度と当たり所が不十分、流線形の甲羅に弾かれ直撃はしなかった。
が、多少の火を喰らわせることには成功し、ヴェスパは苦しげに羽音を上げた。
すぐに体勢を立て直し、洞窟の奥へと消えていった。
「火は効いてるっぽいな……!」
リアンが叫ぶ。
三人は上がっていた息を整えつつ。後を追う。
「ねぇ、もう帰りたい...」
リアンは怯えたような声で乞う。
「ダメージはあったろ、アイツにとどめさして帰ろう」
松明の炎が揺らぎ、洞窟の闇を押し返した。
(続く)




