第一話 ②
状況を思い出してから、3回太陽が昇って沈む様子を見た。
リンネはどこに行ったのだろうか。
突っ走った俺だけが異世界に飛ばされてしまったのだろうか。
この森の木々は明らかに日本のそれとは異なる。
「鬱蒼とした」という言葉がぴったりで、太陽の方角から何となく東西南北は把握できるが、森の中を彷徨ううちにその方向感覚は失われてしまう。
時々元の世界とそこまで姿の変わらない鳥やリスなどの野生動物は見かけるが、人間の姿はない。
何よりも背がとても低くなってしまったがゆえに、生い茂る樹々の威圧感が尋常ではなかった。
見知らぬ木の実を食べようとたが、毒が怖くてためらい続けた結果気がつく。
どういうわけか空腹にはならない。
そしてずっと動き回っていても疲労感はない。
夜は闇に包まれるので木の下でじっとしているが、眠気はない。
ただただ太陽が出るまで時間が過ぎるのをじっと待っているだけだ。
もしかして、不死者になってしまったのだろうか。
まるで本当に五億年ボタンじゃないか。
無の空間ではないけれども、こんなところをずっと彷徨っていたらそのうち心の方が死んでしまうだろう。
木のそばに座り込み、ため息を吐いて空を見上げる。
「リンネ、無事かな……」
寒さも暑さも感じない。
五感はあっても、なんだか生きているのか死んでいるのかわからないような感じだ。
少し目を瞑ってぼーっとしていた時だった。
何かが迫ってくる。
上からだ。
そう気がついて目を開けた時に、すでに俺の肉体は宙に逆さに吊り上げられていた。
「うわっ、なにする!?」
先ほどまで俺の心を陰らせていた森は一瞬のうちに眼下に広がり、太陽がすぐ近くに迫った。
胴体を強い力で締め付けられる。
この体は痛覚がないのか痛みはなかった。
しかし、恐怖感はある。
ここに来てようやく俺は肉食の鳥に捕まっていることに気がつく。
「やめろ! 離せ!」
ジタバタと暴れると鳥の鉤爪が緩んだ。
それと同時に宙に放り出される。
――ヤバい、落ちる!
思わず目を瞑ったが、いつまで経っても衝撃が来ない。
それどころか太陽が近いままだ。
まさかと思って目を開けると、俺はまだ空中にいた。
周囲を見回しても鳥はいない。
いや、多分今地平線の方向に米粒くらいしか見えてないあの影が先程の鳥だろう。
「まさか、俺、翔べるの?」
見えない足場を探るように、慎重に慎重に前に進む。
何の抵抗もなく、俺の体は思った方向に進んだ。
「俺、翔べるんだ……」
この先の見えない三日間は何だったのだろうか。
大きなため息を吐いてから、周辺を見回した。
ここから太陽の方向に街が見える。
とりあえずそっちに行ってみよう。
あれだけグルグルと巡った森を陽が沈む少し前に抜け、街に到着した。
敷き詰められた石畳の歩道、ガス灯を点けて回る男性、広い道を突っ切る馬車、路肩で萎れた花をまとめる花売りの少女……
煙突からはもくもくと煙が出て、それにシチューの香りが乗せられている。
その匂いを察せても腹が減らず、自分の中でなんとも言えない燻りが生じる感覚がした。
……ていうか、ここ、やっぱいわゆるアレだよな。
なんちゃってヨーロッパ。
ナーロッパ。
これが異世界転生であると認識した時点である程度覚悟できていたが、目の当たりにするとやはり立ちくらみがする。
つまり……娯楽が本とかの世界ってこと!
この3日は森の脱出で追われてたからなんとかなったけど、スマホもゲームも動画も無い世界なんて耐えられるのだろうか。
転生モノweb小説もたくさん読んだけど、現代人がそういう世界に行ってスマホもないのにどうやって楽しく生きているのかいつも疑問に思う。
そしてナーロッパだとしたら、多分この世界は何らかのRPGか、乙女ゲームのどちらかの可能性が高い。
ただ捨てられていた新聞に目を通した感じ(日本語ではないのにスラスラと読める!)、少なくとも俺の知ってる作品で出てくる用語が合致するものはなかった。
ドラ=グランジェニ王国、カンデラ半島、綺龍の教団、精霊の預言……
ざっと新聞に目を通してみたが、リンネに関する情報なんて載っていない。
そして、この世界に飛ばされる直前に聞いた山神の名前──『ダイアナ』という名前も、新聞内には載っていなかった。
新聞を見た感じ、かなり広いこの世界を巡ってリンネを探さなければいけないのか?
そもそもこの世界が何の原作かも知らないのに。
今のところ俺の姿である『2.5等身の緑色の毒犬』が出てくる作品なんて記憶にない。
「八方塞がりだ……」
頭を抱えて座り込んだその時、居座っていた路地裏を照らしていたガス灯の明かりが遮られた。
しまった、誰か来た!
周囲を見回す。
隠れられるもの、無し。
いや、ある。
俺はすぐさま読んでいた新聞紙をかぶる。
コツ、コツ、コツ。
近づく足音に対する心臓の高鳴りは、幼い頃にやったかくれんぼの比ではなかった。
頼む、見つけないでくれ!
コツ、コツ、コツッ……
その願いも虚しく、足音は俺の前で止まった。
くそっ、こうなったらイチか、バチか……
目の前の薄っぺらい靴の主の膝が近づくのを感じた。
どうやらこの新聞紙を拾い上げるつもりのようだ。
軽く、深呼吸をする。
ガサリとその手が新聞に触れた瞬間──
全力で地面を蹴り、宙に浮かぶ。
しかし視界は真っ暗なままだ。
「うおっ!?」と聞こえた太い声からして、靴の主は男のようだ。
でも細かく確認している暇はない。
俺は新聞を被ったままかすかに見える足元だけを頼りに、翔びながら大通りに躍り出た。
とにかく、人目につかないところに行かねば!
視界が塞がった状態でがむしゃらに突っ走っているにも関わらず、何となくどこに人間がいるのか分かってスイスイと避けることができた。
人間ではない第六感が備わったのだろうか。
人混みも元の世界ほどでない。
楽勝かと思われた矢先、
「痛っ」
「いってえ!」
誰かに激突し、そのままもつれ込むように一緒に倒れた。
ぶつかったはずみで新聞紙が落ち、俺の姿が晒されている。
周りの人がざわついている。
ま、まずい! 姿を見られた!
ぶつかった人物の顔を確認できないほど頭の中がいっぱいいっぱいになる。
が、俺の中によぎったのはよく見ていたアニメ──
そうだ、"アレ"みたいにすればいい!
こういうときは、ぬいぐるみのフリに限る!
背中にぴとり、と何かが触れた。
それがぶつかった人物の指だと理解するのに時間はかからなかった。
俺はぬいぐるみ、ぬいぐるみ。可愛くて無害なぬいぐるみ。
「おーい、大丈夫か? リンネちゃん!」
遠くから、おそらく先ほどの男性の声が聞こえてくる。
いや、それより今、リンネって言った!?
「はい、大丈夫でーす!」
「すまん、そっちにネズミ来なかったかい? ゴミ捨て場にいたから追い払ったらそっち行っちまって……」
誰がドブネズミだよ!
そんな風に憤慨していたら、ふんわりとした香りが顔の周りを包む。
俺はぶつかった少女に抱き抱えられたらしい。
「ううん、なんかぬいぐるみが飛ばされてきたみたいです、アイザックさん」
「しかし風はあまり吹いて……」
「やだなあ〜、風もないのにぬいぐるみが動くわけないじゃないですか! 風、吹いたんですよ!」
「うーん、そうなのかなあ」
「誰かの落とし物かも。今日はもう遅いし、明日落とし主探しますね!」
「ああそうしてくれ。じゃあな」
「はーい!」
この喋り口調、間違いない。
そしてこの様子だと彼女は間違いなく一旦自宅に俺を持ち帰るだろう。
二人きりになれるタイミングを狙って──
「……ところでさあ」
先ほどの男性が見えなくなったところで、少女が小声で尋ねてきた。
「あなた、ヒスイって……知らない?」
「えっ!? お前やっぱ、リンネ……」
ぬいぐるみのフリを徹底するはずが反射的にボロが出てしまう。
つい体も動かしてしまい、首を上げて彼女の顔を拝む形になってしまった。
モカブラウンのふんわりとした髪の毛を、緑色のリボンでおさげにして結っている顔立ちの整った少女。
「え!? 嘘!?」
少女のヘーゼルの瞳は見開かれている。
間違いない、この顔立ち、この喋り方。
俺の幼馴染の箕面 凛音だ!
「いやていうか何でお前も驚くんだよ!」
「だって、え、だって!? ……あぁ、もう! とりあえずうちに行くよ!」
リンネは俺を抱きかかえたまま……というより、強く抱きしめて隠すようにして小走りで通りを駆け抜けていった。
家に着くまでの間、俺が硬直していたのは、ぬいぐるみのフリをせねばならないということを思い出した以外の理由もあると思う。




