97.それからのエルヴァーン家
あの日の大広間に満ちた温かな空気は、まるで春の風のように屋敷全体へ広がっていった。
翌朝から、エルヴァーン家の空気は目に見えて変わっていた。使用人たちの動きは軽やかで、廊下の挨拶には柔らかな笑顔が宿る。その中心には変わろうとしている家族の姿があるのを、誰もが感じていた。
そして、今日。
澄んだ空の下、庭園の白い噴水がきらきらと光を弾き、並んだ花々は風に揺れて、香りをそっと運んでくる。屋敷の裏手に広がるこの庭園は、エルヴァーン家が誇る癒しの空間だ。
だが、今の景色は、きっと今までで一番、美しい。
庭園の中央にあるガゼボ。白い柱と蔦薔薇が絡む東屋に、円卓が用意されていた。ティーセットの銀器が陽光を受けて輝き、淡い桃色のカップからは甘い香りが漂っている。
そして私たち家族四人は、その円卓を囲むように腰掛けていた。
誰一人、遠慮するような視線を向けていない。誰一人、気まずさに沈黙することもない。
ただ、穏やかで柔らかな時間が流れていた。
「お父様、このお茶……とても香りが良いですね」
私はカップを両手で包み、そっと口をつけた。花の蜜を思わせる優しい香りが広がり、胸の奥にまで染み込んでくる。
ディアスはゆっくり頷き、まるで初めて褒められた子どものように嬉しそうな、しかし不器用な笑みを浮かべた。
「領地で育てているハーブを調合した特別な茶葉だ。実は最近、少しずつ品種を増やしていてな……ルアが歌った日から、香りの良いものを多くしている」
「えっ……わ、私のために?」
「……あぁ。あの歌を聞いた日から、自然の香りが妙に懐かしく感じてな。お前がここで笑って過ごせるようにと思って……思いついたことだ」
ディアスが照れ隠しのように咳払いをした。その仕草は、最近よく見る変わろうとしている父の姿のひとつだった。
エレノアがおっとりと微笑み、私の背に手を添えた。
「ルア、とても嬉しそうね。よかったわ。あなたは……もっと、甘えていいのよ?」
「甘える……?」
「ええ。あなた、いつも皆を気遣ってばかりだったでしょう? これからは、家族にだって、そういう気持ちを向けていいの。欲張りになっていいのよ」
ふわりと抱きしめられたような温かさが胸に広がり、目の奥がじんわり熱くなる。隣ではルークが嬉しそうに頷いていた。
「そうだよ、お姉様。僕にも、頼ってほしい。……その、たくさん話したいんだ」
「ルーク……」
「僕ね、あの日から毎日、怖くても話す練習してるんだ。お父様とも、お母様とも。そして……お姉様とも」
胸の奥がキュッと締め付けられた。ルークは勇気を出している。怖さを抱えたまま、それでも前へ進もうとしている。
私はそっとルークの頭に手を伸ばし、優しく撫でた。
「偉いよ、ルーク。すごく、すごく偉い。……私も、もっと話すね。あなたに頼っても、いい?」
「うんっ!」
ルークの顔がぱぁっと明るくなり、思わず笑ってしまった。ガゼボの中には、陽だまりのような空気が流れ続けていた。
昔では考えられない。同じ時間、同じ空間で、こんなに自然に笑えるなんて。
「ルア、最近はどんな本を読んでいるんだ?」
ディアスが会話を広げようと、ぎこちないが誠実に問いかけてくる。
「えっと……この前、図書室で見つけた昔の詩集を読んでます。文字の練習にもなるし、言葉が綺麗で……」
「ほう。良ければ今度、私にも選んでくれないか。お前が選ぶものはどれも、不思議と心が落ち着く」
エレノアが微笑みながら、そっと横から言葉を添える。
「あなたの感性は……本当に、家族を温かくしてくれるわね。歌だけじゃなくて、言葉も、仕草も……あなたがいると、空気が柔らかくなるの」
「そ、そんな……褒めすぎだよ、お母様」
「いいえ。大げさでもなく、誇張でもなく。……あなたは、この家にとって光なのよ」
その瞬間、胸の奥がぎゅっと熱くなった。
光。こんな言葉……前の人生では、誰にも言われなかった。
「ねぇ、お姉様」
ルークが身を乗り出してきた。
「今度、一緒に庭で歌ってくれる? 僕、聞きたいんだ。お姉様の歌」
「うん。もちろん。……何度でも歌うよ」
ルークは嬉しそうに頬を緩め、その横でエレノアもディアスも、穏やかに目を細めていた。
日差しが四人に降り注ぎ、庭の花々が風に揺れる。銀器が淡く光り、カップの中の紅茶が陽を映して、小さな宝石のように輝いた。話題は自然と広がっていった。
屋敷で起きた小さな出来事。庭の花の成長。ルークが最近覚えた知識。エレノアが考えている模様替え。ディアスの家族で出かける計画。
どれも、以前なら交わされなかったような会話だ。
でも今は違う。心から楽しいと思える。
「……幸せですね」
思わず口にした本音に、三人は目を見合わせ、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「そうか。……私もだ、ルア」
「私もよ。こんなに胸が温かくなる日が来るなんて、思わなかったわ」
「僕も! ずっと、ずっと……こういう日が欲しかった」
風が優しく吹き抜け、ガゼボの中へ花の香りを運ぶ。
私はそっと目を閉じた。
鳥の声。カップの触れ合う音。家族の笑い声。全部が、幸福の音に聞こえた。
あぁ、そうか。私は、やっと手に入れたのだ。
歌で家族の心をつなぎ、互いに向き合い、本当の意味での家族になろうとする、この時間を。手の届く場所にある、確かな温もりを。
ゆっくり目を開けると、家族の顔があった。陽の光を受けて、それぞれが優しい笑みを浮かべていた。
「これからも……ずっと一緒ですよね?」
私がそう問いかけると、三人は迷いなく頷いた。
「あぁ。これからは、皆で歩いていく」
「ええ。もう、誰も一人にはしないわ」
「僕も! お姉様と、お父様と、お母様と……ずっと一緒!」
胸がいっぱいになり、思わず笑みが零れる。幸福が胸の奥から溢れて、世界が柔らかく輝いて見えた。
これが私の、欲しかったもの。愛したい気持ちも、愛されたい気持ちも、全部ここにある。そして私は、静かに目を細めた。
「……うん。幸せだね」
穏やかな風が、家族の笑顔を包み込むように吹き抜けた。エルヴァーン家は、今日もゆっくり、温かく、歩き出していく。




