95.家族を一つに
歌で家族の心を溶かそう。そう決めた私は、その日のうちに行動に移した。
「お父様、お願いがございます」
呼びかけると、ディアスは書類から顔を上げ、穏やかな視線をこちらに向けた。
「どうした、ルア?」
「今度のお休みに……私の歌を披露させていただきたく思っています。少しだけ、お時間をいただけますか?」
「歌か。そういえば、ルアが歌に秀でていると聞いていたな。まだ聞いたことがなかった。よろしい、ぜひ聞かせてほしい。小さな演奏会を開こう」
即座に了承してくれたその声が嬉しくて、胸がじんわりと温かくなる。
「ありがとうございます。その……歌うにあたり、ピアノの伴奏者もお呼びいただけないでしょうか?」
「もちろんだ。歌には伴奏が必要だな。腕の立つ者を手配しよう。他に要望はあるか?」
「はい。演奏会と申しましても……今回は家族だけに聞いてほしいのです。あまり大げさにはしたくありません」
「なるほど。ならば屋敷の者と家族だけを集めよう。身内のための演奏会だな」
「ありがとうございます、お父様」
頭を下げると、ディアスの表情がわずかに和らいだ。
「それにしても……急に歌を披露したいとは、どうしたのだ?」
ディアスが僅かに眉を上げて尋ねてくる。
「歌には、心を溶かす力があると先生に教えられました。だから、歌の力で家族の心を少しでも近づけたいんです」
「心を……溶かす、だと?」
ディアスはきょとんと目を丸くし、言葉の意味を探るように私を見つめた。
「はい。今回の演奏会で、家族の距離はきっと今より近くなります。……お約束します」
「……本当に、歌でそんなことが?」
「出来ます。私、信じていますから。だから、演奏会を楽しみにしていてください」
迷いのない声でそう告げると、ディアスは戸惑いながらも、ゆっくりと頷いた。その仕草に、わずかだけど、心が揺れているのを感じる。
よし。まずはお父様の了承は得られた。あとは、このことをエレノアとルークにも伝えなきゃ。
弾む心を押さえきれないまま、私はそっと執務室を後にした。
◇
そして、ついに演奏会当日がやってきた。
屋敷の大広間は、普段の厳かな空気とは違い、淡い灯火と花々の香りに満ちていた。使用人たちとその家族が集い、ざわめきには期待と祝祭の色が混じっている。
その最前列には、ディアス、エレノア、ルークの三人が並んでいた。
皆、表情は穏やかで「楽しみにしている」と言わんばかりの微笑みを浮かべている。けれど、その肩と肩の間には、どこか触れられない壁のような距離があった。
視線を交わすだけで互いを思いやっているのに、言葉にできない。触れたいのに、踏み出せない。その慎ましさが、かえって三人を離してしまっている。
胸の奥がきゅっと痛むのを感じた。家族であるはずなのに、まるで手の届かない場所にいるようで、見ているだけで切なくなる。
だけど、その距離も今日までだ。
歌が、この家族の凍った部分にそっと触れ、溶かしてくれる。そのために今日まで準備してきたのだから。
私は深呼吸をひとつして、心を落ち着かせる。私が家族を一つにするんだ。決意して静かに拳を握りしめた。
伴奏者がピアノの前に座ると、私は舞台中央へと歩み出た。会場の空気がすっと引き締まる。
大広間に灯る柔らかな光が、まるで私を包むように降り注ぐ。視線を向ければ、最前列の三人がまっすぐに見つめてくれている。その優しさに背中を押されるように、私は一歩前へ踏み出した。
「本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます」
声が静かにホールに響いた。さざ波のように広がる緊張が、少しずつほどけていくのが分かる。
「今日は、私から皆さんに一つの歌をお贈りします。この歌は人の心を描いた歌です」
言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。
「人が誰かを思うときの温かさ。伝えたいのに伝えられない戸惑い。近くにいるのに、少しだけ遠く感じてしまう寂しさ。その全部を包み込んで……そっと溶かしてくれる歌です」
客席にいる人々が呼吸を止めたように、静かに耳を傾けてくれている。
「この歌を聞いていると……頑なだった心が、氷が溶けるみたいにゆっくりと温まっていくんです。そして、ずっと心の奥にしまっていた本当の想い。大切な人を愛したい、触れたい、話したい、そんな気持ちに気づけるようになるんです」
言いながら、視線は自然と家族の三人へ向かっていた。
「もしよければ、この歌を通して……皆さんの心にある想いをそっと見つけてください。今日だけは、難しいことを全部忘れて……歌のままに、心を預けていただければ嬉しいです」
胸に手を当て、丁寧に礼をする。
「それでは、聴いてください」
伴奏者がそっと鍵盤に指を置き、最初の音が空気を震わせた。
ピアノの前奏が静かに流れ始めた。まるで夜明け前の空気のように澄んだ旋律が広間を満たし、ざわついていた心がすっと静まっていくのが分かる。
私はそっとまぶたを下ろし、胸の奥に眠る想いをひとつひとつすくい上げるように、ゆっくりと息を吸った。
家族に届いてほしい。その願いを音に変えて、私は歌い始めた。
最初の一声が、大広間に柔らかく広がる。透明で、でも芯のある声。自分で言うのもおこがましいけれど、歌いながら気持ちが音の形になって流れていくのがわかる。
音に触れた瞬間、客席がわずかに揺れたように感じた。
「……っ」
誰かの、小さな息を呑む音が聞こえた。歌は次のフレーズへと滑るようにつながり、伴奏と溶け合っていく。
思いやる心のぬくもり。言えなかった言葉の切なさ。寄り添いたいのに近づけない疼くような痛み。
一つ一つの感情をすくいあげるように、私は声に乗せていく。
すると、観客たちの表情がゆっくりと変わっていった。使用人の女性は胸の前で手を握りしめ、まるで祈るように聞き入っている。
子どもたちは瞬きするのも忘れ、ただ吸い込まれるように曲に没頭していた。老人の男性は目尻を下げ、優しい笑みを浮かべながら音に身を委ねている。
皆、ただただ歌に酔いしれていた。
そして、家族の三人。
最前列に座るディアスは表情がすっかり緩んでいた。驚きと安堵と、何か懐かしいものが混ざったような表情で、じっと私を見つめている。
エレノアは両手を口元に当て、震える瞳を潤ませていた。涙がこぼれそうになって、それでも堪えているのが分かる。
ルークは、子どもらしい大きな瞳をさらに大きく開き、素直な感動をそのまま顔に出していた。ただ純粋な尊敬と驚きだけがある。
私はそれを見て、胸の奥から込み上げてくる熱いものを歌へと変えた。
歌は最も感情のこもったサビへと向かう。心に触れる優しい旋律が波のように広がり、広間の空気を震わせた。
甘く、切なく、温かく。それはまるで、家族の心の氷にそっと触れて溶かしていくような音。
ディアスの表情には深い後悔と、それでも踏み出したいという願いが浮かんでいた。エレノアの目には、伝えられなかった愛情があふれていた。ルークは必死に涙を堪えながら、それでも笑っていた。
歌声はまっすぐに、三人の胸へ。そして家族の距離を、そっと縮めていく。
私は最後のフレーズを丁寧に紡ぎ、そっと目を開けた。大広間中が、静まり返っていた。
誰一人、息をするのも忘れたように。ただ、歌の余韻だけが美しく漂っていた。




