93.距離が近くなる弊害
エルヴァーン家は、確かに変わり始めていた。
エレノア様は以前よりも柔らかい表情を見せるようになり、ルークは明るい声で話しかけることが増えた。そしてディアス様も、ぎこちながらも家族と向き合おうとしている。その歩幅はまだ小さいけれど、それでも確実に前へ進んでいた。
食卓に並ぶ明かりはどこか温かく、以前のような重苦しい沈黙は消えていた。ぽつ、ぽつと会話が生まれ、それに誰かが応え、それがまた次の言葉に繋がっていく。
やっと、家族らしくなってきた。
その光景を見ながら、胸の奥が温かくなる。このままいけば、本当の意味で家族になれる。そう、私は心からそう思っていた。
だが、その矢先だった。
「今日の食事も美味しいですね。特にドレッシングの味付けがいいと思います」
いつも通りに話しかけると、みんながこちらを向く。いつもなら言葉が返ってくるはずなのに、いつまで経っても言葉が返ってこない。
一体、どうしたのだろうか? 疑問に思っていると、控えめな様子でルークが口を開く。
「う、うん……。そう思う」
どこか控えめな返事。控えめになるような事を言ったつもりはないのに、どこか一線を引いている。
「そうね……美味しかったと思うわ」
「……我が家の料理はどれも美味いな」
すると、エレノアとディアスも言葉を変えてしてきた。だけど、それもどこかぎこちない。そこには遠慮が含まれていて、まるで初めの頃に戻った感じがした。
それからも、言葉を交わしているはずなのに、どこかぎこちない。笑っているようで、ほんの少し引いている。誰かが遠慮したように口を閉ざし、別の誰かが気を遣って話題を変える。
静かな空気が流れるたび、私は胸の奥に小さな棘が刺さったような違和感を覚えた。
どうして? 順調に距離が縮まっていたはずなのに。
それは、本当に小さな揺らぎだった。けれど、だからこそ見過ごしてはいけない気がした。
家族がまた離れてしまうのは嫌だ。せっかく近づいた心がほどけてしまうなんて、絶対に。
原因を確かめないと。
胸に芽生えた不安を押さえながら、私はそっと目を凝らす。誰が何に遠慮しているのか。どこで躓いているのか。何が家族の輪の中心から、温度を奪っているのか。
必ず見つけ出す。そう決意して、私はエルヴァーン家の小さな違和感に向き合うために動き出した。
◇
「ねぇ、ルーク。今朝はどこかいつもとは違っていましたけど、何かありましたか?」
食事を終え、部屋に戻る途中でルークに話しかけた。すると、ルークは立ち止まり、自分の服をギュッと掴む。
「……僕、おかしいんだ」
「おかしいとは?」
「話すのは楽しい。けど、怖い」
ぽつりと言った言葉はちぐはぐだけど、ルークの本心だ。
「色んな事を考えちゃうんだ。もし、嫌なことを言ったら傷つけちゃうって。そうなったら、怖いなって……。楽しいのに怖いって変だよね?」
初めての家族との交流でルークは色んな感情が目覚めているらしい。そのせいで言葉に力があると知り、それを使うのが怖くなっているみたいだ。
「それを考えたら、あんまり言葉が出なくなって……」
「そうだったんですか。ルークも色々と感じ取れるようになったんですね」
「前よりはずっと考えてるようになったよ。今こうして話すのも楽しい、けど怖い。やっぱり、僕っておかしくなっちゃった?」
戸惑う表情を向けてくるルーク。だから、私はルークを元気づけるために優しく抱きしめた。
「大丈夫です。それは誰しも悩むことですよ」
「本当?」
「えぇ、本当です。だから、勇気を持ちましょう」
「……ちょっと怖いな」
そう言って、ルークは苦笑いをした。
◇
ルークに本心を聞いた後、エレノアの部屋を尋ねた。エレノアはいつも通り迎い入れてくれたけれど、その微笑みに少し影が出来ているように見えた。
どうやら、エレノアも何か思うところがあるらしい。
「お義母様、今日は少し様子が変だったので、心配してきてしまいまいました」
「……そうですか。ルアにはどんなことも見抜けるのですね」
「一体、何があったんですか?」
あんなに楽しそうに話していたのに、以前みたいに……いや、以前よりも酷くなっていて、とても心配だ。
エレノアは胸元で指を組み、視線を落としたまま、かすかな震えを含んだ声で呟いた。
「……怖くなってしまったのです、ルア」
「怖い、ですか?」
「えぇ。家族として仲良くなって……あの食卓で、皆が笑っているのを見て……とても、嬉しかったのです。胸が、じんわりと温かくなるようで。こんな感情、もう二度と味わえないと思っていましたから」
言葉の端が揺れている。エレノアの肩が、小さく小さく震えていた。
「でも……それが嬉しすぎて。もっと欲しくなってしまったのです。もっと家族としての時間が欲しい、もっと皆で過ごしたい、もっと愛されたい、と」
最後の一言は、か細い声で絞り出された。
「そんな自分が……嫌になってしまいました。私がそんな欲張りになってしまったら、皆に迷惑をかけてしまう。だから……距離を少し取らなければいけないと思ったのです」
「お義母様……」
「家族の時間を壊したくなかったのです。私の欲ばかりが前に出てしまっては……皆が困るでしょう? だから、少し控えめにしていたつもりでした。それなのに、逆にぎこちなくさせてしまって……」
エレノアは悔しそうに眉を寄せる。その表情は、まるで「幸せを欲しいと思う自分は間違っているのではないか」と怯えているようだった。
◇
最後に向かったのは、ディアスの執務室だった。扉を叩くと、すぐに招き入れてくれた。だが、その表情はどこか沈んでいるように見える。
父であるディアスもまた、何かに戸惑っているのだろう。私は胸の奥に小さな決意を灯しながら、静かに口を開いた。
「お義父様にも……伺いたいことがあります」
「……なんだ?」
「今日のお義父様の様子がおかしかったです。いつもの積極的に話しかける様子ではありませんでした」
率直に言うと、ディアスは目を見開いて驚いた。
「……やはり、ルアには見抜かれていたか」
「どうしたのですか? あれだけ、家族と絆を結びたいと言ってましたよね? 何が、お義父様をそうさせるんですか?」
ディアスは深く息を吸い、表情を歪めるようにして目を伏せた。その姿は、普段の威厳ある領主とはまるで違う。どこにでもいる、一人の父親の弱さだった。
「……家族の時間が増えてな。私は本当に嬉しかったのだ」
しみじみとした声。重ねてきた年月では埋まらなかった空白を、少しずつ、確かに埋めていくような喜びがそこにはあった。
「エレノアとも、ルークとも、ようやく向き合えるようになってきた。何年も遠ざけてきた分、その一歩一歩が恐ろしくもあったが……同時にな……」
言葉が途切れた。胸の内を見せることに慣れていない男の、慎重すぎる沈黙。
「……喜びが、あふれたのだ」
「喜び……ですか?」
「あぁ。これが家族なのかと……こんなにも温かいものだったのかと……知った時。私は、自分でも驚くほど胸が満たされた」
一瞬、穏やかな笑みが浮かんだ。だがすぐに曇り、ディアスは自嘲するように頭を振った。
「だがな、ルア……そこで私は気づいてしまったのだ。私はもっとを望んでいると」
「もっと……?」
「もっと笑ってほしい。もっと優しくしてほしい。もっと私を家族として見てほしい……そう思い始めた」
淡々とした口調のなかに、強い自己嫌悪が滲んでいる。
「私は……愚か者だ。理想を追い求めるあまり、それを家族に求めてしまいそうになった。こんな風であってほしい、こうあってくれたら嬉しい……そんな欲が、喉の奥まで込み上げてきてな」
ディアスは拳を握り、机の上に置いた。
「私は……家族に理想の形を押しつけてしまうのではないかと。そう思った瞬間……私は一歩、引かざるを得なかった。無理強いをしてしまう前に、自分を抑えたのだ」
静かな部屋に、深い後悔の声だけが落ちた。
「だが……その結果がこれだ。皆を余計に気遣わせ、ぎこちなくさせてしまった。私は……どうすればよかったのだろうな、ルア」
その表情には、父親としての不器用さと真剣さがすべて詰まっていた。ディアスもまた、家族との距離に悩んでいたのだ。




