9.ゴミじゃない食べ物(1)
夕焼けが街の石畳を赤く染める頃、私はその店の前にたどり着いた。木製の看板には、こんがり焼けたパンの絵。誰が見ても、ここがパン屋だとわかるような、あたたかい絵だった。
だけど、どうしてだろう。目の前に扉があるのに、その取っ手に手が伸ばせない。
この扉を開ければ、おいしいパンの匂いに包まれる。中に入って、お金を払って、パンを買える。それだけのことなのに、足が床に縫いとめられたみたいに動かない。
スラムの子供がこんな店に来たら、驚かれるかもしれない。冷たい目で見られるかもしれない。運が悪ければ、追い払われて、怒鳴られて――もっと、ひどいことになるかもしれない。
そんな不安が、次々に胸の奥から湧いてくる。心のどこかで、「どうせムダだ」と、声が囁く。
でも、だからって引き下がったら――私はきっと、ずっとこのまま。変われないままだ。
グッと拳を握って、深呼吸をする。震える胸に言い聞かせるように。
大丈夫。私は物乞いじゃない。ちゃんと、自分のお金でパンを買いに来たんだ。ちゃんと、理由がある。勇気を出す理由が、ある。
「……よしっ」
覚悟を決めて、取っ手にそっと手をかける。そして、震えを押し殺すように、ゆっくりと扉を押し開けた。
「いらっしゃいませ」
すると、すぐに声が聞こえてきた。女性の明るい声だ。そちらの方を向くと、後ろを向いていた女性が振り向いた。そして、その表情が固まる。
しばらくの静寂がお店の中に降りる。何か言った方がいいのかな? そう思っていると――。
「ス、スラムの子供が……な、何の用なの!? あなたにあげるパンなんて、ないわよ!」
突然の声が店内に響いた。私の姿を目にした途端、女性の表情が変わる。驚きから警戒、そして拒絶。その目は細くなり、鋭く光っていた。
胸の奥が、ちくりと痛む。けれど、ここで逃げたらきっと後悔する。落ちかけた勇気を両手で拾い集めて、私は一歩前に出る。
「驚かせてごめんなさい。物乞いに来たわけじゃないんです」
「……え?」
「今日は、パンを買いに来ました。ちゃんと、お金も持ってます。自分で働いて得たお金です。……怪しいものじゃありません」
ゆっくり、丁寧に。できるだけ優しい声で、相手を怖がらせないように言葉を選ぶ。
女性は戸惑ったように言葉を失っていた。その一瞬の隙を逃さず、私は続ける。
「スラムに住んでいます。でも、それでも……ちゃんとお金はあります。だから……」
言葉が少しだけ震えるのを、自分でも感じた。でも、それでも下を向かず、まっすぐに。
「パンを売ってください。お願いします」
深く頭を下げる。静かで、長い数秒。
やがて、そっと顔を上げると――女性は、何とも言えない複雑な表情をしていた。驚き、迷い、戸惑い。そして、どこかにほんのわずかな……やわらかさが見える気がした。
何か言った方がいいかな? そう思っていると――。
「そ、そう……お金を持っているのね。なら、あなたはお客さんよ」
戸惑いつつも少しだけ微笑んでくれた。良かった、私の気持ちが伝わった!
「どんなパンが欲しいの?」
「あの黒パン、売ってますか? 五十セルトで売っているって聞いて……」
「あるわよ。一つでいい?」
「はい」
「じゃあ、ちょっと待ってて」
女性は注文を聞くと、トレーとトングを手に持って店内を歩く。棚に置いてあった、パンを一つ掴むと私の前に立った。
「パンを入れるカゴとかは持っている?」
「……ごめんなさい。持ってないです」
「じゃあ、そのままでいい?」
「はい」
「では、五十セルトになります」
私は、少しだけ手が震えるのを隠しながら、小銅貨を一枚そっと差し出した。女性はそれを受け取ると、カウンターの奥に歩いていき、すぐに戻ってくる。
「じゃあ、これが御釣りの五十セルトね」
手渡された鉄貨五枚を受け取って、そして差し出されたパンを両手で抱えるように受け取った。
――やった……! パンが、買えた!
小さな重みと温かさが、胸の奥までじんわりと広がる。つい、こぼれてしまった笑顔を隠しきれない。
「あのっ……! パンを売ってくださって、本当にありがとうございます!」
思わずお礼を言うと、女性は少しだけ目を見開いて、それからふっと笑った。
「ふふ、いいのよ。あなたみたいに、ちゃんと礼儀をわきまえている子ならスラムの子でも関係ないわ。また来てね」
その優しい微笑みに、私はびっくりしてしまった。スラム出身というだけで冷たくされることが多かったから。笑ってくれるなんて、思ってもいなかった。
胸があたたかくなって、私はもう一度、深々と頭を下げた。そして、パンを大切に抱きかかえるようにして、そっと店をあとにした。
◇
パンを大事に抱きしめながら、私は表通りを駆ける。ふいに、香ばしくて食欲をそそる匂いが風に乗って漂ってきた。……これは、肉の焼ける匂いだ。
確か、串焼きの屋台は一串百五十セルト。私の残金は四百五十セルト――買える。買えるなら、行くしかない。
匂いを辿るように歩を進めると、通りの一角に出店が見えてきた。小さな炭火の上で、肉がジュウジュウと焼かれている。
ごくり、と喉が鳴る。でも、胸の奥がざわついていた。さっきのパン屋のように、優しくしてくれるとは限らない。……それでも。
一度深呼吸して、勇気を握りしめるように胸の前で手をぎゅっと握った。大丈夫。ちゃんとお金はある。私は、買いに来たんだ。
「あの……」
「へい、いらっしゃい!」
店主の声が威勢よく響く。けれど、私の姿を見た途端――その笑顔が消えた。
「……は? スラムの子供かよ。冗談じゃねえ、タダ飯くれてやるほど甘くねえんだ。さっさと帰りな!」
怒鳴り声が鋭く突き刺さる。思わず後ずさりそうになったけど、ここで引いたら、何も変わらない。
「……私は、スラムの人間です。でも、ちゃんとお金があります。今日、自分で働いて得たお金です」
「……は? お金?」
「はい、これです」
私はそっとポケットから小銅貨を取り出し、両手で差し出した。店主は目を丸くして、それをまじまじと見つめる。
「……本当に、金があるのか……。ってことは、お前……物乞いじゃないのか」
「違います。お腹が空いたから、自分のお金で食べたいと思ったんです。だから――売ってくれませんか?」
一言一言、かみしめるように言った。しばらくの沈黙。炭火のはぜる音だけが耳に残る。
そして――店主は、頭をガシガシとかきながら、ふぅっと息をついた。
「あー、そういうことか。……物乞いじゃないんなら、串焼きはちゃんと売るよ」
「本当ですか!? ……あの、一本百五十セルトですか?」
「あぁ、百五十セルトだ。あるか?」
「これで……」
私はポケットの中から、小銅貨一枚と鉄貨五枚をそっと差し出した。手のひらの中で少し汗ばんだ硬貨が、やけに重く感じる。
「毎度。ほらよ、焼きたてだ」
店主が手渡してきた串焼きからは、湯気がふわりと立ちのぼる。炭火でじっくり焼かれた大ぶりの肉が三つ、こんがりとした香ばしさをまとって並んでいる。
「……わぁ……」
思わず、声が漏れた。ずっと憧れていた、あの串焼き。今、ちゃんと、自分の手にある。
「あの……売ってくださって、ありがとうございます!」
頭をぺこりと下げると、店主はちょっと照れたように頭をかきながら言った。
「さっきは、悪かったな。スラムの子でもちゃんと金を払えるなら、また来てくれりゃいい」
「……はいっ!」
その一言が、心にじんわり染みていく。
また来ていい。その言葉が、なんだかとても嬉しかった。誰かに認めてもらえた気がして、胸の奥がぽかぽかと温かくなる。
私はにっこり笑って、もう一度お辞儀をした。そして、パンと串焼きを大事に抱えながら、近くの静かな路地へと歩いていった。




