87.義父ディアス(2)
「私は……家族の輪には入れない」
その言葉は、苦い吐息のように零れ落ちた。ディアスは机に置いた指先をわずかに震わせる。節張った指が、まるで居場所を探すように机の縁をなぞった。
「……お義父様?」
私が問いかけると、ディアスは椅子の背にもたれ、ゆっくりと目を閉じた。深い皺が眉間に刻まれ、苦悩を押し殺してきた痕跡がそこにあった。
「ルアよ……。私は貴族として生きてきた。幼い頃から叩き込まれたのは、家を残すこと。領地を守ること。血統を繋ぐこと。それだけだ」
重い声だった。それは自分に言い聞かせるようであり、同時に、諦めを滲ませる声でもあった。
「家族の愛など……貴族には不要なのだ。必要なのは誇り、役目、規律。愛は揺らぎを生む。隙を生む。だから私は、求めなかった」
ディアスは片手でこめかみを押さえた。その仕草は、長年抱えてきた痛みに触れたようだった。
「だからこそ、エレノアを娶った。あの娘は……愛を知らぬ女だった。だから都合が良かった。私と同じく、感情を持ち込まずに家のために動けると思った」
自嘲めいた笑みが、唇の端にかすかに浮かぶ。
「ルークにも……必要以上に近づかなかった。期待を寄せれば、裏切られた時に脆くなる。感情を持てば、判断に甘さが出る」
冷たい言葉のはずなのに、そこには温度があった。ずっと胸の奥に押し込めていた何かが、今ようやく滲み出たような――そんな温度。
私は静かに息を吸う。
「……でも、お義父様」
ディアスの視線がゆっくりと上がる。強く、真っすぐで、どこか怯えたような目だった。
「もし本当に、家族の愛が不要だと思っていたのなら……私がルーク様やエレノア様と心を通わせようとした時、止めたはずです」
言葉を放った瞬間、ディアスの肩がわずかに揺れた。図星を撃ち抜かれた人の反応だった。
机の上に置いていた指先がぎゅっと力を込める。白い指の関節が浮き出るほど固く握られている。
「私がお二人を励ましたり、寄り添ったり、変えようとしていたのを……お義父様はずっと見ていましたよね? 見ていて、止めなかった。反対もしなかった」
ディアスは視線を逸らした。書類の上へ逃げるように落とした視線が、かえって揺れているのを隠せていなかった。
「それは……」
「もし本当に愛が不要なら、あの時点で言っていたはずです。『余計な事をするな』と」
沈黙。部屋の空気がほんの少し震えたように感じる。
ディアスの喉がかすかに鳴った。長い間封じ込めていた感情が、言葉になろうとしている音だった。
「……ルア、お前は……どうしてそこまで……」
声はかすれていた。貴族として磨き上げたはずの威厳が、一瞬だけ剥がれ落ちたように感じた。
私は一歩、彼の前へ進む。
「お義父様が……本当は何かを願っていたように見えたからです」
ディアスの瞳が揺れる。深い湖の底が、ようやく波立ったかのように。
「だから……聞かせてください。本当は、何を望んでいたんですか?」
問いかけた瞬間、ディアスは目を伏せ、長く息を吐いた。
「……リディア王女を見たのだ。あの方は、怯えて誰も寄せ付けぬ子だった。感情を表に出すこともせず、周囲に壁を築いていた。だが、ある出来事を境に、まるで別人のように変わられた。表情が柔らかくなり、まわりの者へ自然に手を差し伸べ、笑うようにさえなった。その変わりようは、長年彼女を知る者ほど信じられぬほどで……私も、目を疑ったほどだ」
どうして、ここでリディア王女のことが? 不思議に思いながらも、私は耳を傾けた。
「その方が変わられた原因が一人の少女だというから、それを聞いた時は信じられなかった。だが、同時に思ったことがある。その少女がいれば、家族は変われるのではないかと。だから、私はその少女を養女にした」
その言葉を聞いて、始めは信じられない気持ちだった。だって、あんなに貴族には家族の愛が必要ないとは言っておきながら、家族が変わることを望むようになっている。
「……リディア王女が変わられた姿を見て、私は思い知らされたのだ」
ディアスは胸に手を当てるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。その声は、悔恨と安堵が入り混じった、不器用な告白だった。
「私は長い間、家族に愛など必要ないと、自分に言い聞かせてきた。だが……あの王女が変わった姿を見た瞬間に気づいてしまったのだ。間違っていたのは、私の方だと」
苦い笑みが浮かぶ。強く握られた拳が震えている。
「遅すぎる気づきだった。気づいたところで……どうすれば自分が変われるのか分からなかった。エレノアにも、ルークにも、どう接すればいいのか分からないまま……ただ、距離を置くことしか出来なかった」
声は低い。けれど、今まで隠していた本心が、ひとつひとつ剥がれ落ちるように紡がれていく。
「私は……その少女を家に迎えれば、エルヴァーン家も変われるのではないかと考えた。いや、考えてしまったのだ」
一瞬、言葉を失ったように目を伏せ、続けた。
「そこには確かに、貴族としての打算もあった。王女の懇意とする少女を身内にすれば、家の力にもなる。浅ましい話だが……それも否定はしない」
正直だった。醜い部分も隠さずに吐き出す、その姿はむしろ痛々しいほどだった。
「だが、それ以上に……私は、ただ期待してしまったのだ」
ディアスの声が少し震えた。
「お前が来れば……この家も変われるのではないかと。エレノアも、ルークも、そして……私自身もだ」
その告白は、静かに、けれど重く胸に響いた。
「変わりたいと願いながら、どうすればいいか分からず、ただ足を止め続けてきた私に……お前が道を示してくれるのではないかと、ほんのわずかな希望を抱いてしまった」
ディアスは深く息を吐き、肩を落とした。
「情けない話だろう。自分で変える勇気も持てぬまま、誰かにすがるような――」
「……いいえ」
私は静かに首を振った。その先の言葉が、自然と口からこぼれた。
「変わりたいと願った時点で……お義父様は、もうとっくに家族に向かって歩き始めていたんですよ」
「……ルア」
ディアスの声は、まるで何かを掴み損ねた人のように頼りなく揺れた。私はその揺らぎを真正面から受け止め、ゆっくりと微笑む。
「お義父様が……家族を望んでいると知れて、私は嬉しいんです」
ディアスの目が大きく見開かれた。まるで、そんな言葉を向けられるとは思っていなかったとでもいうように。
「だって、お義父様の本心を聞いて……私は確信しました」
「確信……?」
「はい。この家は必ず変われます」
ディアスの喉がわずかに動く。
否定しようとしているのでも、期待しているのでもない。ただ、信じてはいけないと自分で自分を縛りつけてきた人間の、戸惑いだった。
「……だが、私は……どうすればいいのか分からんのだ。今さら、どんな顔でエレノアに向き合えばいい。どんな言葉をルークにかければいい。歩み方が……分からんのだ、ルア」
その告白は、誰よりも強くあろうとした男が初めて見せる弱さだった。けれど、その弱さこそが変わろうとする意志だ。
「歩み方が分からないなら……私が一緒に歩かせます」
ディアスの肩が、息を呑むように震えた。
「エレノア様も、ルーク様も、変われました。そしてお義父様も、変われます。だって……その第一歩をもう踏み出しているんですから」
「第一歩……?」
「はい。私に本心を話したことです」
沈黙が落ちた。そして、ディアスはようやく息をつく。
「ルア……お前は……強いな」
「強いのは、お義父様です。変わりたいと願えたのは……ずっと苦しかったからでしょう? ずっと、誰にも言えなかったからでしょう?」
問いかけると、ディアスはほんの僅かに目を伏せ、唇を震わせた。
その反応だけで十分だった。彼は本当に、限界まで一人で耐えてきたのだ。
「……ルア。私は……変われるだろうか」
その問いは、弱い。けれど、限りなく強かった。私は迷いなく力強く、首を縦に振った。
「変わりましょう。お義父様」
その声は、迷いを断つ刃のようだった。けれど温かくて、優しくて、背中を押す風のようだった。
「私が、この家族を……お義父様を、導きます」
ディアスは、しばらく何も言わなかった。だがその沈黙は、絶望でも拒絶でもない。
やがて、彼はゆっくりと頷いた。
「……頼っても、いいのか」
「はい。家族なんですから」
その瞬間、ディアスの表情が、ほんの僅かに――本当に僅かに柔らかくなった。




