83.家族の形(1)
「今日は三人で本を読みましょう」
そう言って、私はテーブルの上に一冊の本を取り出した。その表紙には「ヴァルト家の小さな奇跡」と書かれていた。
「これはどのような本ですか?」
「家族の日常を描いたものです。笑いがあったり、少し泣けたり、心が温かくなるお話です」
軽く説明すると、エレノアは不思議そうな顔をした。
「日常を描いたものが物語に? そういうのが本になるんですね」
「はい、そうなんですよ。日常は物語のように面白いっていう事になりますね」
「日常が物語に?」
エレノアは人の日常が物語になることを知らずにいた。きっと、これは実家の名残だと思う。実家では物語に触れる事すら許されなかったのだろう。それだけ、厳しい環境にいたのだ。
「小説というものですが、知りませんか?」
「いえ、知っています。でも、私が知っている小説とは違います。歴史になぞらえたものだけなのかと……」
「もっと、幅広いんですよ。恋愛、冒険、伝記……色々なものがあります」
小さい頃にそういうのに触れてこなかった弊害か、エレノアの知識に偏りがある。こういう娯楽に触れてこなかったから、普通の知識を得ることもなかったのか。
これは、今日の交流を本に選んでおいた良かった。これで、本当の家族の形が知ってもらえれば……。
「この本をお義母様が読んでくださいませんか?」
「私がですか?」
「黙って読むよりも、人の声を聞きながら物語に浸りたいのです。お願い出来ますか?」
手を組んで、エレノアにお願いする。すると、張り付けたような微笑みを浮かべながらエレノアは頷いた。
「えぇ、大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。では、ソファーに移動しましょう」
「なぜ、ソファーに?」
「寄り添いながら読むと楽しいですよ。ルークもお義母様と寄り添いたいですよね?」
「う、うん……」
体を寄せながらの読書は一体感があって良い。一緒に読むという体験を身近に感じることが出来れば、もっと心の距離が近づくはずだ。
私が先にソファーに移動すると、追うようにエレノアとルークが移動してくる。真ん中にエレノア、両端に私とルークが座るかたちになった。
「狭くないですか? もっと、ゆったりと座ったほうが、居心地がいいのでは?」
「三人で読書をするのに、この形が理想だと思います。一度、これでやりませんか?」
「……分かりました」
エレノアはあまり納得がいっていないようだけど、なんとか説得することが出来た。それから、エレノアは本を開く。
「お母様と読書、初めて。なんだか、楽しみ」
「楽しみですね。こういう時の楽しみ方を知っていますか? 不思議に思ったことを口に出してみてください」
「えっ? でも、それだと邪魔になるんじゃ……」
「一緒に気持ちを共有するのが一番の楽しい事なんですよ」
「そうなんだ」
反対側に座ったルークが少し楽しそうな顔をして笑った。やはり、エレノアの家族としての経験が少ないからか、読み聞かせという事はしていなかったようだ。
ルークは初めての母親の読み聞かせに、自然と笑顔が浮かんでいた。これが普通になると、きっともっと笑ってくれる。
「お義母様、始めてください」
「えぇ」
楽しくなる気持ちを感じながら、エレノアを急かした。すると、エレノアは頷き、本を読み始めた。
エレノアがページをめくり、柔らかな声で物語を読み始めた。その声はいつもより少しぎこちないけれど、どこか優しさがにじんでいる。
まるで、言葉のひとつひとつを確かめながら、何かを知ろうとしているようだった。
物語の舞台は、古い領地にあるヴァルト家。そこに暮らすのは、穏やかな領主と、しっかり者の夫人、そして少しおてんばな娘。
三人は日々、庭で花を摘んだり、台所で焼き菓子を作ったり、時には些細なことで喧嘩をしたり――そんな、どこにでもある「家族の一日」が綴られていた。
「……お父様は、娘に宛てた手紙を大切に書きました。娘は嬉しくて外に持ち出しました。だけど、そこで昼寝をしてしまい、気が付くとその手紙をヤギが半分食べてしまっていたのです。娘は大慌てで謝りました。ですが、お父様は笑ってこう言いました。『いいんだよ。また書けばいい。今度はもっと長く書けるかもしれないからね』と」
その一文を聞いて、私は思わず微笑んでしまった。
「優しいお父様ですね。怒るより、もう一度書くことを選ぶなんて」
エレノアが私の方をちらりと見た。
「どうして、もう一度手紙を? 口頭で伝えるのはダメなんでしょうか?」
「それは想いを残しておきたいからだと思いますよ。想いの詰まったものは何度だって浸りたいからですね」
私がそう言うと、ルークが首を傾げて口を開いた。
「嬉しい言葉をいつでも聞けるってこと?」
「そういうことです。聞きたい時に聞けたら嬉しいですよね。そういう時のために残しておきたいんだと思いますよ」
そう話すと、ルークは「ふうん」と小さく呟き、またページを見つめた。その横顔が、なんだか真剣で――まるで物語の中に入り込んでしまったようだった。
エレノアは家族の形に戸惑いながらも再び朗読を続けた。次の場面は、家族で夜の食卓を囲むシーンだった。
お母さんがスープをよそい、お父さんがグラスを掲げて「今日も無事に過ごせたことに感謝を」と言う。ただそれだけのことなのに、不思議と胸が温かくなる。
「……この『感謝を』という言葉、いいですね。特別なことがなくても、毎日を大切にしてる感じがします」
ルークが少し考えるようにして、また問いかける。
「感謝するって……何に?」
「そうですね。家族が揃っていることとか、食事が食べられることとか……小さな幸せ全部にです」
「小さな幸せ……」
ルークはその言葉を繰り返して、まるで口の中で味わうように呟いた。エレノアは黙っていたけれど、その手が本を持つ指先をわずかに震わせた。
もしかしたら、彼女の中でも何かが揺れているのかもしれない。家族と過ごす日常。それは、彼女が長い間触れられなかった世界なのだ。
「……このお話の中の家族は、喧嘩をしても離れないんですね」
エレノアがぽつりと呟いた。
「はい。喧嘩しても、仲直りをしたいって気持ちがあるからです」
「仲直りを……したい、ですか」
「そうです。お互いを思う気持ちがあるから、また笑い合えるんですよ」
エレノアは小さく息を吸い、次のページをめくった。声が少しだけ柔らかくなった気がした。その変化に気づいたのか、ルークがふとエレノアの腕に頭を預ける。
「お母様の声、落ち着く」
「……そうですか?」
「……うん」
その言葉に、エレノアの目が一瞬大きく開かれ、そして少しだけ微笑んだ。まるで胸の奥に家族の心地よさを感じたみたいに。
もしかしたら、今、小さな奇跡が起こっているのかもしれない。
ページの向こうに描かれた家族は、読んでいる私たちの心に少しずつ温もりを落としていく。物語を読むたび、エレノアの声が柔らかくなり、ルークの表情が明るくなっていく。私も、それを見て嬉しくなる。
本の中の奇跡が、現実の中にも小さな形で芽吹いている。そんな気がして、私はそっと本を見つめながら呟いた。
「この本、いいですね。こんな風に家族として過ごしたいです」
それは、紛れもなく本心だ。二人が本当の家族の形を知って欲しいという気持ち。その中に私も入りたいという気持ち。
私もこの世界では家族がいないから、家族として過ごす事に憧れを抱いている。誰かが傍にいてくれる穏やかな日常を過ごしてみたい。そんな気持ちがある。
ふと、顔を上げると――エレノアの目尻から涙が零れていた。




