67.エルヴァーン伯爵家(2)
「では、ルア様はこちらへ」
そう言って、メイドに連れられて歩き出した。だが、ここからが怒涛の展開だった。
通されたのは広々とした浴室。壁も床も白い大理石でできていて、湯気の中に花の香りが漂っている。目を奪われている間に、メイドたちが一斉に動き出した。
「失礼いたします」
「お背中を流しますね」
返事をする間もなく、服を脱がされ、あっという間に湯船へ。柔らかい泡が全身を包み、手際よく洗われていく。背中も腕も、指先まで。少しでも動けば、「じっとしていてくださいませ」と優しく諭され、成す術がない。
洗い終わったと思ったら、次は湯浴み。温かいお湯がかけられ、香草の香りがふわりと立ちのぼる。まるで夢の中にいるみたいだった。
だが休む間もなく、別のメイドたちが入れ替わる。
「お身体を拭かせていただきます」
「髪はこちらで乾かしますね」
柔らかなタオルで全身を包まれ、ふわふわの風で髪を乾かされる。櫛で丁寧に梳かれるたび、さらさらと髪が指の間を滑っていく。いつの間にか、香油を混ぜたらしい甘い匂いが漂い出した。
それだけでは終わらない。
「こちらのクリームを少々……お肌がしっとりいたします」
「このリボン、お似合いですわ」
頬に軽く紅が差され、薄い唇にも艶を与えられる。最後に、ふわりとしたドレスが着せられた。淡い桃色の布地に、金糸の刺繍がきらきらと光っている。
気づけば、鏡の中に映るのはどこからどう見ても、上流階級の令嬢だった。
「……え、これ、私?」
呆然と呟く私に、メイドが恭しく頭を下げる。
「お支度、完了いたしました。ただいま、お茶をご用意します」
そう言って、メイドが出て行くと、また新たなメイドが現れる。手際よくお茶と茶菓子を用意された。
「ルア様、お茶の用意が出来ました。夕食の時間まで、おくつろぎください」
そう言って、部屋の隅に一人のメイドを残し、他のメイドたちはいなくなった。
「い、一体……なんだったの……」
怒涛の勢いで進んだ展開に、私の頭はついていかなかった。まさか、ここまで磨き上げられ、着飾れるとは思わなかった。至れり尽くせりとはこのことか。
ようやく一息つける。
差し出されたお茶を口に含むと、驚くほどまろやかで香り高い。思わず目を瞬かせてしまった。添えられたお茶菓子も口にしてみれば、ふんわりとした甘さが広がって、また驚く。どちらも、今まで飲んだことも食べたこともないほど上等な味だった。
ここまでのもてなしぶりから見ても、エルヴァーン伯爵家が私を歓迎しているのは明らかに思えた。
だって、体を清めて着替えさせ、こんなにも丁寧にお茶を出してくれるのだから。
けれど、どうしてだろう。胸の奥に、小さな違和感が残っていた。
伯爵家の人々は、誰もが穏やかで礼儀正しい。けれど、その笑顔には温かさがない。私に向けられる視線も、どこか遠くを見ているようで……そこに「歓迎」の色は見えなかった。
こんなにも手厚く世話をしてくれるのに、どうして心がこもっていないんだろう?
それとも、スラム出身の私なんて、本当は歓迎されていないのだろうか。
だとしたら、どうしてここまでしてくれるの?
考えれば考えるほど、答えは霧の中に隠れていく。一人きりの部屋で、静かな時間だけが流れていった。
◇
「ルア様、夕食の準備が整いました。食堂へ参りましょう」
ぼんやりと考え込んでいたところに、控えめな声がかかった。私は慌てて姿勢を正し、頷く。
メイドの先導で部屋を出て、長い廊下を進む。廊下の壁には、どれも立派な絵画や古い紋章が飾られていて、歩くだけで胸が縮こまるようだった。
やがて、両開きの大扉の前にたどり着く。扉の向こうからは、ほのかに香ばしい匂いが漂ってきていた。
「失礼いたします」
メイドが静かに扉を開くと――思わず息を呑んだ。
そこは、まるで別世界だった。
天井は高く、金色に輝くシャンデリアが幾つも吊るされている。長いテーブルは十人以上が並んでもまだ余るほど広く、真っ白なテーブルクロスの上には、銀の食器と煌めくグラスが整然と並べられていた。
壁には大きな肖像画、窓辺には重そうな赤いカーテン。床には絨毯が敷かれ、足音ひとつ響かない。
テーブルの中央には、香草を添えた肉料理や、色鮮やかなスープ、焼き立てのパンが並んでいた。見たこともない食べ物ばかりで、匂いだけでお腹が鳴りそうになる。
「こちらへどうぞ、ルア様」
案内された席は、なんとテーブルの上座に近い位置だった。
落ち着かない心をなんとか抑えながら、椅子に腰を下ろす。座面は柔らかく、沈み込む感覚にさえ緊張してしまう。
やがて扉がもう一度開き、伯爵家の人々が入ってきた。
「待たせたな」
伯爵がゆったりとした声でそう言い、向かいの席に座る。優しい声のはずなのに、不思議と距離を感じた。
それぞれが席に着くと、伯爵が静かに口を開いた。
「改めて、ルア。エルヴァーン伯爵家へようこそ」
低く響くその声に、思わず背筋が伸びる。伯爵は穏やかな微笑みを浮かべていたが、その瞳はまっすぐで、逃げ場がないような強さを帯びていた。
「私は、ルアをこの家の養女として快く迎え入れる」
その言葉に続いて、伯爵夫人と少年も口を開く。
「私も快く迎え入れます」
「僕もです」
形式的な言葉、そう感じた。けれど、拒絶ではない。少なくとも、今のところは。
伯爵は小さく頷き、再び言葉を紡ぐ。
「さて、ルア。ここからが本題だ」
食堂の空気が、わずかに張り詰めた。伯爵は手にしていたグラスを置き、姿勢を正す。
「この家に迎えた以上、君には貴族の娘としての責務を果たしてもらわねばならない。衣食住を与えるだけではなく、我々は君をエルヴァーンの名を継ぐ者として育てる」
胸の奥がひやりと冷える。伯爵の言葉には、温情と同じくらいの厳しさが混じっていた。
「貴族としての作法、言葉遣い、歴史、政治、礼儀。あらゆる教養を身につけてもらう。日々の勉学はもちろん、舞踏や音楽、そして……」
伯爵は少し言葉を切り、私を見た。
「できることなら、魔法も使えるようになってほしい」
思わず顔を上げる。伯爵の瞳は真剣そのもので、冗談ではないことが分かった。
「もし君にその資質があるのなら、きっと大きな力となるだろう。もちろん、強制はしない。だが、努力する意思は見せてほしい」
私は戸惑いながらも、小さく頷いた。
この世界は魔法がある世界なんだ。私がいた場所では、全く話題にも出なかった。少しだけ、心がワクワクした。
けれど、伯爵の言葉の裏には、養女として生きるための条件があるようにも思えた。
「……はい。努力します」
自分でも驚くほど小さな声でそう答えると、伯爵は満足げに微笑んだ。
「それで良い。明日から、専属の家庭教師をつけよう。しばらくは大変だろうが、慣れていけばいい」
優しい口調だった。けれどその優しさの奥に、鋭い光が見えた気がした。まるで、「逃げ道はない」と告げているような、そんな気配が。
「では、食事を取りながら交流を深めよう」
その合図で食事が始まった。




