48.急な依頼(1)
獅子の大皿亭で働き始めて、数か月が経った。
最初は慣れないことばかりで右往左往していたけれど、今では忙しさの中に心地よさを感じるようになっていた。笑顔で注文を復唱することも、料理を運ぶことも、片付けに追われることも。気づけば全部が日常になっていて、時には汗だくになりながらも笑っていられる。
思えば、あの頃は空腹に耐えきれず、路地裏でゴミ箱を漁っていたっけ。誰にも見つかりたくなくて、息をひそめて。冷たく乾いたパンの欠片を拾い上げたときの、あの情けなさと孤独感。あの頃の自分から見れば、今の私はまるで別人だ。
だって、今はこうして仕事を終えたあと、仲間たちと同じ席に腰かけて、ちゃんとした食事を取っているのだから。ゴミじゃないパンにスープ、それに今日のまかないの肉料理。温かい匂いに包まれて、みんなと笑い合いながら食べる時間が、何よりも幸せだった。
ここが私の居場所なんだ。そう思える瞬間が増えていくたびに、胸の奥がじんわりと熱くなった。
このまま、こんな日々がずっと続けばいい。心の底からそう願っていた。
けれど、誠実に、そして堅実に働き続けてきたおかげで、思いがけない新しい話が、私のもとへと舞い込んでくることになった。
◇
「ルア、食器を片づけて」
「はい!」
食器を洗っていると、ホールからハリーの声が響いた。私は手を止めて布巾で手を拭き、トレーを手にしてホールへ向かう。
ホールにはすでにお客さんの姿はなく、テーブルの上には食べ終えた食器だけが残されていた。私は一つひとつ片づけながら、視線の端でハリーが会計を終えるのを見届ける。やがてハリーは看板を手に取り、外へ出て行った。
これで昼の営業はおしまい。あとは片づけを済ませて、みんなで遅い昼食だ。今日はどんなまかないが出るんだろう? 胸がわくわくと弾んだ。
「よし、まかないが出来たぞー! みんな集まれ!」
厨房からノットの威勢のいい声が響き、思わず顔がほころぶ。私は片づけた食器を洗い場に置き、まかないを受け取りに厨房へ急いだ。
「配膳、手伝いますね!」
「おう、助かる!」
トレーに料理を並べ、落とさないよう慎重にホールへと運ぶ。香ばしい匂いにお腹が鳴りそうになりながらテーブルへと向かった、その時――。
カラン、と出入口の扉が開いた。
……あれ? 遅れてきたお客さんだろうか。そう思って顔を上げた瞬間、そこに立っていたのは見覚えのある人物だった。
よく知った顔。だが、その表情は硬く、難しい影を落としていた。すると、ハリーがその人に近づいていく。
「お昼の営業は終わったわよ。何か用かしら?」
「あぁ……実は急ぎの用件でな。ノットと、あとルアと話をさせてもらえないか?」
名前を出されたことにハリーは少し眉をひそめ、不思議そうにその男を見た。だがすぐに頷き、席へと案内する。
「分かったわ。ちょっと待っててね」
そう言って厨房へと消えていくと、ほどなくしてノットが姿を現した。
「よぉ、俺とルアに話があるって聞いたが?」
「あぁ、すまない。少し時間をもらえないか?」
男の真剣な声色に、ノットは短く頷いた。
「構わねぇさ。……ルア、こっち来い。一緒に座ろう」
「はい」
促されるまま席につくと、男は腕を組んで黙り込み、言葉を探すように視線を彷徨わせていた。その様子にノットが怪訝そうに眉を寄せる。
「おいおい、どうした。そんなに言いづらい話なのか?」
「……あぁ、どう切り出すべきか悩んでいてな」
「だったら回りくどいのはなしだ。はっきり言えよ」
少しの沈黙のあと、男は深く息を吸い込み、覚悟を決めたように口を開いた。
「ルアをしばらくの間、俺に預けてくれないか」
「……ルアを預けろ、だと?」
ノットの声が低くなる。からかうような調子は微塵もなく、鋭い視線が男を射抜いた。私は思わず背筋を伸ばす。ノットがこういう声を出すときは、本気で相手を値踏みしている証拠だ。
「なぁ、どういうことだ? ルアに何の用がある?」
「……誤解しないでくれ。悪い話じゃない。ただ、あの子の力が必要なんだ」
「力?」
ノットは怪訝そうに眉を寄せ、ちらりと私に視線を向けた。私は状況がつかめず、戸惑うしかない。
「店には俺やハリーもいる。だが、わざわざルアを指名してきたってことは……それなりの理由があるんだろうな?」
低く静かな声音。けれどその奥には、「下手なことを言ったら承知しないぞ」という無言の圧が滲んでいた。男は真剣な顔をして頷いて見せる。
「俺が情報屋をやっているのは知っているだろう?」
「まぁな」
「そこに、依頼が来たんだ。子供を匿うために世話をしてくれる人を探している、ってな」
ノットの眉がぴくりと動く。
「……なんだ、それは。情報屋の仕事じゃねぇだろ」
「だろうな。ただ、情報屋にとって一番大事なのは信用だ。そこに目をつけて、あえて俺に頼んできたんだよ」
「ふーん……」
ノットは腕を組み、しばし黙り込んだ。怪訝さと警戒が隠せていない。
「……で、それは本当に大丈夫な依頼なんだろうな?」
「多分な。少なくとも、ノットが心配してるような怪しい筋じゃない。むしろ、身元はお前が思っている以上にしっかりしている」
「しっかりしてる……だと?」
ノットの目が細くなる。
「どういう意味だ。依頼人は何者なんだ?」
問い詰める声音に、男は一瞬だけ視線を逸らした。けれど、すぐに真っ直ぐノットを見返す。
「悪いが、それは言えない。顧客の身元を軽々しく明かしたら、情報屋として終わりだ」
「ふざけんな。ルアを連れて行くって話だろ? なら、相手がどこの馬の骨かぐらい、俺が知ってなきゃ納得できねぇ」
「気持ちは分かる。けど、信用してほしい。俺が受ける以上、裏は取ってある。怪しい依頼じゃない」
ノットはしばらく腕を組んで黙り込み、じっと相手を睨みつける。
「……言えねぇ、か」
「言えない」
短く返したその声は、揺らぎがなかった。しばらく、黙り込んだノットだったが、話を呑み込むように大きくため息を吐く。
「そのことについては深く追及はしねぇ。だが……子供を匿うってのは、どう考えても穏やかな話じゃねぇよな」
「……あぁ。何かしら理由があって、一時的に身を隠したいらしい。けど、その間ひとりじゃ生きていけない。だから世話をしてくれる人間を探してる、ってわけだ」
「なるほどな。だが、なんで子供の世話役に、うちのルアなんだ? 普通は大人に頼むもんだろ」
「ルアは器量が良いし、誰とでも打ち解けられる。だから、この世話人の仕事が出来ると思ったんだ。それに本人が言うには、世話を受けるなら子供のほうが気楽だって話らしい」
「……へんに理屈が通ってるようで、やっぱり引っかかるな」
男の話を聞いたノットは考え込むように顎に手を当てる。
「ルアみたいにしっかりした子は他に知らない。だから、俺はこの話をルアに持ってきたんだ。ルアはどう思う?」
真正面からそう言われて、胸の奥がじんわり熱くなる。こんなふうに頼りにされるのは、やっぱり嬉しい。
その期待に応えたい。強くそう思った。
「私にできるか分からないけど……やってみたいです!」
頬が熱くなるのを感じながらも、私はしっかりと頷いた。小さな一歩でも、信じてくれる人のために踏み出したい。
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