42.閉店の時間
「ルアー! 食器、片づけお願い!」
「はーい! 今行きます!」
洗い場で食器を洗っていると、ホールからハリーの声が飛んできた。私はすぐに手を止め、タオルで手の水気を拭き取る。トレーと布巾を手に、足早にホールへ向かった。
食器だけが残されたテーブルを見つけ、迷わず近寄る。手際よくトレーに食器を載せ、布巾でテーブルを端から端まで丁寧に拭く。角の隅やわずかな汚れも見逃さない。
布巾を滑らせると、くすんでいた木目が少しずつ光を取り戻していく。このテーブルなら、次のお客さんも気持ちよく座れるはずだ。
最後に全体を見回し、仕上がりを確認。よし、問題なし。トレーを抱えて厨房へ戻ろうとしたその時、別の席のお客さんが立ち上がった。
「お帰りですか?」
「あぁ、そうだ。お会計を頼むわ」
「では、カウンターでお願いします。順番にご案内しますので、少々お待ちください」
「ありがとう。ルアちゃん、また来るね。今度はゆっくり話そう」
「はい、楽しみにしています」
自然と笑顔がこぼれる。ほんの短い会話なのに、お客さんの表情が柔らかくなり、足取りも軽やかになっていくのがわかる。
厨房に戻り、食器を洗い場に積み上げたら、またすぐにホールへ。さっきのお客さんのテーブルを片づけに行く。
同じように食器をトレーに載せ、布巾で表面を隅まで磨く。汚れが一つも残っていないか、最後に念入りに確認。
よし、完璧。トレーを抱えて厨房に戻り、持ってきた食器を洗い場に重ねていく。すると、鍋を拭いていたノットが声をかけてきた。
「そろそろ店じまいの時間だ。これから、一気にお客さんが帰っていくぞ」
「あ、そうなんですね。そういえば、さっきから新しいお客さんも入ってきませんでした」
「さっさと片づけて、まかないを食べよう」
……まかない!
その一言で、胸がふわっと軽くなる。今日はたくさん動き回って、たくさん話して、お腹はすっかりペコペコだ。
「ふっ、嬉しそうな顔してるな」
「あっ……顔に出ちゃってましたか?」
「あぁ。今なんて、めちゃくちゃ嬉しそうな顔してたぞ」
そ、そんなに分かりやすい顔をしてたなんて――恥ずかしい!
思わず頬に手を当て、視線を落とす。
「年相応で、可愛いじゃないか。今の顔、お客さんにも見せたかったぞ」
「そ、そんなこと言わないでください!」
「ははっ! さぁ、最後のひと踏ん張りだ。頑張れよ」
ノットが口元を吊り上げ、にっと笑う。
私は恥ずかしさをぐっと押し込み、水の冷たさで気持ちを落ち着けながら、食器洗いに手を戻した。
◇
「ありがとうございましたー!」
「また来てねー!」
最後のお客さんを笑顔で見送り、扉が閉まる。ハリーは外に出て、店先の看板を回収してから店内に戻ってきた。
「これで、夕食の営業はおしまい。ルア、お疲れさま」
「ハリーさんも、お疲れさまでした」
「今日は本当によく頑張ってくれたわ。お客さんたちも大喜びだった。偉い偉い」
そう言って、ハリーはにっこり笑いながら私の頭を優しく撫でてくれる。その温もりと褒め言葉が胸に響いて、思わず頬がゆるんだ。
「おーい、まかないの準備を手伝ってくれー!」
その時、厨房からノットの声が響く。
「はーい。じゃあルア、お客さんの食器の片づけお願い。私はノットさんを手伝うから」
「分かりました!」
トレーと布巾を持ち、ホールへ向かう。
慣れた手つきで空いた皿やカップをトレーに載せ、テーブルを隅まできゅっと拭き上げる。最後に指先でテーブルの表面をなぞり、汚れがないことを確認してから、厨房へ戻った。
洗い場に食器を重ね、水を出そうとしたそのとき――。
「ルア! 片づけは後でいい。先に飯だ!」
ホールから聞こえたノットの声に手を止める。
急いで戻ると、ノットとハリーが座るテーブルに、湯気を立てる料理がずらりと並んでいた。その香りに、空っぽの胃がぐうと鳴る。
「これが……まかないなんですね!」
「今日は余りが出たからな。それをまかないに回した」
「まかないはね、お客さんと同じ料理のこともあれば、全く違う時もあるのよ。その日によっていろいろなの」
「へぇ……そうなんですね!」
期待と食欲で胸が膨らみ、自然と笑みがこぼれた。
「お客さんが食べてた料理、ずっと気になってたんです」
「ほう? なら遠慮せず言ってみろ。何が食べたい?」
「えっと……野菜のポタージュが気になってました」
「お、じゃあそれはルアに決まりだな」
「……あとは、ステーキを食べてもいいですか? 沢山注文されていて、ずっと気になってたんです」
「おお、ステーキか! うちの看板料理だ。黒パンもつけてやろう」
素直に食べたい物を口にすると、二人はにこにこと笑いながら、次々と私の前に料理を並べていく。
「えっ……い、いいんですか? こんなに」
「もちろんだ! 今日は本当に頑張ってくれたからな。腹いっぱい食べろ!」
「他にも食べたいのがあれば遠慮なく言いなさい」
「ありがとうございます!」
胸の奥がじんわり温かくなり、思わず深々とお辞儀をした。
席につき、手を合わせて「いただきます」と声を出してから、まずは野菜のポタージュにスプーンを伸ばす。
とろりとした質感。湯気とともに優しい香りが鼻をくすぐる。
そっと口に含むと――濃厚な旨味が広がり、野菜の甘みとコクが舌の上で溶けていった。
「……美味しい! すごく優しい味です」
「だろ? 中には、それ目当てで毎日来るやつもいるんだ」
「そうね。それぞれの料理に、必ずファンがいるのよ」
料理にファンがつくなんて……。ノットの腕前はやっぱり本物だ。
次にフォークとナイフを手に取り、ステーキへ刃を入れる。
刃先が肉を割くたびに、ジュワッと透明な肉汁があふれ出し、灯りを受けて宝石のようにきらめいた。
一口大に切り分け、そっと口へ運ぶ。――瞬間、熱と香ばしさ、そして濃厚な旨味が舌いっぱいに広がった。噛むたびに、肉の繊維からあふれる肉汁が幸福感を押し寄せてくる。
「んっ……! すっごくジューシーです!」
「ふっふっふ、だろう? これは俺の絶妙な塩加減と焼き加減の賜物だ」
「ノットさんは腕がいいからね。どんな料理も、魔法みたいに美味しくなっちゃうのよ」
体の芯まで震えるほどの旨味。あまりの感動に、思わず身を乗り出すような勢いで感想を口にすると、二人は満足そうに頷き、誇らしげに微笑んでくれた。
美味しい食事と、温かな笑い声に包まれた時間。
今の私は――まるで、普通の人のように食事をしている。地面にしゃがみ込み、片手でパンをかじり、もう片手で串焼きを頬張るような食事ではない。
しっかりとしたイスに腰を下ろし、清潔なテーブルを囲み、磨かれた食器を使って一口ずつ味わう。
その当たり前の光景が、胸を締めつけるほど嬉しかった。ここにいる間だけは、スラムでの暮らしを忘れられる。
まるで、自分も普通の暮らしをしている一人の人間になれたような錯覚さえ覚える。
――いつか、これが錯覚じゃなく、本当の毎日になる日が来るだろうか。
いいや、ただ待っているだけじゃダメだ。自分の力で、必ずスラムを抜け出す方法を見つけよう。この景色を、夢ではなく現実にするために。
お読みいただきありがとうございます!
面白い!続きが気になる!応援したい!と少しでも思われましたら
ブックマークと評価★★★★★をぜひよろしくお願いします!
読者さまのその反応が作者の糧になって、執筆&更新意欲に繋がります!




