34.転機(2)
黙々と皿を洗っていると、不意に家主が声をかけてきた。
「君は、もしかして……スラムの子かい?」
手を止めて、私は少しだけうつむく。
「……はい。ご迷惑でしたか?」
「いや、そうじゃないんだ。ただ、ちょっと驚いただけでね。スラムの子って聞くと、もっと荒んだ子ばかりかと思っていたんだよ」
家主は柔らかな口調だったが、どこか探るような目つきでもあった。
私の格好を見れば、どこで育ったかなんて一目で分かるだろう。擦り切れて汚れた服、裸足のままの足。あまり人に見せたくない姿だ。そんな自分を見つめられると、胸の奥が少しざわつく。
でも、今さら隠すようなことでもない。私はただ、皿洗いの手を再び動かした。
「なるほどね。君のような子なら、煙突掃除を任せられるのも納得だよ。言葉遣いもしっかりしてるし、仕事も丁寧にこなしている」
「ありがとうございます。私も、こうして仕事を紹介してもらえて、本当に助かっています」
「へえ、スラムの子に煙突掃除を紹介した人がいるなんてね。どういう縁だったんだい?」
「……最初は、ただゴミを拾っていただけだったんです」
皿を洗いながら、これまでの経緯を少しずつ話していった。
食べ物を探してゴミ箱を漁っていた頃、散らかった道の様子が気になって、自分から掃除を始めたこと。その姿をたまたま見ていた人に声をかけられて、ゴミ捨ての仕事を任されるようになったこと。
そして、その仕事を地道に続けていたら、今度は煙突掃除の仕事まで紹介してもらえたこと。
「ほんの小さなきっかけでしたけど、それが少しずつ繋がって……今は、働いた分のお金をもらえて、そのお金でご飯が買えるようになったんです。本当に、ありがたいご縁でした」
「なるほど、そんなことがあったんだね。厳しい日々を生き抜いてきたのに、感謝の気持ちを忘れないなんて……その姿勢は、本当に誇るべきことだよ」
「そんな……私一人じゃ、きっとどうにもならなかったと思います。今の私があるのは、支えてくれた人たちのおかげです」
出会ってきた人たちがいたから、私はここまで来られた。一人では、とても乗り越えられなかった。だからこそ、心から感謝している。
そんなことを話しているうちに、すべての皿を洗い終えた。
「お皿、全部洗い終わりました」
「おお、ありがとう。これ、少ないけどお礼だよ」
家主はポケットから銅貨を取り出し、私に差し出した。お金が欲しくてやったわけじゃない。けれど、その気持ちを無下にはできない。私は頭を下げて、その銅貨を受け取った。
「君は手際がいいし、口調も丁寧で態度も立派だ。本当に感心したよ」
「えっ、あ……ありがとうございます……?」
突然の褒め言葉に、思わず戸惑ってしまう。
「私は君が気に入った。どうだい? うちで働いてみる気はないかい?」
えっ……私が、飲食店で働く?
「覚えることはたくさんある。でも、君ならやり遂げられると思うよ。ぜひ、うちの店で働いてほしい」
まさか、こんなふうに誘われるなんて思ってもいなかった。私は一瞬、声を失ってしまった。
「えっと……私なんかが、本当に務まるんでしょうか」
思わず、そう口にしてしまう。お皿を洗っただけの私を、こんなにも褒めてくれて、働いてほしいだなんて。信じられなかったし、自信もなかった。
「大丈夫。最初は誰だって初心者だ。君がどこで育ったか、どんな経験をしてきたかなんて関係ない。大事なのは、学ぶ気があるかどうかだよ」
家主は穏やかな笑みを浮かべて、言葉を続ける。
「皿を丁寧に洗うその姿を見て、私は確信した。君は真面目で、きっと根気もある。うちみたいな店には、そういう人が一番向いているんだ」
その言葉に胸の奥が、ぽっと温かくなるのを感じた。……頑張れば、私でも役に立てるのかな。
ここでなら誰かと一緒に働ける。人と関わって、何かを学べるかもしれない。そんな未来を思い描いたとき、不思議と怖さよりも、楽しみのほうが勝っていた。
ゴミ捨てや煙突掃除は、黙々とこなす地道な仕事だった。だが、飲食店の仕事は違う。人と接し、言葉を交わし、笑顔を向ける――人との関わりが中心になる。
スラムで生きてきた私に、そんなことができるのだろうか? 誰かのために動いて、うまくできるだろうか? もし、接し方を間違えたら――そう考えると、不安が胸を締めつける。
でも、こんな機会がまた巡ってくるとは限らない。これは、裏の世界から表の世界へ出る、数少ないチャンスかもしれない。逃してしまえば、二度とスラムの外には出られないかもしれない。
それだけは、絶対に避けたい。私は、変わりたい。スラムの暮らしから抜け出したい。そのためにも、この人の申し出に応えるべきだ。
私はぎゅっと手を握りしめ、俯いていた顔をゆっくりと上げる。
「……わかりました。やってみたいです。まだ分からないことばかりですが、精一杯、頑張ります!」
気づけば、私は深々と頭を下げていた。家主はそんな私の肩を軽く叩き、優しく笑ってくれた。
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