33.転機(1)
下を覗くと、わずかに光が見えてきた。どうやら、この煙突ももうすぐ終わりらしい。気を抜かずに、最後まで丁寧に内壁を擦り続ける。こびり付いた煤をブラシでこそぎ落としていく。
擦った部分から、煤がパラパラと剥がれ落ちて下へと落ちていく。その煤は、あらかじめ下に敷いておいた布の上に溜まっていく仕組みだ。家主はその布を取り出すだけで簡単に処理できるようになっている。
だから、私たちは煤を落とすことだけに集中すればいい。落ちた煤の後始末は家主の仕事。私たちの役目は、ただ黙々と煙突の内側を綺麗にすることだけだ。
今日もいつも通りに煤を擦り落して、煙突掃除を終えるつもりだった。
「ふぅ、終わった……」
最後の一面まで丁寧に擦り終え、ようやく全ての煤を落としきった。これで、今日の煙突掃除の仕事は終わりだ。
腕が重い。何度もブラシを動かしていたせいで、肩から手首にかけてじんわりと鈍い痛みが広がっている。膝も固まったみたいにぎこちなくて、ちょっと動かしただけでもギシギシと音が鳴りそうだった。
早く煙突から出て、新鮮な空気を思いきり吸い込みたい。動かなくなった体を伸ばして、ぐっと背中を反らせたい。そんなことを思いながら、私は縄を握り、登ろうとした――その時。
「いたっ!」
突然、家の中から悲鳴のような声が響いた。
ぎょっとして動きを止める。呻くような声が、それに続いた。どうやら家主が何かをしたらしい。妙に苦しそうで、心配になる。
私は思わず、煙突の中から声をかけた。
「だ、大丈夫ですか?」
「うわっ、びっくりした……。ああ、そうか。煙突掃除中だったな。ええと、ちょっと手を怪我してしまってね」
戸惑い気味の声の中に、確かな痛みが滲んでいた。
「それは大変でしたね……」
「そうなんだよ……。皿洗いが残ってるっていうのに、よりによってこんな時に……」
家主は困ったように溜め息をついた。声のトーンは弱々しく、気力が削がれている気配すらある。
もしかして、傷は思ったより深いのかもしれない。皿洗いの音も止まってしまっている。きっと、片手ではうまくいかないのだろう。洗い場に山のように積まれた皿を想像してみる。すでに水が冷たくなっていたら、それをやるのは相当つらい。
私はしばらく迷ってから、ふと口を開いた。
「……良ければ、お手伝いしましょうか?」
「えっ、君が? 煙突掃除をしていたばかりなのに? いやいや、そんなことさせるわけにはいかないよ。疲れてるだろうし、君にも他の仕事が……」
戸惑いながらも、断ろうとする声。
でも、もう煙突掃除は終わっている。次の仕事はもうないし、なにより目の前の困っている人を放ってはおけない。
「仕事はこれで終わりですし、大丈夫ですよ。少しなら時間もありますし……」
言い終えると、しばらく沈黙があった。家主は何かを考えているようだったが、やがて観念したように息をついた。
「……そうか。なら、お願いできるかな。すまないね、助かるよ」
その声には、ほんの少し安堵が混じっていた。
「はい、それでは、今からそちらに行きますね」
そう声をかけてから、私はすぐに縄を伝って煙突を登り、外へと出た。腕はまだ重かったけれど、新鮮な空気を吸ったら少しだけ元気が戻ってきた。
道具を手早く片づけて、梯子を慎重に降りる。そして、家の正面に回って扉を軽く叩いた。
ほどなくして、先ほどの家主が現れる。ややぎこちない動きで、左手をかばうようにしていた。
「煙突掃除、助かったよ。ありがとう。……早速だけど、こっちへ来てくれるか?」
「はい」
私は軽く頭を下げ、家主の案内で建物の中へと入った。
中に足を踏み入れると、まず目に飛び込んできたのは広いホール。いくつもの木製のテーブルと椅子がきれいに並んでいる。庶民的ながら温かみのある雰囲気が漂っていた。
ここって……飲食店なんだ。
そう気づいた頃には、もうホールを通り抜け、奥の調理場へと案内されていた。
調理場には大きな竈と、よく使い込まれた調理台、そして壁際には洗い場がある。そして、その洗い場には、山のように積まれた皿が並んでいた。スープの残りや油汚れが付いたままで、すぐに洗わなければ乾いて落ちにくくなりそうだ。
「これなんだが……できそうかい? もし無理そうなら、やらなくても構わないんだけど」
家主は気遣うような声でそう言った。痛めた左手は赤く腫れあがって、確かに片手では難しそうだった。
「大丈夫です。皿洗いくらいなら出来ますし、それに……手を怪我していては、やりたくてもできませんよね。私が代わりにやります」
そう言うと、家主はふっと表情を緩め、少しだけ照れくさそうに頭を下げた。
「……ありがとう。本当に助かるよ。後でお礼をさせてくれ」
私は腕まくりをして、さっそく洗い場に立った。洗い場には素朴な作りのたわしと、壺が置かれている。
迷わずたわしを手に取ると、後ろから家主の声が飛んできた。
「そうそう、その壺の中には灰が入ってる。それで汚れをこすり落とすんだよ」
「じゃあ、使わせてもらいますね」
壺の中を覗き込むと、確かに木の灰がたっぷりと入っていて、その上には使い込まれた小さなスプーンが載っていた。私はスプーンで灰をすくい、たわしにかける。そして、水を少しすくって、たわしを湿らせた。
皿を一枚手に取り、円を描くようにこすっていく。灰のざらざらした感触がたわし越しに伝わり、乾いた油汚れが徐々に落ちていくのがわかった。
こすっては水ですすぎ、また灰をつけてこすり、すすぐ。簡単な作業だけれど、皿の数はかなり多くて、洗い場にはまだ高く積み上がっている。
それでも、汚れていた皿が少しずつきれいになっていくのは気持ちよかった。光を反射して、水の玉がころころと弾ける皿を見ると、小さな達成感がじんわりと胸に広がる。
皿を乾かすために横の棚に並べていくと、家主が少し離れた調理台からこちらを見て、嬉しそうに微笑んだ。
「手際がいいね。まるで慣れてるみたいだ」
「ありがとうございます」
言いながら、次の皿を手に取る。厚手の陶器皿には、スープの跡が乾いてこびりついていた。それでも、灰を足して少し力を入れてこすれば、ゆっくりとその跡も剥がれていく。
繰り返すうちに、水桶の中の水がすっかり濁ってきた。何度か水を替えながら、私は黙々と皿を洗い続ける。
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