32.過重労働(3)
縄をしっかりと握りしめ、私は煙突の中へと身を滑り込ませた。どこで詰まっているのか分からない。だからこそ、慎重に、ゆっくりと体を下ろしていく。
煤でざらついた壁に肩を擦りながら、片手を下へと伸ばす。視界はほとんどないが、手探りで確かめるしかない。そして――
指先に、やわらかい感触が触れた。布でも石でもない。それは、確かに肌の感触だった。
「……いた!」
私はその腕を辿るようにして、体を支えながら声をかけた。
「大丈夫ですか!? 聞こえますか!?」
反応はない。心臓が早鐘のように脈打つ。私は慌ててその子の体を両手で抱きかかえるようにし、小さく揺すった。
「起きて……お願い、目を覚まして!」
けれど、その子はまるで人形のようにぐったりとしていて、まったく動く気配がなかった。
まずい。時間がない。早く外に出さないと危ない。私はその子の体を持ち上げようとしたが、重くて持ち上がらない。それもそうだ、沢山働いた後の体には余分な力が残っていないのだから。
なんとか力を振り絞り、持ち上げようとするが、びくともしない。何か手は……。疲労が蓄積した体では、すぐに案が浮かばない。次第に焦り出した時、ようやく案が思い浮かんだ。
「そうだ……! 誰かに協力してもらえばいいんだ!」
一人じゃ無理なら、二人でやればいい。他の子に知らせて、一緒に助けてもらおう。
ようやくその答えに辿り着いた私は、急いで煙突から這い上がった。体は疲れから震えていたけれど、気持ちには迷いがなかった。屋根の上を走り、隣の建物へと身軽に移動する。
あった。煙突のフックに縄がかかっている。誰かが作業している証拠だ。
私はすぐに煙突に顔を近づけて、できるだけ大きな声で叫んだ。
「すいません! 煙突の中で気絶してる子がいるんです! 助けてくれませんか!」
一瞬の沈黙のあと、ようやく返事が返ってきた。
「……今、行く!」
すぐに縄がわずかに揺れ始め、中から這い上がってくる気配がする。そして――その姿が煙突の縁から現れた。
「オルガ先輩!」
顔を出したのは、頼れる先輩の一人、オルガだった。
「どこで気絶してる?」
「あっち、五軒隣の屋根の煙突です」
「分かった。もう一人、呼んでこれるか?」
「はい、すぐに!」
オルガは力強く頷くと、身を翻して屋根の上を駆けていった。その姿を見送る暇もなく、私は次の助っ人を求めてさらに隣の屋根へ飛び移る。もう一度、煙突に顔を寄せ、呼びかける。
「お願いです、手を貸してほしいです! 仲間が煙突の中で気絶しているんです!」
しばらくして、煙突の中からゴソゴソと音が聞こえた。続いて、すすまみれの顔がひょっこりと姿を現す。
「なに? 誰か倒れてるって?」
事情を簡単に説明すると、その子はうなずき、すぐさま私のあとを追って屋根を駆け出してくれた。
問題の煙突の前にたどり着くと、オルガが素早く状況を確認し、口を開いた。
「二人で縄を引いて、中の子を引き上げる。一人は中に入って、体勢を支える役だ」
「体勢を支える?」
「引き上げるとき、そのままだと体が煙突に擦れて傷だらけになるんだ。だから、中で支えてやって、なるべく体が触れないようにする必要がある」
なるほど、と私は頷いた。そして、すぐに言った。
「だったら、私が中に入ります」
オルガは力強く頷く。
「よし。ルア、お願いする。合図に合わせて引き上げるから、無理はするなよ」
「はい!」
私は自分の縄をしっかりとフックに結びつけ、再び煙突の中へと降りていった。足場も見えない闇の中を、慎重に縄を緩めながらゆっくりと降りていく。そして、ようやく意識のないその子の元にたどり着いた。
私はその子の体を両手で包むように支え、できるだけ壁に触れないように姿勢を整える。腕の角度を変え、足を曲げて、滑らせるように持ち上げやすい体勢に。
準備はできた。
「引っ張ってください!」
上に向かって声を上げると、すぐにオルガの返事が返ってきた。
「よし、行くぞ!」
次の瞬間、縄がギュッと張り、ぐいぐいと引き上げられていく。その子の体が少しずつ持ち上がり、私もそれに合わせて姿勢を調整しながら、慎重に体を支え続ける。
擦れないように、ぶつけないように。私は集中を切らさず、少しずつ、少しずつ上へ――。
みんなの気持ちを一つにして、その子の救出に神経を注ぐ。あともう少し。焦る気持ちを抑えて、最後まで気を抜かずに体勢を整えていった。
そして――。
「出た!」
誰かの声と同時に、私はそっと手を離した。ようやく、その子の体が煙突の外へ引き上げられた。
私も続いて這い上がり、屋根の上に顔を出すと、オルガともう一人の子がすでにその子を屋根に寝かせ、水筒の水を顔にかけていた。
すると――その子のまぶたが、わずかに動いた。
「……う……」
「おい、大丈夫か?」
オルガが声をかけると、その子はゆっくりと目を開けた。
「うっ……僕は……?」
「気を失ってたんだ。ルアが気づいてくれたから助かったんだぞ」
オルガの言葉に、その子は目を瞬かせ、私の方を見た。
「……ルア……ありがとう……」
かすれた声。でも、ちゃんと意識が戻ってる。
「助かって良かったです」
私は安堵の笑みを浮かべて答えた。胸の奥がじんわりと温かくなる。ああ、本当に――間に合ってよかった。
「お前はしばらくここで休んでろ。無理するなよ」
オルガが優しい声で言うと、その子は眉を下げて、小さく謝った。
「……ごめん……迷惑、かけちゃって……」
「そんなの、気にしないでください。無事でいてくれることの方が、ずっと大事ですから」
私の言葉に、その子はまた目を細めて、ゆっくりとうなずいた。
「正直、傍についててやりたいが……俺たちには、まだやるべきことがある」
オルガが静かにそう言うと、もう一人の子も苦笑しながら頷いた。
「あぁ。さぼってたら、トレビに怒鳴られるからな」
「残りも、頑張りましょう」
私も気持ちを切り替えるように言った。助けた子の様子が気になるけれど、今はそれぞれの持ち場に戻るしかない。
後ろ髪を引かれる思いでその場を後にし、私たちは再び、自分たちの煙突へと向かった。まだ仕事は終わっていない。誰かを助けることも大事だけど、与えられた責任を果たすことも、同じくらい大切だ。
――だから、私はやる。最後まで。
再び煙突の縁に手をかけて、私は静かに身を沈めていった。
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