21.煙突掃除(2)
鉄のフックに自分の縄をしっかりと結びつける。何度か力を込めて引っ張って、ちゃんと固定されているか確認する。うん、大丈夫。これなら落ちることはない。
次に、首から下げていた布を顔に巻き、口と鼻を覆った。これをしておかないと、煤が肺に入ってしまって、大変なことになると聞いた。息苦しいけれど、外すわけにはいかない。
準備が整った。あとは入るだけだ。
目の前にある煙突の口は、真っ黒に煤けていて、奥は暗くて何も見えない。ただ、その暗さの奥に、やるべき仕事がある。怖くないと言えば嘘になる。でも、引き返す気はない。
「大丈夫……ちゃんとやれば、落ちたりしない」
自分に言い聞かせるように呟いてから、慎重に身体を滑り込ませていく。縄に体重を預けながら、狭い空間へと下りていくと、すぐに鼻を突く煤の匂いが漂ってきた。焦げたような、埃っぽいような、息をするたびに喉がひりつく。
それに、空気が薄い。深く吸っても肺が満たされない感覚があって、ただじっとしているだけでも苦しい。でも、そんなことを言っていられる場所じゃない。
ブラシを手に持ち、内壁に力を込めて擦る。
ゴシ、ゴシ、ゴシ――。
煤が音を立てて削れ、塊になって落ちていく。
「よし、まだまだ!」
腕をいっぱいに伸ばして、上へ、下へ、横へと擦る。煤はしぶとくこびりついていて、少しこすったくらいでは落ちない。何度も往復させて、やっと少しずつ綺麗になっていく。
細かい煤が宙に舞い、顔にも腕にも降りかかる。でも、手を止めない。止めたら、きっと怖くなるから。苦しいし、腕も痛いけど、今は目の前の壁だけを見て、黙々とこすり続ける。
作業を続けていくうちに、一面を覆っていた煤を取り除くことができた。これで、さらに下へと進める。
足と背中で内壁に体を張りつけながら、金具を外して縄を少し緩める。そして再び金具を固定し、慎重に体の力を抜いて、ひとつ下の位置へとぶら下がった。
目の前に現れたのは、また新たな煤で真っ黒になった内壁。その汚れに向かって、腕をめいっぱい伸ばしてブラシを当てていく。
ゴシ、ゴシ、ゴシ――。
力を込めて擦るたびに、塊になった煤がボロボロと崩れ落ちていく。その瞬間が、私は好きだ。汚れが目に見えて落ちていくのは、やりがいを感じられるから。
正面、左側、右側、そして背面。内壁の四方を順に擦っていく。煤はどんどん剥がれ落ち、代わりに私の体へと降りかかってくる。それでも気にしない。そんなことを気にしていたら、いつまでたっても終わらないのだから。
夢中でブラシを動かし続け、ついに四方の内壁を綺麗にすることができた。残った煤はない。これでまた、ひとつ下へと移動できる。
一つずつクリアしていけば、この長い煙突の掃除も終わるはず。私はさらに気合を入れて下がっていった。
◇
それからは、黙々と煙突掃除を続けた。四方の内壁を丁寧に擦って煤を落とし、作業が終われば少しずつ下へ降りる。また四方を掃除して、また降りていく――その繰り返しだ。
最初のうちは調子が良かった。腕も軽く、ブラシは勢いよく動いた。けれど、段々と腕が重くなってくる。擦るたびに少しずつ力が抜けていく感覚。何も意識しなければ、手が止まりそうになる。
ハッと気がついては、気合いを入れ直してブラシに力を込める。ゴミを集める作業も大変だったけど、煤をこそぎ落とすこの作業も、なかなかの重労働だ。
それに、体を支えている縄がじわじわと体に食い込んで痛む。動くたびに擦れて、地味に辛い。でも、これは命綱。絶対に外すことなんてできない。
さらに下へ降りるにつれ、空気がどんどん薄くなってくる。狭く暗い空間の中、必死にブラシを動かしていると、体が酸素を求め始めた。
だけど、ここで大きく息を吸うことはできない。空気には煤が混じっていて、吸い込んだら肺が真っ黒になりそうだ。息苦しさがどんどん募り、意識がふわっと揺らぐ。
「……あっ、いけない! 息を吸わなきゃ!」
そのとき、トレビさんの言葉が脳裏によみがえった。苦しくなったら、すぐ外に出て、空気を吸え。そう、我慢しちゃいけないんだ。
私は慌ててブラシを止め、縄を伝って上を目指す。けれど、手にうまく力が入らない。焦る気持ちが募り、心の奥に嫌な予感がちらつく。
「あと少し、あと少しだけ……!」
目の前に近づいてくる外の光を見つめながら、懸命に腕を伸ばす。酸素を求めて、必死に、ひたすらに。
そして――手が煙突の縁に触れた。
最後の力を振り絞って、煙突の外に這い出る。布で覆っていた口元を勢いよく外し、思いっきり息を吸い込んだ。
「ぷはぁっ!」
新鮮な空気が一気に肺に流れ込み、胸がいっぱいに満たされる。その瞬間、体がふっと軽くなった気がした。ああ、危なかった……本当に、ギリギリだった。
それから、ゆっくりと深呼吸をして、肺いっぱいに新鮮な空気を送り込む。それだけで体がふっと軽くなったように感じられて、やっぱり煙突の中の空気の悪さは本当に危険だったんだと思い知らされる。
煙突の縁に腰を下ろし、しばらく体を休める。周囲を見渡すと、私と同じように煙突の上で休憩している子供の姿がちらほらとあった。誰もが無言で、空を見上げたり、遠くを眺めたりしている。
みんな、こうして息を吸いに来てるんだ。なら、私も……。せっかくだから、少しだけ空の下で休んでいこう。
頬を撫でる風がやわらかい。ほんのりと冷たくて、でもどこか優しくて、ずっと包まれていたくなるような心地よさだった。
青空の下、白くちぎれた雲がゆっくりと流れていく。どこまでも高くて広い空。小さな私の悩みなんて、この空の下じゃ本当にちっぽけなものに思えてくる。
いつもは地面ばかりを見て歩いていたけれど、こうして高いところから町全体を見ると、まるで世界が広がったような気持ちになる。
風が髪をなびかせる。息を吸い込めば吸い込むほど、体の中の淀んだ空気が押し出されていくようだった。胸の奥の重たさが、すこしずつほどけていく。
……もう少しだけ、ここにいよう。
誰にも邪魔されない場所。空が一番近くにある場所。ここは、私だけの、秘密の場所みたいだった。
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