101.孤独な王女
教室の前方に一人の男性教師が立つ。年配というほどではないが、白髪が混じった落ち着いた風貌。背筋はまっすぐで、声も低く通る。
「では、改めて。下級院へようこそ」
教師は、淡々とした口調で挨拶を始めた。
「私は担当教官のハルベルトだ。今日から三年間、諸君らの基礎教育を受け持つ」
何事もなかったかのように進む始業の言葉。生徒たちは前を向き、黙って話を聞いている。
けれど、誰もが分かっていた。この教室で起きたことは、決してなかったことではない。
「下級院では、身分や家柄に関係なく、能力と努力が評価される」
その言葉に、わずかに空気が揺れた。能力。努力。さっき、教室で行われたのは、その真逆だった。
「無用な争いは慎め。ここは学びの場だ」
教師の声は厳しいが、どこか形式的でもあった。注意喚起はしている。きっと、さっきのことを見ていないから、そういうことが言えるのだ。
私は、視線だけを動かして、前方の席を見る。リディア様は、背筋を伸ばして座っていた。顔色はまだ少し青い。けれど、泣いてはいない。視線はまっすぐ、先生に向けられている。
誰とも目を合わせないように。その姿を見て、胸の奥で何かが噛み合った。
遠ざけていた理由が分かった。リディア様は、冷たいからでも、高慢だからでもない。巻き込みたくなかったのだ。
自分に関わったせいで、誰かが傷つく。さっきのように、無力のまま叩き伏せられる。
だから、近づかせない。優しくするなと、突き放す。自分が耐えればいい、と。
それなら、あの拒絶の言葉も、悲しそうな顔も、全部辻褄が合う。
「次に、授業の進め方について説明する」
教師の声が続く。私は話を聞いているふりをしながら、ゆっくりと考えをまとめた。
リディア様は、逃げていない。でも、戦ってもいない。ただ、一人で抱え込んでいる。しかも、それを当然だと思い込んで。
きっと、このままで良いと思っているに違いない。誰とも交流をせず、ただ一人でいることを望んでいる。その方が、周りに迷惑がかからないと思っているようだ。
……それは、間違っている。
一人で耐えることが、正しいわけじゃない。誰にも頼らず、誰も巻き込まず、ただ傷つき続けることが覚悟だなんて、そんな理屈は認められない。
確かに、シグルドは危険だ。力も、立場も、悪意も持っている。正面から立ち向かえば、こちらが潰される可能性の方が高い。
でも、だからといって、見て見ぬふりをしていい理由にはならない。
私は、前方の小さな背中を見つめた。背筋を伸ばし、何事もなかったかのように先生の話を聞くリディア様の姿。その内側に、どれほどの恐怖と諦めを押し込めているのか。
王女だから? 立場があるから? 違う。
あの人は、ただ優しいだけだ。自分が傷つくことで、他人が無事でいられるなら、それでいいと思ってしまうほどに。……そんなやり方、長くはもたない。
私は決めた。リディア様が、たった一人で耐える日常を壊す。
「では、少し時間を取ろう。クラスメイトと自由な価値観で話し合うように」
先生がそういうと、クラス中が少しずつざわめきを取り戻した。隣同士で話し合う人がいる中、私は自分の席を立った。真っすぐにリディアの下に向かうと、クラスメイトの視線が集まった。
「リディア様」
私が名を呼ぶと、彼女は小さく息を呑んだ。
「……えっ?」
本当に予想外だったのだろう。目を瞬かせたまま、固まっている。その様子に、私は内心で小さく微笑んだ。だからこそ、今ここに来たのだ。
軽くスカートの端をつまみ、貴族子女としての礼を取る。
「初めまして。ルア・エルヴァーンと申します」
本当は初めましてじゃない。だけど、あのことは秘密だから、ここでは言えない。すると一瞬だけ、教室のざわめきが遠のいた気がした。
「先ほどは……声をおかけできず、申し訳ありませんでした。場の空気を見誤ってしまって」
言葉を選び、柔らかく告げる。責めるでもなく、言い訳でもなく、ただ事実として。
「ですが、せっかく同じクラスになれたのですもの。ぜひ、これからお話しできればと思いまして」
そう言って、少しだけ表情を和らげる。
「よろしければ……仲良くしていただけませんか?」
リディア様は、しばらく何も言えなかった。
唇がわずかに開き、閉じて、また開く。目元は相変わらず髪の毛で隠れているから分からないが、指先は机の縁をきゅっと掴んでいる。声を出そうとしているのは分かるのに、音にならない。
「な、なんで……」
か細い息だけが漏れ、言葉は続かなかった。戸惑いと驚きと、どう受け取ればいいのか分からない気持ちが、その表情にありありと浮かんでいる。
大丈夫。私は急かさず、ただ彼女の前で静かに待った。今は、それでいい。
しばらくの沈黙のあと、リディア様は震えるように息を吸った。
「……どうして?」
ようやく紡がれた声は、とても小さかった。
「さっき……あんなことがあったのに……。私に、話しかけたら……」
言葉の端が、かすれている。視線は上がらないまま、けれど拒絶ではなく、困惑と怯えが滲んでいた。
「……あなたまで、目をつけられるわ」
私は、その言葉にゆっくりと首を横に振った。
「ええ。だからです」
「……え?」
リディア様が、わずかに顔を上げる。
「自分が我慢すれば、周りが無事でいられる。そう思っている優しさを見て。私は、この方と仲良くなりたい、そう思ったのです」
リディア様の指先が、びくりと揺れる。
「……そんなの」
か細い声で、否定するように呟いた。
「そんなことをしたら……あなたも、ひどい目にあうわ。私と関わったら……」
その声には、恐怖だけじゃない。これ以上、誰かを巻き込みたくないという必死さがあった。
私は、その言葉を遮らずに聞き終えてから、微笑んだ。
「望むところです」
「……っ!」
その言葉にリディア様は息を吞み、周りが一層ざわついた。
「それでリディア様が、一人で耐えなくて済むのなら。誰かと話し、笑い、傷ついたら支え合えるのなら……そのくらいの覚悟は、最初から持っています」
教室のざわめきが、遠くで波のように揺れている。けれど、この一角だけは、妙に静かだった。
「私は、危険を承知でここに立っています。だから――」
視線を、まっすぐにリディア様へ向ける。
「仲良くしてくださいますか?」




