100.リディアの現状
始業式を終えた私たちは、初めて下級院の教室へと足を踏み入れた。
教室は、この学年が二クラスに分かれているらしく、想像していたよりも広い。床は緩やかな段々構造になっていて、上から全体を見渡せるようになっている。すでに席には生徒たちが座っており、あちこちから小さな話し声が聞こえてきた。
表情もさまざまだ。緊張で背筋を伸ばしている人。新しい生活が楽しみで仕方がなさそうに、落ち着きなく周囲を見回している人。すでに顔見知りなのか、和気あいあいと話している集団もある。
私は席に座りながら、さりげなく周囲を観察した。感情に流されて動くより、まず状況を把握する。それが、これまで身につけてきた経験だ。
その中で、ひときわ目を引く存在があった。
王女リディア。
リディア様は私と同じ教室にいた。予想していなかったわけではないけれど、やはり少しだけ緊張が走る。
リディアの周囲には、すでに数人の貴族の子女たちが集まっていた。王女という肩書きに惹かれたのだろう。笑顔を浮かべ、必死に話題を振り、距離を詰めようとしているのが分かる。
――けれど。
「私に構わず、他の方とお話ししてください。……私に近づかないほうが賢明です」
リディアは控えめな口調ながら、はっきりとそう告げていた。ひきつった笑顔を浮かべ、どこか壁を作るような態度だ。周囲の貴族たちは一瞬戸惑い、それでも王女の傍を離れなかった。
私に対して向けられていた態度と、同じだ。頑なに近づかないでと訴えたリディア様。一体、なぜそのような事をいうのか理解出来なかった。
でも、分かったことがある。拒絶をしたのは、私が嫌いになったからじゃない。何か理由があって、他の人たちと一緒に拒絶しているだけだった。
それが分かっただけでも、少しだけホッとした。私が悪いんじゃないんだ。
そしたら、なぜリディア様は他人を拒絶するのだろうか? その理由は――。
そう思っていた時、教室の扉が音を立てて開いた。
入ってきたのは、短い金髪の男の子だった。年齢は私たちとそう変わらないはずなのに、その表情はやけに険しく、眉間には深い皺が刻まれている。教室に一歩足を踏み入れただけで、周囲の空気がわずかに張りつめた。
彼の後ろには、三人の生徒が付き従っていた。
いずれも一歩下がった位置を保ち、男の子の様子をうかがうように視線を向けている。どう見ても対等な友人関係ではない。お供、あるいは取り巻き。そんな言葉がしっくりくる。
歩き方も堂々としていて、まるでこの教室が自分の居場所だと言わんばかりだ。周囲の生徒たちも、ちらちらと彼の方を窺いながら、無意識のうちに距離を取っている。
男の子は教室を一瞥し、そして――。リディア様の姿を見つけた瞬間、露骨に表情を歪めた。
険しさが、さらに増す。口元が引き結ばれ、青い瞳に冷たい光が宿る。
「……いたか」
小さく、しかしはっきりとそう呟くと、男の子は迷いなく歩き出した。向かう先は、言うまでもない。リディア様のもとだ。
付き従う三人も、慌てて後を追う。その様子に気づいた周囲の生徒たちは、自然と道を空けた。誰も、止めようとはしない。
……嫌な予感しかしない。
私は二人の様子から目を離さないようにした。さっきまであった教室のざわめきは、いつの間にか消えている。
リディア様は、近づいてくる男の子に気づき、わずかに表情をこわばらせた。次の瞬間――。
男の子は、ためらいもなく彼女の髪を掴み、乱暴に引き寄せた。
「……ぅっ!」
「このグズが」
低く、吐き捨てるような声。
「俺の言ったことが、まだ分からないのか?」
「だ、誰とも……仲良く、しないようにと……」
「違うな」
男子は嗤った。それは楽しそうでも、怒りに任せたものでもない。相手を壊すことを前提にした笑みだった。
「近づくなじゃない。関わった者ごと潰すと言ったはずだ」
リディア様の髪を掴む手に、さらに力が籠もる。
「身の程を弁えない存在はな、徹底的に叩き潰さなければならない。そうしないと、勘違いする」
そう言って、男子は背後を一瞥した。
「やれ」
命令は、短く、それでいて絶対だった。取り巻きたちは待っていましたと言わんばかりに口元を歪め、魔法を放つ。
「うわっ!?」
「きゃっ!」
「なっ……!」
火花が爆ぜ、突風が教室を駆け抜ける。リディア様を囲っていた子息子女たちは悲鳴を上げ、床に叩きつけられるように吹き飛ばされた。
机が軋み、椅子が倒れ、教室は一瞬で混乱に包まれる。
……教室で、魔法を……しかも、人に向けて……。その理由を、男の子自身がはっきりと口にした。
「俺の名はシグルド・アルディア」
その瞬間、教室がざわめいた。誰もが知っている名前。誰もが逆らえない血筋を持つ名だ。
「聞けば分かるだろう? 俺は次期王の器だ」
シグルドはそう言って、再びリディア様へと視線を落とす。
「そしてこの女は、その道を汚す存在だ」
リディア様の肩が、小さく震えた。
「王女であることが、さも価値があるかのように扱われる。気遣われ、守られ、周囲に人が集まる」
「……私は……そんなつもりは……」
「黙れ」
髪を引く力が、さらに強まる。
「お前が存在するだけで、俺の立場が霞む。それが気に入らない。だから決めた」
シグルドの声には、微塵の迷いもなかった。
「全力で潰す」
教室全体を見回し、宣言する。
「この女に肩入れする者。この女に話しかける者。この女を守ろうとする者」
ひとつずつ、言葉を刻みつけるように。
「全員、例外なく叩きのめす。王の道に石を置く愚か者は、徹底的に排除する。それが、俺のやり方だ」
そして。シグルドは、リディア様の髪を掴んだまま、容赦なく腕を振り下ろした。リディア様の身体が床に叩きつけられ、息が詰まったような音が漏れる。
教室は、完全な沈黙に包まれた。誰も、動けなかった。
床に伏したままのリディア様を前に、教室の空気は凍りついたように重く、息をすることすら憚られる。助け起こそうとする者も、声を上げる者もいない。ただ、恐怖と諦めが混じった沈黙だけが支配していた。
その沈黙を、シグルドが鼻で笑って破る。
「……ふん」
彼は掴んでいた髪を乱暴に放り捨てると、まるで汚らわしいものに触れたかのように、手を払った。
「いいか、よく覚えておけ」
低い声が、教室の隅々まで染み込む。
「これは警告だ。次は、こんなもので済むと思うな。お前がここにいる限り、平穏なんてものは与えない」
床に伏すリディア様を見下ろし、冷たく言い放つ。
「王女だろうが何だろうが関係ない。俺の邪魔になるなら、徹底的に潰す。そして――」
シグルドは、視線をゆっくりと教室全体に巡らせた。
「こいつに情けをかけた者。手を差し伸べた者。同情した者」
一人ひとりを値踏みするような目。
「全員、同罪だ。俺は覚えているからな。誰が、どちら側に立ったのかを」
そう言い残すと、彼は踵を返した。
「行くぞ」
命令ひとつで、取り巻きの三人が慌てて後に続く。去り際、シグルドは扉の前で一度だけ立ち止まり、振り返らずに言った。
「せいぜい、怯えて過ごせ。それが、身の程ってやつだ」
扉が乱暴に閉められ、鈍い音が教室に響いた。あとに残されたのは、床に伏す王女、そして――。誰もが声を失ったままの、下級院の教室だった。




